ガーデナ・トーランス南バプテスト日本語教会 Gardena Torrance Japanese Southern Baptist Church

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ガーデナ・トーランス南バプテスト日本語教会 Gardena Torrance Japanese Southern Baptist Church 1457 W. 179th St. Gardena, CA 90248

主日礼拝 日曜日 9:30AM

06/07/2024

大久保バプテスト教会主任牧師、河野信一郎先生よりメッセージが届いています。
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ルカによる福音書18章28〜34節

 ガーデナ・トーランス教会の皆さん、こんにちは。その後、いかがお過ごしでしょうか。神様のお守りと祝福がいつも共にありますようにお祈りいたします。日本のわたしたちを覚えてお祈りくださり、ありがとうございます。みんな元気です。

 ルカ福音書の18章を聴いていますが、前回の学びでは、金持ちの若い役人の「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」という質問に対するイエス様の応答とその後のやり取りに聴きました。そのやり取りを聴いていた弟子たちや人々に対して、イエス様は「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と言われました。

 永遠の命を神様から受ける事ができるとすれば、わたしたちはこの地上での持ち物をすべて手放さなければなりません。しかしイエス様は、死を迎えるその時に手放すのではなく、まだ元気で若いうちから持ち物を手放して、イエス様に従って行かなければ、神様によって神の国へ迎え入れられ、永遠の命に生きることはできないと言われます。

 イエス様の鋭い言葉を聞いた若い役人は激しく悲しみます。多くの富を持っていたからです。前回の振り返りになりますが、26節と27節に、「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われることができるのですか』と尋ねると、イエスは言われた、『人にはできない事も、神にはできる』」と言われます。

 富や権力やプライドに縛られた状態の心でさえも、その心の縄目を解きほぐして解放することが神様にはできるとイエス様は宣言されます。イエス様は、不可能を可能にする神様を信じ、この地上での残された人生のすべてを神様に委ねてゆく信仰が大切であるということわたしたちに教えてくださいます。

 永遠の命を望み、永遠へとつながる平安、喜び、希望、恵みが欲しいと願うわたしたちですが、その願いを現実の恵みとして受けるためには、1)まず神の国へ招いてくださり、永遠の命を与えてくださるお方を信じなければなりません。2)そのお方から永遠の命を受けるための道を教えていただかなければなりません。3)そして、この道から逸れずに、その道の上をひたすら信じて歩んでゆく必要があります。

 この役人は、幼い頃から神様を信じて律法をずっと守ってきたと主張しますが、彼には足らない事が一つあると主イエスは言われます。彼は、自分と同じ社会的レベルに生きる人たち、彼の都合の良い人たちだけによくして、社会の中で小さく弱くされている人たちに心を配ることをしてきませんでした。

 しかしながら、そのような人たちに財産を分け与えて行くことが永遠の命を神から受ける道だとイエス様に教えられたのですが、心が富に縛られていた彼はイエス様や人々の前からフェードアウトしてゆきます。

 永遠の命は、神様から与えられる賜物・ギフトであって、わたしたちが何か目覚ましいことをしたから受けるわけではありません。永遠の命を受ける方法は、1)神様を信じ、2)その道を示してくださるイエス・キリストの声・言葉に聞き、3)イエス様に従うことが必要です。

 富や名声やこれまでの実績を手放して、神様に信頼して、イエス様と共に生きてゆくことが神様のみ許へ迎えられる道です。わたしたちも、いつかイエス様からフェードアウトして行かないように、お互いの存在を喜び、互いに励まし合い、祈り合ってゆく必要があります。

 そうでないと、わたしたちを神様から引き離そうとする力・サタンが様々な方法で誘惑し、お金や物で心を魅了し、幻想を抱かせ、神の愛と神の国への招きから遠ざけようとします。

 さて、イエス様は、弟子たちに対して、主に従うことの条件や厳しさを教え、覚悟を示し、何度もチャレンジを与えて訓練してきました。弟子としての覚悟はルカ9章57節から62節に、弟子としての条件がルカ14章25節から33節にあります。これらのイエス様の言葉は、「らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」、わたしたちでは「不可能・絶対に無理」と思ってしまうことばかりで、尻込みしてしまう内容です。

 当時のユダヤ人たちは、お金持ちは誰よりも先に神の国に入れると信じ切っていました。多くの富を持つということは、神様に人一倍、いや何倍も祝福されている証だと思っていたからです。しかし、その富を持つ者たちが神の国に入ることが難しいとイエス様が言われるので、みな驚嘆してしまいます。

 けれども、イエス様は「人にはできない事も、神にはできる」と断言します。なぜならば、イエス様ご自身が、神様の力を示す証拠であり、神の愛と憐れみを示すメシア・救い主であるからです。

 人は必ず死んで滅びるとされてきた現実を変え、人はイエス・キリストと通して神の国へ招かれ、永遠の命を受ける約束と希望がある現実の中に招いてくださっています。神様はわたしたちを愛し、神の国に招き入れたいと願っておられます。

 さて、弟子のペテロが28節で登場します。「ペテロが言った、『ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました』」とあります。「自分のもの」の中には「自分の命・人生」という意味も含まれるでしょう。

 そのペテロに対してイエス様は、29節と30節で「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」と言われます。神の国のために、家族も、家庭も、すべての「絆」すら捨て去るという決断が要求されています。

 「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」という言葉を聞いて、日本の戦争の歴史の中で、「御国のために、天皇陛下のために、家族を守るために己の命をささげ、あの世で会おう」と大日本帝国軍に焚き付けられて戦地に消えて行った若い男子たちのことを思い起こす方もおられるでしょう。

 今年で戦後79年目です。平和ボケした人たちは、戦地や太平洋に散っていった何十万の命を他人事のように捉えられているようです。戦争で多くの命が失われ、残された家族は深い悲しみを経験されました。

 しかし、イエス・キリストの教えも同様だと決して思わないでください。次元がまったく違います。イエス様は、はっきりと「必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」と言われます。「必ずこの時代ではその幾倍もを受け」ると言っています。戦争で命をささげることは間違いです。命を失えば、この世で何も報いを受けることはできません。

 この世のものをすべて捨てなければならない理由、そしてその目的とは、この世のものを手放して空になった状態の手で、神様からの祝福・恵みを受け取るためです。ですから、自分の手にあるものを、一旦手放し、神様に委ねるのです。

 ダイナマイトを例にあげてみます。芯の部分がすでに引火しているダイナマイトを握りしめたままでは、その後どうなってしまうでしょうか。爆発して死んでしまいます。ですから、死んでしまわないために、危険物をすぐにできるだけ遠くへ投げ捨てるのです。

 同様に、神様の祝福からわたしたちを遠ざけるもの、心を動揺させるものをすべて手放し、その手放した手で神様の愛と恵みを握りしめる必要があります。

 この祝福を自分がまず神様からいただくことによって、その後に家族や家庭が、友や隣人が祝福され、その人たちがイエス様と出会い、永遠の命へ向かう道を歩むことができるように、神様が愛をもって可能にして下さるのです。

 さて、イエス様が十二弟子たちにご自分の死と復活を予告する箇所、1回目は9章21節から22節、2回目は9章44節で、3回目が今回の18章31節から34節です。

 「イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう』」とイエス様は弟子たちに言われます。

 最初の2つの予告と違う部分は、「人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう」という点と、「人の子は異邦人に引きわたされる」という点です。

 イエス様の受難と十字架の死、そして復活は、旧約の時代に神様がイスラエルに約束したことの成就であるとイエス様は教えます。神様の人々を救済する計画と約束はイエス様によって果たされるのです。

 複数の神学者たちは、ルカ福音書には主の受難の告知は7回あって、今回が完全数の7回目であると捉えます。それらは5:35、9:22、9:44、12:50、13:32-33、17:25、18:31-33ですので、どうぞ聖書を開いて読んでみてください。

 今回の学びの中で注目すべきは、34節です。「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった」とあります。

 弟子たちは、イエス様の受難の意味、それが神様の救いの計画の現実であることを理解できなかった。彼らにはイエス様の贖いの死と甦りがいったいどういう意味と目的があるのかまだ分からなかったのです。隠されていたとあります。つまり、彼らがイエス様の受難を理解する「時」はこの時でなかったということです。

 イエス様の十字架の死と復活の意味を弟子たちが本当に分かったのは、復活されたイエス様との出会いではなく、イエス様が天に戻り、イエス様の代わりに聖霊が弟子たちのもとに降臨した時からです。

