捜真女学校 キリスト教教育

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「預かった時間の使い方」(高等学部教頭 鳥居敬一)聖書:マタイによる福音書25:14-30"「タラントン」のたとえ 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 それぞれの力に応じて...
02/06/2026

「預かった時間の使い方」
(高等学部教頭 鳥居敬一)
聖書:マタイによる福音書25:14-30
"「タラントン」のたとえ
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」"
***
 この話に出てくる「タラントン」は「タレント(才能)」の語源になっている言葉ですが、当時はお金の単位として使われていた言葉です。それもかなりの大金を表す単位で、今の日本円に換算すると1タラントンは約4,200万円〜6,000万円ほどの価値に相当します。
 たとえ話の解釈としては、この「タラントン」は神様から与えられたものを指していて、能力・チャンス・時間・使命などが考えられます。今回はタラントンを時間として考えてみたいと思います。
 人が神様から与えられた命の時間はまちまちで、そもそも公平でないように感じらます。また、長く生きたいと望んでも 短い人生しか生きられない人もいれば、長生きできても希望を失って早く終わらせたいと考える人もいるので、人生の長さの捉え方は人それぞれです。必ずしも長ければ幸せとも言えないのかもしれません。
 ここで先ほど前提とした「神から与えられた」といことを考え直したいと思います。聖書には主人はタラントンを「預けた」と書かれています。つまり、所有権は主人にあるままで、僕のものではありません。僕は主人の金を預かっているだけです。私たちの命の時間に置き換えると、この世での生涯は神から預けられたものということになります。私たちは自分の命を自分のもののように思っていますが、自分で努力して命を得た人は誰もいません。気がついた時にはこの世に誕生していました。「自分の努力で命を得た」という人は一人もいません。「お母さんのお腹の中で受精する瞬間が一番苦労しました」とか「きちんと細胞分裂するのは大変でした」という人はいません。私たちは自分がどこから来たのかわかりませんが、聖書によると神様から肉体を預けられて、一時期管理するように託されていることになります。
 預かる時間の長さや預かった体の出来栄え、この世で過ごす環境の違いなど、どれも人それぞれで異なっています。これを不公平と感じる人もいるかもしれません。
 私は幼い時にいくつかのコンプレックスを持っていました。一つ目は身長が低いこと。学校では背の順になると常に一番前か二番目でした。二つ目が出っ歯。幼児期まで指しゃぶりをしていたせいだと親から言われていましたが、母の歯とそっくりだったので子供心に「遺伝でしょ」と思っていました。三つ目が視力。右目と左目の見え方が全く違います。左目では普通に見えますが、右目では左右に並んでいるものが重なっているように見えて、左右の位置関係がよくわかりません。四つ目が運動が苦手なこと。目の見え方も影響してか特に球技が苦手でした。走るのも遅くて、小学校の徒競走ではいつもビリか、良くてもビリから2番目でした。
 神様から預かった体には差があるので、これを不公平だと感じてしまうのは仕方がないかもしれません。しかし、そもそも体は自分のものではないので、私たちがケチをつける筋合いはありません。逆に均一で公平に預かれば、全ての人が幸せを感じるのかと言えば、人間の欲には底がないので、不満の種はなくならないように思います。結局はその人の捉え方次第で、幸せにも不幸せにも感じることができるのだと思います。私は体育の教師になりましたが、私の抱えていた「運動が苦手」というコンプレックスは、今考えれば体育教師としてもの凄く役に立つ特長でした。一流のアスリートにはなれませんが、体育を教える上では、苦手な人の気持ちを感じて、できるように導くことにどれだけ役に立っているかわかりません。
 私たちは預かっているものを他の人と比較して幸不幸を感じてしまいますが、このたとえ話の結末のように、タラントンを預けた主人、つまり神様に対する信頼があるかどうかで、幸せを感じるかどうかも変わるのだと思います。
 神様に託されたこの世での時間を大切に管理し、どのように活かしていくか、そして、それをお返しする時に「忠実な良い僕だ。よくやった。」と言っていただくことを目指して生きていきたいと思います。
(全校礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
http://soshin.ac.jp/jogakko/)

「真理を行う者は光の方に来る~星の光のように~」(高二副担任 安 杏菜)聖書:ヨハネによる福音書 3 :16-21”神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御...
30/05/2026

「真理を行う者は光の方に来る~星の光のように~」
(高二副担任 安 杏菜)
聖書:ヨハネによる福音書 3 :16-21
”神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。”
***
 本日は私と神様との出会いについて少しお話しさせていただきたいと思います。
 ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、私には双子の姉と、二人の妹がいます。私たちは4人とも、横浜の あるカトリック幼稚園に通っていました。その幼稚園では園長先生、保育を担当する先生たちのほとんどが、カトリックのシスターの先生たちでした。シスターの先生たちは日本人の先生たちですが、ライモンダ先生、ベルナデッタ先生、カミルラ先生といったように、洗礼名で呼ばれています。園庭にはマリア様の美しい像があり、朝露に濡れたマリア様の足元には小さなカタツムリたちがキラキラ輝き、たくさんいたことを今でも覚えています。当時の私の家族は、クリスチャンではありませんでした。母に、なぜカトリック幼稚園を選んだの?と大きくなってから尋ねたことがあります。母は神様がいつも見てくださっていると私たちが感じることができたならば、きっとより良い方向を目指して歩んでいけることができるだろうと思ったからということでした。その幼稚園で今でも印象的に残っていることは、当時とても美しく、また20歳くらいだったでしょうか、若いベルナデッタ先生という先生がいて、幼少期小さいながらに、この美しいベルナデッタ先生は神様と結婚したんだと思ったことや、シスターの先生たちが手作りで用意した、スパンコールのついた美しい衣装を身にまといながら春の発表会で踊ったこと、クリスマスのページェントでは双子の姉も私もいつも天使役だったことなどです。もともと家にあまりいない父でしたが、私が小学生の頃両親は離婚をします。母は離婚を機に、この幼稚園の隣の教会で洗礼を受けます。母が洗礼を受けるにあたって、神父様が聖書を教えに家に出向いてくださり、小学生時代わからないながらにも、その聖書の言葉に耳を傾けていたことを覚えています。ここでは語り尽くせませんが、この幼稚園と教会とシスターたちに神父様に、素晴らしいご縁をたくさん感じ、また大変お世話になりました。
 日曜日の礼拝、クリスマスの礼拝、大晦日の深夜の礼拝など、カトリックの礼拝に時々参加していましたが、ある時プロテスタントの教会へ足を運ぶ機会がありました。まだ中学生の頃でしたが、同世代の友人も多くいて、この教会学校へ双子の姉と次第に通うようになります。日曜日の教会学校の礼拝、そして分級と呼ばれる中高生クラスでの学び、教会学校での奏楽など段々とこのプロテスタント教会での自分の居場所を私は感じはじめます。大学に入ってからは、教会学校のスタッフなども経験しました。私がパイプオルガンに出会ったのも、この教会です。気が付けば教会生活は短いものではなくなっておりましたが、私がこれまで接してきたカトリック教会、プロテスタント教会との間で、自分がどちらかを選択する理由はなんであるのかという疑問がずっと心にありました。また自分が教会につながっているのは、神様につながっているということよりも、パイプオルガンにつながっていたいと思うがためなのではないかと自問自答することもしばしばありました。
 それぞれにたくさんの素晴らしいご縁の中で、神様に導かれながら今こうして教会とつながっていること、オルガンにつながっていることに感謝し、その場所での自分の居場所を感じ、大学卒業の年にプロテスタント教会で洗礼を受けます。宗派は異なりますが、受洗したことをシスターたちにも報告すると、心から喜んで下さりとても嬉しく思ったことを覚えています。こうしてそれぞれの出会いがあり、導かれながら、私は神様とのつながりを感じ日々過ごしています。
 今年の学院聖句、『真理を行う者は光の方に来る。』
 真理とはなんでしょうか。真理を行うとはどのような行動でしょう。
 私は神様との出会いから年月を数えると、皆さんよりもはるかに長い時間を神様とあゆんできましたが、私にとっても難しい問いだと感じます。それでも神様に導かれ、招かれ捜真で学ぶ皆さん、そして働く教職員である私たちもまた、真理をさがし求めて歩めたらと思うのです。人生は問いを重ね、その意味を考え、自問自答しながら自分の人生の一歩を模索していくことではないかと思います。

