ゴスペルハウス

ゴスペルハウス ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。

神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.08.15「君子和而不同」ミカ4:1-51 その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。2 多くの国々が来て言う。「さあ...
18/08/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.08.15
「君子和而不同」ミカ4:1-5

1 その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。
2 多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
3 主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
4 彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。まことに万軍の主の御口が告げる。
5 まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。

今日8月15日は、終戦の日です。1945年8月15日、日本が敗戦し、太平洋戦争が終わった日です。
戦争の終わりを迎えたとき、私の母方の祖父は、母が2歳になる前に、軍需工場で爆撃されて亡くなりました。
まだ20代でした。
もう一人の祖父は戦争に行き、左手の小指に敵の弾丸が当たって、小指が動かなくなりました。
戦争が終わってから、夫を亡くした祖母は母と2人で暮らし、母を育てました。
筆舌に尽くしがたい苦労があったと、母から何度も聞きました。
それで、母の口癖は、「だから、戦争なんてしたらいかんのだがね」でした。

戦争に、勇ましい思い出や、得をした思い出を持つ人もいるかもしれません。
しかし、悲しい思い出は、その何十倍もあるのではないでしょうか。
終戦の日の今日、「君子和而不同」というテーマで、御言葉を開いていきましょう。

「和而不同」とは、中国の書物『論語』の中の言葉です。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と書き下されます。
『論語』は、紀元前5世紀後半から紀元前4世紀ごろに生きた孔子の言葉などを集めたものです。
優れた人、つまり「君子」は、他人と仲良く調和しますが、意見を安易に合わせることはしません。
一方、つまらない人、「小人」は、意見を合わせるだけで、心からは調和しないという意味です。

「和」と「同」は、どちらも「みんなで仲良く調和する」という意味にまとめられそうな言葉ですけれども、実は全く違うものなのです。
「和」というのは、違いを認めて、それでも平和を保つことです。
「同」というのは、違いをなくして、一色に染めること、染まることです。
同調圧力と言ってもいいでしょう。
「和」と「同」は、全く逆の意味の言葉とも言えるのです。

あるお寺のSNSの投稿に、こうありました。
「正義のための戦争など存在しない。戦争自体が悪なのだから。」
確かに、その通りです。
しかし、戦争はずっとなくなりません。
それは、「正義のための戦争」しかないからではないかと思います。
誰も、「俺たちは悪いぞ」と言って、戦争を始めたり、続けたりするわけではありません。
そんなことをするのは、「ばいきんまん」くらいです。

そうではなく、「正義」、正しくは「自分勝手な正義」を持つことで、戦争が始まるのです。
自分勝手な正義は、正義ではなく、むしろ悪です。
そして、その悪に反対する人々を、「非国民」「出て行け」「敵国のスパイ」などと脅して、思考を止めさせ、同調させるのです。
偽物の正義で人を縛り、指導者に逆らえない空気を作る。
まさに「小人」、つまらない人です。

これは他人事ではありません。
今も戦争は続いています。
そして、そこには必ず戦争をしたがる指導者がいます。
人々から思考を奪い、指導者の顔色をうかがわせ、自分がリーダーであり続けるために、人々を同調させる。

神様は、そんな偽物の正義にはっきりと「ノー」を宣言します。
イエスさまは、まさに「君子和而不同」を生きた方です。
すべての人に愛を注ぎ、同調圧力には屈しませんでした。
十字架にかかるまで、それを徹底されました。

そして、今日の聖書箇所、ミカに与えられた神様の約束も、「和而不同」の言葉です。
1-3節とほぼ同じ内容が、イザヤ書2章1-5節にも記されています。
つまり、ミカにもイザヤにも与えられた、大切な御言葉なのです。

「もろもろの民」(1節)「多くの国々」(2節)、イザヤ書では「すべての国々」(イザヤ2:2)「多くの民族」(同2:3)が、エルサレムに行きます。
それは、人種的にも、文化的にも、宗教的にも違いを持った民です。
決して同じになることができない人々が、それでも主の山、エルサレム、本当の神様に向かってやって来るのです。
そして神様は、その人たちを受け入れるのです。

同じになることができない人々が、神様の愛によって和することができる。
違いを認めたまま、それでも相手を尊重する。
自分も相手も、大切な存在であるということです。

だからこそ、彼らは剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すのです。
捨てるのではなく、打ち直したのです。
命を奪うものを、命を育むものに。
それは、物質だけではありません。心も、能力も、そのように用いるということです。
「もう戦うことを学ばない」(3節)という言葉が、それを表しています。

同じであることを求めたら、こうはなりません。
争い続けるだけです。
違いを認めることは、平和への大きな第一歩です。
なのに、そうはなっていない現実があるのです。

「グローバル教育」といって、今、学校で教えられているのは英語だけです。
スペイン語やポルトガル語ではなく、フランス語やイタリア語でもなく、英語だけです。
英語が悪いということではなく、英語だけが強調されることに、私は引っかかるのです。
そこには、一色に染めたい、一つの統治の中に支配したい、そんな思いが見て取れるのです。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」
昔、ビートたけしさんが、同調圧力を皮肉って語った言葉です。
冗談のような言葉でした。
しかし、これが笑って済ませられない今があります。
同調しないと不適格者扱いされ、敵扱いされる。

本当の平和は、そんなものではありません。
「彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座る」(4節)
1本の木の下にみんなで集まるのではありません。
それぞれが、自分の場所で、自分の人生を安心して生きることができ、そして、「彼らを脅かす者はいない」(4節)のです。

さらに、聖書としてはかなり画期的だと思うのが、その上で、「すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む」(5節)ことさえ受け入れているのです。
ただし、「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。」(5節)と続きます。
他者を尊重しつつも、自らの信じる真理には堅く立つ、まさに「和して同ぜず」、「君子和而不同」の体現です。

日本には「非核三原則」があります。
核兵器について、「持たず、作らず、持ち込ませず」。
国としての1つの「和而不同」です。
今や、それを堅持することも危ういと言われていますが、大切な原則だと私は思います。

そして今、私は非核三原則にプラスして、「非同調圧力三原則」を提案します。
同調圧力について、「持たず、作らず、持ち込ませず」です。
それが、あなたの人生を、あなたの毎日を、あなたの日常を平和に保つ秘訣だからです。
同調圧力は、私たちの自由を奪い、神様の前に立つ一人の人としての尊厳を奪うからです。

「平和を保つこと」
「同調圧力に流されないこと」
私たちの救い主イエスさまは、まさにその通りに生きました。
「みんながそうしているから」という安易な「当たり前」の、ずっと先を生きたのです。

