日本バプテスト連盟 豊橋キリスト教会

日本バプテスト連盟 豊橋キリスト教会 豊橋市民文化会館のピラミッド公園の近くにあるキリスト教バプテスト(浸礼)派プロテスタントの教会です。

【先週の宣教要旨】2026年8月9日「試みを知る主」ヘブル人への手紙 2章14節から18節 「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(14節)。血と肉とは、おなかがすき、疲れ、痛みを感じ...
16/08/2026

【先週の宣教要旨】2026年8月9日
「試みを知る主」ヘブル人への手紙 2章14節から18節

 「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(14節)。血と肉とは、おなかがすき、疲れ、痛みを感じ、やがて死ぬ、この私たちのからだのことであります。イエス様は、これをご自分から身に受けられました。乳を飲む赤ん坊として生まれ、大工の仕事で手にまめをつくり、友の墓の前では声をあげて泣かれた。イエス様のほうが、こちら側へ来てくださったのであります。

 「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」(14節後半)とあります。「滅ぼす」ということばは、相手の手から力を取り上げ、もう働けなくするということばであります。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため」(15節)、生きているあいだずっと、ということであります。聖書は、その恐れの下にいる人を責めるためではなく、解き放つためにこう書いたのであります。死は、まだあります。けれども、私たちをつないでいたその綱が、ほどかれたのです。

 ここでの「助ける」は、手を伸ばし、手を取って引き上げる、ということばです。湖で沈みかけたペテロの手をイエス様がつかまれた、あの場面と同じことばであります。つかまれたのは、強い人の手ではなく、もうしがみつくしかなかった人の手でした。「あわれみ深い」とは、こちらの事情を知っていてくださるということ。「忠実な」とは、引き受けた務めを最後まで手放さないということであります。イエス様は「この杯を、わたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。それでも立ち上がって、その道を歩いて行かれた。主は、通って知っておられるのであります。

 それでも、祈っても変わらないことがあります。そのときにも、この18節は力を失いません。ここで約束されているのは、痛みが消えることではないからです。知っていてくださる。忘れておられない。独りにはなさらない。すぐそばに立っていてくださる。それが、この方の助けであります。恐れは、まだあってよいのです。その恐れごと、この方が先に立って行ってくださいます。主は、通って知っておられます。ですから、恐れは、もう私たちの主人ではないのであります。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨<平和礼拝>】2026年8月2日「滅びの連鎖を断つ」マタイの福音書26章47節から56節 「イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とし」ました。考えて抜いたので...
09/08/2026

【先週の宣教要旨<平和礼拝>】2026年8月2日
「滅びの連鎖を断つ」マタイの福音書26章47節から56節

 「イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とし」ました。考えて抜いたのではなく、体が動いてしまった。この弟子の剣は、イエス様を守ろうとして抜かれた剣でした。無実の人を守るという、当時考えうる最も正当な理由の剣であります。それでもイエス様は「剣をもとに納めなさい」と言われます。抜く前にあった場所へ戻しなさい、という言葉です。

 続けてイエス様は「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われます。剣で応じれば、相手はもっと大きな剣を持って来る、こちらもさらに強力な剣を用意する。そうして誰にも止められなくなる。滅びの連鎖であります。ここで大切なのは、この言葉が剣を向けられた側を責める言葉では決してないということです。イエス様は剣を抜いた弟子に、主に従う者に向けてこの言葉を語られました。つまり、私たちにも語られている言葉です。痛みを受けた者が、いつのまにか痛みを与える側に立っている。傷つけられた記憶が、次に剣を取る理由になる。これは誰か特別な人の話ではありません。

 そのうえでイエス様は、父にお願いすれば七万を超える天の軍勢を今すぐ呼べる、と言われます。それでも呼ばれませんでした。この夜イエス様が示された強さは、力を持っていることではなく、持っている力を使わないでいられることでありました。私たちが手にしうる力は、刃物だけではありません。正しさもまた力になります。あの夜、弟子が握っていたのも、そういう正しさでありました。

 弟子が剣を抜いたとき、大祭司のしもべの血が流れました。イエス様はそこで剣を納めさせ、のちに流させる血を防がれました。そしてその少し前にイエス様は杯を取って言われました。「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」。流させる血ではなく、差し出す血であります。滅びの連鎖を断ったのは、主ご自身の血でした。連鎖を断ったのは、剣ではなく赦しです。主が「もとに納めなさい」と言われたその剣を、私たちは今、どこに置いているでしょうか。この問いを持ったまま、差し出された血によって開かれた晩餐式に、共に臨みたいと思います。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年7月26日「私たちと同じ人」ヤコブの手紙 5章13節から18節 ヤコブは、「苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい」(13節)と語ります。祈るのはどんな時でもい...
02/08/2026

