日本バプテスト連盟 西川口キリスト教会

日本バプテスト連盟 西川口キリスト教会 日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です。
住所は埼玉県戸田市ですが、川口市と蕨市、三市の堺に1962年から建っています。目の前は長い長い桜並木で、「桜並木の教会」が愛称です。

戸田・蕨・川口から通いやすい戸田市喜沢の教会、
西川口キリスト教会へようこそ。
私達の教会は毎週日曜10時から12時まで聖書の学びと礼拝を行っております。 小さいお子さまとご一緒に参加できるスペースもご用意しております。
どうぞお気軽にお出かけください。
※聖書や讃美歌は貸出用がございます
※初めての方は正面玄関から受付へお越しください。

【教会のメンバーが贈る9月の聖句】「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」       ヨハネによる福音書 3章16節 この聖句は、どなたもが一度は目にし、知...
03/09/2026

【教会のメンバーが贈る9月の聖句】

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
       ヨハネによる福音書 3章16節

 この聖句は、どなたもが一度は目にし、知っている有名な箇所です。でもそれを現実のものとして受け入れられないのが人間の弱さなのです。この世で生きていくには、豊かになりたい、他者を支配したい等自己実現に支配されがちになります。これでは、自分が上に立てば他者を顧みるという、自己中心的で傲慢な行動をとり得るものになってしまいます。現実世界では、虐げられたもの、差別されたもの、弱いもの、貧困に苦しむものが、生活するにも汲々(きゅうきゅう)の状態にあるのが現状です。このような時にこそ、一人ひとりが他者を思いやり、助け支え合う、要するに愛の精神で結び合っていくことが求められるのではないのでしょうか。どんな小さなことでもいいから、自分でできることから行ってみてはいかがでしょうか。今日の聖句は、わたしたちの犠牲となってくださったイエスの愛の行いを互いに深く噛みしめ、心に受け止めて日々を歩んでいくことの大切さを示しているものと言えましょう。

T.T

【2026年8月23日(日)礼拝宣教要旨】「手放す力」 朴 思郁 牧師    聖書箇所:フィリピの信徒への手紙 2章6〜11節“かえって自分を無にして、僕の身分になり”(フィリピの信徒への手紙2章7節)インドに伝わる猿の捕え方があります。口...
23/08/2026

【2026年8月23日(日)礼拝宣教要旨】
「手放す力」 朴 思郁 牧師 
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙 2章6〜11節

“かえって自分を無にして、僕の身分になり”
(フィリピの信徒への手紙2章7節)

インドに伝わる猿の捕え方があります。口の細い壺に木の実を入れておく。猿は手を差し入れ、実を握りしめる。握った拳は、その細い口を通りません。手を開けば抜けるのに、放さない。猿を捕えているのは壺ではなく、猿自身の手です。「固執する」(2:6)はギリシア語でハルパグモス、「強奪」「分捕り物」を意味する言葉です。まだ持たぬものを奪うにせよ、すでに持つものにしがみつくにせよ、手の形は同じ、握りしめた拳です。キリストは神と等しくあることを、まことにご自分のものでありながら、分捕り物とはされませんでした。

 今週の聖書教育はサムエル記下6章。ダビデはエルサレムを陥れ、神の臨在のしるしである「神の箱」を、自らの足もとへ運び入れます。牛車が傾き、支えようとしたウザが打たれて死ぬ。テキストは、この失敗の責任はウザではなくダビデに帰されるべきだと記します。神の託宣も、祭司や預言者の意見も求めず、独断で進めた事業でした。箱をつかみ、王座をつかみ、人をつかむ。ダビデの手は、開いていません。

 「自分を無にする」(2:7)はケノオー、空にする、という言葉です。あの物語の終わりにも「空っぽ」が出てきます。踊るダビデを窓から見たミカルは、彼を「空っぽ、軽薄」と蔑む。ダビデは「自分は神の前に軽くなる」と答え、妻を言い負かしました。信仰の言葉として、非の打ちどころがありません。けれどもその正論は、関係を変えるためにではなく、相手を軽んじる根拠として働きました。「信仰」が「自分の正当化」になるとき、へりくだりは偽りになります。

