相浦光キリスト教会

相浦光キリスト教会 〒858-0913 長崎県佐世保市新田町276-2 Tel:0956-48-5077
http://ainoura-ch.com

相浦光キリスト教会は、佐世保市が誕生した百数年前に、時を同じくして開設された
佐世保市中央公園の中にある佐世保キリスト教会を母教会として、1967年(昭和
42年)に相浦・真申の地に伝道所として開設されました。1999年(平成11
年)に相浦光キリスト教会として教会組織し、2002年11月に相浦・新田の地に
新会堂を建設し、移転しました。
現在この地で、教会設立理念「キリストの愛を伝える」に基づき、教会活動を続けてい
ます。

2026年5月3日 主日礼拝聖書:マタイ福音書6章5~9節宣教題:「祈りへの招き」坂本 献 牧師▲つばめの巣について、一度つばめが来て巣の中の草わらを出したあと来なかったのですが、27日から再びやってきてとりあえず、巣の改修工事を始めたよう...
04/05/2026

2026年5月3日 主日礼拝
聖書:マタイ福音書6章5~9節
宣教題:「祈りへの招き」坂本 献 牧師

▲つばめの巣について、一度つばめが来て巣の中の草わらを出したあと来なかったのですが、27日から再びやってきてとりあえず、巣の改修工事を始めたようです。▲我が牧師室から巣が見えるのですが、今日もやってきては工事をしているようです。▲一方、坂本牧師も教会のトイレの照明を変えたり工事を時々しております。環境を整えるのはツバメも人間も大事ですね。▲さて、5月に入りました。5月24日はペンテコステ礼拝ですが、その日を除いて主イエスさまが我らに教えてくださった「主の祈り」をしばらく礼拝で学んでいきたいと思います。▲日本バプテスト連盟の「新生讃美歌」に「主の祈り」(文語訳)が掲載されていますが、初版でルビの間違えがあり「救い出し給え」が「だしたまえ」とルビされていますが、「出す」は「いだす」と読むのだとの指摘があり、その後は「いだす」となっております。▲文語の「主の祈り」は馴染んでおりますが、時に呪文のように、あるいは「すらすら」と祈る場合もありますが、時々立ち止まって主イエスさまが教えてくださったその意味を考えたいものです。▲3日はマタイ福音書5章6節から主イエスさまが「主の祈り」を押してくださる前の導入のところから学びます。▲ここでまず当時の人々の祈りの姿勢から「祈り」ということを教えておられます。ひとつは「偽善者」の祈り、「偽善者」は「仮面をかぶっている」ような意味です。祈りが誰に向けられているのかと主イエスは尋ねます。▲「奥の部屋の祈り」、「奥の部屋」とは心の「納戸・物置」から祈るということ。それは「普段人には見せられないような心」を開いて祈る招き。▲「くどくどした祈り」は祈る長さが祈りの深さにつながるものではないことを知らされます。もちろん、長い時間祈ることもあることもお伝えいたします。▲さいごに不思議な言葉がでてきます。「主なる神さまは祈る前から、あなたがたの必要はご存じなんだ」ということ。では「祈る必要はない」と考える人がありましょう。でもね、主イエスさまはあなたの祈りを待っておられるのです。▲日々の祈りがあなたの生活、いのちの環境を整え、良き日々へと導かれていくのです。(献)

2026年4月26日 主日礼拝聖書:マタイによる福音書28章16~20節宣教題:「主の招きに応える群れ」坂本 献 牧師▲当教会の牧師館の玄関に「つばめ」の巣があり、4月20日に玄関先に糞などが落ちており、「話は聞いていたけど、今年もやってき...
01/05/2026

