捜真女学校 キリスト教教育

捜真女学校 キリスト教教育 捜真女学校中学部・高等学部のキリスト教教育をご紹介するページです。

「 人間の弱さを引き受ける神 」(中2担任・宗教主任 藤本忍)聖書箇所:創世記3:1-13" 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 女は...
05/09/2026

「 人間の弱さを引き受ける神 」
(中2担任・宗教主任 藤本忍)
聖書箇所:
創世記3:1-13
" 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
 「どこにいるのか。」
 彼は答えた。
 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 アダムは答えた。
 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 主なる神は女に向かって言われた。
 「何ということをしたのか。」
 女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」”
***
 夏休みは普段より時間的余裕があったせいか、いつもは出られない電話に出る機会が何度かありました。しかも「登録されていない人からの電話」だと表示があったにも関わらず、私は出てしまいました。
「もしもし・・・」
「こちらSS?の川口(仮名)です。」
「はい・・・」
「お客様のクレジットカードが支払い限度額を越えたので、何かトラブルに巻き込まれていないか、確認のお電話です。」
私は、思い当たる節があったので、
「そうですか。それであなたは何者ですか。もう一度会社名をお願いします」と尋ねると
「SS?の川口です。」と言うので、
「そのSS?を略さずに正式名所を英語で仰ってください。」
「S・・・・S・・・・S・・・・です。」
もう覚えていないではっきりとは言えないのですが、どこにもお金や銀行、カード関係のワードがないので、
「そちらの会社は一体何をされる会社なのですか。」と聞きました。
「お客様とカード会社様の間に入ってトラブルを解決致します。」
「そうですか。」トラブルの解決と言うけれど、どこにも「solution」という言葉もないし、怪しいなと思っていると、
「それでは、ご本人確認をさせて頂きます。まずは生年月日を教えて下さい。」
「カード会社から委託されて間に入っているのですよね?私の個人情報はご存知なのでは?」聞くと、
「なので、ご本人様かどうか確認をさせて頂きたくお伺いしております。」
「そうですか・・・」とにかく個人情報は絶対伝えてはいけないと聞いていたので、少し私は考えて黙っていました。そして、一番大事なことに気付き、
「ところで、どこのクレジットカードが限度額を越えたのですか。」と聞きました。
「三〇住〇カードです。」
「そのようなカード持っていないと思いますが・・・」と言った途端、
「ガチャン、プープープー・・・」と鈍い音を立てて切れました。
「なんだ、やっぱりおかしかったんだ。良かった。騙されないで。」とホッとしました。
 また、別の日、「〇〇トランポリン」というものに関心があった私は、インスタグラムで体験予約を取って、その日が来るのを楽しみにしていました。広告には「体験1,000円、クーポンを使うと更に安くなって500円」と書かれていました。体験当日、私は直ぐにスタジオに入ってトランポリンができる格好で家を出ました。お店に着いて受付に向かいました。
「予約をした藤本です。」
「お待ちしておりました。ただ、お客様は、お申し込みはされていますが予約が完了していません。」と言われました。
「では、どうすれば良いですか。」と尋ねると、
「お支払いをお願いします。」と言われたのでお財布から千円札を出しました。すると、「現金ですと3,300円になります。カードですと1,000円です。」
「ではカードで」と言って私はお札をしまってカードを出しました。
「カード払いではなく、カード情報を登録していただくと1,000円です。」間髪入れずに「えっ?これから体験をするのに?まだ入会を決めていないのに、カード情報を教えるのですか?おかしくないですか?」と私は驚きで少々声を荒げてしまいました。
「申し訳ありません。会社の決まりでして・・・。」
「では結構です。体験しないで帰ります。」お店の人も困ったようでドアまで見送ってくれました。
 これ以上、チャペルでは言いませんが、この夏休みに詐欺まがいの案件が他にもいくつかありました。
 皆さんは、このような悪魔の囁きや誘惑、災いといった悪い出来事は、私の日ごろの行いが悪から起こったと思いますか。逆に常日頃から行いが良ければ、災いや不幸は起こらないと思いますか。違いますよね。どんな人にも不幸や災いは起こります。向こうから勝手にやってきます。勿論、自分の言動が原因で問題が起こり、責任が問われることもありますが、世の中には蛇のように悪賢く誘惑してくる人がいます。相手の弱みに付け込んで「不幸や災いが続いているのはあなたのせいだ。あなたの先祖が呪われているからだ」と言って「この壺を買いなさい。幸せになるよ。不幸が止まります。」また「この印鑑を買いなさい。ご利益あるよ。病気も治ります。」と言って近づいてくる人がいます。実際に私に壺を売って来た友人がかつていました。でも、何を買っても不幸や災いは止まったり、病気が治ったりはしません。むしろ、壺やお金より、一度止まってよく考えて、正しい情報や知識をもって知恵を活かす方が、問題に気付いて止められることがあります。
 今日、お読みした聖書にあるように、人間は神に逆らう自由も、そして従う自由も与えられています。私達は神のロボットではありません。与えられた自由でアダムとエバのように、弱さにつけこまれ蛇に騙されて、判断を間違えることもあります。だからこそ、正しい知識と知恵で正しい判断ができる人間になることは必要なことです。しかし、私達はどうしたって弱いから間違えるんです。誘惑に落ちるんです。でもたとえ間違えても、問題はそのあとです。アダムとイブのように、それを隠したり、誰かのせいにしたり、嘘を重ねたり、誤魔化したりしていくのか、それとも、神に逆らった人間でも「どこにいるのか」と呼びかけ、捜し、見出してくれる神のもとに素直に帰るのか。聖書には「鳩のように素直に、蛇のように賢く」という言葉がありますが、「素直」とはこういう時に求められるものなのかもしれません。弱さにつけこむ蛇ではなく、弱さを引き受け、その弱さと共に生きようとして下さる方の所へ帰りたいと思います。間違えた時こそ、どこに帰るのか、どこに戻るのか、そこだけは間違えない者でありたいです。
 お祈りします。
神様、どんなに正しく生きようとしても、どんなに優しくあろうとしても、
私達には限界があり、間違いを犯してしまいます。
その弱さを自身で認めつつ、あなたから離れない者として下さい。
たとえあなたから離れたとしても、立ち帰れる者として下さい。
人を騙そうとする人々に悔いる心をお与え下さい。
このお祈りを主イエス・キリストの名によって御前にお捧げ致します。 アーメン
(中学部礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
http://soshin.ac.jp/jogakko/)