【先週の宣教要旨】2026年7月26日
「私たちと同じ人」ヤコブの手紙 5章13節から18節

 ヤコブは、「苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい」(13節)と語ります。祈るのはどんな時でもいい。辛い時は助けてください、嬉しい時はありがとうございます、それだけでも構いません。祈りの扉は、苦しみの日にも喜びの日にも、同じ広さで開かれています。

 病いの日には、痛みや不安で祈る言葉が出てこない時があるかもしれません。そういう日のためにヤコブは「その人は教会の長老たちを招き……祈ってもらいなさい」(14節)と語り、祈ってほしいと助けを求めるその一歩を勧めています。「信仰による祈りは病む人を回復させます」(15節)のこの「回復」は、もともと「救う、助ける」という広い意味合いの言葉です。体の癒しをまっすぐ求めて祈っていい。しかし、祈っても治らない現実があることも私たちは知っています。その時にも、その祈りの言葉は嘘にはなりません。最後にはイエス・キリストご自身が私たちを立たせてくださるのであります。

 ここで信仰を求められているのは、床にある本人ではなく、招かれて祈る側です。といっても祈る側が試されるという話でもない。「自分の信仰が足りないから治らないのではないか」という考えは、聖書自身がはっきり退けています。そして「互いのために祈りなさい」(16節)と続け、祈りは長老たちの務めから私たち全員のことへと広がっています。誰かのために祈るということは、特別な人の仕事ではありません。ここにいるわたしたち一人一人にその働きが委ねられているのであります。

 ヤコブが祈りの見本として挙げたのは預言者エリヤであります。ところがその挙げ方は反対でありました。「エリヤは私たちと同じような人でした」(17節)。同じ弱さ、同じ性質を背負った人間だった、という意味であります。その同じ人間の祈りを、神様は聞いてくださった。雨を降らせたのはエリヤの熱心さではなく、神様であります。

 今週、誰かのためにぜひ祈ってみてください。上手でなくて構いません。私たちと同じ人間の小さな祈りを、主なる神は近くで聞いていてくださる。互いのために祈り合うところに、イエス様も共にいてくださいます。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年7月19日「言葉は人を生かす」ヤコブの手紙 3章1節から12節 私たちはだれもが、言葉に生かされた覚えを持っております。うつむいていた日に、そっとかけてもらった一言で、もう一度顔を上げることができた。そして同時に...
26/07/2026

【先週の宣教要旨】2026年7月19日
「言葉は人を生かす」ヤコブの手紙 3章1節から12節

 私たちはだれもが、言葉に生かされた覚えを持っております。うつむいていた日に、そっとかけてもらった一言で、もう一度顔を上げることができた。そして同時に、だれもが言葉に傷つけられた覚えも持っております。何年たっても消えない一言を、胸のどこかにしまったままにしている。ヤコブは今日、この小さな舌を正面から見つめます。

 ヤコブは馬のくつわと船の舵をたとえに挙げます。あの小さな金具、ごく小さな舵一つで、大きな馬も船も向きが変えられる。舌も小さな器官なのに人の全体を左右してしまう。舌は、いわば私という一人の人間の舵です。「あのように小さい火が、あのように大きい森を燃やします」(5節)。ほんの小さな火種が大きな炎となるように、たった一言が、人を、家庭を、群れを焼くことがある。ヤコブは「舌を制することは、だれにもできません」(8節)と申します。けれどもこれは、私たちを絶望させるための言葉ではありません。

 ヤコブは、いちばん深い問題を言い当てます。「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです」(10節)。礼拝で心から神をたたえた、その同じ口で、心の中でだれかを決めつけ、見下してしまう。ここでヤコブは「相手が善い人だから呪うな」とは言いません。呪ってはならないその相手を、「神にかたどって造られた人」と呼びます。どんな人も、神の面影を宿している。同じ口で神をたたえながら、その神に似せて造られた人を呪う。それは、ただの言葉の不一致ではなく、深い食い違いなのであります。

 「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか」(11節)。問題は、口から出てくる水をあわてて堰き止めることではなく、その水が湧き出してくる源である私たちの心です。その源を整えるのは、知恵を惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神さまです。源が御手で整えられていくとき、神をたたえたその同じ口が、こんどは隣人を生かす言葉を語り始める。舌は人を焼きもする。けれども源が整えられるとき、その同じ舌が、人を生かすのであります。その源である心ごと、整えてくださるお方の御手に、そっと差し出してまいりましょう。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年7月12日「いのちの冠」ヤコブの手紙 1章2節から12節 「さまざまな試練にあうときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(2節)。この言葉にすぐに「はい」と言えないのが、私たちの本当のところではないでしょうか...
19/07/2026

