自然宗佛國寺

自然宗佛國寺 自然宗佛國寺は、
仏祖釈尊の原点に立って「釈尊の人間教育学」を学び、
菩薩道を実践する道場です。

一般的な寺院と異なりますので、
下記ホームページをご覧ください。

https://bukokuji.jimdofree.com/

文部科学大臣認証:宗教法人自然宗佛國寺
(目 的)
この法人は、釈迦牟尼仏を本尊として、仏祖釈尊の原点にかえり、「釈尊の人間教育学」を修学し、菩薩道を実践して、佛法の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び法徒を教化育成することを目的とする。

<風吹不動>
27/08/2026

<風吹不動>

<風吹不動>
ーーー前略ーーー

これは要するに「天辺の月」と「磵底の松」に託して、

どのようなつらいこと、困難なことにあっても

決して動じない信念と意志を持つことだ―という教えです。

この句の要点は、
「動ぜず」ということと「摧け難し」というところにあります。

なお、この句には、月と松を「仏性」(本来の自己)にたとえ、

風と雪を 煩悩妄想にたとえて、

仏性というものは、

煩悩妄想などのために動かされたり、
汚されたりするものではない

という意味がふくまれています。

人間の本源のところ、

つまり人間が生まれつき持っている純真無垢の心性、

これを「仏心」、「仏性」といいます。

人間は自覚している、いないにかかわらず、



本来、仏心というものを持っています。

ところが、この仏心に、
無始以来の昔から「無明」というのがくっついています。

その無明によって仏心に いろいろな煩悩がわき起ってきます。

そこで、無明がくっついているから、

仏心に煩悩がわいて出てくるのだ ということを自覚した場合、

はじめて煩悩の火は消滅する―――これが仏法の教えです。

人間が生まれつき持っている 仏心、仏性といわれるものは、

どんなに煩悩の嵐が吹いても 

消えて何処かへ行ってしまうということはない。

これが「風吹けども動ぜず天辺の月」ということです。

磵底の松も 仏心、仏性の世界を表現しており、

圧している雪は、無明から起ってくる煩悩を意味しています。

無明とは、文字どうり明るくないことで、

存在の根底にある 根本的無知をいいます。

つまり、真実を知らないというのが無明です。


では、真実とは何かというと、

いま述べたように、

人間は生まれながらに仏心、仏性を持っていることです。

それを自覚した人が仏陀ほとけ(真理に目覚めた人)、

自覚しない人が凡夫(迷いの境界にある人)といわれています。

―――下記省略―――

#85歳勧進僧黙雷

*下記コメント欄のURLをご覧ください

<水急不流月>ーーー前略ーーー昭和十一年(1936)二月二十六日早朝、陸軍青年将校らが決起した 「二・二六事件」の時、
21/08/2026

<水急不流月>
ーーー前略ーーー
昭和十一年(1936)二月二十六日早朝、陸軍青年将校らが決起した 「二・二六事件」の時、

<水急不流月>

ーーー前略ーーー

昭和十一年(1936)二月二十六日早朝、陸軍青年将校らが決起した 「二・二六事件」の時、

朝日新聞主筆・緒方竹虎は 襲撃部隊に対して、

「よし、俺が会おう」と決意しながらも、

心の動揺するのをどうにも抑えることができなかった。

階下へおりるエレべーターの扉があいて、

乗務員の菊池滋子という若い女性が
「どうぞ」と彼を迎えたとき、

緒方 と 彼女の視線が合った。

その瞬間、彼は大きな感動を覚えた。

だれも想像しなかったこの異常事態に、

菊池滋子は少しも取り乱すところなく、

従容としてハンドルを手に 任務についている。

たとえエレベーター乗務員という小さな業務であっても、



「私は 新聞社で働いている人間である」
という 決意 と 使命感が、

うら若い彼女の眉宇に みなぎっているのを、
緒方は痛いほど感じた。

この時、はじめて緒方は、どっしりと腹が据すわったという。

そして、将校とも落ち着いて対話を交わし、
対応の処置も誤らずにすんだ。

後日、緒方と会見した将校 中岡基明は、獄中で、

「朝日新聞の論調はけしからんが、緒方竹虎はえらい奴だ」 と
嘆声を洩らしたという。

この一事だけでも、緒方の応対ぶりが、

いかに沈着であったかが、想像される。

しかし、彼は当時のことをいわれる度に、

「いや、えらかったのは あのときのエレベーター乗務員の菊池滋子だ。

私は彼女に教えられたのだ」と、
謹厳な面持で語ったという―――。

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で
国内経済は深刻な打撃をうけ、

それに伴う倒産、失業、不安等々、
この先の見通しの立たない混迷の状況下で、

私の心に深く刻み込まれたのが、

上記の菊池滋子さんの態度です。

大の男でも ひるむような恐ろしい流れの中で、

その流に 静かな月影を映して 少しもひるまず、

揺るがない ということは容易ではありません。

人の一生では、いつ、何が起こるかわからない。

そのような場合でも 常に最悪の事態を想定して準備し、

心の用意ができていれば、

イザ という時に 至っても、

あわてずに対処することができるでしょう。


【古 歌】

のがるまじ 所をかねて 思ひきれ

時にいたりて すずしかるべし

#85歳勧進僧黙雷

*下記コメント欄のURLをご覧ください。

アマゾンで昨日、出版!
16/08/2026

アマゾンで昨日、出版!