自然教室礼拝 ご紹介―高校一年生】5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られました。***1日目、私たち高ーは自然教室の講演で「聲の形」という映画を見ました。「聲の形」では小学生6 年生の頃、やんちゃな...
24/08/2026

自然教室礼拝 ご紹介―高校一年生】
5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られました。
***

1日目、私たち高ーは自然教室の講演で「聲の形」という映画を見ました。「聲の形」では小学生6 年生の頃、やんちゃな男の子、石田将也のクラスに障害を持つ女の子、硝子が転校してきます。最初、将也は興味本位で硝子に関わっていましたが、次第にいじめに変わっていき、その結果、将也は周囲から孤立するようになってしまいます。それから高校生になって将也は過去の出来事を後悔していました。将也は硝子に会いに行き、過去の出来事と向き合いながら、硝子と周囲の人々、自分自身を受け入れていくというお話です。
この映画を観て、一番に思ったことは、もし、自分のクラスに硝子のような子が来た時、ありのままに気を使いすぎず、自然体で接することができるのだろうかという疑問ができました。もちろん仲良くしたいとは思うけれど、いざ、目の前がその光景になったら、一線を引いてしまうのではないか。映画の中のクラスメイトのように、次第にいじめに変わっていく様子にいつの間にか、私も加担してしまうのではないか、という不安が押し寄せてきました。
視点をクラスメイト側から硝子のような子の立場に変えて考えてみます。いじめられたくない。自分の耳のことで変にたくさん気を使われるのも嫌です。私は同じクラスメイトとして、友達として関わってほしいです。もし、私のクラスに硝子のような子がきたら、私はクラスメイトとして、友達として、気を遣いすぎず関わって行きたいです。
ここでは普段の自分はいじめに当たるようなことはしていないだろうか、改めて行動を振り返ることができました。
2 日目に印象に残ったのはキャンドルライトサービスでの出来事です。女らしさ男らしさの違和感についての話でした。多様なジェンダーがあると言うことについて話してくれました。私は身近にいたのか、というのと私たちにこんな大切なことを打ち明けてくれた勇気に驚きました。私はこのお話を聞いて自分らしく生きることの大切さを改めて考えました。打ち明けるのにも勇気がいることだったと思います。多様なジェンダーがあって、そうした方々に限らず、相手への理解がとても大切だと強く感じる出来事でした。
思い返すと私が捜真女学校に来たことも小学校での経験が大きく関わっています。小学校の時にクラスの男子と話が噛み合わずお腹を殴られてしまうことがありました。
そこで女子校への中学受験を決め、両親も私の意思を尊重してくれました。父親は私に行って欲しい学校があったようですが、私が捜真での生活に充実していることから、捜真に入学したことを受け入れてくれました。捜真に来て私は変わった部分があります。小学校の頃は否定的な考えが多かったのに捜真にきてから肯定的な考え方が増えたり、自分の意見を言えるようになったりと素直になりました。他にも友達にも話しかけられず受け身の体制でいたのに友達に自分から話しかけることができるようになりました。
私たちは知ること、受け入れること、否定をしないこと、が大切です。みんなが安心して自分らしくいられるクラス、社会を作っていくには受け入れあって、思いやり合うことが大切だということを実感した自然教室でした。
(全校礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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自然教室礼拝 ご紹介―高校一年生】5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られました。***私は友達が多くはありません。そのせいか今回の自然教室も正直気が重いものでした。しかしそこで多くのことを学び、考え...
03/08/2026

自然教室礼拝 ご紹介―高校一年生】
5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られました。

***

私は友達が多くはありません。そのせいか今回の自然教室も正直気が重いものでした。
しかしそこで多くのことを学び、考え良い機会を持ちました。そのことについてお話します。
まず、藤本先生のアニメ映画『聲の形』の解説の中で話してくださった「孤独を感じるのは一人でいるときではなく複数の人といるときです。」という言葉がとても印象に残りました。私は確かに一人の時間が好きで、基本的には一人で行動することも苦に感じません。しかしクラス内や集団行動をする中で一人になってしまうと、自分一人だけ区別されている気がして、その場にいるはずなのにいないような気持ちになってしまいます。楽しそうに話し合っているクラスメイトを眺めては、誰にも話しかけられないままただぽつんと立っている自分と比較して落ち込むこともありました。しかし講演を通して、あれはだめこれは良しというように、いちいちものごとに境界を設けてしまっている自分がいることに気づきました。自分は、自分を曲げて人に話題を合わせたりするのが苦手なため、苦しくなるよりは一人でいたほうがましであると考えて、あえて人と関わらないようにしていた部分もありました。その結果だんだんと人と話せなくなりそれゆえに孤独を感じる機会が増えていきました。だからこれからは先生の講演から学んだことを糧にして、ものごとへの線引きをしすぎないことを意識し、幅広く多くの人と関わっていけるように努力をしたいと感じています。
もう一つ、特に印象に残ったプログラムが、講演の一環として行われた粘土づくりです。藤本先生が「今のありのまま思いつくものをつくってください。」と話されたとき、なにも思い浮かばず、マイナス思考の私は自分の苦手なことを俯瞰しました。そして結果的に、自分を投影するときに一番最初に思い浮かんだ動物であるウサギを二匹つくりました。一匹は内気な私に積極的に話しかけてくれるクラスメイトです。また、友達が話してくれているときもふいに真顔になってしまう私の姿をもう一匹のウサギで表しました。今考えると、あきらかに考えすぎるほど熟考して作っていて「ありのままを作る」という今回のプログラムの趣旨とはかけ離れていたなと思います。そして、もうひとつ、この作品をグループ内の人とシェアしなくてはならないとわかったとき、打ちのめされたような気持ちになりました。というのも、私の中で人から見られるときの自分のイメージがありそれを汚したくないという気持ちを持っていて、自分が本当に悩んでいることを人前でさらけ出す勇気がなかったからです。そんな気持ちを話した私でしたが、グループの人たちは真摯に、素直に受け止めてくれました。悩みを受容ししっかりと理解しようともしてくれました。私はとてもうれしく、心がやわらかくなりました。
今回自然教室に参加したことで、私は自分が勝手に作った自分と他人とを隔てていた壁も壊せたような気がします。映画と粘土づくり、この二つのプログラムから、人と関わることの大切さを学びました。また対話をしたことにより自分が受け入れられたことを実感することができました。確かに一人の時間は好きで大事にしたいです。しかし時に自分自身としっかり向き合い、変わっていこうと努力することも必要です。私も自分を見つめたことで、人を信じて相手を受け入れることが下手であることに気づきました。そして、このように励み、今回の自然教室の主題聖句であった「光を人々に与える」人になれるように自分も変わっていきたいです。
(全校礼拝より)
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”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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「タラントンの譬え」(学事顧問 中山謙一)聖書箇所:マタイによる福音書25章14・15節“天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人に...
30/07/2026

