31/05/2020
2020年 5月31日 居家主日禮拜
主題 : 【那九個呢?】
説教 : 李 敏功 牧師
動画禮拜: https://youtu.be/3eruQGgGBbw
經文: 路加福音17章11~19節
聖詩:200、303、509
啟應文:14
説教主文:
列位兄姊:大家平安
在今仔日的經文記載,耶穌往耶路撒冷去,經由撒瑪利亞及加利利交界進入一個靠近撒瑪利亞的村社,衪在遐遇到十個患著癩哥病的人。這十個癩哥病的其中有一個是撒瑪利亞人。兄弟姊妹,原本猶太人及撒瑪利亞人是沒在往來的,但是因為有共同的不幸,所以就互相聚集作伙,在古代,常常會有這款不幸的人裀會聚集作伙,互相照顧,彼此安慰,就是咱講所謂的同病相憐。
從佇舊約聖經當中咱就會倘看見得到這款癩哥病有多嚴重,在利未記13章45-46節講:「有癩哥的症頭者,伊的衫褲著拆裂,伊的頭毛著拍散,掩伊的嘴的頂唇,叫講:『無清氣!無清氣!』症頭佇伊的身軀的日,伊就無清氣;伊既然是無清氣,伊著家己惦伊的所在佇營外。」也就是講,得到這款的病,他差不多就是被放棄,生命已經沒有盼望。到佇耶穌的時代,裀的命運同款是沒改變,猶原受到人的排斥及歧視。在這段經文,主耶穌就遇到這群這呢不幸的人。通過聖經所描寫的,咱閣一次深入來看裀可憐的景況。
一、悲慘的病症
任何得到這款癩哥病(痲瘋病)的人,裀至少會面臨五種的病苦:1.無藥醫(當時是按呢);2.會神經麻痺,腳手爛去殘廢;3.會傳染互別人;4.只有等死,沒有選擇;5.萬一若醫好,嘛會變作「破相」,面貌很歹看。其實在那個時陣,還有很多可憐的人,比如眼睛青暝的,啊是跛腳的、啞巴的人等等,裀雖然看不到、不行路、不講話,但至少面貌還算是正常。若是得到癩哥病,除了肉體的痛苦以外,內心的痛苦是愈大,因為裀無法度過及人作伙的生活,永遠被隔離。
這十個癩哥病人,因為無法度及正常人生活,自然就形成另外一種的共同體,苦難互裀作伙,也互咱會倘互相支持來得到繼續活下去的力量。不過這群人,照律法規定,裀不凍接近正常的人,只有會凍站遠遠,而且就算講人呣知,裀嘛要主動給人講他是癩哥病人,呣通倚來。所以,裀是互社會孤立的一群人,不但無法度享受任何家庭親情的溫暖,沒有親人,若是有一天死去,就沒人知,嘛沒人會感覺傷悲。而且,這些人在律法的規定中,裀是不清氣的人,見若倚近裀的人也會被判作不清氣,從按呢,只要遇到人,裀一定要喊講:「我是無清氣的,呣通倚來。」這就是裀當時悲慘的處境。
二、耶穌,可憐阮
這群親像得到絕症同款在等死的人,看起來裀的生命已經是沒有盼望,只是在拖時間若定。不過,呣知影在什麼款的情形下面,裀聽到耶穌這個人的代誌,裀也聽到耶穌所行的神蹟,這個人竟然會凍互青暝的看見、互跛腳的會行,連死人嘛互他復活。主耶穌的作為互裀重新看見盼望,也互裀重新找到受醫好來脫離苦楚的勇氣。
而且有一天,這個耶穌來到裀的鄉社,裀遠遠看到很多人跟隨耶穌,挨挨擠擠在衪的身軀邊,大家攏有不同款的需要,嘛攏盼望主耶穌會凍替裀解決。在路加福音5章12~16節已經有記載,耶穌醫好一個患到癩哥病的人,耶穌吩咐他去互祭司驗就好,呣通去給人講,但是那個人卻是歡喜甲四界報揚,致到有很多人聚集來隨衪,想欲得到醫治。很可能這群癩哥病的人也攏有聽到這件代誌,所以,裀要抓住這個機會,求耶穌可憐裀。
當耶穌卡倚近的時,裀開始出聲講:「耶穌,先生,憐憫阮!」這個出聲不是小聲啊是歹勢歹勢在叫,裀是完全放聲大叫,親像看到叨位火災,大聲在喊「火燒厝了!救人喔!打火喔!」那呢大聲。而且裀是十個人作伙叫,聲音更加是非常的大,相信當時所有隨在耶穌身驅邊的人攏有聽到。「耶穌,先生,憐憫阮!」裀的喊嘩成作一個呼求的祈禱,成作一個迫切的祈禱,將自己所有一切的困難甘苦,攏總交托在主的面前。
