カトリック高円寺教会

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カトリック高円寺教会2026.8.15聖母マリアの被昇天今日、わたしたちは聖母被昇天の祭日のごミサをお捧げしています。マリア様が地上の生涯を終えられた後(のち)に、直通で(体の腐敗を経験することなく)魂も体も天に迎え入れられたという、昔から...
21/08/2026

カトリック高円寺教会2026.8.15
聖母マリアの被昇天

今日、わたしたちは聖母被昇天の祭日のごミサをお捧げしています。マリア様が地上の生涯を終えられた後(のち)に、直通で(体の腐敗を経験することなく)魂も体も天に迎え入れられたという、昔から信じられていたことで、教義として宣言されたのは20世紀になってからですけども、ずっと昔から、その前から8月15日にそのことを記念する、そういう習慣が教会にありました。

 マリア様が天国に迎え入れられた。これはゴールに到達して「お疲れ様でした。あとはゆっくり休んでください」というようなものではありません。今日の福音では、親類のエリサベトが神様の特別な力によって身ごもっているところへ、マリアが出かけていって神様を賛美する場面が朗読されました。マリアさまは地上の生涯の間も、自分のことよりイエス様のように出会う周りの人々のために心を向ける、そういう生涯だったと信じられていますが、むしろ天国は時間と空間を超えてすべての人、あるいは神様によって造られたすべての被造物に対して心を向け、神様とともに働く、そういう状態に入られたという意味です。そういう意味では、マリア様は地上の時よりももっと忙しいと言ってもいいのかもしれないんです。
 天の栄光にわたしたちも招かれているっていうのが、今日のごミサの趣旨です。それは「やがて死んだ後に」っていうことだけではなく、人生の瞬間瞬間、祈る瞬間に自分のことではない他(た)の人、自分が直接知らなくても、世界中の困難の中にある人のために祈る、身近な人のために働くということ。他の人のために心を向け自分の働きを惜しまない、その時こそ――瞬間的にかもしれませんけども――わたしたちが天の栄光に、神様への一致に受け入れられていると言っていいわけです。そしてその栄光にもっともっと完全に迎え入れられるということを望み続けるのが信仰生活なわけです。たとえば、毎回のミサの中で共同祈願――世界中のいろんな人たちに心を向けてお祈りをする。まさにそれは、自分ということではなくて、神様の視点で全教会とともに誰かのために祈る、ある意味では天の栄光の経験と言ってもいいわけです。
 今日8月15日は、日本の教会にとっては「平和旬間」の最後の日になっていて、平和について祈り、そして考えて行動するのが平和旬間です。その十日間だけということではなくて、特にそのことを思い起こし戦争に関して日本の社会とともにこの時期を過ごすわけです。今更ですけど、今年の平和旬間にあたって、日本カトリック司教協議会の会長でいらっしゃる菊地枢機卿様がメッセージを出されています。その中で枢機卿様はこういうことをおっしゃっています。「すべてのいのちは神からの尊いたまものです。国籍も民族も宗教も問わず、すべての人が神から尊厳を与えられています。その尊厳を守ることが、平和の出発点です」。
 わたしたちは、人と人を区切り、仲間とそうじゃない人を位置づけてしまう。しかし、そういうものを乗り越えて、「神様によって造られた」その一点においてすべての人が尊い。そのことを守る、そのことを本当に尊重する、大切にしていくということからしか平和は来ないんだと枢機卿様はおっしゃるわけです。区別をしてしまう人間の本質を乗り越えて、本当に神様に造られた者同士というその繋がりだけによってお互いのその尊厳を大切にし合う。それは神の恵み、天の栄光によって導き入れられなければできない、そういうことなんだと思います。神様の恵みによってわたしたちはその隔てを乗り越えることができるのだ、少しずつかもしれないけど、っていうのがわたしたちの信仰です。

 今日、聖母被昇天の祭日に当たって、マリア様の取り次ぎに支えられ、そしてマリア様のみ跡に従うという希望を新たにしながら、神様に造られたものとして互いに繋がっていくことができますように。天の栄光を味うことができますように恵みを願いしたいと思います。
高木健次神父ミサ説教より