そして、あなたもそう生きることができます。そう生きていいのです。
「え?でも私、君子じゃないし、優れた人じゃないし。」
そんなことを思う必要はありません。
イエスさまの十字架によって、あなたは神様の子とされているのです。
君子どころではなく、神様の子なのです。

もう、あなたは同調圧力に流される必要はありません。
人に認められるために生きる必要もありません。
あなたは、すでにイエスさまによって、神様の子とされているからです。
しかも、あなたは平和を作り出すことができるのです。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

イエスさまの愛と平和に生かされて、主が与えてくださる「和而不同」の歩みを、今日から踏み出していきましょう。
あなたは、誰かと同じになるために神の子とされたのではありません。
イエスさまにあって、あなたとして生きるために、神様の子とされたのです。

【参考聖書箇所】
イザヤ2:1-5
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。

やることがたくさんあると、何から手を付けたらいいのか、悩みますね。で、結局、何もできなかったりすることも。「優先順位がうまくできていないなぁ」と反省する、この夏のボクなのです。ということで(?)、9月末までの礼拝予定です。☆9月末までの礼拝...
13/08/2026

やることがたくさんあると、何から手を付けたらいいのか、悩みますね。
で、結局、何もできなかったりすることも。
「優先順位がうまくできていないなぁ」と反省する、この夏のボクなのです。

ということで(?)、9月末までの礼拝予定です。

☆9月末までの礼拝予定☆

8/15(土)14:00
8/22(土)14:00
9/05(土)14:00
9/12(土)14:00

8/29,9/19,9/26の礼拝はお休みです

会場:七ヶ浜町生涯学習センター・第3研修室

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.08.08「1≫5000」ヨハネ 6:1–15(マタイ 14:13–21、マルコ 6:30–44、ルカ 9:10–17)1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。...
13/08/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.08.08
「1≫5000」ヨハネ 6:1–15(マタイ 14:13–21、マルコ 6:30–44、ルカ 9:10–17)

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

今日の聖書箇所は、5,000人のパンの奇跡の箇所です。
4つの福音書すべてに記されている唯一の奇跡として知られ、さらに4,000人のパンの奇跡もマタイ15章とマルコ8章に記されています。
同じようなパンの奇跡が、福音書に6回も記録されているのです。

女性や子どもを含めれば、実際にその場にいた人々は5,000人をはるかに超えていたことでしょう。
実際、5つのパンと2匹の魚を持っていたのは少年でした。

今日はここから、「1≫5000」というテーマで御言葉を開いていきましょう。
「1≫5000」は、1は5,000よりずっと大きい、という意味です。

イエスさまは、さまざまな奇跡を行いました。
水をぶどう酒に変える。
嵐を一声で叱りつけて静める。
死んだ人をよみがえらせる。
湖の上を歩く。
目の見えない人や中風の人を癒やすなど、たくさんの奇跡が聖書には記されています。

とても見栄えのするもの、派手なもの、話題性のあるものがある中で、このパンの奇跡だけが4つの福音書すべてに記されているのです。
しかも、5,000人のパンの奇跡が4つ、4,000人のパンの奇跡が2つ、合わせて6箇所です。
なぜ、この奇跡がここまで大切にされているのでしょうか。
その視点から、もう一度この奇跡を味わってみたいと思います。

4つの福音書、6回の記述の中で、このヨハネ6章には、他にはない情報が記されています。
パンについての問いをピリポに投げかけたこと。
他の箇所では、弟子たちとの会話として記されています。
また、5つの大麦のパンと2匹の魚は、1人の少年が持っていたものだったこと。
他の箇所では、弟子たちが持っていたもののように受け止められる記述が多くあります。

その他の部分は、ほぼ同じ出来事です。
そして最後に、人々の反応がヨハネだけに記されています。
「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」(14節)

ある牧師は、こう説明しました。
この箇所は、助け合い、支え合うことの大切さを示しているのです。
5,000人の人々は、イエスさまの話を聞きに集まったときに、多くは自分の弁当を持っていたのです。
しかし、他の人に分け与えることができなくて、隠し持っていたのです。
ところが、少年が大麦のパン5つと2匹の魚という貧しい弁当をイエスさまに委ね、それをイエスさまが受け取り、祝福しました。
それを見た人々の中で、思いやりの心が動き始め、互いに弁当を出し合って食べたのです。
互いに助け合うこと、支え合うことは、イエスさまの御心にかなっているのです。
この解釈は、美しい物語であると言えます。

確かに、5つのパンで5,000人、あるいは1万人もの人々が満腹するなんてことは、物理的にも無理です。
弟子たちは、200デナリのパンでも足りないと言っています。
200デナリは、労働者の200日分の給料です。
そんな大量のパンを用意できるパン屋さんもありません。

しかし、もしこの出来事が、単なる「助け合いの物語」だったとしたら、人々は
「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」(14節)
とは言わなかったはずです。
「私たちはイエスさまに従って、互いに支え合って幸せ者だ」と言うはずです。
そうなれば、イエスさまのしるしではなく、人々の助け合いのしるしになってしまいます。

それを何回も、聖書に記すことができるでしょうか。
聖書が記された頃、今から二千年前には、この奇跡を体験した人たちは、生きていたのです。
二千年後の私たちが読むのとは、わけが違うのです。
確かに、5つのパンと2匹の魚は、5,000人を満腹させたのです。

そして、「満腹した」ということについて、私はもう1つの驚きを感じます。
それは、量ではなく、質のことです。
少年の差し出したパンは、「大麦のパン」でした。
当時も今も、パンは小麦で作るものです。
大麦のパンは、美味しいものではありませんでした。
貧しい人が食べるパンだったのです。

私がブラジルに住んでいたとき、スーパーで、チーポC(Cランク)のお米を買ったことがあります。
安かったので買ったのですが、炊いてみると、家畜の餌のように藁の匂いが強くて、とても食べられませんでした。
ブラジルの友人に聞くと、「ブラジルの貧しい人しか食べないよ」と言われました。

ところが、この場面では、5,000人、いや1万人もの人々がみな、大麦のパンで満腹したのです。
イエスさまは、ただ量を増やしただけではなく、本来なら貧しく、喜ばれないはずの大麦のパンを、誰もが心から満足する恵みの糧へと、その「質」までも変えたのです。

この奇跡は、他の奇跡と同じように、イエスさまがいたからこそ起こったことです。
5,000人、1万人の助け合いの心よりも、イエスさまおひとりのほうが、はるかに大きい。
救い主である神様おひとりのほうが、はるかに大きいのです。
それが、「1≫5000」というタイトルの意味です。

