森林自然葬・いのちの森

森林自然葬・いのちの森 水源の森を守る
<森林自然葬・いのちの森>
 商標登録第4310763号
森をつくり、森にねむり、自然にかえる

#森の再生 #木の根元に眠る #自然にかえる 

いのちの森(自然宗佛國寺・所有地)に無断での入山は禁止。

 水源の森をつくる
< 森林自然葬・いのちの森>  
森をつくり、森にねむり、自然にかえる


商標登録第4310763号
森はいのちのふるさと              
いのちをささえる          
森をつくり、水をつくり、土をつくる      
いのちの森 千年事業

<6月の言葉「青山元不動」>
05/06/2026

<6月の言葉「青山元不動」>

<6月の言葉「青山元不動」>

――前略―-

私たちの日常生活も、
心に大雨が降ったり、
迷いの雲がたえず去来し 
悩まし苦しめ
「真実の自己」(仏性)を見失い、
ときには自分が何をやっているのかわからなくなり 
右往左往してしまいます。

このようなときこそ、
本来不動の本性を徹見して、
そこに自己の根底を置いて、
迷いの雲が来れば来るにまかせて、
去れば去るにまかせて、
少しもそれに執われないことが肝要であります。

いつまでもそれに悶着していなければ、
いつの間にか消えていく。

これが「白雲自ら去来す」の心境だと思います。

この「白雲自ら去来するも、青山は元不動なり」の境地に自己の根底を置けば、
順逆いずれの境にあっても 動揺することなく、
いかなる場合に処しても自己の本分をあやまることはなくなります。

境界に二種あり、順と逆となり、
我が心にかなへることをば
順境界という。

我が心にそむけることをば
逆境界といへり
(夢窓国師『夢中問答』)

私たちの人生行路には、
晴れの日もあれば、
曇った日もあり、
風の日もあれば、
雪の日もあります。

万事とんとん拍子に運ぶ順境もあれば、
いくら努力してもうまくいかぬ
逆境もあります.
こうした人生に処して、
かっての自分は、 ともすれば外的条件に振り回わされて右往左往し、
本来不動の本性、即ち、真実の自己を見失い、
人生のどん底に落ち七転八倒し自暴自棄になりがちでした。

しかし、日々悶々とするなかで、
これではならじと自己の人間的根本改造を決意し、
一笠一杖の乞食(こつじき)雲水として全国行脚七年有半(昭和57年8月から平成元年12月末迄)を実践。

・寺々に宿を乞えども ことわられ
  星をまくらに 岩かげにふす

・長良川こよいの宿は橋の下
 川面かわもにうかぶ 月を友とし

雨が降れば、
無心に網代笠をうつ雨の声を聴き、
雨にとけこみ、
雨に成り切って歩く。

雪がふれば、
無心のままに舞い落ちる雪の鼓動をきき、
雪にとけこみ、
雪に成り切って歩く。

風が吹けば、
無心に頬をたたく風と遊び、
風にとけこみ、
風に成り切って歩く。

〈任運無作〉
――任せ切った心境に立って、
一切を素直に正受し、
その時 その場に成り切って 
黙々と歩く。
この自然(じねん)の理法に随って生きる「自然随法(じねんずいほう)」の生き方を体得した御蔭で、
順境もとよりよし、
逆境また可なり
と 達観する境地に到達しました。

そして、行雲流水の行脚生活で、

晴れてよし 曇りてもよし 
富士の山 
元(もと)の姿は かわらざりけり

という 山岡鉄舟居士の歌の境地を 多少ながらも味わうことができるようになりました。

富士山は外的条件がどのように変わろうとも泰然として、
少しも真実の自己を動ずることはない。

周囲の雲がどのように去来しようが、
富士山はそんなものに動かされることなく、元(もと)の姿を変えないからこそ、
そこに晴れてよし、曇りてもよしの妙景を現出するのです。

すなわち不動の真面目(本来の姿)があるからこそ
富士山が去来する雲によってかえって味わいを増すように、
私たちも、人生の岐路に立たされたとき、逆境や難関に遭遇したとき、
ともかく、どんと腰を据えて、衆流(煩悩妄想の流れ)を截断して、
一切を 捨てて 捨てて 捨て切って、
死んで 死んで 死に切って、
死人になり切って、
不動の本性を発揮することが肝要であります。
そうすれば
必ずや 逆境が自然と開ける時が来ます。

