日本基督教団 東京台灣教會

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設教: 1925年
台灣語・日本語禮拜 (同時通訳)
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2020年 5月31日 居家主日禮拜主題 : 【那九個呢?】説教 : 李  敏功 牧師動画禮拜: https://youtu.be/3eruQGgGBbw經文: 路加福音17章11~19節聖詩:200、303、509啟應文:14説教主文:列...
31/05/2020

2020年 5月31日 居家主日禮拜
主題 : 【那九個呢?】
説教 : 李 敏功 牧師
動画禮拜: https://youtu.be/3eruQGgGBbw

經文: 路加福音17章11~19節
聖詩:200、303、509
啟應文:14

説教主文:
列位兄姊:大家平安

  在今仔日的經文記載,耶穌往耶路撒冷去,經由撒瑪利亞及加利利交界進入一個靠近撒瑪利亞的村社,衪在遐遇到十個患著癩哥病的人。這十個癩哥病的其中有一個是撒瑪利亞人。兄弟姊妹,原本猶太人及撒瑪利亞人是沒在往來的,但是因為有共同的不幸,所以就互相聚集作伙,在古代,常常會有這款不幸的人裀會聚集作伙,互相照顧,彼此安慰,就是咱講所謂的同病相憐。

  從佇舊約聖經當中咱就會倘看見得到這款癩哥病有多嚴重,在利未記13章45-46節講:「有癩哥的症頭者,伊的衫褲著拆裂,伊的頭毛著拍散,掩伊的嘴的頂唇,叫講:『無清氣!無清氣!』症頭佇伊的身軀的日,伊就無清氣;伊既然是無清氣,伊著家己惦伊的所在佇營外。」也就是講,得到這款的病,他差不多就是被放棄,生命已經沒有盼望。到佇耶穌的時代,裀的命運同款是沒改變,猶原受到人的排斥及歧視。在這段經文,主耶穌就遇到這群這呢不幸的人。通過聖經所描寫的,咱閣一次深入來看裀可憐的景況。

一、悲慘的病症
  任何得到這款癩哥病(痲瘋病)的人,裀至少會面臨五種的病苦:1.無藥醫(當時是按呢);2.會神經麻痺,腳手爛去殘廢;3.會傳染互別人;4.只有等死,沒有選擇;5.萬一若醫好,嘛會變作「破相」,面貌很歹看。其實在那個時陣,還有很多可憐的人,比如眼睛青暝的,啊是跛腳的、啞巴的人等等,裀雖然看不到、不行路、不講話,但至少面貌還算是正常。若是得到癩哥病,除了肉體的痛苦以外,內心的痛苦是愈大,因為裀無法度過及人作伙的生活,永遠被隔離。

  這十個癩哥病人,因為無法度及正常人生活,自然就形成另外一種的共同體,苦難互裀作伙,也互咱會倘互相支持來得到繼續活下去的力量。不過這群人,照律法規定,裀不凍接近正常的人,只有會凍站遠遠,而且就算講人呣知,裀嘛要主動給人講他是癩哥病人,呣通倚來。所以,裀是互社會孤立的一群人,不但無法度享受任何家庭親情的溫暖,沒有親人,若是有一天死去,就沒人知,嘛沒人會感覺傷悲。而且,這些人在律法的規定中,裀是不清氣的人,見若倚近裀的人也會被判作不清氣,從按呢,只要遇到人,裀一定要喊講:「我是無清氣的,呣通倚來。」這就是裀當時悲慘的處境。

二、耶穌,可憐阮
  這群親像得到絕症同款在等死的人,看起來裀的生命已經是沒有盼望,只是在拖時間若定。不過,呣知影在什麼款的情形下面,裀聽到耶穌這個人的代誌,裀也聽到耶穌所行的神蹟,這個人竟然會凍互青暝的看見、互跛腳的會行,連死人嘛互他復活。主耶穌的作為互裀重新看見盼望,也互裀重新找到受醫好來脫離苦楚的勇氣。

  而且有一天,這個耶穌來到裀的鄉社,裀遠遠看到很多人跟隨耶穌,挨挨擠擠在衪的身軀邊,大家攏有不同款的需要,嘛攏盼望主耶穌會凍替裀解決。在路加福音5章12~16節已經有記載,耶穌醫好一個患到癩哥病的人,耶穌吩咐他去互祭司驗就好,呣通去給人講,但是那個人卻是歡喜甲四界報揚,致到有很多人聚集來隨衪,想欲得到醫治。很可能這群癩哥病的人也攏有聽到這件代誌,所以,裀要抓住這個機會,求耶穌可憐裀。

  當耶穌卡倚近的時,裀開始出聲講:「耶穌,先生,憐憫阮!」這個出聲不是小聲啊是歹勢歹勢在叫,裀是完全放聲大叫,親像看到叨位火災,大聲在喊「火燒厝了!救人喔!打火喔!」那呢大聲。而且裀是十個人作伙叫,聲音更加是非常的大,相信當時所有隨在耶穌身驅邊的人攏有聽到。「耶穌,先生,憐憫阮!」裀的喊嘩成作一個呼求的祈禱,成作一個迫切的祈禱,將自己所有一切的困難甘苦,攏總交托在主的面前。

  這呢大聲的呼叫,主耶穌聽見,也看見了。衪的醫治很簡單,只是對裀講:「恁去將本身互祭司驗。」裀去的時就得到清氣了。這段話表明了主耶穌在考驗裀的信心,這及舊約列王記下卷五章記載亞蘭王的大將軍乃縵得到癩哥病,去找先知以利沙醫治的過程是同款的。主耶穌講,恁去互祭司驗,這是按照當時律法所規定的。但問題是,裀的癩哥病是什麼時陣得到醫好的?聖經講,是在裀去的時。請咱注意!耶穌並沒做什麼動作喔,衪沒有親像在第5章記載,用手去摸那個癩哥病人,嘛沒有講:「我肯,你通清氣!」衪只是叫裀去互祭司驗。當裀順服,願意聽衪的話去,在去的過程中,裀的癩哥病就得到醫治。所以,這個醫治的行動是代先有信心,代先有順服,醫治的神蹟才會發生。兄弟姊妹,想看嘪,若是你咧!若是你困境中求叫主耶穌的幫助,你甘有親像按呢的信心來順趁衪的話,我想這是咱很大的信仰考驗。這十個癩哥病人裀攏得到醫好,因為裀攏有去了。

三、那九個在那裡?
  不過,這個故事的中心並不是只有講到耶穌醫好那十個癩哥病人的神蹟若定,咱看見聖經繼續記載,那得到醫好的十個人,只有一個回來獻上感謝,其他的那九個好了後就沒看人了。而且,這個知影回來感謝主耶穌的人,是一個撒瑪利亞人。這個人不是猶太人,聖經講他看到自己已經好,所以有可能他還未去互祭司驗,當他發現自己得到醫好的時,他就馬上回來感謝耶穌,他伏在耶穌的腳前感謝衪,並且大聲嘔咾上帝。

  嘛因為只有一個人回來,所以耶穌就問講:「另外那九個人咧?」在福音書的當中,這段經文是描寫人呣知影要感謝最深刻的一段。這些原本已經在絕望當中的癩哥病人,裀會凍從主耶穌來得到醫治的大恩典,重新恢復失去的人生,裀竟然呣知影回來感謝,若按呢裀跑去叨位?有可能歡喜甲欲趕緊回去看裀的親人,報裀好消息,享受久久沒享受到的天倫快樂,這些雖然合理,但是有一項最重要的事裀忘記去了,就是向上帝獻上感謝。

  在1860年,有一台叫艾爾琴夫號的蒸汽船在美國的密西根湖沈下去,船頂載有393遊客。其中有一個是西北大學游泳隊的選手叫作艾德華斯本賽,他來回游17趟,救17個人上岸,最後一趟因為體力透支就昏去,醒起來了後還一直在喊講:「甘還有人要救?甘還有人要救?」後來,他嘛因為按呢兩支腳受重傷終身坐輪椅。幾年後,在他生日的那一天,有人問他一生中最深刻的事是什麼?他講:「我一生最會記住的,就是那17個我救起來的人,沒有一個曾給我道謝!」兄弟姊妹,咱甘會按呢?有時咱會將很多代誌當作是理所當然,呣知影要感謝,或者是忘記去要感謝。這是主所不歡喜的事,衪不愛咱作一個未曉感謝的人。

四、結論
  兄弟姊妹,在這個故事,有幾個很重要的啟示:1.信仰會促成醫治,這十個癩哥病人相信主耶穌的疼與權能,站在遠處求祂的醫治。耶穌就叫裀去互祭司驗。裀攏沒懷疑耶穌為什麼不伸手,不給裀洗啊是不用話語。只是單純相信順服,結果裀攏得到醫治。 對主的話若會凍親像囝仔同款單純地相信,就能得祝福。2.醫治不一定會產生信仰,十個癩哥病人攏得到醫治,但只有一位回來感謝主,衪因為按呢得到那個永遠的祝福,就是靈魂的醫治。另外那九個,雖然得到肉體的醫治,卻是得不到那個永遠的救恩。裀親像撒在石頭上的種子,雖然起初有信,但心內沒有根,將來也一定會離開。3.肉體的醫治是暫時的,得到醫治的那九個,裀肉體的醫治是的,有一天會閣破病,啊是會衰老來死。所以,肉體能倘得到醫治是很感謝的事,但它是暫時的,所以,欲產生真實的信仰,咱必須要進一步不斷來追求。4.靈魂的醫治才是永遠的,十個癩哥病人,照耶穌的話去互祭司驗的時,攏得到清氣,其中一個撒瑪利亞人,回來伏在耶穌的腳前感謝祂,歸榮光互上帝。主耶穌對他講:「起來,做你去!你的信有救你。」那九個是肉體的醫治,這個撒瑪利亞人是肉體及靈魂全人的醫治。肉體的醫治要互祭司驗,靈魂的醫治只有主耶穌的確認才會凍有永遠的效果。所以,兄弟姊妹,上帝歡喜咱得到肉體的醫治,但是祂更加盼望咱會凍得到永遠的醫治,互咱及上帝恢復新的關係來領受永遠的活命。

