福音ルーテル スオミ・キリスト教会

福音ルーテル スオミ・キリスト教会 東京都新宿区にあるルター派のキリスト教会です

日曜礼拝 毎週日曜日10時半~12時
フィンランド家庭料理クラブ
聖書の学び
フィンランド語教室
手芸クラブ

「月刊いのちのことば」10月号の特集記事にスオミ教会のこども料理クラブが紹介されています。是非ご覧ください!全国のキリスト教書店にて販売中(88円)。通常の書店では常備されていないので店頭カウンターでの注文ないし「WINGSいのちのことば社...
13/09/2026

「月刊いのちのことば」10月号の特集記事にスオミ教会のこども料理クラブが紹介されています。是非ご覧ください!全国のキリスト教書店にて販売中(88円)。通常の書店では常備されていないので店頭カウンターでの注文ないし「WINGSいのちのことば社公式通販サイト」で購入できます。

スオミ教会フィンランド語クラスのご案内
06/09/2026

スオミ教会フィンランド語クラスのご案内

説教題 「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」2026年9月6日 礼拝 説教 吉村博明 牧師  https://www.suomikyoukai.org/?p=32611 本日は礼拝の動画配信はありません。説教はテキストをご覧下さい。
06/09/2026

説教題 「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」2026年9月6日 礼拝 説教 吉村博明 牧師 https://www.suomikyoukai.org/?p=32611 本日は礼拝の動画配信はありません。説教はテキストをご覧下さい。

本日は礼拝の動画配信はありません。説教はテキストをご覧下さい。 主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会 エゼキエル33章7-11節 ローマ13章8-14節 マタイ18章15-2.....

02/09/2026
2026年8月23日 主日礼説教説教題:「信仰も教会も宣教も律法ではなく福音」田口 聖 牧師 (日本ルーテル同胞教団)聖書日課:イザヤ51:1~6、ローマ12:1~8、マタイ16:13~20
24/08/2026

2026年8月23日 主日礼説教
説教題:「信仰も教会も宣教も律法ではなく福音」
田口 聖 牧師 (日本ルーテル同胞教団)
聖書日課:イザヤ51:1~6、ローマ12:1~8、マタイ16:13~20

司式・説教:田口 聖 牧師 (日本ルーテル同胞教団)聖書日課:イザヤ51:1~6、ローマ12:1~8、マタイ16:13~20説教題...

牧師の週報コラム(2026年6月28日) ー アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その3)私は、アウグスブルグ信仰告白20条は内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、500年近く経った今でもそうしたことを考える...
28/06/2026

牧師の週報コラム(2026年6月28日) ー アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その3)

私は、アウグスブルグ信仰告白20条は内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと思います。同告白のフィンランド語訳を読んだ時にそれを強く感じました。それで今回、同20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語原文をチラチラ覗きながら訳してみました。紙に書いたものをコーヒータイムの時に読み上げます。(このコラムの後に添付します。)

殆どはフィンランド語訳に引きずられた訳ですが、ラテン語に関していくつか申し上げますと、

・ bona opera「善い行為」は、先週のコラムで述べたように、「御心に適う行為」と意味を特定化しました。

・ 17項のcertamen perterrefactae conscientiae「恐れ脅える良心の戦い」は何を意味するのか?良心の平安を得るための戦いではないかと考えて解説的に意訳しました。

・ 36項のprimi aut secundi praecepti「第一あるいは第二の掟」は、イエス様が十戒を二つにまとめたもの、神を全身全霊で愛するという掟と隣人を自分を愛するが如く愛するという掟のことと解しました。

・ あと、最後の歌ですが、ラテン語版とフィンランド語訳では内容が異なっています。フィンランド語訳の解説によると、歌はVeni Sandte Spiritus(来たまえ、聖霊よ)の一つのバリエーションとのこと。ラテン語版の方は、聖文舎の日本語訳がそれで、同じ歌の一部とのこと。どうして違う内容なのかは調べていないのでわかりません。紙には両方載せておきます。

20条にはよく、恐れる心、脅える良心、脅える魂などと、平安が失われた状態の問題が出てきます。これは、一義的には、神の意思に反するもの、罪が自分にあることを自覚して、神の怒りや裁きを恐れる心を意味します。そのような心は、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることで平安を得ます。それでは、罪以外が原因で心に平安がなくなった時は、どうなるのか?私は、これもイエス様の十字架と復活の業が平安を与えてくれるものであると考えます。私たちは、罪と関係なくて困難や苦難に見舞われて、心が心配や恐れに覆われてしまった時は、神は目を注いでくれない、私のことを無関心でいる、神は私に背を向けた、という疑いを持ちます。しかし、その場合でも、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることができれば、まず、そういう疑いはなくなります。そして、試練は神と一緒に通り抜け乗り越えるプロセスに変わります。