ミサの中で長崎で原爆に遭われ、東京に来られた女性のご家族の洗礼式がありました。おばあさまの寄付されたステンドグラスに見守られての洗礼式、ご家族にとって、また私たち信徒にとっても大きな喜びでした。
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ミサ説教はカトリック高円寺教会ホームページの「ミサ説教」のページにも掲載されています。

高円寺教会2026.8.2年間第18主日 今日の福音では、パンの奇跡――わずかなパンしかなかったけど、しかしイエス様の手を通してみんなに配られると、すべての人が満たされた。そして更にあり余るほどであったっていうパンの奇跡と言われている出来事...
14/08/2026

高円寺教会2026.8.2
年間第18主日

今日の福音では、パンの奇跡――わずかなパンしかなかったけど、しかしイエス様の手を通してみんなに配られると、すべての人が満たされた。そして更にあり余るほどであったっていうパンの奇跡と言われている出来事が朗読されました。福音書は4つマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書の中で全部に出てくる唯一の奇跡です。
 4つの福音書は、それぞれ違った経緯で編纂されていっている中で、共通だというのは、やっぱり最初の時代から、イエス様と出会った恵みを表すのにぴったりなエピソードだったからなんだと思います。もちろんその根底には、最初の時代から行われていた、みんなと集まって、そしてイエス様のことを思い起こしながらパンを分かち合うっていう――わたしたちにとってのミサ――その儀式が念頭に置かれているということはもちろんですが、イエス様に出会ったってことの素晴らしさを表すのにぴったりの出来事だということでもあると思うんです。
 聖書の創世記、エデンの園の物語の中では、神様から離れた人間を通して土が呪われたものとなり、もはや食べ物を生み出さなくなってしまったとあります(創世記に3・17参照)神様のところに戻るなら豊かになる。しかしそれは単に物質としての食べ物っていうことではない。
現代風に言うならば、一人ひとりに与えられた人生の喜びとか、あるいはその根底にある生きる意味とか、そういうようなことを表していると思います。
 イエス様は御聖体なんだっていうカトリック教会の信仰は、まさにイエス様はすべてを与え尽くされる方なんだっていう、その心が表されてるわけです。わたしたちも、自分がいかに満足するかっていうことを人生の中心に置くならば、そこに本当の喜びや生きる意味はない。むしろ、他の人を生かす、それによたって人生の意味に出会い、そしてまことの失われることのない喜びに出会う。それがイエス様のもとでは食べ物が満ち溢れるっていうことの意味ではないかなあと思います。
 自分のために満足を得ようとしてそれ得ることができても、更に失う恐怖、そして自分よりもっと持っている人が気になると言う苦しみの循環の中に留まることになるわけです。他の人に心を向けるということを通して、わたしたちはそこから解放され、そして他者を生かすっていう、神様から頂いた価値に出会うことになります。他者を生かすというのは、決して何か大きな働きとか、あるいは手応えがあるような支援の活動に参加するとかではなくて、何もできなくても他者のために祈るっていうことーーそれがどう繋がっているのかは神様だけがご存知だけど――それがわたしたちの信仰だと思います。 だから誰一人としてできないことはないわけです。それが今日の福音の中でわずかなパンでも、でもイエス様の手を通せばみんなが満たされるんだっていう、神様が行われる業に部分的にでも参加するように招かれている、それがわたしたちの人生の意味だと信じている。それがキリスト教だと思います。
 レオ14世教皇様は、最初の「回勅」注)っていうお手紙の中で「もちろん、確かにみんながこの世において同じ力を持ってるわけではない。ある人は政治を行い、ある人は経済の重要な決定を行い、ある人は研究とか、ある人は情報を発信するとか、いろんな組織を運営するとか、そういうような影響力を持ってる人もいるし、ある人は自分の生活を毎日送っているだけのように見える、そういう人もいるけど、誰一人として責任を担わなくて良い、そういう人はいないんです」って言われています。わたしたちは、今日もみんなのためにっていうイエス様の心を御聖体を通して、また祝福を通していただきます。私たちは小さなことであっても、どんな責任へと呼んでおられますかっていうイエスさまとの対話のうちに道を見出して、そのことを通して生きる力に繋がっていくわけです。
一人ひとりの中にお迎えするイエス様と対話していく思いを新たにしながら、このごミサをご一緒に、共にお捧げしたいと思います。