 今私たちの目に届いている星の輝きは、星までの距離は非常に遠いため、天文学では「光年」という単位を使うことは皆さんご存じですよね。1光年とは、光が宇宙空間で1年間に進む距離で、約9兆4600億kmに相当します。光は秒速約30万kmで進むため、地球から1光年離れた星の光は、1年前に放たれた光を見ていることになり、10光年先なら10年前、100光年先なら100年前の光です。ひょっとしたら現存しない星の光を私たちは見ているのかもしれません。
 目に見えない、物理的に手に形として取ることのできない、優しさや思いは、星の光のようにまっすぐと進み、光を放った、いまその時でない、その後にも、きっと受け取った人の一部として永遠に輝いて残っていくものなのではないかなと思います。
 みなさんとともに私も今年度この学院聖句を考え、自分が作り出せることのできる真理の光を探し歩んでいきたいと願っています。

最後にもう1箇所聖書を読みたいと思います。

ヨハネによる福音書 15:16-17
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

お祈りをいたします。
愛と恵の主なる神様、御名を賛美いたします。
美しい朝、今日もこうしてそれぞれの場にあって礼拝を守ることができ感謝いたします。
どうぞあなたの導きとお恵のうちに、私たち一人一人をお支えください。
真理をさがし求め、愛を持ってあなたが示す光の方へ歩めますようお導き下さい。
神様に繋がっているこの恵に感謝して、この小さき祈り、神様の御前によってお捧げいたします。
アーメン。
(高等学部礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
http://soshin.ac.jp/jogakko/)

高等学部礼拝(英語科非常勤講師 井野元睦子)聖書箇所:箴言3:21−26わが子よ、力と慎重さを保って見失うことのないようにせよ。そうすれば、あなたは魂に命を得首には優雅な飾りを得るであろう。あなたは確かな道を行き足はつまずくことがない。横た...
26/05/2026

高等学部礼拝
(英語科非常勤講師 井野元睦子)

聖書箇所:箴言3:21−26
わが子よ、力と慎重さを保って
見失うことのないようにせよ。
そうすれば、あなたは魂に命を得
首には優雅な飾りを得るであろう。
あなたは確かな道を行き
足はつまずくことがない。
横たわるとき、恐れることはなく
横たわれば、快い眠りが訪れる。
突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅に
おびえてはならない。
主があなたの傍らにいまし
足が罠にかからないように守ってくださる。

***
 箴言は主にダビデの子ソロモンによって書かれた、神の知恵を教える本です。神の知恵というのは、信じる人にとっては体の軸のようなものです。そのことを頭に置いて今日の話を聞いていただければと思います。
最初の部分は、新改訳という訳ではこのように書かれています。

 わが子よ、見失ってはならない。
 知性と思慮をよく見守れ。(箴言3:21-22)(新改訳)
 
 神様の知性は、私たちの努力による頭の良さや、経験などから来るものではありません。一人一人に、その状況に応じて、求める人には神様がオーダーメイドの知恵を与えて下さると信じます。それが書かれてあるのはこの聖書です。
 今日読んだ箇所は、神様の知性と思慮はわたしたちの魂に命を与える、また、それによって私たちはつまずかない、そして眠りは心地良いと言っています。だからそれを見失ってはならない、と書かれています。
 
 皆さんはどのような毎日を過ごしているでしょうか。皆さんは命にあふれる生活をしていますか。よく眠れますか。つまずいてはいないでしょうか。
 私が高校生の頃は、本当にどうしようもない人生を歩んでいました。前も話したことがありますが、私の人生のイメージは、友達と車でお酒を飲んで車ごと海に落ちて死んでしまう、そのような刹那的なものでした。唯一の希望というか、命綱のようなものは、良い大学に入らなければならない、ということでした。それがなければ自分は本当にダメになる、と思っていました。何のために生きているのか、人生の目的もわからず、心はさまよっていました。体調も大体いつも不安定で、お腹を壊したり、疲れやすかったり、大学生の時は保健室で吐きながら試験を受けた時もありました。
 大学を卒業して就職して一年たった頃、イエス様が私の人生の主になってください、という祈りをし、100%神様に頼ってついて行く決心をしました。神様を軸に生きる、という決心です。人ではなく、学歴でもなく、お金でも、家族でも、成績でも、スポーツでもありません。私がイエス様に出会う前、唯一自分が頼れるものは学校の成績でした。他の人より自分が上であればちょっとは安心し、自分が下であれば不安になったり、落ち込んだりする不安定な生き方でした。私は人生をここでリセットすることにしました。そして私の人生は、悪い実のなる人生から、良い実のなる人生に変えられました。
 今日お読みした最後の部分、箴言3:25-26は新改訳という訳ではこう書かれてあります。

突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅に
おびえてはならない。
主があなたの頼みであり
足が罠にかからないように、守ってくださるから。
箴言3:25-26(新改訳)

 英語では、
the Lord will be your confidence..(ESV)