 聖霊に満たされた弟子たちが、福音を携えて全世界へ出かけてゆき、イエス様の十字架と復活の福音を宣べ伝え、使徒たちによって手紙がたくさん書き送られ、そして福音書が記されてゆき、聖書という一冊の書物に編成されました。

 この聖書が、神様の御心もイエス様の言葉の真意も、生きる意味や目的も、すべて教えてくれます。聖霊がわたしたちといつも共にいて、力づけてくださり、理解する力を与えてくださいます。聖書の分からない部分は、今は分からないままにしておいて、神様が分かるようにしてくださる「時」を、信仰をもって待ちましょう。

 讃美歌は、138番「ああ主は誰がため世にくだりて」はいかがでしょうか。

 来週、18章の最後の部分をもう一回聴いてゆきます。お元気にお過ごしください。さようなら。

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ありがとうございました

06/07/2024

大久保バプテスト教会主任牧師、河野信一郎先生よりメッセージが届いています。
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ルカによる福音書17章20〜37節

 ガーデン・トーランス教会の皆さん、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。いつも愛とお祈りをありがとうございます。4月もあと1週間で終わり、5月に入りますね。日本は、今週末からゴールデンウィークということで旅行に行かれる方も多いようです。

 4・5・6月と、教会と我が家へアメリカからもお客さんが来てくださっているので大変嬉しく、感謝しています。こちらからそちらへ行くことは難しいので、どうぞ日本へいらしてください。お待ちしております。

 さて、前回の学びに続き、今回のテーマは「神の国」についてです。前回は、誰が神の国へ招かれるのかということを聞きましたが、今回は、神の国はいつ、どこで、どのような形で現れるのかということが内容となります。

 しかし、わたしたちが期待するような答えが得られるかどうか、予想外の展開になるのか、分かりません。とても難解な箇所ですが、とても興味深い箇所であると思います。

 まず20節にパリサイ人が登場し、イエス様に対して「神の国はいつ来るのか」と尋ねます。この問いに対して、イエス様は次に3つのことを話されます。それらは、1)「神の国は、見られるかたちで来るものではない」、2)「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない」、3)「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われます。

 いつ来るのかと質問されているのに、神の国とは何であり、何処にあるのかを答えるのです。つまり、パリサイ人たちの考える「神の国」とイエス様の言う「神の国」には根本的な違いがあると云うことをイエス様は言っているのだと思います。

 皆さんは、「神の国」はいつ来ると思いますか。この地上での命が終わった後に迎えられるところが「神の国」でしょうか。また、「神の国」へはどのように入れる、招かれると思っておられるでしょうか。あるいは、どのように神様に期待されているでしょうか。今回の箇所でパリサイ人たちが最初に登場する事には大きな意味があると思います。

 ご存知のように、パリサイ人たちは律法主義者です。律法を厳格に守ることによって神の御前に正しい者とされ、神の国へ招かれると信じきっていました。つまり、彼らは自分たちの行いで「神の国」を入れられる、また自分たちの願う時に、いつでも、そして確実に入れると100%思い込んでいました。人が陥りやすい、因果応報的な人間の考えです。

 しかし、律法を守ったからといって「神の国」へ入れるわけではないとイエス様はパリサイ人たちにはっきり云うのです。そもそも、「神の国」とは、そういうものではないと3つの点を挙げて云うのです。

 1)まず「神の国は、見られるかたちで来るものではない」と言われます。「見られるかたち」とは、わたしたち人間の業・行いと云う意味です。つまり、人の行い(律法厳守)によって神の国が近づくとか、律法を疎かにすることで神の国が遠のくというような、人間の努力であったり、意思や願いの強弱によって来る、来ないというものではないという事です。

 2)次に「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない」とイエス様は言われますが、神の国とは「空間的に限定される場所」ではないと云うことです。つまり、神の国は、ユダヤ民族のためだけ、その土地・イスラエルに限定されるものではないと云うことです。

 3)最後に「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われます。「神の国」とは、「神の支配」という意味です。つまり、神の国とは精神的に心の中にあるというのではなくて、イエス・キリストがあなたがたのただ中に・あなたがたの間に今ともにいるということ自体が神の国が来ているというのです。

 神の子イエス・キリストが共に歩み、神のことを教え、病気を癒し、汚れた霊から解放し、平安と希望を与えてくださっている、それが神の御手の中で生かされている、神様の愛とお守りの中に活かされている、現在進行形で「神の国」の中に生かされているという恵みであるのです。

 さて、22節以降は、イエス様が弟子たちに対して神の国について教えている箇所になります。22節に、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」とイエス様は言われます。「人の子の日」は、原文では複数形になっていますので、「人の子の日々」となりますが、まったく理解できません。「一日でも見たいと願っても」とは、どのような時を指しているのでしょうか。

 それは複数の出来事を示していると言えます。まずイエス・キリストが死んで甦られる復活の出来事、イエス様が天に上げられる昇天の出来事、そしてイエス様が再び地上に来られる再臨の出来事です。イエス様が弟子たちにこのことを語られた時点では、まだイエス様の十字架の死も、復活も、昇天も、再臨はありません。イエス様の十字架と復活と昇天はすでに起こりました。福音書にそのように明確に記されています。

 しかし、イエス様の再臨の日がいつ来るか、誰も分かりません。つまり、実際の神の国の完成がいつ来るのか、わたしたちには分からないのです。自分の命がいつ終わるのか分からないのと同じです。

 その日を、ただ指をくわえて待っているのではなく、その日に自分も立ち会うことができるように、日々コツコツと実直に歩む、神様に対しても、人に対してもいつも誠実に歩んで行くこと、そのような日々を重ねてゆくことが大切であるということです。

 23節にあるように、世の中には、わたしたちの心を惑わすことが溢れています。「見よ、あそこに救い主がいる」、「いや、ここにメシアがいる」という言葉が聞こえてきます。しかし、イエス様は、惑わす言葉を真に受けて「そちらへ行くな、彼らのあとを追うな」と言われます。どうしてでしょうか。理由は24節です。

 イエス様は、「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう」と言われます。この「天の端からひかり出て天の端へと」とは、全地のすべての人に分かるように主の再臨はあり、稲妻がひらめき、その地に鳴り轟くように、主の日は「突然」来る、再臨の主は現れると言われます。

 ですから、いつ神の国、イエス様の再臨、主の裁きがあっても大丈夫なように、いつも、毎日、実直に、祈りと忍耐とをもって歩むこと、その積み重ねがイエス様の弟子としての生活、信仰生活と示されているようです。

 しかし、25節です。すべてのことには順序があります。イエス様は、「彼(イエス)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」と言われます。イエス様の十字架の死が、神の国にすべての人が招かれるためには必要不可欠であるということです。

 このイエス様の十字架への献身・犠牲の上にわたしたちの罪の贖い、罪の清め、救いがあり、神の国へ招かれてゆく希望が約束として与えられるのです。

 続く26節から30節ですが、26節でイエス様は「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」と言われます。どういう意味でしょうか。神の裁きの日、主の再臨の日が着々と近づいているのに、人々は「人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」、

 ロトの時も「人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていた」。つまり神を思い出すことも、畏れることも、悔い改めることなく、自分たちの欲に身を任せて生きていたということです。

 神の裁きとして、ノアの時は「そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼし」、ロトの時は「天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした」とあります。

 そして「人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」とイエス様は弟子たちに注意喚起をするのです。神の裁きの時が来ないのは、わたしたちが悔い改めて神様に立ち返ることを神様が愛と忍耐をもって待っているからです。

 いつ主の再臨、主の裁きの時が来ても良いように、目を覚まして誠実に生きなさい、自分の事ばかり優先するのではなく、互いのことを思いやって、愛し合って共に生きなさい、それが神様の御心であるとイエス様はずっと教えておられるのです。

 31節から33節には、過去を振り返らず、過去からしがみついてきたものを捨て去り、今に執着し過ぎず、将来的に来る主の日について真剣に考え、ひたすら誠実に進みなさいというイエス様の励ましの言葉があります。ロトの妻のように、過去を振り返ることがあってはならないという警告の言葉にも聞こえてきます。

 34節と35節の言葉もイエス様の興味深い・面白い言葉です。「あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう」とあります。これは、いったいどういう意味でしょうか。

 これは、日々の生活の中で、たとえ二人が同じ時に、同じ所で、同じことをしていたとしても、一人が自分の罪を悔い改めて誠実に生きていて、もう一人は自分の罪を認めずに悔い改めないで生きていれば、悔い改めている人は神の国へ招かれ、悔い改めていない人は残されるということです。

