西念寺

西念寺 東京・根岸にある西念寺の情報発信ページです。

07/02/2023

梅ちらりほらりどの子も器量良し「娑婆娑婆」

07/02/2023

冬銀河ひとり小さく献杯す

28/09/2022

木洩れ日は梵字のかたち沢の秋

10/06/2022

梅雨の坂かつて此処らに映画館

18/03/2022

Let It Beな老人四人春炬燵

03/02/2022

オルガンのむかし校舎に早春賦

02/01/2022

袈裟懸けに初明りして方丈裡

27/12/2021

祝(しゅく)聖(しょう)文(もん)

天下(てんげ)和順(わじゅん) 日月清明 風雨以時 災厲不起 
国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲

遠くに除夜の鐘が聞こえる。
闇に細く、けれど重厚な長い長い余韻。
そして静寂。
未明の一僧。
合掌の十指凍てつかんばかりの寒闇のなか。
初開扉、初燈明、初施経。すなわち初勤行。
日々の勤行となにひとつ変わらぬ順であるのに、
「初」の一字が冠されるだけで
いつもと違う姿に感じられる。
淑気。
天地に瑞相満ちて、荘厳の気が漂うごとく
めでたさが感じられる。
堂内黎明、朗々たる声。

一年の疲れをとる熟睡の人。
大晦日の忘年酒、年越蕎麦から祝酒へと連続する人。
遊ぶ人。
働く人。
走る人。
初詣へとそぞろ歩きをはじめる人。
厨に屠蘇の準備をする人。
それぞれの元旦。

26/12/2021

囲炉裏とろとろり婆さまの里ばなし

25/12/2021

季節の雑感。
私たちの四季には、それぞれ旬の食べ物というものがあって、冬ともなれば鍋物などぴったり。なかでも簡素きわまるのが湯豆腐です。
鍋に昆布一枚を敷いて煮立てる。適宜の大きさに切った豆腐を入れる。それだけ。
煮えた豆腐に、葱、鰹節などの薬味を散らした醤油で食べる。いたってシンプル。
少し凝れば、鍋は土鍋。その中央に醤油を入れた湯呑を置いて煮る。湯気のたった鍋から純白の豆腐を取り、湯呑から醤油をすくってかけて食べる。あっさりとした味そして情趣。
まさに冬ならではのものです。
俳句では冬の季語として多く詠まれていますが、なかでも有名なのが久保田万太郎の一句でしょう。「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」
透明な湯面、真っ白な湯気。そこに人の命のはかなさを観じとった絶唱です。
賑やかな師走、静かな新年。
豆腐一丁分の純白の光沢に、喪った人々、そして喪った日々を想いながら、長い夜がはじまります。それが私たちの冬。

25/12/2021

冬麗の皿に一ゾロ鉄火巻

17/12/2021

数年前、東京新聞の宗教欄(夕刊)の依頼に原稿を寄せました。二回連載で掲載された全文を、忘備録代わりに此処に置いておおきます。

無頼派坊主の断腸亭日常――東京根岸の小さな庵から


一九〇二(明治三十五)年九月、正岡子規はその三十五年の短い生涯を閉じた。上根岸八十二番地の子規庵から出発した長い葬列は金杉から日暮里へと向かったが、知ってか知らずか、その道は(もちろん知っていたに決まっている。誰かが言い出し、誰かが頷く様子さえ見える)彰義隊の敗走路でもあった。先導は内藤鳴雪。続いて高浜虚子、河東碧梧桐、佐藤紅緑、寒川鼠骨等々。この三年後「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の打電で有名になる海軍参謀秋山真之は、葬列には加わらず路傍に立ってこれを見送った。残暑の厳しい日であった。
などと見てきたようなことを書いたが、私は一九四八(昭和二十三)年生まれ、すなわち今度の戦争の戦後生まれ。間に合うわけもない。確かな記録が元になってはいるが、すべて幻想の景である。幻想のなかで私はいつも七、八歳の子供であった。子供の私はその幻想の葬列に連なり、どういうわけか途中でひとり右に折れて「御行の松」を目指す。中根岸八十二番地の自坊、西念寺に戻るのである。
   ※
寺に生まれ育ったが、どうも継ぐ気になれなかった。学校給食費も払うに滞るといった下町の貧乏寺生活にうんざり、ということもあったが、とにかく仏教というもの、抹香臭い、辛気臭いの印象が拭えなかった。
一九六七(昭和四十二)年、仏教系の大学にいくなどとは露ほども考えず、とある東京ローカルの公立大学を選んだが、その当時の学生といえば、よくいえば「疾風怒濤」。悪くいえばただの「無謀無法」といった体で、お調子者の私は否も応もなく街頭を走り回った。結果、暗いところにも入れられたりもしたが、大学に帰ってみると雰囲気がまるで変わっていた。目を血走らせて学生同士が衝突し、罵り合っていた。かつての学友たちの目つきを見て、あ、これはもう駄目だな、と直感した。生来の江戸っ子、逃げ足だけは早い。すたこら前線から離脱し、さっさと無頼派高等遊民気取りの評論家に成り下がった。
同人を募って詩を書いたり、短歌を作ったり、夜の巷に出没するうち、さまざまな分野の知己を得た。やがて雑誌や書籍の編集制作に携わり、執筆原稿などの収入を合わせて、生活ができるようになった頃、父僧の身体の具合が悪いという連絡があった。寺に帰ってみると、気息奄々、僧侶の資格だけは獲っておいてくれ、とのことで、三年ほどかけて伝宗伝戒の行を受け、とりあえず一宗の教師いっちょあがりということになる。しかし戻ってみると父僧はまったくの壮健ぶりで、こいつは一杯食わされたな、の気分ではあった。
というわけで、仏教における恩師というものはいないといっていいが、真夏の養成講座受講中に、たまたま講師として来ていらっしゃった藤井實應上人には感謝している。いまにも下山しそうな、というか、経本を蹴っ飛ばして脱出逃亡しそうな、そんな様子に見えたのだろう。毎晩のように別室に呼び出してくれて、法衣など着用せんでよろしいステテコで、とか、まあ麦酒というわけにはいかないが麦茶で、などと笑いながら、いろいろな会話を楽しませてくれたのであった。当時、藤井上人は三河岡崎の大樹寺のご住職であったが、のちに東京芝の大本山増上寺の御法主になられ、ついで浄土一宗の最高位京都総本山知恩院門跡にまで上られた方である。その上人がまたステテコ姿で、フランクそのもの。ずいぶん沢山語り合ったし、そのおかげで短気を起こさず勤めあげたのだから、今思えば至福のときを過ごした、ということになろうか。


