座間・バプテストキリスト教会

座間・バプテストキリスト教会 私たちは、神奈川県座間市に位置するバプテスト主義のキリスト教会です?

当教会は、日本バプテスト連盟に加盟するバプテスト主義の教会です。

バプテストとは、プロテスタントの中の一つの教派であり、当教会の加盟する「日本バプテスト連盟」には、330の教会が加盟し、キング牧師やカーター元大統領もバプテスト教会の会員として知られています。
日本におけるバプテスト主義のミッションスクールとしては関東学院や西南学院などがあります。

※当教会はエホバの証人・ものみの塔、統一教会等の団体とは一切関係がありません。

20/08/2026

ノート8/16マルコ福音書4:26-29
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

「また、イエスは言われた。」と始まる本日の箇所も、また一連の四つの種の譬えの続きとして語られます。

これまで、種の話の解釈を教え、応用問題を話し、再び、種をモチーフとした喩え話がなされます。
今回は、明確に種が神の国であると語られます。
その理由は、もしかすると、弟子達に限った話で、イエスによる解き明かしや、教えの仕方の一例として収録しているのかもしれません。

イエスは「神の国は次のようなものである。」と前置きして、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」と語ります。

仮に、この言葉を四つの種の譬えと、その解釈の仕方の続きとして読むならば、種を蒔く人は神を意味し、それを蒔かれる土は人もしくは、私達が生きる社会、この世と言う事になります。

と言う事は、基本的には四つの種の話と同様な解釈を施せば良い事になります。
ただ、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」という言葉は、四つの種とは異なる状況を物語ります。

先の話では、種は芽を出しても、環境や外圧によって成長を阻まれる事が、客観的に語られていました。
処が今回は、同じく客観的ではあるものの、種を主体とした話となります。

「昼夜寝起きしているうち」つまり人が見ていないうちにと言う点で、少々、違和感を持ちます。
なぜなら、人が見ていないと言う事は、神が見ていないと言う事を意味してしまうからです。

果たして、神が目をそらしている状況下で、神の国である種の成長はあり得るのでしょうか?
それは実質的に、神に見放された状況を意味し、祝福からほど遠い事をも意味するはずです。

また、「土はひとりでに実を結ばせる」と言う言葉も、そこに蒔き手、つまり神の介在を意味しない事にも通じます。

すると、神の国は、それ自体、独自に成長する事を意味する事になるわけで、常識的にはそんな事は、あり得ないと私達は感じる事になります。

根本的な処で、何か解釈が間違っているのでしょうか?

しかし、次に挙げられる種の生長の言葉を見ると、解釈の道筋に間違いはない事が明らかにされます。

「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」と語られます。

この成長過程で決定的な事柄が欠落しています。
それは、四つの種で語られていた「根を張る」と言う成長過程です。

何故、成長に不可欠な根を張ると言う現象が、この喩え話に欠落しているのでしょうか?
この点に神が顧みない事、「人が見ていないうちに」に成長すると言う意味を見いだす事が出来るのではないかと思うのです。

つまり、種を蒔くその事にこそ神の目的があり、その為に根を張る処までは神の意志に基づきなされ、それ以後の成長に関しては、各々に、あるいはその環境に基づき成長して行くと言う事なのでしょう。

結局の処、そこには神の不介入を匂わせるものの、それは神が顧みられないという事ではなく、むしろ、その逆で、種を蒔く時点で、そこにはすでに神の強い意志が見出され、当然ながら成長も神の計画に基づいている事になるのです。
従って、この譬えに関しては敢えて根を張る記述に触れていないのだと思うのです。

では、成長の過程を見てゆきますと、まず茎とあります。
それは根に支えられ、伸びて行くわけですが、その情景を思い描くと、例えば、それを個々人にとどめるならば、罪汚れを貫き通す描写となり、結ばれる穂は、人が神の意志に従って生きた結果を意味する事になるでしょう。

また、社会やこの世であるならば、それ以前には存在しなかったもの、もしくは新しい価値観、世界観が突然に顕れると言った事を意味する事になるわけです。

ここで、私達は、種を蒔く人は、収穫を目的にしていると考えます。
ですから、種は、あの四つの種の譬え同様に無数に蒔かれたと思い込む事になるわけですが、本日の箇所の種の話は単数形で統一されており、一つの種の成長過程を描写しています。

すると、茎、穂という成長は、神に反する社会、もしくはこの世のありように相対し、進むべき歩みを指し示す唯一の指針としての役目を果たす事になるでしょう。

尤も、違いの鮮明化は、そのまま最終局面を顕す事になり、個人であれ、社会であれ神の義に遠く及ばない現実を突きつける事になるのではないでしょうか?

それを私達は「裁き」と言う言葉をもって言い表す事があります。
実際、聖書は前提として終末における裁きと選別が行われる事を想定しています。

「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と言う言葉からも、例えば、バプテスマのヨハネの言葉、既に根元に斧は置かれていると言う言葉を連想され、裁きがイメージされます。

果たして、裁きと選別は避ける事の出来ない必然となるのでしょうか?
無論、自ら神を拒絶するのであればそれは仕方がない事なのかもしれませんが、私達にとって重要なのは、「福音」です。

個人であれ、社会であれ、その当てはまる解釈はともかく、神の国を指し示す事で、神に反し、神からほど遠い処にある社会、この世、そして、そこに身を置く私達1人1人の状況を顕わにし、その上で、御子キリストイエスの十字架での死と復活を通して、神は許しと救いをもたらしてくださった事を明らかにしてくださったのだと思うのです。

本日のイエスの譬え話は、その福音を前提として読むなら、全ては神に相反していながら許しと救いの可能性に満たされている事実を物語っていた事になるのではないかと思うのです。

20/08/2026

ノート8/9マルコ福音書4:21-25
4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

「また、イエスは言われた。」と始められる事から、前回の四つの種の解釈の続きとしてマルコは本日の箇所を記します。
恐らくは、弟子達に対して解釈を明らかにした後、では、この譬えをどう受け止めるのか?と言う応用問題という事なのかもしれません。

お題は「灯火」です。
これが何を象徴しているのかについて、恐らく、教会の時代に福音書を記したマルコは、暗闇の中、自分はどうすれば良いのか?と、恐れ惑う人々を照らす光、神の言葉ロゴスであるキリストイエス、もしくは神の事を思い描いたかもしれません。
つまり、人は皆、イエスが指し示す処、その光に向かって歩んで行くと言う情景をイメージする処へと導くわけです。

確かに、そういった解釈も出来るでしょうし、それが正しいのかもしれません。
でも、答えは急がず、状況の設定から観て行きましょう。

まず、「灯火を持ってくる」と語られている事から、当然、それは開かれた空間ではなく、建築物の中であり、光取りの窓もない閉鎖された空間が舞台設定となっています。
仮に、最初の設定、この閉鎖された空間を個々人の内面を象徴しているとするなら、「灯火」はロゴスという事に限定される事でしょう。

でも、「灯火」を「持ってくる」とここでは語られています。
つまり、「灯火」を持ってくる人物と「灯火」は、同一ではない事になります。

ややもすると、私達の想像力は、その人物とは「父なる神」であり、「灯火」はイエスキリストであると解釈するわけですが、「灯火」を持ち込む人格と言うか、意志を持つ人物と、そういったものを持たない「灯火」は、本質が異なります。

一方は意志を持ち一方は意志を持たない。
この中で、閉鎖された暗闇を照らす光の事を、人格を持つキリストイエスに絞り込んでも良いのでしょうか?