 連れて行かれた人と残された人、どちらが救われ、どちらが裁かれるのか明白ではありませんが、神様を畏れて生きるか、畏れないで生きるかによって、その後がまったく違って来るのです。

 口語訳聖書では、36節の言葉、「ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう」が鉤括弧されています。その理由は、これまでに見つかって存在している写本の中で、ある写本にはこの箇所があって、ある写本には記述されていないからです。

 さて、最後の37節にあるイエス様の言葉も不思議です。「弟子たちは『主よ、それはどこであるのですか』と尋ねた。するとイエスは言われた、『死体のある所には、またはげたかが集まるものである』」とあります。弟子たちは主の再臨と裁きは「どこで」あるのですかと尋ねますが、イエス様は「はげたかが集まる(ところ)」と言われます。

 昔のウエスタン映画などをご覧になられたことがあるでしょうか。戦いや決闘の場所の空では、はげ鷹が飛びかい、決闘の後、死体のある所にはげ鷹が集まってきます。同じように、主イエス様がおられる所では、34節から35節にあるような、神を畏れる者と畏れない者に対する裁きと離別があります。

 主の再臨の時、羊と山羊が分けられ、麦と毒麦が分けられるように、イエス・キリストを救い主と信じる者と信じない人は分けられるということが言われています。

 しかし、主イエス様の再臨を恐れる必要はありません。ただ、次のことを覚えて歩む必要があると思います。

1)主の再臨がいつあっても良いように、人の声に惑わされることなく、いつも冷静で、平静な心で備えること。

2)そして自分が生きている間はイエスの再臨などないと無頓着になることを避けること。

3)いつも神様には忠実に仕え、人々には誠実に仕えて生きることを祈り求め、主の励ましの中を生きること。

4)人がどのように生きているかに捉われることなく、自分は神様、イエス様に対してどのように生きるかをいつも考えていく、イエス様から目を逸らさないで生きること。

 これらが大切だとイエス様は弟子たちに、わたしたちに教えているのではないかと感じます。主の愛と憐れみからこぼれないように気をつけ、主に委ねて歩みましょう。

 讃美歌は、532番「ひとたびは死にし身も 主によりていま生きぬ」はいかがでしょうか。

 次回からルカによる福音書18章に入りますが、来週は都合によりこの「聖書の学び」はお休みさせていただきます。5月第二週にまたお送りいたします。

 神様の伴いとお守りと祝福がありますようにお祈りいたします。さようなら。

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ありがとうございました。

04/20/2024

大久保バプテスト教会主任牧師、河野信一郎先生よりメッセージが届いています。
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ルカによる福音書17章11〜19節

 ガーデナ・トーランス教会の皆さん、いかがお過ごしでしょうか。いつも愛とお祈りをありがとうございます。皆さんの上に、神様の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

 さて、今回の学びは、次回聴くことになっている17章20節から37節に深く関連する箇所となります。すなわち、20節以降にはパリサイ人から「神の国は、いつ、どこで、どのような形で来るのか」とイエス様は問われて答えるのですが、今回の11節から19節には、いったい「誰」が神の国へ招き入れられるのかということがテーマとなっています。

 余談ですが、アメリカの教育では、文章を書く時、who, what, when, where, why and how、つまり誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どのようにするのかを具体的に書きなさいと教え込まれます。抽象的な事は書かないようにと教えられまれます。そういう中で、今回と次回の学びでは、神の国(何)に関して、誰に、いつ、どこで、どのような形で来るのかということを聴きますが、なぜ(理由)という問いに関しては、すべての人は神様に愛されているからという根源的で究極的な理由以外に答えはありません。

 さて、最初の11節に、「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた」とありますが、ここには注目点が二つあります。最初の注目点は、この「イエスはエルサレムへ行かれるとき」(新共同訳:エルサレムへ上る途中)という言葉がルカ福音書で出てくる時、それは特別な意味を持っています。それは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も神の国に招かれているという福音です。

 この「エルサレムへ行かれるとき」という言葉がルカ福音書で最初に出てくるのは、9章51節で、「エルサレムへ行こうと決意して」となっています。そこでは、イエス様がサマリア人たちの村に入った時のことが記録されていますが、イエス様がその村に入られた時、イエス様はサマリアの住民たちから歓迎されず、拒絶されました。その理由は、53節にありますが、イエスが「エルサレムへ向かって進んで行かれる」ことに、サマリア人たちは良い思いを抱かなかったからです。

 ここでサマリア人について簡単に説明したいと思います。ユダヤ人とサマリア人は、あることが原因で犬猿の中、お互いを敵のように捉える関係でずっと歩んできました。イスラエルは歴史の中で、一つの国が南北に別れ、北イスラエルと南ユダという二つの国に分かれていた時代、北イスラエルがアッシリア帝国と戦争をして敗北し、捕囚の民となり、主だった人々はアッシリアやその周辺へ連れて行かれるのですが、残った人々もいました。

 戦後、アッシリアは他の民族を北イスラエルに入植させ、イスラエル人たち、つまりユダヤ人と結婚させ、混血の民サマリア人が誕生しました。選民ユダヤ人の血が混じった、汚れたということを受け入れられない南ユダの人たちはサマリア人を忌み嫌い、排除するようになり、お互い交わることを避け続けてきた歴史があります。

 詳細は、旧約聖書の列王記下17章(p546)に記されています。サマリア人たちはサマリア・ゲリジム山に神殿を建て、そこで神に礼拝をささげていましたが、ユダヤ人たちはエルサレムにある神殿で礼拝をささげていましたので、民族的対立はさらに深まっていきました。そのような中ですが、イエス様は敢えて「サマリヤとガリラヤとの間を通られた」のです。

 さて、この「エルサレムへ行かれるとき」という言葉がルカ福音書でもう一度出てくるのは、13章22節です。「イエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた」とあるのですが、イエス様はここで、いわゆる「選民」ユダヤ人たちに対して、ユダヤ人だけが救われるのではない、「東から西から、また南から北から(あらゆる民族が)来て、神の国で宴会の席に着く」と言われます。

 救いと神の国はユダヤ人だけのものではなく、わたしたちを含む異邦人にも開かれていて、神様は人々を四方八方から神の国へ招かれるのだという宣言をするのです。それが良い知らせ、福音なのです。

 そして今回の17章です。ここに「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた」と記されています。イエス様はなぜ「サマリアとガリラヤの間を通られた」のでしょうか。9章では、イエス様はサマリア人たちに一度は拒絶されたではないですか。ユダヤ人たちの住むガリラヤを通られたら良いのに、なぜ敢えてサマリアとガリラヤの間を通られたのでしょうか。

 ここで注目すべきは、地名の順番です。「ガリラヤとサマリア」ではなく、「サマリアとガリラヤ」とサマリアが先になっています。つまり、ユダヤ人たちがサマリア人たちを忌み嫌っても、イエス様はサマリア人を神様に造られ、愛されている人たちと捉えて愛し、癒し、福音を伝えてゆかれます。

 続く12節に、イエス様が「ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われた」たとありますが、正確には、「ある村へ入るところで」となります。重い皮膚病・らい病を患っている人たちは、宗教的にも、社会的にも、汚れた者として村の外で生活しなければなりませんでしたから、「彼らは遠くの方で立ちとどまり」というのは、皮膚の病を患っていた人々がコミュニティーから疎外されていたことを示します。

 そして、その人たち十人が「声を張りあげて、『イエスさま、わたしたちをあわれんでください』と言った」と13節にあります。大きな声で、「イエス様、わたしたちを憐れんでください、助けてください」と声を一つに叫ぶのです。真剣な叫び、力を振り絞った叫び、最初で最後の望みを込めた叫びであったでしょう。

 彼らの性別も年齢も分かりませんが、この十人は救いを求めてイエス様に叫ぶのですから、イエス様が気づかないはずはありません。なぜなら、イエス様は彼らに出会い、彼らを救うためにサマリアとガリラヤの間を通られたからです。

 14節前半に、「イエスは彼らをごらんになって、『祭司たちのところに行って、からだを見せなさい』と言われた」とあります。皮膚病は宗教的にも「汚れ」とみなされていましたので、社会的にも、宗教的にも人との交わりに復帰するためには、病気が完治したことを祭司に診てもらって、8日間にわたる清めの儀式を経て、祭司に清い者となったと宣言して貰わなければなりませんでした。このことに関しては、レビ記13章と14章に詳しく記されていますので、どうぞお読みください。