「タラントンの譬え」
(学事顧問 中山謙一)
聖書箇所:マタイによる福音書25章14・15節
“天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。”
***  
♪ タラントンの譬えを紹介します。けっこう有名なお話で、聞いたことのある人もいらっしゃると思います。タラントンとは「賜物」「才能」という語源にもなっていて、捜真の卒業生で作家の角田光代さんに「タラント」という小説がありますが、この譬え話が作品のベースになっています。ただ私はこの譬え話に苦手な印象を持っていました。
♪ 譬え話は、旅に出るご主人が3人のしもべに大金を預けるというところから始まります。
そして旅から帰ってきたご主人は3人のしもべを呼び寄せて、留守中の業績に関して評価を下します。ここが私には怖い。預かった財産をうまく用いて増やすことができたしもべは褒められますが、できなかったしもべは叱られ追い出されます。

♪ この話は人生の過ごし方について、神様は最終的に一人ひとりに評価を下されるという譬え話だと読むことができます。
皆さんは、人生の終わりに神様の前に呼び出されて褒められる自信がありますか?
♪ 私がこの話を苦手と感じた理由はここにあります。
神様が与えてくださった自分の時間、自分の才能やポテンシャルを活かさなかったら叱られるのだとすれば、これは恐ろしい話です。

♪ しかし、ここで強調されるべきは「よくやった!」と褒めて下さるご主人様=神様なのです!
私は最近そう考えるようになりました。そしてそう考えてよいのだと思うようになりました。
♪ そう判断する理由は? 
聖書にたびたびでてくるメッセージによれば、神様は罪深い私を赦してくださり、救いに入れてくださり、神様との和解のテーブルに招いてくださいます。イエス様の十字架による救いとはそういうことだと思います。有名な聖句によれば、迷い出た情けない1匹のために99匹の健康な羊をおいても探して助けてくださるのが救い主イエス様です。

♪ 聖書のメッセージを私が正しく捉えているかどうかは自信がありません。しかし、私はこう考えることにしました。
神様から「よくやった!」と最後に褒められる、と考えて人生を送る方が圧倒的な喜びに包まれる。最後に天国の門前で最終面談があって、神様に失格宣言をされるかもしれない恐怖におびえて人生を過ごすより絶対によいはずだ!と。
 
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 (ヨハネ福音書3章16-17節)
(中学部礼拝より)
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”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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「愚かな手段によって」(高等学部教頭 鳥居敬一)聖書:コリントの信徒への手紙一 1:18-25" 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。 「わたしは知恵あ...
26/07/2026

「愚かな手段によって」
(高等学部教頭 鳥居敬一)
聖書:コリントの信徒への手紙一 1:18-25
" 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さを意味のないものにする。」
 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。"
***
 いつも自分の礼拝原稿を読み返すたびに「理屈っぽいなぁ」とつくづくと感じています。もう少し何とかならないかと考えて、多少工夫を試みるのですが、実際には理屈っぽさはほとんど変わりません。理屈っぽい性格というのが最大の原因のようです。自分がこういう性格であるにも拘わらず、私は理屈っぽい人が苦手です。理屈で説得されることに抵抗を感じてしまいます。きっと私も理屈を言って相手に同じように不快な思いをさせてしまっているのだろうと反省しています。例えば、中学の担任をしていた時には、こんなことがありました。クラスの生徒から「先生の言っていることは正しいんだけど、なんだか気持ちで納得できない」と言われ、泣かれました。理屈だけで相手の心も納得させるのは非常に難しいと実感しています。
 同じように礼拝でどれだけ理屈を並べても皆さんが神様を信じることには繋がらないことはよくわかっています。
 私がクリスチャンになった20代の頃に教会に来ていた求道中の友人からこう言われたことがあります。「鳥居君みたいな人がどうしてクリスチャンになったのか理解できない」と。理屈で物事を考える私が、理屈では説明できない神様を信じていることが理解できないと言うのです。そう言われて自分でも「確かに」と思いました。私は理屈っぽいのに加えて疑い深い性格です。例えば、普段は電話がかかってきても知らない番号からだと取らないようにしています。しかし、先日、何回も同じ携帯番号からかかってくるので、出てみることにしました。出てみると、「NTTドコモの○○です。インターネット回線のお得なプランのご案内をしています。現在インターネット回線費用はおいくらですか?」と聞かれました。そもそもNTTドコモからの連絡が携帯番号からかかってくることが怪しいので、私は「ドコモの方がなぜ携帯電話からかけてくるのですか?」と尋ねました。意味がよくわからない答えが返って来たので、続けて質問しました。「ドコモの方なら私が使っているプランや料金はそちらのほうがよくご存じのはずですよね。どうしてそれを私に聞くんですか?」これを聞いた瞬間に相手は無言で電話を切りました。
 こんな疑い深い私がどうして神様を信じるようになったのかが理解できないと友人は思ったのでしょう。
 キリスト教の教理をきちんと理解することは、信じるための土台になります。ですが、その延長線上で神様を信じることができるようにはなりません。理屈の積み重ねと信仰との間には大きなギャップがあると思っています。信じるためにはそれを飛び越える必要があるように思います。飛び越える方法は、神様と個人的に出会うという経験なのだと思います。
 聖書には、人が信仰によって具体的に行動した時に、神様がその力を現される場面が数多くあります。というより、そういう話ばかりです。
 例えば、出エジプト記には、イスラエルの民がエジプトの軍隊に追われて海の前で行き場を失ったとき、神様はモーセに「杖を海の上に差し伸べよ」と命じました。モーセがそれに従って杖を差し伸べると、海が二つに分かれ、民は乾いた地を渡ることができました。
 また、ヨシュア記にはイスラエルの民がエリコの町を攻める時に城壁が行く手を阻みました。そこで神様は7日間城壁の外側を回るよう命じました。民が従うと城壁は崩れ落ちました。
 新約聖書では、漁師のペトロたちが一晩中漁をしても何もとれなかった場面で、イエス様は沖で網を降ろすように命じました。漁師たちがその通りにすると網が破れそうになるほどの大漁でした。
 どの話も人間の理性的な判断では無意味でバカげた行動でした。しかし、だからこそ人間の知恵や力ではなく、神様の力が働いていることがはっきりと現れ、神様と個人的に出会う経験ができたのだと思います。
 私はキリスト教を信じる前は、キリスト教を批判的に見ていました。論理的に飛躍している部分があることや、理解不能なたくさんの奇跡が起こったと信じられていることなどが、限りなく疑わしいと思っていました。また、クリスチャンに対する偏見もあって、何でも神様に頼って、困難なことを自分の力で乗り越えることを放棄している他力本願な人たちだとも思っていました。
 しかし、クリスチャンになってわかったことは、自分の力は何をするにも不十分で無力に近いけれど、神様に信頼して、小さな一歩を踏み出すと、そこに神様の力が働いて大きな力に変えてくださるということです。
 捜真のスクールモットーである「神を信頼し、最善の自己に忠実であれ」は、まさにそのことを私たちに教えているのだと思います。
(高等学部礼拝より)
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”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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「神さまからのメッセージ」(事務職員 原田直人)聖書箇所:マタイによる福音書 1章23節“「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。”*** おはよう...
23/07/2026

