04/07/2022
主日の福音を味わう⑲
「隣人を自分のように愛しなさい」
先月号でも述べましたが、ルカ福音書は9章の後半でイエスがガリラヤを出発をしたことを記した後、19章に至るまでエルサレムへの歩みを記します。7月の主日には、72人の弟子たちの派遣、善いサマリア人のたとえ、マルタとマリアの物語、主の祈り、愚かな金持ちのたとえが朗読されます。
今回はその中で、善いサマリア人のたとえを取り上げることにします。このたとえは、律法の専門家がイエスを試そうとして、永遠のいのちを得るにはどうすればよいのか尋ねることから始まっています。答えは(やり取りの中で答えたのは律法の専門家の側ですが)、神への全面的な愛と隣人愛の教えでした。イエスも「正しい答えだ」といっておられます。
マタイ福音書、マルコ福音書は、イエスがエルサレムに到着してからの論争の中で、最も重要なおきてとしてこの愛のおきてについて記しています。しかし、それはルカ福音書には記されていません。ルカ福音書は、愛の掟についての教えをこの10章に移し替えて記しているのです。この箇所がどれだけ重要かということが分かると思います。
律法の専門家は、自分を正当化しようとして、イエスにさらに質問をします。「では、わたしの隣人とはだれですか」。この質問に応えるために、イエスは善いサマリア人のたとえを語られます。しかし、たとえの終わりにイエスがなさった質問は、律法の専門家の質問とかみ合っていません。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うのか」。
神を愛し、隣人を愛するとは、愛さなければならない隣人とはだれかを考えることではない。そもそも、神は「だれが愛さなければならない隣人の対象となる人だろうか」などと考え、選別なさるかただろうか。愛するとは、むしろ、神の愛を味わい、自分が苦しんでいる人の「隣人になる」ということではないか。そうイエスは教えておられるのではないでしょうか。だから、イエスはこの人に、「行って、あなたも同じようにしなさい」といわれるのでしょう。
(澤田豊成・聖パウロ修道会司祭)
「(毎日のミサ 7月号)より」