日本基督教団 津示路教会 Tsu-Shilo Church

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日本基督教団 津示路教会 Tsu-Shilo Church 津示路(つしろ)教会のFacebookページです。1967年に家庭での礼拝から始まった、キリスト教(プロテスタント・長老派)の教会です。毎週日曜日、朝10時15分から礼拝を捧げています。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 二〇二四年三月十七日 「祈りに応えて」(主の祈り⑩)池田慎平牧師       ヨハネによる福音書第12章23~26節  本日で「主の祈り」の講解説教を終わります。最後は私たち教会が祈りの最後に必ず...
30/03/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 二〇二四年三月十七日 
「祈りに応えて」(主の祈り⑩)池田慎平牧師
       ヨハネによる福音書第12章23~26節
 
 本日で「主の祈り」の講解説教を終わります。最後は私たち教会が祈りの最後に必ず唱える「アーメン」という言葉です。「そうなりますように」「確かに」「まことに」という意味のヘブライ語ですが、祈りの言葉に強くうなずく肯定の言葉です。鳥羽教会の有田典生先生は今年度で鳥羽教会を去り隠退されますが、私は有田先生の「アーメン」がとても好きでした。全身からふり絞るようにして口にする「アーメン!」なのです。祈りに対して「本当にそうだ!」と叫んでいるようでした。私たちの「アーメン」はそのような「アーメン」になっているでしょうか。声量の問題ではありません。祈りの内に神様の前に心を開いて、祈る者と共に祈りの言葉をどこまで真剣に受け入れているでしょうか。
 私たちが「アーメン」という言葉でもって主の祈りを祈り終えるとき、知ってか知らずか、主の祈りで祈られていることは真実である、真理であると最後に肯定しているのです。私たちは真理に対する憧れを少なからず抱いています。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書第8章32節)。そして、私たちは主の祈りにおいて真理を見出します。それは哲学的な命題や信仰の内容の箇条書きとしてではなく、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と自らを証してくださる主イエス・キリストの人格において出会うのです。私たちは真理そのものである方が教えてくださる祈りによって、真理に生きる者とされます。そのようにして、私たちは真理を知らされるのです。
 讃美歌三一二「いつくしみ深き」の歌詞を書いたスクライヴェンというアイルランド人牧師は、二度も婚約者を死によって失います。その絶望の中で、彼は自分の母親を励ますために自分の心境を歌った詩を贈るのでした。そこにはどんな時でも祈りに応えて、共にいてくださる友なるイエスでした。

【津示路教会からの大切なお知らせ】2024年4月より、礼拝開始時間が現在の10時15分からより14時からに変更となります。礼拝内容等は変更ありません。津示路教会の礼拝にお出かけの際は、どうぞお気を付けください。また担当者の交代により、同じく...
23/03/2024

【津示路教会からの大切なお知らせ】
2024年4月より、礼拝開始時間が現在の10時15分からより14時からに変更となります。礼拝内容等は変更ありません。津示路教会の礼拝にお出かけの際は、どうぞお気を付けください。

また担当者の交代により、同じく2024年4月より教会の各種SNSやホームページ等の更新を休止させていただきます。いままでお付き合いいただき、ありがとうございました。アカウントは残しますが、予告なしに削除する場合もあります。ご了承ください。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年3月10日 「変わらずにあなたのもの」(主の祈り⑨)池田慎平牧師       ヨハネによる福音書第17章1~26節  「主の祈り」を共に深めてきた主の日の礼拝の歩みも、今日を含めてあと二...
23/03/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年3月10日 
「変わらずにあなたのもの」(主の祈り⑨)池田慎平牧師
       ヨハネによる福音書第17章1~26節
 