今、SNSでは、ちょっとしたきっかけで炎上することがあります。
何人もの人から悪意のあるメッセージが、10回、100回、いや何千回でも続くことがあります。
しかし、安心してください。
「1≫5000」の真実は、今も同じです。
イエスさまがあなたの味方なら、5,000、1万、10万の悪意にも、イエスさまは打ち勝つのです。
日常生活の中でも、学校や職場の中でも、あるいは信仰生活の中でも、理不尽な苦しみを受けることがあります。
四方八方から攻められていると感じるような状況になることもあるでしょう。

しかし、「1≫5000」は、今も真実です。
あなたが弱くても、迷っていても、イエスさまはあなたを見捨てません。
たとえ5,000人の人々の口から悪意の言葉が向けられたとしても、それがあなたを打ち負かすことはありません。
それらの言葉は、あなたを支配する力を持っていないのです。
だからこそ、イエスさまの言葉を求めてほしいのです。

聖書は、何度もそれを語っています。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)
「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:33)
「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。
主は私の味方 私を助ける方。私は私を憎む者をものともしない。」(詩篇118:6–7)
「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。」(イザヤ54:17)
「子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」(1ヨハネ4:4)

もちろん、あなたがイエスさまを利用して、他者を支配しようとするのは間違いです。
イザヤ書にこうあります。
「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。
むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1–2)
神様を信じていたら、何をしてもいいわけではありません。
それは罪なのです。

しかし、不安になる必要はありません。
あなたがイエスさまに生きるとき、「1≫5000」の真実は、あなたを守り、生かし、励まし、強めるのです。
あなたは一人ではありません。
「1≫5000」、この真実の中で生きるのです。
たった一人の救い主・イエスさまは、あなたに向かう5,000の力よりもはるかに大きいのです。
この真実をしっかりとつかんで、歩んでまいりましょう。

「1≫5000」は、あなたのためのものなのです。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.08.01「無垢 -MUKU-」創世記9:1-71 神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。2 あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥...
06/08/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.08.01
「無垢 -MUKU-」創世記9:1-7

1 神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。
2 あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる。あなたがたの手に、これらは委ねられたのだ。
3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。
4 ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
5 わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
6 人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。
7 あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ。」

今週の聖書箇所は、ノアへの神様のことばです。
洪水が終わり、地上に立ったノアに神様が与えた命令であり、また約束です。
今日は、ここから「無垢 -MUKU-」というテーマで御言葉を開いてまいりましょう。

神様がノアに与えられたことばは、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」(1節)から始まります。
これは、神様がアダムに与えられた最初の命令と、とてもよく似ています。
「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)
どちらも、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」ということばから始まっています。
つまり、あなたが生まれてきたこと、生きていること、そのこと自体を神様が喜び、御心にかなうものとされているのです。
言い換えれば、「生きていていいんだよ」という神様からの素晴らしい祝福です。

一方で、ノアへの約束には、アダムへの約束と違う点もあります。
アダムに食べることが許されていたのは植物だけでした。
「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。」(創世記1:29)

ところがノアには、
「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。」(3節)
と告げ、肉を食べることが許されました。
つまり、ノアはアダム以上の祝福を受けたとも言うことができるのです。

しかし、ここで一つ疑問が生まれます。
アダムがこの祝福を受けたとき、彼はまだ罪を犯す前でした。
つまり、聖い状態、まさに「無垢」な状態だったのです。
「無垢」とは、清らかで純粋であること、汚れがないこと、混じりけがないことを意味します。
アダムは「無垢な人」だったからこそ、この祝福を受けたのでしょう。

しかし、ノアはどうでしょうか。
ノアは罪人でした。
罪に堕ちたアダムの子孫です。
しかも、この後、ぶどう酒を飲んで酔い、裸になって寝てしまっています。
「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。
彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。」(創世記9:20-21)

確かに聖書はノアを素晴らしい人物として描いています。
「主の心にかなっていた」(創世記6:8)
「正しい人」「全き人」「神とともに歩んだ人」(創世記6:9)
「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」(創世記6:22)

ノアは確かに優れた信仰者でした。
しかし、それでも酔って裸になって寝てしまう、不完全な罪人でもあったのです。
ノアはアダムのような「無垢な人」ではありませんでした。

しかし、神様は私のそんな考えに「違う」と言われます。
ノアが祝福を受けた理由は、ノア自身の無垢ではなく、神様が作らせた箱舟にあったのです。

神様の命令どおり建造された大きな箱舟の、開かれた大きな入口からノアは中に入りました。
そしてノアが入ると、ノアの背後で、神様ご自身が扉を閉めました。
これは、広げられた神様の愛の御腕の中にノアが抱きしめられたことを表しているように思われます。
そして、洪水の間、神様に抱かれたまま約1年間、ノアは水によって洗われ続けました。
洗濯機なら10分、20分で洗い終わるかもしれません。
しかしノアは、1年もの間、神様によって洗われたのです。
神様は徹底的にノアを洗い清め、「無垢な人」とみなしたのです。
だからこそノアは、アダムをも上回るような祝福の中に置かれたのです。

そして、この「無垢な人」に与えられる祝福、つまり、
「生きていていいんだよ。」
「生きることそのものが神様の御心にかなっているんだよ。」
という祝福は、今、あなたにも与えられています。

あなたは、罪を犯す前のアダムのような、罪のない存在ではありません。
また、ノアのような、世界でただ一人の正しい人でもありません。
アダムの罪を受け継ぎ、弱さも、ずるさも、欠点も抱えた罪人です。
もちろん、あなただけではありません。
私もそうです。
どこに出しても恥ずかしくないほどの、正真正銘の罪人です。

それなのに神様は、「無垢な人」に与える祝福を、あなたに与えてくれるのです。
なぜでしょうか。
それは、あなたはノア以上に洗われているからです。
洪水の水では落とせない汚れさえも、イエスさまの十字架の血潮が完全に洗い流してくれました。

聖書は何度も、そのことを私たちに語っています。
「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:7)
「その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」(黙示録7:14)
「キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」(ヘブル9:14)
「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1:18)
などです。

あなたを「無垢な人」とするために、神様のひとり子・イエスさまは十字架にかかり、その尊い血を流しました。
その血潮が、あなたを洗い清めたのです。
そして神様は、その血による洗いを完全なものとして受け入れ、あなたを「無垢な人」とみなしたのです。
そう、あなたこそが、祝福の約束を受け継ぐ人なのです。

イエスさまの血潮が、イエスさまの愛が、十字架まで従われたイエスさまの従順が、あなたを「無垢な人」にしました。
だから、生きていていいのです。
失敗したって大丈夫です。
ノアもそうだったではありませんか。
あなたは、神様の御心にかなっているのです。