説教主文 日本語訳

「九人はどこにいるのか?」

聖書:ルカの福音書17章11〜19節
メッセンジャー:李敏功牧師
期日:2020年6月7日

 愛する兄弟姉妹、平安がありますように。今日の聖書の箇所で、イエスはエルサレムへ行く途中サマリアとガリラヤの境にある、サマリア近くのある村を通られました。そこで彼は十人のツァラアト(重い皮膚病)を患った人に出会った、更に十人のうち一人はサマリア人であった。みなさん、もともとユダヤ人とサマリア人の交流はなかったが、しかし同じような不幸に遭い、群れをなすようになったのですが、古代ではよく、このような不幸の人たちが集まり、互いに面倒を見合い、慰め合うことがよくあることで、これがいわゆる「同病相憐れむ」なのです。
 旧約聖書の中からも私たちは、この病はどんなに重いものかを見ることができます。レビ記13章45〜46節で「ツァラアトだと宣告された者は、衣服を引き裂き、髪を乱し、口を覆って、『私は汚れている。汚れている』と叫んで歩かなければならない。 その症状がある間は汚れた者とみなされ、野営地の外で暮らす。」とあるように、このような病気にかかると、ほとんど諦められてしまい、いのちの望みも持てなくなってしまいます。イエス様の時代になっても彼らの運命は同じく、依然人々からの排斥と偏見にさらされます。聖書のこのところで、主イエスがまさにこのような不幸な人たちに出会われて、聖書の描写を通して、もう一度彼らの哀れな状態を見てみましょう。

一、悲惨な病状
 誰でもこのようなツァラアト(重い皮膚病)を患った人は、少なくとも5種類の病による苦しみを経験する、1.治療薬がない(当時ではそうであった)、2.神経が麻痺し、手足が腐って障がい者となる、3.他の人に感染しまう、4.死を待つのみ、他に選択肢はない、5.幸いにも治っても、醜い顔になって、見るに耐えない。事実その時、他にも多くの哀れな人たちがいます、目が見えない、足が萎えている、口が聞けない人々など、彼らはたとえ見えてなくても、歩けなくても、口が聞けなくても、少なくとも彼らの顔はまともであります。しかし、もしツァラアトに感染した人は、肉体の苦痛のほかに、心の苦しみはさらに大きく、なぜなら彼らは人と一緒に生活することができず、永遠に隔離されてしまいます。
この十人のツァラアト病人は正常な人の生活を送ることができないので、おのずともう一つの共同体を形成するようになった。苦難が彼らを仲間にした、また互いに支え合うことによって、私たちに生き続ける力を与えてくださるのです。さらに、この人たちは律法の規定からすると、普通の人に近づいてはならず、ただ遠くに立つのみ。もし知らずに近づいてくる人がいれば、近づくなと、主体的に自分たちはツァラアト病人である事を言わなければならない。でありますから、彼らは社会から孤立させられた人々であり、家庭の温かさを受けることができないばかりか、親しい人もいないので、もし死んだときは誰にも知られず、また悲しまれる人もいないでしょう。しかも、この人たちは律法の規定の中で、汚れた人であるとされるので、彼らに近づく人がいれば、同じく汚れると判断されますので、ここから、彼らは人に出会う時は必ず叫ばなければならない、「私は汚れた者だ、近づくな。」と、これが彼らの悲惨な境遇であります。

ニ、イエス様、どうぞあわれんでください
 このあたかも不治の病を患ってただ死を待つばかりの人たちは、生命に希望がないように見えて、ただただ時間を引き延ばしているばかりのように見えます。しかし、彼らはどのようにしてか分かりませんが、イエスと言う人の話と、そのイエスが行われた奇跡の話も聞いていました。この人は、目の見えない者が見えるようになり、足の萎えた人が歩けるようになり、死人さえもよみがえさせることができるお方だと。主イエスの行われたことが彼らに新たらしい希望を与え、彼らに、癒されてこの苦しみから離れることができる勇気を新たに与えたのです。
 しかもこの日、このイエスが自分たちの村に来られた、彼らは遠くから見て、多くの人が押し合いへし合いして、イエスの側に近づいていった。みんなそれぞれ違った必要があったでしょう、しかし彼らは皆主イエスが彼らのために問題を解決してくれることを望んでいたのです。ルカの福音書5章10 〜16節の記載にあるように、イエスは一人のツァラアト病の患者を癒し、彼に祭司のところに行って見てもらいなさい、決して他の人に言ってはなりませんと言いつけたにもかかわらず、その人は喜んで周りにそれを言いふらしたため、さらに多くの人が癒しを求めるために、彼のところに集まってきたのです。多分このツァラアト病の人たちは、みんなこのことを聞いていたので、このチャンスを逃すまいとイエス様のあわれみを乞いたのです。イエス様がさらに近づいた時、彼らは声をあげた、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」この声は小さな声ではなく、大きく張り上げて叫んだのです。まるで火事場で、「火事だ!助けて!早く火を消して!」のように。しかも、彼らは十人が一斉に叫んだので、その声は非常に大きかった。多分当時イエスさまについていた周りの人たちも、みんなそれが聞こえたことでしょう。「イエスさま、先生、私たちをあわれんでください。」彼らの叫び声は呼び求める切迫した祈りとなって、自分たちのすべてのいままでの困難や辛さを全て主の前にさらけ出して委ねたのです。この様な大きな声での呼び求めに対して、主は聞かれ、そして見られました。彼の癒しは非常に簡単で、ただ彼らに言われた、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」。そして、彼らは行く途中できよめられた。この話は主イエスが彼らの信仰を試されておられます。これは旧約聖書II列王記5章に記載してありますアラムの王の将軍ナアマンがツァラアトに冒され、預言者エリシャに癒しを求めたのと同じパターンです。主イエスは彼らに、祭司のところに行って見てもらいなさい、とあるのは、これは当時の律法の定めに従うためです。しかしポイントは、彼らのツァラアトの病いがいつ癒されたのか、と言うことです。聖書は彼らが行く途中で癒されたとあります。どうか注目してほしいのは、イエスさまはどのような動作もしませんでした、彼は5章のように、手で病人を触りませんでした、あるいは彼は「わかった、あなたきよくなさい!」とも言いませんでした。ただ祭司に見せなさいと言っただけです。彼らがそれに従ったとき、彼の言葉を聞き入れて従ったとき、その行く途中で彼らの病が癒されたのです。したがって、この癒しの行いは、最初に信じる心と従順があって、それから癒しの奇跡が起こったのです。兄弟姉妹、考えてみてください。もしあなたの場合、あなたが苦境の中で主イエスの助けを呼び求めたなら、あなたもこのように信仰を持って、彼の言葉に聞き従うことができるでしょうか、これは私たちへの大きな信仰の試みです。この十人のツァラアトの病人は十人とも癒されました、なぜなら彼らは十人とも行ったからです。

三、九人はどこにいるのか?
 しかしながら、ストーリーは単にイエスが十人のツァラアトの病人を癒した御業だけでなく、聖書の続きを見ると、癒された十人の内、ただ一人だけイエスにお礼を言いに引き返して来た、残りの九人は癒された後、どこにも見当たらなかった。そして、この引き返して来てイエスのお礼を言った人はサマリア人であった。ユダヤ人ではなかった、聖書は彼が自分の病気が癒されたのを知り、つまり、まだ祭司に見せる前かもしれませんが、自分の病気が癒されたのを知って、すぐにイエスの元に引き返しお礼を言い、彼はイエスの足元にひれ伏して感謝した、そして大声で神をほめたたえた。

 一人だけ戻って来たので、イエスは言われた、「他の九人はどこにいるのか?」福音書の中で、この聖書箇所は、人は感謝を知らないという最も大事な時を描写しています。元々絶望の中にいるツァラアトの病人たちが、主イエスから大きな癒しの恵みを頂き、失った人生を取り戻したにも関わらず、主イエスに感謝することも分からず、一体どこへ行ったのか?嬉しいあまりに、早く家族に会いたく、その良いニュースを知らせたく、今まで味わえなかった快楽を持ちたかったかもしれません、これらは当然の事です、しかし一番重要な事を忘れている、つまり神様に感謝する事。

 1860年に、レディ-エルジンという蒸気船がアメリカのミシガン湖で沈没、乗客393名。乗客のうちEdward Spencerというノースウェスタン大学の水泳選手が乗っていて、彼は岸まで17往復泳ぎ、乗客17名を岸にあげた、最後の一往復で体力の限界にきて気を失った、目が覚めた時「あと何人いる?あと何人助ける?」と言っていたそうです。後に、彼はその時両足に負った傷により、終身車いす生活となった。何年後か彼の誕生日の日に、ある人が彼に一生の内一番心に残った事は何かと聞いたところ、彼は言った、「一生記憶に残った事は、助けた17人の誰もが私に感謝の言葉がなかった!」兄弟姉妹、私たちも同じでしょうか?多くの出来事が当たり前の様に思い、感謝しない、或いは感謝する事を忘れる。これは主が喜ぶことではない、主は感謝しない人を愛しません。

