Chabad of Tokyo בית חבד טוקיו

Chabad of Tokyo בית חבד טוקיו Chabad of Japan was established in 1999 by Rabbi Binyomin Edery. The goal of Chabad Japan is to illuminate Japan with acts of goodness and kindness.

B”Hショフティム:社会の責任今週のパラシャ『ショフティム(Shoftim:裁判人たち)』の結びにおいて、トーラーは「首を折られた雌牛」(Broken-necked Heifer)に関するユダヤの戒めを提示しています。殺害された人が野原に倒...
16/08/2026

B”H

ショフティム:社会の責任

今週のパラシャ『ショフティム(Shoftim:裁判人たち)』の結びにおいて、トーラーは「首を折られた雌牛」(Broken-necked Heifer)に関するユダヤの戒めを提示しています。殺害された人が野原に倒れているのが発見され、しかも殺人者の身元が分からない場合、現場から最も近い町の指導者や裁判人たちは公の儀式を行わなければなりません。彼らは若い雌牛を谷へ引き出し、こう宣言します。「私たちの手はこの血を流しておらず、私たちの目も見ていません」と。

この行為は償いとして機能すると同時に、未解決の犯罪に対する社会の関心を強く喚起し、正義の追求を確実なものにします。しかし一見すると、ここには明らかな疑問が生じます。なぜ密かに犯された殺人のために、町の長老や裁判人たちが償いを必要とするのでしょうか。凶悪な犯罪を犯したのは殺人者単独であり、完全な罰を受けるべきはその者だけのはずです。野原で起きた暴力行為と、地元の裁判所に一体何の関係があるのでしょうか。

その答えは、全人類に適用される根本的な原則、すなわち「相互責任」を明らかにしています。長老たちが犯罪で告発されているわけではありません。しかし、指導者であり教育者である彼らには、コミュニティ全体に道徳的かつ倫理的な生き方を教える責任があるのです。コミュニティとその法廷が流血に対する責任を負うという、この戒めの根底にある原則は普遍的なものです。「ディーニーム(Dinim:法廷の設置)」はブネイ・ノアハの核心的な戒律であり、社会が7つの戒律を施行し、道徳的秩序を維持することを求めています。公正な裁判所を設立する義務とは、犯罪が起きた後に犯罪者を罰することだけではありません。それは、ネ‐申の正義に基づいた、公正で道徳的な社会を築くことを要求しているのです。

公式な指導者や社会は、自らの監視下で暴力が発生した際、その責任の一端を負います。真に健全なコミュニティとは、弱い立場にある人々に積極的に目を配り、彼らが倒れてしまう前に支援する社会です。すべての国は、教育に焦点を当て、ノアの7つの戒律が確実に守られるように導く、正義ある裁判人と指導者を任命すべく努めるべきです。

今日、普遍的なネ‐申の倫理を学び、それに従って生きることで、すべての人が「相互責任」に基づく公正な世界を築く手助けをしています。ノアの7つの戒律を学び、それを日常生活に適用することで、ブネイ・ノアハはネ‐申の正義によって統治される世界に直接的に貢献しているのです。真っ直ぐな指導体制を確立し、道徳教育を支援すること。それは、この世界を創造主の住まう場所とするための最も基礎的な歩みなのです。

【出典】
Deuteronomy(申命記) 21:1–9
Babylonian Talmud(バビロニア・タルムード), Sotah 45b–46b
Rambam(マイモニデス), Mishneh Torah, Laws of Kings and Wars, Chapter 9, Halacha 14
Likutei Sichot, Vol. 9 (Shoftim)
Ramban, Genesis(創世記) 13

ラビ・モシェ・バーンスタイン(Rabbi Moshe Bernstein)は、以下の本の著者です。
『Light Onto the Nation: A Guide to the Seven Noahide Laws』
『Light Onto the Torah Portions: Insights on the Torah Portions for Noahides』(全2巻)
『Stories of Faith for Noahides: Inspiring Stories for Noahides from the Righteous of all Generations』
『Questions and Answers for Noahides: Q&A about the Seven Noahide Laws』

B”Hパラシャ『レエハ』:心から偶像崇拝を根絶するパラシャ『レエハ(Re'eh)』では、偶像崇拝との戦いに関するトーラーの最も重要な要求が示されています。「あなたがたは彼らの祭壇を壊し、その石柱を打ち砕き……その場所から彼らの名を消し去らな...
11/08/2026

B”H

パラシャ『レエハ』:心から偶像崇拝を根絶する

パラシャ『レエハ(Re'eh)』では、偶像崇拝との戦いに関するトーラーの最も重要な要求が示されています。「あなたがたは彼らの祭壇を壊し、その石柱を打ち砕き……その場所から彼らの名を消し去らなければならない」(申命記 12:3)。トーラーが求めるのは、偶像そのものの破壊だけでなく、その記憶や影響力を根底から消し去ることです。偶像を物理的に打ち砕くという命令はイスラエルの地においてイスラエルの民に与えられたものですが、ブネイ・ノアハにとっても、いかなる形であれ偶像崇拝に仕えたり、敬意を払ったり、重要性を与えたりしないという義務があります。