アウグスブルグ信仰告白 第20条 信仰と神の御心に適う行為について

1)彼ら(ルターの改革に賛同する教師たち)が神の御心に適う行為を禁じているなどと言って我々のことを非難するのは間違いである。

2)彼らが、いかなる生活の仕方や行為が各人の召命において神を喜ばせるものであるかを説明する時、あらゆる生活様式と義務について有益な仕方で教えきたことは、彼らの十戒について論じた書物や同じテーマに属する他の書物が証明している。

3)これらの事柄について、説教者たちは以前はほんの少ししか教えなかった。彼らはただ子どもじみた不必要な行為を勧めてきた。定められた聖日を守ること、特別に決められた断食、同胞団の結成、巡礼、聖人崇拝、ロザリオの使用、修道院に入ること、その他類似の事柄がそれである。

4)こうしたことについて、我々に反対する者たちは注意を喚起されてきた。彼らは今ではこれらのことを止めつつあり、もはや以前のようにはこれらの無益な行為について説教することはなくなった。

5)彼らはまた信仰について語り始めるようになった。それについては、驚くべきかな、以前は彼らは沈黙していたのだ。

6)彼らは、我々は行為のみによっては義なる者になれないと教えている。しかし、彼らは、信仰と行為を結びつけて、我々は信仰と行為によって義なる者になれると言っている。

7)この教理は、彼らの古い教理よりは許容できるもので、またより多くの慰めを与えてくれるものである。

8)教会の中心的な教理でなけらばならない「信仰の教理」がこれほどの長い間忘れ去られてしまったため、- 説教では信仰による義認が完全に沈黙させられ、代わりに「行為の教理」が教会内で多すぎるほど論じられてきたことは全ての者が認めなければならない - そのために我々に属する者たちは信仰について諸教会に次のように注意を喚起してきたのだ。

9)第一に、我々の行為は神との和解をもたらすことはできず、また罪の赦しや恵みや義を見返りとして得させることもできない。我々がそれを達成できるのは、キリストのおかげで我々は恵みの中に受けいれられると信じる時、まさにその信仰を通してのみ達成できるのである。そのキリストは、唯一の仲介者、和解の道具として立てられた方であり、彼を通してでなければ父なる神との和解は得られないという方なのである。

10)それゆえ、行為によって恵みを見返りに得るということに信を置く者は、キリストがご自分について「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)で言っているにもかかわらず、彼こそが見返りであることと彼の恵みを排除し、神のもとに至る道をキリストなしに人間の力で探し求める者である。

11)この「信仰の教理」はパウロがいたるところで論じているものである。「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのである。救いはあたたちから出てくるものではない。神の贈り物である。行為から出てくるものではない」等々(エフェソ2章8節)。

12)誰も我々がパウロの新しい解釈を作り出したなどと非難する口実を得ることができなくなるために、この教理の全ては教父たちの証しの中に土台があることを示そう。

13)アウグスティヌスは多くの書物の中で行為の見返りの役割に反対して、恵みと信仰による義が正しいと論じている。

14)アンブロシウスも著書『異邦人の召しについて』やその他のところで同じことを教えている。同著書の中で彼は次のように言う。「義認は恵みによって起こるものなのに、もし前提にあるのだと言って行為の見返りということに依拠してしまったら、キリストの血による贖いは無価値になり、神の赦しの憐れみは人間の行為の陰に隠れてしまうであろう。そうすることで義認は与える方が見返りなど無関係に自由に与える贈り物ではなくなり、行為者が見返りに得る報酬になってしまうのである。」

15)この教理はたとえ信仰の経験の浅い者からは軽蔑されても、敬虔で神を畏れて震える良心は、まさにそれこそが最大の慰めと励ましを与えてくれると経験を通して知っているのだ。なぜなら、良心はいかなる行為をもってしても平安を得ることはできないからである。そうではなく、キリストのおかげで神との関係が保たれていると良心が本当に納得した時に、この信仰を通してのみ平安を得ることができるからである。