「神さまからのメッセージ」
(事務職員 原田直人)
聖書箇所:マタイによる福音書 1章23節
“「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。”
***
 おはようございます。事務室の原田直人と申します。私は学校の施設全般の管理と、防火管理を担当しています。中学1年生の皆さんとはまだあまり顔を合わせる機会がありませんが、クラブ活動で使う機材のトラブルや、教室の設備が壊れたときの修繕などで、これからお世話になると思います。どうぞよろしくお願いします。
 さて、皆さんは普段、夢を見ますでしょうか。私もよく見ているはずなのですが、朝起きると忘れてしまうことがほとんどです。しかし、最近見た夢で、今でもはっきりと覚えているとても不思議な夢がありますので、今日はそのお話しをしたいと思います。
 私はドライブが趣味で、遠距離の運転もまったく苦になりません。その夢の中でも、私は深夜の山道を車で走っていました。霧が深く立ち込めてきたため、助手席の妻から「気をつけて運転してね」と声をかけられ、スピードを落としながら慎重に進んでいました。
 やがて霧が晴れると、どこか知らない町の外れに出ました。しかし、そこで奇妙な違和感を覚えたのです。夜中とはいえ、家々の窓の明かりだけでなく、外灯も、道路の照明も、数少ない信号機さえも、すべてが消えていました。点いているのは、自分の車のヘッドライトだけです。
 だんだんと夜が明けて周りが薄明るくなってきたので、私は車を止めて外に出てみることにしました。妻は「やめた方がいいよ・・・何だか気味が悪いから早く移動しようよ・・・」と嫌がりましたが、私にはどうしても外に出なければならない理由がありました。実は、激しい尿意を催していたのです。今振り返れば、この不思議な夢は、トイレに行きたいために見たものだったのかもしれません。
 車から降りた私は、さらなる異常に気づきました。外の世界には、音が一切なかったのです。まるでノイズキャンセリングのイヤホンをつけたときのような、完全な静寂でした。聞こえるのは自分の足音だけで、まるで時間が止まってしまったかのようでした。
 トイレが見つからず焦っていると、突然、遠くから「ガラガラガラ」と引き戸が開く音が聞こえました。続いて、話し声や足音が近づいてきます。道路の角から3人の若者がひょいと現れたその瞬間、パーッと町に色が戻りました。小鳥のさえずりや、新聞を取り出す音、シャッターを開ける音など、一気に日常の生活音が戻ってきたのです。私は普段の世界に戻ったことに驚きながらも、心からホッとしました。