と書いてあります。主に対する確信があるから、自分は守られる、大丈夫なんだ、という意味だと思います。私は自分には全く自信がありません。忘れ物をしたり、色んなミスをして、私のことを見て頼りないと思っている方もいるかも知れません。自信はどうやったらできるんだろう、と模索した時期もあります。でも今は、自分の弱さの中にこそ神様は力強く働いて下さる、という確信があります。
 皆さんは整体に行ったことがありますか?私は姿勢が悪いので、定期的に整骨院に行って治してもらいます。疲れてくると、背中が曲がって固まってきて、疲れが取れにくくなったり、肩こりがして頭痛がしたり、悪い影響があります。
 最初に「神の知恵は体の軸」という話をしましたが、軸がずれてくると、倒れても起き上がるのが難しくなってきます。
 でも、どんな予期せぬ出来事や恐怖が襲ったとしても、神様、このことが起こっていることをご存知ですよね、どうしたら良いですか、と祈ったら、一歩一歩神様が知恵を与え、道を示してくださり、守り、いのちを与えて下さると信じます。
 私が結婚して一年目の時に、父の大腸が詰まって搬送され、大腸がんとわかりました。それで実家に帰ったのですが、その時に、教会の宣教師の先生に、故郷の教会に行って祈ってもらったら良いと言われました。私はどうしようかな、と迷いました。父は地方議員をしていて、他の人に病気と知られると次の選挙に影響があるので、入院も内密にしていたからです。でも、先生がそうおっしゃるのなら、と決心して、手術の前の日の日曜日にそのあたりで唯一のプロテスタントの教会の礼拝に行きました。牧師先生ご夫妻と、あるご家族四人とあと数名、合計10名くらいしか出席していない、こじんまりした教会でした。礼拝が終わって、私の前に座っている方が振り返ると、見覚えのあるお顔でした。それはなんと翌日父の手術を執刀して下さるお医者様でした。そこで私は神様が共にいて下さることがわかり、父の手術は神様の御手の中にあるから大丈夫だ、という確信が来ました。父のがんはゴルフボールくらいの大きさで、リンパ節まで転移がありましたが、先生方が丁寧に取り除いてくださり、手術は成功しました。父は先日88歳の誕生日を迎えて健在です。
 キリスト教がご利益宗教と言っているのではありません。神様の知恵を捜し求めてそれを実行していくことで、神様の素晴らしさを体験する人生を歩むことができる、ということです 
 人生には様々な困難があります。自分の力ではもう起き上がることができない、というようなことがあっても、イエス様が死からよみがえったからこそ、私たちはまた起き上がることができるのです。イエス様が十字架にかかって死んでしまった、そこで終わっていたら、キリスト教はただの虚しい宗教です。でも、今日歌ったように、イエス様は生きておられるので、私たちは復活のいのちを受け取り、何度でもまた起き上がることができるのです。
 今人生に大きな山が立ち塞がっているように感じている方がいるかも知れません。あるいは私がそうだったように、生きている意味がわからなくなってしまっていたり、色々なことがうまくいかない、と思っている方もいるかもしれません。あるいは大きくなくても小さな問題を抱えているかもしれません。
 今日は特にそのような方々のためにお祈りしたいと思います。
 
(高等学部礼拝より)
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”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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「迷惑をかけるという考え方」(中1副担任 森川 亮)聖書箇所:ルカによる福音書 10:30-37“イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しに...
21/05/2026

「迷惑をかけるという考え方」
(中1副担任 森川 亮)
聖書箇所:ルカによる福音書 10:30-37
“イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」”
*** 
 電車の中で泣いている子供がいました。大声で泣いているその様子に周囲は嫌な雰囲気を出すこともなく、平然としていました。子供が泣くのは仕方ないこと。そのような寛容な雰囲気が車内には流れていたのですが、その泣いている親が「周りに迷惑だから、泣きやめ!!いい加減にしろ」と鳴いている子に怒鳴りました。そのように言われさらに泣いている子の鳴き声は激しさを増すと同時に、私は「別に子供が泣いても迷惑ではないのだがな」という思いを強くしました。

 芸能人がテレビの会見で「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」というような謝罪会見を見ました。この手の会見にはまったく興味がありません。だって、僕自身がその被害者ではないし、ましてや加害者でもない。つまり、問題に一切かかわっていない。なので、自分に関係ない謝罪に対して興味が湧かないというのが本音です。

 そもそも迷惑を掛けると言いますが、本当に迷惑が掛かっているのでしょうか?
皆さんもたいてい子どものころから、親や学校の先生などから、「他人に迷惑をかけてはいけません」と言われて育ってきたのではないでしょうかか。そのため、「他人に迷惑をかけてはいけない」という考えを普遍的な考えだと思っている人も多いのではないかと思います。
 中国ではこのような「他人に迷惑をかけてはいけません」ということを子どもに教える親はほとんどいない代わりに、「困っている人を助けなさい」と教える親が多いといいます。同じように、インドではこんな言葉があります。「人は他人に迷惑をかけるもの。その分、恩を返せば良い」。
 人間は不完全であり、誰かに助けられずに生きることはできません。だから「迷惑をかけてもいい、それはお互い様。その代わりに誰かに恩を返せばいい」という哲学です。この考え方があるからこそ、インド社会では助け合いが自然に成立します。私がインドを旅行した時に、電車で横に座った身なりの良い紳士が蜜柑をくれました「私はお金持ちだから、君に蜜柑を上げよう」といわれ驚きました。また同じくインドで電車の乗り換えで困っていたら10人くらいが集まってきて、どこどこ駅で降りて乗り換えろ、とかいやバスで行った方が安いとかみんなで僕の行先について議論が始まりおどろきました。見ず知らずの外国人がこまっているときにこんなに多くの人が助けてくれるなんてと。
 日本は住みやすい国と言われます。その理由の一つはお互いが深く干渉しあわないから、適度な距離感を保とうとするから「迷惑を掛けないようにと言う考えが根底にあるから」と言う考えがあります。公共交通機関であるバスや電車の中でうるさくしないというのはまさにこの考えがあるからです。同時に「迷惑ノイローゼ」と言う言葉があるのですが、これは自分のせいで他者に不愉快な思いを持たせるのではないかと過剰に心配することです。電車で席を譲ろうと思うのだが、もしも相手が「年寄扱いされたと思ったらどうしよう」と思い、結局席をゆすれないというのがこれにあてはまります。他者に共感したい、興味を持ちたい、かかわりを持ちたいという気持ちがあっても言葉や態度に出すことをためらい、結局は関わらないままになってしまうようです。「他人に迷惑をかけてはいけません」という価値観が、広く日本人のなかに蔓延しているからこそ、街中の治安は良く、電車は時間通りにやってきて、トイレも非常にキレイなわけです。

 ここで「他人に迷惑をかけるな」という言葉の持つ孤立主義的な意味に目を向けてみたいと思います。「他人に迷惑をかけるな」という言葉は、その裏返しとして、「他人に迷惑をかける人は非難されても仕方がない」という含意を持つことになります。そのため、困っていても、こんなことを頼めば他人に迷惑をかけることになるのではないかという恐れから、助けを求めることを躊躇する人も出てくるのです。
 以前見たドキュメンタリー番組で、車椅子の女性が、「私がおしゃれをしようと思っても、車いすで試着室に入るだけで何人もの人の手を煩わせることになる。このように迷惑になるから、おしゃれをすることをあきらめていました」と言う言葉を聞いたことがあります。
 こうした状況は今日でもそれほど変化していないのではなだろうか。現在、ベビーカーを広げたまま電車に乗ることは可能だが、混雑した電車にベビーカーを押して乗り込む母親に対して冷たい視線を投げかける乗客も少なくないように思います。
  「他人に迷惑をかけるな」という考えは、人は本来他人に迷惑をかけずに生きていくべき存在である、という意味を持ちうるため、そこから、「人は自力で生きていくべき存在だ」という解釈さえ導かれてしまうかもしれません。さらに、こうした解釈が一般化すれば、何らかの窮地にある人に対して、「それは自己責任だから、他者の助けを当てにすべきではないという、冷淡な態度すら助長しかねません。
 しかし、少し考えただけでも、人は生まれたときには全く無力な存在であり、高齢になれば、できないことも増えていくことくらい、すぐにわかります。また、高齢になるまでもなく、病気や障害など、人生の途中で出あう様々な困難によって、人の助けなしには生きていけない場面は無数にあります。そうだとすると、人は誰の助けも借りず、自力だけで生きていけるような存在などではなく、他者との関係の中で、支え・支えられつつ生きていくのが本来の姿であることがわかるはずだ。そう考えると、「他人に迷惑をかけるな」という規範が、孤立主義的で、ギスギスした、冷淡な人間関係を奨励しているように見えてこないだろうか。むしろ、迷惑をかけたり、かけられたりするのが自然な人間の姿であって、人が生きていくうえではごく当たり前のことであり、「お互い様」という寛大な気持ちで接する方が、誰にとっても生きやすい社会になるのではないだろうか。そして、「困っている人を助けなさい」という規範を内面化すれば、「迷惑をかけやがって」などと、助けを必要としている人を迷惑な存在として見ることも少なくなるように思われます 先ほどお読みした「善きサマリア人」の譬えがあるように、キリスト教でもやはり「困っている人を助けなさい」という教えが重視されています。このように見てくると、「他人に迷惑をかけるな」という消極的道徳よりも、「困っている人を助けなさい」という積極的道徳の方が、むしろ普遍性があると思います。

