ゴスペルハウス

ゴスペルハウス ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。

神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.05.30「I」マルコ4:35-4135 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟...
30/05/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.05.30
「I」マルコ4:35-41

35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

ゴスペルハウスの今年のテーマは、「FAITH」です。

F:Forgive(赦し)
A:Always(いつも)
I:Immanuel(ともにおられる主)
T:Trust(信頼)
H:Hand of God(神様の御手)

今日は、その3つ目、「I:Immanuel(ともにおられる主)」について、みなさんとご一緒に開いていきましょう。

「インマヌエル」とは、「神が私たちとともにおられる」という意味です。
神様が、いつも、どんな時も、私たちとともにいてくださる。
これは、私たち信仰者にとって、大きな慰めであり、信仰の土台となる約束です。

けれども私たちは、人生の中で、そのインマヌエルを見失ってしまうことがあります。
不安になり、おびえ、右往左往し、「神様はどこにいるの?」と思ってしまうのです。
そんな不完全で愚かな人間のために、イエスさまは繰り返し、自身の居場所を示してきました。
聖書クイズの形で、何度もお話したことがありますね。

問:イエスさまが地上で最初に話した言葉はなんでしょう。
答:「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」ルカ2:49(新約p.112)

問:イエスさまが十字架上で最後に人間と対話した言葉はなんでしょう。
答:「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:43(新約p.171)

問:イエスさまが復活した後、御使いが人間に最初に話した言葉はなんでしょう。
答:「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。」ルカ24:5-6(新約p.172)

大事な節目のときに、イエスさまは居場所を示してきたのです。
イエスさまの居場所だけではありません。
問:罪に堕ちた人間に、神様が最初に話した言葉はなんでしょう。
答:「あなたはどこにいるのか。」創世記3:9(旧約p.4)
あなたの居場所も、聖書は問うのです。

それは、イエスさまの居場所も、自分の居場所も、見失ってしまう人間の愚かさ、浅はかさ、視野の狭さの証拠でもあります。

今日の聖書箇所には、まさにそのような弟子たちの姿があります。

夕方、イエスさまは弟子たちに言いました。
「向こう岸へ渡ろう」(35節)
それで、弟子たちはイエスさまとともに舟に乗り込み、湖へ漕ぎ出していきました。
ところがその途中で、激しい突風が起こります。
波が舟に打ち込み、舟は水でいっぱいになり、沈みそうになります。
弟子たちは恐れました。

弟子たちの中には、元“プロの漁師”もいました。
ガリラヤ湖の怖さも、その対処法も、よく知っている人たちです。
ガリラヤ湖は、こうした突風が吹くことでも有名な場所でした。
そんな彼らでさえ、恐怖に支配されるほどの嵐だったのです。

ここで大切なのは、「弟子たちは勝手に舟を出したのではない」ということです。
イエスさまが、「向こう岸へ渡ろう」と言ったのです。
つまり彼らは、イエスさまに従っていたのに、嵐に遭ったのです。

私たちも時々、こう思うことがあります。
「神様に従っているのに、なぜこんなことが起こるのか。」
「信仰を持っているのに、なぜ苦しいのか。」
「なぜ嵐が来るのか。」

しかし聖書は、信仰者には嵐が来ない、とは教えていません。
現実には、イエスさまとともにいても、嵐は起こるのです。
自分の力ではどうにもならない、激しい嵐に出会うのです。

病気になることもあります。
人間関係で苦しむこともあります。
将来が見えなくなることもあります。
孤独や不安に押しつぶされそうになることもあります。
けれども、嵐があることと、神様がいないことは、同じではありません。

弟子たちは、恐れの中でイエスさまにこう言いました。
「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」(38節)

その時、イエスさまはどこにいたのでしょうか。
イエスさまは舟の後ろで眠っていました。

弟子たちは、イエスさまが沈黙しているように見えた時、「主は私たちを気にしておられない」と感じました。

私たちも同じです。
祈っても答えがない時、状況が変わらない時、心が重いままの時、「主はどこにおられるのか」「本当に神様はともにおられるのだろうか」と感じてしまうのです。

しかし、沈黙は“不在”ではありません。
イエスさまは、舟から降りてはいませんでした。
弟子たちと同じ舟に、眠ってはいましたが、ちゃんといたのです。
弟子たちはその事実を見失って、右往左往しましたが、インマヌエルは失われていなかったのです。

これは私たちにも大きな慰めです。
私たちが神様を見失うことはあっても、神様が私たちを見失うことはありません。

そしてイエスさまは立ち上がり、風を叱り、湖に命じました。
「黙れ、静まれ」(39節)
すると風はやみ、すっかり凪になったのです。
弟子たちは驚きます。
「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」(41節)

彼らは嵐の中で、イエスさまがだれなのかを、あらためて考えることになりました。
そして、知るのです。
イエスさまは、自然さえ従わせる方。
すべてを支配しておられる方。
そして何より、嵐の中でも、ともにいてくださる主です。

私たちは、できれば嵐を避けたいと思います。
けれども時に神様は、嵐の中でこそ、ご自身を深く現されることがあります。
「あの時、主が支えてくださっていた。」
「あの時、守られていた。」
「あの時、一人ではなかった。」
後になって、私たちは気づくことがあるのです。

イエスさまは弟子たちに言いました。
「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」(40節)

このイエスさまの言葉は、一見、冷たい責めの言葉のように聞こえるかもしれません。
しかし、これはイエスさまの深い愛からの、問いかけです。
イエスさまは、「なぜ嵐を怖がったのか」と言っているのではありません。
人間が嵐を怖がるのは当然です。
イエスさまが言いたいことは、「なぜ、わたしが一緒にいるのに、恐れているのか」ということなのです。

「あなたは一人ではない。」
「この舟には、わたしがいる。」
「だから恐れなくてよい。」
イエスさまは、そう語っているのです。

聖書クイズをもう一つ追加します。
問:イエスさまが地上で最後に話した言葉はなんでしょう。
答:「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:20(新約p.64)
十字架にかかり、三日目に復活して、天に上っていくイエスさまは、こう約束したのです。