奇跡の生還から尼僧へ: 仏陀となる道 第一話

<死中得活>禅語でよく使われる「死中に活を得る」は『碧巌録』に、しばしば出てきます。この語は「絶対絶命の場で 活路を開く」という意味です。
14/08/2026

<死中得活>
禅語でよく使われる「死中に活を得る」は『碧巌録』に、しばしば出てきます。
この語は「絶対絶命の場で 活路を開く」という意味です。

<死中得活>

禅語でよく使われる「死中に活を得る」は『碧巌録』に、しばしば出てきます。

この語は「絶対絶命の場で 活路を開く」という意味です。

[死中に活を得たり]

―――従来の常識理解を ことごとく脱却することを「死」といい、

この境地より復活して、

再び働き出すことを「活」といいます。

禅ではよく「大死大活」、
「大死一番、大活現前」
「大死一番、絶後再蘇」
といいます。

この場合の、大死一番は 

「まず死んでこい」ということです。

もちろん 肉体的な死を意味するものではない。

死という

人間にとって一番大切な問題を全身心でとらえて、

そこから、生への飛躍を求めるということです。

いたずらに死ぬことは「大死」ではなく、「犬死に」です。

「窮地 に 陥る」(きゅうちにおちいる)

―――決断を迫る事態というものは、

突然にやって来ます。

そんな時、あれこれ思い迷って、じたばたすればするほど深みに落ちます。

そこで危機に直面したら、どんと腹を据すえて、

大死一番、

一切を捨てて 捨てて 捨て切る。

死んで 死んで 死に切って、

生きながら死人になり切り、
思いのままに働く。

徹底して、この境地をつかめば、

妄想や迷いを 捨て切った「活」が蘇よみがえってきます。



【決断こそが命だ]

―――関ケ原の合戦で西軍が総崩れになった時、

薩摩の島津義弘の部隊だけが、
東軍(徳川家康) 十万の猛攻を堪え隊形を崩さなかった。

このとき、誰の目にも、義弘に残された道は、

降伏か、死か、敗走しかないと思われた。

禅の極意を極めていた義弘は、

西軍敗走の中、黙然端坐していたが、

起ち上がるや 戦場を観望し 敵中突破の道を決断した。

行動は迅速であった。

#85歳勧進僧黙雷

*続きは下記コメント欄のURLをご覧下さい

10/08/2026

<流水無間断> #85歳勧進僧黙雷

ーーー前略ーーー

―――水源の一滴の水が、沢となり、渓谷となり、

河となり、大海に流れこむまでには、

さまざまな困難につき当たります。

水の流れる水路も 曲がりくねっているように、

私たちの人生も、

また、行路難しで、世渡りはむつかしく、

変転多事を経て 心が練れ人柄に深みが出てくるのです。

―――生涯修行。


`@行脚の効能

―――行脚で農山漁村を歩くと、

いくつにも折れ曲がっている道になります。

そうした場所で、村人に目的地へ行く道を聞くと、

「この道を真まっ直すぐにお行きなさい」と教えてくれます。

「曲がった道を真っ直ぐに歩け」とは、



曲がりやくねりに従って行くということです。

目的地をちゃんと胸に置いて、

紆余曲折に従って行くのを

「流れに随って、流れに任せず」といいます。

水は、あちらに流れ、流され、
こちらに流される紆余曲折をたどることによって、

その間に、岩にしみこみ 土に深くしみとおるのです。

人生も様々な経験を経るうちに、人間味がだんだん深められてきます。

ーーー後略ーーー

*下記コメント欄のURLをご覧ください、

暑中お見舞い申し上げます
08/08/2026

暑中お見舞い申し上げます

8月の言葉「水自竹辺流出冷」
01/08/2026

8月の言葉「水自竹辺流出冷」

夏の茶席に、よく「水自竹辺流出冷」の軸物がかけられています。 この句は、春の茶席に掛けられる「風従花裏過来香」と対ついをなしている句です。 緑りょく竹ちくはみるからに清くさわやかなものである。 同じ水でも...

<小さい自分を大きくする法>第七回
22/07/2026

<小さい自分を大きくする法>第七回

<小さい自分を大きくする法>第六回
22/07/2026

<小さい自分を大きくする法>第六回

<小さい自分を大きくする法>第六回
注 釈
*「弥陀」(みだ)は、「阿弥陀」(あみだ)の略。

「阿弥陀」は「無量寿」(無限の時間)、

「無量光」(無限の空間)の意。

*「弥陀にだかれて」は、

宇宙の無限の時間、
無限の空間の 真っ只中で

地球という座布団を尻の下に引敷

(ひつしき)

「今」「ここ」に

生かされて生きて、

どんと坐っている自己。

「今、ここにいる私」

「今、目の前の今」 

このほかに大事なものはない。

今を 大切に生きる

過去を追うな、未来を願うな。

過去は過ぎ去ったものであり、

未来は いまだ到っていない。

現在の状況を、
それぞれよく観察し、
明らかに見よ。

今なすべきことを熱心になせ。
(釈尊)

・今の状況を明らかに見る。

 「事実」として起こってしまったことは、

事実として「明らかに」認め、

そこから、この現実に対処し、

乗り越えてゆく強い姿勢が生じてくる。

#85歳勧進僧黙雷

次号につづく

*写真:黙然大坐 衆議院第二議員会館前 R8年1月7日~27日

*下記コメント欄にURLをご覧下さい。

<小さい自分を大きくする法>第五回
21/07/2026

<小さい自分を大きくする法>第五回

住所

大台町桧原175番地
Taki-gun, Mie
5192632

営業時間

火曜日 09:00 - 16:00
水曜日 09:00 - 16:00
木曜日 09:00 - 16:00
金曜日 09:00 - 16:00
土曜日 09:00 - 16:00
日曜日 09:00 - 16:00

電話番号

+81598788655

ウェブサイト

アラート

自然宗佛國寺がニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

事業に問い合わせをする

自然宗佛國寺にメッセージを送信:

ショートカット

共有する

カテゴリー