古代の異教文化の形跡が今なお残る現代において、この教えはブネイ・ノアハにとって非常に実践的な意味を持ちます。特に、偶像崇拝にちなんだ命名を避けることは不可欠です。新しい場所や施設に古代の異教の神々を称える名を付けることは禁じられています。また、異教の神殿の名や偶像にちなんだ通り名を、待ち合わせ場所や目印として利用することも避けるべきです。そうした利用はその場所に地位や価値を与えることになり、偶像の記憶を消し去るという原則に反するからです。

人の名前はその人の精神的な本質を表します。そのため、子どもに異教の神話(ローマ、ギリシャ、東洋の神々など)に由来する名前を付けることは推奨されません。名前は内なる精神性を表すため、偽りの神々に由来する名を避けるのが望ましいのです。ただし、真の課題となるのは現在も崇拝の対象として使われている名前です。現代において完全に世俗化し、崇拝的な意味を失った名前であれば、一般に許容されます。

今日、偽りの信仰との戦いは力や暴力ではなく、平和と穏やかな道を通じて行われます。今なお偶像崇拝にとらわれている人と接するとき、ブネイ・ノアハの役割は温かい態度と論理的な説明をもって向き合うことです。ノアの7つの戒律を広め、分かりやすく伝えることで、人々を真理へと導くことが正しい方法です。神聖な道徳性と唯一のネ‐申への信仰の美しさと合理性を示すとき、光が自然と闇を払うように、人々は自らの意志で偶像崇拝から離れていきます。

ランバム(マイモニデス)をはじめとする賢者たちの見解によれば、「シェトゥーフ(Sheetuf:ネ‐申と他の存在を併せて崇拝すること)」という概念は固く拒絶されるべきです。ネ‐申は絶対の「唯一無二」の存在であり、同等な存在も、独立して存在する力や権能も他に一切ありません。あらゆるレベルで偶像崇拝を根絶することは、全人類がネ‐申を知ることに専念する未来への準備です。したがって、ブネイ・ノアハが唯一のネ‐申への信仰のみを固守することが不可欠なのです(この見解はランバム、『The Divine Code』、『Likutei Sichos』などの立場に従うものです)。心から偶像の記憶を消し去るとは、創造主のほかに独立した力など存在しないと明確に悟ることを意味します。これこそが世界を修復し、真の最終的な救済(贖い)の祝福をもたらす道なのです。

【出典】
Deuteronomy(申命記) 12:3
Rambam(マイモニデス), Laws of Idolatry chapter 1
The Divine Code by Rabbi Moshe Weiner, Part 2 Prohibition of Idolatry 1-2
Likutei Sichos, Vol. 9, p. 94
Sanhedrin 63b
Likutei Sichos, Vol. 27, p. 246
※『Likutei Sichos』第27巻246ページ参照:「全世界の関心事はただネ‐申を知ることのみとなり、これには当然世界のすべての国々が含まれる……『全世界』とはノアハイド(ブネイ・ノアハ)をも意味する。」

ラビ・モシェ・バーンスタインは以下の本の著者です:
Light Onto the Nation: A Guide to the Seven Noahide Laws
Light Onto the Torah Portions: Insights on the Torah Portions for Noahides 2 volumes.
Stories of Faith for Noahides: Inspiring Stories for Noahides from the Righteous of all Generations.
Questions and Answers for Noahides: Q&A about the Seven Noahide Laws

B”Hエケヴ:見落とされがちな戒めパラシャ『エケヴ(Ekev)』の冒頭で、トーラーはネ‐申の祝福を受ける条件として印象的な言葉を示しています。「エケヴ(かかと)」という言葉は、「人が自らのかかとで踏みにじってしまうような軽微な戒め」を暗示し...
02/08/2026

B”H

エケヴ:見落とされがちな戒め

パラシャ『エケヴ(Ekev)』の冒頭で、トーラーはネ‐申の祝福を受ける条件として印象的な言葉を示しています。「エケヴ(かかと)」という言葉は、「人が自らのかかとで踏みにじってしまうような軽微な戒め」を暗示しています。トーラーが警告しているのは、ネ‐申に公然と反逆したり戒めを拒絶したりする者ではありません。むしろ、「これは重要だが、これは取るに足らない」と勝手に順位をつけ、一部の義務を軽視してしまうという、誰もが知らず知らずに陥る思い込みに対する警告なのです。