這呢大聲的呼叫,主耶穌聽見,也看見了。衪的醫治很簡單,只是對裀講:「恁去將本身互祭司驗。」裀去的時就得到清氣了。這段話表明了主耶穌在考驗裀的信心,這及舊約列王記下卷五章記載亞蘭王的大將軍乃縵得到癩哥病,去找先知以利沙醫治的過程是同款的。主耶穌講,恁去互祭司驗,這是按照當時律法所規定的。但問題是,裀的癩哥病是什麼時陣得到醫好的?聖經講,是在裀去的時。請咱注意!耶穌並沒做什麼動作喔,衪沒有親像在第5章記載,用手去摸那個癩哥病人,嘛沒有講:「我肯,你通清氣!」衪只是叫裀去互祭司驗。當裀順服,願意聽衪的話去,在去的過程中,裀的癩哥病就得到醫治。所以,這個醫治的行動是代先有信心,代先有順服,醫治的神蹟才會發生。兄弟姊妹,想看嘪,若是你咧!若是你困境中求叫主耶穌的幫助,你甘有親像按呢的信心來順趁衪的話,我想這是咱很大的信仰考驗。這十個癩哥病人裀攏得到醫好,因為裀攏有去了。
三、那九個在那裡?
不過,這個故事的中心並不是只有講到耶穌醫好那十個癩哥病人的神蹟若定,咱看見聖經繼續記載,那得到醫好的十個人,只有一個回來獻上感謝,其他的那九個好了後就沒看人了。而且,這個知影回來感謝主耶穌的人,是一個撒瑪利亞人。這個人不是猶太人,聖經講他看到自己已經好,所以有可能他還未去互祭司驗,當他發現自己得到醫好的時,他就馬上回來感謝耶穌,他伏在耶穌的腳前感謝衪,並且大聲嘔咾上帝。
嘛因為只有一個人回來,所以耶穌就問講:「另外那九個人咧?」在福音書的當中,這段經文是描寫人呣知影要感謝最深刻的一段。這些原本已經在絕望當中的癩哥病人,裀會凍從主耶穌來得到醫治的大恩典,重新恢復失去的人生,裀竟然呣知影回來感謝,若按呢裀跑去叨位?有可能歡喜甲欲趕緊回去看裀的親人,報裀好消息,享受久久沒享受到的天倫快樂,這些雖然合理,但是有一項最重要的事裀忘記去了,就是向上帝獻上感謝。
在1860年,有一台叫艾爾琴夫號的蒸汽船在美國的密西根湖沈下去,船頂載有393遊客。其中有一個是西北大學游泳隊的選手叫作艾德華斯本賽,他來回游17趟,救17個人上岸,最後一趟因為體力透支就昏去,醒起來了後還一直在喊講:「甘還有人要救?甘還有人要救?」後來,他嘛因為按呢兩支腳受重傷終身坐輪椅。幾年後,在他生日的那一天,有人問他一生中最深刻的事是什麼?他講:「我一生最會記住的,就是那17個我救起來的人,沒有一個曾給我道謝!」兄弟姊妹,咱甘會按呢?有時咱會將很多代誌當作是理所當然,呣知影要感謝,或者是忘記去要感謝。這是主所不歡喜的事,衪不愛咱作一個未曉感謝的人。
四、結論
兄弟姊妹,在這個故事,有幾個很重要的啟示:1.信仰會促成醫治,這十個癩哥病人相信主耶穌的疼與權能,站在遠處求祂的醫治。耶穌就叫裀去互祭司驗。裀攏沒懷疑耶穌為什麼不伸手,不給裀洗啊是不用話語。只是單純相信順服,結果裀攏得到醫治。 對主的話若會凍親像囝仔同款單純地相信,就能得祝福。2.醫治不一定會產生信仰,十個癩哥病人攏得到醫治,但只有一位回來感謝主,衪因為按呢得到那個永遠的祝福,就是靈魂的醫治。另外那九個,雖然得到肉體的醫治,卻是得不到那個永遠的救恩。裀親像撒在石頭上的種子,雖然起初有信,但心內沒有根,將來也一定會離開。3.肉體的醫治是暫時的,得到醫治的那九個,裀肉體的醫治是的,有一天會閣破病,啊是會衰老來死。所以,肉體能倘得到醫治是很感謝的事,但它是暫時的,所以,欲產生真實的信仰,咱必須要進一步不斷來追求。4.靈魂的醫治才是永遠的,十個癩哥病人,照耶穌的話去互祭司驗的時,攏得到清氣,其中一個撒瑪利亞人,回來伏在耶穌的腳前感謝祂,歸榮光互上帝。主耶穌對他講:「起來,做你去!你的信有救你。」那九個是肉體的醫治,這個撒瑪利亞人是肉體及靈魂全人的醫治。肉體的醫治要互祭司驗,靈魂的醫治只有主耶穌的確認才會凍有永遠的效果。所以,兄弟姊妹,上帝歡喜咱得到肉體的醫治,但是祂更加盼望咱會凍得到永遠的醫治,互咱及上帝恢復新的關係來領受永遠的活命。