 「主の祈り」を共に深めてきた主の日の礼拝の歩みも、今日を含めてあと二回となります。本日注目したいのは、主の祈りの最後の願いです。「国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり」。しかし、これは願いではありません。「頌栄」という讃美の言葉になっているのです。主の祈りは最後、これまで祈ってきた「あなた(父なる神)」に向けて「すべてはあなたのものです」と讃美する祈りで締めくくられるのです。これは私たちの人生にも似ています。私たちの歩みは必ずしも主が共にいてくださったという日々だけではないかもしれません。主が見えなくなってしまう、死の陰の谷の期間を過ごさねばならない時もあるのです。しかし、振り返った時、もしくは渦中の時でも、主の祈りはそれらすべてが「あなたのもの」であったことへと私たちの目を開いてくれます。終わりに立って、国も力も栄も、あなたに勝るものはないことをとらえ直す祈り、それが主の祈りの最後の言葉です。
 実はこの祈りの言葉は、マタイの主の祈りにも、ルカの主の祈りにも登場しません。のちに教会がイエス・キリストから教えていただいた祈りとして祈るようになってから付けられた言葉です。しかし、だからと言ってないがしろにしていいわけではありません。旧約聖書の歴代誌上第29章でダビデはほとんど同じ頌栄の祈りを祈っています。ですから、徹頭徹尾、聖書の信仰に基づいて祈られた祈りだといってよいと思います。「汝のものなり」ではなく「汝のものなればなり」は、「なぜなら~だからです」という意味です。これまで祈ってきた祈りの根拠がここにあります。「悪い者から救ってください」、なぜならあなたの力は悪よりも強いからです。あなたの御名をほめたたえさせてください、なぜならあなたの栄光は私をも照らし出してくださるからです。すべてのものはこれからも変わらずに神のものです。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年3月3日 「私たちを守る祈り」(主の祈り⑧)池田慎平牧師       マタイによる福音書第4章1~11節       マタイによる福音書第6章13節  いよいよ「主の祈り」を共に読んでい...
16/03/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年3月3日 
「私たちを守る祈り」(主の祈り⑧)池田慎平牧師
       マタイによる福音書第4章1~11節
       マタイによる福音書第6章13節
 
 いよいよ「主の祈り」を共に読んでいく試みも、終わりに差し掛かってきました。本日は「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」という祈りに注目したいと思います。この祈りは「私たちを試練に遭わせないでください」「悪から救い出してください」という二つの祈りが合わさった祈りです。「試み」は試練とも訳される言葉ですが、試練という時、それは必ずしも悪いことだけを指す言葉ではないかもしれません。人が成長するためには時には試練も必要で、試練に遭わせないように祈るこの祈りは我々の成長を妨げる祈りなのでしょうか。しかし、聖書では「試練」と訳される言葉と「誘惑」と訳される言葉が同じ「ペイラスモス」という言葉であることを知るとどうでしょうか。私たちは誘惑に打ち勝つだけの力を持っているのでしょうか。ヤコブの手紙は誘惑についてこのように記しています。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブの手紙第1章13~15節)。
 アダム以来、私たちはめっぽう誘惑に弱い者です。マタイは「悪い『者』から救ってください」と記します。誘惑は人格を持った形でさまざまに私たちを罪へと誘います。時には親切そうな助言という形をとって。しかし、私たちは主イエスがどう誘惑に打ち勝たれたかに学びたいと思います。主イエスはサタンの誘惑に聖書の御言葉で対抗しました。聖書を引用して誘惑するサタンに対しても、正しい解釈で対抗しました。この主イエスが、私たちにこの祈りを手渡してくださいました。私たちを守る、鉄壁の祈りです。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年2月25日 「罪赦された者として」(主の祈り⑦)池田慎平牧師        マタイによる福音書第6章12節        マタイによる福音書第18章21~35節  罪は私たち人間の本質に...
03/03/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年2月25日 
「罪赦された者として」(主の祈り⑦)池田慎平牧師
        マタイによる福音書第6章12節
        マタイによる福音書第18章21~35節
 