ブネイ・ノアハにとって、この教えは特に重要です。「ノアの7つの戒律」は大まかなカテゴリーで説明されがちなため、日常の細かな行動を「大したことではない」と見過ごしてしまう危険があります。しかし、ネ‐申のご意思に対する真の誠意が試されるのは、まさにこれら一見些細に見える場面なのです。ノアの7つの戒律とその実践において、あらゆる命令は等しくネ‐申の完璧なご意思を反映しています。「大きなミツヴァと同様に、小さなミツヴァにも細心の注意を払いなさい。その報酬が何であるかを、あなたは知らないのだから」(Pirkei Avot 2:1)。

一例として「盗みの禁止」が挙げられます。多くの人はこれを強盗などの重大な犯罪と考えていますが、ブネイ・ノアハの戒律では、所有者の許可なく、ほんのわずかな物を取ることも本質的に盗みとみなされます。会計前に店内で果物を一口試食し、「これくらい問題ないだろう」と思い込む行為も他人の所有権を侵害しており、軽視されがちなこの戒律の本質に関わります。他人の財産に対する敬意は、どんなにわずかなものであっても保たれなければなりません。

もう一つの例は「公の場での侮辱」です。集まりやSNSで友人にあえて恥をかかせ、それをたわいもない冗談と捉える人がいます。しかし、人前で恥をかかせる行為は、顔から血の気が引く様が示す通り「血を流すこと」と同等とされます(Bava Metzia 58b)。これは法廷で罰せられる法的な禁止事項ではなくとも、人間としての重要な道徳的義務です。中傷や根拠のない噂の拡散も同様です。真に義なるブネイ・ノアハは、他者の名誉を傷つけ、不要な憎悪を生む言葉を徹底して避けるべきです。悪意ある噂話は人生やコミュニティを破壊します。否定的な情報は、確かな情報に基づき、真に建設的な目的を果たす場合にのみ、慎重に共有されるべきなのです。

これこそが、小さく見えるがゆえに踏みつけられがちな「かかとの戒め」の真意です。トーラーは、一見軽微に見える事柄に忠実であってこそ、人は創造主への真の畏敬を示すことができると教えています。真の「天への畏れ」とは、重大な罪を避けることだけではかられるのではありません。日常生活の最も細かいディテールにおいて、創造主のご意思を尊ぶことにあるのです。どんなに小さな善行も創造主の無限の智慧とご意思を反映していると悟るとき、わたしたちはネ‐申の祝福を受けるにふさわしい存在となります。

【出典】
Deuteronomy(申命記) 7:12
Rashi on Deuteronomy 7:12
Pirkei Avot 2:1
Babylonian Talmud(バビロニア・タルムード), Bava Metzia 58b

B”Hヴァエトハナン:神聖なる一体性の普遍的メッセージ今週のパラシャ「ヴァエトハナン(Va'etchanan)」で、モシェ(モーセ)は信仰の根底をなす宣言である「シェマ」を語ります。「聞け、イスラエルよ。ハシェムはわたしたちのネ‐申、ハシェ...
26/07/2026

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ヴァエトハナン:神聖なる一体性の普遍的メッセージ

今週のパラシャ「ヴァエトハナン(Va'etchanan)」で、モシェ(モーセ)は信仰の根底をなす宣言である「シェマ」を語ります。

「聞け、イスラエルよ。ハシェムはわたしたちのネ‐申、ハシェムは唯一である」(申命記6:4)。

シェマは、心と魂と力を尽くして創造主を愛することを求めています。では、この一節に全人類へ向けた普遍的なメッセージはあるのでしょうか。わたしたちは「創造」を過去の出来事、つまりネ‐申が世界を作り、あとは勝手に動くよう放置されたものと捉えがちです。しかし「Sha'ar HaYichud VeHa'Emunah(統一と信仰の門)」で解説されている通り、トーラーが示す神聖なる一体性はこの錯覚を打ち砕きます。創造とは絶え間なく続く動的なプロセスです。宇宙は独立して存在するのではなく、神聖なエネルギーが毎秒世界へ注ぎ込まれ、すべての物質を維持し更新しています。わたしたちの存在、次の呼吸、心臓の鼓動さえも、今この瞬間、全能者によって新たに創り出されているのです。

ブネイ・ノアハがこの真理を熟考するとき、深い感謝が生まれます。毎瞬間、新しい命の贈り物を受け取っていると気づくからです。この意識は人の内面を変革し、創造主への愛と畏敬の念を呼び覚まします。創造主への真の愛と畏敬は、深い学びと熟考から生まれます。学びと思索を通して、人はネ‐申の絶対的な偉大さと、人間の概念を超えた無限の唯一性を理解するようになります。創造主を命の源として認識することで愛が自然と育まれ、物理界と精神界の双方に満ちる無限の偉大さを思うとき、畏敬の念が立ち現れるのです。