イエスは、ある人物が閉ざされた部屋に持ち込んだ明かりの役目について「升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」と語っています。
つまり、部屋全体を明るく照らす役目を「灯火」は担っていて、それによって部屋の中の状況を顕わにする事が意図されているわけで、明かり自体は、閉ざされた空間の状況を顕わにするものの、その場を、何らかの力を持って変えるには至らないのです。
ましてや、暗闇に潜んでいたものを、明かりに引きつけようなどとか、あるいは、灯火の下に来るようにとも言われていません。

要は、変えようのない現実をあぶり出す処にこそ、暗闇の中に持ち込まれる「灯火」の役目がある事を語っているのです。

ここで、個人的な事柄として、罪をあぶり出すと言う解釈も出来るでしょう。
でも、「升の下や寝台の下」と言われているように、恐らく、明かりを持ち込んだ人物の目に、この暗闇の中に存在するもの自体には汚れを意味するニュアンスはないのです。

むしろ、明かりに照らし出された処には、慣れ親しんだ道具や家具があるわけで、あくまで、それら部屋にある物品が見えない様にしている暗闇を見えるようにし、現在の状況を確認すると言う処に「灯火」の役目がある事にならないでしょうか?

すると、着目すべきは、暗闇に隠されていたもの、あるいは、その状況と言う事になります。
もし、これが、個人的事柄に限定されてしまうなら、あぶり出された物品は罪汚れになるでしょうが、そこには日用品があるだけで汚れたものはないわけで、安易に罪にすり替えて良いとは思えません。

むしろ、閉ざされた空間の中に様々な物品があると言う想像力を働かせるなら、この空間は、この世を象徴し、身近な処で言うなら、私達が属する社会を顕している事にならないでしょうか?
その中に、様々な物品があり、つまり私達が、そこで生き、存在していると言う解釈は無理があるでしょうか?

つまりは、「灯火」とは、私達が生きている環境を照らし、見直させるものであり、あるいは、それを点検させる為のものとなり、その点で、暗闇に覆われた部屋に相対するものとなるはずです。

ここで、イエスの宣教の中身、「神の国は近づいた悔い改めて福音を信じなさい」と言う言葉に立ち帰りたいと思います。

神の国は、明らかに、この世に対峙し、そして、私達が生きる社会を見直す秤にならないでしょうか?

その秤は、如何に、神の国から遠いか?そこに生きる私達が神からかけ離れて遠くに生きているか?と言う事を、ある意味、客観的に顕わにしてくれないでしょうか?

私達の生きる社会の中に、神の国に値する何ものか、もしくは神の支配はあるだろうか?
「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」とイエスは語ります。

この言葉で着目したいのはやはり「聞く耳のある者は聞きなさい」と言う言葉です。
イエスは良くこの言葉を口にしたようですが、この言葉には、理解出来る者と出来ない者がいる事実を示しながらも、それ以上に、喩え話の解釈に関して、個々人に対する自由が認められている事を物語ります。
神を前にして、あるいは神の国の到来を前にして、個人的な事を言っているとか、社会的な事を言っているとか、それぞれが自由に解釈し受け止めて良い事を言っています。

敢えて制限というならただ一つ、「考える」と言う事の放棄を認めないと言う事です。

信仰に照らして、聖書に照らして、あるいは自分自身に照らして、そして私や私が身を置き、ある意味私自身を形成したであろう社会に照らして、そして、受け取れる範囲で神の義に照らしてイエスの譬え話を如何に解釈し受け止めるかを追い求め、考える事を求めるのです。

従って「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とイエスは言うのです。

イエスが語る喩え話は、決して、信仰深い者と不信仰な者、もしくは、信仰を持たない者との区分けをする為のものではなく、敢えて分けるとするなら、自ら考える者と考えない者とを分けると言う事になるのかもしれません。

「自分の量る秤で量り与えられる」というのは、そう言う事なのでしょう。
結果、「考える」と言う、その秤によって、考える者は、そこにそれなりのメッセージを見いだし報われ、また、考えない者は、それを見いだせず、やはり損をすると言う事になるのだと思うのです。

こうして、私達は、神の国の到来と悔い改めの必要、そして福音を告げるイエスの宣教を通して、聖書に記されている神の言葉を考え、それぞれに示されるであろう神の義によって、自分自身、そして社会、もしくは、この世を照らされ、如何に、神から遠い処で生きているかを確認し、それでも尚、キリストイエスの十字架と復活の出来事を通して、決して見捨てる事のない神の愛を、真摯に受け止める事が出来るのではないかと思うのです。

07/08/2026

ノート8/2マルコ福音書4:13-20
4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

イエスの喩え話については、それをどのように受け止め聴くか?と言う事が大切である事については先に触れた通りです。
つまりは、その正解は本来はあり得ないと言うのが、喩え話であり、そもそもが喩え話の中に重要な話が隠されていると言う事に気づけない人達もいてよいわけです。

尤も、語り部であるイエス自身から観れば、そこには、神からのメッセージが込められているわけで、それをくみ取ってほしいという思いがあったのは当たり前の事だとされるでしょう。

ですから、喩え話は語りっぱなしではなく、例えば、先の種まきの話に関してもそうですが、イエスの視点で解釈がなされる事は、ごく当然に思えますし、いわゆる解き明かしと言うか?喩え話の解釈?の仕方が、これに伴って語られるのはごく自然な事として思えてくるわけで、こうして、イエスの譬え話の全てには、どれにもイエスが受け取ってほしいと願う固定されたメッセージがあると言う事を当然のように印象づけるのです。

でも、そこには、少なからず矛盾も感じます。
なぜなら、先日の最後には、「『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」と語られているように、理解出来なくて良い事を前提として語っている事実をイエス自身が認めているからです。

これは、本日の箇所が記す種まきの譬えの解き明かしに関しても、本来、必要なかった事を意味する事になるはずです。

結果マルコは、イエスの言葉として「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」と記す事になります。

この言葉は、直接的には、イエスの教えを直接教えられていたはずの12使徒や弟子達にとっても、喩え話を理解する事が出来なかったと言う事を顕しています。

彼等でさえ、教えられていたイエスの教えと喩え話を結びつけて受け止める事が出来なかったと言うわけです。
それほどまでに喩え話を受け止める為のハードルは高かったと言う事になります。

そういった事を前提に、マルコが語るイエスによる種まきの譬えの解き明かしに耳を傾けて行きたいと思います。

「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」と、冒頭で語られます。
これは至って簡単で、明快な解き明かしとして聞こえてきます。