 東大入学式では上野千鶴子・東大名誉教授の祝辞が話題となった。特に注目を集めたのは次の一節である。
「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。(中略)世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。(中略)あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください」
 このメッセージを「高貴な義務の勧め」と解釈する人もいたようですがむしろ、支えあい助け合う社会の大切さと捉えた方が、はるかに意味があるのではないでしょうか。
日本社会において「他人に迷惑をかけること」は最悪の行為とみなされています。他者に迷惑をかけるのを必死に避けようとする社会は、自分の考えを出さない社会です。というのも、他者に迷惑をかけるリスクを考えれば、絶対に自分の思いや感情表現を優先しないからです。自分を大切にしない社会からの脱却を目指すためにもまずは「人に迷惑を掛けない」と言う考え方から、「困っている人を助けなさい」という考え方を実践していくことが大切だと感じる今日この頃です。
(中学部礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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「失敗の先にある希望」(聖書科非常勤講師 藤田)聖書箇所:ルカによる福音書22章32節「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 *** 私は非常に心配性...
18/05/2026

「失敗の先にある希望」
(聖書科非常勤講師 藤田)

聖書箇所:ルカによる福音書22章32節

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

***

 私は非常に心配性な性格をしています。もちろんそれが自分のすべてではなく、思い切った行動ができる時もありますし、おおざっぱな部分もだいぶあります。しかし、幼い時から割と自分に自信がなく、不安が大きい子どもでした。それゆえの生きづらさというものを長い間感じてきたため、もし将来親になることがあったら、子どもには自分を肯定できるようになってほしい、そして自分が自分であることを喜べる子に育てたいという思いがありました。具体的には、できたことをしっかり認め、たくさんほめてあげたいと思っていました。

そして現在我が家には2人の子どもが与えられて、自分が世界一かっこよくて足が速いと思っている年中の男の子と、先を心配したり、過去を悔いたりすることとは無縁で今この瞬間がすべてである1歳半の男の子がいます。

最近、子育てをする中で、育児本を読んだり、発達心理学に関するYoutubeを聞くことが増えました。その中で分かったことがあります。それは、子どもに対する「ほめ方」によっては、健全な自己肯定感が育たなくなってしまうということです。例えば、人と比較してほめるのではなく過去のその子と今のその子を比較してほめること、また結果ではなく過程をほめること、そういうことが大切だそうです。そして、自己肯定感=できてもできなくても自分の存在そのものに価値があると思えること、また自己効力感=自分はやればできると思えること、それらを育てるために何よりも大切なことは、その子自ら何かを選択し、失敗を経験すること、そしてそこから立ち直るというリカバリーを経験することだそうです。

4月のはじめのことですが、私は久しぶりに高熱を出し寝込みました。頭が割れそうな状態で子どもたちの面倒を見なければならずとても過酷な数日間でした。年中の長男は優しい性格をしているので、「いっぱいお手伝いするよ!」と言ってたくさん助けようとしてくれました。朝ごはんの卵焼きを焼く!と言って大量の殻も一緒に卵を割ってくれて、フライパンにとんでもない量の油を入れて揚げ物のような卵焼きを作ってくれました。夕方にはお風呂を洗ってお湯を張ってくれるとのことでお願いすると、泡の流し残しで泡風呂のようになったお風呂になっていました。また夜ご飯の食器洗いもしてくれて、来月の水道料金がとんでもないことになりそうなほどの大量の水を使って、台所を水浸しにしながら食器を洗ってくれました。その1週間は息子のありがたいお手伝いのおかげで体調の悪い私のやることは2倍3倍に増えたのでした。

最初はただ、ありがとう、嬉しいよと言っていたのに、最後にはそんな余裕もなく、大きなため息と「だから気を付けてって言ったでしょ」と責める言葉をかけてしまいました。あれだけ強く、「子どもたちの失敗を責めずに、励まし続けたい」と願っていたのに、それがどれほど難しいかを痛感しています。

親はできるだけ子どもが痛い目を見ないように、失敗の原因を取り除こうとしてしまいます。しかしそうやって親が子どもに子どもの人生を舵取りさせずにいると、子どもは自分の人生を自分の頭で考えて選択する力が身につかず、結果自分に自信を持てない子供になってしまうそうです。といっても失敗を傍観していれば良いのではなく、意見は言うけど子どもの最終的な選択を応援し、何よりその選択した結果が失敗に終わった時、責めずに、そこからリカバリーできるよう励ましや勇気づけのスタンスを貫くということが大切だそうです。失敗した時に、ほらね、と言わずに、「やってみたからこそ次はどうしたら良いかわかったしよかったじゃん!」そうやって信じて次のチャレンジを応援し、希望を持たせてあげることが人としての健全な成長に繋がるのだそうです。

今日読んだ聖書箇所は、イエスが十字架に架かる前夜に弟子たちと共に最後の食事をしている場面で語られた言葉です。イエスとの最後の食事にも関わらず、弟子たちが始めた議論は「自分たちの中で誰が一番偉いか」という、しょうもない内容でした。さらに、ペトロは「イエスと一緒なら死ぬ覚悟はできております」と言って、イエスに従い抜く意志の強さが自分の中にはあると思っていました。しかしその後イエスが言ったようにペトロは怖くなって逃げだしイエスを裏切るという失敗をし、自分の内に正しさや強さが無いことに絶望することになります。

そんなペトロに対して、復活したイエスは、「ほらみなよ」とか「だから言ったじゃん」と責めたり、大きなため息をついて「あーあ」と言うことがあったかと言うとそうではありませんでした。この箇所でも、裏切る前から、「あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてあげなさい」と言って立ち直ることを期待し、チャンスを与え、不完全でも新しい使命を与えてくれていたのです。



皆さんはキリスト教に対してどのようなイメージを持っているでしょうか。私は、信仰とは清く正しく間違いなく生きる意志の強さであると勘違いして生きてきた時期があります。その後、大学生になった時、自分の最善を尽くして選んだ道が結局間違っていたという大きな挫折と失望を経験し、自分の内に正しさがないということを身をもって知ることになりました。当時の私の理解と聖書の語っていることは真逆でした。「自分は弱い、それでも見捨てられていない」という神の愛に信頼することが信仰だと学びました。



新しい年度が始まって1か月が経ちました。何かにチャレンジした結果、成功することも、思うようにいかないこともあったかもしれません。「もう終わりだ」と思ってしまうようなこともあるかもしれません。私自身も自分の未熟さを思い知らされる出来事をすでに経験しました。

しかし、自分の不甲斐なさに希望を失うことがあっても、何度でもやり直そうと招いてくださるのがイエスキリストです。そして自分の弱さと、それでも注がれている神の愛を知るほどに、人を愛することや寄り添うことができる優しさも教えられていくのだと思います。失敗してもその度に立ち上がる、しなやかな人間になりたいと、そしてみなさんにもそうであってほしいと願っています。

