18/08/2026
#ゴスペルハウスメッセージ 2026.08.15
「君子和而不同」ミカ4:1-5
1 その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。
2 多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
3 主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
4 彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。まことに万軍の主の御口が告げる。
5 まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。
今日8月15日は、終戦の日です。1945年8月15日、日本が敗戦し、太平洋戦争が終わった日です。
戦争の終わりを迎えたとき、私の母方の祖父は、母が2歳になる前に、軍需工場で爆撃されて亡くなりました。
まだ20代でした。
もう一人の祖父は戦争に行き、左手の小指に敵の弾丸が当たって、小指が動かなくなりました。
戦争が終わってから、夫を亡くした祖母は母と2人で暮らし、母を育てました。
筆舌に尽くしがたい苦労があったと、母から何度も聞きました。
それで、母の口癖は、「だから、戦争なんてしたらいかんのだがね」でした。
戦争に、勇ましい思い出や、得をした思い出を持つ人もいるかもしれません。
しかし、悲しい思い出は、その何十倍もあるのではないでしょうか。
終戦の日の今日、「君子和而不同」というテーマで、御言葉を開いていきましょう。
「和而不同」とは、中国の書物『論語』の中の言葉です。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と書き下されます。
『論語』は、紀元前5世紀後半から紀元前4世紀ごろに生きた孔子の言葉などを集めたものです。
優れた人、つまり「君子」は、他人と仲良く調和しますが、意見を安易に合わせることはしません。
一方、つまらない人、「小人」は、意見を合わせるだけで、心からは調和しないという意味です。
「和」と「同」は、どちらも「みんなで仲良く調和する」という意味にまとめられそうな言葉ですけれども、実は全く違うものなのです。
「和」というのは、違いを認めて、それでも平和を保つことです。
「同」というのは、違いをなくして、一色に染めること、染まることです。
同調圧力と言ってもいいでしょう。
「和」と「同」は、全く逆の意味の言葉とも言えるのです。
あるお寺のSNSの投稿に、こうありました。
「正義のための戦争など存在しない。戦争自体が悪なのだから。」
確かに、その通りです。
しかし、戦争はずっとなくなりません。
それは、「正義のための戦争」しかないからではないかと思います。
誰も、「俺たちは悪いぞ」と言って、戦争を始めたり、続けたりするわけではありません。
そんなことをするのは、「ばいきんまん」くらいです。
そうではなく、「正義」、正しくは「自分勝手な正義」を持つことで、戦争が始まるのです。
自分勝手な正義は、正義ではなく、むしろ悪です。
そして、その悪に反対する人々を、「非国民」「出て行け」「敵国のスパイ」などと脅して、思考を止めさせ、同調させるのです。
偽物の正義で人を縛り、指導者に逆らえない空気を作る。
まさに「小人」、つまらない人です。
これは他人事ではありません。
今も戦争は続いています。
そして、そこには必ず戦争をしたがる指導者がいます。
人々から思考を奪い、指導者の顔色をうかがわせ、自分がリーダーであり続けるために、人々を同調させる。
神様は、そんな偽物の正義にはっきりと「ノー」を宣言します。
イエスさまは、まさに「君子和而不同」を生きた方です。
すべての人に愛を注ぎ、同調圧力には屈しませんでした。
十字架にかかるまで、それを徹底されました。
そして、今日の聖書箇所、ミカに与えられた神様の約束も、「和而不同」の言葉です。
1-3節とほぼ同じ内容が、イザヤ書2章1-5節にも記されています。
つまり、ミカにもイザヤにも与えられた、大切な御言葉なのです。
「もろもろの民」(1節)「多くの国々」(2節)、イザヤ書では「すべての国々」(イザヤ2:2)「多くの民族」(同2:3)が、エルサレムに行きます。
それは、人種的にも、文化的にも、宗教的にも違いを持った民です。
決して同じになることができない人々が、それでも主の山、エルサレム、本当の神様に向かってやって来るのです。
そして神様は、その人たちを受け入れるのです。
同じになることができない人々が、神様の愛によって和することができる。
違いを認めたまま、それでも相手を尊重する。
自分も相手も、大切な存在であるということです。
だからこそ、彼らは剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すのです。
捨てるのではなく、打ち直したのです。
命を奪うものを、命を育むものに。
それは、物質だけではありません。心も、能力も、そのように用いるということです。
「もう戦うことを学ばない」(3節)という言葉が、それを表しています。
同じであることを求めたら、こうはなりません。
争い続けるだけです。
違いを認めることは、平和への大きな第一歩です。
なのに、そうはなっていない現実があるのです。
「グローバル教育」といって、今、学校で教えられているのは英語だけです。
スペイン語やポルトガル語ではなく、フランス語やイタリア語でもなく、英語だけです。
英語が悪いということではなく、英語だけが強調されることに、私は引っかかるのです。
そこには、一色に染めたい、一つの統治の中に支配したい、そんな思いが見て取れるのです。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」
昔、ビートたけしさんが、同調圧力を皮肉って語った言葉です。
冗談のような言葉でした。
しかし、これが笑って済ませられない今があります。
同調しないと不適格者扱いされ、敵扱いされる。
本当の平和は、そんなものではありません。
「彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座る」(4節)
1本の木の下にみんなで集まるのではありません。
それぞれが、自分の場所で、自分の人生を安心して生きることができ、そして、「彼らを脅かす者はいない」(4節)のです。
さらに、聖書としてはかなり画期的だと思うのが、その上で、「すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む」(5節)ことさえ受け入れているのです。
ただし、「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。」(5節)と続きます。
他者を尊重しつつも、自らの信じる真理には堅く立つ、まさに「和して同ぜず」、「君子和而不同」の体現です。
日本には「非核三原則」があります。
核兵器について、「持たず、作らず、持ち込ませず」。
国としての1つの「和而不同」です。
今や、それを堅持することも危ういと言われていますが、大切な原則だと私は思います。
そして今、私は非核三原則にプラスして、「非同調圧力三原則」を提案します。
同調圧力について、「持たず、作らず、持ち込ませず」です。
それが、あなたの人生を、あなたの毎日を、あなたの日常を平和に保つ秘訣だからです。
同調圧力は、私たちの自由を奪い、神様の前に立つ一人の人としての尊厳を奪うからです。
「平和を保つこと」
「同調圧力に流されないこと」
私たちの救い主イエスさまは、まさにその通りに生きました。
「みんながそうしているから」という安易な「当たり前」の、ずっと先を生きたのです。
そして、あなたもそう生きることができます。そう生きていいのです。
「え?でも私、君子じゃないし、優れた人じゃないし。」
そんなことを思う必要はありません。
イエスさまの十字架によって、あなたは神様の子とされているのです。
君子どころではなく、神様の子なのです。
もう、あなたは同調圧力に流される必要はありません。
人に認められるために生きる必要もありません。
あなたは、すでにイエスさまによって、神様の子とされているからです。
しかも、あなたは平和を作り出すことができるのです。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)
イエスさまの愛と平和に生かされて、主が与えてくださる「和而不同」の歩みを、今日から踏み出していきましょう。
あなたは、誰かと同じになるために神の子とされたのではありません。
イエスさまにあって、あなたとして生きるために、神様の子とされたのです。
【参考聖書箇所】
イザヤ2:1-5
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。