四、結論
 兄弟姉妹、このストーリーの中に幾つか重要なポイントがあります、1. 信仰は癒しを促進する。この十人のツァラアトの病人は主イエスの愛と力を信じ、遠く離れた所から癒しを求めた。イエスは彼らに祭司に見せなさいと言っただけ。彼らはイエスが何もせず、洗いもせず、或いは言葉も発しない事に疑問を持たなかった。ただ単純に信頼し服従した、結果として全員が癒された。この様に主の言葉に対し、子供の様に単純に信じることさえ出来れば、祝福を得られる。2. 癒しは必ずしも信仰を生むとは限りません、十人のツァラアトの病人は全員癒された、ただし、一人だけ引き返し主に感謝した、彼はその様に永遠の祝福を得られた、つまり魂の癒しである。他の九人は肉体的に癒されたが、永遠の救いを得ることが出来なかったのです。彼らはまるで岩の上にまかれた種の様に、最初は信じたのだが、内なる心に根付いていなかった為に、後に岩から離れてしまう。3. 肉体的な癒しは暫しの時、癒されたあの九人は、彼らの肉体は一度癒されたが、また病気にかかるかもしれません、或いは年老いて死ぬかもしれません。ですから、肉体的に癒される事は大いに感謝すべき、しかしそれは暫しの時、それゆえ、真の信仰を生むためには、私たちが絶えず前へ進んで求める事です。4. 魂の癒しだけが永遠に続く、十人のツァラアトの病人、イエスの言う通りに祭司に見せに行き、全員がきよくなり癒された、その内の一人;サマリア人が引き返し、イエスの足元にひれ伏し感謝を述べて、神様をほめたたえた。主イエスは彼に言われた、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを治したのです。」あの九人は肉体的な癒し、このサマリア人は肉体と魂、完全な癒しです。肉体的癒しは祭司に見せればいい、魂の癒しは主イエスのみに頼らなければ永遠の効果が得られない。ですから。兄弟姉妹、神様は私たちに肉体的に癒してほしいと同時に、もっと永久的な癒しが得られるように願っている、そうする事によって、私たちと神様の間に新たな関係を築くことが出来、永遠の命を得ることが出来るのです。

聖詩:200、303、509
啟應文:14

2020年5月24日 主日礼拝主題: 【進葡萄園做工】説教:   李  敏功 牧師動画礼拝:https://youtu.be/CaJjAyb3QrM經文:馬太福音20章1~16節説教主文:列位兄姊:大家平安  葡萄園做工的比喻是馬太福音很特...
23/05/2020

2020年5月24日 主日礼拝
主題: 【進葡萄園做工】
説教: 李 敏功 牧師
動画礼拝:https://youtu.be/CaJjAyb3QrM

經文:馬太福音20章1~16節
説教主文:

列位兄姊:大家平安
  葡萄園做工的比喻是馬太福音很特別的記載,這個比喻對猶太人來講是很容易就會凍明白而且是很容易表達真理的教示。主耶穌用葡萄園做比喻,目的就是欲教咱為主做工的功課。在這個比喻當中,家主就是上帝,做工的工人是咱每一個基督徒,管家是主耶穌,葡萄園就是上帝的國度,或者是教會,9點、12點、3點、5點代表做工的時間,日暗代表完成得到工價的時間。在20章1節講:「家主透早出去倩工入伊的葡萄園。」這句話表示,是主人出去召工作,不是工人去找主人,也就是講,在還未互主呼召以前,沒人會倘進入主的葡萄園做工(約15:16)。今仔日,咱就欲從這個比喻,作伙來學習幾項很重要的信息。

一、收成多,工人少
  在巴勒斯坦地區,葡萄的收成的在9月底,然後雨季就會來臨,如果在雨季來臨以前還未攏總收成,葡萄就會爛去。所以,收成是一項很趕時間的工作,有任何的人欲做攏是很受到歡迎,就算講是只有會凍做一點鐘嘛不要緊,家主同款接受。每一年若到這個時期,家主一透早就會出去找尋工人,請裀趕緊進來他的葡萄園做工。

  在巴勒斯坦的所在,有一種親像幾嘛的人力市場,透早就有人帶工具來這,等待有人來請裀去做工。會來到市場的這些人,攏不會懶惰的人,裀在等工作,甚至有些人會一直等到下午5點,這也表示裀是何等迫切需要工作。

  在這個比喻代先講到猶太人的時間觀念,猶太人的工作是從透早6點就開始,一直到下午的6點按呢稱作一日。在比喻內面的時間分別是上午6點、9點、中午12點、下晡3點、5點以及最後的6點。這六種的時間,至少會倘代表兩項代誌:第一,它講到在整個教會的歷史當中,不同的時期,從最起初耶路撒冷教會的誕生開始,經過受迫害的時期、黑暗的時期、改教的時期、宣教的時期,一直到幾嘛。在每一個時期主攏需要有工人去為著衪做工、收成。主耶穌在馬太福音9章37-38節講的:「通收成的是多,做工者是少。所以,恁著求園主迫工去給伊收成。」

  第二,這個比喻的時間嘛代表咱人生的每一個階段,無論在少年時期、青年時期、壯年、中年一直到老年時期,甚至你只有剩一點鐘的時間,若是還有氣力,攏要努力為著主做工,呣通懶惰及推辭。你看,這個家主到下晡5點時,雖然只有剩一點鐘就下班,他猶原出去找人進入他的葡萄園,當他看到還有人,就問裀講:「恁啥事通日閒閒徛佇遮啊?」裀講:「因為無人請阮。」他就對裀講:「恁也去葡萄園吧。」

  兄弟姊妹,今仔日上帝的葡萄園還有欠很多的工人,因為欲收成的很多。咱看見無論是台灣啊是日本社會,人的心空虛,很迷信,雖然物質生活豐富,但是心靈脆弱,很容易就會影響,互生命進入黑暗、敗壞、無盼望。在葡萄園內面,有很多的工作要作,有的收成、有些分類、修剪、包裝、運送等等,工人按照不同款的恩賜啊是職分去工作,才會凍互葡萄園生產的葡萄達到最好的成果。同款的道理,教會嘛有各種不同的事工,需要所有的兄弟姊妹共同來投入。今仔日「家主」也就是上帝在呼召衪的工人,請咱著積極回應衪的呼召,踴躍進入衪的葡萄園來做工。

二、時間長,報賞少
  在比喻當中講到下晡六點收工了後,家主就要發工資互工人,因為按照摩西的律法,工錢必須要在當日發互工人(申24:15;利19:13)。發工錢的時是後來的工人先發,一直發到代先來的工人,一律攏是領一錢銀,無論做工的時間長短,待遇攏總同款。所以,就致到那些代先請來的工人心內很不平,裀不滿意家主,講他不公平,裀很憤慨講裀整天勞苦工作,熱甲共欲死去,應該要比那些晚來的要得到閣卡多的工資才對。

  總是,家主回答裀講:「我並無虧待你啊。我原本及你約定就是一錢銀,所以將你的拿去吧。」兄弟姊妹,為什麼家主會用相同的工錢來對待不同時間進入葡萄園的工人呢?這是在表示,無論什麼人在什麼時陣進入上帝的葡萄園,只要他盡心盡力做工,攏同款會得到上帝的看重及接受。猶太人的拉比有一句話講:「有人在一小時內就會凍進入天國,有些人卻是一世人嘛很困難進去。」從屬靈的眼光來看,上帝的國度是沒有分早晚的,雖然這些人所做的不同等的工作,卻是得到同款的工錢。因為在上帝來看,所有的服事攏是同等的,無論你做的是什麼,要緊的不是工作的份量,是工作忠實的態度。閣卡重要的是,咱一定要知,這是上帝的恩典,因為咱原本是不配的。所以,上帝所互咱的不是工錢,是禮物,不是獎賞,是恩典。也就是講,做工的重點是在佇心意及態度,不是時間的長短。
  另外,在比喻中咱看見有兩種的工人,第一種是及主人講好工錢立訂契約的工人;第二種是雙方並沒有契約,只是一個工作機會,裀就接受,也願意互主人來決定裀的工資。當然若用現代的勞基法來看,按呢對工人來講是不合理的,不過在上帝的國度,一個人若是只有為著得工價來做工,就不是真實的服事;不較計一切,願意互主所用的,才是主所歡喜的工人。

  有人會以為那些「透早就進入葡萄園」工作的人,是在指當時那些自認作義的法利賽人,或者是在指在今仔日自認是很資深,但其實是「老油條」的基督徒,裀常常愛誇口自己信主有多久了,擔任過什麼款的職務,做多少工,卻是忘記去應該有的態度及殷勤。若是那些晚進來的工人,裀認為自己已經慢別人了,所以是不計較一切,更加認真。若是按呢,家主看在眼內,照他的標準多發工資互裀,嘛沒什麼問題。總講一句,將來咱在上帝面前的報賞,不是根據咱的資歷,乃是看咱做工的態度,看你是不是有誠心實意將自己獻上在衪的面前。

三、受召多,受揀少
  最後在16節講:「路尾的,欲做代先;代先的,欲路尾。。」中文和合本的聖經在後面還有註明,在古卷當中,後面會加一句「因為受召的人多,被揀選的人是少。」

  有人會以為這是在指以色列人原本是上帝所揀選的民族,結果裀煞呣肯進入上帝國,所以揀選的恩典就臨到後來被呼召的外邦人身上,裀欲代先那些以色列百姓。或者是,一個人做工若只是為著報賞,親像馬太福音19章27節,彼得問耶穌講:「阮曾放拺一切來隨你,阮欲得著甚麼啊?」耶穌雖然回答講:「欲得著百倍,來承接永活。」但是嘛警告他講:「總是,代先的多多,欲做路尾;路尾的欲做代先。」(太19:30)兄弟姊妹,上帝國的追求是永遠不停止的,它不是講你已經有付出多少,做工多少就已經有夠了,更加不是講洗禮完就已經結束了。只要那個時還未夠,咱就是盡本份,免得有一天主耶穌閣來,衪會對你講:「你是什麼人?我呣識你。」