ブネイ・ノアハには毎日シェマを唱える義務はありませんが、そこに示された真理は全人類のものです。愛と畏敬をもって行うネ‐申への奉仕は、より高次元で真の意図を伴うため、目指すべき姿と言えます。ブネイ・ノアハの基盤は「7つの戒律」を忠実に守ることですが、より高い精神性を目指す者は、創造主を知り、愛と畏敬の念を深める思索へと招かれています。そうする者は非常に高い段階に立ちます。しかし、その段階に達せずとも、信仰と献身をもって7つの戒律を守るだけで、義なるブネイ・ノアハとして「きたるべき世界(World to Come)」での分を得るのに十分なのです。

この真理は、毎日の始まりを変えます。創造主が毎瞬間自分の存在を更新してくださっていると意識して目覚めることは、一日に目的と喜びを与えます。わたしたちの命が絶え間ない贈り物であり、この世界をネ‐申のご臨在の住まいとする使命を胸に、生きることができますように。

【出典】
Deuteronomy(申命記) 6:4-9
The Divine Code part 1 chapter 6
Tanya(タニヤ)Sha'ar HaYichud VeHa'Emunah chapter 1-3
Rambam, Kings 8:11
Likkuti Sichos, Part 27, page 246『ノアハイド(ブネイ・ノアハ)は創造主を知ることに携わるべきである』

ラビ・モシェ・バーンスタイン(Rabbi Moshe Bernstein)は、以下の本の著者です。
『Light Onto the Nation: A Guide to the Seven Noahide Laws』
『Light Onto the Torah Portions: Insights on the Torah Portions for Noahides』(全2巻)
『Stories of Faith for Noahides: Inspiring Stories for Noahides from the Righteous of all Generations』
『Serving G-d with Joy: A Guide for Jews and Bnei Noah to Serving the Creator with Joy』

B”Hワイン(Yayin)の二面性:物質から聖性への昇華ユダヤの教えにおいて、ぶどうから作られるワイン(Yayin)は、単なる飲み物ではなく、「聖(コデシュ)」と「俗(ホル)」を区別し、人間を霊的に高めるための最も重要な器です。ユダヤの賢者...
21/07/2026

B”H

ワイン(Yayin)の二面性:物質から聖性への昇華

ユダヤの教えにおいて、ぶどうから作られるワイン(Yayin)は、単なる飲み物ではなく、「聖(コデシュ)」と「俗(ホル)」を区別し、人間を霊的に高めるための最も重要な器です。

ユダヤの賢者たちは『Tractate Berachot(祝福の書)』において、ワインのためだけに「ブドウの木の果実を創造される方」という独自の優先的な祝福を定めました。これは、ワインが人間の魂を引き上げる目的で意図されているからです。

一方で、ワインには人を酔わせ、理性を麻痺させる力があります。それはまるで、ナイフが野菜をカットして食事を整える有益な道具になる一方で、扱いを誤れば人を傷つける凶器にもなり得るのと同じです。だからこそユダヤ法(ハラハー)では、単なる泥酔を厳しく戒め、神聖な目的での使用と明確に区別することで、ワインの持つ「二面性」を慎重に扱っています。

この特別な飲み物には、大きく分けて3つの重要な役割と象徴性があります。
第一に「聖性と喜び」の象徴です。Tehillim(テヒリーム)に「ワインは人間の心を喜ばせる」(104:15)と記され、タルムードでも「肉とワインがなければ喜びはない」と語られる通り、すべての祝祭や喜びの行事には必ずワインが伴います。
第二に「聖と俗の区別」です。安息日(シャバット)や祝祭日の入りを告げる聖別の儀式「キドゥシュ」や、日常に戻る際の分離の儀式「ハブダラー」など、時間や空間を区切る場面では、常にワインの杯を手にして祝福が唱えられます。

第三に「秘密性」の象徴としての側面です。ヘブライ語でワインを意味する「Yayin」と、秘密を意味する「Sod」は、どちらも「70」という同じ数値(ゲマトリヤ)を持っています。タルムードには「ワインが入り、秘密が出る」という有名な慣用句があります。人がワインを飲んで酔うと、抑制が解かれ、しらふの時には明かさないような隠された秘密を漏らしやすくなるというものです。これは理性を失う危険性を示す言葉ですが、神秘主義の世界においては、ワインが人間の物質的なベールを剥がし、内なる深みや霊性を引き出す力を持つことへの暗示としても深く結びついています。

このように、ワインはユダヤの戒律(ミツボット)を遂行する上で不可欠な道具です。キドゥシュやハブダラーをはじめ、割礼の儀式(ブリット・ミラー)、婚礼の儀式(キドゥシン)、そしてペサハの特別な食事(セデル)で回される4杯の杯に至るまで、あらゆる神聖な場面で私たちの魂を喜ばせ、聖なる領域へと導いているのです。

B”H​デヴァリーム:70の言語で伝えられたトーラー​デヴァリームの章(Parashat Devarim)において、わたしたちは歴史の決定的な瞬間に遭遇します。それは、全世界に対するトーラーの解説と翻訳です。イスラエルの地に入る前夜、モシェ...
19/07/2026