それでも、「自分なんてダメな人間だ」と下を向いて歩き続けますか。
それとも、「無垢な人」として、神様の愛の御腕の中を歩んでいきますか。

あなたの目の前には、道が開かれています。
イエスさまの愛の輝きに満ちたその道を、無垢な人とされたあなたは、喜びをもって歩んでよいのです。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.07.26「去って行かれた」ルカ4:21-3021 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」22 人々はみなイエスをほめ、その口から...
31/07/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.07.26
「去って行かれた」ルカ4:21-30

21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。
23 そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」
24 そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。
25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、
26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。
27 また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」
28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、
29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。
30 しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。

バプテスマのヨハネから洗礼を受け、次いで、荒野でサタンの誘惑を受け、イエスさまの公生涯、つまり十字架への道が始まりました。
イエスさまはまずガリラヤ地方へ行き、そこで様々なみわざを行いました。
そして、育った町である故郷ナザレへ行きます。

安息日に会堂でイザヤ書を朗読し、「さて、何を語るのだろう」と皆が注目していた場面が、今日の聖書箇所です。
ここから今日は、「去って行かれた」というテーマで御言葉を開いてまいりましょう。

イエスさまが朗読したのはイザヤ書でした。
「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」(ルカ4:18-19)

これは現在の聖書で言えば、イザヤ書61章1-2節と58章6節の一部を合わせたものです。
しかも、61章2節にある「われらの神の復讐の日」という言葉を、あえて省いています。
「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい者に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすために、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。」(イザヤ61:1-2)
「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(イザヤ58:6)

神様の民でありながら、イスラエルの民はローマの支配を受けていました。
人々は、この希望に満ちた聖書から、イエスさまが何を語るのか、大きな期待を抱いていました。

毎週、礼拝で聖書のお話をしている私としては、これはちょっと、いえ、かなりうらやましいことです。
「この箇所から、どんな話をしてくれるのだろう」と、大きな期待を抱いてくれるのですから。

そんな期待の前で、イエスさまが語ったのが、
「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(21節)
という宣言でした。

支配者であるローマによって、貧しくされ、傷つけられ、捕らわれ、虐げられている自分たちが、神様の力によって、救われ、解放される。
そのような素晴らしい約束です。
人々は、イエスさまの言葉に、とても喜びました。
ところが、人々はあることに気づいてしまったのです。
「この人はヨセフの子ではないか」(22節)

何の権威も持たない大工の子ではないか。
しかも、本当の子どもではないらしい。
故郷ですから、マリアが結婚前に身ごもっていたことを知っていた人もいたでしょう。
金も権力もない、ただの大工の子が、何の権威があって、そんなことを言うのか。
リビングバイブルでは、次のように訳されています。
「いったいどうなってんだ。ただのヨセフのせがれじゃないか」

それで彼らは、信じるためのしるしを求めました。
「俺たちの言うことをやってくれるなら、信じてやってもいい。」
そんな態度です。
「ほかの町で病人を癒やしたそうじゃないか。水をぶどう酒に変えたそうじゃないか。だったら、ここでもやってみろ。そうしたら信じてやる。」
まさに自分中心な態度です。

しかし、これは他人事ではありません。
私たちの中にも、同じような思いが潜んでいるかもしれないのです。
「私の願いがかなったら、神様を信じてもいい。」
「祈りが聞かれたなら神様を信じよう。」
また逆に、「どうすれば信じてもらえるだろう」と悩んでいる伝道者もいるでしょう。
悪意があってもなくても、このようなことはよくあることです。

私は以前、このように言われたことがあります。
「どうして、あなたたち夫婦にだけ神様の言葉が与えられるのよ。私にも与えられたら、神様の導きが分かるのに。」
私は、なぜ神様が私たち夫婦に言葉を与えたのかは分かりません。
でも、「言葉が与えられたなら、自分の意思と違っても絶対に従う」と決心しています。
そうでなければ、神様から与えられる言葉が無駄になり、与えられた言葉がかえって苦しみになってしまうからです。

何度も言っていますが、信仰とは、「自分の願いを、神様にかなえてもらう」ことではありません。
「神様の願いを、自分の人生に実現してもらう」ことです。
このことが本心からできなければ、神様の言葉は、ただのアトラクション、出し物、見せ物に成り下がってしまいます。

このときのナザレの人々もそうでした。
十字架の前の、ヘロデも同じでした。
ルカ23章8-9節には、このようにあります。
「ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。」

しるしを求める人々に、イエスさまは、旧約時代の大飢饉の際、エリヤが遣わされたのはイスラエルのやもめではなく異邦人のやもめであったこと、またエリシャの時代に癒やされたのは異邦人ナアマンだけだったことを語りました。
つまり「神様の恵みは、自分勝手なしるしを求めるあなたがたではなく、恵みを求める異邦人に与えられる」と言ったのです。

選民意識の強かったナザレの人々はこれを聞いて激怒し、イエスさまを崖から突き落として殺そうとしました。
およそ3年後、十字架の前に祭司長たちがイエスさまを殺そうとするよりも早く、故郷の人々がイエスさまを殺そうとしたのです。
何とも皮肉なことです。

しかし、イエスさまはその人々のただ中を通り抜けて、去って行かれました。
けれども、この「去って行かれた」ということは、神様の約束を捨てたということではありません。
なぜなら、ここで殺されずに立ち去ったイエスさまが向かった先は、公生涯の終着点である十字架への道だったからです。

さらに、イエスさまはイザヤ書を朗読した際、「われらの神の復讐の日」という裁きの言葉をあえて読みませんでした。
一方でイエスさまは、ルカ16章17節ではこう語っています。
「しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。」
イエスさまは、神様の言葉は一言たりとも失われてはならない、それほど重いものなのだと教えました。
なのに、イエスさまは、裁きの御言葉をあえて省略したのです。

イエスさまがその言葉を省いて読まなかったのは、それを取り消したからではありません。
無効にしたのではなく、その裁きさえも、イエスさま自身が十字架で引き受けるためでした。
天地が滅びる以上の大きな犠牲、神様のひとり子が呪われて死ぬことによってのみ、その省略は完成するのです。
イエスさまが去って行かれたのは、あきらめたからでも、人々に愛想を尽かしたからでもありません。
神様の約束を完成するためだったのです。

その約束はナザレの人々にも、イスラエルの人々にも、異邦人たちにも、そして、今ここにいるあなたにも、与えられています。
その約束を成し遂げるために、愛と覚悟をもって、イエスさまは去って行かれたのです。

だからこそ、イエスさまは今日もあなたに語るのです。
「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

あなたのために、お祈りします。

ゴスペルハウスメッセージ 2026.07.11「問答の先に」ローマ8:31-3931 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の...
16/07/2026

ゴスペルハウスメッセージ 2026.07.11
「問答の先に」ローマ8:31-39

31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

今週の聖書箇所は、ローマ人への手紙8章の終わりの部分です。
8章のまとめであり、1章から8章までのまとめでもあります。
ローマ書全16章のクライマックスと言ってもよい箇所です。