 キリストのケノーシスは、言葉ではありませんでした。何ひとつ自分のものを持たぬ僕となり、最も辱められた十字架の死にまで降られた(2:8)。ミカルが投げつけた「軽い」という場所に、この方は実際に立たれたのです。十字架で叫ばれたのは詩編22編、傷ついた心の祈りでした。聖書教育は「小さな声と神の沈黙」と題し、その沈黙が小さな声に寄り添っていると記します。窓辺にひとり立つ人の側に、神はおられます。

 「このため、神はキリストを高く上げ」(2:9)。上げられたのは、自分を高くした王ではなく、自分を無にした王でした。しかも上げたのはご自分ではなく、神です。私たちが握りしめるのは恐れているからで、その恐れを解くのはキリストの完全な愛だけです(1ヨハネ4:18)。握りしめた拳では、握手ができません。納めた剣を打ち直して鋤とする(イザヤ2:4)。平和月間のこの月、握りしめた指を今日ひとつ、ゆるめてまいりましょう。

【2026年8月16日(日)礼拝宣教要旨】「剣を鞘に納める勇気」 朴 思郁 牧師 聖書箇所:サムエル記上 24章5〜8節“わたしの手はあなたに下しません”(サムエル記上24章13節) 洞窟の暗がりに、剣も従者もない王がひとり立っています。兵...
17/08/2026

【2026年8月16日(日)礼拝宣教要旨】

「剣を鞘に納める勇気」 朴 思郁 牧師 聖書箇所:サムエル記上 24章5〜8節

“わたしの手はあなたに下しません”(サムエル記上24章13節)

 洞窟の暗がりに、剣も従者もない王がひとり立っています。兵たちは言いました。「主が敵をあなたの手に渡すと約束されたのは、この時のことです」(24:5)。けれども、主がそう約束された言葉はサムエル記のどこにもありません。自分たちの願いに神の名の衣を着せたのです。同族ユダの人びとさえ、虐殺(22章)に怯えて彼を通報しました(23:12)。恐れは人の口を閉ざし、正当な痛みは、いつのまにか暴力の燃料になります。
 ダビデは上着の端を切り取ります。ヘブライ語の「切り取る」(カーラト)は「(契約を)結ぶ」とも訳され、ヨナタンとの契約も同じ語です(18:3)。結ぶことも断つことも、同じ一つの刃です。「上着の端」(ケナフ)は王の尊厳と子孫にまで及ぶ言葉。その行為はサウルを嘲るものでもありました。だからダビデの心は痛みます。原文は「心が彼を打った」。剣は抜かなかった。けれども刃は動いていた。剣を納める勇気は、自分の内側にある刃に気づくところから始まります。
 ダビデはサウルを「敵」ではなく「主が油を注がれた方」と呼びます(24:7)。「敵」と呼ぶ間は殺せますが、「神に愛されたひとり」と呼んだ瞬間、手は下せなくなります。そして殺気立つ兵たちを、言葉だけで押しとどめました(24:8)。剣を抜く勇気より、納めさせる勇気のほうが大きいのです。ゲツセマネで耳を切り落としたペトロに、主は「剣をさやに納めなさい」(ヨハネ18:11)と言われ、その耳に触れて癒されました。
 洞窟を出たダビデは黙ってはいません。証拠を示し、無実を語ります。剣を納めることは泣き寝入りではなく、真実を語りつつ、報いを自分の手で取り立てないことです。「主がわたしとあなたの間を裁き……わたしの手はあなたに下しません」(24:13)。裁きの放棄ではなく、正しい裁き手への返還です(ローマ12:19)。復讐とは相手に自分の人生を明け渡すこと。剣を納めた人は、その支配から解き放たれます。
 剣が納められたとき、はじめてサウルの耳が開きました。王は声をあげて泣き、「お前はわたしよりも正しい」と認めます(24:17-18)。刃を向けられている間、人は自分の非を認められないのです。もっとも二十六章で、サウルは再びダビデを追います。平和は一度で完成する成果ではなく、その都度選び直す道です。昨日は終戦の日であり光復の日でした。平和月間のこの月、目の前のひとりに向けた剣を、今日、鞘に納めてまいりましょう。

https://bap-nishi.net/20260809-senkyou/
10/08/2026

https://bap-nishi.net/20260809-senkyou/

埼玉県戸田市の西川口キリスト教会、朴志煥 協力牧師による「御声に耳を傾けながら」の宣教要旨です。サムエル記上20章34節を通して、ダビデとヨナタンの友情と献身から、キリスト者として互いを理解し、尊重し、仕え....