注) 教皇レオ14世の最初の回勅『人間の偉大さ――AIの時代における人格の擁護』(『Magnifica Humanitas』)2026年5月25日。
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カトリック高円寺教会2026.7.26年間第17主日 小学校の高学年とか中学生ぐらいになると、家庭で「明日学校の友だちと遊びに行くよ」、「誰? よう子ちゃん?」、「よう子ちゃんじゃない。お母さんの知らない人」、「それ誰なの?」、「知らないん...
12/08/2026

カトリック高円寺教会2026.7.26
年間第17主日

小学校の高学年とか中学生ぐらいになると、家庭で「明日学校の友だちと遊びに行くよ」、「誰? よう子ちゃん?」、「よう子ちゃんじゃない。お母さんの知らない人」、「それ誰なの?」、「知らないんだからいいでしょ」みたいな会話があると思います。だんだんに「自分の中には親のあなたも知らない世界があるんだよ」っていうことを意識するようになり、そしてそれを尊重して欲しいという気持ちになってくる。でも一方で、ふいのときなどに「どうして分かってくれないの?」っていう気持ちと両方がある。成長に従って、それはお互いが相手には分からない世界をも持ちあっているということをだんだん受け入れていくというのが一つの成長と思います。一方で、どうして分かってくれないのかっていう気持ちがずっと根底にあり続け、こじらせていくっていうのは大変危険なことになるわけです。
 この世の中には自分のことを完全に理解してくれる誰かが、あるいは理解し合える誰かとの関係があるはずなんだというふうに探し求めてしまうということは、周りの人との繋がりにずっと不満を抱えながら過ごすこと。そしてもっと危険な場合は、悪い人に引っかかる、罠に落ちてしまうってことです。「あなたのことを分かってあげられるのは自分だけなんだ」とそういうような関係で近づいて来る。そして「だからあなたのことを分かってくれない周りの人との関係は断ち切りましょう」って抱え込もうとして、「分かってあげてるんだから」みたいな感じで、実は何らかの形でコントロールしていこうとして、意識するとしないにも関わらず、そういうような関係へと誘ってくる。引っかかりやすいのは、「どうして分かってもらえないんだ。分かってくれないんだ」っていう不満をずっと抱えている、そういう人々です。
 今日の福音では「天の国は隠されている宝、そしてそれに出会うならば他のものに代えがたい大きな宝なんだ」という。その出発点は、もちろん言うまでもなくイエス様との出会いです。イエス様こそがわたしたちを完全に理解し、完全に受け入れてくださる方。でもそれは心の中で繋がる、そういう繋がりです。その方との関係を自分の心の中に持っているということは、完全には分かり合えない人間同士の繋がりを冷静に受け止めることができるようになる、逆説的ですが。それは、分かり合えることがないんだからという諦めではなくて、自分のことを理解しようと努力してくれる人がいる、あるいは何か分かり合うことができたっていう、そういう喜びへと繋がっていくわけです。
 もちろん、完全に理解するイエス様の心を瞬間的にいただく聖人たちはいて、たとえば聖ビアンネも、相手のすべてを瞬時に理解するっていう特別な力を頂いていたと言われてます。でも出会う人すべてではない。
 わたしたち人間同士は完全には分かり合えない。でも自分のことを本当に分かってくださる方がいる、それはイエス様との繋がり以外にないと信じているのがキリスト教だと思います。そこからすべてが始ま、それこそが本当の宝であります。そしてそれを持っている者は、このまま行ったら自分を破滅に導くような関係を、見分けていくことができるようになるのではないかと思います。
 イエス様との繋がりというのは目に見えるものではない。わたしたちは肉体を持った人間なので、すべてを分かってくださるイエス様が目の前にいらっしゃるっていうイメージというか、その思いで沈黙のうちに一日数分でも過ごすということがイエス様との繋がりを深めていく道なのではないかなあと思います。本当にすべてを分かってくださる方が心の中に来てくださるんだ、そういう思いで、今日このごミサを通して一人ひとりの中にイエス様を改めてお迎えする、そんな思いで恵みをいただきたいと思います。
高木健次主任司祭ミサ説教より

