26/09/2016
礼 拝 説 教 2016年聖霊降臨後第19主日(2016、9、25)
説教主題 「私の名はラザロ」
聖書箇所 ルカによる福音書 16章19節~25節(31節)
◆金持ちとラザロ
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
[ 説 教 ]
世界中にはたくさんの宗教があります。そして、それぞれの宗教は自分たち独自の教えを持っています。ところが、それらの宗教にほぼ共通した教えがあります。それは死後の世界があること。もう一つはその死後の世界には二つあること。呼び名は様々ですが、一つは天国(神の国・極楽など)、もう一つは地獄(黄泉・陰府の国など)と呼ばれています。しかも誰が天国に行き、誰が地獄に落ちるのかも、ほぼ共通しています。それは、生前、良いことをしたら天国に行き、悪いことをすれば地獄に落ちることになっています。
そして、キリスト教も少し似ているところがあります。ただ主イエスキリストは、天国(あるいは神の国)については、たくさんのことを教えていますが、陰府(地獄)については、ほとんどありません。はっきりと陰府について語っているのは、この箇所だけだと思います。そして今日の箇所では、天国と地獄(陰府の国)について、主イエスは一つの譬えを用いて教えています。
それによりますと、貧乏人ラザロは天国に行き、金持ちは地獄に落ちました。その理由として父アブラハムは16:25で『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』とあります。つまり生前、豊かで良いものを貰っていた者は地獄に行き、生前、悪いものを貰った者は天国に行くようです。しかも天国には神の大きな慰めと平安があり、地獄には多くのもだえ苦しみがあると言います。またこの天国と地獄の間には、大きな淵があり、それを互いに乗り越えることができない。それが天国と地獄です。
さらに興味深いことに、16:23には[金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。]とあります。つまり天国と地獄は、異なった場所にあるのではなく、遠くに離れていても、それは互いに見える距離にあり、しかも、大声で呼びかけると聞こえる距離にあって、会話もできる距離にあるのです。これは意外なことです。
そこで金持ちは、ラザロをこちらに寄こして自分の苦しみを和らげてほしいと、父アブラハムに呼びかけますが、しかしそれは拒否されます。でも、金持ちは何故、地獄に落ちたのでしょうか。彼はどんな悪いことをしたのでしょうか。16章19節によると、彼は毎日、贅沢に遊び暮らしていました。確かに贅沢に遊び暮らすことはあまり感心しません。でも旧約聖書によると、豊かであることは神の祝福の表れだと理解されています。また彼は何か悪い事をしたわけではなく、ラザロに危害を加えたのでもありません。だから彼は悪い事をしたとは言い難いのです。でも地獄に落ちました。なぜでしょう。
それに対して、ラザロはどうして天国に行ったのでしょうか。彼はどんな良いことをしたのでしょうか。16章20節によると、彼は貧乏でできものに苦しめられ、いつも空腹でした。しかし彼が何か良いことをしたとは書かれていません。でも彼は天国に行きました。なぜでしょう。
この謎を解くカギは、実は、彼の「ラザロ」という名前にあります。ラザロはヘブライ語ではエレアザルと発音するそうです。そしてこのエレアザルという名前の意味は「神は助ける」とか「神の慰めと憐みによってのみ生きる」とか「神が助けると決めた」などという意味があるのだそうです。
つまりラザロは、生前から、自分は神の憐みと慰めを受けなければ生きることが出来ないことを知り、そして、[自分はラザロ]すなわち神が助けると決めた者、であることを信仰によって信じました。だから彼は天国に行ったのだと主イエスは教えてくださいます。
しかし金持ちは神の憐みも助けも信じませんでした。なぜなら自分には神の助けがなくても生涯、遊んで暮らせる財産がある。神の助けも憐みもいらない。財産が私を助けると考えていたが故に、金持ちは地獄に落ちたと主イエスは語ります。でも本当は、金持ちも自分も神の憐みと助けによって生きる者であり、自分の名前もラザロ、であることを知るべきでした。しかし彼は自分がラザロであることを信じません。そしてこの金持ちだけでなく、すべての人は、神の助けと憐みによって生きているのですが、しかしそれを知る人は少ないようです。本当は、すべての人の名はラザロ、なのです。
さてそこで先日、主のみもとに召された石尾さんはどっちに行ったのでしょうか。気になります。その疑問を解くカギは彼の信仰生活にあります。彼は1981年に洗礼を受けたのですが、彼は最初に教会に来たとき「洗礼を受けたい」と言って来られました。そのときから、天に召されるまで、彼は教会を離れることはありませんでした。彼は最初から自分は神の慰めと憐みによってその生涯を生き、自分も神が助けると決めたラザロであることを信じていたのであります。だから石尾さんは、天国の入口で「自分も一人のラザロであり、私の名はラザロ」と告白して、天国に迎えられたことは確かであります。
さらに、石尾さんだけでなく、私たちはいつの日か天に召されます。そのとき、天の御国の入口で天使たちに「私は主を信じる信仰において、私の名はラザロ」と告白できるような信仰生活を、これからも続けて行きたいと思うのであります。 アーメン
次回は、10月23日を予定しています。
滝川聖ヨハネルーテル教会 牧師 宮﨑篤