サレプタ・ミニストリー

サレプタ・ミニストリー イエス・キリストを伝えるミニストリー あらゆるメディアを通して、主イエス・キリストの福音メッセージを宣べ伝えます。
主宰:清野隆二

03/06/2026

6月4日 №472

「二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。」      

創世記43章12節

 ヤコブは家族の危機を救うために、特産品の他に二倍の銀と袋の中に返された銀も持たせ、息子たちをエジプトに送り出そうとしています。かつて叔父ラバンを騙していた彼とは違い、真実で誠実な人になっています。

 しかし、物損や他者への非礼ならば、贈り物や誠実さも有効ですが、このような危機には人間的方法は通じません。彼らの責務は、神に対する「罪」ですから、「義人のいのち」を代価とする「贖い」の方法しかありません。

 ヤコブは、銀や物や誠実さに頼っていますが、神の約束の言葉、「一つの国民、諸国の民の集いが、あなたから出て…」(35章10~12節)や、かつてヨセフが夢を見た時、「父はこのことを心に留めていた」(37章11節)を忘れています。

 友よ。私たちの信仰の根拠は、自分の誠実さや真実や物にはありません。それは、神御自身と、その御言葉にあります。ヘブル書11章で二十回も繰り返される、「信仰によって…」の言葉の横に、「神の真実によって…」と添え書きしてください(注・原語で「真実」と「信仰」は同義語)。そして、「神の真実によって、ヤコブは…」と読んでいくと信仰がよくわかります。

02/06/2026

6月3日 №471

「この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。」

創世記43章11節

 ヤコブの贈り物に、相手のご機嫌を取り、自分の願いを果たそうとする心が見えます。同じく、ささげものによって神に自分の願いをかなえてもらおうとする、私たちの信仰の姿勢を見ているようでもあります。

 しかし、世界の富を集めるエジプトでは、カナンから持っていく高価な物も、ありふれた物にすぎません。ヨセフの関心は、物ではなく「心」、行いではなく「信仰」、ささげることではなく「受け取る謙虚さ」です。

 「主は主の御声に聞き従うことほどに、…いけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサム15章22節)。

 ヨセフ(イエス)の願いは、彼ら(人間)からお土産をいただくことではありません。むしろ、彼ら全員が自分の元に来て、自分が与える祝福(食糧と守り・兄弟同士の和解)を受け取ってもらうことです。

 友よ。神が私たちに望んでいることは、神に自分をささげることでなく、神から自分(神の意思によって創られた、世界でたった一つの神の作品)を受け取ることです。

01/06/2026

6月2日 №470

「もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」
 
創世記43章10節

 もし私がもっと早く、「悔い改めていたら・あの人に福音を伝えていたら・主に熱心になっていたら!」と考えるものです。そうすれば、今の二倍も三倍も豊かな実を結んだのにと思いますが、はたしてどうでしょうか?

 主は、「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と…。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受けて、永遠のいのちに入れられる実を集めています」(ヨハネ4章)と言われました。

 もう一方では、神に触れられてから、誰の目にも神の人とわかるのに、ヨセフやダビデは十三年、モーセは四十年かかりました。信仰上のことは、すぐ結果が見えないものがあり、それをよいことに「御心のままに」と怠惰に過ごすこともできます。しかし、「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4章17節)ともあります。

 友よ。過去のことにとらわれず、信仰は、「今日、御声を聞いたことが『始まり』」です(ヘブル3章7~8節)。

31/05/2026

6月1日 №469

「あの子を私と一緒にやらせてください。…そうすれば、あなたも私たちも…生きながらえて死なないでしょう。」

創世記43章8節

ここでユダが進み出て父に進言し、父の心が傾き始めます。その前に、長兄ルベンがユダ以上に固い決意で進言したことがありましたが、長兄の言うことは聞き入れませんでした。二人の違いはなんでしょうか。

 ルベンはかつて、父のそばめと寝て(35章22節)、父の寝床を汚したことがありました。これは父が子から受ける最大の侮辱でした。

 一方のユダは、ヨセフ事件のことで父の側にいるのがつらくなり、異邦人の所に出て行き、多くの苦難を味わって、再び帰ってきた人でした(38章参照)。ルベンは自分で悔いてはいますが、ユダは神によって罪を暴かれ、神の前に悔い改めをした人でした。

 見える世界は、見えない霊の世界から動き始めます(ヘブル11章3節参照)。見えない霊の世界の支配者は神です。ですから、霊の世界で通じるのは、神に取り扱われて「霊の人」となった者の祈りとことばです。

 友よ。「霊の人」とは、神の前で悔い改めた人です。ユダは神に悔い改め、霊の世界で通じることばをもっていたので、父(神)を説得できました。

30/05/2026

5月31日   №468

「『父はまだ生きているか。…弟がいるのか』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。」
          
創世記43章7節

 ヤコブは、「お前たちはエジプトで弟がいるとなぜ言ったのか」と兄たちを詰問します。兄たちは、相手の質問に答えただけで自分からは何も言っていない、こんな事態になるなど予想もできなかったと弁明します。

 物事が予想外の方向に進むことがよくあります。それを不可抗力的な運命としてあきらめる人もいますが、もう一つの道があります。それは、「…雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10章29節)とある神の主権を、すべての物事の中に認めることです。自分で物事の道理を決めず、「私は道である」と言われる主イエスに示していただく方法です。
 
 神の子の主への問いは、「WHAT(なに・どうして)でなく、HOW(どのようにしましょうか)だ」とある人が言いました。それは、自分で決めず、主に聴くことを教えます。ヨセフの「弟は…」の質問に兄たちは恐れましたが、その本意は愛が一杯詰まったものでした。