イエスさまは、嵐がない人生を約束されたのではありません。
しかし、どんな嵐の中でも、ともにいてくれることを約束しました。
それがインマヌエルなのです。

今、もし人生の嵐の中にいる方がいるなら、覚えてください。
イエスさまは、舟から降りてはいません。
あなたと同じ舟に、ともにいてくれるのです。

あなたがすべきことは、嵐そのものに目を向けることではありません。
あなたの舟にともにおられる主・イエスさまに目を向けることです。

どんな激しい嵐が来ようとも、「イエスさまがあなたの舟にともにおられる」というインマヌエルの約束に立ちましょう。
その時、激しい嵐の中にも喜びと平安が与えられます。
そして、あなたはイエスさまとともに前へ進むことができるのです。

あなたのために、お祈りします。

梅雨に入っている地方もありますね。梅雨に入っていない地方もありますね。梅雨そのものがない地方もありますね。どんな地方にも、神様の愛は豊かに注がれます。そんなことを思う、今日のボクなのです。ということで、6月の礼拝予定です。☆6月の礼拝予定☆...
29/05/2026

梅雨に入っている地方もありますね。
梅雨に入っていない地方もありますね。
梅雨そのものがない地方もありますね。

どんな地方にも、神様の愛は豊かに注がれます。
そんなことを思う、今日のボクなのです。

ということで、6月の礼拝予定です。

☆6月の礼拝予定☆

6/06(Sat)14:00-
6/13(Sat)14:00-
6/21(Sun)14:00- 父の日礼拝・日曜礼拝(午後)・多目的ホール
6/27(Sat)14:00- 七ヶ浜国際村・外国語セミナー室

会場:七ヶ浜町生涯学習センター・第3研修室

6/21は、父の日礼拝です。日曜日ですが、午後の礼拝になります。
6/27は、会場の都合(トライアスロン大会)のため、七ヶ浜国際村での礼拝になります。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.05.23「ペンテコステ」使徒2:1-131 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。3 また...
27/05/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.05.23
「ペンテコステ」使徒2:1-13

1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。

ペンテコステおめでとうございます。

2000年前のこの日、弟子たち一人ひとりに聖霊様が注がれ、力を受けた弟子たちの姿がここにあります。
いわばキリスト教会の誕生日であり、また、18年前にブラジルから帰国して始まった、ゴスペルハウスの日本での活動の記念日も、このペンテコステです。

ゴスペルハウスでは、毎年、使徒の働き2章1~13節を開いて、ペンテコステ礼拝をささげています。
今年も、神様がこの箇所からあなたに伝えようとしておられるメッセージを受け取っていきましょう。

「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。」(1節)とあります。
弟子たちは、イエスさまから告げられた神様の約束を待つために、エルサレムにとどまっていました。
誰かに何かを「する」のではなく、希望と期待を持って、ただ「待つ」ためです。
「待つことは簡単なことではない」ということは、何度もお話ししてきました。
しかし、その難しいことを可能にするために、神様は彼らに祈りを与えられたのです。
祈りは、弱さの中で神様にとどまるための力だったのです。

イエスさまは10日前に天に戻られ、イエスさまの十字架の死からも50日ほどしか経っていないこの時、弟子たちには、やはり恐れがあったことでしょう。
当時は情報伝達が遅かった分、一度広まった出来事の記憶も、長く人々の間に残ります。
イエスさまの十字架は、まだ人々の記憶に生々しく残っていたのです。
イエスさまの共謀者として、逮捕、投獄、あるいは十字架での死までが、弟子たちの身の上に起きかねないのです。
その恐れの中で、彼らには、神様から与えられた祈りの中で待つほか、道はありませんでした。

何もできないという人の弱さの中にあって、神様の約束と神様の助けによって、かろうじて保たれていた。
それが、彼らの「信仰の種」であり、「キリスト教会の種」だったのです。

「弱いけれど、神様の御手の中にあった。」
これが、ペンテコステの大きなポイントです。

「そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」(使徒1:15)とあります。
120人と聞いて、多いと思いますか。
現代の日本の教会としては、大きい方かもしれません。
しかし、それはたった1%であるとも言えるのです。

イエスさまがパンの奇跡を行われた時、そこには男性だけで5000人いました。
女性や子どもも含めれば、1万人を超えていたと考えられます。
ですから、120人というのは、たった1%なのです。

99%の人々は、そこには残っておらず、散らされていたわけです。
散らされ、弱められ、恐れの中にあった。
しかし、それでも神様の御手の中、神様の約束の中にいたのが、彼らだったのです。

そして、このペンテコステの日、ペテロの説教を聞いた後のことです。
「その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」(使徒2:41)
「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒2:47)
かつてイエスさまの周りに集まっていた人々の数をも超えるような、大きな集団へと成長していったのです。
それは、人の弱さを超えて働く、神様の約束の確かさ、神様の約束の強さを表しています。

しかし、この後にも、さまざまな問題や困難が起こります。
アナニアとサッピラ夫妻が、サタンに心を奪われ、聖霊様を欺くことがありました。(使徒5章)
大祭司たちからの迫害によって、弟子たちが牢に入れられることもありました。(使徒5章)
ギリシャ語を使う信徒と、ヘブル語を使う信徒との間に問題も起こりました。(使徒6章)
けれども、神様の約束と、神様の御手の力は、それらを乗り越えて働き、解決へと導いていったのです。

それは弟子たちの知恵や力によってではありません。
祈りでさえ、神様が与えてくださったものでした。
困難を克服したのは、約束を守り、祈りを与えてくださった神様の強さと誠実さです。

教会に力があるのではありません。
教会が強いのでもありません。
その頭(かしら)であるイエスさまが、約束を与えてくださった神様が、そして導き支えてくださる聖霊様が、つまり三位一体の神様に力があり、三位一体の神様が強いのです。