ここには、問いかけと答えという形での、力強い問答形式の宣言が記されています。
今日はここから、「問答の先に」というテーマで御言葉を開いていきましょう。

まず、第1の問答は31~32節です。
「だれが私たちに敵対できるでしょう」(31節)とあります。
ある人は、「クリスチャンになったら、成功と祝福ばかりで、敵などいなくなる」と言います。
しかし、パウロは敵がいないとは言っていません。

コリント人への第二の手紙11-12章にあるように、パウロはむしろイエスさまを信じたことによって、敵対する者が増えました。
私たちも同じように、イエスさまを信じることで敵が増えることがあります。
その敵とは、サタンであったり、この世からの反対や迫害であったり、病気や苦しみ、悲しみ、人間関係の問題であったりします。

しかし、「神様が私たちの味方」であり、「御子さえ惜しむことなく私たちを愛してくださった」という事実の前では、敵対するものは存在しても、その力を私たちに及ぼすことはできないのです。
その根拠は、歴史的な事実であるイエスさまの十字架と、不完全なあなたをそのまま受け入れてくださる神様の御心です。

ローマ人への手紙5章8-9節には、こうあります。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

第2の問答は33~34節です。
「だれが・・・訴えるのですか。」(33節)
「だれが・・・罪ありとするのですか。」(34節)
裁判の法廷を思わせる言葉が並びます。
足りなさを指摘し、断罪する姿勢がここにあります。

生きていれば、私たちは必ず失敗します。
きちんと生きようとすればするほど、失敗することもあるでしょう。
何もしないで怠けていれば、失敗はないかもしれません。
しかし、怠けること自体が失敗なのです。

「ああ、あんな失敗をしてしまった。」、「もう許されないかもしれない」と自分を責めたり、
「教会員としてそれはだめだね」、「クリスチャンとしてそれはどうなの」と周りの人に言われたりすることもあるでしょう。
私たちは裁判所ではなく、日常生活の中で、また信仰生活の中でも訴えられ、罪に定められるような思いを抱くことがあります。

しかし、そのような私たちを「神が義と認めてくださるのです」(33節)。
もちろん、それは強引な不起訴のようなものではありません。
あるいは、裏取引のような、不正な方法でもありません。
また、罪を見て見ぬふりするわけでもありません。
34節にあるように、イエスさまが、「死んで」、「よみがえり」、「神の右の座に着いて」、今も「私たちのためにとりなして」いてくださるからです。

イエスさまは裁判であなたを責める検察官ではありません。
断罪する裁判官でもありません。
身を挺してあなたを守ってくださる、最も優れた弁護者なのです。
そう、あなたのための、あなただけの救い主・イエスさまなのです。

第3の問答は35~39節です。
第1の問答では、敵対するものが対象でした。
第2の問答では、法廷、つまり人間の正しさという、ある意味で客観的な基準が対象でした。
パウロは、敵、人からの訴えと、範囲を広げて語ってきました。
そして最後には、その視野を宇宙全体にまで広げます。
そして、神様の愛が私たちから取り去られることがあるのかという問いに対して、「引き離すことはできません」(39節)という真理を、はっきり断言しているのです。

「どんなと言っても、例外はあるでしょう」と言わせないために、パウロは力強い言葉を重ねます。
「死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も」(38-39節)
人間の力では、とうてい太刀打ちできないようなものを挙げることで、例外は何一つないことを強調しているのです。

そして、
「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(39節)と断言します。

聖書は、この手紙に記された問答を通して、問答の先にあるもの、すなわち神様の揺るぎない愛を、あなたに届けています。

私たちには、日々たくさんの問いがあります。
「なぜ、こんなことが起こるのか。」
「あの人は、なぜ分かってくれないのか。」
「この国は、いったいどこへ向かうのか。」
「このまま教会に集い続けてよいのだろうか。」
「将来に希望が見えない。」

そんなとき、その問いを一人で抱え込まないでください。
神様に伝えましょう。
祈りましょう。
ありのままの思いをぶつけましょう。
つぶやくだけでも、もちろん構いません。
すぐに答えが見つかるとは限りません。
しかし、その先には揺るぎない神様の愛があるのです。

あなたが熱心に信じるから、神様の愛が離れないのではありません。
神様の愛の強さと揺るぎなさが、あなたを決して離さないのです。

人生には、答えきれないほど多くの問いがあります。
また、答えの見つからない、難しい問いもあります。
しかし、覚えておいてください。
その問答の先には、神様の揺るぎない愛があるのです。
そして、その愛は決してあなたから取り去られることはないのです。

ローマ人への手紙のクライマックスが、いや、聖書全体が証ししていることがあります。
それは、十字架にかかられたイエス・キリストによって示された、神様の揺るぎない愛です。

今日も、問答の先にある愛とともに歩んでまいりましょう。

【参考聖書箇所】
☆ パウロに敵対するもの
2コリント
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。

12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.07.04「季節ではなかったけど、期待していた」マルコ11:12-2112 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるか...
08/07/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.07.04
「季節ではなかったけど、期待していた」マルコ11:12-21

12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
20 さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」

「いちじくの木」と「宮きよめ」の場面が、今日の聖書箇所です。
ここから、「季節ではなかったけど、期待していた」というテーマで御言葉を開いていきましょう。

「翌日」(12節)とは、エルサレム入城の翌日のことです。
イエスさまがエルサレムに入城するとき、人々は熱狂してイエスさまを迎えました。
彼らの願いは、「ローマの支配からの解放」、「武力によって自由と独立をもたらすリーダー」でした。
つまり、自分たちが作り出した、自分たちのための願いです。

イエスさまが何を考えているのか、子ろばに乗っていることにどんな意味があるのか、彼らは全く理解できませんでした。
イエスさまの思いと群衆の思いが、すれ違ったままの熱狂だったのです。
その日の夕方、イエスさまはベタニアへ行きました。

その翌日のことです。
朝、ベタニアを出てエルサレムへ向かったイエスさまは、空腹を覚えていました。
いちじくの木を見つけて近づくと、葉は青々と茂っていましたが、実は一つもありませんでした。

そこでイエスさまは、
「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」(14節)と言いました。
すると翌日、そのいちじくの木は根元から枯れていました(20節)。
マタイの福音書の並行箇所では、「すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ21:19)と記されています。

さて、私の父は、とても温和で優しく、知的で、しかもユニークな、本当に良い父親です。
お酒を飲んでも絡むことも、暴れることも、つぶれることもありません。
けれども、父は、空腹だけは苦手でした。
それは戦中生まれということも理由の一つかもしれません。
父が空腹だった時、母と何かの口論になって、私の目の前をフライパンが飛んでいったのを一度だけ見た記憶があります。

