泰宗院 -臨済宗円覚寺派-

泰宗院 -臨済宗円覚寺派- 鎌倉の円覚寺を本山とする円覚寺派に属する臨済宗の禅寺です 泰宗院 (たいそういん)
〇臨済宗円覚寺派 新潟教区
〇三国街道(湯沢~苗場)の小さな庵
〇住職 福田 充徳(じゅうとく)

最近、鳴り物入りでリニューアルされた其季刊誌などを見ていても、つくづく思うことがあります。禅は「スタイル」なのか?週末だけの「禅スタイル」、禅道場に通って「修行スタイル」、それで一週間を「リセット」する。実は、これはかつての出家前の私自身を...
15/08/2026

最近、鳴り物入りでリニューアルされた其季刊誌などを見ていても、つくづく思うことがあります。
禅は「スタイル」なのか?

週末だけの「禅スタイル」、禅道場に通って「修行スタイル」、それで一週間を「リセット」する。

実は、これはかつての出家前の私自身を顧みて、あるいは坐禅に来る多くの人を見ていて、指導する私たち禅僧を振り返って、感じる「姿」であります。つまり、形骸か?
禅は「スタイル」でよいのか?

私なりの結論。それもよい。

しかし、現在の人工的に造られた法系(逓代伝法など)や体系(公案体系など)を中心(骨格)に据えた「教団仏教」としての禅修行の仕組みのなかで実際に出家して修行(?)してみても、心の中の「問題」は「解決」しないだろう。「スタイル」に終始してしまうだろう。

それも、私なりの結論。

では、それで如何仕方ないのか?

やっぱり、違うよね。

思うに、宗教や信仰の本当の「いのち」は、本当の「救い」は、

対象や関係性の存在しない、
超絶的な謙虚さ
「ただ感謝」

生きること自体への謙虚
「不思議」への「感謝」

それと心身一体していれば、
それでよい

それが、信仰
その扉が、禅那(即今)
その鍵が、発心

瞑想坐禅作務托鉢公案などは、その方法

他の宗教とは違って
「対象」捨象自体はよいが、
方法手段ばかりが表に出て、
「発心」が欠け(或いはなおざり)、
「それ」が見えなくなっている

のでは?

(僭越極まりない私見ですが、一個の僧侶の信念でもあります)

謹賀新年無常であり無限でもあるところ、そこに慈悲心が働き出す一輪の花が咲いているそれが、仏2026年正月泰宗院住職 福田充徳(昨年末から新年にかけての世界情勢の動きが目まぐるしく、言葉が中々定まらず、新年のご挨拶が遅くなりました)The B...
15/01/2026

謹賀新年

無常であり無限でもあるところ、
そこに慈悲心が働き出す
一輪の花が咲いている
それが、仏

2026年正月
泰宗院住職 福田充徳

(昨年末から新年にかけての世界情勢の動きが目まぐるしく、言葉が中々定まらず、新年のご挨拶が遅くなりました)

The Buddha, symbolizes impermanence, infinity, and compassion
The Buddha, is another name for impermanence, infinity, and compassion
In other words, a single flower

住所

Yuzawa-Machi Minamiuonuma-gun, Niigata

ウェブサイト

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