2026年4月26日 主日礼拝
聖書:マタイによる福音書28章16~20節
宣教題:「主の招きに応える群れ」坂本 献 牧師

▲当教会の牧師館の玄関に「つばめ」の巣があり、4月20日に玄関先に糞などが落ちており、「話は聞いていたけど、今年もやってきたか」と思い、巣の下に汚れ防止のビニールを敷いておりました。出張があって、数日後に見ますと巣の中の草わらが落ちていました。しかしつばめの姿が見えません。つばめに嫌われたのか、もうここに住みたくないと思ったのでしょうか。つばめも来ていい教会と宣伝したかったのですが多少残念です。▲さて、イースター以降の礼拝では、実際に主イエスさまが復活され、弟子たちにその姿を現したという箇所から聴いてきました。▲26日は弟子たちが主イエスに指示されていた「山」(マタイ5章以降で主イエスが語った山と思われる)に集まりそこで「見える姿」としては最後のイエスと出会い、そして弟子たちがこれからなすべき使命(ミッション)を伝えます。▲まず主イエスを礼拝しますが、集まった弟子たちの中には「(本当の主イエスか否か)疑う者もいた」と福音書は隠すことなく告げます。▲19日の礼拝宣教で扱った「トマス」のように、「疑う者」もまた教会にはいますし、キリスト者であっても「主イエスを疑う」ことからは自由ではありません。信仰とは「鵜呑み」にすることではなく、「疑い」を含めて主なる神や聖書(御言葉)との対話の中でそれぞれの人生の歩みに形成されていくものです。▲今日の箇所は「大宣教命令」とも呼ばれますが、「命令」の前にまず先立つ主イエスが、「近づいて来られる主」が我らに願っておられるのです。▲弟子たちへの招きは「出かけていってすべての民を弟子にする」「バプテスマを授けること」「主の教えに従って生きるようにする」ということであります。▲「出かける」ことはまだ知らない人々と出会っていくことであり、主を共に礼拝する群れの形成、そして教会教育(より広い「生き方」に関わるもの)です。▲今、世界は「争いが止まず」「生きることが辛い人が多い」のです。イエス・キリストの福音に人々が気付き、その教えに生きようとする時に、平和や命の価値、命を肯定する世界が生まれるのだと思います。▲教会のクリスチャンは少なく、力無き者でありますが、なお、主の委託に応えて歩んでいきたいものです。▲何より嬉しいこと、それは「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」こと。一人で頑張るのではありません。主イエスと共に、そして主が招いてくださった弟子と共にその働きをしていくのです。▲応答讃美歌は「主よ、終わりまで」を選んでおります。英国国教会の牧師によって作詞されたこの讃美歌にも励まされ、私どもは喜びをもって伝えていくのです。▲そのような教会にぜひおいでください。(献)

2026年4月19日 主日礼拝聖書:ヨハネによる福音書 20 章 24 – 29 節宣教題:「祈りに支えられて」坂本 献 牧師▲4月も半ばを過ぎ、新しい生活が始まった方々は慣れてきたでしょうか?▲私もだんだん近所の様子がわかってきて、上相浦...
20/04/2026

2026年4月19日 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 20 章 24 – 29 節
宣教題:「祈りに支えられて」坂本 献 牧師