父僧の健康問題という以前にも、仏教への契機となるべき事件はあった。三島由紀夫の葬儀の際、わが浄土宗の大先達、武田泰淳は、その弔辞の最後に「文武両道軒」と三島に軒号を贈り、自らは「諸行無常屋」と屋号を名乗ったのだった。弔辞の内容そのものは友愛の情も敬意も入り混じる切々たるものであったが、鼬の最後っ屁のような文豪の機知に私は心から感服し、密かに喝采を送ったものであった。
三島由紀夫の自決はさまざまな波紋を各界に残したが、そのひとつともいえる詩人高橋睦郎の小説『善の遍歴』にも大きな衝撃を受けた。中央公論社の文芸誌であった『海』に連載されたこの一種ビルドゥングスロマン(=教養小説)は主人公「ゼン」と「モンジュボサツ」の邂逅など、ある種深遠にして荒唐無稽、抱腹絶倒の物件。このように変則的に仏教を書いた人を私は寡聞にしてほかに知らない。目から鱗とはこのことか、と思った。この二つの事件は、仏教が抹香臭いとか辛気臭いとか思う気持ちを私からすっかり消し去ってくれた。したがって私の恩師はこのお二人ということになる。つまり坊主になって寺を継いでももいいかな、と少しは思うようにもなったのである。
   ※
爾来四十年以上、僧侶として暮らしてきたが、なかでも印象に残る幾つかの場面がある。私の住む台東区には通称ドヤ街と呼ばれる場所があって簡易宿泊所のような小さな旅館が立ち並んでいる。その経営者の一人に知己があって相談された。長期滞在者のひとりが死んだという、身寄りも不明。自治体に預けることになるが、同室の者とか隣室の者たちがどうしてもお通夜がしたいと言ってきかないのだという。到着すると小さな部屋に遺体があり、通夜の回向をした。焼香は三人。読経後、それぞれ皺くちゃの千円札を一枚づつ差し出し「これしかないので」と申し訳なさそうにしている。私が「そのお金で一升瓶でも買っておいでよ、一緒に呑みましょう」と言うと顔を輝かせて一人が飛び出した。茶碗酒に乾き物で酌み交わし、それぞれが語る故人の思い出を聞いた。帰り際に私が「とってもいいお通夜になったね」と言うと、酒に弱いのか、もともと泣き上戸なのか一人が大声でワアワア泣き出した。
こういう話はまだ沢山あるが、このような話ばかりすると、各宗の諸大徳からお叱りを受けるかも知れない。そんなことで寺院の経営が成り立つのか。とお怒りになるかも知れない。それも理解はできる。しかし、布施とは金品のみを指すものではない。さまざまな形の布施について書かれた経典もある。そのなかには、たとえば、他者ににっこりと笑顔を見せる、これだけで布施になるとも書かれているのである。
      ※
というわけで貧乏な寺である。檀家数も少ないし収入になる土地もない。檀信徒とはまるで家族親族のようで、困ったときは相身互いの関係である。そんな私にも、近年、朗報があった。降って涌いたような、という形容があるが、スタジオジブリからの連絡は、まさに読んで字の如し。三十五年も前に書いた少女漫画の原作が映画になるというのである。二〇一一年の「コクリコ坂から」。ジブリにしては地味な作品ともいえるが私の貧弱な原作によくぞ花実をつけてくれたものだと感心した。
現在、私は囲碁と俳句といった趣味に明け暮れている。いずれも一切経費が掛からない遊びであるところがいい。月に数回、寺を訪れる友人たちと遊ぶほか、日常的にはインターネットで遊ぶ。特に連句が面白い。京都、石垣島、ニューヨーク、ニースなど遠く離れた人々と一夜にして何句ものやりとりがある。巻いた歌仙は五十を越すほどである。
子規の時代にもしネットがあったら、と想像してみる。おそらく膨大な発信を行うだろうな。病床にパソコンを置いて物凄い速さでキーボードを叩きまくるだろうな。地方在住の文人たちと日夜繋がっているだろうな、と。歌人長塚節は子規の「歌よみに与ふる書」に感動し子規庵を訪れた。子規は線香をともし、燃え尽きるあいだに歌を詠めと命じた、という。ネットでの即興詠のようなものである。
子規庵と中村不折書道博物館の間の路地を抜けて根岸小学校へ出る。私の母校でもあるその校舎壁に庚申塔が祀られている。言問、尾久橋、尾竹橋などの大きな通りの無い時代を夢想してみる。馬車が通り俥屋が通る。子規の妹が兄のための茶菓や果実の買い物に出てくる。不思議なことだが私には見える。

住所

根岸3-13/17
Taito-ku, Tokyo
110-0003

電話番号

03-3873-3242

ウェブサイト

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