しかし、「神の言葉」と言う言い回しをイエス自身が本当に使っただろうか?と少し躊躇してしまいます。

と言うのも、私達の刷り込みとして「神の言葉」は、「イエスの言葉」あるは、「教え」として受け止めるわけで、これは、十字架と復活の出来事が成就して後に用いられ得る解釈だからです。
もしかすると、本来のニュアンスは、「神の国の到来と福音」、もしくはその類いの言葉であったのかもしれません。

つまり、このイエスの譬え話の解釈には、実際にイエス自身の解釈がベースにあったにしても、少なからず教会と言う体制が出来上がっている背景と、その解釈の影響があってしかるべきですし、先に触れたように、「神の国の到来と福音」が「神の言葉」と言う簡素な表現になっている事からも、その事は、思い含み読むべきではないかとも思うのです。

さて、続いて実際の解き明かしが語られて行きます。
「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」
「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」
「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

この四つがイエスの説き明かしとなりますが、最初の三つは「~とはこういう人達である」という感じで、私達は、「神の言葉」を蒔かれた土地、つまり素地の抱える問題点が全面的に指摘されている様に読んでしまうわけです。
当然、素地とは、私達、人であり、「私」自信に絞り込まれて来るわけです。

すると、この解き明かしは、「私」と言う存在は、変わりようがないと言う事を本来は指摘する事になってしまうわけです。
にもかかわらず私達は、例えば、ただの道ばたである私も、信仰深くなれば良い土地に変わる事が出来るはずだと言う先入観にとらわれてしまうわけです。

これを「信仰の成長」等という人もいるかもしれませんが、信仰はどこまでも神が与えてくださっているものであって、私がどうこうするものではない事は踏まえなければならないでしょう。

従って試される信仰とは、より強い信仰を抱かせる為ではなく、与えられている信仰に気付かされる為であるべきとなります。

また私達は、神が人を不平等に出生させる事などあり得ないと言う思い込みにとりつかれる事もあります。
しかし、実感としてはどうでしょう?
「親ガチャ」という言葉があるそうですが、子供は生まれてくる親を選べない事を言っているようですが、当時も今も、どの社会的階層に属するかは、生まれた時に決定されたわけですし、私達は、それを受け入れざるを得ない事を思い知っているわけです。

それを神の非情と捕らえるか?人の罪故?と捉えるかは、人それぞれだと思います。

そして当然のように、私達は、周囲を見回し、喩え話の解説の中で提示された四つの土地の内、一体どの土地が自分であるか?と言う問いを抱く事になるでしょう。

でも、残念ながら、その問いは、ほとんど意味がありません。
なぜなら、イエスの譬え話は、四つの状況ではなく、二つの状況しか語っていないからです。
良い土地か?そうでない土地か?その二者択一を語っているのです。

私がどういう状況にあるのか?そこからどう抜け出すか?を問う材料として四つの土地が語られているのではなく、常に神の前には二者択一しかないと言う事をこの解釈は語っているのです。

また、私達は「私は、私は、」とすぐに考えますが、本日の箇所に「ものたち」とあるように、それは複数形、つまり、それぞれの土地は、個々人と言うよりも、「私」の状況を生み出したであろう社会を象徴していると受け取って良いのではないかと思うのです。

にも関わらず、私達が、この譬えを個人的状況に当てはめる様に誘い込む処に、サタンの誘惑があるとも言えます。

そして最後に、イエスの語った言葉の変化について触れておかなければならないと思います。

この解説の最初にイエスは「種」とは「神の言葉」だと言いました。
この箇所の原語を観た処、「神の」と言う言葉はなかったので、実際には、ロゴスと言う意味の語句が使われていました。

仮に、本来のイエスの宣教の言葉が「神の国は近づいた悔い改めて福音を信じなさい」であるなら、「種」とは本来の宣教の言葉、神の国であり、福音であったはずです。

処が、それが、この解説の中でイエス自信の言葉によって、「ロゴス」「御言葉」へとより簡易化されている事に気付かされます。

ですからここには、本来あるイエス自身の言葉が、教会を通しての言葉へと変化した痕跡を見て取れるように思えるのです。

本来、神の目に救いようのない土地、この世の社会、そこに生きる私達を神は顧みられて救いと許しを与えられると言う福音が、教会によって「ロゴス」「御言葉」つまり、キリストイエス自身を顕す事となり、また、彼を通して完成された神の国の約束を表す言葉ロゴスへと置き換えられたのかもしれません。

そのような置き換えによって、この喩え話は、「ロゴス」「御言葉」を受ける個々人、つまり、第一に教会に集う人達に向けられた言葉に印象づけられた上で、「ロゴス」と教会に属する個人がいかに向き合うべきかを自問自答すべき目的を持つ言葉へと印象づけられたのではないかと思うのです。

ともあれ、この喩え話の解き明かしが意味するところは、個人がどうあるべきか?もがきあがいて良い土地を目指すか?否か?は問うていません。

教会が置かれている地域社会、そして何よりも個が属する社会が、神の目に如何に絶望的な状況におかれていると観られているか?

これを踏まえた上で、神は許しと救いの福音を以て、悪しき土地さえ、良き土地のように、そこに属する個々人である私達を御心にかなう者のように扱い、神の国、神の支配のもとに入れてくださる事を福音として想起させる為に語っているのだと思うのです。

決して四つのどれかに自分が当てはまるか?と言う問いではなく、神は罪の中にまみれた者さえをも、良き土地、汚れなき者のように観てくださっておられ、キリストイエスの十字架と復活の信仰を通して、ロゴスが実現している事を、自身の頭を使い耳を傾け、そして何より与えられている信仰に従って、私達は本日の箇所にあるイエスによる喩え話の解き明かしを、それぞれに読み込むべきなのだと思うのです。

07/08/2026

ノート7/26マルコ福音書4:10-12
4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」

本日の箇所は、「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」と始まります。

「1人になられた時」というのは、大抵の場合、イエスが神に祈りを捧げる時と受け止めて良いでしょう。

祈りの最中に、話しかけるなどと言う事は、あり得なかったでしょうから、イエスが祈り終えるのを待ってか?あるいは、それなりの時間をおいて、イエスが祈っている場所に、(当然、人気のない場所だったと思いますが)いわゆる12使徒を含む「イエスの周りにいた人達」つまり、名も無きイエスの弟子達を指す言葉でしょう。
彼等は、ある疑問を抱いて、イエスに問う為に来たわけです。

それは「譬えについて尋ねた」とある事から、恐らく何故、こんなに回りくどい喩え話ばかりをしているのか?と尋ねたのではなかったでしょうか?