▲4月も半ばを過ぎ、新しい生活が始まった方々は慣れてきたでしょうか?▲私もだんだん近所の様子がわかってきて、上相浦駅から道の駅、スーパー等へと散歩することを覚えました。▲さて、教会は何よりまずは「建物」のことではなく、「人の集まり」です。少し丁寧に言えば、イエスさまが招いてくださる者の集いですが、そこに、国籍や肌の色や性別も学歴も何も必要はありません。▲時にはまだいわゆる「洗礼」を受けていない人もおられます。▲一方では、「祈りをする集まり」「讃美歌を歌う集まり」「聖書を読む者の集まり」とも表現できます。まぁ、とにかく教会は様々な人が集まって(集められて)生まれていくのです。▲イエスさまの弟子の中に「トマス(英語ではトーマス)」という人がいました。それぞれ弟子たちはユニークさを持っています。トマスは「武士精神」といえるようなものを持ちます。イエスさまがもし誰かに襲われるようなことがあったら、私は戦って、もし死ねばそれで本望という人であり、また「死」とか「死後の世界」を考えない人です。なのでトマスの中の「神様」というのは不思議な点があります。イエスの弟子になったのも、信仰というよりも、世界を改革したりすることが目標であったように感じるのです。▲さて、イースター、主イエスが殺され、墓に入れられ、その後、「よみがえり」ます。そして、隠れていた弟子たちのところに行き、その姿を示し、ご自分の深い傷を見せたのです。▲その時、トマスはそこにいませんでした。あとで他の弟子から「イエスさまが復活してよみがえり、姿を現し、語ってくださった」という話を聞いたのですが、そこにいなかったトマスは「そんなバカなことがあろうか」と否定いたします。そこには、自分だけが仲間はずれされたような寂しさもあったのかもしれません。▲それから一週間がたちました。トマスは他の弟子たちと一緒にいました。「イエスがよみがえるなんて信じられない」というトマスも一緒にいたし、いることがゆるされておりました。▲信じた者も、疑う者も一緒にいてよいのです。でも、きっと周りの弟子たちはトマスが主のよみがえりを受け入れることができるように祈っていたと思います。▲「信仰」というものは、人の心で様々に動きます。時に疑い、時に否定することもあるのです。また、クリスチャンだからといって「100%信じている」ことを求められているわけではありません。「信仰」は神様や教会のみなさんとの対話の中で育っていくものなのです。▲人間関係でも人は他者を完全に鵜呑みにして信じていることはありません。それはちょっと危険です。時に疑いながら、またちょっとしたテストをしながら「この人は自分の思いを理解してくれているだろうか」など確かめようとします。▲疑うことは罪ではなく、それは「対話」を引き起こし、その関係性こそが大事です。▲そして、私は思います。私は疑ったり、自分の都合で相手を変えようとするけれども、主なる神は常に真実であり、そして、主ご自身がまず先に、私どもに信頼の手を、つながりなさいとの思いをもって、その手を伸ばしてくださる方なのです。▲さて、トマスさんのこと、ぜひ「相浦光キリスト教会」でお聞きくださったら幸いです。(献)

2026年4月12日 主日礼拝聖書:ルカによる福音書 24 章 13 – 35 節宣教題:「エマオのUターン」坂本 献 牧師▲イースターを5日に喜びと希望の中にお迎えいたしました。「主イエス・キリスト」が死からよみがえった、など通常誰でも信...
20/04/2026

2026年4月12日 主日礼拝
聖書:ルカによる福音書 24 章 13 – 35 節
宣教題:「エマオのUターン」坂本 献 牧師

▲イースターを5日に喜びと希望の中にお迎えいたしました。「主イエス・キリスト」が死からよみがえった、など通常誰でも信じ得ません。二千年前の復活の朝、イエス・キリストと共に歩んできた人々も同様です。▲「信じられない」ことですが、そのような死の絶望、死によって「つながり」が切れたと思う人々にイエス・キリストは語りかけました。▲イエス・キリストの復活は、命の希望、失われた関係性の回復、そして死をも乗り越えられることであることである、と。▲その「語りかけ」を聞くときに、人は「信じる心」を与えられていったし、そこにキリスト教会が誕生していったし、今もなお続いているのです。▲さて、12日はやはりイエス・キリストの弟子(弟子には様々な形態があり、イエスさまについていく人、住んでいた場所に残って活動していた人、無名の人々もたくさんいた)の内のある二人が、エマオ村の家に帰ろうとしている姿から聴きます。▲この二人は「イエス・キリストが復活した」という話を聞きますが、「まさかそのようなことはあるまい」と信じられなかったし、自分たちのイエスに対する期待が砕けたこと、これからどうするかと思いつつ暗い顔をして歩んでいたのです。▲その二人の会話にいつのまにか入って誰かが一緒に歩み、そして「あなたがたは何の話をしているのか」と尋ねます。そして、その同行者は旧約聖書からはじめてイエス・キリストのことをお話されたのです。▲いつの間にかエマオ村が近づいてきました。そして二人はまだまだ話を聞きたいと思い、その同行者に「泊まってください」とお願いし、食事をいたします。▲食事をしようとし、その方が祈りをし、パンを裂き、それを二人に渡す時、この弟子たちはこの同行者こそ、そして、彼らが気付かぬまま共に歩み、語ってくださった方こそ、あの主イエス・キリストだと理解することができたのです。▲そして思い起こすのは、エルサレムから太陽の沈む方角である西に歩んでいた時、その方の話を聞いたとき「心が燃えていた」ことを。▲二人はあわてて再びエルサレム目指して出発いたします。それはもはや暗い道、失望の道ではなく、主イエスの言葉を土台とした喜びの道、新たな希望に生きる道でした。▲この物語は多くの人になお愛される出来事であり、我らもまた主イエス・キリストが共に歩み、語りかけてくださる方であることを思い起こすのです。(献)