https://bap-nishi.net/christ-our-peace-2026-08-02/
06/08/2026

https://bap-nishi.net/christ-our-peace-2026-08-02/

埼玉県戸田市にある西川口キリスト教会、朴 思郁 牧師による2026年8月2日の礼拝宣教要旨「キリストはわたしたちの平和」。ゴリアトとダビデの物語、エフェソの信徒への手紙2章14節を通して、恐れが生み出す敵意という隔....

【教会のメンバーが贈る8月の聖句】コリントの信徒への手紙二 6章1節「恵みの時にわたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日にわたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。」神様の支えを思います。主の恵...
02/08/2026

【教会のメンバーが贈る8月の聖句】

コリントの信徒への手紙二 6章1節
「恵みの時にわたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日にわたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。」

神様の支えを思います。主の恵みを一つずつ数えます。
そして祈られていること、支えられていることの幸いと感謝を思います。
祈ることのできる幸いを思います。
あなたのために祈っているよと話してくださる友、
あなたのために祈っているよと言ってくださる友、
その時私の心は平安で満たされます。
讃美歌 483 番の歌詞の中に
「その時に 主の光 わが道を照らしだす 主が共に歩まれる 恐れなし われには」 とあります。
その時共に歩んでくださり
助けてくださる神様の御手に感謝していきたいと思います。

                          H.U

【主日礼拝宣教要旨】 受け継がれる信仰」 朴 思郁 牧師2026年7月26日(日) 聖書箇所:テモテへの手紙二 1章3節~7節 「神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」 (テモテへの手紙二 1章6節) 「短い間に生物の世代は移り変わり...
27/07/2026

【主日礼拝宣教要旨】 受け継がれる信仰」 朴 思郁 牧師
2026年7月26日(日) 聖書箇所:テモテへの手紙二 1章3節~7節

「神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」
(テモテへの手紙二 1章6節)

 「短い間に生物の世代は移り変わり、走者たちのように、命のたいまつを手渡してゆく」紀元前一世紀の詩人であり哲学者でもあったルクレティウスは、唯一の著作『物の本質について』にそう記しました。神話に頼らず自然の法則と原子論で世界を説いたこの人にとって、それは原子が生む連鎖にすぎず、火を託した方はおられません。けれども信仰の継承は、たいまつよりも、かつての日本の家の「埋み火(うずみび)」に似ています。灰の下の小さな種火を、朝ごとに掻き起こす。パウロがテモテに書いた「再び燃えたたせる」は、まさに灰の中の熾(おき)を掻き起こす言葉でした。
 パウロはまず「先祖に倣い」と書きます(3節)。ダマスコで人生をひっくり返された人が、なお受け継いだものの上に立っていると知っている。そして「昼も夜も祈りの中で絶えず」テモテを思い起こし、その「涙を忘れることができず」と続けます。信仰は制度によってではなく、名前を挙げて祈られ、涙を伴う関係の中を通って手渡されていきます。週報の祈りの課題に毎週並ぶお名前も、同じ営みです。
 その信仰は、まず祖母ロイスと母エウニケに宿りました(5節)。教会の指導者でも、記録に名を残す立場でもない二代の女性です。「宿る」とは、教え込まれることではなく住みつくこと。今週の聖書教育はサムエル記上十六章、数のうちに入れられていなかった末の子ダビデの選びを取り上げます。「主は心によって見る」(16章7節)。信仰の系図は、世の物差しで数えられない家々を通って流れてきました。
「再び」と勧められるのは、テモテの火が灰をかぶっていたからです。若さゆえの侮り、教会の困難、獄中のパウロ。受け継いだ信仰も、置いておけば必ず灰をかぶります。火とはそういうものだからです。継承とは保存ではなく、その都度掻き起こされること。しかも掻き起こすのは、たいてい自分ではありません。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を「わたしたちに」くださいました(7節)。
 テモテは、ユダヤとギリシアの線の上に生まれた子でした。受け継がれる信仰は、線の内側に閉じこもらず、線を越えて手渡されていきます。来週から始まる平和月間の歩みも、この一点につながっています。私たちの内にある火も、誰かが灰の中に残しておいてくれたものでした。今度は、私たちが残す側に立ちます。名前を挙げて祈ること、子どもたちの傍らに座ること、共に賛美を歌うこと。灰の下に小さな種火を残す者として、「共に仕え、共に育つ」群れとして、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