B”H

​デヴァリーム:70の言語で伝えられたトーラー

​デヴァリームの章(Parashat Devarim)において、わたしたちは歴史の決定的な瞬間に遭遇します。それは、全世界に対するトーラーの解説と翻訳です。イスラエルの地に入る前夜、モシェ(モーセ)は70の言語でトーラーを解説しました。さらに彼は、ヨルダン川を渡ってイスラエルの地に立った直後、70の言語でトーラーを巨大な石に刻むよう民に命じました(Sotah 32a)。賢者たちは、これが世界の諸国民が成文トーラーにアクセスできるようにするためであり、「学ぶ機会を与えられたことがない」と主張する口実をなくすためになされたと解説しています(Sotah 35b)。

​しかしその一方で、非常に否定的な出来事として受け止められている、もう一つの翻訳の歴史があります。ヘレニズム期エジプトの王プトレマイオスは、イスラエルの長老たちにトーラーをギリシャ語に翻訳することを強制しました。その日に関して、賢者たちは「その日は金の子牛が作られた日と同じくらい悪かった」と言い残しています。

ここで一つの疑問が生じます。なぜモシェによる70の言語でのトーラーの解説は、世界の諸国民の利益となる神聖で祝福された行為とみなされたのに対し、プトレマイオス王のためのギリシャ語への翻訳は否定的に捉えられたのでしょうか。​聖なるかな、祝福されるべき方が、ご自身の命令によって何かを行うようモシェを任命するとき、それは純粋にネ‐申の御心にのみ仕えるものとなります。したがって、そこから悪い結果が生じることはありません。しかし、プトレマイオス王がトーラーを翻訳させたとき、彼は誤解への扉を開き、外部の世界に対してトーラーを不適切に歪めてしまうリスクを生じさせたのです(Likkutei Sichos, Vol. 24, Parashat Devarim, Sicha 1)。

​これがモシェとプトレマイオスの本質的な違いです。モシェが70の言語でトーラーを解説したとき、彼はネ‐申の命令と預言によってそれを行いました。トーラーの神聖さがそれらの言葉に伴っており、その解説自体が、成文トーラーの純粋な教えをいささかも歪めることなく全人類を照らす、ネ‐申によって守られた聖なる通り道となったのです。対照的に、プトレマイオス王による翻訳は、トーラーを自身の王立図書館に組み込もうとしたヘレニズム君主の政治的・文化的な野心に端を発していたのです。
ここから、すべてのノアハイドに対する本質的なメッセージが浮かび上がります。マイモニデスは、ノアハイドが「世界の諸国民の敬虔な者」という高き称号に値するのは、ノアハイドの7つの戒律を受け入れ、遵守する場合のみであると教えています。それも、単なる道徳心からではなく、「聖なるかな、祝福されるべき方がトーラーにおいてそれらを命じ、わたしたちの師モシェを通じてシナイ山で全人類に義務付けられたからだ」という理由に基づく必要があるのです(Mishneh Torah, Hilchot Melachim 8:11)。

​ノアハイドが、シナイ山で授かった7つの戒律を忠実に守り、純粋なトーラーの教えに喜びをもって結びつくとき、ネ‐申の創造の目的を共に果たすパートナーとなります。そして、次の預言が成就するよう世界を導く助けとなるのです。
「そのとき、わたしは諸国の民の唇を清い言語に変え、彼らがみなハシェムの御名を呼び、心を一つにして彼に仕えるようにする」(ゼパニヤ書 3:9)

​【出典】
Deuteronomy(申命記) 1:5
Babylonian Talmud(バビロニア・タルムード), Sotah 35a-36a
Maimonides(マイモニデス), Mishneh Torah, Hilchot Avodah Zarah ch. 1
Maimonides, Mishneh Torah, Hilchot Melachim 8:11
Masechet Soferim 1:7-8
Likkutei Sichos, Vol. 24, Parashat Devarim, Sicha 1
Zephaniah(ゼパニヤ書) 3:9
Sotah 32a

​ラビ・モシェ・バーンスタイン(Rabbi Moshe Bernstein)は、以下の本の著者です。
『Light Onto the Nation: A Guide to the Seven Noahide Laws』
『Light Onto the Torah Portions: Insights on the Torah Portions for Noahides』(全2巻)
『Stories of Faith for Noahides: Inspiring Stories for Noahides from the Righteous of all Generations』
『Serving G-d with Joy: A Guide for Jews and Bnei Noah to Serving the Creator with Joy』

B”Hザクロは、「人は内面が空っぽに見えても、同時にミツヴァ(善行)で満ちあふれることができる」という逆説を教えてくれるシンボルです。ザクロは、中が小さな部屋のように細かく分かれている果物です。何百という種の一つ一つが果肉の袋に包まれており...
14/07/2026