【先週の宣教要旨】2026年7月12日
「いのちの冠」ヤコブの手紙 1章2節から12節

 「さまざまな試練にあうときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(2節)。この言葉にすぐに「はい」と言えないのが、私たちの本当のところではないでしょうか。痛いものは痛い。つらいものは、つらい。けれども心にとめたいのは、ヤコブは「試練にあわなかった人が幸いだ」とは一言も言っておりません。「信仰がためされると忍耐が生じる……あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(3〜4節)。ここで「完全」と言われているのは、欠けたところが満たされて、あるべき姿へと育て上げられていくという意味合いがあります。仕上げてくださるのは、自分ではなく神ご自身であります。

 「忍耐」も、歯を食いしばって我慢することのように聞こえるかもしれません。けれども難しいことではありません。忍耐とは、逃げ出さずにその場に踏みとどまる力であります。この試練の只中でも、神が私を見捨てておられない、それどころか、逃げずに踏みとどまる力を今、私のうちに養っておられるというのであります。

 「あなたがたのうちに知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」(5節)。ここでの「知恵」は、この試練の中をどう生きたらよいのかが分かる力であります。神に頼りたい心と、どうせ聞かれないだろうと引いてしまう心が綱引きをする、その心の揺れを責めていません。揺れる心のままで、両手を差し出してよいのであります。

 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」(12節)。この冠は、耐え抜いた手柄で勝ち取る報酬ではありません。「約束された」贈り物であり、恵みが先にあります。しかも、その耐え抜く力さえ、神が今あなたのうちに養っていてくださる。ゴールに待っておられるのは判定台ではなく、「待っていたよ」と、いのちの冠を差し出してくださる御手であります。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩篇121)。目を上げるその先に、いのちの冠を手にした御手があります。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年7月5日「感謝に立ち返る」ルカの福音書 17章11節から19節 エルサレムへの旅の途中、イエス様がある村に入られると、重い皮膚病を負った10人の人たちが出迎えました。この人たちは穢れた者とされ、家族からも村からも...
12/07/2026

【先週の宣教要旨】2026年7月5日
「感謝に立ち返る」ルカの福音書 17章11節から19節

 エルサレムへの旅の途中、イエス様がある村に入られると、重い皮膚病を負った10人の人たちが出迎えました。この人たちは穢れた者とされ、家族からも村からも切り離されて街の外で暮らさなければなりませんでした。人に近づくときには「私は汚れている」と自分で叫んで、自分を遠ざけないといけない。彼らはイエス様に近づけず、遠く離れたところから「私たちを憐れんでください」と声を張り上げるしかなかった。主イエスは、そのように近づけずにいる人の叫びを聞き、憐れんでくださる方であります。

 イエス様は「行って、自分を祭司たちに見せなさい」と言われ、まだ病が治っていないうちに彼らを送り出されました。彼らはその言葉を信じて歩き出し、行く途中でその10人は癒されました。そのうち9人はそのまま祭司のもとへと進んでいきます。これは決して悪いことではありません。イエス様がそう言われた通りにしているわけであります。ところが1人だけが足を止めて、自分が癒されたことがわかると、大声で神を褒めたたえながら元来た道を引き返し、イエス様の足元にひれ伏して感謝したわけであります。

 9人も確かに同じ恵みを受け取りました。けれども与え主のもとへ向き直ったのは、この1人だけでした。そして聖書はそっと一言を添えています。「彼はサマリア人であった」。神を礼拝する中心から構造的に締め出されていた人々の一人が、与え主の足元にひれ伏して真の礼拝を捧げたわけであります。イエス様は「他の9人はどこにいるのか」と言われますが、これは責める言葉というよりも、もっと大きなものを受け取れたのにと惜しむ言葉であります。

 10人はみな癒されました。けれども戻ってきた1人には「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。癒しも大きな恵みですが、戻ってきた1人が受け取ったのはそれ以上のものでした。与え主を知り、その方と共に生きるものとされたのであります。感謝とは、いただいたものをいただいたと認め、与えてくださった方に向き直ることであります。一番遠くにいた人が、一番近くで主の足元に礼拝した。私たちもこの人と共に与え主のもとへ立ち帰り、感謝を捧げるものとして歩んでまいりましょう。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年6月28日「送り出す食卓」使徒の働き 13章1節から3節 アンティオキアの群れが二人の人に手を置いて送り出したこの場面で本当に光が当てられているのは、送り出された二人ではなく、送り出した群れの方であります。祈って...
05/07/2026