「見えるものか、信頼か」  朴 思郁 牧師2026年7月19日 (日)  礼拝宣教要旨聖書箇所:サムエル記上 8章4節〜9節 「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」            ...
22/07/2026

「見えるものか、信頼か」  朴 思郁 牧師

2026年7月19日 (日)  礼拝宣教要旨
聖書箇所:サムエル記上 8章4節〜9節

「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」

               サムエル記上8章7節

 イスラエルの民は今、大きな転換点に立っています。長老たちが年老いたサムエルのもとに来て、「ほかのすべての国々のように、我々のために王を立ててください」と申し入れます(8章5節)。きっかけはサムエルの老いと息子たちの失政でしたが、底には、不確かさのうちに対話しつつ歩むことを良しとしない心が広がっていました。民は「他の国々と同じように」、目に見える土台に立ちたいと願ったのです。  

 今週の聖書教育は、王制のもとでは「人々が見ていくものが変わる」と語ります。目に見えない神から、目に見える力を持つ王へと、目線が移されていくのです。これは遠い昔の他人事ではありません。健康、暮らし、仕事、教会の将来――思い煩いを前に、私たちもまた、目に見える確かな力を握りしめたくなります。王を求める民の姿は、鏡に映る私たち自身の姿でもあるのです。

 その言い分はサムエルの目に悪と映り、祈る彼に主は言われます。「彼らが退けたのはあなたではない。わたしが王として君臨することを退けているのだ」(7節)。この一言に、聖書教育は「神の悲哀」を聴き取ります。それはエジプト以来、繰り返された古い背きでした(8節)。それでもなお神は民を見捨てず、「彼らの声に従いなさい。ただし、はっきり警告しなさい」(9節)と告げられます。民の立ち帰りを待ち、その愚かさのただ中をなお共に歩まれるのです。

 この神のご決意は、千年の後、時が満ちて、御子イエスを世に遣わす出来事となりました。教会は主イエスを「まことの王」と告白します。人の弱さを知り尽くし、その取り返しのつかなさを負うて十字架にかかり、復活されたこのお方が、今や私たちのまことの王として共に歩んでくださるのです。サムエルは主の言葉をことごとく民に伝えます(10節)。語ることをやめず、待ち続けてくださる神――それが、私たちの前に立つ神です。

 今日は、新会堂の献堂から十六年を迎える日でもあります。会堂はやがて古びても、神への信頼は古びません。次の世代へ受け渡すべきものは、見える王でも揺るがぬ制度でもなく、なお語り、なお待っておられる神への、生きた信頼です。見えるものか、それとも信頼か。握りしめるのは、見えなくとも確かに共に歩んでくださる神への信頼です。この一点を握りしめ、「共に仕え、共に育つ」群れとして、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

【教会のメンバーが贈る7月の聖句】〝測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。”(旧約聖書 詩編16編6節) 鄙(ひな)には稀な総合病院が新設開業した。医療スタッフは慶応大学病院から送り込まれたが、事務方...
14/07/2026

【教会のメンバーが贈る7月の聖句】

〝測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。”

(旧約聖書 詩編16編6節)

 鄙(ひな)には稀な総合病院が新設開業した。医療スタッフは慶応大学病院から送り込まれたが、事務方その他の部署は地元からの採用だった。町役人の勧めで私もその一人となった。

 数多(あまた)の職員の中で今時に言うところの“何かもっている”と感じる人がいた。後にわかったことだが、その人はクリスチャンだった。

 その人たらしめているキリスト教って何?
 聖書ってどんな書物?
 