 夢というのは唐突なもので、場面は一転し、私は立ち寄った旅館で妻と朝食を待ちながら談笑していました。スマートフォンで朝のニュースを見ようと画面を開いたとき、私は再び強い違和感に襲われました。画面に表示された日付が「7月20日」になっていたのです。
 実は、私たちがドライブに出発したのは夢の中では「7月3日」の深夜だったはずなのです。朝のうちに買い物を済ませて帰る予定だったのに、なんと17日間もの時間がすっぽりと消え去っていたのです。妻のスマホを見てもやはり7月20日。二人でパニックになっていると、ある重大なことに気がつきました。我が家で飼っている、大切なセキセイインコの「くぅちゃん」のことです。
 実はインコは体が小さく代謝が早いため、1日でもご飯を食べられないと命の危険に関わります。「17日間も放置してしまった、どうしよう」「くぅちゃん、ごめんね・・・」と途方に暮れながら、急いで妻の妹に電話をかけました。妹は「今まで一体どこにいたの?ずっと二人とも連絡が取れないから本当に心配したんだから!」と大激怒していましたが、続けてこう言ってくれました。「管理人さんに頼んで部屋に入らせてもらったから、くぅちゃんは大丈夫だよ」。その安心感から、私は「やった!!よかった~!」と大声を出したところで、パッと目が覚めました。そして・・・トイレに直行したのです。
 目が覚めてから、この夢にはどんな意味があるのだろうと考え、AIを使って調べてみました。すると、このような答えが返ってきました。
「この夢は、心身の激しい疲労や孤独感を抱えつつも、それをリセットして新しいスタートを切ろうとしている状態を暗示しています。結末が元に戻るポジティブな着地をしているため、決して悪い夢ではありません」
夢の要素を細かく分析すると、「道に迷う」のは人生の計画に迷いがある状態。「音も光もない町」は孤独と疲労。「人の気配で日常に戻る」のは他者とのつながりによる孤独からの脱却。そして「17日」という数字は、夢占いにおいて「目標の達成」や「リスタート、終わりの始まり」を意味するそうです。
 ところで、皆さんは「夢のお告げ」と聞いて、聖書の中の誰を思い浮かべるでしょうか。マリアの受胎告知を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、マリアは天使から直接告げられているため、実は違います。聖書の中で、夢を通じて何度も神さまからメッセージを受け取ったのは、イエスの父であるヨセフでした。
 新約聖書の『マタイによる福音書』には、ヨセフの夢に主の天使が何度も現れ、具体的な指示を与える場面が書かれています。
 最初は、婚約者マリアの妊娠を知って苦悩するヨセフの夢に現れ、「恐れずにマリアを妻に迎えなさい。生まれる子は聖霊によるものです」と告げます。次は、ヘロデ王の迫害から逃れるために、「起きて、幼子と母を連れてエジプトへ逃げなさい」と警告します。そしてヘロデ王が亡くなった後には、再び夢で「起きてイスラエルの地に戻りなさい」と告げられ、家族を守り抜くことができたのです。
 ヨセフの人生は、まさに予想外の連続でした。せっかく生活が落ち着いたと思ったら、また新しい場所へ移動しなければならない。自分の計画や予定がことごとく崩され、とても不安で、逃げ出したい気持ちだったはずです。しかしヨセフの素晴らしいところは、どれほど厳しい状況であっても、神さまからのメッセージにしっかりと耳を傾け、その導きを信頼して一歩を踏み出し続けたことです。
 皆さんも、これからの学校生活の中で、自分の力ではどうにもできない問題や、予想外のトラブルに直面することがあるかもしれません。「もうダメだ」と心を閉ざしたくなる瞬間もあるかもしれません。
しかし、そんなときこそ、ヨセフのように一呼吸置いて、周りの言葉に耳を澄ませてみてください。聖書の言葉、先生や家族からのアドバイス、友達の励まし。それらは、形を変えて皆さんに届けられた「神さまからのメッセージ」かもしれません。そして、神さまと直接会話のである「お祈り」も是非してみてください。
 神さまは、皆さんが困難の中にいるとき、必ず次のステップを示すヒントを届けてくれます。一人で抱え込まず、差し伸べられた手や言葉を信頼して、前を向いて進んでいきましょう。
 実は、今回私がこの夢を見た理由を自分なりに考えた結果、ひとつの結論に達しました。今日、この場で皆さんに何をお話しすべきかが決められず行き詰って悩んでいました。そんな私に神さまが「この夢を題材にして、生徒の皆さんにメッセージを伝えなさい」と、ヒントを与えてくださったのではないかと思っています。
 期末試験が始まりました。中学生の皆さんは明日からですよね。不安もあるかと思いますが、精一杯頑張ってください。そして、その先にある楽しい夏休みを笑顔で迎えましょう。
(中学部礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
http://soshin.ac.jp/jogakko/)

【自然教室礼拝 ご紹介―高校三年生】5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られています。(以下、個人情報等の観点から編集を加えていますが、生徒自身が作り、語った内容のオリジナルです。)ーーー聖書箇所:ヨ...
22/07/2026

【自然教室礼拝 ご紹介―高校三年生】
5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られています。
(以下、個人情報等の観点から編集を加えていますが、生徒自身が作り、語った内容のオリジナルです。)
ーーー
聖書箇所:ヨハネによる福音書 8:31-32
”イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」”
***
気づけば、林の向こうがもう見えないほど暗くなっていました。

昼間はあんなに賑やかだったのに、
夜になると、自然教室の空気は急に静かになり
笑い声のあとに残る沈黙や、
窓の外の風の音が、
昼間よりもずっと近く感じられました。