 しかし、ここでのイエス様と重い皮膚病に罹っている人たちとの関係性の中で重要なのは、彼らがイエス様を信じて、イエス様の言葉を信じて、そして祭司のもとへ向かって歩き出したということです。

 そうしますと、どのようなことが起こったでしょうか。「そして、行く途中で彼らはきよめられた」とあります。隔離された場所を出て行くことは、命の危険が伴うことです。ただれた皮膚を布で隠しながら、不自由な身体を引きずりながらの歩行でしょう。

 しかし、彼らは、それでも病と差別と偏見からの解放・救いを求めて歩き出します。その思いの強さが彼らを前進させる力となります。

 この十人の癒しと救いは、イエス様とイエス様の言葉によってなされたと云うことがここで表されています。イエス様を救い主と信じる中で、癒しが、救いが、解放が起こるのです。それはすべて神様からの憐れみ、恵みです。

 しかし、実に興味深いことが次に起こります。15節と16節です。「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった」とあります。イエス様のもとに戻ってきたのは、たった一人、それもサマリア人であったとあります。

 それに対してイエス様は、17・18節で「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言われます。

 ここでの注目点は、重い皮膚病の苦しみから解放されてイエス様のもとへ戻ってきたのはユダヤ人ではなく、サマリア人であったということです。他の癒された九人、ユダヤ人たちはどこに行ってしまったのでしょうか。家族のもとへ戻ったのでしょうか。神殿で祭司から正式な清めの宣言を受けるためにエルサレムの神殿への道を進んだのかもしれません。

 しかし、この癒されたサマリア人は、大声で神様を賛美しながらイエス様のもとへ戻って来て、イエス様の足元にひれ伏して感謝をささげます。これは礼拝そのものです。神様とイエス様に礼拝をささげる場所は、エルサレム神殿でもゲリジム山の神殿でもなく、イエス様のもと、キリスト・イエスのからだを象徴する教会であるという暗示です。

 最後に19節を読みましょう。「それから、その人に言われた、『立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ』」とあります。サマリア人に対して、神の子・救い主イエス様が、あなたの信仰があなたを救ったと宣言し、立ち上がって、戻るべきところへ帰りなさいと保証を込めた力強い派遣の言葉で送り出すのです。

 しかし、一つの疑問点が起こります。イエス様のもとに戻ってこなかった九人は救われなかったのかという問いです。答えは、「はい」と「いいえ」の二つになると思います。

 「はい」という意味では、十人の重い皮膚病はイエス様によって癒されましたので、病から救われたと言えます。

 「いいえ」という意味では、体の病は癒やされたけれども、精神・心を含めた人全体として救われているという点では、救われていないと言えると思います。

 神様がイエス・キリストを通してわたしたちに与えてくださる救いは、病や悪霊や不幸な出来事からの救い・解放だけではなく、苦しみや痛みや悲しみや不安や恐れからの解放です。心の解放です。

 病気が癒やされても、次から次へと問題が起こり、わたしたちの心を苦しめます。そうなると、一時的には救われたとしても、永続的に救われているという平安がありません。イエス様につながり続けないで、どこかへ行ってしまうからです。

 この不安や恐れから心が解放され、心と体が救われるために必要なのは、イエス様の足元に戻ってきて、神様に賛美をささげ、感謝をささげるということ、つまり礼拝をおささげするということなのです。

 礼拝は、神様の愛と罪の赦しと罪と死からの救いを喜び、賛美と感謝をささげること、神様に栄光を帰することなのです。サマリア人はそのように感謝をささげ、他の人たちはそこまで感謝を表さなかったのです。

 恵みへの応答がわたしたちに大切であり、その恵みへの応答が信仰生活、教会生活なのです。すべては主の恵みです。感謝ですね。

 讃美歌は、534番の「ほむべきかな 主のみめぐみ」はいかがでしょうか。

 今回も長文を読んでいただき、ありがとうございます。消化不十分なところも多々あると思いますが、その部分は主にお委ねして、理解できる部分に集中ください。神様の伴いとお守りと恵みが残された週の歩みの上にもありますようにお祈りいたします。さようなら。

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ありがとうございました。

04/12/2024

大久保バプテスト教会主任牧師、河野信一郎先生よりメッセージが届いています。
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ルカによる福音書17章1〜10節

 ガーデナ・トーランス教会の皆さん、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。いつも愛とお祈りをありがとうございます。今週は、色々と忙しく過ごしていますが、神様の憐れみと皆さんのお支えによって元気に過ごしています。

 さて、ルカによる福音書の学びもいよいよ17章に入りますが、今回の1節から10節は、短いながらもテーマが5つもある、内容的に濃い箇所です。内容を手短に紹介しますと、まず、人をつまずかせてはならないこと、人を赦すこと、信仰をもって生きること、人に対して常に優しさを持って仕えること、最後はいつも謙遜に生きるということです。そして、この箇所の中心となるのが、5節にあります使徒たち、すなわちイエス様の弟子たちが、イエス様に対して「わたしたちの信仰を増してください」と言った言葉です。

 さて、この5つのテーマはすべて、人との関わりの中で「信仰」がなければできない、不可能なことばかりです。世界中には数えきれないほどの信仰が存在しますが、キリスト教の「信仰」とはいったい何でしょうか。キリスト教の信仰の対象は、創造主である神であり、救い主であるイエス・キリストであり、信仰の導き手である聖霊、つまり三位一体の神です。

 「信仰」は、この神を「信」じて「仰」ぐ、と漢字で書きますように、聖書に記されている天地万物を造られ、そのすべてをその御手の中で支配されている・治めておられる創造主なる神を、罪に満ちたこの世界を滅ぼす神ではなく、そのような世を愛して救い主イエス・キリストを与えてくださった愛と真実な神を信じて仰ぐということです。

 わたしたちに神の愛と天国での永遠の命について教え、わたしたち一人ひとりを罪と死の縄目、苦しみから解放するために十字架でその命を捨てて贖いの死を遂げてくださり、神様の愛の力によって甦られ、永遠の命を受ける道を開いてくださった救い主イエス・キリストを信じて仰ぐということです。

 そして、わたしたち一人ひとりの心のうちに宿り、神の臨在を常に感じさせてくださり、神様と救い主イエス様の言葉を理解させるために心を作り変えて、その心を常に育んでくださる聖霊を信じて歩むということです。聖霊はわたしたちの内側におられますので、仰ぐと言うよりも、もっと近くに感じると言う言い方が良いと思います。

 ある人が、キリスト教の信仰とは、この三位一体の神、つまり父なる神、子なる神、霊なる神をいつも心に思いながら、心に留めながら歩むことだと言っていましたが、常に見上げて、求めて、従ってゆくことが信仰と思いますし、使徒パウロの言葉を借りて言うならば、いつも神様にあって喜び、イエスの御名によって祈り、すべてのことを感謝して生きること、それこそがイエス・キリストにあって神様がわたしたちに求めておられる信仰であると言えると思います。

 前置きがだいぶ長くなりましたが、今回の学びのテーマは、何事にも神様への信仰に基づいて行うことが大きな祝福になるということです。すなわち、信仰に基づいて行動することで、わたしたちの考え方や生き方、物事の受け止め方が変わってゆき、よりストレスなしの人生を自分の幸せのためだけではなく、神様と隣人に喜んでもらえるように生きられるということです。本当に満たされた豊かな人生を歩むためには、神様から愛を受け取って、その愛の中に生きることが大切であることをいつも心に留めたいと願います。

 さて、最初のテーマは、「つまずき」です。口語訳聖書では、「罪の誘惑」と訳されていますが、正しい訳は、「つまずき」です。1節と2節に「1イエスは弟子たちに言われた、『罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。2これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである』」とあり、2節は特に激しく厳しい主の言葉です。この「つまずき」というギリシャ語はスカンダロンという言葉が用いられていて、スキャンダルの語源です。

 この「つまずき」は、基本的に二つのパターンがあります。一つは、自分の価値基準で人を見て、その人の有り様を勝手に判断して、勝手につまずくというものです。相手の事情や背景を考慮しない裁き方です。例えば、素敵な服や装飾品をつけていると贅沢だと思われ、みすぼらしい服を着ているとだらしないと言われてしまう。お話が好きな人はおしゃべりだと言われ、黙っていると根暗とか冷たいと言われてしまう、そういう感じです。

 もう一つの「つまずき」は、人を誘惑して罪に陥れ、神に背かせるというもので、そういうことをする人の罪は死に値するほど大きいということです。イエス様が言われた通り、日々の生活の中で、つまずきは避けられないものです。しかし、人をつまずかせず、自分もつまずかないためにも重要なことは、神様に目を向けて歩むということです。

