10/06/2026
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「神とは、信仰とは」
聖 書 マルコ福音書12章29~31節
信仰には、倫理、道徳的な点と救済(救い)的な面の両方があります。この両面はつながることもありますが、全くつながらないこともあるのを、知っていなければなりません。倫理、道徳面に関しては、「キリスト者らしく」生きるという表現があるように、自らを律し、隣人を愛し、社会に貢献すること、といえるでしょう。
しかし、信仰にはこの倫理面とは、まったく関わらない救済面があります。一般には、よい信仰者は倫理面でも優れていると思われていますが、救いという面においては、倫理とは全く異なる形があるのです。(茂洋著『信仰の散歩道』より)。
主イエスを自宅に迎えて、もてなすべく、かいがいしく働いている姉のマルタに対して、イエスの話に耳を傾けているだけのマリアがそのよい例です。イエス・キリストの教えの根本はこれです。日本人はとかく形を重んじます。行状から人を判断します。人を判定するくらいならいいですが、神の救いまで、形で判断してはいけません。
神の側の一方的な救いに与っているからこそ、キリスト者らしく人に仕え、人とのコミュニケーションもうまくいき、人からも喜ばれるという存在になりたいと思うのです。
トゥルナイゼン「なぜ信仰においてだけ救い主を見たり、所有したりすることができるのであろうか」(ルカ福音書2:30)。「卑賎においてだけ、その低さの中においてだけ救い主を見たり、所有することができるのだろうか。」われわれが、ここに、この低いところに、この深みの中に、貧しさと卑賎の中に居るゆえに、彼はここまで降りてくださったのです。卑賎=身分、地位の低く、いやしいこと。(旺文社辞書)。
(牧師 古家克務)