説教主文 日本語訳
「九人はどこにいるのか?」
聖書:ルカの福音書17章11〜19節
メッセンジャー:李敏功牧師
期日:2020年6月7日
愛する兄弟姉妹、平安がありますように。今日の聖書の箇所で、イエスはエルサレムへ行く途中サマリアとガリラヤの境にある、サマリア近くのある村を通られました。そこで彼は十人のツァラアト(重い皮膚病)を患った人に出会った、更に十人のうち一人はサマリア人であった。みなさん、もともとユダヤ人とサマリア人の交流はなかったが、しかし同じような不幸に遭い、群れをなすようになったのですが、古代ではよく、このような不幸の人たちが集まり、互いに面倒を見合い、慰め合うことがよくあることで、これがいわゆる「同病相憐れむ」なのです。
旧約聖書の中からも私たちは、この病はどんなに重いものかを見ることができます。レビ記13章45〜46節で「ツァラアトだと宣告された者は、衣服を引き裂き、髪を乱し、口を覆って、『私は汚れている。汚れている』と叫んで歩かなければならない。 その症状がある間は汚れた者とみなされ、野営地の外で暮らす。」とあるように、このような病気にかかると、ほとんど諦められてしまい、いのちの望みも持てなくなってしまいます。イエス様の時代になっても彼らの運命は同じく、依然人々からの排斥と偏見にさらされます。聖書のこのところで、主イエスがまさにこのような不幸な人たちに出会われて、聖書の描写を通して、もう一度彼らの哀れな状態を見てみましょう。
一、悲惨な病状
誰でもこのようなツァラアト(重い皮膚病)を患った人は、少なくとも5種類の病による苦しみを経験する、1.治療薬がない(当時ではそうであった)、2.神経が麻痺し、手足が腐って障がい者となる、3.他の人に感染しまう、4.死を待つのみ、他に選択肢はない、5.幸いにも治っても、醜い顔になって、見るに耐えない。事実その時、他にも多くの哀れな人たちがいます、目が見えない、足が萎えている、口が聞けない人々など、彼らはたとえ見えてなくても、歩けなくても、口が聞けなくても、少なくとも彼らの顔はまともであります。しかし、もしツァラアトに感染した人は、肉体の苦痛のほかに、心の苦しみはさらに大きく、なぜなら彼らは人と一緒に生活することができず、永遠に隔離されてしまいます。
この十人のツァラアト病人は正常な人の生活を送ることができないので、おのずともう一つの共同体を形成するようになった。苦難が彼らを仲間にした、また互いに支え合うことによって、私たちに生き続ける力を与えてくださるのです。さらに、この人たちは律法の規定からすると、普通の人に近づいてはならず、ただ遠くに立つのみ。もし知らずに近づいてくる人がいれば、近づくなと、主体的に自分たちはツァラアト病人である事を言わなければならない。でありますから、彼らは社会から孤立させられた人々であり、家庭の温かさを受けることができないばかりか、親しい人もいないので、もし死んだときは誰にも知られず、また悲しまれる人もいないでしょう。しかも、この人たちは律法の規定の中で、汚れた人であるとされるので、彼らに近づく人がいれば、同じく汚れると判断されますので、ここから、彼らは人に出会う時は必ず叫ばなければならない、「私は汚れた者だ、近づくな。」と、これが彼らの悲惨な境遇であります。
ニ、イエス様、どうぞあわれんでください