この聖書箇所を初めて読んだ時、「イエスさまも、父と同じように、空腹だと我慢できないのかな」と思いました。
「いちじくのなる季節ではなかった」(13節)と書かれているのに、イエスさまがその木を枯らしたからです。

しかし、イエスさまの行動の本当の意味は、空腹による感情の爆発ではありません。
確かにイエスさまは空腹でした。
しかし、それで腹を立てたのではありません。
イエスさまは、実のなる季節ではないので実がないことを知っていました。
それでも、期待していたのです。
季節ではなかったけど、期待していたのです。
あるはずのないところに実る、いちじくの実を期待していたのです。

聖書では、いちじくはイスラエルの民の象徴として用いられています。
前日、エルサレムにイエスさまが入城した時、人々は熱狂しました。
それは、まるで葉が生い茂ったいちじくの木のようでした。
にぎやかで、力強く、勢いがあります。
けれども、彼らの心の中には、自分勝手な、自分の都合の願いしかありませんでした。
神様の御心も、イエスさまの思いも、そこにはなかったのです。

「だれか一人でも、そのような人がいてほしい。」
イエスさまも、そのように願っていたことでしょう。
しかし、このいちじくの木と同じように、熱狂するイスラエルの民の中には、実は一つもなかったのです。

もし、だれか一人でも正しい人がいたのなら、神様の御心にかなう人がいたのなら、その人を通してエルサレムも、ユダヤ全土も、イスラエルも、そして全世界も救われたはずでした。
しかし、現実には一人もいませんでした。
いるはずのないところには、やはり、いなかったのです。
季節ではないいちじくの木に実が見つからなかったように。

だからこそ、イエスさまは十字架への道を歩み続けられたのです。
その象徴的な出来事が、宮きよめです。
当時、神殿は乱れていました。
神様への思いも、人への思いも乱れていました。

「両替人」(15節)や「鳩を売る者たち」(同)は、一見すると礼拝に必要な働きをしているように見えます。
しかし、「ささげ物はここで買わなければならない」と限定し、高い手数料を取って利益をむさぼっていたのです。
そして、祭司長たちも、その利益にあずかっていました。

しかも、その悪どい商売は「異邦人の庭」で行われていました。
当時の神殿には、外側から「異邦人の庭」、「婦人の庭」、「イスラエル人の庭」と続き、そのさらに内側に祭壇や聖所がありました。
異邦人の庭は、異邦人が神様を礼拝するために与えられた場所です。
しかし、その場所は悪どい商売によって占領され、異邦人の礼拝の場は奪われてしまっていたのです。

また、「宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった」(16節)とありますが、これは神殿を迂回することを面倒がり、近道として異邦人の庭を通り抜けていた人々のことを指します。

人々は神様への礼拝よりも、自分の都合や利益を優先していました。
イエスさまが引用された「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(17節)という言葉は、イザヤ書からの引用です。
「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:7)

イエスさまが宮をきよめたのは、異邦人の礼拝の場を取り戻すためでした。
神様の宮の本当の意味、本当の礼拝の意味を、もう一度示すためでした。
そのために、イエスさまは大暴れして、宮をきよめたのです。
イエスさまの宮きよめの様子を、ヨハネの福音書ではこう記しています。
「細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し」(ヨハネ2:15)
それほどの熱量で、イエスさまは宮をきよめたのです。

そして何よりも、「もはや動物のささげ物は必要ない。完全ないけにえ、完全なささげ物がここにいる」ということを示したのです。
それは、十字架へと向かうイエスさまの、愛と覚悟の表明でした。
皮肉なことに、この出来事に呼応するように、祭司長たちは「どのようにしてイエスを殺そうか」(18節)と相談し始めます。

季節ではなかったけど、期待していたイエスさまは、その期待に応えられなかった人々のために十字架につきました。
そして今も、イエスさまはあなたに期待しています。
豊かな実、信仰の実を期待しています。
しかし、苦しみの中で、悲しみの中で、怒りや諦め、疲れの中で、十分に実を結べないあなたもいることでしょう。
まさに「季節ではない」状態のあなたです。

でも、どうか覚えていてください。
そんなあなたのために、イエスさまの十字架があったのです。
あなたは、その覚悟の愛の中で生きてよいのです。
「いちじくの木」と「宮きよめ」は、あなたのためのイエスさまの愛のしるしなのです。

葉ばかりが生い茂っているあなたも、
枯れたように力のないあなたも、
小さな実しか結べないあなたも、
たわわに実を結んでいるあなたも、
一人残らずイエスさまの愛に招かれているのです。

期待に応えられないと感じているあなたを、イエスさまは決して見捨てることはありません。
今日も、これからも、いつまでも、その愛は、あなたに注がれ続けるのです。

たとえ実を結べない時があっても、期待に応えられないと感じる時があっても、イエスさまの愛の中を歩んでいきましょう。

7月になったのに、礼拝予定を発表することを忘れていました。どうやら、気持ちがバタバタしていたようです。バタバタしていたって気がついただけで、かなり落ち着きが取り戻せました。自覚するって、だいじですね。ということで、8月末までの礼拝予定です。...
03/07/2026

7月になったのに、礼拝予定を発表することを忘れていました。
どうやら、気持ちがバタバタしていたようです。
バタバタしていたって気がついただけで、かなり落ち着きが取り戻せました。
自覚するって、だいじですね。

ということで、8月末までの礼拝予定です。

☆7-8月の礼拝予定☆

7/04(Sat)14:00-
7/11(Sat)14:00-
7/26(Sun)14:00-
8/01(Sat)14:00-
8/08(Sat)14:00-
8/15(Sat)14:00-
8/22(Sat)14:00-

会場:七ヶ浜町生涯学習センター・第3研修室

7/18と8/29の礼拝は、お休みになります。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.06.27「あきらめない愛」イザヤ65:1-101 「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、...
02/07/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.06.27
「あきらめない愛」イザヤ65:1-10

1 「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。
2 わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。
3 この民はいつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こす。園の中でいけにえを献げ、れんがの上で犠牲を供え、
4 墓地に座り、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れ、
5 『そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたにはあまりにも聖なるものだ』と言う。これらは、わたしの怒りの煙、終日、燃え続ける火である。
6 見よ、これはわたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報いる。わたしは彼らの懐に報いる。
7 おまえたちの咎とおまえたちの先祖の咎をともどもに。──主は言われる──彼らは山の上で犠牲を供え、丘の上でわたしをそしった。わたしは、彼らのかつての行いを量って、彼らの懐に報いる。」
8 主はこう言われる。「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、そのすべては滅ぼさない。
9 わたしは、ヤコブから子孫をユダから、わたしの山々を所有する者を生まれさせる。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。
10 わたしを求めた、わたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏すところとなる。

