20/08/2026
ノート8/16マルコ福音書4:26-29
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
「また、イエスは言われた。」と始まる本日の箇所も、また一連の四つの種の譬えの続きとして語られます。
これまで、種の話の解釈を教え、応用問題を話し、再び、種をモチーフとした喩え話がなされます。
今回は、明確に種が神の国であると語られます。
その理由は、もしかすると、弟子達に限った話で、イエスによる解き明かしや、教えの仕方の一例として収録しているのかもしれません。
イエスは「神の国は次のようなものである。」と前置きして、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」と語ります。
仮に、この言葉を四つの種の譬えと、その解釈の仕方の続きとして読むならば、種を蒔く人は神を意味し、それを蒔かれる土は人もしくは、私達が生きる社会、この世と言う事になります。
と言う事は、基本的には四つの種の話と同様な解釈を施せば良い事になります。
ただ、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」という言葉は、四つの種とは異なる状況を物語ります。
先の話では、種は芽を出しても、環境や外圧によって成長を阻まれる事が、客観的に語られていました。
処が今回は、同じく客観的ではあるものの、種を主体とした話となります。
「昼夜寝起きしているうち」つまり人が見ていないうちにと言う点で、少々、違和感を持ちます。
なぜなら、人が見ていないと言う事は、神が見ていないと言う事を意味してしまうからです。
果たして、神が目をそらしている状況下で、神の国である種の成長はあり得るのでしょうか?
それは実質的に、神に見放された状況を意味し、祝福からほど遠い事をも意味するはずです。
また、「土はひとりでに実を結ばせる」と言う言葉も、そこに蒔き手、つまり神の介在を意味しない事にも通じます。
すると、神の国は、それ自体、独自に成長する事を意味する事になるわけで、常識的にはそんな事は、あり得ないと私達は感じる事になります。
根本的な処で、何か解釈が間違っているのでしょうか?
しかし、次に挙げられる種の生長の言葉を見ると、解釈の道筋に間違いはない事が明らかにされます。
「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」と語られます。
この成長過程で決定的な事柄が欠落しています。
それは、四つの種で語られていた「根を張る」と言う成長過程です。
何故、成長に不可欠な根を張ると言う現象が、この喩え話に欠落しているのでしょうか?
この点に神が顧みない事、「人が見ていないうちに」に成長すると言う意味を見いだす事が出来るのではないかと思うのです。
つまり、種を蒔くその事にこそ神の目的があり、その為に根を張る処までは神の意志に基づきなされ、それ以後の成長に関しては、各々に、あるいはその環境に基づき成長して行くと言う事なのでしょう。
結局の処、そこには神の不介入を匂わせるものの、それは神が顧みられないという事ではなく、むしろ、その逆で、種を蒔く時点で、そこにはすでに神の強い意志が見出され、当然ながら成長も神の計画に基づいている事になるのです。
従って、この譬えに関しては敢えて根を張る記述に触れていないのだと思うのです。
では、成長の過程を見てゆきますと、まず茎とあります。
それは根に支えられ、伸びて行くわけですが、その情景を思い描くと、例えば、それを個々人にとどめるならば、罪汚れを貫き通す描写となり、結ばれる穂は、人が神の意志に従って生きた結果を意味する事になるでしょう。
また、社会やこの世であるならば、それ以前には存在しなかったもの、もしくは新しい価値観、世界観が突然に顕れると言った事を意味する事になるわけです。
ここで、私達は、種を蒔く人は、収穫を目的にしていると考えます。
ですから、種は、あの四つの種の譬え同様に無数に蒔かれたと思い込む事になるわけですが、本日の箇所の種の話は単数形で統一されており、一つの種の成長過程を描写しています。
すると、茎、穂という成長は、神に反する社会、もしくはこの世のありように相対し、進むべき歩みを指し示す唯一の指針としての役目を果たす事になるでしょう。
尤も、違いの鮮明化は、そのまま最終局面を顕す事になり、個人であれ、社会であれ神の義に遠く及ばない現実を突きつける事になるのではないでしょうか?
それを私達は「裁き」と言う言葉をもって言い表す事があります。
実際、聖書は前提として終末における裁きと選別が行われる事を想定しています。
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と言う言葉からも、例えば、バプテスマのヨハネの言葉、既に根元に斧は置かれていると言う言葉を連想され、裁きがイメージされます。
果たして、裁きと選別は避ける事の出来ない必然となるのでしょうか?
無論、自ら神を拒絶するのであればそれは仕方がない事なのかもしれませんが、私達にとって重要なのは、「福音」です。
個人であれ、社会であれ、その当てはまる解釈はともかく、神の国を指し示す事で、神に反し、神からほど遠い処にある社会、この世、そして、そこに身を置く私達1人1人の状況を顕わにし、その上で、御子キリストイエスの十字架での死と復活を通して、神は許しと救いをもたらしてくださった事を明らかにしてくださったのだと思うのです。
本日のイエスの譬え話は、その福音を前提として読むなら、全ては神に相反していながら許しと救いの可能性に満たされている事実を物語っていた事になるのではないかと思うのです。