このあたかも不治の病を患ってただ死を待つばかりの人たちは、生命に希望がないように見えて、ただただ時間を引き延ばしているばかりのように見えます。しかし、彼らはどのようにしてか分かりませんが、イエスと言う人の話と、そのイエスが行われた奇跡の話も聞いていました。この人は、目の見えない者が見えるようになり、足の萎えた人が歩けるようになり、死人さえもよみがえさせることができるお方だと。主イエスの行われたことが彼らに新たらしい希望を与え、彼らに、癒されてこの苦しみから離れることができる勇気を新たに与えたのです。
しかもこの日、このイエスが自分たちの村に来られた、彼らは遠くから見て、多くの人が押し合いへし合いして、イエスの側に近づいていった。みんなそれぞれ違った必要があったでしょう、しかし彼らは皆主イエスが彼らのために問題を解決してくれることを望んでいたのです。ルカの福音書5章10 〜16節の記載にあるように、イエスは一人のツァラアト病の患者を癒し、彼に祭司のところに行って見てもらいなさい、決して他の人に言ってはなりませんと言いつけたにもかかわらず、その人は喜んで周りにそれを言いふらしたため、さらに多くの人が癒しを求めるために、彼のところに集まってきたのです。多分このツァラアト病の人たちは、みんなこのことを聞いていたので、このチャンスを逃すまいとイエス様のあわれみを乞いたのです。イエス様がさらに近づいた時、彼らは声をあげた、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」この声は小さな声ではなく、大きく張り上げて叫んだのです。まるで火事場で、「火事だ!助けて!早く火を消して!」のように。しかも、彼らは十人が一斉に叫んだので、その声は非常に大きかった。多分当時イエスさまについていた周りの人たちも、みんなそれが聞こえたことでしょう。「イエスさま、先生、私たちをあわれんでください。」彼らの叫び声は呼び求める切迫した祈りとなって、自分たちのすべてのいままでの困難や辛さを全て主の前にさらけ出して委ねたのです。この様な大きな声での呼び求めに対して、主は聞かれ、そして見られました。彼の癒しは非常に簡単で、ただ彼らに言われた、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」。そして、彼らは行く途中できよめられた。この話は主イエスが彼らの信仰を試されておられます。これは旧約聖書II列王記5章に記載してありますアラムの王の将軍ナアマンがツァラアトに冒され、預言者エリシャに癒しを求めたのと同じパターンです。主イエスは彼らに、祭司のところに行って見てもらいなさい、とあるのは、これは当時の律法の定めに従うためです。しかしポイントは、彼らのツァラアトの病いがいつ癒されたのか、と言うことです。聖書は彼らが行く途中で癒されたとあります。どうか注目してほしいのは、イエスさまはどのような動作もしませんでした、彼は5章のように、手で病人を触りませんでした、あるいは彼は「わかった、あなたきよくなさい!」とも言いませんでした。ただ祭司に見せなさいと言っただけです。彼らがそれに従ったとき、彼の言葉を聞き入れて従ったとき、その行く途中で彼らの病が癒されたのです。したがって、この癒しの行いは、最初に信じる心と従順があって、それから癒しの奇跡が起こったのです。兄弟姉妹、考えてみてください。もしあなたの場合、あなたが苦境の中で主イエスの助けを呼び求めたなら、あなたもこのように信仰を持って、彼の言葉に聞き従うことができるでしょうか、これは私たちへの大きな信仰の試みです。この十人のツァラアトの病人は十人とも癒されました、なぜなら彼らは十人とも行ったからです。
三、九人はどこにいるのか?