 罪は私たち人間の本質に関わる問題です。本質の対義語は、実存という言葉です。実存という言葉は実は略語で、正しくは「現実存在」です。本質と実存というのがわかりづらければ、一本の木を想像してもらえればよいかと思います。一本の木は、地面の中に広がっている根っこと地面に伸びている幹や枝葉で出来ています。目には見えないけれど、根っこが土の中にあってその木を支えていることは誰でも知っています。私たちの本質というのはいわば、その木の根っこです。確かにいまここに存在する私を支えている根っこのようなもの、それが本質です。罪の問題はその根っこに関わるというのです。「性根が腐っている」という言葉という慣用句があります。まさに私たちは性根が腐っているのです。だから人間関係などの枝葉や自分の人生という幹が立ち行かなくなってくる。神様に何とかしてもらわなければいけないのです。誰が?私たち人間すべてです。
 主の祈りが教えてくれる祈りは、命の糧を求める祈りに引き続いて、罪の赦しを求める祈りです。まるで罪の赦しがなければ、命を与えられていても生きることができないと言わんばかりです。しかし、イエス様が私たちを罪から解放するために来てくださったことを考えても、私たちの生きることと罪が赦されることは分かちがたく結びついているのです。私たちが赦しを心から受け入れたならば、私たちが赦せなかった出来事は手放せるのです。
 キリスト者とは主の祈りを祈ることのできる人のことだと言った米の大学教授はこうも言っています。「キリスト者とは、主の祈りを心の深みに刻み付け・・・この祈りが自分の第二の本性にまでなっている人たちのことです」。罪の代わりに主の祈りが私たちの本質と結びつくとき、私たちは自由に葉を繁らせ、枝葉をのびのびと伸ばして生きていくことができるのです。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年2月18日 「日曜だけでなく」(主の祈り⑥)池田慎平牧師        出エジプト記第16章1~18節         マタイによる福音書第7章7~11節 主の祈りは最初の呼びかけを除い...
25/02/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年2月18日 
「日曜だけでなく」(主の祈り⑥)池田慎平牧師
        出エジプト記第16章1~18節
        マタイによる福音書第7章7~11節

 主の祈りは最初の呼びかけを除いて、第四の祈りにおいて、初めて「我らの」と祈り始めます。御名、御国、御心はいずれも「あなたの名」であり、「あなたの国」、「あなたのご意志」でした。主の祈りはそれらを祈り求めたのちに、ようやく「我らの」「私たちの」と祈ることを教えてくれます。その祈りは私たちの日々の糧を求める祈りでありました。これまで祈ってきたことに比べてなんと小さなことを祈るのだろうと思われるでしょうか?しかし、この第四の祈りこそ、主の祈りが教会で皆によって祈られる「教会の祈り」であると同時に、一人になった時にも祈ることのできる「生活の祈り」「日々の祈り」であることのしるしであります。
 私たちは生きていくために日々の糧を必要とします。「私たちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ第6章11節)。第四の祈りにおける「必要な」「日ごとの」「日用の」と訳される言葉はほかにほとんど用例がなく、訳すのが難しい言葉です。よく教会学校の子どもたちは「日用」と聞いて「日曜」と勘違いして、日曜日だけでいいんですかと(いじわるそうに)聞いてきますが、日曜日だけ食べればいいか、御言葉を聴ければいいかというともちろんそうではありません。イエス様は誘惑に遭われたとき、「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という旧約聖書の言葉を引用してこれに打ち勝たれました(マタイ第4章4節)。日ごとの糧が霊的な食べ物であれ、私たちの肉体を満たすものであれ、イエス様が私たちはパンも必要とする者であることをご自身の肉体を通して知ってくださっていることは本当に慰めです。糧は、パンだけではありません。ルターはこの祈りの意味は「体の栄養や必要のためになるすべてのものだ」と食物だけでなく、家族や環境のことまで語っています。そして、私たちはこの祈りを私のためだけに祈るのではなく、いま糧を必要とする者たちのためにも祈るのです。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年2月11日 「御心が行われますように」(主の祈り⑤)池田慎平牧師    マタイによる福音書第6章10節、             第26章36~44節 「御心の天になるごとく、地にもなさ...
24/02/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年2月11日 
「御心が行われますように」(主の祈り⑤)池田慎平牧師
    マタイによる福音書第6章10節、
             第26章36~44節