  從這個葡萄園的比喻咱知,進去做工的人雖然很多,但是真正得到主所歡喜,最後被揀選的人卻是很少。兄弟姊妹,這個是咱最大的警醒,不是你坐在這最後就一定是受揀選的,不是你作牧師、作長執最後就一定會受揀選,更加不是你有拿到洗禮的證書最後就一定會揀選。如果咱領受進入葡萄園的恩典了後,呣知影好好珍惜,也呣知影要認真來服事及敬拜。若按呢,很有可能那些比你閣卡慢進來的人,裀會超越過你,成作最後受主揀選的選民。在馬太福音7章21節,主耶穌講到一段很重要的話:「見若稱呼我講:『主啊,主啊』的,無一盡入天國;獨獨行我佇天裡的父的旨意的才會。」主耶穌提醒咱,今仔日咱雖然攏在葡萄園內面,總是等到那個日、那個時到,在路尾的會變多代先,代先的反轉變成路尾,這是咱一定要很小心、常常著警醒的事。因為受召的是多,被揀選的是少。

  親愛的兄弟姊妹,葡萄園就是代表教會,教會的事工需要閣卡多的人來投入。請咱呣通閒閒站在園外,嘛呣通放棄受邀請進入葡萄園工作的機會。無論你的年紀多大,時間剩多少,這些攏不是主所考慮的,衪唯一所看重的,就是咱的態度。只要咱願意回應衪,願意在葡萄園認真付出去做一直到路尾,衪就接納咱,也欲賞賜咱最後的報賞,互咱同享受葡萄園收成的歡喜。

日本語訳文:

【ぶどう園に行って働く】
李敏功牧師
聖書:マタイ20:1~16

 皆さん、平安がありますように
 ぶどう園の譬えはマタイの福音書による特別な記載で、ユダヤ人にとって、この譬えはとても分かりやすく、真理をよく表している教えです。主イエスはぶどう園を譬えに用いて、私たちに神の為に働く課題を教えようとされました。譬えの中で、家の主人は神様、労働者はすべてのクリスチャン、管理人は主イエス、ぶどう園は神の御国、或いは教会、9時、12時、3時、5時は働く時間、夕方は仕事を終え、報酬をいただく時間を表しています。20章1節には「家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に出かけていく」とありますように、主人が労働者を探しに出かけたのであって、労働者が主人を探したわけではない。つまり、主に召されるまで、誰もぶどう園に入って働くことができない(ヨハネ15:16)。今日はこの譬えから、いくつか大切なメッセージを一緒に学んでいきたいと思います。

一、 収穫は多いが、働き人が少ない
  パレスチナ地方において、ぶどうの収穫は9月末に行われ、その後雨期になります。雨期が来るまでに収穫を終えなければ、ぶどうは腐ってしまいます。ですから収穫は時間制限のあるものです。誰でもやりたい人がいれば歓迎されます。たとえ一時間だけでも受け入れられます。毎年この時期になりますと、家の主人は夜が明けると同時に労働者を探しに出かけていき、彼らに一刻も早く自分のぶどう園で働いてもらいたいと願っています。
  パレスチナ地方では、今日の人力市場のような場所があり、朝早くから道具持参で、雇い主が現れるのを待ち続ける人たちがいます。ここに集まる人たちはみな怠け者ではなく、彼らは仕事を求めて、午後5時までひたすら待ち続ける人もいます。どれほど仕事にありつきたいかがわかります。
  この譬えの中で、まずユダヤ人の時間概念について触れています。ユダヤ人の勤務時間は朝6時から午後6時までを一日と考えます。譬えの中に出てきた時間はそれぞれ朝6時、9時、昼の12時、午後3時、5時、そして最後の6時です。この六つの時間は少なくとも二つのことを表しています:第一、教会全体の歴史の中でのそれぞれの時期、最初のエルサレム教会の誕生から、迫害された時期、暗黒時代、宗教改革の時期、宣教の時期を経て、今の時代に至るまで、どの時代も主は働き人を求めておられます。主イエスはマタイ9章37〜38節で言われました、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」
  第二に、この譬えの時間は私たちの人生の各段階をも表しています。少年期、青年期、壮年期、中年期、老年期に至るまで、たとえあなたには1時間しか残されていなくても、少しの力があれば、怠けず、断らず、主の働きに尽くしなさいと勧めています。家の主人が午後5時になって、働く時間が1時間しか残されていなくても、なお労働者を探しに出かけました。まだ立っている人を見たので、彼らに言った、「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか」、彼らが「誰も私たちを雇ってくれませんから」と答えたので、その人々に言った、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」
皆さん、今日、神様のぶどう園にはなお多くの働き人を必要としています。収穫が多いからです。台湾の社会においても、日本の社会においても、人々の心は虚しく、迷信になりやすい。物質的な生活は豊かでも、心が弱く、影響されやすい、ややもすれば心が暗くなり、悪に走り、希望のない状態に引き込まれがちです。ぶどう園の中では多くの働き手を必要とします。取り入れたり、分類したり、手入れ、包装、運送など、労働者はそれぞれの賜物、部門に従って作業をします。それによってぶどう園で生産されたぶどうが最も良い状態で出荷されます。同じように、教会にも様々な働きがあります。兄弟姉妹のご協力を必要としています。今日、「家の主人」即ち神様がご自分の働き人を召しておられます。私たちも積極的に主の呼びかけに応え、主のぶどう園に入っていきましょう。

二、時間は長いが、報酬は少ない
  譬えの中で午後6時に仕事が終わって、主人は労働者たちに賃金を払うとき、モーセの律法に従って、賃金をその日のうちに労務者たちに払う必要があります。賃金を後から来た労働者から払って、最後に最初に来た者たちに払っています。そして働いた時間の長短にかかわらず、一律1デナリを払らわれており、待遇はみな同じであるので、先に来た労働者たちは不平に思い、主人に不公平だと文句を言いました。自分たちは1日苦労して働いて、暑くて死にそうだったので、後から来た連中よりも多くの賃金をもらうべきだと。
  しかし、主人はその1人に答えた、「私はあなたに何も不当な事はしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。」兄弟姉妹、なぜ主人は同じ賃金で違う時間帯にぶどう園に働きに来た労働者たちに払うのでしょうか?ここで示しているのは、どんな人でも、いつどんなときに神様のぶどう園に来たとしても、彼が心を尽くして力を尽くして働くのであれば、等しく神様から重んじられ、受け入れられるのだと言う事です。ユダヤ人のラビにこのような言葉があります、「一時間以内で神の国に入る人と、一生かかっても入るのが難しい人がいる」。霊的な見方からしますと、神の国は早晩の区別はなく、この人たちの働きは等しくありませんが、しかし同じ賃金を得ています。なぜなら、神の国からするとすべての働きは等しく、どんな働きでも重要なのは仕事の分量ではなく、仕事に対する忠実な態度です。そして、さらに重要で、われわれが知らなければならないのは、これは神様からの恵みであり、私たちは本来ふさわしくない者であるということです。ですので、神様が私たちにくださったのは賃金ではなく、プレゼントであり、褒賞ではなく、恵みなのです。つまり、働くことのポイントは、その心の思いと態度であり、時間の長短ではありません。
 また、譬えの中で2種類の労働者を見ることができます。主人と賃金の契約を決めて働く人と、双方の契約はないけれども働くチャンスがあると言う事で、それを受け入れて、主人に自分たちの賃金を決めていただく人とがいます。もちろん現代の労働基準法からしますと、このような事は労働者にとっては不合理であるかもしれませんが、しかし神の国では、もし賃金のためにだけ働く人であるならば、それは真実の働きにはなりません。しかし細かい条件にこだわらず、ただ神様に用いていただくことを願って働くなら、それは主に喜ばれる働き人となるでしょう。
朝早くからぶどう園に来て働く労働者は、当時、義と自認するパリサイ人を指していると言う人がいます。あるいは今日では、自分は教会に長く来ていると言って、その実は「ずる賢く、うまくごまかす」クリスチャンがいます。彼らはいつも信徒になって何年経つとか、どのような働きをしてきたかとか、どれほど多くの働きをしたかを自慢したがるが、本当にあるべき態度と勤勉さを忘れています。もし、遅くに入ってきた労働者たちが、自分たちはすでに他の人よりも遅れているから、細かいことにこだわらず、一生懸命に働くならば、主人はそれを見て、自分の基準に従ってさらに多くの賃金を彼らに与える事は、何ら問題のないことでしょう。とにかく、将来神様の前に立つ時の褒賞は、私たちの経歴ではなく、私たちがどのような態度で働き、心と思いを尽くして、自分自身を主に捧げたかよるのです。