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ザクロは、「人は内面が空っぽに見えても、同時にミツヴァ(善行)で満ちあふれることができる」という逆説を教えてくれるシンボルです。
ザクロは、中が小さな部屋のように細かく分かれている果物です。何百という種の一つ一つが果肉の袋に包まれており、硬い膜によってそれぞれが独立して隔てられています。人間もこれと同じです。どれほど多くの善い行いをしていても、それらが一つ一つの独立したアクションにとどまり、その人の人格や内面にまで深く染み込んでいないことがあります。芯から皮まで丸ごと美味しいリンゴとは違って、ザクロタイプの人は、たくさんの美徳を持ちながらも、それがまだ自分の血肉になっておらず、霊的にはどこか空っぽな状態にあるのです。

タルムードには、まさにこの状態を表す次のような有名な言葉があります。
אפילו ריקים שבך מלאים מצוות כרימון
(たとえあなたの中の空っぽな者たちであっても、ザクロのようにミツヴァで満ちている)

トーラーの知識に触れる機会がなく、一見すると空っぽに見える人であっても、その内面はザクロの種のように、たくさんのミツヴァ(善行)で満ちています。すべての人が善意にあふれており、人が行う日常のささやかな行動一つ一つに、大きな意味と必要性があるのです。この世界に、不要な人間など一人もいません。

B”Hマトット:自らを制する力マトットの章(Parashat Matot)は、誓願の律法から始まります。「人がハシェムに誓願を立てるか、あるいは自らを誓約で縛るために誓いを立てるならば、その言葉を破ってはならない。すべてその口から出たことに...
12/07/2026

B”H

マトット:自らを制する力

マトットの章(Parashat Matot)は、誓願の律法から始まります。

「人がハシェムに誓願を立てるか、あるいは自らを誓約で縛るために誓いを立てるならば、その言葉を破ってはならない。すべてその口から出たことに従って行わなければならない」

誓願の本質的な役割は、本来なら許されている何かを享受することを、あえて自らに禁止することにあります。
ここで一つの疑問が生じます。なぜ人は、トーラーが許可しているものをわざわざ自らに禁じ、誓願によって自分を制限するのでしょうか。人が悪しき衝動に支配され、自分の欲求をコントロールする力を欠いているとき、誓願は霊的な盾となります。誓願を立てることで、自分が奴隷のようになってしまっている物質的な対象そのものを、強制的に禁止するのです。
未だ洗練されていない状態では、その物質に宿る創造の火花を上昇させることができないばかりか、物質そのものによって霊的に引きずり下ろされてしまいます。したがって、誓願は違反を防ぐための重要な防御策として機能します。
物質的な快楽によって禁止された行為へと導かれることを恐れる人のために、わたしたちの賢者たちは「誓願は節制のための垣根である」と教えました。これは、過度な欲求から一時的に身を引くべきであることを意味しています。
それにもかかわらず、誓願に頼るよりも、自己管理そのものを体得することのほうが本来は好ましいのです。

ノアの子らにとって、「その言葉を破ってはならない」という指示は極めて重要な意味を持ちます。これは冒涜の禁止から派生するものであり、冒涜のリスクや「7つの律法」に新しく付け加えるリスクを避けるため、ネ‐申の御名によって誓願を立てることは厳しく制限されています。さらに、ノアハイドがみだりに誓願を口にすることは、基本的な常識としても禁止されています(ラビ・ヨナタン・シュタイフ著『Mitzvot Hashem』187・55ページ)。

怒りや軽率さ、あるいは適切な意図なしになされた誓願は、ノアハイドの法廷によって無効にすることができ(時には無効にしなければならず)、法廷が近くにない場合は、友人に頼んでその誓願を解いてもらうことも認められています。ソロモン王は「誓願を立てて果たさないよりは、一向に誓願を立てない方が良い」と言い残しています(コヘレットの言葉 5:4-5)。

時には、まだ低い精神的基準に位置する人が、自らの衝動を抑え、世俗的な欲求に沈み込むのを防ぐために誓願を必要とすることがあります。多くの場合、トーラーの律法が定める標準的な禁止事項だけで十分ですが、特定の個人には誓願のような追加の安全策が必要となるのです。しかし、人がネ‐申への奉仕においてより高いレベルへと上昇し、神聖さの光がその魂を照らすにつれて、物質世界との関係が変化します。彼らは物質性を浄化し、それを神聖さへと高めることができるようになるのです。この進んだ段階では、世俗の事柄から自らを切り離す必要はありません。それどころか、世界を洗練させ神聖なものにするために、世界のただ中で行動しなければならないのです。