(高等学部礼拝より)
***
”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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「与えられたチャンス」(中2副担任 大和由祈)聖書箇所:ローマ12:4-6“わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、...
12/05/2026

「与えられたチャンス」
(中2副担任 大和由祈)
聖書箇所:ローマ12:4-6
“わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。”
***
 皆さんはカンボジアという国を知っていますか?
 カンボジアは東南アジアにある、日本の半分ほどの大きさの国です。日本からは飛行機を乗り継いで7時間ほどで行くことが出来ます。捜真では、毎年春休み高校生を対象にカンボジア研修というのをやっていて、中2・中3の皆さんには2月ごろにカンボジアに持っていく文房具などの物品集めのお願いをしたので、そのことを覚えてくれている人もいるかと思います。
 捜真とカンボジアの繋がりが始まったのは今から約25年前のことです。当時の聖書の先生が自然教室で、カンボジアの当時の現状について話したことをきっかけに、高校生たちを中心にしてカンボジア学校建設運動が始まりました。当時の捜真生たちは勉強会をして、カンボジアについて理解を深めながら、文化祭などで募金活動を行い、約2年で目標の500万円を集めました。そして2002年3月、首都のプノンペンから車で3時間ほど行ったところにある小学校の校舎を贈呈したのです。それ以来、その小学校を訪ね、子どもたちと交流することを目的の1つにしたカンボジア研修が始まりました。私は、カンボジア学校建設運動が捜真で行われていたころは別の学校で中高生活を送っていたので、当時の活動には関わっていませんが、捜真で教員として働きだした1年目からこの研修に関わることになり、これまで9回この研修の引率をしています。そして今年の春も、12人の高校生と1人の卒業生とカンボジアに行ってきました。研修についての詳しい報告は、研修生からも様々な形で報告がありますが、今日の礼拝では、私の心に特に残った2人のことを少し紹介しようと思います。

 1人目は、カンボジア人の大学生のラチナさんです。ラチナさんは2021年の9月から2022年の3月までの約半年間、留学生として捜真で学校生活を送っていました。当時は様々な形で新型コロナウィルスの影響があり、行事はほとんどなく、分散登校や休校期間もありましたが、同じクラスや同学年の友人を作り、制限の多い日本の学校での生活を楽しんでくれました。当時は研修も実施出来ていませんでしたが、研修が再開された暁には、カンボジアで再会しようねと約束して私たちは別れました。そしてそこから2年後、2024年の3月に研修が再開されてからは毎年、私たちが泊っているプノンペンのホテルを訪ねてくれ、わずか1時間ほどの時間ではありますが、研修生との交流の時間を持っています。
 今年も1年ぶりにラチナさんに再会すると、明らかに去年よりも日本語が上手になっていると感じました。確かに去年、「また日本に留学したいから、日本語の勉強を再開する」と言ってはいたのですが、その上達は明らかでした。そしてさらに驚くことを報告してきたのです。それは、「来年この大学を卒業したら、日本で就職することが決まった」というのです。詳しく聞いてみると、大学のプログラムの一環で、大学で学んでいる分野において進んでいる日本の企業に就職し、実務経験を積むことが出来るというのがあるそうで、そのメンバーに選ばれたということでした。色々話していく中で、「そんなに日本で働きたいのはなんで?ずっと日本にいたいと考えているの?」と私は尋ねました。するとラチナさんは、「やっぱり日本は綺麗な国だし、私のやりたいことが進んでいるから、日本で働きたいと思った。でも最終的にはカンボジアに帰って国の発展に貢献したい」と力強く答えてくれました。私は、20代前半で、自分の将来の大きな目標と、それに必要なプロセスを具体的に考えられている彼女の姿に感服するしかありませんでした。
 ということで、今回はカンボジアだけではなく日本でも再会することを約束しお別れをしてきました。

 もう1人は、プノンペンでお世話になったカンボジア人ガイドのチャンヤさんです。研修では、日本語が話せるカンボジア人にガイドをお願いし、観光地での案内や小学校で行う交流会での通訳などをやっていただいています。チャンヤさんは今回初めてお世話になったガイドさんでしたが、とても日本語が上手で、たった2日間の間にも内戦のことを中心に多くのことを教えてくださいました。その中には、チャンヤさん自身のご家族の内戦時代の話もあり、内戦が終わって30年以上経った今でも、当事者には深い傷や悲しみを残していることも目の当たりにしましたが、それでも当時のことを語ることを1つの使命だと感じているような姿勢も感じ、彼の言葉をきちんと受け止めなければいけないという思いにさせられました。
 そのチャンヤさんと、最終日に空港で別れるとき、彼は私たちにこのように話しました。
「日本に生まれただけで、みんなにはチャンスがいっぱいある。やっぱりそこが、今日小学校で会ったような子供たちとは違う。あの子たちは、やっぱりまだ貧しい。でも、みんなにはチャンスがいっぱいある。だからそのチャンスを活かして、いろんなことにチャレンジしていってほしい。」
 この言葉を聞いたとき、私は大きな宿題をチャンヤさんやこの1週間カンボジアで見たり聞いたり出会ったりしたものからもらったような気がしました。そして、そこからずっと、私が日本に生まれたからこそ得たチャンスは何なのか、そしてそのチャンスを何のためにどうやって活かすべきなのかということを考えていますし、このことを日本に住む若者であるみんなにも考えてもらいたいと考えるようになりました。

 ところで皆さんはこの写真がどこを撮影したものだと思いますか?これはカンボジアの首都プノンペンの街並みです。この写真だけを見ると、日本の街並みとそう変わらないような気もしてしまいます。実際プノンペンも、私が最初に訪れた16年前は街中に信号が1つしかありませんでしたが、今はあちこちに信号があり、スタバやAEONなど日本にあるような店も多くあります。
 しかし一方で、ピートゥヌー小学校がある地域や、私たちがNPOを訪問した地域の人たちが暮らしている家はこのような家がほとんどです。水は井戸から汲む、乾季で井戸の水がなくなってしまったらタンクの水を買う、飼っている鶏の卵や庭で育てているマンゴーやバナナを食べるといった生活をしています。先ほどのプノンペンとこの地域が同じ国というのは、なかなか信じることが出来ないかもしれません。しかしこのように格差が広がっている現状を見ると、確かにチャンヤさんがいうようにカンボジアの人たちの多くは、日本に住む私たちよりも貧しく、チャンスが少ないのかもしれません。

 そしてこのチャンヤさんの言葉を聞いたときに、その前の日にあったラチナさんはまさに、自分が持っているチャンスを活かし、そしてその自分のチャンスを自分のためだけでなく、まわりの人のため、彼女の場合は自分の住む国の発展のために使おうとしているのだと思いました。彼女は以前も、自分はカンボジアの中では恵まれていて、まだ田舎の方の人たちは貧しいというようなことを言っていたことがありました。ですがその自分とは違う人のことを見下すことなく、自分と彼らが暮らす国のために出来ることはないかと探しているのです。「国の発展のため」というと、何をそんなに大それたことをなどと私たちは感じてしまいがちですが、それに真剣に挑もうとしている姿はカッコいいなと思いました。