三、召される者は多いが、選ばれた者が少ない
  最後に16節、「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」の箇所、中文合和本訳聖書では、『古書では「召される者は多いが、選ばれる者が少ない。」とある。』との注釈があります。
  これは、イスラエル人は元々神様に選ばれた民族であるが、頑なに神の国を拒否したため、選ばれる恵みが後から召された異邦人に臨まれ、イスラエル民族よりも先になる、と言う人がいます。あるいは、もし働き人がただ単に報酬を得るためであるならば、マタイの福音書19章27節にあるように、ペテロはイエスに答えて言った、「私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこでイエスは彼らに言われた、「その幾倍もを受け、また永遠の命を受け継ぎます」と。しかし、このようにも警告しています、「ただ先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:30)、兄弟姉妹、神の国を求めるは永遠に止まることがなく、あなたが既にどれだけ費やしたかでも、どれだけ働いたから足りると言うのでもなく、さらに洗礼を受けたから終わりと言う事でもないのです。ただひたすらその時が来るまで、私たちは自分の本分を尽くすことで、主が再び来られたその日になって、彼が「あなたは誰なのか?私はあなたを知らない。」と言われないためです。
  このぶどう園の譬えから私たちは知らなければならないのは、ぶどう園に入って働く人は多いが、本当に主に喜ばれ、最後に選ばれる人は少ないと言うことです。兄弟姉妹、これは私たちへの最大の戒めです、あなたがここに座っているから最後に必ず選ばれるとは限らない、あなたが牧師だから教会の役員だから、最後に選ばれるとは限らないのです、さらに、あなたが洗礼証書を持っているから最後に必ず選ばれるとも限らないのです。私たちがもしぶどう園に入る恵みを受けておきながら、それを大事にせず、一生懸命に仕え、礼拝しなければ、あなたより後から入ってきた人が、あなたを越えて最後に主に選ばれる民になるかもしれません。マタイの福音書7章21節、「私に向かって「主よ、主よ」と言う者がみな神の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」主イエスは私たちを戒めておられます、それは、今日私たちはまだぶどう園の中にいるかもしれないが、しかしその日その時がきたなら、後の者が先になり、先の者がかえって後になることを私たちが用心し、気をつけなければならないことです。なぜなら、召されるのが多いが、選ばれるのは少ない。
  愛する兄弟姉妹、ぶどう園は教会を表しています。教会の働きはさらに多くの人の加入が必要です。どうか手をこまねいて、ただひたすら外に立っているだけではなく、招かれてぶどう園に入って働くチャンスを見過ごしてはなりません。あなたの年齢がどうか、時間がどれだけ残っているか、などは主が気にされることではなく、彼が唯一重く見られるのは、私たちの態度です。私たちが彼の招きに応じて、ぶどう園で自分を捧げて最後まで懸命に働き通すならば、彼は私たちを受け入れ、最後の褒美を与えてくださいます。私たちにぶどう園の収穫の喜びを分かち合ってくださるのです。

2020年5月17日主日日本語礼拝 主題:「石を取りのけなさい」説教:斎藤 五十三 牧師聖書:ヨハネの福音書 11章 28-44節https://youtu.be/lK6tqyz6FJc説教主文:「石を取りのけなさい」(ヨハネ11:28~4...
16/05/2020

2020年5月17日
主日日本語礼拝
主題:「石を取りのけなさい」
説教:斎藤 五十三 牧師
聖書:ヨハネの福音書 11章 28-44節
https://youtu.be/lK6tqyz6FJc

説教主文:

「石を取りのけなさい」(ヨハネ11:28~44)

1. その石を!?
 39節「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』」
 「石を取りのけなさい」との言葉に人々は驚きました。ラザロが葬られてからすでに四日が経っていましたから当然だったと思います。でも、ここでイエスさまが言われた石とは、果たして墓穴をふさぐ実際の石のことだけだったのでしょうか? この時、墓の周りに集まった人々の心にはいろんな思いが交錯していました。主は彼らの心の眼をふさいでしまっている石も取りのけようとされたのかもしれません。「石を取りのけなさい」との言葉に驚く人々の反応は、主イエスに見えるものが、彼らには見えなかったということを物語っているのです。
でも主イエスは人々を叱りながら「取りのけなさい」と言われたのではなかったのです。イエスさまは人々の悲しみに寄り添いながら言われたのでした。35節は印象的です。「イエスは涙を流された。」涙を流すというこの言葉は聖書中、ただここだけに使われている特別な言葉です。私たちの主は、ラザロの死と人々の悲しみに触れ、ここだけの特別な涙を流したのでした。そのお方がここで命じているのです。「石を取りのけなさい」と。
 実は墓の周りには、悲しみだけでなく、不信仰の声もありました。37節「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」。それゆえ主もまた憤りを抱いたのです(38節)。でも、その憤りが刃物となって相手に向かうのではなく、逆に人を生かす御業になっていくのです。「石を取りのけなさい」とは、そうした言葉でした。

2.信じるなら
 主イエスには人々の目を開いて見せたいものがあったのです。それは神の栄光でした。40節「信じるなら神の栄光を見る」。「取りのけよ」と命じる御言葉に信頼し応答するなら、必ず神の栄光が見えてくるのです。私たちは25節を思い出します。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」これは遠い将来の約束ではありません。信じるなら、その人はその時からす永遠に生き始めるようになるのです。でも、その栄光の約束が人々には見えていなかったのでした。
ここにはもう一つ不思議なことがあります。それは、イエスさまが「取りのけなさい」と人に命じていることです。イエスさまは神の子です。「石よ転がれ」と命じれば、自分で動かすことも出来たのです。そしてラザロを歩いて出てこさせ、人々をアッと言わせて信じさせることも出来ました。でも、敢えてそれをしなかったのです。「石を取りのけなさい」と命じ、主は弱くて脆い信仰者であっても、主の御業に加わるようにと招いています。神の栄光を見せるから、その後で信じなさい、というのではありません。まず「信じるなら」神の栄光を見るのです。

3.目線をどこに
 この栄光を見るには、私たちの目線をどこに向けるかが大事になってきます。
 41節「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。」人々は墓の前に転がる重い石を取りのけました。墓穴が開いて、人々は中を覗き込んだことでしょう。でも、イエスさまは一人、目線が違っていたのです。「イエスは目を上げて」天の父に祈り、その後でラザロ復活が起こっていくのです。墓の中でもなく、目の前の打ちひしがれる現実でもなくて上を見上げていく… 。これが主イエスの教えてくださった目線でした。
 世の中は今、どこを見ても「コロナ」です。先の見えないトンネルの中を歩いているかのようです。これが現実であり、現実を見つめることも大事です。でも現実を見つめすぎて、それに囚われてはいけません。墓の中という暗い現実だけに吸い寄せられて、上を見上げることを忘れていなかったでしょうか。私たちは見るべきものを見ているでしょうか。「信じるなら、神の栄光を見る」のです。
 多くの賛美歌を残した盲人の作詞家でファニー・クロスビーという女性がいました。そのクロスビーにある人が質問をしたそうです。「もしあなたの目が見えるようになったら、いったい何を見たいですか?」クロスビーは答えたそうです。「地上で見たいものはありません。やがて御国でイエスさまご自身が私の目を開けてくださるでしょう。その時、初めて見るものが愛する主の御顔であるということ。私はそれが楽しみで、この地上に見たいものがないのです。」クロスビーには、私たちに見えないものが見えていました。彼女は地上の生涯においてすでに、神の栄光を見始めていたのでした。

結び
 私たちは見るべきものを見ているでしょうか。いのちと希望の源であるイエスさまが私たちと共におられます。「信じるなら神の栄光を見る」のです。「その石を取りのけなさい」と語られた、主の励ましを今週も胸に響かせていきたいと思います。お祈りします。

 私たちを神の子どもとしてくださったお父さま、ありがとうございます。あなたは私たちの祈りを主イエスのゆえに聞いておられます。どうか暗い世の現実の中にあって、私たちの目を開き、神の栄光を見させてください。コロナ騒ぎが一日も早く収束に向かいますように。そしてそれ以上に、神の御国が今日も、この世界、日本、東京、そして東京台湾教会のお一人お一人の内に豊かに広がっていきますように。光を見上げて歩む私たちの姿が証しとなって救われる方々が起こされていきますように。救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!

2020年5月10日 母の日 主日礼拝動画礼拝:https://youtu.be/TfaqneeL0l8主題:「戸外に立たれるのキリスト」説教: 中島 秀一牧師聖書:ヨハネ黙示録3:14~22金言:「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だ...
09/05/2020

2020年5月10日 母の日 主日礼拝
動画礼拝:https://youtu.be/TfaqneeL0l8

主題:「戸外に立たれるのキリスト」
説教: 中島 秀一牧師
聖書:ヨハネ黙示録3:14~22
金言:「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞   いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに   食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネ黙示録3:20)

 皆様、お早うございます。コロナウイルスがまだ収束しない状況の中ですが、このようなネット礼拝を守ることができまして感謝いたします。皆様方も毎日不安と恐怖の中でお過ごしのことと存じますが、神様の豊かな恵みと祝福が皆様方の上に豊かにありますようにお祈り申し上げます。
 
 本日は黙示録3章から「戸外のキリスト」についてお話しいたします。
黙示録2章から3章に、当時小アジアに存在した七つの教会に宛てた手紙が記されています。
 これらの教会は2千年間の時代を表しているという解釈がありますが、参考までに記しておきます。
 1. エペソ 使徒時代の教会 1世紀
 2. スミルナ 迫害時代の教会 1~4世紀
 3. ペルガモ 国家教会時代の教会 4~5世紀
 4. テアテラ 暗黒時代の教会、6~15世紀
 5. サルデス 宗教改革時代の教会 16~17世紀
 6. フィラデルフィア 大宣教時代 18~19世紀
7.ラオデキヤ 背教時代の教会 19世紀~現在

 本日のラオデキヤ教会は、「冷たくもなく、熱くもない」現代の教会を表しています。
 本日の箇所は次のように三つの部分に分けることができます。
 第一 戸外で観察されるキリスト(14~17)
 第二 戸外で勧告されるキリスト(18~19)
 第三 戸外で哀願されるキリスト(20~22)
一 戸外で観察されるキリスト(14~17)
 
 ラオデキヤの教会は、復活のイエスが何一つほめるべき点を見いだすことが出来なかったただ一つの教会です。この町は当時の世界において最も富んだ町の一つと数えられていました。一見、穏やかで何ら問題のない町のように思えますが、復活のイエスはこのような町に存在する教会に対して、物凄いばかりの叱責を与えておられるのです。その内容を知る時まさしく現代の教会を表していると言うのも合点がいきます。この教会はキリストを戸外に追い出した教会を表しています。それはまたその教会に集まっている会衆、つまり私たち一人ひとりを表していると見るべきではないでしょうか。復活のイエスは「わたしはあなたのわざを知っている」(15)と、鋭い眼光をもって、ラオデキヤ教会の内面的実情と信仰的実情を観察し、ここに提示しておられます。

