本多記念教会

本多記念教会 代官山にある本多記念教会のサイトです。
本多記念教会は日本キリスト教団に属するプロテスタントの教会です。

本多記念教会は、1953年に創立されました。

日本のプロテスタント・キリスト教は、アメリカなどから宣教師によってもたらされました。

本多記念教会は、プロテスタント教会が合同して生まれた「日本基督教団」に属していますが、18世紀のイギリスで伝道を始めたジョン・ウェスレーを指導者とするメソジスト派の流れを継承しています。

この教会は、1953年1月18日、日本メソジスト教会監督・青山学院院長を務めた阿部義宗牧師と13人の信徒によって創立されました。

当初は「渋谷氷川伝道所」と称し、渋谷区氷川町にあった青い鳥幼稚園を借りて礼拝をささげていましたが、1965年現在の地に教会堂を建設した際、青山学院、日本人初代院長、本多庸一先生を覚えて名称を「本多記念教会」としました。

同じメソジストの青山学院とも関係が深く、創立以来交流が守られています。

聖餐式はメソジストの伝統に従い「恵みの座」に跪いていただきます。

また、聖餐式に与るための洗礼式も準備会を経て随時行っております。

8月23日 主日礼拝礼拝説教使徒言行録 27章13~38節「理」という表現を使って使徒言行録を読んできた。ユダヤ教の言葉、律法。ユダヤ社会では共同主観となっている言葉。だが、ローマでも、エジプトでも、この言葉は通用しない。イエスは律法を批判...
24/08/2026

8月23日 主日礼拝
礼拝説教

使徒言行録 27章13~38節

「理」という表現を使って使徒言行録を読んできた。
ユダヤ教の言葉、律法。
ユダヤ社会では共同主観となっている言葉。
だが、ローマでも、エジプトでも、この言葉は通用しない。
イエスは律法を批判した、と当時のユダヤ人もパウロも思っていた。
だが、イエスがしていたことは律法の構造になっている神は何をしても人を愛している、人の行いでその判断を変えるようなものが神ではないとの神の絶対性を説いていた。
変わらぬものが神。
一つの表現だが、パウロはイエスの中に律法を超える「理」を見つけた。
これなら世界と戦える。否、世界に告げなくてはならない言葉と自分は出会った。
「理」との出会いがパウロを世界宣教へと駆り立てる。

「理」「神のみこころ」
私たちもそれと出会ってるはず。
教会の中で「これは神のみこころですから」と言って人に命令をするものがいる。
これがみこころのはずがない。
ならば、何を持って私たちは人の言葉と神のみこころを識別することができるのか。

今日の聖書の物語。
船が座礁する話。
パウロは子の出航に反対する。だが、船主達は出航を選択する。
案の定、船は嵐に見舞われ、人々は生きる望みさえ失う。
パウロはそのもの達を励ます。
私は皇帝に出頭をしなければならない、それが神のみこころだから、必ずこの船は陸地に到着する。
船、人の思い。
パウロ、神のみこころ。
これらの特徴は何か。

船、走り出しはするが、途中で止まり、消えてしまう。
パウロ、神のみこころを携えるもの、どんなことがあっても止まらない。進み続ける。
状況に支配されない。
自由なもの。

「理」とは何か。
一つの「理」が見つかっても、それに限界が生じたら次に「理」がそれを補っていく。
いつまでの続くもの、終わらないもの、それが「理」。

イエスは「理」である。
イエスは終わらない。
十字架にかかり一度死んでも甦る。
永遠の命。
それは「理」のあり方。

変わらないもの、止まらないもの、私たちはそれと出会っている。
「理」を経験しているのであれば、「理」と共に行くしかない。
「理」と共にいる。
永遠を私たちは生きている。

23/08/2026
8月16日 主日礼拝礼拝説教使徒言行録 27章1~10節パウロがイエスを通して見つけたもの「理」と表現してきた。この世界の根底にあるもの。誰にでも、いつでも忘れてはならないもの。「理」「合理」「真理」教会の馴染みのある表現ならば「神のみ心」...
21/08/2026

8月16日 主日礼拝
礼拝説教

使徒言行録 27章1~10節

パウロがイエスを通して見つけたもの
「理」と表現してきた。
この世界の根底にあるもの。
誰にでも、いつでも忘れてはならないもの。
「理」「合理」「真理」

教会の馴染みのある表現ならば「神のみ心」
では、その「神のみ心」「理」と私たちはどのように出会い、それを持って生きるとはどういうことなのか。

パウロのローマへの護送、船旅、この後の出てくる「嵐」
ここからヨナの物語を連想することも聖書の読み方として的はずれではあるまい。
ヨナも神の言葉、み心に出会った。
その時、ヨナはどうしたか。
断った。
預言者たちも同じ。
神の言葉、み心に出会った時、ためらい、拒絶をした。
神のみ心、理、真理とは何か。
私たちが拒絶をしようと思えば拒絶のできるもの。
受け入れる、拒否をする。自由の関係にあるもの。

神のみ心、理、真理の次の特徴。
その神のみ心、真理と出会い、それを持って生きようとする。
何が起こるか。
周囲から拒絶をされる。
間違っていると非難される。
マリア、ヨセフ、彼らの決断は決して人に知られてはならなかったもの。
人に知られれば、間違っていると排除された。
民主主義が重んじている多数決は真理を見つけるための方法ではない。
組織を健全化するための自己修正メカニズムに過ぎない。
アインシュタインも、ダーウィンも多数決で世に残ったものではない。