 神様に集中していれば、心は守られます。人に目を向けてばかりいると、どうしてもつまずいたり、裁いてしまったり、不平不満を口にしてしまい、心が荒れてしまうのです。神様に心を向けること、信仰をもって歩む時に、つまずくことから解放されます。

 次のテーマは、「ゆるす」ということです。3節と4節を読みます。「3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」」とあります。

 日本のキリスト教会では、人が人をゆるす時は、「許す」という漢字を用い、神様がわたしたちの罪をゆるしてくださる時は、「赦す」という漢字を用いることが多いです。

 さて、わたしたちは、誰かを許すことができる時と場合と、そうできない時と場合があります。この人は許せるけれど、この人は絶対に許せないということも多々あります。この人は好き、この人は苦手という感じで、人を色眼鏡で見てしまい、平等に判断しないことがありますが、神様とイエス様は人を偏り見ることはありません。

 自分の罪を正直に認め、神様に対して悔い改める人の罪を神様は憐れみをもって赦し、救いを与えてくださいます。ですから、自分の意思だけで許す場合は「許し」になり、神様の愛と憐れみを受けて、信仰をもって人を許す場合は「赦し」という漢字を用いることが多いのです。

 神様の赦しには、イエス・キリストの贖いの死、イエス様の尊い血潮が代償として基礎にあります。たとえ自分の兄妹であっても、許せないことがあります。一日に七度どころか、一度だけでも許すだけの度量が心にありません。しかし、もしその人を戒め、その人が心から悔い改めたらば、その人を神様の愛の力を借りて「赦し」、心を軽くさせ、ストレスフリーに生きなさいとイエス様はわたしたちを招くのです。

 さて次は今回の中心テーマである「信仰」についてです。5節と6節で、「5 使徒たちは主に『わたしたちの信仰を増してください』と言った。6 そこで主が言われた、『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、「抜け出して海に植われ」と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう』」というイエス様の言葉があります。

 ここで注目すべきは、信仰が「ある」ということが重要であって、信仰がどれだけあるのかという「量」は関係ないということです。例えば、教会生活を半世紀以上もしている人であっても、神様に信頼しないで自分の知恵や経験や勘を頼って生きているならば、その人は信仰生活を送っているとは言えません。

 しかし、昨日今日イエス様を救い主と信じるようになって、イエス様に従っている人は、信仰生活の年月やどれだけ奉仕してきたかの人間の業ではなく、いま与えられている信仰で神様に喜ばれている存在であるわけです。ですからイエス様は、「からし種一粒ほどの信仰」で十分、その人には神様を愛する愛があるとおっしゃるのです。信仰は、量ではなく、質なのです。ですから、教会ではみんな平等なのです。

 次のテーマは、「人に対して寛容に、常に優しさを持って仕えること」ということです。7節と8節を読みますと、「7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか」とあります。ここでは、パワーハラスメント的なことが言われています。とても酷いことが言われています。

 しかし、職場でも、家庭でも、人間関係の中でも、こういうハラスメントが日常的に行われていて、加害者の知らないところで被害者たちは苦悩し、涙しているのです。今の時代、人との関わり合いの中で、相手に対する寛容さ、優しさ、心配りが欠如して、自分の好き勝手に生きていると叫ばれています。自分の幸せのために誰かを利用するのではなく、誰かの幸せ・笑顔のために仕えて生きること、それがイエス様の生き様です。

 最後のテーマは、誰に対しても、どのような時も、絶えず謙遜に生きなさいと言うことです。9節の「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか」と言う考え方は、世の中の通念です。生きるために仕事をし、その仕事の中では与えられた業務を淡々と行う。そしてその当然の対価として給料を得て、それを基に生活をする。そのような中で、仕事とプライベートを切り分けて生活できるのが望ましい、そう考えるのが豊かな国で生きる人々の基本的な考えです。

 ですから、人から感謝されることがない代わりに、人にも感謝もしないで、当たり前にように捉えて、搾取できるものは搾取し、自分の自由はしっかりと確保する。周りから干渉されることも望まないし、周囲のことに干渉するつもりもない、隣に誰が生活しているのかも分からない社会になっています。しかし、そういう社会が人々と関わり合うチャンスを遠ざけ、周りの人のことが無関心な社会に、すべての面において格差のある社会、冷たい社会・人間関係になり、孤独になってゆき、独りで人生が終わってしまうのです。

 しかし、そのような時代、社会だからこそ、人として「すべきこと」があるのです。そのすべきこととは何でしょうか。それは、互いをつまずかせることでも、弱さをなすりつけ合うことでも、厳しくし合うことでもなく、お互いのことを認め合って、思い合って、優しい言葉をかけ合って、謙虚に生きてゆく、お互い「ふつつかな僕」ですと言う、すなわち、お互い「相手に対して配慮が行き届かない者」だけれども、愛の神様と復活のイエス様と共におられる聖霊に助けられて生きる、それを喜び、感謝して生きることが、神様を信じて、仰いで、恵みに生きることだと感じるのです。

 讃美歌は、535番の「今日も送りぬ、主に仕えて」はいかがでしょうか。

 長文を読んでくださり、ありがとうございます。また御言葉の分かち合いをさせていただきます。どうぞお大事にお過ごしください。さようなら。
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ありがとうございました。

04/06/2024

大久保バプテスト教会主任牧師、河野信一郎先生よりメッセージが届いています。
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ルカによる福音書16章19〜31節

 ガーデナ・トーランス教会の皆さん、こんにちは。先日は、ご一緒にイースター礼拝をおささげすることができて感謝でした。その後いかがお過ごしでしょうか。いつもお祈りをありがとうございます。日本は桜が満開になってきましたのに、今日は冷たい雨が降り注いでいて、少し残念に感じますが、恵みの神に感謝いたします。

 JさんやMIさんたちの人生の新しいアドベンチャー、MEさん、Yさん、MAさんたちのために祝福をお祈りいたします。

 さて、ルカ福音書16章の最後の学びの箇所は、他の3つの福音書には記録にないルカ特有のイエス様の譬えとなっています。そしてテーマは、前回の14節から18節につながっています。今回は、お金を愛する金持ちと極度の貧しさの中で苦しむ人の譬えです。

 今回の譬えは、二つの教えからなります。第一の教えは、19節から25節となりますが、生きている間に自分の至福のために富を欲しいままに使ってきた金持ちと極度の貧しさに苦しみ続けた者の死後の立場が逆転し、貧しかった人が天で慰められ、お金持ちは陰府で苦しみにさいなまれるという内容です。平たく言えば、権力ある者、富める者は低くされ、貧しき者、弱き者は高められるということです。

 マリヤの賛歌(ルカ1章46〜55節)の51節から56節にこうあります。「51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

 またイエス様の「平地での教え・説教」(ルカ6章20〜49節)の中で、20節と21節で、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである」という主の言葉があります。

 第二の教えは、27節から31節で、もし旧約の時代の言葉、つまり神の言葉(律法と預言者の言葉)をもっても金持ちを悔い改めさせること(改心させること)ができないのであれば、新約の時代の言葉、つまりイエス・キリストという神の言葉、そのイエス様の様々な奇跡の業をもってしても、金持ちはイエス様を信じない頑なさがあるという教えです。

 この二つの教えは、26節の「そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」というイエス様の言葉で結ばれています。

 イエス様は、神の国と陰府の世界には大きな淵があって、陰府から天に迎えられることはないとはっきりと言われています。ですので、この譬えは、富に溺れて改心しない人々への警告、終末の神の裁きの警告となっていて、富を持つ人々への悔い改めを促すものとなっています。

 それでは19節から22節を読みましょう。「19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 20 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、 21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。 22 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた」とあります。

 当時の金持ちや貴族が身にまとう衣はエジプト産の柔らかい紫の麻布であったそうです。この譬えの金持ちは、「毎日ぜいたくに遊び暮していた」とあります。あまりある富を持って暮らしていたのでしょう。しかし、その金持ちの家の前に、ラザロという名の身体中に肌の病気をもった貧しい人が「座っていた」とありますが、他の聖書訳では「横たわっていた」と訳されています。

 「ラザロ」という名前はエリエゼル(神は助ける)という意味の名を短縮形にした名前で、例えば、ウイリアムがビル、マイケルがマイク、ロバートがボブというように短縮形で呼ばれるようなものです。

 「座っていた・横たわっていた」とは、極度の空腹感で起き上がれない状態です。このような人が自分の家の前で苦しんでいても、金持ちは助けようとしません。しかし、神様が彼をその後、助けるのです。