 翻訳物の小説で主人公たちに憧れていた私は、
それが知りたくて教会に通うようになった。

 結婚し、娘が生まれ、やがて幼稚園、さてどうする。ちょうどそんな折、西川口キリスト教会付属幼稚園が園児を募集していることを知り、第一期生として長女が、4歳違いの次女も天使園の卒園児となる。その間、週毎の主日礼拝に出席、幼稚園母の会活動に参加をしながら、初代牧師である井置利男牧師夫妻の薫陶(くんとう)に与あずかる。

 夫の前に正座し、夫も共に正座してもらう。

「私は今日、教会でバプテスマといってキリスト者になる儀式を受けます。たとえお父さん(夫)が反対しても翻すことはできません。そのことを承知してください。」

1969年9月7日(その日はちょうど夫の誕生日でした)爾来(じらい)60年、神様が私のために賜った最善の人生プログラムに副って導かれていることを感謝しつつ、生活しつつ…

T.M

2026年7月12日(日)主日礼拝宣教要旨「主よ、お話しください」 朴 思郁 牧師”主よ、お話しください。僕は聞いております“(サムエル記上 3章9節) 「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(3章1節)。...
13/07/2026

2026年7月12日(日)主日礼拝宣教要旨

「主よ、お話しください」 朴 思郁 牧師

”主よ、お話しください。僕は聞いております“
(サムエル記上 3章9節)

 「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(3章1節)。祭司エリは目がかすみ、神の言葉が語られなくなって久しい時代でした。それでも「まだ神のともし火は消えて」いない夜、少年サムエルに初めて主の呼びかけが臨みます。

 ところがサムエルは、その声を聞き分けられません。「サムエルはまだ主を知らなかった」(7節)。三度呼ばれて、三度ともエリのもとへ走ります。声は聞こえていても、それが誰の声なのか分からないのです。私たちの信仰の始まりも、たいていはそうではないでしょうか。そのサムエルに、エリが教えます。「『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」(9節)。目がかすみ、力の衰えたエリが、四度目に「それは主だ」と気づき、少年を神の前へと送り出しました。信仰は自分ひとりで無から生み出すものではなく、誰かが「それは主が呼んでおられるのだ」と教えてくれるところから始まります。

 サムエルの応答は、エリに教えられた言葉をそのまま口にした、いわば借り物の言葉でした。けれども聖書は、その言葉を少年の信仰の応答として記録します。主の祈りも、讃美歌も、交読文も、先に信じた人々が磨き上げ、手渡してくれた言葉です。言葉を借りることは信仰の未熟さではなく、むしろ信仰が世代を超えて流れていることのしるしです。そして応答の中心は「聞いております」の一語にあります。信仰の出発点は、神が語られる方であり、私たちが聞く者とされることにあるのです。

 この後サムエルが聞かされたのは、エリ一族への厳しい預言でした。それでもエリは「隠さず、すべて語りなさい」と促し、少年の言葉を「それは主がお語りになったのだ」と受け止めます。長く語る者であった老人が聞く者となり、聞く者であった少年が語る者とされる。今週の聖書教育は、この対照的な転換こそ、教会に起こされる大切な転換だと語ります。

 灰の下に埋められた火種のように、神の言葉は消えていません。それは私たちが起こした火ではなく、神ご自身が守っておられる火です。委ねられているのは、火を作り出すことではなく、灰を掻き分け、そっと息を吹きかけること――一人の隣に立ち、「それは主が呼んでおられるのだ」と教えることです。「主よ、お話しください。僕は聞いております」。この一言を握りしめ、「共に仕え、共に育つ」群れとして、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

住所

戸田市喜沢1−2−13
Warabi-shi, Saitama
335-0003

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