その夜、行われたのが、
パネルディスカッションでした。

ほとんど話したことのない人たち同士が集められ、
いくつかのテーマについて語り合う時間。

最初は、
どこか探り合うような静けさがありました。

けれど、一人がぽつりと話し始めた瞬間、
空気が変わったのです。

家族のこと。
自分でも触れたくなかったコンプレックス。
ずっと「大丈夫なふり」をしていたこと。

いつもなら胸の奥にしまっておくようなことが、
その夜だけは、
不思議なくらい自然に語られていきました。

私は奉仕委員として、その場の進行をしていました。
けれど途中から、
進行しているという感覚は消えていきました。

ただ、人の心が開かれていく瞬間に、
立ち会っている感覚でした。

その時、私は配られたプリントに書いてあった
ある文章を思い出しました。

「人間というものは、
どうしても人に知らせることのできない
心の一隅を持っております。」
日本の哲学者である、
森有正さんの言葉です。

私たちは普段、
うまく生きようとします。

明るく。
ちゃんとして。
そして、平気そうに。

けれど本当は、
誰にも見せられない部分を抱えています。

そして現代は、
その「見せない技術」が、とても発達しています。

SNS を開けば、
みんな幸せそうに見えます。

綺麗で、
充実していて、
迷いがなさそうに見えるのです。

でも、本当に人を深く結びつけるのは、
完成された姿ではなく、
むしろ、その奥にある弱さなのだと思います。

森さんの文章には続きがあります。

「人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない」

自然教室のパネルディスカッションでは、
一人一人が勇気を出して、
自分の弱さや心の内を言葉にしました。

すると不思議なことに、
その瞬間から、
その人は「弱く見える」のではなく、
むしろ、とても強く、美しく見えました。

私はそこに、
この学校で6年間捜し求めてきた大切ななにかを見た気がしました。

それは、
正しさを競うことではなく、
「弱さを抱えたまま、
それでも人と向き合おうとすること」
です。

聖書には、
「真理はあなたたちを自由にする」
という言葉があります。

私は以前、
この「真理」を、
正しい知識のことだと思っていました。

でも今は少し違います。

自分をごまかさないこと。
無理に強く見せないこと。
「苦しい」と思う自分を、
ちゃんと認めること。
弱さも、迷いも、傷も含めて、

「これが私です」と差し出せること。

それもまた、
真理なのではないでしょうか。

そして初日に触れた
「神が植えてくださったところで咲きなさい」 Bloom where God has planted you
という詩。

私はこの言葉を、
以前は少し厳しい言葉だと思っていました。

「与えられた場所で頑張りなさい」
と淡々と言われているような気がするのです。

でも、その続きを読んで、
見え方が変わりました。

「どうしても咲けない時は、
下へ下へ根を伸ばす つらい日々も、笑える日につながっているのです」

私は、この文に救われる気がします。

今の時代は、
表面的な事ばかりが見られます。

結果や才能。
華やかさ。
また、目に見える成功。

見えない場所で悩んでいる時間や、
踏ん張っている時間は、
価値がないように思えてしまうのです。

ですが、本当に人を支えているのは、見えない部分ではないでしょうか。

本当に大切なものは、
案外、見えない場所にあるのです。

誰にも言えずに耐えた時間。
また、一人で悩みつづけた時間。
そして、必死に崩れないようにしていた自分の気持ち。

それは全部、
礎になっていくのだと思います。

自然教室で、
誰かの話を黙って聞いていたあの時間も、
きっとそうです。

私は、あの空間が忘れられません。

人が人を簡単に決めつけず、
「聞く」ということだけに集中していた空気でした。

最後に、
「あしあと」という文章を紹介します。

人生で最も苦しい時、
砂浜には一つの足跡しか残っていなかった。

主人公が「なぜ見捨てたのですか」
と神さまに問いかけると、

神さまは、
「あの時、私はあなたを背負って歩いていた」
と答えた。
私は、この言葉を、
宗教的な意味だけで受け取ってはいません。

人は、
自分一人で立っているようで、
本当は、
たくさんの支えの上に生きています。

誰かの言葉やまなざし。
ときに沈黙。
「大丈夫?」の一言。

自然教室で交わされたものも、
きっとそうでした。

あの暗闇の中で、
私たちは初めて、
互いの「見えない部分」を、人間の奥底にある何かを見つめていたのかもしれません。

人は、
完璧だから支え合えるのではなく、
弱い部分を持っているからこそ、
誰かに寄り添えるのではないでしょうか。

私は、
あの夜の灯りを、
これからも忘れないと思います。
(全校礼拝より)
***
――捜真では生徒自身が自分の思いや体験を語る生徒礼拝が年間を通じて守られています。”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
http://soshin.ac.jp/jogakko/)

【自然教室礼拝 ご紹介―高校三年生】5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られています。(以下、個人情報等の観点から編集を加えていますが、生徒自身が作り、語った内容のオリジナルです。)ーーー聖書箇所:詩...
19/07/2026

【自然教室礼拝 ご紹介―高校三年生】
5月の自然教室を終え、そこでの思いを共にする自然教室報告礼拝が生徒によって守られています。
(以下、個人情報等の観点から編集を加えていますが、生徒自身が作り、語った内容のオリジナルです。)
ーーー
聖書箇所:詩篇 23:6
”命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。”
***
 5歳の時、神様を信じると誓ってから、12年間キリスト教を信仰してきました。クリスチャンホームに生まれ、毎週日曜日に教会に通い、ご飯を食べる前にはお祈りをする。それが私にとっての当たり前でした。小学校に入るまでは。
 日本にいるキリスト教徒の割合は1%。日本でキリスト教を信仰することは、私は常にマイノリティであるということを突き付けられます。小学校に入ってから他人と自分の違いを強く意識するようになりました。毎週日曜日に教会に通う人は少ないですし、外食の時、食前にお祈りをすると周りの人からぎょっとされることもあります。
日本で宗教を信仰することはなかなか「普通」のことではありません。毎週礼拝に行くのは「普通」なのか。困ったとき、悩んだときにお祈りをするのは「普通」なのか。学校の礼拝を聞く、たったそのことでも葛藤しました。私の行動は「普通」なのか。神様を信じたい。でもそれを大っぴらにするのは怖い。自分の信仰についてずっと悩み続けています。
 私の人生の隣には常にキリスト教がありました。キリスト教は当たり前にあるものであり、そしてそれにずっと苦しんで悩んできました。私は別に特別信仰深いわけでも、聖書について詳しく知っているわけでもないです。それでも、神様の前で、イエス様の復活を信じると誓いました。結局私は、自分がクリスチャンであることを他人から認められないのが怖いのです。クリスチャンであることで、他人から「普通」ではない人だと思われること、それが本当に怖いのです。
 他人に自分の中の一番弱いところをさらすのはきっと誰でも怖いです。それは、そんな弱い自分、「普通」じゃない自分を他人が受け止めてくれるとは限らないからだと思います。でも、友人たちは、私を受け止めてくれました。それも何事もなく。私が「クリスチャンである」と言ったことが、まるで「今日の夕飯はハンバーグだよ」と言われているかのように、クリスチャンである私をさらっと受け止めてくれました。
 私は、他人を自分の尺度で測っていました。どうせ理解されないと諦めていました。でも人はみんな悩んでいますし、考えています。そのことに気が付かせてくれたのは自然教室の Listen&Talk の時間でした。同級生のみんなにそれぞれ抱えているもの、悩んでいるもの、考えているものがあります。私は、もっと他人を信じてみるべきだったと痛感しました。
自然教室報告礼拝を担当しないかとクラスの奉仕委員の方に聞かれて、「一日考えさせてほしい」と答えました。それは、もしお話をするなら、自然教室の主題「信仰と人生」について話したい。しかし、自分の信仰について話すことは私にとって本当に怖いことでした。そんな時に思い出したのは自然教室、最後の講演の内山先生の話でした。先生は講演で、「日本でクリスチャンとして生きることは思われている以上に辛い」と話されていました。それを聞いたときに、私は救われたような気がしました。私以外にも、私のような悩みを持っている人がいる、それだけで少し肩が軽くなりました。先生は胸の内を明かしてくださった。それならば、私もそれに応える義務があると思いました。そして、何より私を受け止めてくれた友人に感謝を伝えたいと思いました。
 これから私は社会に出て、たくさんの人に出会います。その時に、人はみんなだれしも
悩みをもっていて、葛藤しているということ。そのことを忘れずにいたいです。私は、きっとこれからも自分がクリスチャンであることに悩み続けます。自分の信仰について悩み続けると思います。でも、それを受け止めてくれる人が私にはいます。そのことに常に感謝を忘れず、そして、私がしてもらったように、ほかの人のことも私が受け止められるようになりたいと、そう思わせてくれた高3の自然教室でした。
(全校礼拝より)
***
――捜真では生徒自身が自分の思いや体験を語る生徒礼拝が年間を通じて守られています。”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
http://soshin.ac.jp/jogakko/)