 1 微温な状態
 彼らの信仰状態は、「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」という言葉で表現されています。「冷たいい」とは、凍り付くような冷たさを、「熱い」とは、沸騰するほどの熱さを意味しています。温かい食物も、冷たい食物も食欲をそそりますが、生ぬるいものは、食欲を低減させるばかりではなく、折角食べた物さえも吐き出してしまうような気分になることを意味しています。彼らの信仰状態は霊的なものに対する無関心、無気力、無用である、というような末期的な症状を呈していたのです。 

 2.物質的繁栄
 ラオデキヤの人々は、「自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もない」と豪語しています。しかし彼らは自己過信、自己欺瞞、自己誇張、総じて自己満足に陥っていました。現代人にも通じるものがあるのではないでしょうか。
 
 3.精神的貧困
 物質的繁栄という仮想現実の裏側に潜む現実は、精神的貧困です。彼らの実体は「みじめな者、あわれむむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」でした。最も悲惨なことはラオデキヤの人々が自分たちの真の姿を認めることができなかったことです。

 イギリスのジョージ・バーナーの表した本に「二十一世紀の教会を捕まえろ」という本があります。その本の原題は釜の中のカエル(the frog in the kettle)です。著者バーナーは釜の中でカエルを煮る方法を伝えています。煮えたぎった釜にカエルを入れると、カエルはすぐに飛び出してくる。なぜなら、自分に生命の危険が及ぶ環境であることを本能的に知るからです。しかし生温い水に入れるとカエルはじっとしていて、むしろそのような環境に満足しています。そして水の温度がゆっくりと上がっていけばカエルは環境が変わったことに気づくことができず、ずっと同じ場所にいるようになります。水の温度がどんどん上がり、摂氏百度になるまでもそうしています。おそらくカエルは、その状態に大変満足していたのでしょうが、いつまでも保たずに死んでしまうという話です。
 ここで釜の中のカエルにたとえられているのは、霊的に衰退したイギリスの教会であり、また霊的変化に敏感ではなく、温度の上がっていることを感じないアメリカ教会を指して言っているのです。イギリスの教会は、すでに世俗主義という釜の中に飲み込まれてしまい、アメリカの教会は過ぎた二十年間、世俗主義と物質中心の価値という、上昇した温度の危機を迎えていると診断します。日本の教会もまた同じことです。限りなく変化する環境の中で、愚かなカエルのようにわれわれも世の中の変化に対処できなければ死にいたる可能性が多いという警告を突きつけているのです。
 「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。」(マタイ16・3)というイエスの言葉と、「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」(ローマ一3・11)と言った使徒パウロの言葉は、私たちは時代の変化に無感覚であってはならず、能動的に対処せよという貴重な教訓であります。

二 戸外で勧告されるキリスト(18~19)

 1 火で精錬された金を買いなさい。
 「火で精錬された金」とは、高熱で燃やされた結果、不純物が取り除かれて、取り出された純粋な金を意味しています。この場合「精錬された金」とは、純粋な信仰を意味しています。ペテロは「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう」(Ⅰペテロ1・7)と言っているように、純粋な信仰というものがいかに尊いものであるかがよく分かります。生ぬるい信仰ではなく、燃えるような、熱い信仰の持ち主にならなくてはなりません。火とは試練や困難や戦いを意味しています。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする」(19)とあるように、神に愛されるキリスト者には試練がつき物なのです。

 2.白い衣を買いなさい。
 ラオデキヤの教会の人たちは裕福な生活を送っていたので、信仰や神や永遠などと言った真に意味のある事に対しては、無責任、無関心、無用と言った態度を取っていました。その結果、彼ら自身が裸な者であることに気がついていなかったのです。人間はみな生まれたときは「裸」です。成長するに従って、人間は裸の恥をさらさないように、衣服を身に付けるようになるのです。信仰的な視点から考えるならば、生まれながらの人間性がキリストの贖いによって、罪許され、神の子とされ、次第にキリストの品性を身に付けるようになります。従って「裸」とは生まれながらの、罪深い、汚れた人間性を意味しています。そのような恥をさらさないために、「白い衣」を着なさいと勧められているのです。この場合、「白い衣」とは、花嫁が着るドレスであって、純粋な愛を意味しています。
 
黙示録7章9節~14節には、「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、『救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる』・・『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである』」と記されています。この聖句によって、「白い衣」は、天国で着る衣服であり、大きな患難を通ってきた人たちの着る衣服であり、「小羊の血で洗」われた衣服であることがよく分かります。
 さらにキリスト者の着るべき衣服として、「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13・14)、「新しき人を着るべきである」(エペソ4・24)、「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけなさい」(コロサイ3・12)などが記されています。これらの衣は義の衣であり、きよめられた品性の衣であり、キリストご自身であります。

 3 目にぬる目薬を買いなさい。
 W・バークレーは、「ラオデキヤは医学の中心地として有名であった」と言っています。特に耳に付ける軟膏と目に塗る目薬は世界中に輸出されるほどでした。「紺屋の白袴」という言葉がありますが、ラオデキヤの人々は、肉眼に効果のある目薬は持っていましたが、霊的な目、信仰的な目を癒す目薬は持ち合わせていなかったようです。聖書は皮肉を込めて、「見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」と勧めています。この場合、「目薬を買いなさい」とは、天国までも見通すことのできる希望を意味しています。
 イエスは「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ9・41)、「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネ16・8)と言われました。
 パウロは「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている」(エペソ1・17~19)と言っています。
 自分の真相を知り、未来に対する希望の光を見る事ができるのは、神によって開かれた霊的な目、信仰の目を持つ者だけであります。

三 戸外で哀願されるキリスト(20~22)

 黙示録3章14節から21節までの箇所を有名にしたのは、19世紀後半、世界で最も有名な宗教画となった、W・H・ハントが描いた「世の光・The
Light of the World」でした。この絵は現在、イギリス・マンチェスター市立美術館に所蔵されています。
 ハントはラファエル前派を形成した人で、その作風に特有なように、彼の作品には、象徴的な物が描きこまれています。この「世の光」という作品は、頭には茨の冠をかぶり、左手にランプを持ち、右の手で戸をノックしておられるイエス・キリストの姿が描かれています。良く見ると、ドアには外ノブがありません。これは心の内側からしかドアが開かないことを象徴しています。そしてキリストが歩いている道は雑草でいっぱいです。心のドアはまだ開かれていないことを象徴しています。キリストが持っている七面のランプは、黙示録に書かれている七つの教会を意味しています。地面にころがっているリンゴは、アダムとイブが住んでいた人間の楽園、エデンの園から追放された原因のリンゴが人間の原罪として描かれています。
 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」の聖書の言葉から、これだけの意味を込めた絵を描いたのです。

 1 キリストは私たちの心の中に住まわれる。
 戸の外にはノブがなく、ノブは内側にあります。内側から開けない限り戸は開かないし、従ってキリストは家の中にはお入りになることはできません。キリストはノックをしながら、扉を開けて下さい、と哀願しておられます。素直に開ければ良いのですが、高ぶり(イザヤ57・15)、心の汚れ(マタイ5・8)、不信仰(エペソ3・17)などが私たちの心を頑なにするのです。

 2 キリストは私たちと食事を共にされる。
「彼らが陸に上って見ると、炭がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった」(ヨハネ21・9)のです。復活されたイエスご自身が弟子たちの朝食を用意され、ふるまわれたのです。
 復活されたイエスは、エマオ途上の弟子たちに近づかれ、「彼らと一緒に歩いて行かれた」(ルカ24・15)のです。そして「イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった」(ルカに4・29~31)のです。
 現在もイエスは私たちに対して「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と言われるのです。イエスは私たちと一緒に食事をされたいのです。食事をするとは、豊かな主との交わりを意味しています。

 3 キリストと同じ座につかせてくださる。
復活されたイエスは、「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。」と約束して下さっています。イエスは昇天された際には、神の右の座につかれました。イエスがお座りになった座席に、私たちも一緒に座らせて頂くことができるのです。何という素晴らしい恵みなのでしょうか。

 復活されたキリストは、今日もキリストを心の王座に迎えない多くの人々の心の戸の外に立って叩いておられます。戸外に立たれるキリストは、その人を観察され、勧告され、そして心の扉を中から開けて、ご自身を迎えるように哀願しておられます。あなたはキリストをあなたの心の王座に迎えておられますか。迎えてはいるけれども、屋根裏に閉じ込めてはいないでしょうか。どうぞ、キリストを心の王座にお迎えすると共に、私たちもキリストと共に多くの人々の戸外に立ち、キリストの共に心の扉を叩く者とさせて頂こうではありませんか。

2020年5月3日 日本語礼拝主題 :「心配から解放」説教 :中島 秀一 牧師聖書 :マタイ福音書6章25節~31節礼拝動画 :https://youtu.be/LOBiTbYSFiU説教主文 :中心聖句 「だから、神の国とその義とをまず第...
03/05/2020

2020年5月3日 日本語礼拝
主題 :「心配から解放」
説教 :中島 秀一 牧師
聖書 :マタイ福音書6章25節~31節
礼拝動画 :https://youtu.be/LOBiTbYSFiU

説教主文 :

中心聖句 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

 私たちは今、新型コロナウイルスの流行で大きな試練の時を迎えています。蔓延期を迎え人々の不安が高まるばかりです。世間には不確実な情報が飛び交い、買い占めが行われ、人々は平静心を失いつつあります。そうした非常時であればこそ、周囲の声に翻弄されることなく、この機を好機として捉え、冷静に対応することが肝要です。