 やがて、このラザロと金持ちはどちらも死を迎えます。ラザロは極度の栄養失調でしょうか。金持ちの死因は分かりませんが、死んだ後の彼らの立場は明らかに逆転します。ラザロは天使たちによって神の国で催されている宴会にいるアブラハムの側に連れて行かれます。

 金持ちは人々の手で葬られます。この金持ちがたどり着いたのは、23節にあるように「黄泉」でした。「そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた」とあります。

 ここに「アブラハムの懐(ふところ)」とありますが、この言葉には二つの意味があるそうです。一つは、アブラハムの子として迎え入れられる、ということです。もう一つは、特別な客・主賓として迎え入れられる、ということだそうです。神の国で催される宴会に招く側・神様の心意気が伝わってくる言葉です。

 「黄泉」とはどういうところでしょうか。24節の金持ちの言葉から分かります。「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」とあります。

 つまり、黄泉とは、父アブラハムが主なる神と交わした祝福の契約がない所です。神様の憐れみがない所です。激しい炎の中で悶え苦しみ、喉の渇きに苦しむ所です。神様から遥かかなたに離れた場所です。選民ユダヤ人であることなどまったく関係のない苦しみの場所です。わたしたちは、そのような所に自分の身を置きたいでしょうか。そうではないはずです。

 お金持ちとラザロの立場が明らかに死後に逆転していること、これはイエス様が語られた譬えではありますが、イエス様の6章での教え通りになっているというのも明らかです。つまり、6章の時点から16章まで、イエス様の教えには一貫性があるということであり、その一貫性は2000年を超えた現代でも続いていて、慈しみ深いイエス様から与えられる真剣な警告なのです。つまり、わたしたちにそうなって欲しくないというイエス様の憐れみ、慈しみに富んだ心がここにあることを覚える必要があるのです。

 それでは、金持ちの「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください」という言葉に対して、アブラハムはなんと答えたのでしょうか。25節です。「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている」と言うのです。

 地上で金持ちであった人は、24節、27節、30節で、「父、アブラハムよ」と3度も叫んでいます。これは血縁による救いを求める叫びです。アブラハムも、金持ちのことを「子よ」と25節で答えていますので、血のつながりを認めています。

 しかし、血のつながりは救いに何の役にも立たないのです。祖父母や親が「敬虔な」クリスチャンであろうが、子であるあなたの救いとは関係がないのです。自分で罪を認め、悔い改めて、自分でイエス様を救い主と信じて、自分で救いを、神様の愛と憐れみを求め、神様の御心にそって生きてゆく、一人ひとりに信仰が与えられることを覚えて、自分の信仰もさることながら、愛する家族や子の真の救いを祈り求める必要があるのです。

 さて、イエス様は、はっきりと言われます。「あなたは、地上で生かされていた時のことを思い出しなさい。あなたは、地上で良いものを神から頂戴していたが、それを貧しいラザロ、あなたの家の前で苦しみ悶えていた彼に良いものを与えることは一切しなかった。あなたには弱い人たちを憐れむ心がなく、自分を喜ばせるためだけに富を浪費していた。ラザロは、あなたのような富のある人々から保護されることも、養われることもなく、地上では何も良いものを受けることができなかった。」

 「今、地上での命が終わった後、あなたもラザロもそれぞれにその報いを受けている。ラザロは喜びに満たされ、あなたは苦しみに満たされている。父なる神はすべて知っておられるのだよ。小さく弱くされていた人たちを神は憐れみをもって神の国へ招き、憐れみの心を持たずに傲慢に生きていた人たちを厳しい裁きをもってあるべき所へ置くのです」というのです。

 イエス様は、この譬えを通してわたしたちに大切なことを教えてくださいます。自分の幸せのためだけに生きるのではなく、弱く小さくされている人たちにいつも目をとめ、憐れみの心を注ぎなさいと。もっと謙遜になり、周りに存在する人々に目を配り、あなたにできる心配りをしなさいという教えです。

 この地上で生かされている間、神様からいただいている豊かな愛をあなたがたが人々と、特に神の愛を必要としている人たちと分かち合う、喜びを分かち合う姿を神様はいつもご覧になっている、そのことを思い出しなさい、神様の視線があることを知りなさいとイエス様はおっしゃっています。

 このイエス様の教えを「因果応報的思想」に基づいているという人もいるかもしれませんが、ここで最も重要なのは「行い」ではなく、その行いの根源にあるはずの「憐れみの思い」です。

 イエス・キリストを通して神様に今日も愛され、憐れまれている者として、日々出会ってゆく隣人、共に生きている人々に対していつも憐れみの心をもって接して仕えてゆくこと、それが神様の願い・御心であることを覚えて実践しましょう。この思いと実践がないと、神様とわたしたちとの間に、陰府から渡ろうとしてもできないし、天からも越えて来ることのできない大きな淵が立ちはだかるとイエス様は警告されます。

 さて、27節から31節にある第二のテーマです。「27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。 29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。

 30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。 31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」とあります。

 金持ちは、死人の復活があれば自分の兄弟たちは悔い改めるから、ラザロを彼らのもとへ送ってほしいと父アブラハムに嘆願します。しかし、アブラハムは、「あなたの兄弟たちは神の言葉に聞くべきだ」と言いますが、金持ちは「もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう」と言います。果たしてどうでしょうか。

 29節の言葉は、16章15節から16節に関連づけられています。すなわち、律法と預言者の言葉の時代はバプテスマのヨハネまでで終わり、イエス・キリストという神の言葉の時代が始まりました。しかし、多くのユダヤ人たち、特に富と権力を愛する傲慢な人たちはモーセを通して語られた神の言葉に聞き従っていると言いつつも実際には神の言葉通りに生きていない。

 そういう人たちは、たとえラザロが死の中から復活しても、つまり、イエス・キリストが復活しても、どんなに大きな奇跡の業が神様によってなされても、心が頑なであるために悔い改めて信じることはないとイエス様は言われるのです。

 もしそうであれば、金持ちの兄弟たちをはじめ、今を生きるわたしたちの多くには救いの希望はないのでしょうか。いいえ、救いを神様からいただく方法が一つだけあります。それは、イエス・キリストを神の言葉として信じて、主イエスの言葉通りに生きることです。

 イエス様の言葉は、わたしたちを救い、癒し、清め、日々生きるために必要な知恵と力、信仰を与え、神様につなげ続ける力があるのです。主イエス様の言葉を日々聞きながら、神様の憐れみの中で、小さい事に忠実に生きることが神様の永遠の祝福を受ける唯一の道なのです。

 讃美歌は、494番の「わが行くみち いついかに」はいかがでしょうか。神様の摂理に信頼して歩む者とされましょう。

 今回も長文を読んでいただき、ありがとうございました。来週から17章に入ります。さようなら。

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ありがとうございました。

03/30/2024

大久保バプテスト教会主任牧師、河野信一郎先生よりメッセージが届いています。
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ルカによる福音書16章14〜18節

 ガーデナ・トーランス教会の皆さん、こんにちは。受難週を歩んでいますが、いかがお過ごしでしょうか。いつもお祈りをありがとうございます。先週は出張がありましたので、聖書の学びはお休みをいただきましたが、今週から再開してゆきたいと思います。いつも長文になってしまいますが、お時間のある時にお読みください。

 さて、前回の学び(16章1〜13節)では、金持ちの主人の財産を不正に運用・利用していた不忠実な家令の譬えを通して、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」と言う弟子たちに対するイエス様の教えに聴きました。

 現在、アメリカで活躍する日本人大リーガーの通訳をしていた人の不誠実さ、彼が選手の財産を盗み出し、借金の穴埋めをしていた犯罪が大きなニュースになっていますが、このニュースはイエス様の言葉が正しいことを証明しています。すなわち、16章13節ですが、「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」とイエス様は弟子たちに教えられたのです。

 富やお金は、わたしたちの心を惑わせます。大金を手にすると力を得たかのような錯覚に陥り、自分の思い通りに何でもできると思い込むことがあります。富を持つことは、神様やイエス様から心が離れる原因になるのです。

 富の惑わしについて、テモテへの第一の手紙6章9節と10節(p331)には、「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」という使徒パウロの言葉があります。

 ヘブル人への手紙13章5節(p358)には、「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい」というアドバイスもあります。金銭を愛し、金銭に執着すると、常に欲求不満になり、絶えず物欲・金欲で心が支配され、心がいつも不安定な状態になり、もっと熟考して判断すべき事柄をあまり考えないで安易に決断してしまうという間違いを犯してしまう事が起こります。