2026年4月5日 主日礼拝聖書:マタイによる福音書 28 章 1 – 10 節宣教題:「イースター、希望の朝」坂本 献 師イースターの物語が語られるとき、それは大切なものを失った、あるいは奪われた人々が復活の証人となり、失われた命が再び呼...
07/04/2026

2026年4月5日 主日礼拝
聖書:マタイによる福音書 28 章 1 – 10 節
宣教題:「イースター、希望の朝」坂本 献 師

イースターの物語が語られるとき、それは大切なものを失った、あるいは奪われた人々が復活の証人となり、失われた命が再び呼び覚まされる希望の物語です。イエス様を死に追いやった人々は、人の力によって事を成し遂げたと、勝利に酔っていたことでしょう。

そんな中、二人の女性――マグダラのマリヤとイエスの母マリヤが、日曜の朝早くイエス様の墓へ向かいました。道すがら、イエス様との出会いからここ数日の出来事までが、走馬灯のように心に映し出されていたことでしょう。

墓に着くと、地震が起こります。実際に地が揺れただけでなく、彼女たちの人生そのものが揺さぶられる出来事でした。当時の横穴式の墓は大きな石で塞がれていましたが、天使がそれを動かし、墓は開かれていました。

その入り口で、空虚な心に向かって天使は告げます。

「恐れることはない。十字架につけられたナザレのイエスをあなたがたは捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる。」

墓の中にあるはずのイエス様の遺体はなく、想像を超える言葉が語られたのです。

奪われること、失われることは、多くの場合、絶望を意味します。しかし、人間の最終到達点は墓ではありません。聖書が語るのは、死は決して終わりではないということです。失ったと思っていたものを、再び見いだすことへと招いているのです。

マタイによる福音書には、その後、復活されたイエス様に出会う場面が描かれています。生前とまったく同じように、「おはよう」と声をかけられました。このあいさつの原語には、「喜びなさい」「喜びあれ」という意味があります。つらい時を通ったけれど、ここから喜びが始まる――なぜなら、イエス様は失われた方ではなく、生きておられる方として復活されたからです。それは、「いつも共にいる」という事実を人生の土台としなさい、という招きでもあります。

ガリラヤは多くの弟子たちの出身地であり、イエス様との出会いの地であり、最初の宣教の歩みが始まった場所でした。弟子たちが、また私たちがイエス様を見失ったときでさえ、イエス様は決して私たちを見捨てられません。一度壊れた関係、失われたと思えたものを、もう一度結び直し、共に歩む恵みを与えてくださいます。

復活とは、イエス様が再び出会い、伴ってくださる道が開かれたということです。たとえ絶望や無力感、暗闇の中にあったとしても、イエス様はそのただ中で共に歩み、喜びと命、そして希望を与えてくださいます。それが、イエス様の復活の出来事なのです。