16)パウロは次のように教えている。「われわれは、信仰によって義とされたのだから、我々には神と平和な関係がある」(ローマ5章1節)。

17)この教理全体は、恐れ脅える良心が平安を得るための戦いの武器としてあるのであって、その戦いがなければ把握することができないものである。

18)それゆえ、信仰的に無経験な人々または世俗的な人々がキリスト信仰の義は社会正義ないし哲学が構築する正義以外のものではないと夢想する時、自分たちの粗悪な理解力を露呈するのである。

19)良心は以前、「行為の教理」に煩わされていて、福音から何の慰めも励ましも聞くことができななかった。

20)そのような良心に駆りたてられて、ある人たちは荒野へ行き、あるいは、修道士の生活をすれば見返りに恵みを得られると期待して修道院に入った。

21)別の人たちは、恵みを見返りに勝ち得て罪を償うことができるための別の行為を考案した。

22)それゆえ、このキリストを信じる「信仰の教理」を提示し新装することは真にもって必要不可欠だったのである。それは、恐れ苦しむ良心から慰めと励ましが欠け落ちてしまうことがないようにするためであり、恵みと罪の赦しと義はキリストを信じる信仰にあって得られるということを良心が知るためであった。

23)さらに人々の注意を喚起しよう。「信仰」という言葉は単に歴史的知識を意味するものではない。そのような知識は神を信じない者や悪魔でさえ持っている。「信仰」は歴史的出来事に向けられるものだけでなく、それらの出来事の効用、すなわち罪の赦しの表明にも向けられる信仰を意味する。この教理によれば、キリストを通して我々には恵みと義と罪の赦しがあるのだ。

24)さて、キリストを通して自分には恵み深い父があると知っている人は、本当に神のことを知っているのであり、自分が神に世話されているとわかっており、神に助けを呼び求める者であり、異邦人のように神なしで存在する者ではない。

25)悪魔と神を信じない人たちはこの教理、すなわち罪が赦されることを信じることができない。このため彼らは、神が敵であるかのように神を憎む。彼らは神に助けを叫び求めることもせず、神から良いものが与えらえることを信じもしない。

26)アウグスチヌスも読者に「信仰」の概念についてこのように注意を喚起しているのであり、聖書の「信仰」という言葉を習得された知識として捉えてはならないと教えている。そのようなものは神を信じない者も持っているからだ。そうではなくて、脅える魂を慰め励ましてくれる信頼として捉えるべきであると教えているのだ。

27)我々に属する者たちはさらに、御心に適う行為をすることは必要であると教える。それらは、することで恵みを見返りとして得ることができるなどと信頼するがために行ってはならない。そうではなくて、行うことは神の意思だから行わなければならないのだ。

28)ただ信仰によってのみ罪の赦し、すなわち恵みを手にすることができる。

29)そして、信仰によって聖霊が受け取られるので、心はすぐ新しくされ、新しい方向性を得て、その結果、神の御心に適う行為に自分を合わせることができるようになるのである。

30)アンブロシウスもこのように教えているではないか。「信仰は御心に適う意思と正しい行為の親である。」

31)というのは、聖霊がなければ人間の力は神を信じない心の動きに満たされしまい、神の御前で御心に適う行為を生み出すには弱すぎるからだ。

32)加えて、人間の力は悪魔の支配下にあり、悪魔は人間をあらゆる罪に、神を信じない考え方に、そして明白な悪へと駆り立てる。

33)このことは、哲学者たちの辿った人生から見て取ることができる。彼らは、自分では申し分のない生き方をしようとしたのであるが、それに成功しなかったばかりでなく、多くの明白な悪に手を染めてしまったのだ。

34)人間は、信仰と聖霊なしで生きようとする時、また、人間的な力だけで自分を律しようとする時、こんなにも弱いのである。

35)この教理を、御心に適う行為を禁じているなどと言って非難してはならないことは明白である。それどころか、いかなる仕方で御心に適う行為をすることができるかを示しているので感謝されなければならないのである。

36)というのは、信仰がなければ、人間の本性は第一の掟にしろ第二の掟にしろその行為を行うことができないからである。

37)信仰がなければ、人間の本性は神に助けを叫び求めることもせず、神から助けが来ることを待つこともせず、十字架を忍耐強く背負うこともしない。その代わりに人間の支援を求め、それに信頼する。