それは教会という団体だけでなく、一人ひとりの信仰生活においても同じです。
すべての人において同じなのです。
「自分はそんなことはない。自分は強い。」
「しっかり神様の約束を守る者だけが強くなるのだ。」
と言う人もいます。
しかし、それは自分の姿が見えていないだけです。
2000年前にも、そのような人はたくさんいました。
イエスさまに反発していた、祭司長、律法学者、パリサイ人、サドカイ人たちです。

あなたが自分の弱さを認め、その弱さに打ちひしがれる時、あなたがすべきことは、諦めることでも、開き直ることでもありません。
神様の御手の中、約束の中、つまり十字架の愛と赦しの中にとどまることです。

あなたが弱さを受け入れること。
馬鹿にされることを受け入れること。
負けに見えることを受け入れること。
そこにこそ、神様の約束の力が輝くからです。

事実、2000年前、弟子たちの周りにいた人々は、「呆気にとられ」(6節)、「驚き、不思議に思って」(7節)、「当惑し」(12節)、ある者たちは弟子たちを「嘲って」(13節)いたのです。

あなたが、自分の強さではなく、弱さの中に働く神の力という信仰の秘訣を生きることができたなら、あなたは、神様の力に生かされる「真実の信仰者」となれます。

今日、ペンテコステの日。
あなたの弱さや足りなさを認め、負けを受け入れ、そして神様の約束の中、御手の中に生きましょう。
あなたは、約束の聖霊様とともに歩み出すのです。

そこに、あなたの強さがあり、あなたの力があり、あなたのペンテコステがあるのですから。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.05.16「ペンテコステに向けて(3)」使徒1:12-1412 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。1...
20/05/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.05.16
「ペンテコステに向けて(3)」使徒1:12-14

12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

いよいよ来週は、ペンテコステ礼拝です。
2008年のペンテコステから、ゴスペルハウスは日本での礼拝を始めました。
来週、18年目の記念の日を迎えることになります。

今日は、ペンテコステ前の弟子たちの姿を聖書から開いていこうと思います。

「そこで」(12節)とあります。
弟子たちは、イエスさまが天に戻って行かれるのを見上げていました。
そこに御使いが現れ、「どうして天を見上げて立っているのですか。」(使徒1:11)と声をかけられ、彼らは我に返りました。

イエスさまからの「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)という命令もあって、彼らはエルサレムに帰りました。
帰った目的は、もちろん「待つため」です。

待つということは、信仰生活において非常に重要な行為です。
しかし、それは簡単なことではありません。
それは、ただの時間つぶしではないからです。
待つというのは、心を向けて期待している状態ですから、保ち続けるのは簡単なことではありません。
だから、失敗する例も多くあります。

前回の礼拝でもお話しした通り、出エジプトの民は、モーセが帰って来るのを待てずに金の子牛を作ってしまいました(出エジプト記32章)。
サウル王は、サムエルが来るのを待つことができず、人々が離れて行きそうになったので、自分でささげ物を献げてしまいました(1サムエル13章)。
アブラハムやヤコブにも、待ちきれなかった失敗がありました。

そして、それは聖書の時代だけではなく、今の私たちにも起こり得ることです。
待っている間に、誰かの不安に共鳴し、その不安が伝染して、自分自身が不安に取り込まれてしまうことがあります。
また、誰かの小さな不満が広がり、人々の心を閉ざし、争いが起きてしまうこともあります。
あるいは、待ちきれずに自分の主張を強く押し出し、自分がルールになろうとしてしまうこともあるでしょう。
それらを避けようとして、別のことに熱中したり、何かに没頭したりすることもあります。
しかし、それでは「待っている」ことにはなりません。

期待と希望を持って待ち続けること。
それは、本当に難しいことなのです。

弟子たちはエルサレムには帰ることができました。
しかし、約束を待ち続けることは、彼らだけの力では困難だったはずです。

その解決法が、この聖書箇所に記されています。
「いつも心を一つにして祈っていた。」(14節)
集まった一人ひとりが、神様に向かって祈っていたのです。

心を一つにするとは、みんながお互いを見つめ合うことではありません。
一人ひとりが神様に向かい、同じ方向を見上げるということです。
神様と自分との一対一の関係の中で、他の誰かと比べることなく生きること。
それが大切なのです。

それまで弟子たちは、しばしば互いに比べ合っていました。
「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。」(ルカ22:24)
また、イエスさまの弟たちは、以前はイエスさまを信じていませんでした。
「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7:5)
そんな人たちが集まっているのに、彼らは、心を一つにすることができたのです。

ある人は、「それは教会の奇跡です」と言いました。
確かに、そうなのかもしれません。

しかし、その奇跡を起こしたのは、人間の頑張りではなく、神様の恵みです。
祈りは、心を一つにする祈りは、神様を見上げる祈りは、待ちきることができない人間への、神様からのプレゼントなのです。

そして神様は、約束の聖霊様を与えるために、祈りを与えたのです。
彼らに、心を一つにする祈りを与えたのです。
「ペンテコステで聖霊様が与えられたのは、心を一つにして祈ったからだ」とよく言われます。
しかし、忘れてはならないのは、その祈り自体が、神様からのプレゼントだということです。
人間が努力して作り出したものではありません。
私たちが約束を待ちきり、聖霊様を受け取ることができるようにと、神様がその祈りを与えてくれたのです。

祈りは、信じる人や祈る人の力ではありません。
神様から与えられるのでなければ、それはただの願い事や、ひとり言になってしまいます。
しかし、本物の祈りは、神様から注がれる恵みなのです。

祈りとは、あなたに新しい人生を与えるための、神様からのプレゼントなのです。

今、あなたは祈れていますか。
心を神様だけに向けて祈れていますか。

もしそうなら、それは神様からのプレゼントです。
新しい生き方を生きるために、本当の使命を生きるために、神様が与えてくれたものなのです。
喜びを持って、祈り続けましょう。