【先週の宣教要旨】2026年6月28日
「送り出す食卓」使徒の働き 13章1節から3節

 アンティオキアの群れが二人の人に手を置いて送り出したこの場面で本当に光が当てられているのは、送り出された二人ではなく、送り出した群れの方であります。祈って、覚えて、送り出す。その働きもまた祭司の務めであり、今日ここにいる私たち一人ひとりも、その務めに召されています。

 世界宣教はどこから始まったのでしょうか。聖書はこう書きます。「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が言われた」。始まりは礼拝でした。アンティオキアという町の小さな群れが、ただ神を礼拝していた。すると神が語られたのであります。宣教は礼拝から生まれる。神を拝むその只中から流れ出してくるのであります。礼拝が生きていれば、神はその只中で語られるのであります。

 神は礼拝の中で「バルナバとサウロを、わたしのために聖別しなさい」と語られました。聖書は群れの五人の名を並べ、生まれた国も育ちも身分もまるで違うこの五人を横並びに呼びます。序列はない。信じる者は皆祭司だという姿です。祭司とは、いわば神さまへの「取り次ぎ役」です。自分が神さまに直接つながり、そのうえで誰かのためにも祈り、その人を神さまの御前に運ぶ。そういう役目であります。召しは群れがその場で作り出したのではなく、すでに神の側で定まっていた。教会はそれを後から確かめ、うなずいただけなのであります。

 群れは二人の上に手を置いて送り出しました。手を置くという行いは上の者が下の者に力を注ぎ込むことではありません。「あなたの召しを、私たちも確かに受けとめました。あなたは一人で行くのではありません。私たちがここで祈っています」と確認し、託し、共に立ち、祝福して祈ることであります。主語は最初から最後まで「群れ」であります。

 旅に出た人の召しと、とどまって送り出した人の召しは、どちらが上でも下でもない。一つの宣教の、二つの役割であります。とどまる人は、旅の半分を背負う欠かすことのできない人です。礼拝から宣教が生まれ、送り出す群れが食卓に集い、そこからまた私たちは遣わされていく。共に食卓に集い、共に神のみ名をたたえてまいりましょう。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年6月21日「まだ見えなくても」ミカ書 4章1節から5節 沖縄慰霊の日を覚え、本日の礼拝をお捧げしております。預言者ミカは、大国アッシリアの脅威が迫る時代、「平和だ、平和だ」と叫ぶ預言者たちがいた中でごまかすことを...
28/06/2026

【先週の宣教要旨】2026年6月21日
「まだ見えなくても」ミカ書 4章1節から5節

 沖縄慰霊の日を覚え、本日の礼拝をお捧げしております。預言者ミカは、大国アッシリアの脅威が迫る時代、「平和だ、平和だ」と叫ぶ預言者たちがいた中でごまかすことをしませんでした。3章の終わりでこのエルサレムはやがて廃墟となると告げます。ところが、その「廃墟となる」という言葉のすぐあとに、本日の4章が続きます。廃墟となるはずのその同じ場所が、世界中の人々が平和を求めて集まる場所になる。剣が鋤に変えられ、槍が鎌に変えられる。殺すための道具がいのちを養うための道具に作り変えられる。そして「もう戦うことを学ばない」。戦争の準備そのものがいらなくなる。廃墟になると告げられたまさにその場所で、神はミカを通して平和の幻を示されたのであります。

 ミカの口を通してもう一つの光景が示されます。「人々はみな、自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、彼らを脅かす者はだれもいない」(4節)。ぶどうの木もいちじくの木も、植えてから実るまでに何年もかかります。その木の下に座るということは、その土地で腰を据えて長く安心して暮らせるということであります。脅かすものがない。怯えなくていい。これこそ、「命どぅ宝」(命こそ宝)です。

 平和の道が見えずにいる。そのことをイエス様はエルサレムの都の上で涙を流して嘆かれました。今、沖縄や世界の現状をイエス様もご覧になられて同じように涙を流しておられるのではないでしょうか。遠く離れたこの豊橋からも、忘れないこと、覚えること、傍らに立ち続けること、「もう、独りにはしない」という連帯が私たちに求められています。