特に、まるでお笑いの様に滑稽に聞こえる愚かな農夫の例えを聞いて、尚、譬え話で本当に人々に神の国の到来と悔い改め、福音を信じる事を伝える事が出来るのだろうか?と言う、至って真面目な問いだったのかもしれません。

もっとダイレクトに、あるがままの神の言葉、「神はこう言われる」とか、同じ譬えでも、バプテスマのヨハネのような、「斧が根元に既におかれている」と言った、真剣に自分自身と向き合い、問う預言者のように、人心を引きつけ追い込むような話しをしないのか?と言った疑問だったかもしれません。

このような追い込みは、マインドコントロール的な作用を及ぼすやり方とも言えます。
不信仰であってはならないとか、もっと強く信じなければ、地獄行きと言った刷り込みに基づく恐れは、統一協会脱退後の人のトラウマと同じような呪縛をもたらします。

高校時代、仲が良かった友人が、別の教会でバプテスマを受けてキリスト者になりました。
私は、その時はまだ、バプテスマを受けていませんでしたが、その友人から電話がかかって来て、「今から会いたい」と言うのです。

会って彼の第一声は「俺、教会辞めるわ」と言うわけです。
「え?何で?」と聞くと、「怖いんだよね」と言うのです。

彼が言うには、絶えず神に見張られていると言うイメージ。
妖怪百目じゃないですが、「そこここに目があって見られていると思うと、怖くて仕方がなくなり耐えられなくなった」と言うわけです。

それを聞いてなるほどと思いました。
きっと、神様はいつも見ておられると言う言葉を、多分、語り部は、励ましのつもりで語っていたのでしょうが、いらん事も付け加えたのでしょう。

例えば、神様が観ているから、善人でなければならないとか、罪を犯すべきではないとか云々。
そりゃ、罪を犯すべきではないと言う心構えは必要かもしれませんが、彼にとって、罪を犯さない人間こそがキリスト者のあるべき理想の姿であるかのごとく、その胸に深く刻まれたのでしょう。

そんな完全な人間になる事が、キリスト者となる事であったとしたら耐えられなくなるのも当然です。

これは、少なからず彼がマインドコントロール下に置かれていた事の結果だったと今なら分かります。

確かに、教会では多かれ少なかれ、マインドコントロールが利用されている一面があるのは事実です。

しかし、たちが悪い事に、それを聖書第一主義を、教義第一主義へとすり替えられてしまう事が往々にして起こったりします。
そして、それを語り部自信も気付かずに行なっているのです。

ヨハネ的な裁きの譬え話はともかくも、イエスが愚かな農夫のようなコメディー的な身近な題材を多く用いた喩えに固執したのには、このような事態を避ける思惑があったのではないでしょうか?

神の国は近づいた、この先駆けが顕れたと言う宣教は、同時に裁きが開始された、選別が始まったと言う事の主張ともなります。
しかし、イエスにとって、この裁きの時は同時に許しの時、救いの時でもあったはずです。

神を信じる者は、より確信を抱き、信じない者、相反する者は、気付けば、許しと救いに神の寛容を見いだす処にこそ神の福音たる所以があるのではないかと思うのです。

次に、「そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」と、記されています。

「あなた方」は12使徒を含む弟子達ですが、彼等には「神の国の秘密が打ち明けられている」と言う事は恐らく、譬えを用いず、教師と生徒として、まさに教えとして語った可能性があります。

あるいは「打ち明けられている」と言う言葉から受ける印象としては、神の国の先駆けと裁きと許しと救いの福音と言う、教えの根底にある基本的な事柄は、弟子達に対して譬えを用いず繰り返し教え込まれ続けていた事もあり得ます。

ですから、後の弟子達の行う宣教が、イエスのように譬えを用いず、直接的な言葉の宣教となって行った事も頷けます。

さてしかし、ここにある「全てが譬えで示される」という言葉は、興味深い言葉です。
喩え話では、この世にある出来事や人、特に人の職種がイエスによって用いられ他のではないかと思います。

これは、神の国の到来が、架空のものとか、心霊的なものとか、何か特別な目を持ったり、学問的な知識や理解力を持ったりした人だけが気づけるようなものではなく、私達の今おかれている現実に、そのまま直接関わるものである事をよく顕していないでしょうか?

実際、イエスの癒やしや悪霊祓いは、現実的に回避できない危機を回避させて来ました。
このように、実態を持つもの、あるいは力を及ぼすものとして神の国はやって来つつある事を示しているのです。

「『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」とイエスは語ります。

文脈から言って、イエスはここで「許される事がない様になる為」とその目的?結論?を語っています。

これをそのまま受け止めるなら、明らかに救われない人、つまり裁かれる人がおり、実際に、神を信じる人が一定数しかいないと言う事になり、多くの人が、いわゆる地獄行き決定を言わんとしているように取るはずです。

天国か?地獄か?と言う選択を通して、多くの人に迫らねばならないと自らを追い込む事で、神を信じてもらう為、キリストを救い主と知らせる為、宣教をしなければならないと言う動機付けがなされる事は当然の成り行きです。

でも、「許される事がないように」という言葉は、まず第1に、当時のユダヤ教徒達、特に律法を守り信仰熱心な人々、何らかの神の恩恵を期待している人達に向けられた言葉として聞くべきではないかと思うのです。

他の人達、神の律法を守れない人達、もしくは背教者達に対して、「自分は救われる」とおごっている人達に対して、否、あなた方は、それでもまだ罪の中にあると言う事実を突きつける言葉になったのだと思うのです。

これはある意味、神の救いに与ったと主張する私達キリスト者自身にも通じる処があるように思えます。
傲った信仰はどこでも、いつの時代でも起こり得るのです。

このように、「救われている」「救いに与る自信」を持つ人達への、耳の痛いメッセージとして、本日の箇所を聴くなら、特に目を付けるべきは、「立ち帰る」という言葉でしょう。
この単語は、振り向く、家などに帰る、戻ると言う意味だそうです。

つまり、イエスは、人には誰もが自分の存在の原点、出発点がある事を語っているのです。
そして、やがて人は、誰もがそこに、帰って行く事になる事をも暗示します。

イエスの譬え話を聞いて理解出来ないというのは、帰る場所を見失っている事を意味し、それは、ユダヤ人にとって出自の神を見失う事をも意味する事を訴える事になったように思うのです。

もちろん現代に生きる私達が、当時の社会背景を知らないまま、イエスの喩え話を、時代と社会背景を考えずに受け止める事は本来出来ませんし、理解も難しいでしょう。

でも、当時の人達、特に貧しい人達自身や、そういった人達に目を向ける比較的豊かな階層に位置する人達、同様な知識階級の人達には、なんとなくではあったかもしれませんが、イエスが言わんとした事は理解し得た言葉であったはずだと思うのです。

こえは後にパウロが言う処の、義人はいない1人もいないと言う事、いわゆる、万人は罪人に他ならないと言う事実の指摘そのものです。

豊かな者も地位ある者も、無難に生きている者も、悩み苦しみに生きている者も、貧しさや貧困の中にある人も、例外なく、神の前に罪人以外の何者でもない事がイエスによって指摘されます。

しかし同時に、多くを赦された者は多くの恵みを受け、わずかな許しを受けた者は、わずかな恵みを受ける結果がもたらされ、こうして、神の国において、社会的階層の逆転が起こる事となるのです。

私達は神がもたらす福音によって、その全ての人が自出の処である神の処に帰って行き、いかようにも神の国に与る者として受け入れられる事をイエスは主張し続けたのだと思うのです。

