日本同盟基督教団 Lilys Chapel 吉川福音教会

日本同盟基督教団 Lilys Chapel 吉川福音教会 私たちの教会は、日本同盟基督教団に所属する、プロテスタント福音派

03/06/2026

2026年6月4日(木) デボーション コリントⅠ12:1-11
1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。
イソップの寓話に「ガチョウと黄金の卵」という話があります。もっと多くの黄金が欲しかった農夫は、ガチョウを殺し、お腹から黄金を得ようとしたが、普通の卵でした。大切だったのは黄金の卵ではなく、ガチョウでした。
パウロは、12章から御霊の賜物について教えます。当時コリント教会はいろんな御霊の賜物を持っている人たちがいました。しかし、問題はそれぞれ自分の賜物を自慢し、争いとなっていたのです。それに対して、パウロはまず、賜物はその賜物を与えてくださる御霊がおられるから意味があることを教えているのです。異教徒であった彼らは御霊によって、「イエスは主です」と告白する、聖徒になったのです。そして、「みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」(7節)それが、賜物、つまり、知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言の解き明かしなどなのです。これらすべては、みなの益となるために、御霊が与えてくださる賜物です。つまり、賜物が大切ではなく、その賜物を与えてくださる御霊が大切なのです。そして、その目的です。御霊がそれぞれ違う賜物をそれぞれの聖徒に与えてくださる目的は何でしょうか。それは、教会の一致、教会の調和、教会の成長のためです。
私たちはそれぞれ賜物をいただいています。それは、自分の賜物の特別さを自慢するためではなく、賜物を与えてくださる御霊のみこころを成すことです。それは、一つなる教会に益となることです。それぞれの賜物を、教会を支えるために用いることです。
吉川福音教会/金京模牧師

03/06/2026
02/06/2026

2026年6月3日(水) デボーション コリントⅠ11:27-34
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
儀式は儀式そのものに意味があるものではありません。その儀式が持っている意味が表される時、意味があるのです。儀式の実行より、その儀式の意味の理解が先行するのです。
23-26節で、パウロは聖餐の意味を説明しました。それは、キリストがご自分のからだと血を、私たちの贖いのために与えてくださったことです。それを覚え感謝し、その贖いの恵みにふさわしく生きることを、もう一度確かめる時が聖餐の時です。では、その聖餐にあずかる時、聖徒はどんな姿勢で参加すべきでしょうか。それを27-32節で説明しています。一言で「ふさわしく」です。まず、自分を吟味することです。犯した罪があれば、まず悔い改めて心の準備することです。そして、みからだをわきまえることです。みからだとは、イエス様のからだなる教会、信仰の共同体のことです。つまり、共同体の一員としての自分の行動をわきまえることです。その実際の行動を33-34節で教えています。聖餐の時に、互いに待ち合わせることです。コリント教会の聖餐の時の問題は、それぞれ、自分が良いと思う時食べたり飲んだりすることでした(21節)。それを止めることです。互いに配慮しながら共に聖餐にあずかることです。
聖餐式を行い、教会の一員として聖餐に預かることは大変重要なことです。しかし実は、聖餐式という儀式だけに参加して終わるのではありませんか。何よりの、自分を吟味することが先です。そして、聖餐式を通して、キリストの十字架の贖いを覚え、救いの恵みに感謝することです。そして、その恵みの共同体である、教会の一員であることを感謝することです。
吉川福音教会/金京模牧師

01/06/2026

2026年6月2日(火) デボーション コリントⅠ11:17-26
17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。 
私たちが教会に集まるのはなぜでしょうか。互いに愛し合い、励まし合い、主にあって一つなるからだであることを確かめるためです。そして、そのために、聖餐式があるのです。
パウロは、その聖餐式が教会に害をもたらすものになりうることを警告します。なぜでしょうか。それは、コリント教会の聖徒たちが、聖餐の意味を忘れ、それぞれ自分の欲を満たすものにしたからです。まずは、それぞれ気の合う人たちが集まることです。一つなるキリストのからだのはずの教会に分派があり、分裂があったのです。そして、食事の時、それぞれ我先にと自分の食事をしたのです。それによって、食事の時が共に主の晩餐をする時にはならず、それぞれ自分の腹を満たす時になってしまったのです。それは結局、神の教会を軽んじ、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせるものになったのです。イエス様が、最後の晩餐において教えてくださったのは、パンを食べ、杯を飲むたびに、私たちは、主の裂かれたからだと流された血によって贖われた、主のからだなる教会であることを覚えることです。なのに、その聖餐を自分の腹を満たすものにしたのは決してほめられるにはいかないのです。
私たちは聖餐をどんな思いで参加していますか。主のからだなる教会を覚える時でしょうか。それとも、教会の儀式にすぎないものでしょうか。聖餐は、主の裂かれたからだと流された血によって、私たちの罪が贖われたこと、そして、罪赦された聖徒たちは、キリストにあって一つなるからだであることを覚える時のなのです。
吉川福音教会/金京模牧師

