28/05/2026
<自 由>
<自 由>
――前略――
「随処に 主と作る」
―――臨済義玄禅師の言行録である『臨済録』(示衆四)に
「随処に主と作れば、立つ処 皆真なり」という有名な句がります、
「随処」とは、
その時、その場、
「主」は「主人公」(人々に本来具っている仏性=本来の自己)のことです。
その時、その場、如何なる状況下にあっても、
人間だれもが本来もっている 主人公 を確りと自覚して、
客観的状況に束縛されるのではなく、
その状況の自由なる主人公となって、
すべてを自由自在に使いこなしていく。
そうすれば、
その時、その場が、
そのまま真実(ほとけ)の妙境だ という意味です。
従って、「随処に主と作る」ということは、
自分を 状況に埋没させることではなく、
自分から 積極的に状況を転じて
自由自在に 使いこなしていくことのできる 主体性を持つことが大切だということです。
そういう自由自在な主体性ならば、
環境の方が順応せざるをえないでしょう。
私たちは日常生活の中で、外界のいろいろなものにとらわれ、左右されて、
主人公を 見失っていることが多い と思います。
たとえば、貴賤貧富・利害得失・美醜好悪・順境逆境など、
さまざまな客観界の禍(わざわい)にまきこまれています。
使うべきお金にかえって使われているなどもその一例です。
そこで、私は、日々、日常的自己 と 本質的自己(主人公)と自問自答しながら、
主人公を 忘失しないように心掛けています。
「自問自答」
―――中国唐末の瑞巌寺の師彦禅師は、毎日、岩の上で坐禅して、
自分で 自分に対して大きな声で
「オーイ、主人公」と呼びかけ、
同じく 自分で「はい」と返事する。
さらに 自分に対して
「しっかり目を覚ましているか」、「はい」、
「いつ、いかなるときにも、人にだまされるなよ」、「はい」、
自問自答して日課とし、
それ以外、一生涯、一言の説法もしなかったということです。
自ら主人公に成り切って
自分のことを「主人公」と呼び、
そして、自ら主人公に成り切って 「はい」と返事する。
この一見、馬鹿げたことのなかに
正念相続の尊い姿があり、
私たちに対する 親切な教訓があるのです。
#85歳勧進僧黙雷
*下記コメント欄のURLより抜粋 表示を縮小
写真:一休禅師