2026年3月29日 主日礼拝聖書:ルカによる福音書 23 章 32 – 43 節宣教題:「受難と熱情」坂本 献 師教会の暦ではパームサンデー(棕櫚の主日)を迎え、受難週に入ります。イエス様は子ロバに乗ってエルサレムに入場され、過ぎ越しの祭...
31/03/2026

2026年3月29日 主日礼拝
聖書:ルカによる福音書 23 章 32 – 43 節
宣教題:「受難と熱情」坂本 献 師

教会の暦ではパームサンデー(棕櫚の主日)を迎え、受難週に入ります。イエス様は子ロバに乗ってエルサレムに入場され、過ぎ越しの祭りと除酵祭のために多くの巡礼者が集まっていました。

宗教指導者たちはイエス様を憎み、ついに逮捕と処刑の計画を実行します。最後の晩餐の後、イエス様はゲツセマネで捕らえられ、大祭司と神殿議会で有罪ありきの裁きを受けました。当時ユダヤには死刑権がなかったため、イエス様はローマ総督ピラトのもとへ送られますが、ピラトは罪を認めません。それでも祭司長や群衆は非難を続け、ヘロデに送られても結論は出ず、再びピラトのもとへ戻されました。ピラトはバラバとイエス様を民衆に示して釈放を促しましたが、群衆はイエス様の十字架刑を叫び続け、その要求が通りました。

今日の箇所は、イエス様が十字架にかけられてからの場面です。

イエス様の左と右には二人の犯罪人が同じく十字架につけられ、多くの人々がその姿を見ていました。イエス様の排除に成功した議員たちは「他人を救ったが自分は救えない」と嘲笑し、犯罪人のひとりも「自分と我々を救ってみろ」とののしります。彼らにとって大切なのは「自分を救うこと」でした。しかし、その努力はむしろ自らを追い詰め、死へと向かわせていきます。

一方、もうひとりの犯罪人は違いました。「イエスよ、あなたがあなたの王国に入るとき、私を思い出してください」と懇願したのです。自分では救えず、死に向かうしかないという現実は二人とも同じでしたが、この犯罪人が願ったのは「覚えていてほしい」という切実な叫びでした。その声を、イエス様は決して聞き逃されませんでした。

イエス様は彼に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と語られます。ルカ福音書で繰り返される「今日」という言葉は、死後の未来だけでなく、今この瞬間からあなたは一人ではない。私が共に苦しみを担い、見捨てることはないという宣言を表しています。

「こんなはずじゃなかった」と後悔の中にいた犯罪人は、人生の最後の最後に、イエス様との出会いによって、死が終わりではないという希望と、孤独ではないという慰めを与えられました。

神様のこの良い知らせ、救いはイエス様と出会うことで、無条件に与えられるものです。「イエス様」と呼びかけるとき、イエス様はどんな状況でも必ずその声を聞き、「あなたと共にいる」と語り、新たな命の旅立ちへと招いてくださるのです。

2026年3月15日 主日礼拝聖書:ヨハネによる福音書 1 章 29 – 34 節宣教題:「神の語り部」川久保 拓也 師バプテスマのヨハネはイエスさまを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語りました。イエスさまが私たちの罪を贖う...
15/03/2026

2026年3月15日 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 1 章 29 – 34 節
宣教題:「神の語り部」川久保 拓也 師

バプテスマのヨハネはイエスさまを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語りました。

イエスさまが私たちの罪を贖うために来られたことを語り続けることは教会に、そして私たち一人ひとりに託された働きの一つです。そしてそのことは神さまとバプテスマのヨハネとの直接的な関係の中で彼が受け取っていった真理でもありました。聖書はヨハネが証をしたことを語っています。

その証によれば、バプテスマのヨハネはイエスさまを知りませんでしたが、神の霊の働きによってイエスさまについて知り、またその働きについて知らされたということが、その中で語られています。私たち人間は神さまご自身のことやまた神さまの働きについて完全に知ることはできないかもしれません。ですが同時にそのことについて全くわからないわけでもありません。

