16/08/2026
【先週の宣教要旨】2026年8月9日
「試みを知る主」ヘブル人への手紙 2章14節から18節
「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(14節)。血と肉とは、おなかがすき、疲れ、痛みを感じ、やがて死ぬ、この私たちのからだのことであります。イエス様は、これをご自分から身に受けられました。乳を飲む赤ん坊として生まれ、大工の仕事で手にまめをつくり、友の墓の前では声をあげて泣かれた。イエス様のほうが、こちら側へ来てくださったのであります。
「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」(14節後半)とあります。「滅ぼす」ということばは、相手の手から力を取り上げ、もう働けなくするということばであります。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため」(15節)、生きているあいだずっと、ということであります。聖書は、その恐れの下にいる人を責めるためではなく、解き放つためにこう書いたのであります。死は、まだあります。けれども、私たちをつないでいたその綱が、ほどかれたのです。
ここでの「助ける」は、手を伸ばし、手を取って引き上げる、ということばです。湖で沈みかけたペテロの手をイエス様がつかまれた、あの場面と同じことばであります。つかまれたのは、強い人の手ではなく、もうしがみつくしかなかった人の手でした。「あわれみ深い」とは、こちらの事情を知っていてくださるということ。「忠実な」とは、引き受けた務めを最後まで手放さないということであります。イエス様は「この杯を、わたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。それでも立ち上がって、その道を歩いて行かれた。主は、通って知っておられるのであります。
それでも、祈っても変わらないことがあります。そのときにも、この18節は力を失いません。ここで約束されているのは、痛みが消えることではないからです。知っていてくださる。忘れておられない。独りにはなさらない。すぐそばに立っていてくださる。それが、この方の助けであります。恐れは、まだあってよいのです。その恐れごと、この方が先に立って行ってくださいます。主は、通って知っておられます。ですから、恐れは、もう私たちの主人ではないのであります。(牧師 小林大記)