『likeがダメでもloveならば。』(中3副担任 荻原舞生)聖書箇所:マタイによる福音書5章44節「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」詩編121編4節「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことも...
16/07/2026

『likeがダメでもloveならば。』
(中3副担任 荻原舞生)
聖書箇所:
マタイによる福音書5章44節
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
詩編121編4節
「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」
***
 さて、中学3年生の皆さんは私と面識がありますね、ただ中学1,2年生の皆さんはあまりお話したことがないので、「だれ?」と思っているかもしれません。改めて。英語科で中学3年生の副担任をしています、荻原舞生と申します。
4月に捜真に来たばかりの私がなぜ、ここに立っているかというと、それはずばり、私がクリスチャンだからです。私はクリスチャン家庭で生まれ育ちました。父も母も兄も妹もみなクリスチャンです。もっと言えば母方の祖父母は兵庫県で牧師として働いています。
 そんなクリスチャンだらけの環境で育ってきた私ですが、実は捜真のような、いわゆる「キリスト教学校」の経験はあまりありません。中学校までは公立、高校は私立学校でしたが無宗教だったので、普段の生活の中で礼拝をささげるという習慣はありませんでした。強いて言えば、私の出身大学がキリスト教だったため、そこでのキリスト教学校の経験はあります。しかし、大学はあらゆる点で「自由」なので、捜真のように毎日チャペルや教室で賛美とお祈りをする時間を「必ずもつ」ということはありませんでした。こんなかんじのチャペル(ガウチャー記念礼拝堂というのですが)で毎朝10時半から礼拝をささげているので、神様の前に静まる「とき」を持ちたい人は入ってね~というスタイルなのです。
 今日は、そんな大学で出会ったある友人とのエピソードを少しシェアしたいと思います。その前に一つ質問。みなさんは、自分のことを傷つけたり攻撃してきたりする人を「好き」になることはできますか?
 私は大学のスペイン語の授業で、とある女の子と出会いました。ここではその子のことをAさんといいますね。Aさんは背が高くて顔立ちもはっきりしている子です。なんとなく話しかけてみたところ、ディズニーや海外文化が好きといった共通の趣味が見つかり、すぐに気の合う友達になりました。Aさんは、歌が好きだったので聖歌隊に入っていました。ひょんなことから、私はクリスチャンなんだーとAさんに話す機会があり、教会や聖書のことを話すうちに彼女は、私の教会にきて、のちにクリスチャンになりました(バプテスマを受ける決心をしたのです)そんな私にとってかけがえのない大切な友人ですが、1つ難しいところがあります。それは、感情の起伏が激しいことです。つまり、ジェットコースターのような情緒が不安定になるときがあります。おととしの冬。Aさんは冬になると憂鬱な気持ちばかりになる人です。つまりネガティブ発言が多くなります。
 そんなある日、Aさんはジェットコースターの下の憂鬱状態のとき、私に罵倒を浴びせたことがありました。「なんで〇〇してくれないの??私のこと大事じゃないの?!私なんて邪魔でしょ、どう思う?」などと言われることが増え、そんなAさんとの関係で私は1か月ほど毎日悩んでいました。もうこの子と仲良くなれないかも..こんな責めて来たり、攻撃的な言葉を言ってくるなんてせっかく素敵な友達ができたと思ったのに、どうしよう..そう毎日悩んでいました。私の気分もどんよりしていたときのこと。
 「likeがダメでも、loveならば。」というメッセージで大学礼拝が行われていました。その礼拝では、今日最初にお読みした聖書箇所を用いた話をしていました。私は礼拝のメッセージから、今悩んでいることを解決策が得られるかもしれないという生半可な想いでチャペルに入りました。
 すると、牧師先生は、こう言っていました。
「アメリカのある偉人のスピーチを引用し“I'm happy because Jesus did not say like your enemies, but love your enemies.”『イエス様は、敵を好きになれといったのではなく、愛しなさいと言い残したことがうれしい』と語りました。likeは人間の内側から出る『限界のある感情』です。傷つける人を好きになることは不可能です。しかしloveは違います。loveは自分の内側から作りだされる感情ではありません。神様から頂いた感情なのです。つまり、みなさんから『敵』だとみえる相手を、無理にlikeする必要はないのです。loveつまり、『敵』も神様の子どもであって、少なくとも神様から愛されているんだということを認める。これが、「愛する」なんです。」
 これを聞いて私は、ほっとしました。Aさんのことを好きにならなきゃとずっと思っていたからです。でも、聖書はこう語ります。無理に好きにならなくてもいい、嫌いな苦手な相手を「好き」になることは不可能に近いことです。私は無理です。しかしloveとは、まずその人の存在を認めることです。
 神様がわたしたちの罪をゆるすために、イエス様の命を与えてくださった、この究極の愛を知っているキリスト教学校に通う皆さん。ぜひ、likeがダメでもlove、つまり相手も(この世界を造られた)神様から愛されている、神様の子なんだなということを認めましょう。
 心が疲弊しているとき、それは神様があなたのために働いておられることに気づくサインです。自分でどうにかしなくてよいのです、もし今憎しみや嫌な感情を抱いている相手がいるのであれば、ただ一つ。あなたは「無理に」その人を「好き」にならなくていい。
同じクラスだから、家族だから、せっかく友達になったから、「〇〇さんのこと好きにならなきゃ」と自分のことを責める必要はありません。あの「敵」も神様からは愛されている存在なんだと認める。これが聖書のいう「愛する」の第一歩です。
 なぜなら、皆さん一人一人のことを愛している、気にかけている神様は、決して眠ることのないお方ですから。神様から既に頂いている「愛」、likeではなくloveをもっていきましょう。最後に聖書箇所をもう一度お読みします。「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」
(中学部礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
http://soshin.ac.jp/jogakko/)