しかしながら、ストーリーは単にイエスが十人のツァラアトの病人を癒した御業だけでなく、聖書の続きを見ると、癒された十人の内、ただ一人だけイエスにお礼を言いに引き返して来た、残りの九人は癒された後、どこにも見当たらなかった。そして、この引き返して来てイエスのお礼を言った人はサマリア人であった。ユダヤ人ではなかった、聖書は彼が自分の病気が癒されたのを知り、つまり、まだ祭司に見せる前かもしれませんが、自分の病気が癒されたのを知って、すぐにイエスの元に引き返しお礼を言い、彼はイエスの足元にひれ伏して感謝した、そして大声で神をほめたたえた。
一人だけ戻って来たので、イエスは言われた、「他の九人はどこにいるのか?」福音書の中で、この聖書箇所は、人は感謝を知らないという最も大事な時を描写しています。元々絶望の中にいるツァラアトの病人たちが、主イエスから大きな癒しの恵みを頂き、失った人生を取り戻したにも関わらず、主イエスに感謝することも分からず、一体どこへ行ったのか?嬉しいあまりに、早く家族に会いたく、その良いニュースを知らせたく、今まで味わえなかった快楽を持ちたかったかもしれません、これらは当然の事です、しかし一番重要な事を忘れている、つまり神様に感謝する事。
1860年に、レディ-エルジンという蒸気船がアメリカのミシガン湖で沈没、乗客393名。乗客のうちEdward Spencerというノースウェスタン大学の水泳選手が乗っていて、彼は岸まで17往復泳ぎ、乗客17名を岸にあげた、最後の一往復で体力の限界にきて気を失った、目が覚めた時「あと何人いる?あと何人助ける?」と言っていたそうです。後に、彼はその時両足に負った傷により、終身車いす生活となった。何年後か彼の誕生日の日に、ある人が彼に一生の内一番心に残った事は何かと聞いたところ、彼は言った、「一生記憶に残った事は、助けた17人の誰もが私に感謝の言葉がなかった!」兄弟姉妹、私たちも同じでしょうか?多くの出来事が当たり前の様に思い、感謝しない、或いは感謝する事を忘れる。これは主が喜ぶことではない、主は感謝しない人を愛しません。
四、結論
兄弟姉妹、このストーリーの中に幾つか重要なポイントがあります、1. 信仰は癒しを促進する。この十人のツァラアトの病人は主イエスの愛と力を信じ、遠く離れた所から癒しを求めた。イエスは彼らに祭司に見せなさいと言っただけ。彼らはイエスが何もせず、洗いもせず、或いは言葉も発しない事に疑問を持たなかった。ただ単純に信頼し服従した、結果として全員が癒された。この様に主の言葉に対し、子供の様に単純に信じることさえ出来れば、祝福を得られる。2. 癒しは必ずしも信仰を生むとは限りません、十人のツァラアトの病人は全員癒された、ただし、一人だけ引き返し主に感謝した、彼はその様に永遠の祝福を得られた、つまり魂の癒しである。他の九人は肉体的に癒されたが、永遠の救いを得ることが出来なかったのです。彼らはまるで岩の上にまかれた種の様に、最初は信じたのだが、内なる心に根付いていなかった為に、後に岩から離れてしまう。3. 肉体的な癒しは暫しの時、癒されたあの九人は、彼らの肉体は一度癒されたが、また病気にかかるかもしれません、或いは年老いて死ぬかもしれません。ですから、肉体的に癒される事は大いに感謝すべき、しかしそれは暫しの時、それゆえ、真の信仰を生むためには、私たちが絶えず前へ進んで求める事です。4. 魂の癒しだけが永遠に続く、十人のツァラアトの病人、イエスの言う通りに祭司に見せに行き、全員がきよくなり癒された、その内の一人;サマリア人が引き返し、イエスの足元にひれ伏し感謝を述べて、神様をほめたたえた。主イエスは彼に言われた、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを治したのです。」あの九人は肉体的な癒し、このサマリア人は肉体と魂、完全な癒しです。肉体的癒しは祭司に見せればいい、魂の癒しは主イエスのみに頼らなければ永遠の効果が得られない。ですから。兄弟姉妹、神様は私たちに肉体的に癒してほしいと同時に、もっと永久的な癒しが得られるように願っている、そうする事によって、私たちと神様の間に新たな関係を築くことが出来、永遠の命を得ることが出来るのです。
聖詩:200、303、509
啟應文:14