 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、これが主の祈りの三番目の祈りです。「なる」というのは成就するように、行われるように、その通りになりますようにということです。「御心」は「御国」と同じで、「あなたの心」を丁寧に訳したものです。すなわち「天にまします我らの父の心」、父なる神の御意志ということです。天は神がおられるところです。ですから当然、天では御心が百パーセント満ち満ちておられるわけで、しかしそれに対して地ではいまだ神様のご意志で満たされているわけではない。人間の思惑、為政者たちの意志、金持ちの論理がまかり通っている。この不完全な地においても神様、あなた様のご意志を貫いてくださいと祈るのです。
 三世紀のラテン教父キュプリアヌスの『主の祈りについて』にある言葉を読んで衝撃を受けました。「(第三祈祷は)『神がお望みになることを、神がなさるように』ということではない。『神がお望みになることを、我々が実行することができるように』ということである」。「地にも」は神様がいい感じでこの地上を満たしてくださるのを願うのではなく、私を通してこの地を満たそうとなさるというのです。そうなると、この祈りは途端に恐ろしい祈りとなります。なぜなら私は御心第一ではない不完全な者だからです。
 主の祈りを、「私の父よ」ではなく「我らの父よ」「私たちの父よ」、と祈るように教えてくださったことの意味をもう一度思い出したいと思います。主の祈りを「我ら」と祈るとき、私たちはこの祈りを共に祈る教会の愛する兄弟姉妹のことを、自分たちの家族のことを、それどころかまだ出会ったこともない世界中の人たちとこの祈りを祈っている神秘に身を置きます。そしてもう一つはこの祈りを祈るとき、さあ、祈ろうとこの祈りを手渡してくださったイエス様ご自身が共に祈ってくださる。血の汗を滴らせながら「御心だけが成りますように」と祈ったあのイエス様が。だから私たちは不完全でありながらこの祈りを恐れることなく祈ることができるのです。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年2月4日 「み国を来たらせたまえ」(主の祈り④)池田慎平牧師         ルカによる福音書第17章20,21節 クリスマスを待ち望む時、私たちは「アドヴェント」(待降節)と呼んでその...
12/02/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年2月4日 
「み国を来たらせたまえ」(主の祈り④)池田慎平牧師
         ルカによる福音書第17章20,21節

 クリスマスを待ち望む時、私たちは「アドヴェント」(待降節)と呼んでその時を過ごします。それはイエス様が私たちの住むこの世界に飛び込んできてくださることを待ち望む時です。アドヴェントの時、私たちが待ち望むのは二つの「来る」です。一つはイエス様が私たちと同じく幼子としてこの地上に来られる「来臨」の出来事です。もう一つは復活のイエス様を見上げたまま天を仰いでいた弟子たちに白い服を着た二人の人が語りかけた、「またおいでになる」(使徒言行録第1章11節)を待ち望む「再臨」の時です。
 主の祈りにおいても、私たちは御国が「来る」ように祈ります。「御国」とは原文では「あなたの国」とあります。「あなた」とはもちろん「天にまします我らの父」です。父の国を丁寧に訳して「御国」(みくに)と訳しているのです。国という言葉はギリシア語で「バシレイア」と言います。この言葉は、「国」や「御国」という訳ではありますが、「王国」や「支配」とも訳せます。この国には統治者である「王」がおられ、そのご支配がなされているというイメージの強い言葉です。「御国」が来ること、それはすなわち私たちを支配してくださる王が来られることを待ち望んでいることと等しいのです。私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈るとき、私たちの間で神のご支配を実現してくださる主イエス・キリストが来られることを祈っているのです。
 「主イエスよ、来てください」と祈るとき、私たちはイエス様の不在を嘆いているのでしょうか。そうではありません。イエス様は私たちの間に来てくださり、宿ってくださり、世に勝ってくださるお方です。それはクリスマスの出来事、十字架と復活の出来事を通して「すでに」成し遂げられました。しかし、「いまだ」教会は完成に至ってはいません。世界の悲惨な現実を見るとき、私たちはいよいよ深く「主よ、来てください」と祈るのです。

【先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年1月28日 「御名をあがめさせたまえ」(主の祈り③)池田慎平牧師           マタイによる福音書6章9節  主の祈りは教派を超えて、教会で最も祈られる祈りの言葉ですから、これまでキ...
07/02/2024

【先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年1月28日 
「御名をあがめさせたまえ」(主の祈り③)池田慎平牧師
           マタイによる福音書6章9節
 