一学期の中学部礼拝では、日本キリスト改革派 横浜中央教会の大宮季三先生にお越しいただき、御言葉を取り次いでいただきました。こちらではその際の説教をご紹介いたします。聖書箇所:ルカによる福音書15:1-7 “「見失った羊」のたとえ 徴税人や罪...
10/07/2026

一学期の中学部礼拝では、日本キリスト改革派 横浜中央教会の大宮季三先生にお越しいただき、御言葉を取り次いでいただきました。こちらではその際の説教をご紹介いたします。
聖書箇所:ルカによる福音書15:1-7 
“「見失った羊」のたとえ
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」”
***
「分かる 分けられる」 
 おはようございます。皆さんの中で多くの人は何かしら自分の「推し」があるんじゃないかと思います。アイドル、アニメ、Youtuber、スポーツチーム。その推しについて話す時、お父さんとかお母さんとかあんまり知らない人に言われたらショックを受ける言葉がいくつかあると思うんです。その一つが「これ、全員一緒に見える」。「違いがわからん」。
こっちからすれば信じられない一言。「いやいや、全っ然違うやん!」と。顔も、声も、髪型も違う。立ち姿も違うし。と。ファンには一瞬で見分けがつくのに、興味のない人には、同じに見えてしまう。
 子どもの頃、大晦日の紅白歌合戦を見ていたら、母親が「若い子は皆、同じ顔に見える」って言ってたんです。当時は「どこがやねん」と思っていました。ところが気づけば最近、どうやら僕も「同じ顔に見える」側になってきている。

 その一方で、いまだに見分けられるものもあります。僕は子どもの頃からずっと阪神タイガースのファンなんですが、阪神の選手なら打席の構えで大体分かる。でも、野球に興味のない人からすれば、全員「同じユニフォームを着たおっちゃんたち」。

 人は、大切に思っているものは、ちゃんと「分けて」見えている。逆にそんなに関心のないものはまとめて一緒に見えてしまう。日本語というのは面白いもので、「分かった!」の「分かる」は、もともと「分ける」と言葉から来ているそうです。ほかのものと分けることで、はじめて分かる。

 皆さんは、ふだん「見分ける側」であると同時に、「同じに見られる側」でもあると思うんです。同じ制服に袖を通し「あ、捜真の子」と見られる。世間からは、まとめて「女子中学生」とくくられる。そうやって過ごしている時に、ふと、「自分は所詮、大勢の中の一人だ」。誰も私のことなんて、分けては見ていない、と。

 そんな皆さんに、今日は、イエス様が話されたあるたとえ話を紹介したいんです。羊飼いと羊の話です。羊って全員同じ顔に見えませんか。羊には失礼ですけれど、白くて、もこもこで、百匹いたら百匹とも同じに見える。「ひとくくり」の代表のような動物です。
 イエス様は、こう話されました。百匹の羊を飼う羊飼いがいて、その一匹がいなくなった。どうするか。僕だったら、まず気づかない自信があります。九十九匹もいれば、「全員おるな、よし」で終わってしまう。ところがこの羊飼いは気づくんです。一匹一匹を分けて見ているから、「あの子がいない」と分かる。そして、九十九匹を野原に残してでも、見失った一匹を、見つけ出すまで捜し回る。九十九匹もいれば九十九点、合格では?とも思うのですが、この羊飼いにとって、羊は「百匹」という数字ではない。一匹、また一匹なんです。
 見つけたら、どうするか。聖書には、こう書いてあります。喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人たちを呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言う。ご近所を集めて、ちょっとしたパーティです。たった一匹のために、ちょっと大げさじゃないか、というくらいの喜びよう。けれどもイエス様は、「神様とは、こういうお方だ」と言われるのです。

 皆さんが毎朝開く「聖書」の、「聖」という字の話を少しだけ。実は聖書のもとの言葉で、「聖」とは、「分ける」「特別に取り分ける」という意味なんです。「聖書」という本の名前そのものに、「分ける」が入っている。聖書とは、人間を「人類」とか「九十九匹」とか、ひとくくりにはしないで、一人ひとりを分けて、大切に見ておられる神様を伝える本。そういう本なんです。

 皆さんは、ほかの誰とも違う。一人ひとりに、それぞれの値打ちがある。同じ制服を着ているから同じ、ではない。残念ながら僕もそうなんです。こうしてたまに来て、前で話しているだけなので、皆さんの顔と名前、横浜中央教会に来てくれたことがある人以外はわかりません。
 でも、神様は違うんです。私たちの目には羊が全部同じに見えても、羊飼いには一匹一匹が分かるように、神様は、皆さん一人ひとりを大切に思っておられるからはっきりと分かる。このたとえを話されたイエス様ご自身が、いなくなった一匹を捜しに来てくださった羊飼いでした。一匹のために、十字架で、命まで差し出してくださった。皆さんが「しょせん百匹のうちの一匹」ではないんだということを、命をかけて示してくださったお方です。
 誰も自分を見ていない。大勢の中の一人、そう感じる時に思い出してほしい。自分はいなくなれば捜される一人なんだ。見つかればパーティーが開かれる一人なんだ。聖書はそのことを私たちに語っています。お祈りしましょう。


祈祷
 天の父なる神様。 
私たちは大勢の中の一人として過ごし、「誰も自分のことを見ていない」と感じる日もあります。けれどもあなたは、百匹の羊の一匹一匹を知る羊飼いのように、私たちを一人ひとり分けて、大切に見ていてくださるお方です。ここにいる一人ひとりが、自分は捜してまで見つけ出される一人なのだと、心に受け取ることができますように。
良い羊飼いであるイエス様が共にいてください。この祈りをイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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