 さて、弟子たちに対するイエス様の「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」という言葉の一部始終を聞いていたパリサイ人たちは、イエス様をあざ笑ったと14節にあります。ルカはこのパリサイ人たちのことを、ここでは「欲の深いパリサイ人」と記録しています。新共同訳聖書では「金に執着するファリサイ派の人々」と訳され、新改訳聖書では、「お金の好きなパリサイ人」と訳しています。

 ルカはここでパリサイ人たちを皮肉っています。神を愛し、神の律法を守っていると常に豪語し続ける彼らを、神に執着する者ではなく、「金に執着している者」としてここに記し、彼らは口と行いだけは立派だが、その心は神様に対して不忠実だと、ここではっきりと記すのです。

 では、パリサイ人たちは、何故イエス様をあざ笑ったのでしょうか。彼らは何を思って笑ったのでしょうか。例えば、「イエスよ、お前は神と富とに仕えることはできないと言うが、そんなことはない。実際に、わたしたちは神と富、どちらにもちゃんと仕えている」という思いから笑ったのでしょうか。

 そうも考えられますが、彼らは、金や権力に執着し過ぎているので、彼らの心には神様は存在しません。ですので、イエス様を神の子、神様から遣わされた救い主・メシアであること認めることができず、最終的にはイエス・キリストを十字架に架けて殺すのです。

 今回の14節から18節は、この「お金の好きな人々」、神と富に仕えることは可能だというダブルスタンダードを持つ人々に対して言われたイエス様の言葉であることをしっかりと覚えておきたいと思います。そして、わたしたち自身も、神様とイエス様を愛し、信じていると言いつつも、お金を愛し、お金の力に頼って生きている事が非常に多い、そういうお金に執着する者でもわけです。パリサイ人たちだけではありません。お金がないと幸せに生きてゆけないと思い込んでいる部分があるわけです。

 しかし、先ほど第一テモテの6章を引用してお話ししたように、使徒パウロは弟子のテモテに対して「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである」と言って、「お金持ちになろう、お金持ちになりたい」という思いは、「心」が神様から離れてしまう原因となり、誘惑や罠に陥って完全に神様から離れてしまう結果になるから、十分に気をつけてあなたの「心」をしっかり守りなさいと言っている訳です。

 もう一つ踏まえておくべき事は、お金自体は悪ではないという事です。お金をどのように用いるべきかと考えるその心が常に問われているわけです。例えば、手元にある数億円を自分の至福のためだけに使うか、それとも母子家庭・父子家庭や交通事故で親を亡くした遺児たちを支援するための基金として用いるか、そこに大きな差が出てくるわけです。お金に執着する「心」が問題なのです。その欲望が「人を滅亡と破滅に陥れます」と神様はパウロを通して言っておられます。

 さて、続く15節には、「そこで彼らにむかって言われた、『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる』」とのイエス様の言葉があります。これは旧約聖書のサムエル記上16章7節(p406)の「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」という言葉にもつながります。

 「自分を正しいとする」とは人によく思われたいがために行う表面的な行い・偽善です。「人々に尊ばれる」イコール「人に良く思われる、尊敬される、慕われる」ということだと思いますが、パリサイ人たちの成すことの大半は、偽善的な見せびらかしであったわけで、神様はその偽善を忌み嫌われると言われるのです。その理由は、そこに心が、愛がないからです。行いと心が完全に分裂しているから、心にアンバランスさがあるからです。

 このイエス様の言葉は、わたしたちに対して、「あなたは外面をよく見せようとするが、神はあなたの内面・心をしっかり見て知っておられるよ。人からよく思われたいと思うよりも、まず神からどのように見られているかにもっと心を使いなさい、偽善的行為は即刻止めて、心からの寛容さを人々に示して生きなさい」と言われているように聞こえます。

 皆さんは、イエス様の言葉をどのように聞かれるでしょうか。神様の嫌われるダブルスタンダード、虚栄心、富への執着心、偽善行為、嘘、不誠実さは自分にないでしょうか。

 16節の最初に、「律法と預言者とはヨハネの時までのものである」とあります。「律法と預言者」とは旧約の時代を指し、律法と神の言葉を守り、行うということが重要視されてきた時代です。

 「ヨハネの時まで」とは、バプテスマのヨハネの働きを指します。このヨハネは、ユダヤ人に対して、アブラハムの子孫であることにあぐらをかかず、偽善的な信仰心を悔い改めて神に立ち返りなさいと叫び、悔い改める人々にバプテスマを施した人です。彼は、律法を守る・行う時代から、本当に悔い改めて、「心を新しくされて生きる時代」が始まると、旧約の時代から新約の時代への転換期を宣言しました。

 福音書の記者ルカは、イエス・キリストによる福音の時代が始まったことを示そうとしています。「それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している」とは、イエス・キリストによって神の国の福音が宣言され、多くの人々が救いを求めてイエス様のもとへと押し寄せる時代が始まったというのです。

 しかし、わたしたちは、自分から神の国に突入して入ることはできません。パリサイ人などユダヤ人たちは律法を守ることによって神の国へ入れると思い込んでいます。しかし、神の国というのは、わたしたちの努力・行い・力・知恵によって入れるところではなく、ただ神様の憐れみ・恵みによって招かれているところです。

 ただ神様の愛と憐れみを信じて、今までの自己中心的な生き方を悔い改めて、新しい生き方を喜び、神様の思いを大切しつつ、神様に感謝して歩む中で招かれるところです。大切なのは、神様に喜ばれる「心」をもって日々生きることであり、その延長上に神の国で永遠に生きる命が与えられる、そのように信じて、先取りの感謝と喜びを神様にささげながら、希望をもって日々を生きることです。

 17節に、「しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい」というイエス様の言葉があります。ここで注意しなければならないのは、イエス様は律法を「否定」していないということです。イエス様が「非難」したのは、パリサイ人たちのような愛のない律法遵守(じゅんしゅ)であって、律法を守れない人々を社会から追い出そうとしたことです。

 イエス様は、「神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合いなさい」と律法の土台を重視されました。この三つの愛に生きることがわたしたちに対する神様の願いであり、御心であることを覚えたいと思いますし、この神様の思いがなくなることは決してないと心することが大切です。

 18節のイエス様の言葉、「すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである」とあります。

 ここで離縁ということを例としてあげていますが、申命記24章などにもあるように、旧約時代の律法は、男が妻を離婚させることを場合によって許しますが、その反対に女が夫から離婚できることは許されませんでした。男性は自分たちの都合の良いように律法を解釈して、女性たちをさらに弱い立場に追いやりました。それは神様の御心ではありません。

 パリサイ人を含むユダヤ人男性たちは、律法を遵守していると言いつつも、先ほど言いました「三つの愛」に生きてはおらず、自分だけを愛する愛に生きていました。それはすべて自分を神とする偶像の罪からくるものです。自分の思いを優先させることは、自分を愛するということであり、神様を愛さないということです。それは、姦通の罪に等しい死に値する重大な罪です。

 神様の言葉を自分の都合の良い部分だけ切り取って聴いて、都合の悪い部分は無視して読まない、また神様の言葉を自分の都合の良いように解釈したりすることなく、神様の厳しい言葉にも心を傾けてゆくように、心の柔軟さ、素直さ、謙遜さを常にもって歩んで行けるように神様の助けを祈り求めながら歩ませていただきましょう。

 讃美歌は、142番の「栄えの主イエスの十字架を仰げば」が良いと思います。

 残された受難週の歩みがイエス様の死の意味を考える時となりますようにお祈りしています。さようなら。

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ありがとうございました。

03/16/2024

大久保バプテスト教会主任牧師、河野信一郎先生よりメッセージが届いています。
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ルカによる福音書16章1〜13節

 ガーデナ・トーランス教会の皆さん、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。いつもお祈りをありがとうございます。我が家は、長女が先週大学を卒業し、次女が今週金曜日に大学を卒業しますので、慌しい時間を過ごしています。教会も年度末に向けて総会の準備、イースターの準備、そして4月から始まる新年度に向けて準備をしています。神様の憐れみと皆さんのお祈りに感謝しています。

 さて、ルカによる福音書の学びも16章に入ってゆきますが、イエス様の教えは、基本的に15章からの流れのままです。すなわち、すべての人は神の国へ招かれているが、ユダヤ人も、異邦人も、自分の間違い・罪を認めて悔い改めなければ、神の国へ入ることはできないということです。今回は、お金の管理が間違い・罪を起こす大きな原因の一つであることを教える譬えとなっています。