もし祈れていないのなら、神様に求めましょう。
神様は、あなたに祈りを与えてくれます。
なぜなら、神様はあなたを愛しているからです。
あなたに、本当の生き方を与えたいと願っているからです。
あなたのために、イエスさまを十字架にかけるほどに、神様はあなたを愛しているのです。

必ず、祈りは与えられます。
祈りに満たされ、祈りとともに待ちきることができた時、あなたの人生は新しい輝きを放ち始めます。

2000年前のペンテコステの日、祈りに満たされた弟子たちは、聖霊様を受け、輝く人生を歩み始めました。
18年前のペンテコステの日、日本での礼拝をはじめたゴスペルハウスも、聖霊様に支えられ、歩み続けています。

あなたの祈りも、同じ神様からのプレゼントです。
それは、あなたに聖霊様を注ぎ、あなたを輝く生き方へと導いていくのです。

今、あなたがどんな状況にあっても、神様は、あなたに祈りを与えようとしています。
祈りましょう。
待ちましょう。
待ちきりましょう。

あなたのペンテコステは、もう目の前にあるのです。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.25「ペンテコステに向けて(2)」使徒1:4-114 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプ...
27/04/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.25
「ペンテコステに向けて(2)」使徒1:4-11

4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

今日は、ペンテコステに向けてのシリーズの第2回です。
第1回は、ヨハネ14章から、十字架前夜の最後の晩餐での告別説教におけるイエスさまの言葉、「聖霊が与えられる」という約束を味わいました。
第2回の今回は、ペンテコステの10日前、十字架から40日後、イエスさまが天に昇られる日の出来事です。

さて、皆さんは「信仰の松竹梅」という話を覚えているでしょうか。
本来、松竹梅はランク付けの意味ではありませんでしたが、今ではうな丼や寿司と同じように、等級を表すものとして使われています。
そのランクにたとえるなら、次のようになります。
あまり上等ではない「梅」の信仰は「うめぇ話ばかりを求める信仰」です。
「竹」の信仰は、「高ぇ(たけぇ)プライドに凝り固まった信仰」です。
「梅」の信仰には欲があふれ、「竹」の信仰には愛が足りない。
どちらも、自分中心の信仰と言えるでしょう。
それに対して、最も上等な「松」の信仰とは、「神様の時と神様の言葉を待つ(松)ことのできる信仰」です。
自分中心ではなく、神様の時に自分を合わせていく信仰なのです。

待つことは大きな力です。
聖書の中でも、何度も待つことの力が示されています。
「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。」(イザヤ40:31)
「主の救いを静まって待ち望むのは良い。」(哀歌3:26)
「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。」(詩篇81:10)
このような言葉が、聖書の随所に見られます。
何度も語られているのは、それだけ人が待つことを苦手としているからです。

ポルトガル語では、「待つ」は esperar(エスペラール) という動詞で表されます。
それを名詞の形にすると esperança(エスペランサ)、「希望」という意味になります。
待つことと希望は、同じ言葉から生まれているのです。

ブラジル人教会でこの話をしたとき、「待つことが大切だ」と語ると、信徒の人々は皆うなずいていました。
その集会の後、牧師たちから「坂本、でも、待つことが一番難しいんだよ」と言われたことがあります。
真理を言い当てている言葉でしょう。
彼らもまた、理想と現実の狭間で葛藤していたのです。

聖書には、待てなかったために失敗した例が多くあります。
サウル王はサムエルを待つことができず、自分勝手にささげ物をしました(1サムエル13章)。
アブラハムとサラは神様の約束を待てず、女奴隷ハガルによって子を得ようとしました(創世記16章)。
ヤコブは母リベカとともに、神様の約束を待てず、父イサクから兄エサウに与えられるはずの祝福をだまし取りました(創世記27章)。
出エジプトの民も、モーセが山から下りてくるのを待てず、金の子牛を作ってしまいました(出エジプト記32章)。

神様に選ばれた人々、イスラエル王国初代の王サウル、信仰の父アブラハム、イスラエルの父祖ヤコブ、そして神の民である出エジプトの民でさえ、この落とし穴に陥ったのです。
「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。」(詩篇81:10)と語られながら、「しかしわたしの民はわたしの声を聞かずイスラエルはわたしに服従しなかった。」(詩篇81:11)という民の反応も、そんな人間の弱さを示しています。

待てないとは、自分の気持ちや感情、都合を押し通すことです。
弟子たちもここで、イエスさまの「待ちなさい」(4節)という言葉に対して、待ちきれない心で反応します。
「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」(6節)
「国の再興を」「今この時」と、自分たちの希望を自分たちのタイミングで実現するよう求めたのです。

しかし、この弱さは神様に選ばれた旧約の民や、イエスさまに選ばれた弟子たちだけのものではありません。
今の私たちもまた、同じ落とし穴に陥る可能性があるのです。

そのような弟子たちに対して、イエスさまは改めて約束を語られます。
「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」(7節)
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(8節)
そして何より、彼らが思いもよらなかったような、大きな使命が与えられます。
「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(8節)
ユダヤやサマリアまでは、彼らも想像できたかもしれません。
しかし、地の果て、つまり異邦人の地にまで、その使命は及ぶのです。

待つことの先に、イエスさまは証人としての使命を与えられます。
待つことは、何もしないことではありません。
次に与えられる使命のために、力を蓄える時なのです。

そしてイエスさまは天に上られました。
今までそんな光景を見たことのない弟子たちが、ぽかんと天を見上げて立ち尽くすのも無理はありません。
聖書には、エリヤが火の戦車で天に昇った出来事が記されています(2列王記2:11-)が、彼らはそれを読んだことはあっても、実際に見たわけではないのですから。

しかし御使いは言います。
「どうして天を見上げて立っているのですか。」(11節)
待つことは、何もしないことではありません。
意味のない時間でもありません。
自分の好きに使ってよい空き時間でもありません。
希望を持って、次の一歩と使命のために力を蓄える時なのです。

エリヤを見送った弟子のエリシャも、その場にとどまりませんでした。
「それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。」(2列王記2:13)
エリシャは、すぐに歩み出したのです。