誓願は決してゴールではありません。それは、霊的な旅の途上にある、脆く傷つきやすい段階の人々を守るための、単なる垣根にすぎないのです。真のゴールは、そのような垣根がもはや必要のない精神的な頂点へと登りつめることです。それは、肉体的な欲求が一切の支配力を持たず、物質世界とのあらゆる関わりがただ天のためにのみ行われる、ネ‐申への完全な献身の境地です。過度な物質的欲求を超越する最善の方法は、ネ‐申の一体性に対する深い意識の目覚めの中にあります。
神聖な臨在と無限の力が、霊的な領域と物質的な領域の両方を満たしているという深い認識を育むことによって、世界に対する見方が変革されます。魂は、物質の中にある生命力こそが、隠されたネ‐申の火花にほかならないと認識するのです。

【出典】
民数記 30:3
『民数記 30:3』に対するラシの解説
『Likutei Sichos』第13巻 107ページ
ラビ・ヨナタン・シュタイフ著『Sefer Mitzvot Hashem』187・55ページ
ラビ・モシェ・ヴィーナー著『Sheva Mitzvot Hashem』232ページ(ヘブライ語版)
コヘレットの言葉 5:4-5
ラビ・モシェ・バーンスタイン(Rabbi Moshe Bernstein)は、以下の本の著者です。
『Light Onto the Nation: A Guide to the Seven Noahide Laws』
『Light Onto the Torah Portions: Insights on the Torah Portions for Noahides』(全2巻)
『Stories of Faith for Noahides: Inspiring Stories for Noahides from the Righteous of all Generations』
『Serving G-d with Joy: A Guide for Jews and Bnei Noah to Serving the Creator with Joy』

B”Hピンハス:良い思いの力今週のトーラーの箇所でレビ族の家系が数え上げられる際、驚くべきことに「コラハの家族」の名が登場します。ここで一つの疑問が生じます。一体なぜ、そのようなことが可能なのでしょうか。そもそもこの家系の長であるコラハは、...
05/07/2026

B”H

ピンハス:良い思いの力

今週のトーラーの箇所でレビ族の家系が数え上げられる際、驚くべきことに「コラハの家族」の名が登場します。ここで一つの疑問が生じます。一体なぜ、そのようなことが可能なのでしょうか。そもそもこの家系の長であるコラハは、わたしたちの師モシェに対する反乱の先頭に立っていました。その結果、コラハの全家系は処罰され、会衆から失われたはずです。それにもかかわらず、なぜ彼らはまるで失われずに存在し続けていたかのように、再び数えられているのでしょうか。

トーラーはその箇所の中で、「そしてコラハの息子たちは死ななかった」という答えを示しています。コラハの息子たちは最初こそ悪しき企みの仲間でしたが、紛争の最中の決定的な瞬間に、彼らの心の中で変化が起こりました。彼らは自分たちが罪にしがみついていることに気づき、心の中で悔い改めることを決意したのです。人の目には触れず、ただハシェムのみが知っていたその悔い改めの思考こそが彼らを救いました。彼は安全な場所へと引き上げられ、のちに預言者サムエルやエルサレム聖殿の守りを担うレビ人たちの先祖となったのです。これは悔い改めという内なる決断が持つ、並外れた力の例です。その思考は、最も深い場所から輝かしい未来へと、現実を根本から変える力を持っています。

ここから、わたしたちは悔い改めの力について学びます。それは単なる罪の許しにとどまらず、新しい現実を創造する力です。それはネ‐申の前におけるその人の霊的な立場を変え、最も深い深淵からその人を救い出し、計り知れない高みへと引き上げます。わたしたちの師モシェの指導権に挑むというほどの重大な過ちを犯した者でさえ、心の中の善き思考によって、一方の極端からもう一方の極端へと変わることができるのです。

ノアハイドもまた、ネ‐申へと立ち返る責任を負っています。悔い改めは、宇宙の創造主とつながることを求めるすべての人に属するものです。ノアの子が7つの戒律を改めて自らの責任として受け入れ、ハシェムの意志とつながることを心の中で決意するとき、彼は自身の内部で内的な「転換」を行っています。これは深い内的な変容を意味します。すなわち、霊的に遠ざかっていた者が、創造主と再びつながるのです。創造主に意識を戻すことは、瞬時に、決して折れない霊的な回復力をもたらします。それは深い苦悩の底からわたしたちを引き揚げ、遥かに高い境地へと立たせてくれるのです。

ここから、わたしたちは現代におけるノアの子らの義務と特権について学びます。嵐のまさに中心にいたコラハの息子たちが思考の力だけで変わることができ、祝福の源となることができたのであれば、道が開かれているわたしたちの世代においてはなおさらのことです。ユダヤ人もノアハイドも同様に、すべての人が心を呼び覚まし創造主へと立ち返り、喜びをもって世界における自らの目的を果たすことができるのです。