38)信仰と神に対する信頼が離れ去る時、心を支配するのはあらゆる種類の欲望と人間的なはかりごとである。

39)そのためにキリストは言われる。「私なしでは、あなたたちは何も成しうることができない」(ヨハネ15章5節)。

40)そして教会も次のように歌うのである



「もしあなたがあなたの霊を取り上げるならば、

無垢な者は存在せず、

あるのは空っぽで貧しい人間だけ。」



「あなたのみ力なしには

人の中には何もなく

無害なものは何もない」

2026年6月28日(日)10時半 聖霊降臨後第五主日 礼拝司式・説教 吉村博明 牧師聖書日課 エレミヤ28章5~9節、ローマ6章12~23節、マタイ10章40~42節説教題   「キリスト教徒で何が悪い!」       讃美歌 189、3...
27/06/2026

2026年6月28日(日)10時半 聖霊降臨後第五主日 礼拝
司式・説教 吉村博明 牧師
聖書日課 エレミヤ28章5~9節、ローマ6章12~23節、マタイ10章40~42節
説教題 「キリスト教徒で何が悪い!」
讃美歌 189、314、366、257、320
https://youtube.com/?feature=shared
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福音ルーテル スオミ・キリスト教会。聖書箇所に基づく説教や解き明かしを動画配信します。 スオミ・キリスト教会は、東京都新宿区にあるルター派のキリスト教会です。 www.suomikyoukai.org 162-0041 東京都新宿....

牧師の週報コラム(2026年6月21日)    ー アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その2)「アウグスブルグ信仰告白」は教文館から出ている「一致信条集-ルーテル教会信条集」(1982年)の中に収められている。それを学びの時のテキストに用...
21/06/2026

牧師の週報コラム(2026年6月21日)    ー アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その2)

「アウグスブルグ信仰告白」は教文館から出ている「一致信条集-ルーテル教会信条集」(1982年)の中に収められている。それを学びの時のテキストに用いているが、はっきり言って日本語の文体がわかりにくいところが多く、何度か読み返さないと先に進めないことがよくある。フィンランド語訳を読むとスッと頭に入るのに。それで、学びの時はいつもフィンランド語訳とラテン語原文を脇に置いている。

ChatGPTに「日本語訳はわかりにくい」とコメントしたところ、「それは格調高いから」などと返って来た。何を寝ぼけたことを!大学受験の高校生の英文解釈の答案のような日本語を格調高いなどとは笑止千万(今の高校生の日本語力と英語力は昔よりも向上しているでしょう)。それで、ChatGPTにラテン語の訳を頼むのはやめることにした。

Lithon社が2015年に出した「アウグスブルク信仰告白」はスッと頭に入る訳である。ところが、それはラテン語版ではなくドイツ語版の訳。両者はいろいろ違いがあり、20条もラテン語版にはあるがドイツ語版にないものがあったりして厄介である。フィンランド語訳の解説に「神学用語の観点からするとラテン語版の方が正確なので優先させるべき」などとあるので、結局は自分で頑張るしかない。

ラテン語能力は、神学部時代の23年前に中級までは行ったが、上級はまさに「アウグスブルグ信仰告白」を独習して、持ち込みなしで試験を受けるというもの。折しもアラム語の授業も受けていて、二つの同時履修は可能か?二人の幼い子供を抱え、妻は仕事という身では、二兎を追う者になるか家庭崩壊を招くかのいずれかだろうと思い(他にも履修科目はある)、上級は断念(ただ、アラム語がわかるようになったおかげで修士論文と博士論文が書けた)。しかし、まさか今になって上級の知識が必要になるとは夢にも思わなかった。なので、フィンランド語訳を基準にしてラテン語文をチラチラ覗いて、これはこれ、と照合するのが精一杯。

20条の日本語訳で私が一番困ったのは、bona operaの訳。教文館のでは「よい行い」。「行い」では広すぎて、礼儀正しいことや心がけが良いことも入ってしまい、20条で言わんとしていることから離れてしまうのでは?英語ではworks、ドイツ語ではWerkenである。仕事みたいに、やるべきこと、達成すべきことなのだ。ドヴォルザークの「新世界」の「遠き山に日は落ちて」の中に「今日のわざをなしおえて」とある、あの「わざ」なのだろう。しかし、日本語で「業」と言ったら、仏教の「業(ごう)」の思考が紛れ込むリスクも。「務め」と言ったら、行き過ぎだろう。Lithon社のでは「行為」と言っている。これだと、「行い」の範囲を狭められるか。でも、まだ何か足りないような気がする。そこで一工夫したのは、bonus「よい」の意味を「神の御心に適う」と特定化してしまうことだ(私の辞書にbonus「適っている」の意味あり、辞書はラテン語-スウェーデン語)。それで、bona operaは「御心に適う行為」に。そういうわけで、これから20条の学びは、頭にスッと入るフィンランド語訳を基にして、ラテン語版をチラチラ覗きながら、教えることにします。