 「しかし、私たちは、私たちの神、主の名によって、世々限りなく歩む」(5節)。これは「もう平和になった」ということでも「平和なふりをしよう」ということでもありません。戦争の現実をごまかさずに嘆きながら、苦しんでおられる方々の傍らに立ちながら、そしてこの約束を手放さずに、歩き続けるということであります。やがて神はすべての涙をご自分の手でぬぐい取ってくださる(黙示録21章)。その日を信じて、今日できる一歩を踏み出してまいりましょう。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年6月14日「野の花を見なさい」マタイの福音書 6章25節から34節 「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父が養っていてくださいます」(26節)。今日...
21/06/2026

【先週の宣教要旨】2026年6月14日
「野の花を見なさい」マタイの福音書 6章25節から34節

 「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父が養っていてくださいます」(26節)。今日咲いて明日には炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこんなに美しく装ってくださる。「ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがあるでしょうか」(30節)とイエス様は言われます。

 「信仰があるから大丈夫」と口にしながら、夜ひとりになると病のこと、これからのこと、家族のことが心をよぎる、そういうことが私たちにはあります。イエス様はそれを叱りません。「見なさい」と言われます。心配でいっぱいになっている自分の心から目を上げて、神が鳥を養い花を装っておられるその姿を見なさいと言われるのであります。心配が消えるのは心配と格闘して勝ったからではありません。目を自分の不安から神の配慮へと向け直すからです。安心は自分の中から絞り出すものではなく、神のほうから与えられるものであります。

 イエス様は続けて言われます。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(33節)。「神の国を求める」というのは、心配でいっぱいになっているこの今日という一日の真ん中に、まず神をお迎えすることであります。「神さま、今日も、わたしの歩みをあなたに委ねます」と神を中心に置く。すると必要なものは神様がちゃんと加えてくださるとイエス様は約束されます。

 「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します」(34節)。私たちが心配していることの多くは、まだ来ていない先のことだったりします。しかしイエス様が語っておられるのは、ただ「今に集中しなさい」ということではありません。親が子を抱きしめるように今日の私たちを抱いていてくださる神がおられるから、今日を安心して生きられる、ということです。鳥を養い花を装ってくださる神は、ついにひとり子イエス様を十字架にまで与えられた。神様は私たちをそれほどまでに顧みてくださっています。野の花を見なさい。空の鳥を見なさい。そして丘の十字架を見上げて、神の御手の中で、今日を共に生きてまいりましょう。(牧師 小林大記)

【先週の宣教要旨】2026年6月7日「あなたも招かれている」使徒の働き2章37節から47節 「私たちはどうしたらよいでしょうか」と問うた人々への答えは、二千年前のエルサレムの人々だけに向けられたものではありませんでした。ペテロはこう答えます...
14/06/2026

【先週の宣教要旨】2026年6月7日
「あなたも招かれている」使徒の働き2章37節から47節

 「私たちはどうしたらよいでしょうか」と問うた人々への答えは、二千年前のエルサレムの人々だけに向けられたものではありませんでした。ペテロはこう答えます。「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)。そして「この約束は、あなたがたと、その子どもたち、また遠くにいるすべての人のためのものです」(39節)と語りました。遠くにいる人、何百年も後に海を越えたこの日本で、豊橋で、この言葉を聞く人、つまり、今日ここにいる私たちのことであります。二千年前エルサレムにいなかった私たちも、この招きの中に確かに入れられているのであります。

 ペテロの言葉に「心を刺された」人々は、あの十字架が自分のためだったと気づいた時、心の向きが変わりました。今までの自分から主のほうへと向き直る、それが悔い改めです。その日ペテロの言葉を受け入れた人々がバプテスマを受け、「三千人ほどが弟子に加えられた」と伝えられています。教会が生まれた瞬間でありました。

 招かれた先に待っていたのは、堅苦しい規則でも厳しい掟でもありませんでした。「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた」(46〜47節)と伝えられています。教会というのはもともとこういう場所でありました。立派な人だけが集まる場所でも規則を守れる人だけの場所でもない。招かれた者たちが一緒にご飯を食べ、喜びを分かち合う、温かい家族のような場所であります。「自分のような者がここにいてもいいのだろうか」と思っておられる方がいるかもしれません。しかし招かれた者には居場所がある。喜びの食卓にあなたの席があります。

 「主は救われる人々を日々、加えてくださった」(47節)。人が増えたのは誰かが上手に勧誘したからではありません。主ご自身が一人また一人と招き迎え入れてくださったのであります。その招きは今日も続いています。主は今日も一人ひとりを招いておられます。招かれて、応えて、その先には喜びの交わりがあります。(牧師 小林大記)

住所

向山東町4番地 1
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電話番号

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