なぜなら神さまが自ら私たちに近づかれてご自身を明かしてくださっているからです。そのことで私たちは神さまを知り、神さまの出来事を証し続けていくことができます。イエスさまが自らバプテスマのヨハネに近づかれていったことと同じように、今を生きる私たちにもイエスさまは近づいてきてくださっています。それは聖書に代表されるあらゆる媒体を通して私たちに示されているのです。

2026年2月22日 主日礼拝聖書:マルコによる福音書 2 章 13 – 17 節宣教題:「罪人を招かれるイエス様」 藤野 慶一郎 師イエス様は取税人レビを弟子とし食卓に着かれました。このイエス様の行動は、ユダヤ教の清い生活を心がけていたフ...
23/02/2026

2026年2月22日 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書 2 章 13 – 17 節
宣教題:「罪人を招かれるイエス様」 藤野 慶一郎 師

イエス様は取税人レビを弟子とし食卓に着かれました。このイエス様の行動は、ユダヤ教の清い生活を心がけていたファリサイ派の律法学者たちにとってはあり得ないことでした。「16 ファリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と言った。(16節)」 彼らのあり方はイエス様と真逆でした。

ゆるして受け入れることそれが愛です。私たちが教会に来て恵まれるのは、イエスさまに出会って受け入れてもらえたと解るからです。イエス様のお考えを知り、イエス様の みことばを聴き、イエス様の行動を知ることによって、この私も救われると直感し喜びと感謝があふれます。妻にモラハラを7年間も続けてついに妻と子が出て行ってしまった離婚寸前の夫の人のテレビ番組が
ありました。

 ◎整理整頓はちゃんとできているべき。
 ◎買ったものはすぐにあるべきところに収納するべき。
 ◎物は大事に使うべき。
 ◎子どもはご飯をたくさん食べるべき。
 ◎母親は基本、元気でいるべき。

 彼の言っていることは正しいことでした。妻から離婚を願う手紙が来たのに驚いて、AIのチャットGPTに聞いたら「あなたは悪くありません。あなたは自分の心を守るために妻にそうしてきたのです。」と答えたそうでした。それを見た彼はやっぱり自分は間違っていないと考えました。恐ろしいことです。ですが後で、多くの人たちの実際の事例を知って自分こそモラハラをしてきた、自分が悪かったと気が付き、謝罪の手紙を書いたそうです。

 律法学者やパリサイ人。彼らの言葉は正しいです。その正しい基準で人を断罪し傷つけ、分断を生じさせ、自分自身を苦しめる結果になっています。しかもそれに自分で気付かない。聖書はそれが人間の罪と言っています。
自分の基準で善悪を決めたり、正しい人をイエス様が招いておられるという勘違いから解放されて、イエス様のようにかかわる一人一人を受け入れ、寄り添って話を聞き、福音を伝える伝道に私たちは励みましょう。イエス様は言われました。

「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(17節後半)」

2026年1月25日 主日礼拝聖書:マルコによる福音書 15 章 21 節宣教題:出会いに生きる 奥村 敏夫 師こんな嫌なことがあるだろうか?こんなについていないことがあるだろうか?彼は舌打ちしながら、そう思った。いきなり兵士に引っ張り出さ...
29/01/2026

2026年1月25日 主日礼拝
聖書:マルコによる福音書 15 章 21 節
宣教題:出会いに生きる 奥村 敏夫 師

こんな嫌なことがあるだろうか?こんなについていないことがあるだろうか?彼は舌打ちしながら、そう思った。いきなり兵士に引っ張り出されたうえに、血にまみれた薄汚い男の死刑を手伝わされることになろうとは。一緒に旅してきた家族もきっと混乱したり、不安に思っているに違いない。それにしても、このいばらの冠をかぶせられ、横でよろけながら十字架を黙々と負っているこの男はいったい何者だろう?
「悲しみの道」を辿って、二人は刑場に着いた。ゴルゴタの岡の上で起こったすべての事を、彼は一部始終間近に目撃することになった稀有な人物となった。