待つことは力なのです。
そこにあなたの使命があり、聖霊と共に歩む約束があるからです。
待つことは希望なのです。
そこにイエスさまの約束があるからです。

ペンテコステに向けてのこの時、待つことの先にあるイエスさまとの歩みに期待しましょう。
あなたの想像をはるかに超える神様の祝福と使命を、あなたは受け取ることになるのです。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.18「ペンテコステに向けて(1)」ヨハネ14:15–2115 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与...
23/04/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.18
「ペンテコステに向けて(1)」ヨハネ14:15–21

15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」

今週の聖書箇所は、十字架前夜、最後の晩餐の時にイエスさまが語った、いわゆる「告別説教」です。
それは、十字架にかかる前に、弟子たちとの生活の最後に、イエスさまがどうしても残しておきたかった言葉です。
「告別説教」は、ヨハネの福音書13章から16章に記されています。

今週からペンテコステに向けて、備えのシリーズで、御言葉を開いていきましょう。

「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(15節)とイエスさまは語っています。
これは、「私を、そう、イエスさまを愛しているなら、聖書の言葉やイエスさまの戒めを守れる」という意味ではありません。

告別説教の中でイエスさまは「私の戒め」を明言しています。
ヨハネ15章9-10節です。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

これはつまり、「イエスさまの愛にとどまりなさい」ということです。
イエスさまがあなたを愛しているという現実にとどまること。
これがイエスさまの戒めなのです。
あなたがイエスさまを、奴隷やしもべや便利屋のように使うのではなく、イエスさまの愛の中で生きなさい、平安を得なさいということです。
イエスさまは、まるで幼子が母親の腕に抱かれるように、安心して愛の中で平安に生きなさいと言うのです。

16-17節でイエスさまは、もう一人の助け主、聖霊様について語っています。
「その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(16節)
「この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(17節)

しかし、毎週ゴスペルハウス礼拝で行っている聖餐の御言葉にはこうあります。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」(ヨハネ6:56)
また、今週の聖書箇所の20節にも、「あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいること」とあります。
そう、あなたの中にいて、あなたと共に生き、あなたの中に住むのは、私、イエスさまなのです。

つまり、ヨハネ6:56とヨハネ14:17を重ねると、聖霊様とイエスさまは同じ方なのです。
だけれども「もう一人」なので、全く別の方でもあるのです。
つまり、あなたの内におられるのは、イエスさまであり、同時に聖霊様でもあるのです。

ここに、キリスト教の中心である「三位一体」があります。
父なる神様、子なるイエスさま、聖霊なる神様。
三人それぞれでありながら、同じ一つの神である。
同じ神でありながら、別々の方として、私たちに関わってくださるのです。

「それはどういうことか」と、昔から多くの人が説明を試みてきました。
しかし、ここで大切なことがあります。
それは、「理由や理屈や説明よりも、現実が優先する」ということです。
それは科学の世界でも、信仰の歩みでも同じです。

「ありえない」と思っていたことが、現実になる。
神様は、人の「ありえない」を超えて働かれる方なのです。

イエスさまはあなたにチャレンジします。
この世の理屈や、自分の頭で理解できる範囲内だけで生きようとしますか。
それとも、人知を超えた神様が与えてくださる「現実」を、そのまま受け入れますか。

イエスさまは「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(18節)と約束します。
これは二つの意味があります。
一つは、「まもなく私は十字架で死ぬけれども、三日目に復活するから、あなたがたを孤児にはしない」という意味です。

もう一つは、「あなたの孤独も苦しみも、イエスさまは見過ごさない」ということです。
あなたの孤独や苦しみの中に、イエスさまは共にいてくださいます。
イエスさまを信じても、成功や勝利や繁栄が必ず約束されているわけではありません。
孤独も苦しさも悲しみも絶望もあるかもしれません。
でも、その苦しさや絶望の中にいても、イエスさまが、聖霊様が共にいてくださる。
それが、主の約束なのです。
あなたは決して見捨てられることがないという約束です。

イエスさまは続けます。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」(21節)
これは、こう言い換えることができます。
「私(イエスさま)の愛にとどまりなさい。私に愛されている人よ。
あなたは父なる神様に愛され、私に愛され、聖霊様に満たされ、愛され、生きていていいのです。
三位一体の神様はあなたを愛しているのです。」

先日、福島県リバイバル祈祷会に参加しました。
そこでメッセンジャーが「聖霊のバプテスマが何より大切」というメッセージを語りました。
そして、聖霊のバプテスマを受けている人は、まだ受けていない人に手を置いて祈るように促され、実際に祈りました。
しかし、人の手や人のタイミングが、聖霊様をコントロールできるわけではありません。

なぜなら、神様はスイッチ付きの機械ではないからです。
もちろん、召使いでもありません。
三位一体の神様は、神様のタイミングで、神様の方法で、直接あなたに働きかけるのです。
神様は最もふさわしいタイミングで、最もふさわしい方法で、最もふさわしい場所や状況を与えて、あなたに聖霊様の満たし、聖霊のバプテスマを用意しておられます。

弟子たちがペンテコステの日にそうであったように、あなたにも特別な用意があるのです。
そのタイミングに、その方法に、その状況に、すべてを委ねましょう。
あなたに注がれる愛に、愛されて生きていきましょう。
それを備えてくださる神様が、あなたのための約束を確かに備えてくださっているのです。

あなたのためのペンテコステは、あなたのための聖霊のバプテスマは、もう用意されています。
あなたは、その愛の中で、輝いて生きるのです。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.11「週の初めの日の夕方」ヨハネ20:19-2319 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち...
15/04/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.11
「週の初めの日の夕方」ヨハネ20:19-23

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

先週のイースター礼拝では、十字架への道のゴールの向こう側、テテレスタイの向こう側へ、私たちの名前を呼んで連れ出してくださるイエスさまを見てきました。
名前を呼ばれ、新しい使命と新しい命を与えられる時代が幕を開けたのです。