今年もタイタンピカスの花がたくさん咲きました。
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カトリック高円寺教会 2026.7.19年間第16主日 先週も今日も子供たちは水遊びをしますよね。水は教会の中では神様の恵み――洗礼の時に新しい命を頂いたって神様のお恵みを表すので――お水はとっても大切なんです。大人の人は洗礼を受けたこと忘...
21/07/2026

カトリック高円寺教会 2026.7.19
年間第16主日

先週も今日も子供たちは水遊びをしますよね。水は教会の中では神様の恵み――洗礼の時に新しい命を頂いたって神様のお恵みを表すので――お水はとっても大切なんです。大人の人は洗礼を受けたこと忘れてる可能性があるので、子どもたちは大人の人にいっぱい水をかけて、洗礼を思い出させてあげましょう。神父さんは覚えてるから、神父さんは水をかけなくても大丈夫です。(笑)  

 第二朗読、使徒パウロのローマの教会への手紙でパウロは、「皆さん、“霊”は弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8・26)と言ってるんです。
わたしたちがどう祈るべきかを知らないとは、一体どういうことでしょうか? わたしたちはいつもお祈りしている、いろんなことを願うこともあるし、そして、このように祈りなさいと言ってイエス様から主の祈りを教えていただいたと信じてるわけです。

 聖イグナチオ・ロヨラ――イエズス会の創立者の書かれた本の中に、少しヒントになるかなあという部分、
こういうふうに書いてるんです。「人間が造られたのは、わたしたちの主である神を賛美し、敬い、仕えるためであり、それによって自らの霊魂を救うためである」。神様に繋がって、そして自分が救われていく、そのために造られたんだ。聖イグナチオは、自分の救いのために良いのならば求めるべきだし、それを妨げるようなものは退けねばならないっていうわけです。こういうふうに続いています。「つまり、病気よりも健康を、貧しさよりも豊かさを、不明誉よりも名誉を、短命よりも長寿を、その他すべてものにおいて、わたしたちの側からは欲することなく、ただわたしたちをよりよく導くもののみを望み選ぶのである」
病気よりも健康の方がいい、貧しいよりも豊かになった方がいい、みんなに分かってもらえないよりは褒められた方がいいし、長生きした方がいいっていうのはもう当たり前とわたしたちは思い込んでいるわけです。しかしそれが必ずしも神様との繋がりの中で良いとは限らない。いつも単純にそればかり求めているのは、パウロの言い方をすれば神様と繋がる前の人間の考え方――それを聖書の中ではよく「肉」って言います。つまり肉から来る考え方である可能性が高いということなんです。もちろん、イグナチオは常に病気とか貧しさを求めろって言ってはいません。こちらがいいに決まってるんだって決め付けないこと。そして救いのために何が良いのかというのを見極めて行く。
 ではどうしたらいいのか。パウロは“霊”に従って歩むっていうことを勧めている。“霊”の導きに従って、与えられた出会いの中で自分がどういうふうに生きていくのが良いのか、その導きを願い続けるということが大切なのではないかと思います。
 今日の福音では、神様は良い人と悪い人っていうのをすぐに決め付けて悪いものを滅ぼすということはなさらないんだということが語られている。良い悪いっていうのを簡単に決め付けることは、都合が良いことが起これば神様は良い方、都合悪いことが起これば神様はいない、ということになる。そういうようなことではない。絶えず聖霊の助けを願い続ける、そこに私たちは呼ばれているんだと思います。