【菩提樹下のさとり】

一切衆生皆 悉(ことごと)く 
如来の智慧徳相を具有す。

但、妄想執着を以ての故に証得せず。(釈尊)

#85歳勧進僧黙雷
*下記コメント欄のURLより抜粋

<門松はめいどの旅の一里塚>下記コメント欄のURLをご覧ください
02/06/2026

<門松はめいどの旅の一里塚>
下記コメント欄のURLをご覧ください

<門松はめいどの旅の一里塚>
下記コメント欄のURLをご覧ください
#85歳勧進僧黙雷

<仏 陀>
30/05/2026

<仏 陀>

<仏 陀>

.仏陀(ぶっだ)とは、
覚者。
目覚めた人。
正しい悟りを得た者。

.仏 という意味。
仏(ぶつ)は、仏陀の略。
仏(ほとけ)は、仏陀の和名である。

釈尊は、
真理に目覚めたから
「仏陀」と呼ばれることになったのである。

したがって、
釈尊でなくても真理に目覚めた人であれば
誰もが「仏陀」なれるのである。

だから仏教は、
私たち皆が
仏陀になるための教えであるといえる。

.釈尊の人間教育学とは、
個人として
社会として、

何が価値のあるものであるかを知らせ、
価値のない状態から
次第に高い価値へと人々を導いて、

最終的には、
理想的な個人や社会をつくるということにある。

.釈尊からみた
人間の宗教的な価値の区別とは、
大きく分けると

凡夫(非聖者) と
仏陀(聖者)である。

簡単にいえば、
迷っている人と、
悟っている人ということである。

そしてだれもが
『法』を依り所として精進努力すれば、
凡夫から仏陀になれると説いておられるのである。

「昔は仏も凡夫なり、

凡夫も未来は仏なり」

仏教は、
求道心をおこし、
精進努力すれば、

誰もが、
仏陀になれる 教えである。
#85歳勧進僧黙雷

生まれによりて
聖者となるのではない

生まれによりて
非聖者となるのではない

人はその行為によりて
聖者となるのであり、

その行為によりて
非聖者となるのである。
(釈 尊)

<自 由>
28/05/2026

<自 由>

<自 由>
――前略――
「随処に 主と作る」
―――臨済義玄禅師の言行録である『臨済録』(示衆四)に
「随処に主と作れば、立つ処 皆真なり」という有名な句がります、
「随処」とは、
その時、その場、
「主」は「主人公」(人々に本来具っている仏性=本来の自己)のことです。
その時、その場、如何なる状況下にあっても、
人間だれもが本来もっている 主人公 を確りと自覚して、
客観的状況に束縛されるのではなく、
その状況の自由なる主人公となって、
すべてを自由自在に使いこなしていく。
そうすれば、
その時、その場が、
そのまま真実(ほとけ)の妙境だ という意味です。
従って、「随処に主と作る」ということは、
自分を 状況に埋没させることではなく、
自分から 積極的に状況を転じて
自由自在に 使いこなしていくことのできる 主体性を持つことが大切だということです。
そういう自由自在な主体性ならば、
環境の方が順応せざるをえないでしょう。
私たちは日常生活の中で、外界のいろいろなものにとらわれ、左右されて、
主人公を 見失っていることが多い と思います。
たとえば、貴賤貧富・利害得失・美醜好悪・順境逆境など、
さまざまな客観界の禍(わざわい)にまきこまれています。
使うべきお金にかえって使われているなどもその一例です。
そこで、私は、日々、日常的自己 と 本質的自己(主人公)と自問自答しながら、
主人公を 忘失しないように心掛けています。
「自問自答」
―――中国唐末の瑞巌寺の師彦禅師は、毎日、岩の上で坐禅して、
自分で 自分に対して大きな声で
「オーイ、主人公」と呼びかけ、
同じく 自分で「はい」と返事する。
さらに 自分に対して
「しっかり目を覚ましているか」、「はい」、
「いつ、いかなるときにも、人にだまされるなよ」、「はい」、
自問自答して日課とし、
それ以外、一生涯、一言の説法もしなかったということです。
自ら主人公に成り切って 
自分のことを「主人公」と呼び、
そして、自ら主人公に成り切って 「はい」と返事する。
この一見、馬鹿げたことのなかに 
正念相続の尊い姿があり、
私たちに対する 親切な教訓があるのです。