 主の祈りは教派を超えて、教会で最も祈られる祈りの言葉ですから、これまでキリスト教会の歴史の中で主の祈りの言葉を解説したものだったり、主の祈りの説教だったり、数多くの主の祈りに関する本が出版されています。現代だけの話ではなく、さかのぼれば1800年前の教父であったテルトゥリアヌスという人は、『祈りについて』という書物で「主の祈りは福音書全体の要約である」という趣旨のことを語っています。福田正俊という日本の神学者は、『主の祈り』という本に「キリスト教の小さな学校」という題をつけています。主の祈りが分かれば、福音書全体が分かる、主の祈りがわかればキリスト教全体が分かる。イエス様は本当に大切な祈りを私たちに教えてくださったのです。
 本日取り上げたのは、主の祈りの最初の祈りの言葉です。「願わくは御名をあがめさせたまえ」。願わくは、と祈り始める最初の言葉が、神の御名がほめたたえられるように、なのです。これは原文に則した訳では「御名が聖とされますように」です。それは御名が聖とされない現実が私たちの内にあるからです。バベルの塔の出来事では、人々は神と同等になろうと天にまで届く高い塔を建てようとします。いつのまにか神様の御名を低めて、自分の名が高められることを求める人間の罪の現実が表されています。自分の名を高めようとするとき、私たちは苦しくなります。なぜなら、我々は神ではないからです。だから、御名が聖とされることは、私たちのためなのです。
 先日、教会を訪問してくださった他教会の信徒の方の息子さんが自衛隊員で、被災した北陸の地にも入っている話を聞きました。犠牲者の前でそっと主の祈りを祈った話を聞きました。息子さんは教会に通っているわけではないようですが、お父様からこれだけは覚えておくようにと手渡された主の祈りを覚えているそうです。ティーリケという神学者は主の祈りを「世界を包む祈り」と呼びました。キリスト者、キリスト者以外に関わらず、この祈りは、悲しみや痛みに満たされた世界をも包んでくださる祈りなのです。

【 先 週 説 教 要 旨】 先週説教要旨 2024年1月21日 「門をたたく者には開かれる」池田慎平牧師       創世記第5章28,29節       マタイによる福音書第7章7~12節 ノアの箱舟の物語は、聖書を読んだことのない人も...
01/02/2024

【 先 週 説 教 要 旨】
先週説教要旨 2024年1月21日 
「門をたたく者には開かれる」池田慎平牧師
       創世記第5章28,29節
       マタイによる福音書第7章7~12節

 ノアの箱舟の物語は、聖書を読んだことのない人もどこかで聞いたことのある、有名な物語のひとつかもしれません。神は「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になり」(創世記第6章5節)、洪水によって「地もろとも彼らを滅ぼす」(第6章13節)ことをお決めになりました。しかし神は、ノアに対して家族と共に箱舟を造って洪水から逃れることを、「全地の面(おもて)に子孫が生き続けるように」(第7章3節)あらゆる動物のつがいたちと舟に乗ることをお命じになったのです。すべてのものが自らの悪によって滅びに向かうなか、ノアとその家族、動物たちで満載となった箱舟は荒波にもまれながらアララト山の山頂にたどり着いたのでした。箱舟に乗ったのは、世界にとって最後の希望でありました。
 今日は津示路教会で初めて一箱古本市を行います。しかし、本はいま、メインのメディアではなくなっているかもしれません。いつしか必要な本しか開かなくなり、かつてのように純粋に読書をすることを楽しめなくなっていることに気づかされることが多くなってきたのではないでしょうか。それでも、私にはコロナ過で先が見えなくなっていた中で、まるで筋トレをするように、かつて神学生の時代には一ページも開かなかった古典を開いて毎朝読んでいた時期がありました。そこにはまるで自分のようにもがき苦しみながら神様の前でじたばたする人がいました。ああ、いまここで私が開くことをこの本は待ってくれていたのだと後になって思いました。
 自分が強くなったり弱くなったりしても、本は変わらずにそこにいてくれます。そういった意味で本は私の変化をものともせずに時代を超える言葉を私に運んでくれる、箱舟のような存在なのかもしれません。恐れの中を漂ったノアのように、私たちも恐れを超えて扉を開くことができますように。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年1月14日 「なぜ神を父と呼ぶのか」(主の祈り②)池田慎平牧師       マルコによる福音書第14章36節        ローマの信徒への手紙第8章14~17節 本日から「主の祈り」の...
24/01/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年1月14日 
「なぜ神を父と呼ぶのか」(主の祈り②)池田慎平牧師
       マルコによる福音書第14章36節
        ローマの信徒への手紙第8章14~17節