 わたしたち一人ひとりを呼ばれ、洗礼によってわたしたちがご自分ともっと深く出会うことを望まれているイエス様、神様ご自身の恵みに信頼しながら、イエス様のものの見方で、わたしたちが自分が体験してるいろんなことを判断して、より良く受け取っていくことができますように、導きを願い続けたいと思います。

高木健次神父ミサ説教より
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カトリック高円寺教会 2026.7.5年間第14主日兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。第一朗読、ゼカリヤの預言で、「ろばに乗って来る王は、平和を告げる」と。その時代では戦争の時、王は馬に乗って、平和の時はろばに乗って行くとあり、それで、...
19/07/2026

カトリック高円寺教会 2026.7.5
年間第14主日

兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。第一朗読、ゼカリヤの預言で、「ろばに乗って来る王は、平和を告げる」と。その時代では戦争の時、王は馬に乗って、平和の時はろばに乗って行くとあり、それで、朗読では戦争を終わらせ、平和を与えられたいうことなのです。
 今日の福音の中で、キリストは選ばれた人々に神である父を示す、しかし、それを受け入れるのは知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者だと言っています。これは「頭からではなく心から受け入れなさい」と言っておられるのです。

 人間であるわたしたちは、毎日の生活の中で、心よりも頭を使うことのほうが多いです。それで疲れてしまいます。キリストは次のように呼びかけておられるのでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28-30)。
もっとわかりやすい言葉で言うなら、「頭を休ませて、心を働かせなさい」ということです。心を働かせるとは、祈ったり、ミサに参加したり、勉強や仕事から離れて家族や友人と休んだり、周りの人々に手を差し伸べたりすることです。
 なぜ休みが大事なのでしょうか。
隠者聖アントニウスは弟子たちと休んでいました。それを見た一人の狩人が、「祈らないで休んでいるのですか」とからかいました。アントニウスが「あなたの弓を休ませずに使い続けたらどうなりますか」と尋ねると、狩人は「弓を常に張りっぱなしにしていれば、折れてしまうだろう」と答えました。アントニウスは言いました。「人間もそうです。無理をしすぎれば、わたしたちは壊れてしまいます。時には休むことも大切です」。
 今日、キリストはわたしたちに、彼と共に休むよう呼びかけておられます。わたしたちの人生の悩み、勉強や仕事、家族や友人のこと、すべてをキリストに捧げ、このミサに参加しながらキリストと共に休みましょう。アーメン。
ニティン・コエーリョ助祭(イエズス会)ミサ説教より
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カトリック高円寺教会 2026.7.5年間第14主日兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。第一朗読、ゼカリヤの預言で、「ろばに乗って来る王は、平和を告げる」と。その時代では戦争の時、王は馬に乗って、平和の時はろばに乗って行くとあり、それで、...
19/07/2026

カトリック高円寺教会 2026.7.5
年間第14主日

兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。第一朗読、ゼカリヤの預言で、「ろばに乗って来る王は、平和を告げる」と。その時代では戦争の時、王は馬に乗って、平和の時はろばに乗って行くとあり、それで、朗読では戦争を終わらせ、平和を与えられたいうことなのです。
 今日の福音の中で、キリストは選ばれた人々に神である父を示す、しかし、それを受け入れるのは知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者だと言っています。これは「頭からではなく心から受け入れなさい」と言っておられるのです。

 人間であるわたしたちは、毎日の生活の中で、心よりも頭を使うことのほうが多いです。それで疲れてしまいます。キリストは次のように呼びかけておられるのでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28-30)。
もっとわかりやすい言葉で言うなら、「頭を休ませて、心を働かせなさい」ということです。心を働かせるとは、祈ったり、ミサに参加したり、勉強や仕事から離れて家族や友人と休んだり、周りの人々に手を差し伸べたりすることです。
 なぜ休みが大事なのでしょうか。
隠者聖アントニウスは弟子たちと休んでいました。それを見た一人の狩人が、「祈らないで休んでいるのですか」とからかいました。アントニウスが「あなたの弓を休ませずに使い続けたらどうなりますか」と尋ねると、狩人は「弓を常に張りっぱなしにしていれば、折れてしまうだろう」と答えました。アントニウスは言いました。「人間もそうです。無理をしすぎれば、わたしたちは壊れてしまいます。時には休むことも大切です」。
 