ですから本日の箇所は、弟子達の問いを受けて、裁きにおける振り分けを語っているのではなく、実は、全ての人が罪人であるが故に、社会のどの階層に属していようとも、神の福音、神の許しが必要とされており、その許しが、キリストイエスを通して与えられている事を思い起こすべく記されているのです。

25/07/2026

ノート7/19マルコ福音書4:1-9
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。」

さて、イエスの聴衆がどれほどであったのかについては、残念ながらはっきりとはしません。
と言うのも、ナザレのイエスの活動に関する歴史的記録は、新約聖書のみであるからです。

他のメシア運動については、暴動、そして鎮圧の為の虐殺などが伴った為、その全貌がある程度掌握出来るようですが、事イエスに関しては、客観的な資料はほぼ皆無と言ってよいかと思います。

その理由として考え得るのは、イエスのメシア運動には暴力的側面がなく、極めて平和的な、あるいは宗教的、ユダヤ教的活動の範囲に留まったからだろうと推察します。

もし、各キリスト教文書が残されていなかったならば、現在のキリスト教は成立せず歴史の中に埋もれていたかもしれません。

しかし、幸いにも歴史的存在としてのイエスについて、私達は福音書を通して知る事が出来ます。
当時の名も無きメシア、ナザレのイエスの活動がどのようなものであったのでしょうか。

マルコは「おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」と記します。

おびただしい群衆と言っても、カファルナウムの総人口が差ほど多くはなかったであろう事を思うと何千人を思い描く必要はないでしょう。

但し、数十人程かもしれませんが、イエスの弟子達だけでは整理出来ない程の人数が集まったのは間違いない処だと思います。
イエスはガリラヤ湖畔を宣教の舞台によく使ったのかもしれません。

そのスタイルが群衆が湖岸にイエスが船にと、劇場型の構図で形作られたのは、混乱を避ける為の知恵であったのかあもしれませんし、マルコとしては、神の子イエスと一般群衆との間に何らかの一線を引こうという意図もあったのかもしれません。
いずれにしてもそのスタイルはイエス独自の形であったからこそ書き残されたのでしょう。

ここでイエスの周りに集まってきた聴衆について考えてみます。
まず、平日にイエスのもとに集まると言う事は、彼らは時間に縛られていなかった事を思わされます。
まず考え得るのは、働かずとも食える富豪や上流階層ですが、総人口の1%程の人達が群衆となってイエスの下に押し寄せる事などあり得ません。

と言う事は、他に時間的余裕があり得るのは、無職か、ホームレス、イエスの癒やしの業を聞きつけた病人とその家族、あるいはカファルナウム近郊の村落から駆けつけた農民、もしくは兼業農家の人々が大半を占めたと考えるべきでしょう。
そして、そういった人達は、社会的差別を受けたり、あるいは大きな都市や町が繁栄する為、不当な搾取の被害者でもあったわけです。

そして、宗教的に言うなら、そういった貧しい人達の暮らしぶりは、そもそもが神の前での罪の重さを反映しており、不信仰者であり、同時に無学な者として扱われたわけです。

イエスの周りにはそういった人達が集まっていたわけで、譬え話は、彼らの日常に関わるモチーフで語られたと考えるわけです。
そして、その様な話しは、律法学者による話よりも身についたであろう事は想像出来るわけです。

そして「イエスはたとえでいろいろと教えられ」たと語られる事から、イエスの話の多くは譬え話で構成されており、弟子達にだけその解き明かし、まぁ律法学者、ラビのように教えたのではなかったかと想像します。

ですから私達が本日、目にする、いわゆる「4つの種」と言われる譬えは、数多くの譬えの中の1つで、イエスの宣教の特徴をよく顕している話しとして記憶されたのだろうと思います。

本日の箇所についての解釈は、この後イエス自身の言葉で弟子達に対して説き明かしがなされるのでそれを待ちたいと思いますが、「よく聞きなさい。」という言葉で始められます。

これは命令形で語られており、注意深く聞くようにと促されています。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」
「種をまく人」とは、聴衆の日常の中でよく見かける風景のようなもので、あるいは当時の生活基盤が農業であった事を思えば自身の体験に照らして思い描く事が出来るイメージであった事と思います。

彼の姿は、恐らくデフォルメされ、滑稽なピエロのように描写され受け取られたはずです。
と言うのも、当時の農民が所有する種は、搾取という社会構造の中で、その多くが借金をして手に入れたであろう事を思うと、一粒一粒が貴重品であり、その扱いには細心の注意が払われていたはずだからです。

にもかかわらず、この男は、ある種を道ばたに、あるいは石だらけの土地に、茨が生えている場所に、まるで素人のように種をまき散らすのです。
確かに最後に、よい土地に落ちた種が出てきますが、そこに至るまでの貴重な種の浪費は、聴く者には滑稽に聞こえたはずです。

イエスの話が多くの人の胸に響き、記憶された真骨頂は、そこにあったのだろうと思うのです。
ちょっと前には世相を皮肉る落語家が、それに当てはまります。

今は芸人が取って代わり社会的発言をすることがありますが、安っぽい右派左派や保守に身を落とし、世相を皮肉る捻りのない言葉ばかりで面白くありません。

譬えは悪いかもしれませんが共産主義者とのラベルを貼られアメリカから追い出されたチャップリンぐらいの芸人がいたら面白いのにと思ったりします。

イエスは「 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」と無駄にされた種について話します。

「種」が何であるのかは後の話ですが「御言葉」だと解説される事になります。
それは、福音としての神の言葉であり、暗喩として、神の国到来を指しているのでしょう。

ある人にとって神の国は一瞬で潰される幻であり、ある人にとっては、実現しないわずかな希望であり、ある者にとっては日常の現実に潰されるもので終わるのです。

しかし、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」と言われるように、「良い地」に落ちた種、つまり神の国到来の福音を胸に抱き続ける者にとっては、今という現実の枠を超えて必ず果たされる神の約束として受け取る事が出来ると言えるのです。

最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエスは語ります。
これは意味深な言葉で、「聞く耳を持たない者」がいるかのように聞こえてきます。
しかし、恐らくニュアンスとしては、「注意深く聴きなさい」という注意喚起の言葉であって、誰もが神の国の福音と向き合えば、理解できうる事は前提として語られているのだろうと思います。

無駄にされた種を思えば、神の国の福音は全ての人に届けられうるものであり、その事は、決して、選別が前提の言葉ではなく、全ての人にその入り口は開かれている事を物語っているのだろうと思うのです。

25/07/2026

ノート7/12マルコ福音書3:31-35
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

前回の20節から本日の35節までの舞台は、恐らく、ペテロの家での話で、本日の箇所は、前回の「気が変になっている」という噂を聞きつけ「親族が取り押さえに来た」と言う一節につなげたのでしょう。

「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」
やって来た親族が、母親マリアと兄弟達であった事が、明らかにされます。
この中には、後にエルサレム教会を立ち上げるヤコブも含まれていたかもしれません。