 本日から「主の祈り」の内容に入っていきます。私たちは主の祈りを「天にまします我らの父よ」という言葉で始めます。天におられる、私たちの父なる神に祈る祈りだとわかる何のことはない祈りの書き出しだと思われるでしょうか。しかし、イエス様が教えてくださった祈りは、そのすみずみまで血の通った、また驚くべき祈りです。もちろん神を父と呼ぶことを弟子たちが知らなかったわけではありません。旧約聖書においても神を父と呼んでいる場面はあちこちに見出すことができます(詩編第68編6節、詩編第89編27節、他)。それでは、どこに主の祈りの特別性が、イエス・キリストらしさがあるのか。それは本日読んでいただいた聖書箇所に記されている、イエス様の父なる神の呼び方です。新約聖書はわざわざ「アッバ、父よ」と記していますが、「アッバ」というのは当時イエス様が話していたと考えられているアラム語で「父」という意味の言葉です。いや「父」「父上」といったような固い言い回しではなく、言葉を覚えたての幼子が父親の顔を見上げながら口にするような言葉です。ギリシャ語話者にもわかるように、「アッバ」の後に「父よ」と入れたと言われています。イエス様が主の祈りで開かれたのは、父なる神を本当に親しく呼ぶことのできる道です。私たちは自らの罪のために神を恐れ、神に親しげに語りかけるなんてとんでもないと思われるのですが、しかし主イエス・キリストはご自分を十字架の死に渡されることによって、私たちが本当に親しく父を呼ぶことができるようにしてくださったのです。だから私たちは「我らの父よ」と祈るとき、私たちに先んじて祈ってくださっていたイエス様と一緒になって「父よ」と祈るのです。「天にまします」は天なる権威を持っておられることを認める言葉ですが、その神を父よと親しく呼ぶことのできる恵みに驚かされるのです。

【 先 週 説 教 要 旨 】先週説教要旨 2024年1月7日 「わたしたちに祈ることを教えてください」池田慎平牧師       ルカによる福音書第11章1~4節               第22章39~46節 昨年で使徒信条の学びを終え...
18/01/2024

【 先 週 説 教 要 旨 】
先週説教要旨 2024年1月7日 
「わたしたちに祈ることを教えてください」池田慎平牧師
       ルカによる福音書第11章1~4節
               第22章39~46節

 昨年で使徒信条の学びを終えて、この新年の礼拝から、主の祈りの講解説教を行います。十戒や使徒信条の時もそうでしたけれど、それぞれ十戒、使徒信条、そしてこれからは主の祈りのひとつ一つの言葉に立ち止まって、その言葉に込められた信仰をじっくり紐解いていく営みです。それは、私たちの信仰を改めて基本に立ち返って確認する営みであり、それはこれからも教会が教会として立つための土台を再確認する営みです。
 イエスさまが祈り終えられると、弟子の一人が「祈りを教えて下さい」とお願いしています。「祈りを教えて下さい」と言っていますが、もちろん弟子たちが祈りを知らないわけではなかったでしょう。ユダヤ人はだいたい日に三度祈りの時を持ったと言われています。ですから、弟子たちももちろん毎日祈りをしていたことでしょう。しかし、それではなぜ「祈りを教えて下さい」とお願いしたのでしょうか?それはおそらく、イエスさまの祈りをお側で聴いていて、自分たちの祈りと明らかに違うものをそこに感じたからでしょう。自分たちも神様に祈るのです。しかしイエスさまの祈りを聴いていると、明らかに違うのです。私たちは本当に祈ることを知らなかったと思ったのです。
 私たちは主の祈りを毎週祈っています。主の祈りを知っているのです。けれども、私たちは主の祈りがいったい何を祈っているか本当に知っているでしょうか。ある神学者は「主の祈りのように意味深いものでも、反物を物差しで測るように、何の感激も伴わずに、暗唱することもありうる。心のこもらない祈りを形式的に繰り返すことは無意味で、アルファベットや九九の段を並べ立てるのと同じある」と言います。主の祈りを改めて学び直す時、私たちがいかに豊かな宝を与えられているかを共に知りたいのです。

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