 今日、キリストはわたしたちに、彼と共に休むよう呼びかけておられます。わたしたちの人生の悩み、勉強や仕事、家族や友人のこと、すべてをキリストに捧げ、このミサに参加しながらキリストと共に休みましょう。アーメン。
ニティン・コエーリョ助祭(イエズス会)ミサ説教より
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カトリック高円寺教会2026.6.28年間第13主日聖ペト使徒座への献  信仰生活というのは、イエス様、神様に忠誠心を示す、そして死んだ後にそのご褒美がいただけるというようなものではなく、この生きている命をよりよく本当の意味で恵みとして受け...
14/07/2026

カトリック高円寺教会2026.6.28
年間第13主日
聖ペト使徒座への献

 信仰生活というのは、イエス様、神様に忠誠心を示す、そして死んだ後にそのご褒美がいただけるというようなものではなく、この生きている命をよりよく本当の意味で恵みとして受け取り、感謝して生きることができるように。それが神様のわたしたちへの願いなんだということになります。
 今日のイエス様の福音の言葉――今日の福音はどれ一つ取っても大切な言葉ばっかりなんですけど、少しだけその一部分を黙想するとするならば――、「わたしより父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」という言葉は、決して――父や母や、その大切な人間関係と断絶して教団の中だけで生きるっていうかことを呼びかけているのではないわけです。
 しかし、イエス様との繋がりの中で、もう一度その関係を見つめ直す、あるいは受け取り直すということは大切だと思う。教会でよく使われる言葉で言えば、神様を中心にもう一度自分の周りを秩序付け直すっていうことができる。その呼びかけなんじゃないかなと思うんです。

 今日の福音の中でもう一つ注目したいのが、「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は正しい者と同じ報いを受ける」(マタイ10・41)っていう言葉です。でもこれには落とし穴があります。預言者を預言者として受け入れるというのは、その預言者の言葉に従って自分の生き方を変える、宗教的に言えば回心するということ。わたしたちは、例えばマザー・テレサでも、聖人でも――あの聖人は素晴らしいって認識する、あるいは逆に、「ああいうことは良くないな」と、悪いっていうことを認識するということだけで、自分が正しい人の業に参加しているかのような気になってしまう。見ただけ、それを良いと受け入れただけで、自分自身は何も行動や生き方は変わっていないのに。これが落とし穴なわけです。そこに自分なりに「ではどうしたらいいのか」という問いがあり、そして少しずつでも自分の生き方が変わっていくということでなければ、本当の意味で預言者を預言者として受け入れ、正しい人を正しい人として受け入れるということにはならない。そういうことを通してその一番源にいらっしゃるイエス様とより深く出会っていけるっていうのが、その報いです。

 ミサの冒頭にも申し上げましたけども、今日は聖ペトロ使徒座への献金の日に当たっています。聖ペトロ使徒座というのはバチカンのことです。教皇様が世界のいろんな教会や人々のために働かれる、その働きを支えるために全ての教会が、その献金で一致しましょうということです。教皇様は、わたしたちのリーダー、指導者です。教皇様を大切にするその仕方は、教皇様がおっしゃっていることそして色々な形で出されるメッセージに耳を傾け、そしてそれを自分なりに「ではそのメッセージに応えるにはどうしたらいいのか」を考え、実行していこうとするということ以外にはない。
教皇様はアイドルではないので、「あ、どこで見ました」、「見かけた」、あるいは「どこで触った」、そういうことではなくて、そのメッセージに耳を傾け、自分なりにそれをどうしたらいいのか受け取っていく以外にないという意味で、今日はもちろん献金という形での繋がりが呼びかけられています。教皇様だけじゃなくて究極的にはイエス様もそうです。イエス様も、ただ崇め奉(たてまつ)っているだけでは、本当の意味でイエス様が望んでいる関係ではないと言わなければならない。今日わたしたちがその御言葉を通してイエス様と近づき、そしてイエス様を一人ひとりの中にお迎えすることを通して、では自分なりに生き方がどう変わっていくのか――それさえもわたしたちの力というよりは恵みのうちに導かれていくというそのプロセス、小さなことでもわたしたちの中にイエス様をお迎えして共に生きる、その思いを新たにしながら、一人ひとりの中に恵みをいただきたいと思います。
高木健次主任神父ミサ説教より