わざわざナザレからカファルナウムまでやって来た家族が目の当たりにしたのは、気が変になっているはずのイエスのまわりに、大勢の人達が取り囲んでいる様でした。

しかも、自分の息子は、癒やしと悪霊祓いを行っており、悪魔の力を借りて行っているという批判に対して理路整然と反論し、相手を論破し、さすがに、「気が変になっている」と言う噂とは明らかに違う状況である事を目の当たりにしたはずです。

そこで家族達が、イエス自身に事情を聴きたいという衝動を抱くのは当然だろうと思います。

しかし、後になってイエスが家族とコンタクトを取ったとしても、群衆の中で、あるいは神の国の宣教の中で語りうるのは、先駆けとしての神の国こそが最優先事項です。
そして、ここでの家族に対するイエスの態度は、神の国における個々の関係性を説くには絶好の材料となったように思えます。

「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされたイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と語ったと記されています。

この宣言の対称となる人達の中には、当然ながら、生活水準の低い人達が多くいたはずで、また、エルサレムの権威を以てイエスに対して批判的な人達、律法学者達も含まれていた事も忘れてはならにでしょう。

これは、人類皆兄弟的な耳心地の良い安易な主張ではなく、差別と貧富の差が大きく、尚且つ圧倒的な数で、罪深い、汚れている、とされる貧困層に属する人々、それは同時に神に見捨てられた人々と認識されていた人達でもあるのですが、その認識をひっくり返し、神の目に全ての人が平等に受け入れられている事、そう認識されている事、つまりは、イエスによって顕される先駆けの神の国だけでなく、やがて到来する神の国においては、いかなる差別も撤廃されると言う宣言としての響きを持つのです。

そして「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言う言葉で本日の箇所は締めくくられますが、この言葉は、無論、イエス自身がその場で語った言葉であったわけですが、もしかすると当時、頻発したメシア運動にも関係する言葉であったかもしれません。

すなわち、仮にある人がメシア運動を成功させローマを駆逐し、ヘロデから実験を奪い取る事に成功し、ユダヤの王となった場合、その家族は、無条件で王族という特権階級として認識される事になるわけです。

従って、この問題は、イエスが十字架と復活を経て、メシアであった事が、明らかになった後に関わる問題として残される事になります。

すなわち、政治的であれ、宗教的であれ、イエス王朝が成立するならば、イエスの家族は、無条件で、その中で特別な扱いを受ける事にならざるを得ません。

実際、その兆候は、エルサレム教会の立ち上げに際して、イエスの兄弟ヤコブが中心的な人物の1人となった事にも顕れており、信仰共同体構成において重要な役割を担ったであろう事と無関係なはずがありません。

ヤコブがいつどのようにしてイエスに従う事となったのか?と言う経緯も、明確ではないにも関わらず、ヤコブは教会の重要人物となっています。

本日のこのエピソードには、教会の時代の解釈が加えられているとも受け取れます。

つまり、無条件な信仰的貴族など存在しないという事。
実質的には、教会におけるイエスの家族、ヤコブはもちろん、母マリアを含めた共同体の関係性の中での台頭に、待ったをかける意図を見て取れなくないと思います。

にも関わらず、ヤコブはエルサレム教会の重鎮となり、後に、母マリアは信仰の対象となったのはご存じの通りです。
マリアに関しては、民衆が求めたであろう女神的存在の必要性から生じたものだったのだとされ、その思いに応えるべく、神学的位置づけが模索されたのは確かだと思います。

それは例えば、イエスの無罪性を思うと、マリアも無罪性を持つ可能性があるのではないとか?
その辺の事にはあまり関心がなく勉強していませんが、人間の性として、女神信仰を捨て去る事が出来なかったのは事実なのでしょう。

あるいは、最悪の事態として、聖家族、聖一族が、キリスト信仰を変質させてしまった可能性も捨てきれなかったのです。

このように、本日の箇所には概ね二つの事柄が記されていたと思われます。

まず一つ目は、この世で特別扱いをされている人が必ずしも神の国で特別扱いされるとは限らないという事です。

神の国ではむしろ、階級制は廃止され、神対個人、個人対個人の結びつき、これは聖霊がもたらす関係性と考えてもよいと思いますが、その先駆けの神の国と共に、これから来る神の国における人のあり方、つまり神の前では、どのような人であっても平等に扱われると言う事。

二つ目は、イエス一族、血筋、血統への牽制として、神が遣わした聖なる存在はイエスのみであり、その家族が信仰的貴族になり、何らかの聖なる権威を振るう事があってはならないと言う事。

もしかすると、イエスの親族の誰かが、自分達は、教会共同体において特別視されて良いはずだと主張をしたのかもしれません。

しかし、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言うイエスの言葉をもって、その主張と権威を剥奪し、神の前に聖なる一族の称号等はないとマルコの著者は主張したのでしょう。

こうして見て行くと、イエスの主張は、人は神の前で差別されないと言う一貫したメッセージとして受け取る事が出来るのではないでしょうか?

そして、イエスという存在を通して既に神の国の先駆けが到来した現在に至って、互いを肩書きで観る事なく、1人の人として見つめ、神と向き合うべき事を物語っていたのではないかと思うのです。

7月5日午後、雨の合間を縫って、母教会の皆様が庭の草刈りをして下さり、すっかり綺麗になりました。感謝。
05/07/2026

7月5日
午後、雨の合間を縫って、母教会の皆様が庭の草刈りをして下さり、すっかり綺麗になりました。感謝。

05/07/2026

ノート7/5マルコ福音書3:20-30
3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

本日の箇所は、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」という書き出しで始まります。

イエス達は、この時期ガリラヤ湖北に位置する貿易拠点でもあったカファルナウム近辺で宣教していた様ですので、その活動の噂は、カファルナウムのみならず、思った以上に広い範囲に伝えられたはずです。
また、ここで言う「家」とは、恐らくペテロの家であったと考えるのが自然でしょう。

一行が戻った報告を聞きつけた人達は、噂のイエスを一目見ようとしてか?あるいは病の癒やしや悪霊祓いをしてもらう依頼の為か?大勢が集まり、効率的であったかどうかはともかく、イエス達は、いちいち、その対応に応えていたのでしょう。

つまりこの一文が言わんとしているのは、イエスによる癒やしや、特に本日に限るなら悪霊祓いが、成功し続けていた事を物語っているのです。

と同時に、その癒やしの行為は、イエスが宣べる神の国の到来の徴、と言うよりも、実質的には、その先駆けとして示されたのは間違いないだろうと思います。

実際、病の癒やしや悪霊祓いそれ自体、本人や家族、あるいは目撃した人々に対して、イエスが言う処の神の国の実体験として認識されたはずです。

イエスが語る言葉が神の言葉である事は、癒やしや悪霊払いにおいて事実とされますので、その言葉自体、力ある言葉として受け止められたに違いありません。

そして、実際にそれが目前で起こされた時、本当の意味で神の言葉には力がある事を、まざまざと見せつけられ、改めて神と向き合う事の重要さを、思い知ったのだろうと想像します。

