【吉田神社御由緒】
吉田神社の創建については諸説ありますが、旧社家の文書には天治元年(1124)、当地で疫病が流行した際、牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのに始まるとあります。源頼朝の崇敬が殊に篤かったとされ、治承2年(1178)雲谷普門寺に在宿の折、御祈願の為に名代鈴木新十郎元利を遣わし、後文治2年(1186)にも石田次郎為久を遣わしたと伝わります。
吉田城築城後は、吉田城内天王社・牛頭天王社、天保6年に正一位の神階を賜った後は「正一位吉田天王社」と称されました。今川義元・酒井忠次・池田輝政、徳川幕府成立後も歴代の城主により社殿の造営や修補がなされ、鳥居や手水盤など、同じく城主の寄附によるものも多く残ります。明治2年吉田神社と改称、大正11年には縣社に昇格せられました。
【江戸時代の祭礼】
古くより花火祭としてその名を遠近に知られ、滝沢馬琴は羇旅漫録(きりょまんろく)
において「吉田の今日の花火天下一」と称しております。かつては吉田城内天王社祭礼として陰暦6月13日より15日の3日間に渡り行われ、13日は氏子各町それぞれの街路上より花火が放揚されました。
14日は吉田城下、東海道沿い本町の東西両端に山車(祭車)が引出され、車上では子供の舞や獅子舞が奏されました。本町の中央には吉田城主の桟敷が設けられ、建物、大筒、手筒、打揚、綱火等様々な花火が祭を彩りました。
15日の神輿渡御は、天文16年(1547)に今川義元が神輿を寄進している事からその歴史は古く、頼朝に扮した男児が神輿と共に騎馬にて進む姿から、頼朝行列とも呼ばれます。神幸行列に先立って吉田城内関屋小路に設けられた城主見物の桟敷の前では、駆馳の式(十騎が南北の馬場を3回駆けるもの)があり、笹踊りは踊り返し(往復3回)、饅頭配(まんじゅうくばり)と呼ばれる頼朝の家来は城主に挨拶し饅頭を配り、それぞれ神幸に陪従しました。先頭を進む笠鉾(かさほこ)は氏子町内外の寺院から8本出され、神輿を中心に行列をなして下社であり御旅所である御輿休天王社(今の新本町素盞嗚神社)へ神幸、神事斎行後、城内天王社へ還幸しました。
天王社祭礼は公給(藩の援助)42俵、御馬12疋や馬具馬丁等、吉田藩の厚い保護を受け、氏子町内のみならず藩の武家の祭でもあり、吉田の町全体の祭礼であったともいえます。
【豊橋祇園祭】
*手筒花火奉納がある金曜の前日(木曜日)には子供の笹踊りが氏子町内を巡ります。午後3時頃に萱町を出発し、各町の会所前・素盞嗚神社・吉田神社などで笹踊りを披露します。吉田神社へ到着するのは午後5時頃です。
⑴祇園祭初日(7月第3金曜日) 手筒花火発祥の地として知られる吉田神社の例祭は通称「豊橋祇園祭」と呼ばれ、7月第3金曜日より3日間盛大に執り行われます。 初日の金曜日は、昼頃から各町による大筒・乱玉台の練込み(台物を担ぎ、町内を練り歩くこと)があり、午後4時頃には八ヶ町の台物が神社に集合します。午後6時より宵祭、手筒の清祓いが執り行われ、拝殿前にて奉賛会長や各町の代表による神前手筒が奉納されます。以降、境内西側の広場に場所を移し、手筒・大筒・乱玉・ようかん花火などが町毎に奉納されます。午後10時頃には終了です。桟敷席はございません、どなたでもご覧頂けます。
⑵祇園祭2日目 翌土曜日は、昼頃より町毎に玉箱の練込み、午後6時より前夜祭が斎行され、神社北側豊川河畔において打上花火が奉納されます。1万発以上の花火が打ち上げられ、午後9時頃には終了致します。桟敷席についての問い合わせや申し込みは豊橋祇園祭奉賛会ホームページをご覧ください。
⑶祇園祭3日目(例祭日) 翌日曜は、愈々本祭(例祭)です。午前10時より献幣使参向のもと、氏子による雅楽・浦安の舞が奉奏される中、例祭が厳かに執り行われます。 午後4時半には頼朝や饅頭配りなどの神役が神社に集合し、笹踊りの到着を待って午後5時頃には神輿が出発致します。神輿渡御は頼朝行列と呼ばれ、神輿を中心に行列をなして旧東海道沿いの氏子町内を巡り、御旅所である素盞嗚神社にて神事斎行の後、午後7時過ぎには吉田神社に戻って参ります。これを以て祇園祭は全ての神事・神賑行事を終了致します。