人々から拒絶をされる「神のみ心」「理」「真理」をなぜ私たちは大切にしなければならないのか。
「神のみ心」「理」「真理」の三つ目の特徴。
やがて誰もがそれを認めざるを得なくなる時が来るから。
パウロの言葉は表面上は否定をしていた王や総督にも確かに伝わっていた。
イエスの言葉は2000年間、語り伝えられている。
神のみ心、理、真理、それと出会い、それと共に生きたものが自らの生涯のうちで世界にそれが許容される時を経験できないかもしれない。
経験できない。
それでもそれと共に生きる。
受け入れなくてもいい。
受け入れても周囲のものから理解をされない。
それが日の目を見る時を目撃もできない。
なぜ、神のみ心、理、真理と共に生きるのか。
命あるものとして、一番おもしろい生き方だから。
一番おもしろい。
それを人に与えているものが神のみ心、理、真理。

8月9日 主日礼拝使徒言行録 26章24~32節パウロの伝道。なぜ彼は伝道をしたのか。「理」を見つけたからではないか。普遍的なもの誰にでも必要。だから伝えたい。「理」見えないスジを大切にすること。漢字からの意味。パウロ自ら総督に向かい「自分...
10/08/2026

8月9日 主日礼拝

使徒言行録 26章24~32節

パウロの伝道。なぜ彼は伝道をしたのか。
「理」を見つけたからではないか。
普遍的なもの
誰にでも必要。
だから伝えたい。

「理」見えないスジを大切にすること。
漢字からの意味。

パウロ自ら総督に向かい「自分が伝えているのは理だ」と言っている。
ここでの理
ソーフロシュネーというギリシャ語
ギリシャ世界は辞典より物語でその言葉の意味を落とし込む風習がある。

プラトンの「饗宴」に登場するソクラテス。
このソクラテスの弟子のアルキビアデス。
この者がソクラテスを誘惑するが、これを相手を傷つけることなくソクラテスは退ける。
その時、アルキビアデスはソクラテスにはソーフロシュネーがあると言っている。
ここでの「理」とは立ち向かうでもなく、全てを引き受けるでもなく、するりと間を抜けていき、何事もなかったかのようにして、自分をブレさせない。
穏やかな正気。

この物語は聖書を読むものにも有益なもの。
どうすれば私たちは「理」を得ること、それを実行することができるのか。

聖書の中の同じく誘惑物語。
主イエスの荒野の誘惑。
悪魔の誘惑は、取引によって自分を世界の真ん中に置けというもの。
これに対して、イエスは全てを退ける。
ここで何故、イエスは悪魔の誘惑を退けることができたのか。
ソクラテスはなぜ、アルキビアデスの誘惑を退けることができたのか。

目の前のもの、誘惑をしてきているもの。
それよりももっと大きな者があることに気がついたからでないのか。

パウロは王、総督、これらの世の権力者達を恐れない。
もっと大きな方を知っているから。
ソクラテスはアルキビアデスの誘惑を退ける。
捨ててはならないもっと大きなものを知っているから。

イエスが律法主義者を批判する。
律法を守れば神に喜んでもらえる。
破れば神から叱られる。
だから律法を守ろう。
イエスはこれに怒る。
神が人の取引に乗るような小さい方だと思っているのか。
私たちが何をしようが変わらない。
そういう大きさ、人が把握しようとしても把握できない大きな方。
それを表すがために時に律法を軽んじる言動をとる。
それを誤解していたパウロではあったがやがて気がついた。
これが「理」だ。
故にイエスを宣べ伝えた。

裁判の席、イエスの話をパウロから聞いた二人の権力者。皇帝と王。
二人はパウロの言葉を遮って法廷を退出する。
パウロの言葉は肯定されることはなかった。
ただ席を離れてから二人は確認した。
「あの男は何も間違っていない」

「理」は伝わっている。
イエスは「理」だった。

8月2日 主日礼拝礼拝説教使徒言行録 26章19~23節パウロにとってイエス・キリストとは何だったのか。なぜパウロは宣教をしたのか。同胞のものにも、異邦人にもなぜイエスを宣べ伝えたのか。「理」という漢字がある。二つの部署から成り立っている。...
02/08/2026

8月2日 主日礼拝
礼拝説教

使徒言行録 26章19~23節

パウロにとってイエス・キリストとは何だったのか。
なぜパウロは宣教をしたのか。
同胞のものにも、異邦人にもなぜイエスを宣べ伝えたのか。

「理」という漢字がある。
二つの部署から成り立っている。
「王へん」
この意味は「磨く」「整える」石を磨き玉にする。
「里」
分ける、境界線、表面には見えない木目、筋の意味を持つもの。
「王へん」と「里」がくっつく。
スジを磨いていく、スジを整えていく。

物のスジを整えるものを「物理」という。
心のスジを探ることを「心理」という。
思考にあるスジを見つけることを「論理」。

「理」はそれぞれの分野ごとに存在している。
異なる「理」が共存している。
「理」がぶつかる。
争いになる。

今日は平和主日。
平和とは何か。
戦争がない状態、これも確かに平和。
だが、それだけではあるまい。
「自分の守りたいもの、大切にしたいもの、それをちゃんと維持できる状態を平和という」
との言葉を聞いた。

「理」がぶつかれば争いになる。
ぶつかっている「理」と「理」の先に重なり合う「理」がある。
これを「合理」という。
誰もが従える、合わせられる「理」。合理。
または真理という。

パウロは誰にでもイエスを伝えた。
パウロにとってイエスとは何だったのか。
「合理」だったのではないか。
どこにでも誰にでも通用する。
それがイエスという「理」。

悔い改める。
勇気を持って自分を振り返ること。
復活を信じる。
世界は終わり、別れが、絶対のものではない。
終わらない、続くところ。
誰もが「良い」と確信を持てるところ。

自分を受け入れ、この先を信じる。
そういう「理」を教会は「真理」とした。

住所

代官山町8/2
Shibuya-ku, Tokyo
150-0034

電話番号

+81334636779

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