 チャンヤさんが言う、「日本人が持っているチャンス」とは何なのでしょうか?そして私たちはそれを何のためにどうやって活かしていくべきなのでしょうか。
 日本で暮らして思うことは、私たちには選択肢が山ほどあるということです。どこの学校に通うのかというのはもちろん、習い事や休みの日に出かける場所の選択肢が無限にあり、どの選択肢を選んだとしても、それぞれだからこそ出来る経験とそこで得られる価値があるように思います。そのように様々な選択肢から自分のやることを選び、そして経験していくことが、私たちの可能性をより広げていくことにもなるのです。もちろん日本でも、置かれた環境によっては、出来ることが制限されることもありますが、その環境だからこそ出来ることは必ずあるわけで、だからこそ今いる環境を活かして行動することが大切なのではないかと思います。
 今日の聖書の箇所には、「わたしたちにはそれぞれに与えられた恵みがある」と書いてありました。そしてその恵みは1人1人異なるもので、その部分が働きあうからこそ1つの身体を作り上げるのだと書いてあります。つまり、みんながみんな、まったく同じものが与えられているのではなく、それぞれに合ったものが与えられているのです。そしてそれが全体の一部になるのだから、与えられたものは目いっぱいに活かしていく必要があるのです。それがチャンヤさんからしてみれば、日本にいる私たちには、よりたくさんのものが与えられているように、感じられるのかもしれません。
 チャンヤさんも聖書も言う通り、私たちは自分に与えられているものを活かしていく必要があります。となったとき、やはり私はそれを、自分のためだけに使うのではなく、誰かのために使うべきなのだと、今回のチャンヤさんの言葉を聞いて改めて思いました。誰かにはないかもしれないチャンスが自分には与えられている、となるならば、自分のチャンスを自分のためだけに使うのではなく、そのチャンスがない人のためにも使う必要があるのではないかと思うのです。自分に与えられたチャンス、自分の命をどのような形で、他人のために使っていくのか、その答えは簡単に見つかるものではありませんし、行動に移していくのも簡単なことではありません。ですが、このことはここ捜真で学校生活を送っている、日本の中学生の1人である皆さんにも是非考えていってほしいと思いますし、私自身も皆さんと一緒に考えていきたいなと思います。
(中学部礼拝より)
***
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「真理を行う者は光の方に来る」(校長 島名恭子)聖書箇所:ヨハネによる福音書 3章21節"しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。”*** 今日の聖書の言葉は、今年の学院聖句です...
07/05/2026

「真理を行う者は光の方に来る」
(校長 島名恭子)
聖書箇所:ヨハネによる福音書 3章21節
"しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。”
***
 今日の聖書の言葉は、今年の学院聖句です。このページにしおりを挟んだり印をつけたりして、この一年、この聖句に親しんでいきたいと思います。

 今年は捜真学院創立140周年という捜真にとっても大きな節目の時です。その年の学院聖句は、捜真の学校名の由来でもある「真理」という言葉が入っている聖書の言葉が選ばれています。
「真理を捜し求める」この言葉の意味については、上級生はすでに何度かお聞きですが、改めてお伝えしたいと思います。
1.学問の真理を探究する
2.人生の真理を探究する

1.学問の真理を探究する
  国語辞典で「真理」を調べると、「本当の事、正当な知識内容」と出ています。日々の授業はこの「正当な知識内容」を学ぶ大切な時間です。今週始まる新しい時間割での学びで、「本当の事、正当な知識内容」をたくさん吸収してください。

2.人生の真理を探究する
  捜真での「真理」のもう一つの意味です。今年の学院聖句は、「真理を行う者」は、「人生の真理を捜し求める」と同じ意味だととらえられるでしょう。

 捜真の学校案内のパンフレットには「1886年。ひとりの宣教師と7人の生徒から、この学校は始まりました。」と書かれているページがあります。
 このひとりの宣教師はシャーロット・ブラウンという女性です。ブラウン先生が7人の生徒と共に学びを始めたのは、どうしてだったのでしょう。
 1886年の日本と言えば、女性にはまだ学校に行ったり、学んだりする自由がなかった時代です。言ってみれば、自立した一人の人としてとらえられていなかった時代です。ブラウン先生はそのような日本の女性たちに、自立した、一人の人間として生きていってほしい、そう願って学校を始められたのではないかと想像します。当時の生徒たちが学んだのは、英語と聖書でした。英語を学ぶことで学問の真理を捜し求め、聖書を学ぶことで人生の真理を学んだことでしょう。140年前の7人の生徒たちも、今、捜真で学ぶ皆さんと同じように、一緒に学んだり、おしゃべりしたり、喧嘩したりしていたはずです。そして、その日々の中の様々な学びと経験を通して、学問と人生の真理を捜し求めていたはずです。

 創立140周年の今年、ぜひ「真理を行う」「真理を捜し求める」という言葉を、改めて捜真女学校の歩みの大きなテーマとしたいと思います。

 ここには12歳から18歳までの皆さんが集まっています。年齢によって、学年によって具体的な学校生活の課題は違うと思います。ですので、学年によっては学年ごとの目標や聖句が決められるかもしれません。

 改めて、「真理を行う」とはどういうことでしょう。実は私にも今、明確な答えはありません。難しいテーマです。でもだからこそ1年間という時間をかけて考える価値があると思います。
 一つだけ考えるヒントとして、もう一か所聖書の言葉を読みたいと思います。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」ヨハネ14:6

 つまり、聖書に記されているイエス様のなさったこと、おっしゃったことに倣うことで私たちは真理を行う、真理を捜し求める、あるいは少しでも真理に近づくことができるのだと思います。
 「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」
 「求めなさい。そうすれば与えられる」
 「狭い門から入りなさい。」
 いずれもイエス様の言葉です。ほかにもたくさんあります。
 イエス様の言葉に倣うことから私は始めようと思っています。
 「真理を行う者は、光の方に来る」この言葉を大切にして、この1年を歩んでいきましょう。
(4月始業礼拝より)
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「リスペクトすること」(中2副担任 富樫恵実)聖書箇所:ローマの信徒への手紙12:9-21 “愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 怠らず励み、霊...
30/04/2026

「リスペクトすること」
(中2副担任 富樫恵実)
聖書箇所:ローマの信徒への手紙12:9-21 
“愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 ”
***
「尊敬、尊重、敬意」を意味し、相手の価値観、存在、意見を認め大切にする姿勢を表す言葉。ありのままの相手を認め、敬意を持って接する。

美容院でのこと
私をいつも担当してくれている50歳くらいの美容師Mさんが、いつもの通り、私の髪の毛をカットしながら話し始めました。

マック(マクドナルド)でのこと。申し込んだものを受け取るために並んでいると、
高齢の女性がタッチパネルの前でたたずんでいたそうです。
店員さんが「タッチパネルで申し込んで下さい」と一言。
近くにいたMさんはこうやってここを押して、と説明したのだそうですが、どうしてもわからない感じだったので、「タッチパネル、わからないそうです〜」と店員さんに大きな声で伝えたそうです。すると
「こちらへどうぞ〜」と直接のやり取りで以前のようにやり取りしたとのこと。
「最初からこちらへどうぞって声かければいいのに」と言っていました。

また、天丼を食べにお店に行ったときの話もしていました。店に入り、これもタッチパネル。何を食べようかと考えていたところ。近くの席にいた高齢の男性が、席に座ったもののの、しばらくして立ち上がって出ていってしまったとのことでした。この男性も、タッチパネルのやり方がわからず諦めて行ってしまったのだと、あとになって気付いたとのこと。「あのとき気づいていたら。やり方を教えてあげればよかった」と、とても残念がっていました。

