02/06/2026
「預かった時間の使い方」
(高等学部教頭 鳥居敬一)
聖書:マタイによる福音書25:14-30
"「タラントン」のたとえ
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」"
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この話に出てくる「タラントン」は「タレント(才能)」の語源になっている言葉ですが、当時はお金の単位として使われていた言葉です。それもかなりの大金を表す単位で、今の日本円に換算すると1タラントンは約4,200万円〜6,000万円ほどの価値に相当します。
たとえ話の解釈としては、この「タラントン」は神様から与えられたものを指していて、能力・チャンス・時間・使命などが考えられます。今回はタラントンを時間として考えてみたいと思います。
人が神様から与えられた命の時間はまちまちで、そもそも公平でないように感じらます。また、長く生きたいと望んでも 短い人生しか生きられない人もいれば、長生きできても希望を失って早く終わらせたいと考える人もいるので、人生の長さの捉え方は人それぞれです。必ずしも長ければ幸せとも言えないのかもしれません。
ここで先ほど前提とした「神から与えられた」といことを考え直したいと思います。聖書には主人はタラントンを「預けた」と書かれています。つまり、所有権は主人にあるままで、僕のものではありません。僕は主人の金を預かっているだけです。私たちの命の時間に置き換えると、この世での生涯は神から預けられたものということになります。私たちは自分の命を自分のもののように思っていますが、自分で努力して命を得た人は誰もいません。気がついた時にはこの世に誕生していました。「自分の努力で命を得た」という人は一人もいません。「お母さんのお腹の中で受精する瞬間が一番苦労しました」とか「きちんと細胞分裂するのは大変でした」という人はいません。私たちは自分がどこから来たのかわかりませんが、聖書によると神様から肉体を預けられて、一時期管理するように託されていることになります。
預かる時間の長さや預かった体の出来栄え、この世で過ごす環境の違いなど、どれも人それぞれで異なっています。これを不公平と感じる人もいるかもしれません。
私は幼い時にいくつかのコンプレックスを持っていました。一つ目は身長が低いこと。学校では背の順になると常に一番前か二番目でした。二つ目が出っ歯。幼児期まで指しゃぶりをしていたせいだと親から言われていましたが、母の歯とそっくりだったので子供心に「遺伝でしょ」と思っていました。三つ目が視力。右目と左目の見え方が全く違います。左目では普通に見えますが、右目では左右に並んでいるものが重なっているように見えて、左右の位置関係がよくわかりません。四つ目が運動が苦手なこと。目の見え方も影響してか特に球技が苦手でした。走るのも遅くて、小学校の徒競走ではいつもビリか、良くてもビリから2番目でした。
神様から預かった体には差があるので、これを不公平だと感じてしまうのは仕方がないかもしれません。しかし、そもそも体は自分のものではないので、私たちがケチをつける筋合いはありません。逆に均一で公平に預かれば、全ての人が幸せを感じるのかと言えば、人間の欲には底がないので、不満の種はなくならないように思います。結局はその人の捉え方次第で、幸せにも不幸せにも感じることができるのだと思います。私は体育の教師になりましたが、私の抱えていた「運動が苦手」というコンプレックスは、今考えれば体育教師としてもの凄く役に立つ特長でした。一流のアスリートにはなれませんが、体育を教える上では、苦手な人の気持ちを感じて、できるように導くことにどれだけ役に立っているかわかりません。
私たちは預かっているものを他の人と比較して幸不幸を感じてしまいますが、このたとえ話の結末のように、タラントンを預けた主人、つまり神様に対する信頼があるかどうかで、幸せを感じるかどうかも変わるのだと思います。
神様に託されたこの世での時間を大切に管理し、どのように活かしていくか、そして、それをお返しする時に「忠実な良い僕だ。よくやった。」と言っていただくことを目指して生きていきたいと思います。
(全校礼拝より)
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”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
(http://soshin.ac.jp/jogakko/)