 この時期に私たちがすべきことは自分の人生のあり方を振り返り、反省すべきは反省し、信仰の原点に今一度立ち返ることではないでしょうか。聖書は「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)と教えています。
 本日のテキストには「思いわずらうな」を鍵語として三つに分けることができます。

Ⅰ いのちと飲食、からだと着物の対比・価値観の転換(25)

聖書は思い煩いの第一の要因は、間違った価値観にあることを教えています。

ここに思い煩いから解放される第一の秘訣が記されています。ここで対比されているのは、「いのちと食物」、「からだと着物」です。

 聖書は「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」と教えています。

 人間にとって「思いわずらう」という悩みは古今東西、昔も今も変わらないものです。性格や状況にもよりますが、神経質や心配性の人はなおさらのことです。それだけ現代人には様々な悩みや心配や思い煩いが多いということです。

 私たちの関心は多くの場合、「何を食べようか、何を着ようか」に向けられています。聖書の対比は決して「食べることと、着ること」のみに向けられているのではありません。それは一例としてあげられているのであって、本質的には私たちは何に価値を見出すかの問題なのです。そこには「絶対的なものと相対的なもの」、「永遠的なものと一時的なもの」、「本質的なものと付随的なもの」、「見えないものと見えるもの」、「内的なものと外的なもの」、「天的なものと地的なもの」、「聖なるものと俗なるもの」などが考えられます。

 今日のみ言葉によって、私たちの思い煩いの要因が価値観の転換にあることが分かります。つまり、あってもなくてもよいものと、なくてはならぬものとの区別ができていないのです。それが大きな要因です。あなたの人生においてこれが一番の関心事だというものがあるでしょうか。人生の目標がこれだというものがあるでしょうか。人生の生き甲斐がこれだというものがあるでしょうか。

この地上において価値あるものではなく、永速に価値のあるもの、永遠に絶対のものというものをお持ちでしようか。人生においてそれがなければなりません。何を食べるか、何を着るかということは、私たちの人生の目的や目標ではなく、それは私たちが生きていく上での一つの手段なのです。付属物なのです。

それでは本質的なものは何かというと生命であり、からだです。生命がなければ食べることも飲むことも必要ありません。からだがなければ着ることも必要ないのです。

思い煩いの要因は、第二義的なものを第一にするということ、つまり間違った価値観にあります。私たちは着ることも、食べることも大切です。趣味も必要です。しかし、私たちにとって最も必要なものは、からだであり、生命そのものなのです。ですから、この思い煩いから解放されるためには、間違った価値観を正しい価値観へと転換することが必要なのです。

Ⅱ 空の鳥、野の花と人間の対比・生命観の転換(26~31) 
聖書は思い煩いの第二の要因は、間違った生命観にあることを教えています。
ここに思い煩いから解放される第二の秘訣が記されています。ここで対比されているのは、「空の鳥と人間」、「野の花と人間」です。ここには「天の父」(26)と「神」(30)の名前が登場しています。

 聖書は「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」(26)と教えています。

次に「野の花がどうして育っているか、考えて見見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない」(28)、「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さる](30)と自然界に働かれる神のみわざの素晴らしさに、私たちの目を向けさせようとしています。そして、「あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(26)、「あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」(30)と励まして下さっているのです。

空の鳥と野の花は、すべての被造物を代表しています。彼らは人間のように「何をたべようか、何を飲もうか、何を着ようか」などと言って悩むことはありません。すべては天の父、天地を創造された神さまが養ってくださっているのです。彼らは被造物として神の養いに一切を任せているのです。
 
かつて仏式のお葬式に列席された人が、「とても勉強になりました」と報告して下さったことがありました。「御棺の中に杖を入れて、旅支度をさせて、これから50日間、冥土まで旅に出かけますから、きちんと冥土までたどり着けるようにお祈りをしましょう」と言われたそうです。

 しかし、聖書においての命はそういうものではありません。神様は、天地創造の際に私たちをご自分のかたちに似せてお造り下さいました。人間も猫や犬も土と塵で造られました。しかし、人間は神様の息を吹きかけられて生きたものとなりました。それが動物と人間の違いです。人は神の霊を受けましたから永遠に生きるものでした。しかし、そこにアダムとエバの堕落によって、神様との間に断絶が起こりました。

神の命から離れた人間は、生きているようですけれども、段々と年をとって行きます。それが現在の人間の寿命です。しかし、神様は私たちを回復させて下さるために、イエス・キリストを遣わして下さいました。イエス様は私たちの罪汚れの一切を背負って死んで下さり、三日目によみがえって下さいました。キリスト教の中心はイエス・キリストの十字架の死と復活にあります。私たちはそういう命を持っています。それがキリスト者なのです。お金でなく、財産でなく、名誉でなく、地位でなく、神様の命が与えられています。永遠に生きる命が与えられています。

クリスチャンの素晴らしさは、私に神様の命、永遠の命が与えられているということです。これで満足なのです。

だから、何を着ようか、何を食べようかということは二義的なことです。神様を知らない人にとっては、着ること、食べることなどが第一義的なものです。だからお金がないと思い煩う、服がなければ思い煩う。出世しなければ思い煩う。子供の勉強ができなければ思い煩う。こういうことは、私はごく当然のことだろうと思います。

けれども、思い煩わない秘訣は何かと申しますと、私たちの本来の命とは肉体の生命ではなく、神によって、キリストによって再創造された永遠の生命であります。ですから今私たちが思い煩いから解放されるためには、間違った生命観を正しい生命観へと転換することが必要なのです。

Ⅲ 神の国とサタンとの対比・人生観の転換(32~34)
 聖書は思い煩いの第三の要因は、間違った人生観にあることを教えています。ここに思い煩いから解放される第三の秘訣が記されています。ここで対比されているのは、「神の国とサタン」です。これまでの対比はどちらかと言えば、多少相対的な部分がありましたが、ここでは絶対的な対比がなされています。また、これまでは多少優先順位的な意味がありましたが、ここでは絶対順位的な意味があります。

 聖書はそのために「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(33)と教えています。「神の国と神の義」と対比されるのは、「サタンとサタンの不義」です。換言すれば、神の最大の敵は創世記の初めからサタンである、と言うことです。パウロは「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ8:12)と記しています。

 「神の国」とは、キリストが再臨された時に実現する新天新地の世界、さらに神様の御心や御旨が実現している世界をも意味しています。「神の義」とは、神の正義(絶対的な正しさ)であり、「神の国とその義を求める」とは、神の正義が実現する世界を願い、それに適った生活を心がけることです。つまり、生活のすべての分野において、創造主である神に、〈自分のすべての価値観、生命観、人生観〉を位置づけることが求められるのです。それは自分の人生観を越えた世界観を意味しています。それはまた神様を畏れる人生ということでもあります。

 聖書は「神の国と神の義を求めなさい」と言う教えに従う者に対して「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな、あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は一日だけで十分である。」と約束して下さっています。「あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」とはどういう意味でしょうか。それは「明日のことは、明日を支配される神ご自身が責任を取って下さる」という意味です。神様ご自身はいつも私たちの先々のことを考え、守って下さっているのです。

「明日はどんな日か、私は知らない、晴れか、嵐か、曇りになるか、私は明日を心配しない、イエスが私を守られるから、明日は私にはわからないけど、明日を守られるイエスがおられる」という歌があります。素晴らしい歌ですね。

 あなたが主を選んだのではなく、主があなたを選んでくださったのです。あなたが神様を運ぶのではなく、神様があなたを運んで下さるのです。あなたが神様を支えるのでなく、神様があなたを支えてくださるのです。ですから〈信任、信頼、信用、信仰〉です。もう少しわかり易しく言うと、〈入りこんで、もたれかかって、空身になって、あてにする〉。丁度、重荷を背負っている人が、入り込んで(電車に乗って)、もたれかかって(座席に座って)、空身になって(荷物をおろして)、あてにする(電車の行き先を信じる)というようにです。

 このように思い煩いから解放されるためには、これまで神を第一にしていなかった間違った人生観を、神を第一とする正しい人生観に転換することが必要なのです。

 私たちの人生にはいろいろな重荷や苦労や心配があります。特に新型コロナウイルスの蔓延は世界を覆っています。いつ終息するかは分かりません。しかし、心配しないで下さい。私たちは神様に祈ることを知っています。

礼拝や集会が休会になっても心配しないで下さい。共に家庭にあって心を合わせて礼拝しようではありませんか。共に心を合わせて祈ろうではありませんか。

明日の責任を取って下さる神様があなたのために心配して下さり、重荷や苦労や心配を全部背負って下さるのですから、私たちは明日の心配はせず、夜寝る時には、「神様よろしくお願いします。おやすみなさい。」と言って寝れば良いのです。どうぞ皆さん、今日、全部お委ねしましょう。一切の心配を主にお委ねいたしましょう。お祈りしています。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:6~7)

東京台湾教会20200503主日礼拝

25/04/2020

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2020年4月26日 主日  日本語居家靈修禮拜主題:「エマオのキリスト」説教: 中島 秀一 牧師オンライン禮拜:  https://youtu.be/dvuRXaihnNU聖書:ルカ24:13~32聖句:「それで、彼らが、「いっしょにお泊...
25/04/2020

2020年4月26日 主日 日本語居家靈修禮拜

主題:「エマオのキリスト」
説教: 中島 秀一 牧師
オンライン禮拜: https://youtu.be/dvuRXaihnNU

聖書:ルカ24:13~32
聖句:「それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。」(ルカ24:29)