その日、弟子たちは恐れて部屋にこもり、鍵までかけて隠れていました。
なぜなら、まだ自分たちの名を呼ばれるような出会いを経験しておらず、テテレスタイはただ「終わった」という出来事にすぎなかったからです。
イエスさまが殺され、頼るべき方を失った。
誰かが墓から遺体を盗んだのかもしれない。
よみがえったという話もあるけれど、どうやってそんなことが起こるのか分からない。
イエスさまの仲間だというだけで、自分たちも殺されるかもしれない。
イエスさまがいない不安と、ユダヤ人たちへの恐れが彼らを支配していました。

その恐れと不安のただ中に、イエスさまが来られます。
そして言われました。
「平安があなたがたにあるように。」(19節)
これは「シャローム」という当時の挨拶で、「こんにちは」や「元気ですか」といった、ごく日常的な言葉です。
まるで当たり前のように、イエスさまは弟子たちのところに来られたのです。

「あなたたちの恐れも不安も分かっているよ。」そんな響きです。
そして、手と脇腹を見せながら、きっと一人ひとりの名前を呼び、テテレスタイの向こう側へと連れ出したのです。
だからこそ、弟子たちは「喜んだ」(20節)のです。

そのうえで、二度目の「シャローム」が語られます。
一度目は挨拶のようなものでしたが、二度目は文字どおり、「平安があなたがたにあるように」という宣言です。
「平安をあなたがたに与える」という、はっきりとしたイエスさまの宣言なのです。

そして、「わたしもあなたがたを遣わします。」(21節)と、新しい使命が与えられます。
イエスさまは、これまでの彼らの歩みを一気に越えて、未来へと連れ出されるのです。
恐れのただ中にいた弟子たちが、宣教へと派遣されるまで、あっという間の変化です。
イエスさまが与える使命は、資格や能力によるものではないからです。
そのままのあなたが、イエスさまの平安の中に置かれ、テテレスタイの向こう側に立つとき、すぐに始まるのです。

もちろん、聖書を学び、祈り求め、神学校で訓練を受け、試験やレポートに合格することは大切です。
しかし、イエスさまの与える使命は、それらをすべて終えてからでなければ始まらないものではありません。
イエスさまは、それらを待たずにあなたを遣わされるのです。
それは、人々の罪を赦すためです。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」(23節)

イエスさまの愛がまずあり、弟子たちは喜び、平安を与えられ、そして赦す者として、すなわち他者に対して寛容を示す者として遣わされます。
愛、喜び、平安、寛容・・・それはまさに、ガラテヤ5章22節にある御霊の実そのものです。
そして、それが、イエスさまによって新しくされたあなたの使命なのです。

イエスさまは弟子たちに息を吹きかけられました。
創世記2章7節には、
「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」
と記されています。
それと同じように、イエスさまに息を吹き込まれ、弟子たちは、テテレスタイの向こう側に生きる者とされたのです。
新しい命、新しい使命を生きる者とされたのです。

その使命とは、聖霊様とともに歩み、罪の赦しを宣言することです。
十字架の贖いによって、神の前の負債がすでに完了し、完納されたことを宣言することです。
あなたに与えられた赦しの権威を大胆に用い、抜け目なく、それを実際に行っていくことです。

「赦すなら赦され、赦さなければ残る」(23節)という権威の重さを、イエスさまは別のたとえで語っておられます。
ルカ16章1節から9節の「不正な管理人のたとえ」です。
よく難解だと言われるこのたとえも、この視点から理解することができます。
不正な管理人は、自分に許された範囲、主人の財産を損なわない範囲で、主人への負債を減らし続けました。
それによって彼は生き延びようとしたのです。
赦すならば相手は赦され、赦さなければそのまま残る。
それは、不正な管理人が負債を減額したことと重なります。
そして、赦すことによってあなたは友を得、永遠の命を得ることができる、とイエスさまは語られます。

あなたの不安、不満、恐れや苦しみのただ中に、あの週の初めの日のように、イエスさまは来てくださいます。
そしてあなたの名を呼び、新しい命と新しい使命を与えてくださいます。

あなたは、喜びと平安の中で赦しを宣言する者となるのです。
それは、あなた自身が完全に赦されている証拠です。
赦されていない人は、他者を赦すことができません。
裁かれている最中の人には、裁く権利も、赦す権利もないのです。
しかし、あなたはすでに赦されているのです。
だから、赦す者として遣わされるのです。

イエスさまはあなたに語られます。
「シャローム。平安があるように。」

この平安の中で、愛された者として、赦された者として、新たに息を吹き込まれた者として――すなわち、新しい命に生きる者として、与えられた使命を歩んでいきましょう。
今日が、あなたのスタートラインです。

【参考聖書箇所】
☆ 御霊の実
ガラテヤ
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

☆ 罪を赦すこと
ルカ
16:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。
16:2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
16:3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
16:4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
16:6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
16:7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。
16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
16:9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.05「あなたの名を – イースター2026」ヨハネ20:1-181 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。2 それで、...
09/04/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.04.05
「あなたの名を – イースター2026」ヨハネ20:1-18

1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

イースターおめでとうございます。
イエスさまはよみがえられました。
そして今も、あなたと共に生きておられます。

今年のゴスペルハウス礼拝では、「十字架への道」シリーズで御言葉を開いてきました。
第1回は、荒野でのスタートでした。
何もない場所、自分と向き合わざるを得ない荒野で、イエスさまは十字架への道を歩み始められました。
第2回は、十字架への道の理由です。
イエスさまは、失われた者を探して救うために、十字架への道を歩み続けられました。
第3回は、ゲッセマネの祈りです。
他人も神様も思い通りにならない中で、それでもイエスさまは十字架への道を進み続けられました。
そして前回、第4回は、十字架への道の最終回、十字架上でのイエスさまの死でした。
イエスさまは「テテレスタイ」と宣言されました。
「完了した」「成し遂げられた」という意味です。
十字架への道は、そこで成就したのです。