教会から、神父様の霊名記念のお祝いを差し上げました。
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カトリック高円寺教会2026.6.21年間第12主日  ジミーという30歳のアメリカ人は、寝るときにベッドの下に怪獣がいると信じて恐れ、よく眠れませんでした。医者に相談すると、「音楽を聴きながら寝てみてはどうですか」と勧められ、ジミーさんは...
25/06/2026

カトリック高円寺教会2026.6.21
年間第12主日

 ジミーという30歳のアメリカ人は、寝るときにベッドの下に怪獣がいると信じて恐れ、よく眠れませんでした。医者に相談すると、「音楽を聴きながら寝てみてはどうですか」と勧められ、ジミーさんは「そうしてみます」と答えました。数ヶ月後、その医者が教会に行ったとき、ジミーさんと出会いました。「最近はよく眠れていますか」と医者が聞くと、「はい、よく眠れていますでも、音楽を聴いているからではありません」とジミーさんが答えました。「よかったですね。どんな方法で眠れるようになったのですか」と聞くと、ジミーさんはこう言いました。「わたしね、最近日本語を学んでいるんです。そのためにある番組で日本の畳の部屋と、日本人が使う布団を見て、わたしの部屋にも畳と布団を用意してベッドを捨てました。その時から、怪獣が隠れる場所がなくなって、よく眠れるようになったんです」ジミーさんは恐れをなくすために、その源であるベッドをなくしました。いつでも恐れの源をなくせるわけではありませんが、ジミーさんのように原因を取り除くのも一つの方法です。
 第一朗読には、もう一つの方法が示されています。エレミヤは彼に反対する人々がいて、でも自力でその人々から自分を守ることができないと感じていました。彼はその恐れの源をなくすのではなく、神にすべてを委ね、神を賛美しました。そうすることで、その恐れを自分の心から追い出したのです。
 第二朗読では聖パウロが、「わたしたちが恐れる理由は、復活されたキリストが取り除いてくださった」と言っています。神の恵みと、復活されたキリストという賜物さえあれば、恐れることはない、というのが第二朗読のメッセージだと思います。
わたしたちはどうやって恐れをなくそうかと悩みます。しかし、キリストによれば、恐れることは何一つありません。なぜなら、父である神から隠れているものは何もないからです。空を飛ぶ鳥のことも、わたしたちの頭の髪の毛の数さえも、神はすべてご存知です。そんな小さなものにまで目を留められる神は、もちろんわたしたちの悩みにも目を留めておられます。子どもたちの将来の悩み、仕事の悩み、勉強の悩み、今日の昼ご飯に何を食べようかという悩み、SNSで変な写真を載せてしまったという悩みなど、すべてを神はご存知です。だからこそ、キリストはわたしたちに「恐れることは何一つない」と言われるのです。
説教を準備しながら、多くの殉教者たちのことを思い起こしました。長くなるので深くは話しませんが、殉教者たちは復活されたキリストを信じていたからこそ、死を恐れずに信仰を生き抜くことができました。今の時代にも信仰のために苦しむ人々がいます。もちろん、日本で命をかけて信仰を守るようなことはないかもしれません。しかし、キリストの教え、例えば「隣人を愛すること」を実践しようとするとき、苦しみを感じることはあるでしょう。相手を愛しても、相手は愛を返してくれないかもしれません。そんなとき、恐れずにエレミヤのように、その苦しみをも神に委ねるしかないのです。