#85歳勧進僧黙雷
*下記コメント欄のURLより抜粋 表示を縮小

写真:一休禅師

<縁 起>
25/05/2026

<縁 起>

<縁 起>
ーー前略ーー
「因縁果の法(真理)」は
人間に限らず、
すべての事象が 生起、消滅する原理です。

草木国土、山河大地、森羅万象等、宇宙間に数限りなく存在する
一切の事象が起きる原理を、
キリスト教の『旧約聖書』では、
造物主としていますが、

仏法では
創造の造物主をたてません。
造物主=英語GODゴッド。キリシタン用語Deusデウスのこと。
ヘボン式ローマ字創始者
ジェームス・カーチス・ヘボン(アメリカ長老会宣教師)が
『聖書』(明治5年刊行)の日本語への翻訳を行い
ゴッド(デウス)を「神」と誤訳。
それを日本人は「カミ」と読み、
日本人の宗教観念、神観念の混乱の起因になっている。
造物主の創造ではなく、
すべての事象は造物主(ゴッド)の創造ではなく、
起きるべき原因があって、
それぞれの事象となる結果が 生まれるとするのが、
因果観です。
つまり、
因にはたらきかけて、因を変えるのが、「縁(きっかけ・条件)」です。
また因は,縁の力がなくては結果を生じられません。
縁はこのような大きな機能があるので、因と縁を合わせて、
因縁から すべての事象は起きるから
「縁起(縁から起きる)」とも
「縁生(縁から生じる)」ともいいます。
たとえば、蓮の実は、
成長すれば大きな蓮に育つ因ですが、
机の上に置いたのでは、いつまでも発芽できません。
土におろすきっかけや、陽光・水・肥料や栽培などの縁が
因の 蓮の実に機能はたらきかけて、
はじめて蓮の花が咲き、実(み)のり蓮に成長するのですから、
縁がどんなに大事であるかが、この例だけでもよくわかると思います。
これを人の場合についていうと、
人は家柄、生まれなど(原因)によって
その人の価値、あるいは貴賤が決まるのでなくて、
その人の行い、環境(補助的条件=縁)によって決まるということです。
この縁起の法によって 世界を、社会を、人間を見ることを
仏法では正見(しょうけん)といいます。
正しいものの見方、考え方とは、
すべてのものを
縁起の法に
照らして見ることであり、考えることであります。
「縁起を 見るものは 法を見る
縁起が分かれば法が分る
法を見るものは われ(仏陀)見る
法が分れば 仏陀(われ)というものが分かる 」『阿含経』
#85歳勧進僧黙雷