「世の中は冷たい」といっていました。「これじゃ高齢者の人や、デジタルが苦手な人は外食にもいけなくなってしまう」と。話をきいて本当だ〜。何も声を発しないどちらかと言うと弱い立場の人を無視して、どんどん進んでいく便利さ、これはまずい、そう思いました。

無意識に、便利、早い、そしてできる人だけ、できない人は置いていくという考えが前面に出てきている世の中、置いていかれる人は無視され置き去りにされていく。これは、気をつけないとまずいことになる。無意識に切り捨てている感じ。このことに皆が気づいていく必要がありますね。

学校生活の中でも、ふと考えてみると、スピードをもとめられているなあと感じる場面があります。このような学校の仕組みの中でこの仕組みが合わないという人がいても当たり前なのかもしれないなと。

人はそれぞれです。それぞれの個性、特徴があります。同じ時間で同じように皆ができるようになるというわけでもない。絵を描くことが好きで素敵な表現ができる人もいれば、どうもそれは無理だなあという人もいる、歌も同じ、スポーツも同じ。得意なことがあれば、苦手なこともある。年齢での差もありますね、ゆっくりでなければ動けない、新しいことを覚えるのは中々無理になるという年齢もあるわけです。
それなのに人は単純に無意識に自分と比べて「なんでできないの」とイライラしたり、勝手に相手のことを評価したりしてしまうところがあるのではないかなあと思うのです。

相手を尊重することって難しいですね。尊重できる時もあるのですが、できない時もある。無自覚に尊重しない言葉を発してしまったり、尊重しない態度をとったりしてしまう。皆さんはいかがでしょうか。

教室の中で、どんどん賑やかに過ごしたい人もいれば静かに過ごしたい人もいます。その人達が一緒に教室で過ごすのですから、折り合いをつけて行くのも大変だろうなと思ったりしています。

先週体育記録会がありました。
100m走。走り終わって確認のために並んで座っている人たちが後に走ってくる同学年の人を大きい声でがんばれーと応援し拍手をしている姿がありました。

シャトルラン。やりたくない人もいたでしょう。でも、参加している姿がありました。そして、最後の人が終わるまで応援している姿がありました。

ボール投げ、走り幅跳び。グーンと飛ばしている姿にそして、グーンと飛んでいる姿に素直に感嘆の「うぉー」という声がありました。

走り高跳び、跳べたときには自分が跳べたかのように喜ぶ姿、跳べなかった時には、素直に応援する声掛けがありました。中学2年生は高跳びが必修だったのですが、苦手でやりたくないと感じていた人もいたと思うのですが、参加してくれて、この体育記録会という行事を尊重してくれたのだなと私は感じています。

捜真女学校にはこの記録会に限らず、いろいろな場面でお互いを尊重しあう、リスペクトしあう場面があるなと感じています。私はそこにいるだけでここにいてよかったあと感じていました。

ここで一つ、以前学校にも来てくださった、学校コンサルティング会社コアネット教育総合研究所の熱海康太さんが教えてくださった、話し合いの仕方〜フィンランド小学生から学ぶ〜をご紹介しようと思います。
これからクラスなどでも話し合う場面があることと思いますのでご紹介しようと思います。

話し合いの仕方
①さえぎらない
②長くしゃべらない
③感情的にならない
④分からないことは質問する
⑤目をみる
⑥他のことをしない
⑦最後まで聞く
⑧台無しにすることを言わない
⑨決めつけない
⑩終わってから文句をいわない

小学生に向けてですので皆にあっているかわかりませんが、私はこのことは話し合いのときだけでなくても人と対するときにも気にできるといいのではないかなと感じています。大切なのは「話す力」だけでなく「聴く力」が大事ということのようです。これが少しでも意識できると皆が話しやすくなり、居やすい教室になるかもしれませんね。話し合いがうまくいって、安心して話しあいができるクラスになるといいなあ。そう思っています。

ただ、そううまくいかないのが人の営みなのだと感じています。
聖書には「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。神様から罰を与えてもらうということではなくて、神様にお任せするということです。私自身そのことで自分の気持ちが楽になるなあと感じることがあります。「悪にまけることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と聖書には書かれてています。とても難しいことですが、神様を信じ、相手を裁くのでなく、裁きは神様にまかせて、歩んでいけたらいいな、そう思っています。
(中学部礼拝より)
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”ことばが育つ。人が育つ。”-捜真女学校
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「平和を実現する人々」(理事長 浅古 弘)聖書:マタイによる福音書5:9”平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。”*** おはようございます。今日は、「平和を実現する」ということを考えてみたいと思います。 イエス...
23/04/2026

「平和を実現する人々」
(理事長 浅古 弘)
聖書:マタイによる福音書5:9
”平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。”
***
 おはようございます。今日は、「平和を実現する」ということを考えてみたいと思います。
 イエスさまは、山上の説教の最初のところで、弟子たちに「幸い」について話されました。その中に、イエスさまは、「平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。平和を実現する人々を、神さまが、「あなたたちはわたしの子である」と呼んでくださるという意味です。

 「平和を実現する」。これは、誰もが願っていることです。誰もが平和でありたいと願っています。争いを好む人はおりません。しかし、「平和を実現する」ことは大変に難しいことです。だからこそ、神さまは、平和を実現する人々を、「あなたたちはわたしの子である」と呼んでくださるのです。

 「平和を実現」するためには、どうしたらよいのでしょうか。世界史で習うことですが、かつて、ローマが世界を支配した時、「ローマの平和」という言葉が使われました。「パクス・ロマーナ」といっていました。聞いたことがある人もいるでしょう。そして、ローマ皇帝は「神の子」と呼ばれていました。どんな力にも負けないローマ皇帝の力こそが世界の平和を実現する、それは神の子という名にふさわしいと考えられたのです。しかし、「ローマの平和」は、力によって、武力によって実現された平和でした。ローマの軍事力によって戦争がない平和な世界が作りだされました。しかし、それは力で弱い者をねじ伏せたということにすぎません。力による「平和の実現」は、イエスさまが山上の説教でお話になった「平和の実現」とは違うのではないでしょうか。聖書の世界で「平和」というとき、それは「神さまが共にいてくださる」ということです。

 世の中には、平和を実現するためにとか、正義を実現するためにとか、人々の幸福のためにとか、という言い訳で、自分の主張を通そうという人がいます。たとえ、どのような大義名分を掲げようとも、目的達成の為に手段を選ばない暴力的抗議行動、力によって平和を実現しようとするならば、その人が、ローマ皇帝のような力を持たない、力の弱い人であったとしても、それは、イエスさまが説かれた「平和の実現」とは違うのではないでしょうか。

 もちろん、力によらない平和の実現を考えた人もたくさんいます。今日は、一つだけ、そうした考え方をした人を紹介してみたいと思います。
 『カサブランカ』という映画を観たことがあるでしょうか。古い映画ですから、見たことがない人が多いかもしれません。1942年、第二次世界大戦の最中に米国で制作された恋愛映画です。フランスはナチス・ドイツに占領され、そのフランスの植民地であったモロッコのカサブランカを舞台に、かつて深く愛し合った末に別れた男女の思いがけない再会と愛の再燃を描いた映画です。ハンフリー・ボガートが演じる主人公のアメリカ人男性リックとパリが陥落する前に理由を告げずに去ったイングリッド・バーグマンが演じるイルザの物語です。カサブランカは、カサは家、ブランカは白い、白い家という意味です。英語にするとWhite Houseになります。