さてしかし、神の言葉に力があると言っても、私達が普段それを感じ取れない事が多いのも事実です。
ましてや、神の国の到来について、私達は、どれほどの期待を持っているか自問自答すべきかもしれません。

いつ来るかわからないからこそ信仰を守る原動力となるとか、最後の審判の際、キリストの許しを以て神による無罪宣告を受け、天国に入るとか、結局の処、信仰のモチベーションを維持する為の黙示録的なイメージで、神の国を思い描き、自らを縛るのがせいぜいではないかと思ったりします。

つまり、私達の多くは、神の国到来をこれから起こる未知な事とする事によって、終末の時はまだ来ないと自らに言い聞かせているかもしれないのです。

でもイエスは、十字架と復活以前から、神の国はすぐそこに、と言うより、既に彼の語る言葉、すなわち神の言葉によって、日常の中に到来している事実を示したわけで、神の国自体が既に顕されている事が啓示されているのです。

そして、私達にとって神の国の到来、あるいは、その啓示は、いつ来るか想像も出来ない世界の終末と同義とされているのです。

しかし、イエスの語る言葉が神の国の先駆けであるとするなら、そこにはもう終末到来の開始が始められている事になります。

もし終末が来ていると主張したなら、次の「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」という言葉にも頷けます。

「気が変になっている」と言うのは、イエスが、神の国の到来を語っている事を裏返して言うなら、この世の終わりが始まっている事を意味し、ごく普通の日常の終わりをおおっぴらに語っているように聞こえたはずだからです。

今でも、「この世の終わりがすぐに来るぞ」と唱え続けていたら変人と思われるか?あるいは、怪しいカルト集団を連想させるでしょう。

それと同じような反応が、少なからずイエスの周りで起きた事を、本日の箇所は報告しているのだと思うのです。

さて、そこに更に話をこじらせる人達が登場します。
それは、いわゆる権威者「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。

彼等は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と主張し、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と批判したとあります。

彼等はエルサレムという宗教的権威の象徴であり、私達がカルト宗教に対して抱くいかがわしさと同じく、イエスの活動をいかがわしいものとして指摘したのでしょう。
それは当たり前の反応です。

但し、ここで目をとめておきたいのは、彼等がイエスが行った癒やしや悪霊祓いの成功を事実として認めていると言う点です。
つまり事実を認めつつも、その解釈を意図的に改変する事で話しをややこしくしているのです。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」と語るわけです。

これは譬え話とは言えないかもしれません。
と言うのも、言わんとしている事は、律法学者の主張こそ、事実に反し、理に適わない子供だましの偽りだと言う指摘だからです。

続けて「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と語ります。

ここで言う「強い人」とは全ての悪霊、悪魔の王サタンを意味しているのでしょう。
つまり、サタンを制する事によって、初めて病の癒やしや悪霊祓いが成立するのではないか?とイエスは反論しているわけです。
この主張は理に適っているように思えます。

そして、本日の箇所最後に、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言う言葉が告げられます。

補足として「イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。」とされています。
この点は、律法学者達が、客観的に判別せず、一部世論に乗っかった事を伺わせます。
ここに権威の悪い側面が反映されています。

さて、イエスが言う「犯す罪やどんな冒涜の言葉」が、神に対するものである事は明白です。

それ故に、どのような人であろうと、何をしでかそうとも、救うという神の意志は変わらない決定事項である事は動かしがたいとしても、「聖霊を冒涜する者」が例外とされている事について、私達は注目しておかなければならないと思います。

この例外の指摘の背景には、イエスのこんな思いがあったのではないでしょうか?
それは、癒やしや悪霊祓いは、イエス自身を通して働く聖霊の力であると言う自覚です。
それは神の子としての最大とも言える謙遜として聞こえる言葉です。

そして、もし誰かが聖霊が世に介入して起こした業、つまり罪の許しを意味する癒やしや悪霊払いを、悪霊の業であると主張したなら、ましてや、神の民と自称するイスラエル人が、そんな主張をしたならば、そこには信仰的自己矛盾が発生してしまうはずです。
自己矛盾程、救いようのない事はないわけです。

そして、その矛盾が、結果的に自ら救いの道を見えなくし、閉ざしてしまい、神の国到来の先駆けだけではなく、同時に終末の到来をも見誤る事をイエスは主張したのだろうと思うのです。

つまりは、本日の箇所において語られているのは、イエスという存在を通して、神の国は既に世に介入しており、同時に、終末もまた開始されつつあると言う事実を、私達に伝えているのだと思うのです。

05/07/2026

ノート6/28マルコ福音書3:13-19
3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

イエスと言えば12使徒です。
私達のイメージからすれば、彼等は、イエスの弟子の中でも特別な存在であり、キリストイエスの福音と神の国の到来を告げ広め、イスカリオテのユダを除き、後のエルサレム教会設立に深く関与し、その後も命を省みず、信仰の道を突き進んだ人達と言う印象を抱いているかと思います。

その意味で、彼等は特別な存在と思われますが、本来、「使徒」という言葉は、使わされる者という意味で、何か特別な特権や権能が与えられた者達とは、少しニュアンスが違うように思えます。
少なくとも、キリスト・イエスと等しい権能をもって活動する特別な存在ではなかったと思います。

本日の箇所冒頭では、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」と語られます。

「山に登って」と言うのは、神に近い場所でと言う意味がありますので、神の前でと言う事になります。

その時、何人ぐらいが集められたのかはわかりません。
言い方は変ですが、イエスの目に、あるいは神の目に、と言うべきか?精鋭賭して映る12名以上の人が集められたのは間違いないでしょう。
つまり、12使徒とは選ばれた弟子達の中から、更に選ばれた人達と言う事になります。

何故12名であるのか?については、ご存じの通り、ユダヤの失われた12部族が強く意識されていたとも言われます。
そして、その事は、イエスの使徒達の宣教対象が、ユダヤ人に絞られているとも受け取れます。

その宣教対称がどうであれ、続く言葉で、「自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」と、12名を選ぶ理由が語られます。

自分のそばに置くというのは、いわゆる直弟子という事を意味するのでしょう。
そして、12使徒にイエスがより深く教え派遣し宣教する事によって、イエスの集団の活動範囲を広げる役目を担わせようとしたのは明らかです。

俯瞰してみれば、それだけイエスが告げる福音を必要とする人達、つまり貧困と搾取、そして、とりわけ外国ローマによる不本意な支配に苦しんでいる人々が大勢いた現実があったのでしょう。

尤も、宣教する事に限れば、12使徒に限らず、イエスに付き従う人達は既に、これに携わっていた事を忘れるべきではありません。

実際、悪霊祓いについて等は、決してイエスの専売特許ではなく、ファリサイ派などでも、普通に行われていたと言いますので、イエスの弟子達が同じような癒やしの業を担ったことは容易に思いつける処です。

すると12使徒を選んだ理由の特別性は、ただ膨れ上がった大勢の人々を組織的に整理する為ぐらいしか、その理由は思いつきません。

また、使徒については異なる名簿もある事から、12使徒の特別性、果てはその選びが実際に行われた事さえ疑わしくなって来ます。
一体、本当に12使徒なる人達は存在したのでしょうか?