彼の名はシモン。ありふれた名前である。彼がこの後どうなったか、どんな生涯を送ったか、聖書は詳しく伝えてはいない。しかしこの事実を伝えた福音書記者マルコは、この人物を特定するために、わざわざその出身地と共に二人の息子の名前を挙げ、シモンはその父であることを伝えている。

『マルコによる福音書』は、地元ローマの教会で書かれ、読まれた福音書である。興味深いことに、この息子たちは二人とも、ローマにできたばかりの最初期の教会の執事として知られ、実は彼らの母もその晩年には、迫害の嵐が吹き荒れる中、あの伝道者パウロを命懸けで熱烈に支え続けた筋金入りの伝道者であったことが判っている。

まとめてみよう。あの世界一ツイていない男シモン、望まずしてあのイエスと出会った。その後ほどなく、彼と彼の妻、そして二人の息子たちは熱心なキリスト教徒となっていった。恐らくはこのシモンにとって忌まわしい出会いが、自分とその家族の生涯を全く変えてしまった決定的な出来事になったに違いない。

イエスとの出会い――それは様々な形があり、ほとんどそれと気づかないことすらある。しかしもしそれが本物であれば、大きな喜びの変化が私たちにも与えられるに違いない。

2025年12月21日 主日礼拝聖書:ルカによる福音書 1 章 46 – 55 節宣教題:マリアの溢れる讃美 中村 千枝子 伝道師11月30日からアドベントに入り、いよいよ今日、クリスマス礼拝の日を迎えることができました。旧約聖書のイザヤ書...
23/12/2025

2025年12月21日 主日礼拝
聖書:ルカによる福音書 1 章 46 – 55 節
宣教題:マリアの溢れる讃美 中村 千枝子 伝道師

11月30日からアドベントに入り、いよいよ今日、クリスマス礼拝の日を迎えることができました。旧約聖書のイザヤ書には、イエス・キリストが生まれること、その目的、そして生涯の結末までもがはっきりと記されています。イザヤ書7章14節や9章6〜7節には誕生の預言があり、53章4〜12節にはキリストの受難が記されています。これらはイエス・キリストが誕生される約700年前に語られたものです。その預言が、ついに実現へと動き出しました。

そのために、神はガリラヤのナザレに住んでいた処女マリアのもとに、み使いガブリエルを遣わされました。マリアはまだヨセフと婚約中でしたが、突然現れた御使いは3つのことを告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という祝福の言葉です。戸惑うマリアに、み使いはさらに続けて語ります。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

これを聞いたマリアは、「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」と精一杯の疑問を口にします。するとみ使いは、「聖霊があなたのに降り、いと高き方の力があなたを覆う。」と答え、生まれる子が「聖なる者、神の子」と呼ばれることを教えました。また、親類のエリザベツが年老いているにもかかわらず身ごもっていることを示し、最後に「神にできないことは何一つない。」と語りました。

マリアはその言葉を信仰をもって受け入れ、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」と答えました。常識では理解できない出来事ですが、神の言葉を素直に受け止めるとき、不可能を可能にされる神の導きを体験できるのです。その後マリアは、エリザベツとの交わりを通して、自分が「主を宿す母」とされていることを深く理解していきました。エリザベツは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」とマリアの信仰を称えています。そしてマリアは、あふれる喜びと感謝をもって神を賛美せずにはいられませんでした。それがルカ1章46〜55節の「マリアの賛歌」です。マリアは次のように歌います。
「この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです。」「力ある方が私に大いなることをしてくださったからです。」50節では主のご性質のすばらしさが語られ、54〜55節では、神が歴史を通してイスラエルを助け、アブラハムへの約束を決して忘れずに守ってこられたことを賛美しています。ガラテヤ3章16節が示すように、「アブラハムの子孫」とは多数ではなく一人を指す言葉であり、それはキリストのことです。