2026年6月21日(日)10時半 聖霊降臨後第三主日 礼拝司式 吉村博明 牧師説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)聖書日課 エレミヤ20章7~13節、ローマ6章1b~11節、マタイ10章24~39節説教題   「自分の十字架を...
20/06/2026

2026年6月21日(日)10時半 聖霊降臨後第三主日 礼拝
司式 吉村博明 牧師
説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)
聖書日課 エレミヤ20章7~13節、ローマ6章1b~11節、マタイ10章24~39節
説教題 「自分の十字架を担って主に従う」
讃美歌 187、238、402、260、456
https://youtube.com/?feature=shared
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福音ルーテル スオミ・キリスト教会。聖書箇所に基づく説教や解き明かしを動画配信します。 スオミ・キリスト教会は、東京都新宿区にあるルター派のキリスト教会です。 www.suomikyoukai.org 162-0041 東京都新宿....

牧師の週報コラム(2026年6月14日) ー アウグスブルグ信仰告白第20条と現代礼拝後のコーヒータイムの時に行っている、アウグスブルグ信仰告白の学びも、今やっと20条「善い行いについて」に到達。これは内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを...
14/06/2026

牧師の週報コラム(2026年6月14日) ー アウグスブルグ信仰告白第20条と現代

礼拝後のコーヒータイムの時に行っている、アウグスブルグ信仰告白の学びも、今やっと20条「善い行いについて」に到達。これは内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、それで500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと考える者である。

20条は内容的に三つに分けられる。一つ目は、「信仰の教理」と「行いの教理」の対比。前者は、人間が神から義と認められる(神から見て正しい者、神の目に適う者と認められる)のはイエス・キリストを自分自身の救い主と信じる信仰によるという教理。それに対して後者は、神の掟や教会が決めたことを「善い行い」として行うことで神から認められるという教理。ルター派は前者を掲げ、後者を排する(「行い」は「業」と言い換えてもよいのではないかと思う)。

二つ目は、「信仰」と「知識」の対比。聖書に書いてある、イエス・キリストを巡る出来事は歴史的事実だと信じても、それはまだ知識にすぎず信仰ではない。それらの歴史的出来事、特に十字架と復活の出来事が自分にどんな効能をもたらすのか、その効能を信じるのが信仰である。その信仰から神を深く信頼する心が生まれ、その信頼がある限り悩み苦しむ心は慰めと励ましを得る。

三つ目は、ルター派は「行いの教理」を排したが、「信仰の教理」は信仰者が全く異なる土台に立って善い行いをする者に変える。歴史的出来事の効能を信じる信仰と一体となって聖霊が働き、心をそのように改革する。善い行いとは実は「信仰の教理」の帰結なのだ。「行いの教理」では心は何も改革されないのだ。

20条では、悩み苦しむ良心の戦いがなければ「信仰の教理」を自分のものにすることはできないと言われる。自分は果たして神聖な神の目に適う者なのだろうか、神に背を向けられてしまわないだろうか、という恐れの自覚があるところでのみ「信仰の教理」は真の心の平安と神への信頼をもたらすのだ。政治家でも一般市民でも、何か宗教を信奉する者が例えば平気で嘘をつき苦しむ良心の戦いを戦わずにその宗教の集会や儀式を続けるのは、「行いの教理」の成れの果てである。

今やAIは全人類の知識の集積となり、人間の問いや悩みに応えるばかりか、創造めいたことも始め、人間にとって神よりも身近な存在になりつつある。しかし、いくらAIが「聖書の神は御子の受難を通して死の苦しみを味わった」ということを知識で知っていても、自分ではその苦しみを味わあない。また、「信仰の教理」や良心の戦いについての知識はあっても、自分でその戦いを戦わない。なので「信仰の教理」を自分のものにできない。近年、聖書の歴史的出来事について、理性にそぐわないものを事実でないとし、出来事の効能を無効化する傾向がある。それはキリスト信仰をただの知識の集積に置き換えてしまわないだろうか?それに20条はまた、キリスト信仰の義は社会的正義や哲学が構想する正義とは別物であるとも言っている。

以上のようなことを考えさせる20条を次回から本コラムで紹介します。

住所

511-4-106 東京都新宿区早稲田鶴巻町
Shinjuku-ku, Tokyo
162-0041

営業時間

09:00 - 17:00

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