思い返せば使徒と言う言葉は、パウロも自分の事を使徒と呼んでいました。
彼が自分を使徒と称したのは、キリスト教徒迫害の際に、復活のイエスと出会った体験から来ていた事を思い出さなければなりません。

要するに、使徒と呼ばれる人の条件は、本来、キリストの死と復活の証人、もしくは証言者であると言う事が必須であるとパウロは考えていた事が伺えます。

すると、本当の意味での12使徒の成立は、イエス復活後と言う事になるのかもしれません。

確かに、イエスが生前に、膨れ上がって行く人達を整理する役目を担う為、幾人かを選んだ事はあったかもしれませんし、自分の教えを特別に伝授?する人達の必要性を感じ、選んだ事はあったかもしれません。

でも、明確に12使徒が登場し、注目されるのは、少なくともイエスの復活以後というのが時間の流れに沿った受け止め方ではないでしょうか?

また、パウロ的な使徒観で、問題となるのは、イスカリオテのユダの存在です。
裏切り者とさえ言われるユダは、復活のイエスと出会う前に自殺した事になっています。

使徒言行録によれば、ユダの代わりを補充する際に、ユダについてペテロがこう語ります。

「ユダは私達の仲間の1人に数えられ、同じ奉仕の勤めを授かっていた者でした。」

この言葉は、11名に対してではなく、120名程の人達を前にして語っているのです。
そして、ここには使徒という言葉が見当たらないのです。

また、便宜上、ユダの補充として選ばれたマティアは、主の復活の証人でもあったとされています。

本当にユダが使徒として選ばれていたとするなら、パウロや使徒言行録が語る使徒の定義は、根本から崩れてしまいます。

十字架の死と復活の証言者である事、これこそが使徒が使徒たる条件なのです。

以下に、使徒達の名前が記されます。

「シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」

「このユダがイエスを裏切ったのである」と言う言葉こそが、12使徒の選びを真っ向から否定してしまう矛盾を顕わにするように思えるのです。

こうしてみると、使徒とは、キリストであるイエスによって十字架の死と復活の証言者として選ばれた者であって、12名という数字、あるいは、使徒の名簿にこだわる必要性は本来なかったように思えるのです。

と、同時に、私達自身を、キリスト者としてどのように省みるべき事を示唆してくれてはいないでしょうか?
果たして私達は、キリストの十字架の死と復活の自分が証言者であるかどうか?

もし、私達がキリスト者であるとするなら、また神の恩恵としてキリスト者となったと証言するのであれば、キリストの復活の証人である事を自らに問うべきではないだろうかと思うのです。

23/06/2026

ノート6/21マルコ福音書3:7-12
3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

肩書きというのは、なかなか便利なものです。
その肩書き一つで、その人が何をしているのか?どういう立場であるのか?等が瞬時にわかるからです。
尤も、「先生」と言う言葉の中身について、私達はあまり考察していないように思えます。

例えば、多くの人は、教会の牧師に対して「先生」と言う言葉を使います。
それは群れの彼が導き手であり、聖書の教師であり、自分の知らなかった事を知っていたりするからかもしれません。
あるいは時には、信仰の手本を見せてくれる事さえ期待される事もあるでしょう。

しかし、マタイ23:8でイエスは「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」と説きます。

実際、バプテスト的には、牧師を引退、辞めた際には一般の信徒と同じ立場に戻るという理解が通説、一般的ですが、にもかかわらず、その辞めた人に対して、「牧師」とは言わないまでも、「先生」と言う言葉をよく用います。

また、連盟、連合内でも、他の教会の牧師を呼ぶ際、互いを「先生」と言うのも慣例になっています。

実は、この「先生」という言葉が、なかなかよろしくない。
「牧師」でなくなったにも関わらず、その功績というか?何というか?一般の信徒とは違う位置にある事を、自他共に意識させてしまうわけです。
これはあまりいただけない。

また、政治家が、「先生」と呼ばれているのも不思議です。
民意によって担ぎ出された人達なのに、議員になった途端、「先生」と呼ばれるようになる。

本来誰もが「議員」になってほしいから投票するのであって「先生」になってほしいからではありません。

なのに本来は、自分と同等の地位にありながら選挙で当選を果たすと、一段上の階層に上がってしまい、「先生」になってしまうのは、あまりよい慣習だとは思えません。

私自身、牧師になった際のテーマとしての聖句は、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」と言う言葉を自戒を込めて選びました。

とは言え、最初「先生」と呼ばれる事に抵抗感があったものの、今では「先生」と呼ばれても、昔程に抵抗感もなく、それを修正する気力もなくなり、それが当たり前のように感じてしまうのです。

肩書きとは、そう言う怖さがあるわけです。

さて、「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」と語り始められます。

イエスの教えに共感した人々が、ほぼイスラエルの全ての地域から集まっている事を示します。
ティルスやシドンに至っては、異文化の影響処か異邦人がより多く住んでいたであろう町です。

つまり、イエスが説いた福音、神の国の到来と悔い改めて福音を信じなさいと言う宣教は、今で言うなら国籍を問わず大きな影響力を顕していたと言うわけです。

まさに、早々とメシア運動が始まっているかのような空気が、この場面にはあった事でしょう。

宗教的主流のファリサイ派と、恐らくは政治的グループであったヘロデ派がイエスを危険視したのも無理はありません。

イエスの一言で、ガリラヤ中心に、外国からエルサレムに至るまで、大暴動が起こりかねない危険が伴うと受け取られても仕方がない状況です。

しかし、イエスは、メシアと言うより、力ある預言者の様にして活動し続けていました。このときの人々も、イエスによって革命が起こされる事を期待してと言うよりも、癒やしを求めて集まってきた事は続きを見れば明らかです。

あまり大奥の人達なので、「イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。」と言って、湖にこぎ出します。

「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」とある事から、イエスの運動には、政治的な意図は一切なく、ただ癒やしの場として認知されていた事が分かります。

そしてその癒やしの中、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。」と記されます。

この「神の子」と言う称号は、著者マルコにとって、最高の賛辞であると同時に、最高の肩書きでもあります。

しかし、この肩書きは、地上での活動を終え、十字架と復活を経て昇天し、メシアとしての役目を完全に終えた後に成立、もしくは明らかにされる肩書きです。

悪霊達は間違ってはいないものの、この言葉は、イエスに対する試みとして聞いてもよいのかもしれません。
神の業を自分の力によるものと勘違いさせ、また、神の子という肩書きを得る必要性を認めさせる為です。

実際、ナザレのイエスと言う肩書きよりも、神の子イエスの方が、多くの人が集まった事が想像出来ます。

処が「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。

イエスの進むべき道は、肩書きで人を集めるのではなく、自ら宣べ伝える福音、そして、神の国到来の先駆けとしての癒やしの業、いわば実績において自らの信仰を生きる事の選びを思い起こさせます。

そして、その姿勢は、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」と言う言葉を真に生きた言葉としてくれるのではないかと思うのです。

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