今日はイザヤ書65章から、「あきらめない愛」というテーマで御言葉を開いてまいりましょう。
まず、全体の流れを見てみます。

「わたしを尋ねなかった者たちに」(1節)とあります。
これは異邦人、つまりユダヤ人以外の人々のことです。
それに続いて、次のようにあります。
「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(1節)
つまり、神様が異邦人をどのように扱うかという内容を示しているのです。

旧約聖書だけを読むと、異邦人は敵であり、汚れており、神の民ではないから滅ぼせ、と扱われているような印象を受けるかもしれません。
そして新約聖書になって初めて、イエスさまの十字架や、パウロの異邦人伝道、ペテロの体験などを通して、異邦人も救われ、神様の愛が示されて広がったと考えがちです。

しかし、イエスさまの降誕よりも700年前のイザヤを通して、神様は、異邦人に対して「わたしはここだ」と繰り返しているのです。
パウロはローマ人への手紙でこの箇所を引用し、異邦人への救いの根拠にしています。
「また、イザヤは大胆にもこう言っています。『わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。』」(ローマ10:20)

これは民族という大きな単位だけではなく、一人の人の生涯でも同じです。
「わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(1節)は、すべての人に対しての真理なのです。
私たちが神様を探し求めて救われるのではなく、神様があなたを探し求めて救われる。
これこそが救いの真実です。
ルカの福音書にはこうあります。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
今、不安になっているあなたも、神様を疑いたいあなたも、まったく信じていないあなたも、神様は探し、見つけ、愛してくださるのです。

2節以降はイスラエルの民への言葉です。
パウロは、先ほどの箇所に続いて、こう言っています。
「そして、イスラエルのことをこう言っています。『わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。』」(ローマ10:21)

彼らは「頑なな民」(2節)であり、自分の考えのままに良くない道を歩んでいました。
「園の中でいけにえを献げ」(3節)、「れんがの上で犠牲を供え」(3節)、「墓地に座り」(4節)、「見張り小屋に宿り」(4節)、「豚の肉を食べ」(4節)、「汚れた肉の汁を器に入れ」(4節)るのです。
これらは異邦人の習慣です。
イスラエルの民は、本当の神様を知っていながら、あたかも神様を知らない異邦人のように振る舞っているのです。

さらにこの頑なな民は、次のように言います。
「そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたにはあまりにも聖なるものだ」(5節)
自分たちのしていることが、あたかも素晴らしい知恵や特権であるかのように振る舞い、高ぶり、偉そうにして、他の人を見下しているのです。
自分勝手な判断を、聖なるもののように誇っているのです。

目新しいものや流行に流されて、古き良きものにとどまっている人を見下すという行為が、ここにあります。
これはイザヤの時代である今から約2700年前も、今も、変わらない人間の愚かな姿です。
ちょっとした目新しさをあたかも正義や真理と勘違いして、本来の姿を見失ってしまうのです。
インターネットやSNSの発達で、それは一層加速しています。
「今はこれが当たり前だから」とか、「あなたの考え方は古い」とか、流行り廃りに振り回されながら、私たちはどんな人間に成長していくのでしょうか。
定かでもない正しさで人を批判するなかで、どんな人間になるのでしょうか。
これは、他の人を見下しているだけでなく、自分の中にある大切な良さまでも捨ててしまっているのです。
その行く末は、目先の利益や一時的な流行だけを追い求める、虚しい人生になってしまいます。

神様はそんな人々に対して、「必ず報いる」(6節)、「彼らの懐に報いる」(6,7節)と繰り返し怒ります。
なぜなら、神様は、そんな「頑なな民」に、ずっと手を差し伸べ続けてきたからです。
「わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた」(2節)とあります。
「終日」は、他の翻訳では「日ねもす」、「一日中」、「絶えることなく」、「日夜」とも記されています。
また、英語では“all day long”“always”“all the day”などと訳されています。
つまり、本当に神様は、繰り返し、繰り返し、あきらめることなく手を差し伸べ続けたのです。
それなのに、イスラエルの民は、裏切り続けました。
神様が怒るのも、もっともな話です。

けれども、8節にこうあります。
「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、そのすべては滅ぼさない。」(8節)
「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば」の「甘い汁」の部分は、英語の聖書の多くで“new wine(新しいぶどう酒)”と訳されています。
これは、よく育ち、よく整えられたもの、発酵したもの、という意味です。
よい部分が少しでもあるなら、滅ぼし尽くすことはないと、神様は言うのです。
神様がソドムとゴモラを滅ぼそうとしたとき、そこに10人の正しい人がいたなら滅ぼさないとアブラハムに約束された(創世記18章)ことと同じです。

滅ぼし尽くされずに残った者、ヤコブ(イスラエル)の子、ユダの子孫、その家系にイエスさまは生まれました。
あなたのための救い主は、神様の愛のゆえに残された者から、誕生したのです。

定まらない今の世界の中で、私たちの心はかき乱されてしまいます。
不安になったり、新しいものに目移りしたり、見下したり、見下されたり。
それでも、あなたというぶどうの房の中に、一粒の良いぶどうがあれば、よく育ち、よく整えられた部分があるなら、神様はそれを受け入れてくれるのです。

頑なで、不安で、定まらないあなたに、一日中手を差し伸べ続け、あなたの中のほんのちょっぴりの良いところを認め、受け入れ、愛そうとしてくださる神様の愛。
そう、「あきらめない愛」は、今、あなたに注がれているのです。

「でも、私なんて良いところは1つもない。何もない、1粒もない。」
「私なんて生きている価値がない。死ぬしかない、消えるしかない」
そのように思う人がいるかもしれません。
確かに、「死ぬしかない」というのはある意味で真実です。
でもそれは、「あなたが死ぬしかない」のではなく、「イエスさまが十字架上で死ぬしかなかった」ということなのです。
イエスさまは十字架上で、あなたのために死んで、あなたの身代わりとなり、あなたの救いを完成させてくださいました。

あなたを愛する神様の「あきらめない愛」は、大きく、粘り強く、深く、私たちの理解を超えて注がれています。
この「あきらめない愛」を受け取って、本当のあなたを取り戻しましょう。
空っぽの自分を脱ぎ捨て、愛された者として生きるのです。

さあ、新しい一歩を、イエスさまと共に歩み出しましょう。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.06.21「父の日礼拝」創世記12:1-91 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いな...
25/06/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.06.21
「父の日礼拝」創世記12:1-9

1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
7 主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。
9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。