今日は、その十字架の死から3日目の朝の出来事です。
十字架への道のゴールの、その先、「テテレスタイの向こう側」を御言葉から味わっていきましょう。

イエスさまが十字架上で語られた「テテレスタイ」。
今の私たちは、それが御言葉の成就であり、救いの完成であったことを知っています。
なので、そこには希望を感じることができます。
しかし当時、十字架当日、そしてその翌日、まだイエスさまがよみがえられる前は、そうではありませんでした。
当時の弟子たちには、「完了した」ではなく、「すべてが終わった」としか聞こえなかったのです。
イエスさまへの希望も、イエスさまとのつながりも、イエスさまのいのちも、すべて終わってしまった。
目の前で確かにイエスさまは死なれ、その遺体を墓に納めることしかできなかったのです。
そこには、動かしがたい「終わり」がありました。
それを「聖書の成就だ」と受け止める者も、「よみがえり」を期待する者も、まだ誰一人いなかったのです。

安息日が明けた日の早朝、女性たちはイエスさまを葬り直すために、香料を持って墓に向かいました。
マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章にも、この出来事が記されています。
彼女たちは、イエスさまの死を受け入れるために、「テテレスタイ」(終わり)を受け入れるために、墓へ向かったのです。

しかし、墓の入り口をふさいでいた石は取り除かれ、イエスさまの体もありませんでした。
ペテロとヨハネも墓に来ましたが、イエスさまを見つけられず、何も理解できないまま帰って行きました。
彼女たちがイエスさまの死を受け入れるために、最も大切なイエスさまの体が見つからないのです。
彼女たちは、終わりを受け入れることもできず、混乱し、悲しみ、困惑し、心の置き場を失ってしまいました。

しかし、この深い悲しみと困惑のただ中に、イエスさまは来られたのです。
まるで何もない荒野のような場所に、失われた者を救うために、イエスさまは来られたのです。

イースターの奇跡、復活の希望は、最初から喜びに満ちていたわけではありませんでした。
墓の監視をしていた兵士たちは気を失い、弟子たちは理解できず、女性たちは悲しみと困惑の中にいました。
しかし確かに、そこに「テテレスタイの向こう側」があったのです。

その閉ざされた心を開いた、たった一つの言葉がありました。
それは「マリア」(16節)という一言です。

イエスさまは、マグダラのマリアの名前を呼ばれました。
名前を呼ばれるという、たった一つの人格的な触れ合いが、その人の人生を変えるのです。
絶望や悲しみが、喜び、いのち、使命へと変えられていくのです。

ヨハネ10章3節には、「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」とあります。
それは単なるたとえではなく、本当に名を呼んで、新しい人生へと連れ出す、という意味なのです。

名前を呼ばれるというこの出来事は、決して特別な人だけの話ではありません。
これは私自身の人生にも、深く重なる出来事です。
生きる希望を失い、生きるエネルギーもなくし、今まさに、灯台から身を投げようとしたそのとき、イエスさまが私の名を呼ばれたのです。
イエスさまに名を呼ばれたその瞬間、私は我に返り、死の淵から踏みとどまりました。
そしてその瞬間こそが、新しいいのち、新しい使命のスタート地点だったのです。
イエスさまの福音を伝える者としての私の歩みが、そこから始まったのです。

復活とは、単にイエスさまがよみがえられたという出来事にとどまりません。
あなたと復活との関係は、よみがえられたイエスさまにあなたの名を呼ばれることから始まるのです。
そしてあなたは、新しい人生へと連れ出されるのです。

マリアは、悲しむ人から、復活の主に出会った人へ、そして復活を伝える人へと変えられました。
私は、死に向かう絶望から、抜け殻のような人生から、新しいいのちに生きる者へ、そしてイエスさまの愛を伝える者へと変えられました。
これまで、多くのクリスチャンも同じように、イエスさまに名前を呼ばれることで、「テテレスタイの向こう側」の世界へと連れ出されてきたのです。

そして、あなたの名前も、必ず呼ばれます。
なぜならイエスさまは、あなたの名を呼ぶために、3日目によみがえられたからです。
イースターの奇跡は、あなたの名を呼ぶための奇跡なのです。

「もう終わりだ」「無理だ」というあきらめ。
悲しみや苦しみ、孤独や行き詰まり。
それらすべては、あなたの名を呼ぶために、主がそこに来てくださる場所となるのです。

そのただ中で、イエスさまが、あなたの名を呼びます。
その声は、あなたが一番深いところで求めていた言葉です。
そのとき、あなたはイエスさまによって、新しい人生へと連れ出されます。
まったく新しいいのち、まったく新しい使命を生きるのです。

イースターおめでとうございます。
あなたの名を呼ぶために、イエスさまはよみがえられました。

【参考聖書箇所】
☆ イースターの早朝
マタイ
28:1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
マルコ
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
ルカ
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。

☆ あなたの名を呼ぶイエスさま
ヨハネ
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。

春本番、東北後にも桜がキレイに咲き始めています。気分もウキウキしますね。こんなときこそ、神様に目いっぱい礼拝でしょう。花見よりも楽しい礼拝が、ここにあります!☆5月末までの礼拝予定☆4/05(日)10:00-イースター礼拝4/11(土)14...
04/04/2026

春本番、東北後にも桜がキレイに咲き始めています。
気分もウキウキしますね。
こんなときこそ、神様に目いっぱい礼拝でしょう。

花見よりも楽しい礼拝が、ここにあります!