【出典】
『Likutei Sichos』第33巻 170ページ
タルムード・サンヘドリン篇 110a
『Midrash on Tehillim』第1章
『Likutei Sichos』第33巻 ピンハス(Pinchas)
ラビ・モシェ・バーンスタイン(Rabbi Moshe Bernstein)は、以下の本の著者です。
『Light Onto the Nation: A Guide to the Seven Noahide Laws』
『Light Onto the Torah Portions: Insights on the Torah Portions for Noahides』(全2巻)
『Stories of Faith for Noahides: Inspiring Stories for Noahides from the Righteous of all Generations』
『Serving G-d with Joy: A Guide for Jews and Bnei Noah to Serving the Creator with Joy』

30/06/2026

B‘‘H

ハバット京都は、この7月25日、ついに10周年の節目を迎えます。わたしたちが歩んできた道は決して平坦なものではありませんでした。晴れやかな喜びのときも、幾多の困難や試練の際にも、皆さまが常に寄り添い、支え続けてくださったからこそ、今日という日を迎えることができたのです。お一人おひとりの温かいお心と尊い情熱に、言葉を尽くしても足りないほどの深い感謝の念でいっぱいです。

10年前にハバット京都が産声をあげた、あの始まりの時。トーラーの週替わりの朗読範囲(パラシャ)は、「Ekev(エケヴ)」でした。そこには、「これらの法に耳を傾け、守り、実行する結果(エケヴ)となるならば……」(申命記7章12節)という未来の約束が記されています。

「エケヴ」という言葉、文面では「結果として」と訳されますが、そこには驚くべき二重性があります。ヘブライ語でエケヴとは「かかと」のことなのです。

地面に直接触れ、時に泥にまみれる「かかと」。なぜトーラーは、従順さと大いなる報酬を語る重要な箇所に、あえてこの言葉を選んだのでしょうか。
頭(知性)から遠く離れた「かかと」は、理屈や言葉ではなく、「具体的な一歩」であり「日々の行動」そのものなのです。

ユダヤの賢人は、「人がかかとで踏みつけてしまうような、日々の些細で見過ごしがちな小さな戒めや善行こそ大切にせよ」と説きました。わたしたちは、大それた理想や高尚な思想に目を奪われがちですが、本当に世界を動かす神聖さは、足元にある日常の最も小さな選択の中にこそ宿るのです。

そして、「地に足のついた具体的な行動」こそが、わたしたちが実践すべき最高の行為である「ツェダカ(Tzedakah)」に他なりません。ツェダカとは、日々汗水流して手にする、最も現実的で身近なお金(=かかとの領域)を、聖なる目的のために手放すダイナミックな行為です。

この現実の世界でツェダカを行うとき、単なるお金の移動を超えて、人々の心と社会に思いもよらない温かい希望の光をもたらします。一人ひとりの小さな分かち合いの積み重ねが、足元から世界を明るく照らし、より良い未来へと変えていく確かな原動力となるのです。

約250年前、東欧の地にてハバット運動を始めたアルター・レベは、光と闇の物理法則をこのように語ったといわれています。

「闇を棒で叩いて追い出す必要はない。光を少し点ければ、闇は自動的に消える」

わたしたちはこれからも、この地に、そして皆さまの心の中に、聖なる光を灯し続けることを誓います。そして、この世界を真の平和と光で満ちあふれた場所にするために、さらなる光をともに拡大していくためのツェダカへのご協力を心よりお願いいたします。

結びに、ユダヤの美しい伝統を一つ共有させてください。
ヘブライ語の22文字にはそれぞれ固有の数字があり、「18」という数字は「ハイ(חַי)」、すなわち「命」を意味します。

わたしたちは、「命」の光がますます力強く輝くことを願い、18および18の倍数(18,000円、54,000円、180,000円など)でのツェダカをお願いしております。皆さまから寄せられる尊いお志が、この地を、そして未来を照らす永遠の命の光となりますように。

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ハバット京都の活動を維持し、次の一歩を踏み出すため、皆さまのライフスタイルやお気持ちに合わせた様々な形でのサポートをお願いしております。この尊いお志の輪をさらに広げるため、ご賛同いただけるご家族やご友人、お仕事関係の皆さまにも、ぜひお声がけをいただけますと幸いに存じます。

例えば、活動の大きな柱となってコミュニティを力強く牽引してくださる180,000円の特別なツェダカ、あるいは、日々の暮らしに根ざした確かな一歩となる月々18,000円のツェダカなど、皆さまのお志に最もふさわしい形をお選びいただけます。わたしたちは現在、ハバット京都の未来を共に築くために、この「お一人さま、一ヶ月あたり18,000円」の尊い歩みを分かち合ってくださる方をひとつの目標として募っております。
一ヶ月あたり18,000円のツェダカ(または皆さまが決められたお志)をご検討いただける場合は、恐れ入りますが下記の口座へお振込みいただけますと幸いです。
また、ツェダカの具体的な方法や、どのように行動を始めればよいかなど、どのようなご質問でも喜んでお答えいたします。何か気になることやご不明な点がございましたら、どうぞお気軽に[email protected]までメールにてご連絡ください。

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