 本日は主が復活されてから8日目を迎えました。イエス様は復活されてから40日間、その復活体を多くの弟子たちに顕されました。教会暦によりますと聖霊降臨日までの50日間を復活節と呼びます。この期間は主の復活に対する信仰を深めつつ、次第に聖霊降臨に対する期待を強めて参ります。
 本日も引き続き「ネット礼拝」ではありますが、共に礼拝を捧げることができますことを本当に嬉しく思います。

 今日の話はイエス様が復活された日の夕方の出来事です。今日のテキストは「エマオ途上の弟子たち」としてよく知られた箇所です。多くの有名な画家がこの箇所を題材にしています。バロック時代を代表するカラヴァッジヨやレンブラントは「エマオの晩餐」と言う題で、食事の場面を描いています。私も「エマオのキリスト」という主題で共に恵みを味わうことにいたします。

Ⅰ 弟子たちに近づかれるキリスト
 イエス様が復活された夕方、二人の弟子が失意の中でエルサレムから東へ
11㎞程あるエマオという村に向かっていました。エマオとは「温かい井戸」という意味があります。その一人はクレオパと言う名前でしたが、もう一人の名は記されていません。弟子と記されていますが12弟子ではなく、それ以外の70人の弟子であったと思われます。
彼らはその道中において、イエス様の受難から十字架の死に至るまでのことを、互いに語り合い、論じ合っておりました。するとそこにイエス様が近づかれ、一緒に歩いて行かれたのです。彼らはイエス様が十字架にかかって亡くなられたので、失望と落胆の中に落ち込んでいたのです。その二人に復活されたイエス様が近づいてこられたのです。ああ、何という素晴らしいことでしょうか。私たちも今、日本だけではない、世界中の人々がコロナのの脅威に怯えています。終息の目途が全く見えません。いつ感染するか、重篤な状態に陥るか、大きな不安と恐れが漂っています。しかし幸いなことに、イエス様はそのような状況の中におられる貴方や私にも近づいてきて下さっているのです。そして共に歩いて下さるのです。

 しかし残念なことに彼らは「目がさえぎられて」、イエス様を認めることができなかったのです。「さえぎられる」とは、イエス様と弟子たちとの間に、両者を遮断する「何ものか」が入ったことを意味しています。それは物体ではなく、精神的なこと、霊的なものを意味しています。彼らはイエス様を「一人の旅人」としては認識することができたのですが、「イエス様」とは認めることはできなかったのです。

 復活に日の朝早いときに、マグダラのマリヤは墓に出かけました。そこでマリヤはそこにイエス様が立っておられるのを見ました。しかし、それが「イエスであるとことに、「気がつかなかった」(ヨハネ21:14)のです。しばらくイエスと話している間にイエス様が「マリヤよ」と呼ばれました。そこでマリヤはその方がイエス様だと分かったので、「ラボニ、先生」と叫びました。
 復活されたイエス様の姿は生前のイエス様とは異なっていましたから弟子たちがイエス様を認めることができなかったのは無理もないことでした。
しかし、マリヤは「イエス様の声」を聞いた時に、それがイエス様だと理解することができたのです。ここにマリヤと弟子たちの霊性に違いがあることが分かります。

 イエス様は十字架を前にしてゲッセマネの園において祈られました。そしてイエス様は弟子たちに「わたしといっしょに目をさましていなさい」と言われました。そして祈られました。

 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

 その大事な時に弟子たちは眠っていたのです。イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい」(マタイ26:41)と注意されました。

 この言葉は新約聖書の中で23回、四福音書に10回も出て来ます。そのすべてが十字架と再臨に関係しています。

イエス様は「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ26:34)と言われいわれました。

 ここでイエス様が指摘されていることは、「目がさえぎられて」とは、眠った状態であり、「放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っている」ことを意味しています。

 イエス様は「歩きながら互いに語り合っているその話はなんのことなのか」と弟子たちに話しかけられました。彼らは「暗い顔つきになってで、立ち止まった」のです。そしてクレパオが、今日の朝に起こった出来事を整然と語りました。その要点は「ナザレのイエスのこと、預言者だったこと、祭司長や役人たちによって十字架につけられたこと、救世主・メシヤとして期待していたこと、墓は空であったこと、天使が現れて『主は生きておられる』と告げたこと」などをイエス様に告げたのです。弟子たちの持っていた情報は百点満点の内容でした。
 
 彼らの「キリストの死と復活」に対する信仰告白は、立派なものでした。しかしそれだけでは彼らの「さえぎられた目」は「開かれなかった」のです。「悲しそうな顔、暗い顔」は「燃えるような心」には変わらなかったのです。いかに「キリストの十字架と復活の事実」を知的に知ったとしても、人は変わらないのです。大切なことをその事実を「信じ、受入れる」と言う信仰なのです。従って彼らの「目がさぎられて」いた要因は「不信仰」の一語に尽きるのです。

Ⅱ 聖書を語られるキリスト
 クレオパの話を聞かれたイエス様の第一声は「ああ、愚かで心のにぶいために、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(25~27)のでした。

 聖書の一貫したメッセージは「救世主(メシヤ)の預言とその成就」にあります。その預言は主として旧約聖書い記されています。またその成就は「キリストの十字架と復活」によって実現しました。それは主として新約聖書に記されています。神はそのメッセージを伝えるために、ひな型としてイスラエル民族を選ばれ、その歴史を通して伝えられたのです。そこには一貫性と統一性があります。ですからイエス様も「聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」のです。

 聖書は次のように記しています。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

 「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(詩篇22:1)

 「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」
                              (マタイ16:21)

 二人の弟子たちは、聖書を余り読んでいなかったようですね。「目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」ことの理由は、聖書に目が開かれていなかった」ことによるわけです。

 「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119:11)と歌っています。

Ⅲ 一緒に泊まられるキリスト
 弟子たちに聖書を説きあかされたイエス様は、エマオの村に近づいた頃、先へ進もうとされました。弟子たちは、「『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた」(29)のです。

 英国スコットランドの牧師であり、讃美歌作家であったヘンリー・ライトはこの時の情景を作詞しました。新聖歌336番「日暮れて闇はせまり」(讃美歌39)です。今日、皆さんと一緒に歌った歌です。原題は「Abide with me」です。彼はこの詩を死を目前にして、告別の歌として残したと言われています。作曲はウイリアム・モンク、彼は沈み行く太陽を眺めて、霊感を覚えて10分で作曲したと言われています。

 「日暮れて やみはせまり わがゆくて なお遠し
  助けなき 身の頼る 主よ、共に宿りませ」

 もし、弟子たちが「無理に願った」のでなければ、取り返しのつかない事になっていました。イエス様は決して意地悪をされたのではありません。人間側の執拗な渇望を求めておられたのです。
 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
 どうか私たちも、復活されたイエス様に、50日後、お降り下さった聖霊様に対して、主よ、共に宿りませ」とお願いしようではありませんか。

Ⅳ 共に食事をされるキリスト
 イエス様は二人の弟子たちと共に宿屋に入られ、食卓につかれました。給仕が食事を運んできます。するとイエス様は「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」(31)のです。

 この情景を私たちは何処かで見たことはないでしょうか。そうです。それは、イエス様が十字架にかかられる三日前に弟子たちと食事を共にされた場面です。私たちはその場面を「最後の晩餐」と呼んでいます。
 この場面はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されています。この「最後の晩餐」は、現在の聖餐式のひな型です。本日の「エマオの食卓」の中にも聖餐式のひな型を見ることができます。
 彼らはこの最後の晩餐に同席してはいません。ですからその場面を思い出して「イエス様」だとわかった訳ではありません。
 イエス様だとわかった直近の状況は「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」のです。

しかし、彼らは「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(32)と表現しています。
 ここでわかることは、弟子たちが最初にイエス様に出合った時から、パンをさいて一緒に食事をするまでの交わりの中で、イエス様に対する理解が深められて行ったと思われます。イエス様の話し方、配慮、雰囲気、知識、権威等などを通して、宿屋における、親しい、落ち着いた環境の中で、食事を共にしたことが、最後の決め手になったのではないでしょうか。
 改めて、聖餐式の有り難さを痛感しています。礼拝がネット礼拝になっっために受難週における聖餐式も中止になりました。
 聖餐式について聖書は次のように記しています。

 「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」(第一コリント11:23~25)

 聖餐式は洗礼式はキリスト教会の二大礼典です。聖餐式はキリストの十字架の贖いのみ業を記念することにあります。記念するためにはキリストの贖いに対する生きた信仰が必要になります。聖餐式はその信仰を象徴するものとしての代々の聖徒たちから受け継いできた礼典です。今、私は一日も早く、コロナウイルスが終息して礼拝が守られること、そして聖餐式が施行されるを心から願っています。しかし、私はもう一つのことを教えられています。そのヒントは次の言葉にあります。
 「家憲・我と我家とは共にエホバに事えん。1.我家の主人はキリストなり、 2.食事の度毎に見えざる賓客あり、3.談話の度毎に沈黙せを聴き手あり」
 主にある兄弟姉妹、あなたや、あなたの家族の毎食事において、賓客であるイエス様が同席しておられることを意識して下さい。あなたがたの食事の席が、聖餐式とは別個なものではありますが、豊かな、恵まれた時間となることを信じています。

  エマオのキリストは、弟子たちと共に歩かれるだけでなく、一緒に泊ま られました。
  さえぎられていた弟子たちの目を開かれました。
  悲しそうな弟子たちの顔を燃えるような心に変えられました。
  身体を養うだけの食卓が、賓客を迎えた豊かな食卓に変えられました。
 
 「イエスは生きておられる」。私たちも復活のキリストに出合うことによっ て、喜びと希望に満ちた人生を歩む者とさせて頂きましょう。

住所

南荻窪4-25/11
Suginami-ku, Tokyo
1670052

営業時間

09:00 - 15:00

電話番号

+81333313247

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