目を閉じて、心の中でわたしと共に祈ってください。
「主よ、わたしはあなたの言葉を信じます。あなたがわたしと共にいてくださることも信じます。それでも、ときどき恐れることがあります。仕事のこと、学校のこと、家族のこと、友だちのこと、将来のことなどです。わたしたちのその恐れを、今あなたに捧げます。わたしたちの心を、あなたの心のように、恐れではなく愛で満たしてください。アーメン」。
ニティン・コエーリョ助祭(イエズス会)ミサ説教より
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カトリック高円寺教2026.6.14年間第11主日   わたしたちは、毎週このお御堂に集まってごミサをお捧げしておりますけれども、天国に行った後もごミサというのはあるんでしょうか。聖書を手がかりに考えるならば、天国に行った後にはごミサはない...
22/06/2026

カトリック高円寺教2026.6.14
年間第11主日
 
 わたしたちは、毎週このお御堂に集まってごミサをお捧げしておりますけれども、天国に行った後もごミサというのはあるんでしょうか。
聖書を手がかりに考えるならば、天国に行った後にはごミサはないと言って良いような気がします。そのヒントは、旧約聖書で、ソロモン王が神様を思い起こす神殿、最初の神殿を建てますね。神殿が完成しそこで最初の祭儀を行う最中に、その神殿の中には神の栄光が満ちたので、 もはや儀式を続けることができなかったという文が出てくるんです(歴代誌下5章)。神様の栄光が満ちるなら、神様全体がそこにいらっしゃるから祭儀は続けられない。そういう意味では、わたしたちが毎週祭儀を執り行っているということは神様の栄光がまだ完全には満ちていないことを表していて、その神様の栄光が満ちるのを待ち望んでいる。そういう状態ですね。満ちていないだけ、それを待ち望むというのがミサ。神様がすべてを完成してくださるときには、人間が執り行う典礼ということはもはや必要なくなると考えても矛盾しないですね。
 神様の栄光が満ちるとはどういうことか。特別な神々しいことが起こるとかということよりは、「主の祈り」で祈っている通り、「みこころが天に行われる通り、地にも行われる」という状態になること。もっと身近な言い方では、わたしたち一人ひとりが自分のことばっかり考えている自分から、イエス様のように他の人を生かすための存在になるということ。そのことが、宗教的な荘厳な言いかたでは「神の栄光が満る」っていうことです。この祭儀を行うということは、まだそのゴールには到達していないけども、神様が迎えに来てくれてそこに一緒に歩んでいるその途中なんだ。それが福音ということになるわけです。飼い主のいない羊のように行き先が分からなくてそこにたむろすのではなく、導かれて、方向性を指し示しされて、そこに向かっているのだということそのものが、わたしたちがここでミサを行っている理由です。
 悪霊はその歩みを妨げようとする。自分はできないと思わせる。
そして典礼を通して――あるいは秘跡を通して――神様に繋がったので、自分たちはもう目的地に着いたのだと思わせる。あるいは恵みっていうのは神様が一方的に与えられるものだから、わたしたちがすることは何にもない。変わる必要はない。ここが目的地なんだ、と思わせる。それが悪霊です。

今の自分の生活のパターンの中で、楽しい心地良いことだけならば、わたしたちは信仰の恵みは必要ないわけです。そこから一歩先に進む。そして神様はわたしたちをお互いに生かし合うようにご計画されたんだ、というところに希望と信頼を置くというのが信仰です。そしてそれは神様の力によって実現しつつあるっていうのが福音です。自分の力では不可能なんだけど、でもイエス様との繋がりを深め、イエス様に委ねるということの中で少しずつ、神様の栄光を神様ご自身がわたしたちの中に満たしてくださるのだという希望を持ちながら、今日も一人ひとりの中に――悪霊に打ち勝つ力であり権威であるイエス様を一人ひとりの中にお迎えし、わたしたちが少しでも互いを生かす者になっていくように、その希望を新たにしたいと思います。

第1回の地区委員会が開かれました。
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ミサ説教はカトリック高円寺教会ホームページの「ミサ説教」のページにも掲載されています。
高木健次神父ミサ説教より

住所

高円寺南2-33/32
Suginami-ku, Tokyo
166-0003

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