☆5月末までの礼拝予定☆
4/05(日)10:00-イースター礼拝
4/11(土)14:00-
4/18(土)14:00-
4/25(土)14:00-
5/16(土)14:00-
5/23(土)14:00-
5/30(土)14:00-

※5/2と5/9の礼拝は、お休みします

 #ゴスペルハウスメッセージ 2026.03.21「十字架への道(4)」(レント-4) ヨハネ 19:23-3023 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それ...
23/03/2026

#ゴスペルハウスメッセージ 2026.03.21
「十字架への道(4)」(レント-4) ヨハネ 19:23-30

23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

今年のレントの礼拝では、「十字架への道」というシリーズで御言葉を開いてきました。
第1回は、十字架への道のスタート地点である荒野。
何もない荒野で誘惑に勝ち、イエスさまは十字架への道をスタートされました。
第2回は、そこまでして苦しみながらも進む、十字架への道の理由。
それは、失われたものを探して救うため、ということでした。
第3回は、十字架前夜。
人も神様も思い通りにならない中で、それでも十字架への道を進むイエスさまの姿を見てきました。

そして今日は第4回、シリーズの最終回です。
十字架への道のゴール、まさに十字架の場面、イエスさまの死の場面です。

23-24節には、4人のローマ兵士の姿があります。
イエスさまの衣を分け合っている彼らは、救いに対する無理解と無関心の象徴です。
目先の利益しか見ようとしない人々の姿が、そこにあります。
しかし、驚くべきことに、そのような彼らの行いをも通して、聖書の御言葉は成就しているのです。
「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」(24節)は、詩篇22:18の成就です。

25-27節には、無理解な兵士たちとは対照的に、イエスさまを愛する4人の女性と、イエスさまが愛された弟子――筆者であるヨハネ自身――の姿があります。
女性のうちの1人は、母マリアです。

ヨハネの福音書では、マリアの登場はこれで2回目です。
1回目はどこだったでしょうか。
ヨハネの福音書2章1節からの、カナの婚礼の場面です。
その時、イエスさまはマリアにこう言われました。
「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)
この「女の方」という言葉は、当時の敬称であり、親愛の情を込めた呼びかけでもありました。
しかし同時に、母子という関係を超えた、救い主としての公的な関係を示しています。

しかし今、十字架の上で「イエスさまの時」が来ました。
その時を迎え、イエスさまはもう一度マリアに語りかけます。
「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」(26節)

「わたしは今、十字架で死ぬ。しかし、あなたはひとりではない。この弟子を、わたしのように受け入れてほしい。」
という、イエスさまから母マリアへの愛の言葉です。
かつての「何の関係がありますか」というイエスさまの言葉は、ここで愛の成就へと至ったのです。

28節から30節には、十字架上のイエスさまの最後の姿が記されています。
旧約聖書は救い主を予告し、新約聖書はその成就を証ししています。
予告されていたのも、証しされているのも、まさにイエスさまです。
その成就が、今、十字架上で実現しているのです。

28節に「聖書が成就するために」という言葉があります。
これはまさに、イエスさまの歩み、十字架への道そのものです。

イエスさまの地上での生涯は、御言葉の成就の生涯でした。
ヨハネの福音書だけを見ても、12章38節をはじめ、多くの箇所で「成就した」と記されています。
イエスさまの十字架の道は、そのまま御言葉の成就の道でもあったのです。
十字架の道は偶然の道ではなく、必然の道でした。

そしてイエスさまは、その十字架の道の終わりに、「完了した」と言われました。
ギリシャ語では「テテレスタイ」。
これは法的・商業的に使われる言葉で、「全額支払い済み」「完納」「完済」「納税完了」を意味します。
つまり、「負債なし」「未納なし」ということです。

御言葉は一つ一つ成就し、そして最後に「テテレスタイ」と宣言されたのです。
十字架への道は、御言葉の成就の連続であり、最後にはすべてが完済されたのです。

この『全額支払い済み』という言葉を聞いた時、私はかつて取税人として働いていた頃のことを思い出しました。
未納や滞納の状態にある人は、自分の状況を悲しみ、集金に来る人に怒り、罰則におびえています。
しかし、少しずつ支払っていくことで、やがて完納者、負債のない者へと変えられていきます。

計画に従い、すべてを払い終えた姿。
それは、神様の御心と御言葉に従い、すべてを成し遂げて「完了した」と言われたイエスさまの姿と重なります。

もちろん大きな違いがあります。
未納者は自分のお金で負債を返していきます。
しかし、私たちの罪という負債は、到底自分では払い切れないほど大きなものです。
だからこそ、イエスさまがその負債を肩代わりしてくださったのです。

また、次年度になって、新しい負債ができれば、人の未納は繰り返されることがあります。
しかし、イエスさまが支払われた私たちの負債は、未来に向けても、すべてが完了しているのです。

十字架への道を完走されたイエスさまは、「テテレスタイ」と宣言されました。
あなたを苦しめる負債も、あなたを責め立てるものも、神の前には、もはや残っていないのです。
たとえ心がなお責めを感じるとしても、神の宣言は変わりません。
キリストにあって、あなたはすでに完全に解放されているのです。

イエスさまの十字架の死は敗北ではなく、勝利のしるしです。
なぜなら、それはすべてが支払われた証、「テテレスタイ」の証だからです。

さらに、3日目にイエスさまはよみがえられました。
その事実が、勝利を確実なものにしてくれるのです。

十字架への道は、あなたのための道でした。
イエスさまはそれを最後まで歩み抜き、「テテレスタイ」と宣言されたのです。
あなたのために歩まれた、十字架への道を喜びましょう。
そして、イエスさまの十字架の死をも、喜ぶのです。
それは、私たちの救いが完成した日だからです。

次回はイースター礼拝です。
イエスさまの復活を待ち望みましょう。

イエスさまが「テテレスタイ」と言われたのです。
あなたは、もはや罪の負債に苦しむことはありません。
あなたはイエスさまによって完全に赦され、神の子とされた者です。
この恵みの中で、新しい一歩を踏み出しましょう。

【参考聖書箇所】
☆ 詩篇22篇に記された言葉
22:1 わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。
 私を救わず 遠く離れておられるのですか。
 私のうめきのことばにもかかわらず。
22:18 彼らは 私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。

☆ 成就
ヨハネ
12:38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
13:18 わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。
15:25 これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
17:12 彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。
18:32 これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。
19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:36 これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、
19:37 また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。

18:9 これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。

☆ カナの婚礼の時のイエスさまと母マリア
ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

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