*下記コメント欄のURLより抜粋

写真:庭に咲いた「笹百合」の香りにくつろぐ #85歳勧進僧黙雷

<煩 悩>
23/05/2026

<煩 悩>

<煩 悩>

――前略―-

――青い色は青い光、赤い色は赤い光―-

青い色は青い光、赤い色は赤い光―――



『阿弥陀経』の中では、



「池の中に咲く蓮の花は、車の輪のように大きく、



青い色の蓮の花には青い光、



黄色の蓮には黄色い光、赤い色の蓮の花には赤い光、



白い色の蓮の花には白い光があり、



それぞれ清らかな香りを放っている」と、





阿弥陀仏の極楽浄土の光景を 美しく比喩で称え説かれています。





*「阿弥陀」は、
  無量寿(無限の時間)、無量光(無限の空間)の意。
 「仏」は覚者、即ち、宇宙の真理に目覚めた人の意。

仏法では なぜ蓮の花を重視するかというと、



蓮という植物が、



汚い泥水の中に根を置き、しかも、汚い泥水の中を通って成長し、



やがて水面に出て咲く花が、



まったく汚れなく 美しいからです。





それは釈尊が、



四苦八苦で象徴される、この世のあらゆる汚れの苦しみの中で、





悟りという



清らかな花を咲かせた という事実に適合すると考えられたからです。



――阿弥陀仏 は 自己の心中に有り――

阿弥陀仏は 自己の心中に有り――





自然の教え―――私が 水源山間地の荒廃した 山の再生に取り組んで、



山におしえられたことは、



杉・桧一色(いっしょく)の森は不健康であるが、



健康な森は、



欅けやき・山桜・桂かつら・栃とち・胡桃くるみ・山やま栗ぐり・杉・檜・松など



種々雑多な樹木が 厳しい条件の中で、



自分の置かれた環境に適応して



精いっぱい 生きているということです。





そして、山桜は山桜、杉は杉として



本来の自分自身の色を失わず、



しかも 互いに持ちつ持たれつで 共存共栄しています。





私たちの人間社会もこれと同じで、



その人の性格とか、境遇とか、経歴とか、年齢性別さまざまな条件で、



十人十色千差万別です。



健康な人間社会は、



皆すべて 一色に染まるのではなく、



それぞれの個性を持ったまま、個性を活かしつつ光るのです。





強い人は強い人なりに、



弱い人は弱い人なりに、



老いた人は老いた人なりに、



自ずから身にそなわった色の光りを 輝かせ香りを放てば、



自分の心は 阿弥陀仏となり、



身は極楽浄土に住し、



日々、幸せにすごすことができるようになります。





幸せは 自分の心が作る

#85歳勧進僧黙雷

*下記コメント欄のURLより抜粋

<心に起こる妄想を取り去る>
22/05/2026

<心に起こる妄想を取り去る>

<心に起こる妄想を取り去る>

妄想は、邪念、空想、迷いの心と同じ意味です。
現在、自分の置かれた状況にとらわれて、
あれこれと思い悩むのも、妄想のうちです。
また事実でないことに対して何らかの原因からいだく、
間違った確信、あるいは判断をいいます。
現実を自分勝手に想像して信じ込むものが、誇大妄想狂です。
私たちは、毎日、さまざまな妄想を湧かせながら生きています。
しかも、妄想のとりこになって身心を楽にするどころか、
苦しめ悩ます原因になっています。
この実体のない妄想にとらわれている限り、
的確な状況・人物判断はできません。
ましてや、大きな判断は下せない。
妄想を取り去って、自分がもっている本来の純真な心、
本性に立ったとき、
晴れて視界が広がってきます。
とはいえ、妄想は、私たちの心に影のように付き添っています。
これと正面からつきあって、格闘し、そして取り去ることが、
人生の妙味であります。  

#85歳勧進僧黙雷

21/05/2026

釈尊は、お生まれになると、 ただちに、七歩歩かれ、 右手で天を指し、左手で地を指して、 四方を顧みて 「天上天下唯我独尊」と叫ばれたといいます。 しかし、いくら釈尊でも鹿の子でもないのに、生まれてすぐに七歩....