今日は父の日です。
今年の父の日礼拝は、信仰の父アブラハムの姿を通して、御言葉を味わっていきたいと思います。

あなたは神様から「旅立ちなさい」と言われたら、見知らぬ地へ行くことができますか。
それにはどれくらいの準備期間が必要でしょうか。
そして、どんな気持ちで旅立つでしょうか。

様々な人にこの質問をした結果、私が今までに聞いた、最短の準備期間は15分でした。
私の友人が、独身時代にこう言ったのです。
「神様にそう言われたら、寮に帰ってカバン一つに荷物をまとめて、15分で出発できます。」

私はブラジルに行くようにと神様からの召しを受けてから、5年間もぐずぐずしていて、さらに神様に押し出されるようにして、やっと出発しました。
ですから私は、彼のことを本当に尊敬していました。
実は、この質問は、今日の聖書箇所から発想を得たものです。

アブラハムは、当時は改名前でアブラムと呼ばれていましたが、75歳のときに神様からそのように言われて旅立ちました。
アブラムには多くの財産があり、家族もいました。
そして、75歳という年齢にもかかわらず、神様の示すとおりに旅立ったのです。

私の友人が15分と言ったとき、彼はまだ独身でした。
今は結婚し、子どもも与えられ、責任もあります。
今も同じように「15分で出発できます」と言えるのかなと思うと、もう一度聞いてみたくなります。

神様はアブラムに言われました。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(1節)
今までのあなたの生活を離れなさい。
今までのあなたの経験を超えて行きなさい。
これはなかなか難しいことです。

あなたならどうでしょうか。
今までのこと、今あること、そして神様の言葉。
その中で何を優先するのか。
十分に悩んでしまうような事柄ではないでしょうか。

しかし、アブラムは神様の言葉のとおりに旅立ったのです。
しかも彼は、目的地がどこなのかも知りませんでした。
ヘブル人への手紙にこうあります。
「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」(ヘブル11:8)

神様の導き方は、カーナビのような方法であることが多くあります。
出発地点から目的地までの全行程を見せるのではなく、「今、こうしなさい」と導かれるのです。
これは、聖書の時代から今に至るまで、神様の導き方の典型ですが、人間にとっては従うことが難しいものです。
なぜなら、それがどこへ向かうのか分からないからです。

しかし、それが信じるということです。それが信仰ということです。
信仰とは、自分の思いどおりを神様に実現してもらうことではありません。
信仰とは、神様の思いどおりを自分の人生に実現してもらうことなのです。

さらに神様は続けて言われます。
「あなたを大いなる国民とし」(2節)
「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」(7節)
アブラムの妻サライは不妊の女でした。
そして、彼らは年老いた夫婦でした。
子どもが与えられるという約束を受け入れることは、簡単ではなかったと思います。
しかし、彼は受け入れたのです。

見ずに信じるアブラム。
立派で勇気ある偉大な父です。
そう、彼は信仰の父であり、神様の友なのです。
新約聖書に、こうあります。
「そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。」(ローマ4:16)
「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:23)

そして、神様の言葉どおりに出発したアブラムは、約束の地に入りました。
神様が示す地に、神様の言う目的地に、到着したのです。
「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」(7節)と、神様は確かな約束をアブラムに与えました。
その約束を受けて、神様との交わりのために彼は祭壇を築きました。

本当に素晴らしい信仰者です。
見習うべき信仰者、目指すべき信仰者です。
そう、私たちの信仰の父の姿がここにあります。

しかし、続きがあります。
「彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。」(8節)
このベテルの東の地を、神様は示していませんでした。
先ほど神様は、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」(7節)と、確かに約束されたのです。
目的地には、もう着いているのです。

けれども、何か理由があったのでしょう。
カナン人を恐れたのかもしれません。
飢饉があったのかもしれません。
そこにいることに飽きてしまったのかもしれません。

カナン人を恐れたのであれば、人間関係の問題です。
飢饉であれば、周囲の状況の問題です。
飽きてしまったのであれば、自分自身の弱さの問題です。

この聖書箇所からは、何があったのかは分かりません。
しかし彼は、そこから先へ進んでしまったのです。

そして、アブラムは、そこにも祭壇を築きました。
これを信仰のゆえの祭壇だと考える人もいます。
しかし、私はそうは思いません。
どちらかと言えば、言い訳の祭壇ではなかったかと思うのです。
「神様、ここでもちゃんと祭壇を築いていますよ。」
「神様の言葉どおりにしなかったかもしれないけれど、ちゃんと礼拝していますよ。」
聖書は理由を明確に語りませんが、そんな言い訳のように、私には思えるのです。

そしてさらに、「アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。」(9節)とあります。
私もカーナビに「この信号を右です」と言われたときに、「ごめんねぇ」と言いながらまっすぐ進むことがあります。
自分の方が正しい道を知っていると感じるときがあるからです。
それでも、目的地に着いたなら、そこでエンジンを止め、車を降ります。

しかし、神様から「約束の目的地に到着しました。案内を終了します」と言われたのに、アブラムは「いや、もうちょっと先まで行ってみよう」と、エンジンを切らずに、さらに進んでしまいました。
なんだか頼りない、信仰の父、神の友の姿がここにあるのです。

アブラムには立派な部分がたくさんありました。
けれども、自分の都合で行動することもあったのです。
信仰の父は、完璧な人ではありませんでした。
そして、自分の都合で動いた結果、これから多くの失敗も重ねていくことになります。
そんな弱さも、愚かさも、頑固さも知ったうえで、なお神様はアブラムを愛し、用い、信仰の父として、神の友とされたのです。

あなたは、「信仰の子」です。
「こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。」(ローマ4:16)

それは、立派にならなければならないということではありません。
失敗してはならないということでもありません。
弱くても、愚かでも、神様にすがってよいということです。
神様に愛されてよいということなのです。

神様の愛は、ここにあります。

信仰の父・アブラハムは、弱さも欠けもありましたが、それでも神様に愛されました。
信仰の子であるあなたも、弱さも欠けもあるまま、それでも神様に愛されるのです。
それがイエスさまを遣わしてくださった、父なる神様の御心なのです

今日は父の日です。
もう一度、信仰の父アブラハムの姿を見つめましょう。
その立派さも、その弱さも、しっかりと味わいましょう。
そして、信仰の子であるあなたのこれからの一歩を、勇気をもって踏み出していきましょう。

あなたの歩みが、神様の約束とともにありますように。

住所

七ヶ浜町菖蒲田浜字林合10-1
Shichigahama-Machi Miyagi-gun, Miyagi
985-0811

電話番号

+817043117402

アラート

ゴスペルハウスがニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

事業に問い合わせをする

ゴスペルハウスにメッセージを送信:

ショートカット

共有する

カテゴリー