 ドイツの侵略によるヨーロッパの戦禍を逃れた人の多くは、中立国のポルトガル経由でアメリカへの亡命を図ろうとしていました。イルザとその夫のヴィクター・ラズロも脱出の機会を探していました。ラズロがナチスに追われていたからです。

 イルザの夫ヴィクター・ラズロは、汎ヨーロッパ(パン・ヨーロッパ)主義の提唱者で、「EUの父」と呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーをモデルにしていると言われています。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは、日本名を青山栄次郎といいます。彼の母親は青山みつという日本人で、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と結婚をし、リヒャルトが生まれました。リヒャルトは、第一次世界大戦の惨禍を経験し、平和を実現するためには、ヨーロッパの統合が必要であると考え、パン・ヨーロッパ運動を起こしていくことになります。さらに、欧州統合の先を目指し、世界が1つになること、世界連邦を形成することが必要と考え、世界連邦運動をアインシュタインやバートランド・ラッセルらとともに提唱し、世界連邦建設同盟を発足させました。リヒャルトは、国々が一つの国になることで、国どうしの争いがなくなり、平和が実現すると考えたのです。リヒャルトがノーベル平和賞を受賞することはありませんでしたが、彼の没後40年、彼の汎ヨーロッパ運動から90年が経過した2012年に、欧州連合(EU)にノーベル平和賞が贈られました。

 国際連合が、本来の役目を果たせなくなっている現在、私たちは、全世界の平和を願うすべての人とともに、イエスさまが話された平和を実現するために、何をしなければいけないか、どうしたらよいか、考え続けることの大切さを改めて感じています。
(全校礼拝より)
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「何の役にも立たないでしょう」(社会科非常勤講師 佐々木広)聖書  :  コリントの信徒への手紙一 1:26-29"兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある...
19/04/2026

「何の役にも立たないでしょう」
(社会科非常勤講師 佐々木広)
聖書 :
コリントの信徒への手紙一 1:26-29
"兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。"

ヨハネによる福音書6:5-13
"イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。"
***
 新しい年度が始まりました。
 新しいことが始まるときは、いい意味でも悪い意味でも心が揺れます。生徒の皆さんは、新しい学年やクラスに、期待と不安で心が揺れたと思います。私も、新しい年度の最初の授業は、心が揺れました。
 最近一番私の心が揺れた出来事は、二月のある日の夕方に妻から来たメールです。今日の夜、長女ができたばかりの彼氏を家に連れてくるらしい、という連絡でした。「いつの間に彼氏ができたんだ」でまず揺れ、「これから家に連れてくる」でさらに揺れました。その彼氏にも、何度も会ううちにすっかり慣れ、心は揺れなくなりました。彼がいい人だったからというのもあるのですが。
 ところで、最近はテレビをつければ戦争のニュースばかりで、これも心が揺れます。
 アメリカとイスラエルがイランと戦争を始め、ロシアによるウクライナ侵攻もあり、イスラエルはレバノンにも攻撃をしかけ、ガザの人たちを5万人以上殺害している戦いも終わっていません。また、いずれ中国が台湾に武力侵攻するかもしれないと言われています。強い国がルール無視でやりたい放題の世界になってきているように思います。
 ただ、これらの戦争に心が揺れていた私も、最近は下手をすると「また戦争の話か」みたいに慣れてしまいかねない、とも感じています。戦争に無関心な人が増えると、戦争したい人たちにとっては都合がいいのです。何も言われなければ、やりたい放題できるからです。結果、さらに戦争が増え、私たちは嫌でも巻き込まれます。だから、チャペルでまで戦争の話は嫌、と思うかもしれませんが、聞いてほしいと思います。
 ところで、知ったところで私に戦争を止める力なんてない、とも思うのではないでしょうか。
 3月に、高市首相がトランプ大統領に「世界を平和にできるのはドナルドだけ」と言って、ニュースになっていました。ご機嫌を損ねると大変なことになるので、しかたなく言った言葉なのかもしれません。でも、この考え方だと、世界の平和はアメリカのような強い国に都合の良い平和でしかなくなってしまいます。ドラえもんで例えると、ジャイアンが力で支配し、ジャイアン一人が満足する世界です。それを平和とは言わないと思います。
 人間社会には、昔からそういう「力による支配」がありました。もしそれが普通のことなら、今も強い国の下で、強くない国の人々が悲惨な生活をしているはずです。でも、必ずしもそうなってはいません。なぜでしょう。
 それは、強い者の一方的な支配に対する、人々の「抵抗の歴史」があったからです。私たちは、そういう先人たちの努力の上に生きています。だとしたら、それを台無しにしようとする動きに対して、何もしないわけにはいかないのではないでしょうか。
 今日の一つ目の聖書の言葉には、神はこの世の強い者を選ばず、無力な者を選んだ、とありました。聖書の神様は、平和な世界をつくるミッションを、あえて弱い人たちに与えたのです。
 そのミッションは、今も続いています。2019年にアフガニスタンで亡くなった、中村哲さんという日本人を知っていますか?中村さんは、聖書の神様のミッションを本気で実行した人です。彼は、内戦状態が続く砂漠の国アフガニスタンに医者として行ったのですが、現地の人たちの問題は病気そのものより「貧しさ」だと気づき、人々と一緒に農業用の水路を作り始めました。その結果、砂漠と荒地だった場所に水がもたらされ、作物ができるようになり、人々の生活が変わっていったのです。貧しさのせいでテロリストや兵士として雇われてお金を稼ぎに行っていた人々が、それをやめて帰ってきたのだそうです。中村さんの働きのおかげで、アフガニスタンの75万人が救われました。
 二つ目の聖書箇所は、「五千人に食べ物を与える」という奇跡の話です。このエピソードのポイントは、 食べる物がない人が目の前に5000人いて、その人たちに食べる物を与えなさいと言われた時に、持っている食べ物が少ししかなかったら、あなたはそれを差し出すか、ということです。
 普通は差し出しません。それどころか、隠れて自分だけで食べるでしょう。
 しかし、ある少年がパンと魚を差し出します。弟子は、「こんなちょっとでは何の役にも立たないでしょう」と言いましたが、この捧げものが奇跡を起こしたのです。人類の歴史には、ときどき、この少年のような一見バカな人が登場します。中村哲さんも、その1人です。一人の医者が砂漠に用水路を作るなんて「できっこない」とか「何の役に立つのか」と周りから言われそうなことです。しかし、神の力を信じて、たとえちっぽけでもあなたの持っているものを差し出す時、あなたは奇跡を見る、と言うのが聖書のメッセージです。
 イエス様は、人類を救うために、十字架で死刑になってご自分の命を差し出されました。人々からはバカにされ、笑われました。救い主なら十字架から降りてみろ、人は救うが自分は救えないのか、と。しかし、イエス様の十字架の犠牲によって、私たちは、争いや憎しみからぬけ出せない罪の奴隷状態から自由になり、自分より困っている人のために働けるようになりました。そうやって助け合い、愛し合って生きることが、人間とって一番幸せなことだからです。中村哲さんは、その幸せをイエス様から教えてもらったから、バカだと言われそうなことをやり続けることができたのだと思います。
 あなたにできることがどんなに小さくても、神様には関係ないのです。持っているものを隠すのではなく、人のために差し出す生き方をしていきたいと思います。
(中学部礼拝より)
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