 例えば、子どもが外で元気いっぱい遊んできました。ある子は野球やサッカーをして土まみれです。ある子は砂場で遊んできて手足が砂まみれです。ある子は泥遊びをして帰ってきました。親は、外で砂やほこりを落とさせたり、玄関口でユニフォームを脱がせたり、手洗いをよくしないとリビングルームへ入れないのではないでしょうか。同様に、罪にあるわたしたちが、罪に汚れたままで、聖なる神の家・国へ入ることはできません。

 パリサイ人たちを筆頭にしたユダヤ人たちは、「自分たちは律法を守り、神に近く生きる者、義人であるから、悔い改める必要はない」と激しく思い込み、同時に律法を守らない人たちを見下し、勝手に罪人と決めつけ、裁いていました。神様の愛も憐れみもない人たちです。そういうユダヤ人たちに対してイエス様は15章の譬えを語って、「あなたがたも悔い改めなければ神の国に入れない。悔い改めよ」と話したのです。

 悔い改めるべき者は、取税人や罪を犯す人々だけでなく、パリサイ人たちや律法学者たちもみんなそうなのです。そして、イエス様の弟子たちも例外なく含まれるのです。弟子たちも悔い改めなければ、たとえ「イエス様の『弟子』」であっても、最終的に神様に拒絶されることもあるのです。

 弟子であるから、バプテスマを受けたクリスチャンであるからエスカレーター式に神の国へ入れられるということは決してないのです。それは勝手な思い込みであり、まったくの誤解であり、最悪の場合、そのような思いは妄想にまでなってしまうのです。そのことを教え、注意喚起するために、16章の最初でイエス様はご自分の弟子たちに大切な教えを語り始められるのです。

 16章1節に、「イエスはまた、弟子たちに言われた」とあり、14節には「欲の深いパリサイ人たち」とありますので、基本的に弟子たちに対してイエス様は語り、教えておられますが、パリサイ人を含むユダヤ社会の人々に語るのです。では、どのようなことを語られるのでしょうか。この16章1節から13節は、二つの内容で構成されています。1節から9節は金持ちから預かっていたものを不正に運用する家令の譬えで、10節から13節は「富」についての教えです。

 つまり、今回の箇所のテーマは、この世の富・お金、その力に惑わされてイエス様から離れないように気をつけなさいという警告となっています。先ほど言いましたように、14節には、律法を守ると自負するパリサイ人たちのことを「欲の深い人々」と記されていて、15章の放蕩息子のように、宗教者も金に溺れて身を持ち崩してしまう危険性がいつの時代にもあることを教えています。お金と権力に惑わされるのは、政治家だけでなく、すべての人がお金の力に魅了され、身を持ち崩してゆく危険性と隣り合わせなのです。

 ですから、金の誘惑に陥ることなく、神様には忠実に、人々には誠実に、自分もいつも正直に生きなさい、神様から預かっているものをよく管理して生きなさいとの教えがここにあります。今回の部分は、イエス様の言い回しが難しい箇所も多々あり、困惑するところもある部分もありますが、基本的にはお金・富・欲望のマネージメントのことがイエス様から弟子たちに、わたしたちに教えられていると念頭に置きながらこの箇所を聴きましょう。

 では、今回のイエス様の譬えを読み進めましょう。まず1節と2節です。「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』」とあります。

 家令とは、お金持ちの主人の財産を管理する会計士のような人で、土地や財産の管理や資産運用を任せられている人で、大きな責任がある人です。そのような人が不正を行っていました。間違った資産運用をしていたようです。利益を着服して優雅な生活をしていたり、取引先からリベートを取っていたり、不適切な運用をしていたのでしょう。

 告げ口はよろしくありませんが、家令の不正行為・主人の財産を無駄にしていることが誰の目にも無視・看過できないほど酷かったのでしょう、やむを得ず主人の耳に入れたのだと思います。今日でいう「内部告発」でしょう。主人はすぐに家令を呼びつけ、会計報告を提出するように命じます。身から出た錆ですが、主人の信頼を完全に失った家令は危機的な状況に置かれ、解雇を確信したので生き延びるために知恵を尽くします。

 3節と4節です。「3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。 4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』」と考え、次のような行動に移ります。危機的な状況に追い込まれると、わたしたちも知恵を働かせ、生きるための有りとあらゆる手段を考えます。

 5節から7節に、「5 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。 6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った」とあります。これは明らかに借用書・契約書の改ざん、不正行為です。

 借りている油の量・代金を100から50樽に、小麦の量・代金を100から80石に減額すると言うのは、いずれも約500デナリ、500日分の労賃に匹敵する額です。日本のコロナパンデミックの最中、ただのマスクの配布や給付金ではなく、このような減額補助や免除が日本の政府や自治体からあったら、どれだけ多くの人々、家庭、飲食店、中小企業が助かったことでしょう。

 さて、難解な箇所は8節前半です。「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた」と言ったとあります。摩訶不思議な言葉です。被害者が加害者を褒めるのです。しかし、ここで主人・イエス様が褒めているのは家令の不正ではありません。仕事をクビになるという危機感の中で、生き延びるために家令が知恵を振り絞って生きる道を探そうとした彼の利口なやり方、賢い判断を褒めたのです。

 わたしたちは、イエス・キリストに出会うまで、どのような生き方をしてきたでしょうか。神様から頂いた(授かった)命、時間、知恵、身体、教育、お金など、どのように用いていたでしょうか。多くの場合、自分のためだけに使ってこなかったでしょうか。神様から委ねられていたものをすべて正しく管理し、運用してきたと胸を張って言えるでしょうか。そう言えないのが、わたしたちではないでしょうか。

 8節の後半に、「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である」とありますが、「この世の子ら」とは神という存在を無視した者たちを指し、不正にまみれた日々、世俗的な生き方、物質的なものを常に追い求める生き方、自分の利益ばかりを追い求める人々と一緒に生活をしている人たちです。

 「光の子ら」とは、神様の愛の中(光の中)に生かされている人たち、いつも誠実に生きようと神様に助けを求めて生きる人たちを指しています。しかし、現実は不誠実な人が力を振りかざし、言葉は悪いですが、「正直者がいつもバカをみる」、そういう世の中です。

 さて、9節もイエス様の難解な言葉ですが、警告を込めた強い言葉です。「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」とあります。

 「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」とはどういうことでしょうか。この「不正の富」とは、この地上での富・お金であって、不正な手段で得た金ではありません。「不正」という言葉に心が支配されないようにしましょう。

 そして「この世の富で友だちをつくりなさい」というのは、この世の富を利用して、社会の中で小さく弱くされている人たちに出会ってゆき、愛をもって仕え、友だちのようになり、共に生きなさいということです。小さく弱くされている人たちに自分の時間や体や心を使って仕える事、それが「富で友だちをつくりなさい」という本当の意味です。

 自分の持ち物はほんの僅かで、取るに足らないと思う必要はありません。神様から与えられている命、体、健康、時間、知恵、力などを隣人のために惜しみなく捧げてゆくことが真に大切であって、パリサイ人たちのように口先だけの人は使いものにならないと言うのです。イエス様を通して神様が求めておられるのは、人の目には触れないような小さなこと、本当に些細な事に忠実で、心から支え、仕える愛のある人なのです。10節にあるように、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」というイエス様の言葉はそういう意味です。

 11節と12節も同じです。「11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。 12 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか」とありますが、この地上で生かされている間、神様から委ねられている富などを最も必要とされている所に注入して用いる忠実さがある人に、もっと価値のある神の国での「永遠の命」を父なる神はお与えになるとイエス様はここで言っています。

 13節に、「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」とあります。愛する弟子たちに言われたイエス様の言葉です。

 イエス様に従う弟子は、心を惑わすお金や富に惑わされずに、執着せずに、心がイエス様から離れないようにしなければなりません。神と富との両方を同時に重んじることは不可能であるからです。こういう富の惑わしがわたしたちの近くにいつもあるので、気を付けなさい、何が本当に大切なことかを見極めて、神に喜ばれることを、信仰をもって、祈りつつ選び取って生きるようにと、イエス様はこの譬えを通して語られたのです。

 讃美歌は、391番「ナルドの壺ならねど」はいかがでしょうか。今回の学びへの応答としてふさわしいように思います。

 今回も長文をお読みくださり、ありがとうございます。皆さんの信仰生活の助けになることを主に祈っています。それではまた。さようなら。

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ありがとうございました。

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