マリアは、自分がその約束の成就の働き手とされていることを歌っているのです。イエス・キリストが来てくださった目的は、私たちの罪を赦すためでした。ピリピ2章6〜8節が語るように、キリストは神であられるにもかかわらずご自分を低くし、人となり、十字架の死にまで従われました。その犠牲によって私たちは今、罪の赦しと永遠の命を与えられています。この救いは、万軍の主の熱心によって成し遂げられました。この恵みを覚えながら、ただただ神に感謝と賛美をお捧げします。

2025年11月23日 主日礼拝聖書:ヨシュア記 20 章 1 - 9 節宣教題:逃れの町  湯川 洋久 牧師「目には目を、歯には歯を」という言葉はタリオの法と呼ばれています。この法律は復讐を助長するためのものではなく、過度な報復を防ぐため...
26/11/2025

2025年11月23日 主日礼拝
聖書:ヨシュア記 20 章 1 - 9 節
宣教題:逃れの町 湯川 洋久 牧師

「目には目を、歯には歯を」という言葉はタリオの法と呼ばれています。この法律は復讐を助長するためのものではなく、過度な報復を防ぐために、罪と同等の罰に限定するためのものでした。古代社会では復讐は際限なく大きくなりやすく、秩序を保つために必要な仕組みだったのです。

しかし、この法律では解決できない問題がありました。それは、故意ではなく誤って人を殺してしまった場合です。もし同じ原則が適用されれば、その人も命を奪われなければなりません。そこで神は「逃れの町」を設けられました。逃れの町は全部で六つあり、どの部族からもすぐに行けるように配置されていました。そこに逃げ込んだ者は復讐者から守られ、公正な裁きを受けるまで安全に過ごすことができました。

なぜ逃げる場所が普通の家ではなく、聖なる街でなければならなかったのでしょうか。それは古代イスラエルでは血が命そのものを象徴し、宗教的意味を持っていたからです。血が流れることは社会と土地に不均衡をもたらすと考えられ、民数記には「血は土地を汚す」と記されています。そこで流された血を償うために復讐が必要だと考えられていました。

しかし復讐者を意味するヘブル語「ゴーエル」の本来の意味は「復讐する者」ではなく、「贖う者」「取り戻す者」です。つまり復讐は怒りの爆発ではなく、秩序を回復する宗教的意味を持った聖なる行為でした。しかしもし誤った復讐が行われれば、それ自体が新たな流血となり、土地を汚すことになります。そのため、逃れの町は復讐が正当かどうかを判断し、無実の血が流されることを防ぐために存在したのです。神は不必要な流血を望まれず、人の命を尊く扱われたことがわかります。

この旧約の制度の背景には、人間の弱さや復讐の連鎖を抑える神の知恵があります。しかしイエス・キリストはさらに一歩踏み込んだ教えを語られました。イエスは「目には目を」と言われてきた人々に対し、「悪い者に手向かってはならない。右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と語りました。これは復讐の抑制ではなく、復讐を超えた赦しと愛の道です。

なぜそのような生き方が求められるのでしょうか。それは私たちが罪のない存在ではなく、誰もが心のどこかに傷や過ちを抱えているからです。だからこそ、赦された者として生きるよう招かれているのです。

そしてイエスさまは言葉だけでなく、ご自身の十字架によって贖いを完成されました。本来、罪人が流すべき血を罪のない神の子が流されたことによって、流血と復讐の歴史は終わりを迎えました。イエスさまは逃れの町以上の存在として、すべての人の赦しと救いの場となってくださいました。

逃れの町は誤って罪を犯した人の避難所でした。しかし今、私たちには逃げ込む場所ではなく、寄り添ってくださる救い主がおられます。イエス・キリストは、赦し、平和、和解をもたらす方です。私たちはその方のもとに身を置き、赦しと愛の道を歩むことができます。神様の愛と赦しをイエスさまはご自身の十字架の死によって実践されたのですから。

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