31/05/2026

2026年6月1日(月) デボーション コリントⅠ11:1-16
16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。 
クリスチャンが行動を決める時、いくつかの要因の中に、慣習というものがあります。つまり、この世の人々の行動です。勿論、この世の人々のように生きるべきだとは言えないが、時には誤解を招かないために慣習に従う必要もあるのです。
パウロは、11章に入って、教会の公的礼拝に関して教えます。その最初のことが、礼拝の時、女性信徒が頭にかぶり物を着ける問題です。当時、ギリシャ人女性は、外出の時、頭にかぶり物を着けました。勿論それは、彼らの慣習です。男の権威の下にいるという、男性優越的な慣習です。しかし、キリストによって自由になったことを主張する女性信徒の中で、礼拝に参加する時、当時社会の慣習を破り、かぶり物を着けない人たちがいました。その問題に対して、パウロは、社会の慣習を背景にして、さらに、聖書的な男女平等と神様の秩序の教えを基にして、どうすべきかを教えています。当時、ギリシャ社会で、かぶり物を着けない女は娼婦たちでした。そんな社会的雰囲気の中で、教会の礼拝で女性信徒がかぶり物を着けないと、人々は教会を不道徳な集団だと誤解する恐れがあるのです。そして、かぶり物を着けるか、着けないかによって、男女平等が確立されるのではありません。神様の教えに従い、みことばの権威の下で生きる時、それが実現されるのです。
聖徒は、教会の徳を高め、この世の人々に見本となる者です。私たちは何をしても自由ですが、教会の徳のために、そして、福音のために、時には自分の自由を制御し、世の慣習を守りながらこの世に合わせる必要もあります。だた、それはみことばの下でです。
吉川福音教会/金京模牧師

31/05/2026

2026 05 31 サムエルⅠ 20章35-42節 思い出に恵みが注がれるとき

29/05/2026

2026年5月30日(土) デボーション コリントⅠ10:14-22
21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
目に見えることより、その中に潜んでいることがもっと大切なのです。行動自体よりは、その行動をした理由がもっと重要です。その理由を知ることによってその行動の意味が分かるからです。
パウロは、「ですから」で始めます。これは、結論的にという意味です。今まで話しをした理由をこれから言うということです。それは、偶像礼拝を避けなさいです。というのは、キリストの血と肉に預かることを聖餐と言います。この聖餐で杯を飲み、パンを食することは、キリストと一つになることを意味します。また、イスラエルのいけにえをささげることにおいても、その肉を食べることは、そのいけにえを受けてくださる主と一つとなることです。つまり、肉や杯そのものが意味あるものではなく、その肉を食し、杯を飲むことが持っている意味が大切なのです。ということから考えるなら、もし、偶像礼拝に使われた肉を食べるとしたら、それは、その偶像に仕えることに参加することになります。さらに、偶像と一つになるということです。主の聖餐に預かる者が、またも、悪霊の食卓に預かることによって悪霊と交わることはあってはならないことなのです。だから、偶像に捧げられた肉を食べることは止めるべきなのです。
今の時代に、どんな肉を食べても良いでしょう。それより、どんな理由で共に食卓に座るかの問題です。その交わりは、その相手との一致を意味するものだからです。だから、信仰の交わりのための、礼拝後の食事は大切です。反対に、ただ自分の欲を満たすための食事は、益になりません。主に感謝をもって食するのです。
吉川福音教会/金京模牧師

28/05/2026

2026年5月29日(金) デボーション コリントⅠ 10:1-13
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
「反面教師」という言葉があります。それは、悪い見本になる人や出来事のことです。ある出来事や人の行動の悪い結果を見て、決して真似してはいけないということです。
パウロは、偶像に捧げられて肉を食べるか食べてはならないかの問題で長く話を続けています。ただ単に、食べるか食べないかの問題ではないからです。それより、この世に生きる聖徒として、どう行動すべきかのその根本的な教えをするためです。それは、神様のみこころに叶う者としてきよく生きることです。今度はそれを、出エジプトしたイスラエルの一世代が荒野で滅ばされたことを例にして教えています。彼らは紅海の奇跡を体験し、マナを食べ、岩から湧き出る水も飲みました。しかし、それでも偶像崇拝ヤ淫らな行いを捨てず、高慢な生き方で神様に背いたので、荒野ですべて滅ぼされたのです。誰一人カナンの地に入れた人はいませんでした。パウロは言います。「それが書かれたのは、・・・私たちへの教訓とするためです。」(11節)イスラエルの悪い例を見て読んで学びなさいということです。つまり、彼らのようになってはいけないことです。
神様が私たちに聖書を与えてくださったのは、神様のみこころを教えるためです。だから聖書を読み、神様の命令に従うことが大切です。しかし、聖書には悪い例も書かれています。なぜでしょうか。それは、私たちがそれを反面教師にするためです。不従順の結果がどんなものなのかを読み、悟ることです。そして、同じような失敗を繰り返さないためです。
吉川福音教会/金京模牧師

27/05/2026

2026年5月28日(木) デボーション コリントⅠ 9:19-27
25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
目的に導かれる生き方があります。それは、その目的を果たすために節制と努力と犠牲を払うことです。スポーツ選手が辛い訓練を耐えるのは、栄光のメダルを期待するからです。
パウロは、愛によって何の代価も求めず、特権もあきらめたことを話した後、さらに、自分はすべての人の奴隷となったと言います。律法の下にいるユダヤ人のために、自分も律法の下にいるようになり、律法を持たない者のためには、自分も持たない者のようになり、弱い人たちのために弱い人になりました。それは、その人々を福音のゆえに救うためです。それがパウロの使命、目的だったからです。その使命のために、すべてのことを節制します。冠を受けるために走る選手があらゆることについて節制するようにです。彼らは朽ちる冠のためにそうするが、パウロは朽ちない冠のためにそうするのです(25節)。パウロは言います。「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」(26節)はっきりした目標をもって、そのためにすべてを掛ける生き方をしていることです。その目的は、福音です。多くの人に福音を伝え、救い、自分もその福音によって救われることです。
私たちの生きる目的は何でしょうか。それによって、今何をすべきかが決まります。金持ちになることならお金を稼ぎます。権力なら、政治家になるでしょう。しかし、クリスチャンである私たちの生きる目的は福音です。福音のために、財産や権力や健康や知識など、私たちに与えられているすべてのものを用いるのです。
吉川福音教会/金京模牧師

住所

3-20-10, Chuo
Yoshikawa-shi, Saitama
3420061

電話番号

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