<どっこいしょ>
19/05/2026

<どっこいしょ>

<どっこいしょ>

――前 略―-

山中にあって 人を害する賊を退治することはやさしいが、

心中の賊、私心を去ることはむつかしい。

中国、明代の儒学者で、禅に深い関心を寄せた王陽明の言葉です。

仏法用語に「六賊(ろくぞく)」という言葉があります。

人々の心に固有の六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)の別名です。

「賊」と呼ぶのは、

それが貪(むさぶり)、瞋(いかり)、痴(道理にくらい)の

三毒を引き起こし、

ついには 正しい心の有り様 を
害するからです。

外界に現れた賊は、

罪を厳しくし、取り締まりを強化すれば退治することは たやすい。

ところが 内なる心に住む賊は、

当の本人も 気付かぬうちに害毒を流します。

気がついても、

「これくらいなら」と、

ついつい気を許してしまいます。

『法句経』に

小悪 を 軽んずるなかれ、

水の滴り微かなりとも、

ついに 水瓶をみたすべし

という言葉があります。

浅ましや 

人の善し悪し 口にする

悲しきものは わが心かな


人の悪口を言い、
うらみや そねみを持つことを
私たちは日常的に体験します。

事の善悪 を 判断する基準は むずかしい。

これくらいなら

という甘い判断が、

つぎつぎと悪を引きよせ、

ついには

取り返しのつかないほどの
大悪となって、

人生を狂わせてしまいます。

ですから、
日々「六根清浄」と、

六根の汚れを 払い清める努力 が 大事になってきます。

書いてしまえば簡単で、
やさしそうですが、

それを実践していくことは、
生半可なことではありません。

地獄極楽 を 行きつ戻りつしながら、

人は
心の中の賊を退治するのです。

六根清浄、六根清浄、福徳円満

#85歳勧進僧黙雷

*下記コメント欄のURLより抜粋

<雲去山嶺露>.
18/05/2026

<雲去山嶺露>.

<雲去山嶺露>

雲が山全体を覆おおって何があるのかわからなかったが、



雲が消散するや山がくっきりと露あらわになった。

自然の清々しい光景をいい留めた言葉ですが、



山嶺を仏性に、雲を煩悩になぞらえて

悟りの境地をあらわした句で、

煩悩を吹き払うと
本来具有の仏性が燦然(さんぜん)と輝き、

はっきりとその相を現わすという意味です。

私の心ひとつみても煩悩という雲が覆いかぶさり、



妄想、妄念に深くとざされると、自分の本当の地肌はみえません。





つまり、仏性が見えないわけです。

その煩悩の雲が消えれば、そこに正常な仏性があらわれ、

人間としての真実の在り方、
世の中の正しいすがたというものが分明になり、

おのずから 心ゆたかな満ちた境地 にはいることができます。

釈尊は、六年の修行生活を続け、



30歳の12月8日、東天に輝く明星を一見した瞬間、
悟りを開かれました。

その驚きと感激に、思わず、



「一切衆生、悉く如来の智慧徳相を具有す。



妄想執着の故に証得せず」



「一切衆生悉く仏性有り、煩悩覆うが故に不知不見」



と連呼し、讃嘆されたと伝えられています。



すべての人にはみな、釈尊と寸分変わらぬ仏性が元来そなわっています。

しかし人は、いろいろな物事に執着してしまい、

いらざる想いを次から次へと、

雲の如く湧かせて、清浄なる仏性をおおい隠して、

自分自身を見失ってしまいます。

そういう心の雲を払えば、
本来具有の仏性(本来の自己)にたちかえります。

ーー煩悩 即 菩提ーー

――自分が煩悩(まよい)のかたまりだ と自覚できたら

菩提(さとり)、
即ち、仏国土(さとりの世界)が見えてきます。

人生は、その仏国土への旅です。

―― 人生 は 徒歩―-

―――雲水(修行僧)の旅は 行脚で徒歩です。

門を出た時から目的地に向って

一歩一歩と 踏み出して行かねばなりません。

いつも平々坦々たる大道ばかりではない。

時には険しい山道もあり 高い山も越えなければならない。

また、いかに道を急いだからとて
二つの足を同時に出しては歩けません。

だからといって
二つとも止めていたら 何時までも同じ場所に居る外はない。

一歩を出しては一歩を止め、

出しては止め、

止めては出して 進むことができるのです。

それを楽をしようとして

一足飛びに進もうとすれば 引っ繰り返ってしまいます。

だからといって 諦めておれば、

これは 二つの足を止めた ようなもので、

どんどん後から来たものに 追い越されて 人生の落伍者となることを免まぬかれません。

一歩一歩出しては止め、

止めては出し、

急がずあせらず、しかも倦まずたゆまず、

一歩一歩、大地を確りと踏みしめて進むのが

行脚の行法(悟りを得るための修行法)であります。

「悟りは 迷いの旅路に咲く花である」

#85歳勧進僧黙雷

*つづきは、下記コメント欄のURLをご覧ください。

住所

三重県多気郡大台町
Taki-gun, Mie
5192632

営業時間

火曜日 09:00 - 16:00
水曜日 09:00 - 16:00
木曜日 09:00 - 16:00
金曜日 09:00 - 16:00
土曜日 09:00 - 16:00
日曜日 09:00 - 16:00

電話番号

+81598788655

アラート

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