05/06/2026
<6月の言葉「青山元不動」>
<6月の言葉「青山元不動」>
――前略―-
私たちの日常生活も、
心に大雨が降ったり、
迷いの雲がたえず去来し
悩まし苦しめ
「真実の自己」(仏性)を見失い、
ときには自分が何をやっているのかわからなくなり
右往左往してしまいます。
このようなときこそ、
本来不動の本性を徹見して、
そこに自己の根底を置いて、
迷いの雲が来れば来るにまかせて、
去れば去るにまかせて、
少しもそれに執われないことが肝要であります。
いつまでもそれに悶着していなければ、
いつの間にか消えていく。
これが「白雲自ら去来す」の心境だと思います。
この「白雲自ら去来するも、青山は元不動なり」の境地に自己の根底を置けば、
順逆いずれの境にあっても 動揺することなく、
いかなる場合に処しても自己の本分をあやまることはなくなります。
境界に二種あり、順と逆となり、
我が心にかなへることをば
順境界という。
我が心にそむけることをば
逆境界といへり
(夢窓国師『夢中問答』)
私たちの人生行路には、
晴れの日もあれば、
曇った日もあり、
風の日もあれば、
雪の日もあります。
万事とんとん拍子に運ぶ順境もあれば、
いくら努力してもうまくいかぬ
逆境もあります.
こうした人生に処して、
かっての自分は、 ともすれば外的条件に振り回わされて右往左往し、
本来不動の本性、即ち、真実の自己を見失い、
人生のどん底に落ち七転八倒し自暴自棄になりがちでした。
しかし、日々悶々とするなかで、
これではならじと自己の人間的根本改造を決意し、
一笠一杖の乞食(こつじき)雲水として全国行脚七年有半(昭和57年8月から平成元年12月末迄)を実践。
・寺々に宿を乞えども ことわられ
星をまくらに 岩かげにふす
・長良川こよいの宿は橋の下
川面かわもにうかぶ 月を友とし
雨が降れば、
無心に網代笠をうつ雨の声を聴き、
雨にとけこみ、
雨に成り切って歩く。
雪がふれば、
無心のままに舞い落ちる雪の鼓動をきき、
雪にとけこみ、
雪に成り切って歩く。
風が吹けば、
無心に頬をたたく風と遊び、
風にとけこみ、
風に成り切って歩く。
〈任運無作〉
――任せ切った心境に立って、
一切を素直に正受し、
その時 その場に成り切って
黙々と歩く。
この自然(じねん)の理法に随って生きる「自然随法(じねんずいほう)」の生き方を体得した御蔭で、
順境もとよりよし、
逆境また可なり
と 達観する境地に到達しました。
そして、行雲流水の行脚生活で、
晴れてよし 曇りてもよし
富士の山
元(もと)の姿は かわらざりけり
という 山岡鉄舟居士の歌の境地を 多少ながらも味わうことができるようになりました。
富士山は外的条件がどのように変わろうとも泰然として、
少しも真実の自己を動ずることはない。
周囲の雲がどのように去来しようが、
富士山はそんなものに動かされることなく、元(もと)の姿を変えないからこそ、
そこに晴れてよし、曇りてもよしの妙景を現出するのです。
すなわち不動の真面目(本来の姿)があるからこそ
富士山が去来する雲によってかえって味わいを増すように、
私たちも、人生の岐路に立たされたとき、逆境や難関に遭遇したとき、
ともかく、どんと腰を据えて、衆流(煩悩妄想の流れ)を截断して、
一切を 捨てて 捨てて 捨て切って、
死んで 死んで 死に切って、
死人になり切って、
不動の本性を発揮することが肝要であります。
そうすれば
必ずや 逆境が自然と開ける時が来ます。
【菩提樹下のさとり】
一切衆生皆 悉(ことごと)く
如来の智慧徳相を具有す。
但、妄想執着を以ての故に証得せず。(釈尊)
#85歳勧進僧黙雷
*下記コメント欄のURLより抜粋