15/08/2026
最近、鳴り物入りでリニューアルされた其季刊誌などを見ていても、つくづく思うことがあります。
禅は「スタイル」なのか?
週末だけの「禅スタイル」、禅道場に通って「修行スタイル」、それで一週間を「リセット」する。
実は、これはかつての出家前の私自身を顧みて、あるいは坐禅に来る多くの人を見ていて、指導する私たち禅僧を振り返って、感じる「姿」であります。つまり、形骸か?
禅は「スタイル」でよいのか?
私なりの結論。それもよい。
しかし、現在の人工的に造られた法系(逓代伝法など)や体系(公案体系など)を中心(骨格)に据えた「教団仏教」としての禅修行の仕組みのなかで実際に出家して修行(?)してみても、心の中の「問題」は「解決」しないだろう。「スタイル」に終始してしまうだろう。
それも、私なりの結論。
では、それで如何仕方ないのか?
やっぱり、違うよね。
思うに、宗教や信仰の本当の「いのち」は、本当の「救い」は、
対象や関係性の存在しない、
超絶的な謙虚さ
「ただ感謝」
生きること自体への謙虚
「不思議」への「感謝」
それと心身一体していれば、
それでよい
それが、信仰
その扉が、禅那(即今)
その鍵が、発心
瞑想坐禅作務托鉢公案などは、その方法
他の宗教とは違って
「対象」捨象自体はよいが、
方法手段ばかりが表に出て、
「発心」が欠け(或いはなおざり)、
「それ」が見えなくなっている
のでは?
(僭越極まりない私見ですが、一個の僧侶の信念でもあります)