31/05/2026
ノート5/31マルコ福音書2:21-22
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
本日の箇所を読むと、吉田拓郎の「イメージの詩」を思い出します。
この詩との出会いは、古いフォークソングフェスティバルのライブをLPレコードで、有名無名混濁した中での一曲として収録されていた歌です。
初めて聴いた歌詞には、衝撃を受けたというか、とても共感出来た事を覚えています。
冒頭は「これこそは と 信じれるものが、この世に あるだろうか?信じるものがあったとしても信じないそぶり」と始まります。
中学の頃で、バプテスマも受けておらず、遊びに教会へ行っていたのですが、「信じるものがあったとしても信じないそぶり」と言う歌詞は、神に置き換える事が出来そうだ等と思ったりしたものです。
とてもよい歌詞なので全部の歌詞を紹介したいのですが、本文以上に長いので、割愛しますが、終わり近くに「古い船には 新しい水夫が乗り込んで 行くだろう。古い船を 今 動かせるのは古い水夫じゃないだろう。なぜなら 古い船も 新しい船のように新しい海へでる。古い水夫は 知っているのさ新しい海のこわさを」という歌詞があります。
若くてエネルギッシュな時代の拓郎の歌で、そこには、時代の変化を誰もが受け入れざるを得ないと言う切なさや、あるいは、ある人にとっては古き良き時代への回顧の思いが描かれているように思います。
と同時に、私達は皆、古い船を引きずりながらも。これまでとは異なる新しい海、新しい時代へ勇気を持って踏み出して行こう!と言った励ましの思いもあるのではないかと思うのです。
イエスの言葉もどこかそれに似ているように感じます。
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」
よく言われる通りですが、新しい布は、洗濯などで収縮するわけで、穴が開く程に着込んだ布は、いわばヨレヨレのぼろ布に等しく、それに新しい布を縫い付けたとしても、糸目、縫い穴から引き裂かれて服そのものが体をなさなくなってしまうわけです。
言わずもかな、ぼろ布は、律法学者やファリサイ派が闊歩した、形式主義、偽善化、硬直化してしまった社会を指すのでしょう。
そのような社会の中に、信仰心を正す為の全く新しい時代が到来したとするなら、彼等が構築した社会常識が打ち壊され、社会そのものが崩壊しかねないでしょう。
彼等は、拓郎が言うところの「古い水夫」彼は新しい海、新しい時代の怖さを知っているわけです。
その恐れは、自分達が取り残されて行くかもしれないと言う恐れと言ってよいかと思います。
尤も、彼等はまだ、新しい時代が開始された事を知らずにいるわけで、時代は普遍的に変わらず永続すると言う考え、つまり保守的と言い直してもよいかもしれません。
私達が抱く、時代の普遍性の誤認は、政治的、社会的問題だけではありません。
例えば、「この世の終わりが来る」と言うフレーズを聴いた時、面白い事に私達は人類絶滅をイメージするはずです。
でも考えて見れば、地球上で、繁栄した種の絶滅は、幾度も起きている出来事です。
我ら人類だけがその英知を持って絶滅を逃れ得る等というのが妄想である事は、コロナ騒ぎで十分経験したはずです。
地球が誕生して約50億年と推定されていますが、後50億年後には、太陽が膨張して地球は飲み込まれ焼き尽くされてしまうと予想されています。
いわば、私達は、時間的には、その中間に存在し、尤も良い時代に生きているわけです。
では、50億年後、人類はもちろん地球上には生命がいなくなるとして、それでこの世は終わるでしょうか?
恐らくは終わらないでしょう。
本当に客観的に見るなら、それは宇宙ではごく当たり前に起こる自然現象に過ぎないからです。
本当の終わりを私達は観る事も体験する事も出来ないかもしれません。
そもそも50億年も人類が繁栄し続けるなどと言う事さえ、ロマンチックであれ非常識な考えである事は先に触れた通りです。
イエスが語っている言葉は律法学者やファリサイ派の高慢にも永遠不変という時代観に一石を投じるものであった事でしょう。
世に、あるいは、こう言い換えた方が良いかもしれませんが、被造物に、永遠不滅なものなどない。
ましてや、人が作り出したもの等は言うに及ばず、神のみこそが全てを掌握し、計画し、一時代を担う私達と向き合い、愛してくださり、命の永遠性を担保してくださっているのです。
もし神がいないとするなら、私達の存在は、ただの自然現象の一つにしか過ぎいでしょう。
次にイエスは、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 と語ります。
これは拓郎の歌とは異なります。
イエスによると、新しい水夫は、古い船ではなく新しい船に乗るわけです。
これも、先の話と同じと言ってよいかもしれません。
ただ最初の話との違いは「葡萄酒も革袋もだめになる」と言う事です。
先の話では、古い服はだめになるが、新しい布もだめになったとは言われていません。
あるいは、結局新しい布も、ただの切れ端で使い道がなくなると言った、そこら辺を補足する為に葡萄酒と革袋の話を続けたのかもしれません。
要は、新しい時代の到来には、新しい時代にふさわしくあるべきだと言う事でしょう。
ここでイエスの考えたであろう新しい時代の概要が見えてきます。
イエスは、迫りつつある神の国と、今ある普遍性を持つと言う高慢な時代の対比を語ったのではないでしょうか?
結局の処、神の国との対峙は、何も良きものをもたらさない。
新しい布である神の国は、この世の高慢な普遍性の延長線上にはなく、むしろ、その愚かさを暴く事になる。
また、あたらし葡萄酒と新しい革袋は、つまり神の国、もしくはそれに与る者の事で、人の妄想である古い時代や社会の普遍性を捨てて、全く新しい神の持つ普遍性に与るべき柔軟性を説いていたのではないかと思うのです。
先ほども触れましたが、神がいないならば、私達の存在は、この世、と言うより、宇宙と言った方が良いかもしれませんが、その中でごくまれに起きる自然現象に過ぎません。
しかし、神は、私達を顧み、愛してくださり、この先、どこまで人類が存在し、やがて絶滅すると、私達がわかっていたとしても、被造物の全てをお造りになられた神の御許において、神の国において、祝福と永遠なる存在として「有り続ける」事を本日の箇所から読み取りたいと思うのです。