 友よ。自分で判断すると恐れになり、神の判断を受け入れると希望と勇気が出てきます。

29/05/2026

5月30日 №467

「弟を私たちといっしょに行かせてくださるなら、私たちは、…食糧を買ってきましょう。」

創世記43章4節

食料を買いにエジプトに行かなければ飢え死に、それには末の弟を連れて行くのが条件、弟ベニヤミンを連れ出せばシメオンの二の舞、しかしそれだけが食糧の確保と捕らわれのシメオンを救う道…。問題は大きくなるばかりです。しかし、この家族の最大の問題は、愛が冷えていることです。

 家族が真の家族になるための必要は、誕生祝いや旅行、ケンカするほど真剣に向き合う…などでしょうか。しかし、それら全てを行ってもなお不十分です。人と人の本当のつながりは、「罪」と「神」を知ることによってできます。罪を知るとは、自分も人(親・夫・妻・子)も自己中心であること。神を知るとは、自分も人(親・夫・妻…)も赦されて生きる者であることです。

 自分の「罪」と「神」を知ると、他者(…妻・夫・子…)との間に「神」を入れます。それは、相手以上に神を信頼することです。

 家族愛の飢饉にある友よ。恐れずにヨセフ(イエス)の所に行ってください。彼はあなたが「愛という食料」の買い出しに来るのを待っています。主イエスには、ヤコブ家(あなたの家族)を回復させる知恵と力があります。

28/05/2026

5月29日 №466

さて、その地でのききんは、ひどかった。彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき…、
 
創世記43章1~2節

 飢饉に関する話がルツ記にもあります。ベツレヘムのエリメレク家が飢饉を逃れるためモアブへ行き、そこで夫と二人の息子を失い、妻ナオミは息子の嫁ルツと共に自国に帰りました。戻ったルツは親戚のボアズの親切を受け、やがて嫁ルツはボアズと結婚します。

 この家族が夫と二人の息子を失ったのは、モアブ(この世)に出て行ったからです。モアブに出て行ったのは、ベツレヘムにいた裕福な親戚ボアズに救いを求めず、自分の力で生きようとしたからでした。

 「親戚(贖い人の意)」の「ボアズ(力にて)」こそ、主イエスの予表でした。人にとって、穀物の飢饉以上に「霊的飢饉」はさらに深刻です。それは、ボアズという裕福な親戚を信頼して求めず、この世で自分の力で生きる人が直面する飢饉です。

 友よ。「エジプト(この世)から持ってきた穀物」はすぐに食べ尽くされます。私たちの本当の食物は、「わたしは天から下って来た生けるパン…、わたしを食べる者も、わたしによって生きる」(ヨハ6章50~57節)と言われる、ボアズなる主イエスのもとにあります。

27/05/2026

5月28日 №465

ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。」

創世記42章37節

シメオンを解放せねば!食料が尽きるのも時間の問題!そのためにはベニヤミンを連れて行かねば!と兄たちも焦っています。

 たしかに急を要することですが、しかし自分の子の命を賭けたルベンの提案は、親が言う言葉ではないはずです。ここまで言わせる背景には、互いを信用できなくなったヤコブ家の親子関係がありました。

 神は、子に対しては「…両親に従いなさい」、親に対しては「子どもをおこらせてはいけません」(エペソ6章1~4節)と命じていますが、一番近い夫婦や親子関係が最も難しくなるのは、家族が自分の幸福に一番大きく影響を与えるので、他人に対してよりも自我が出るからです。

 友よ。イエスこそ、「父よ。私が彼らをあなたの元に連れ帰らなかったら、私を身代りに」を実行されたお方です。ルベンは「私の子を」と言いましたが、主は「わたしを」(同・2章14節)と言いました。主は、「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣根を取り除き」ました。主イエスが、父なる神と私たちを和解させ、一つとしてくださったのです。

【YouTube 更新情報】☝︎ 文字起しをして字幕を付けましたCheck …https://youtu.be/f4cf24dq6MI【文字起し字幕付き】<サレプタ聖書メッセージシリーズ>ヨハネ福音書 2024 No.50 「愛の裁き主イエ...
27/05/2026

【YouTube 更新情報】

☝︎ 文字起しをして字幕を付けました
Check …
https://youtu.be/f4cf24dq6MI

【文字起し字幕付き】
<サレプタ聖書メッセージシリーズ>

ヨハネ福音書 2024 No.50
「愛の裁き主イエス」
18章 :19~24, 28〜38節

in 2026/05/24 SUN.
at キリスト教 東京鵜の木教会
Messaged by 清野隆二

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26/05/2026

5月27日 №464

父ヤコブは彼らに言った。…「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

創世記42章36節

 自分と家族に次々に起る困難に、心底疲れたヤコブのため息が聞こえます。神に捉えられイスラエルになる前であれば、家族を責め、自分を正当化し、疲れることなく頑張ったでしょう。しかし、今はもうできません。

 私たちが抱く失望には、神を「信じているのに・祈っているのに・礼拝に出ているのに・奉仕をしているのに」など、信仰ゆえに出てくるものがあります。これらは、自分の思い通り事が運ばないことへの落胆です。

 それでは信仰とは何でしょうか。「信仰は望んでいる事がらを保証し…」(ヘブル11章1節)の御言葉の理解が重要です。大切なことは、「だれが」望んでいる事がらが保障されるのか、です。
それは、「私が望むこと」でなく、「神が私に望むこと」を信じるのが信仰です。ヤコブの身に降りかかかる出来事は、「彼の望み」でなく、「神が彼に望んでおられる」ことでした。

 奈落の底にいると思っている友よ。そこに神を認めるならば、そこは解放と癒しの跳躍台です。落ち込みが深いほど、バネ(解放の力)は強く踏まれていて、より高く神の御許へ上がる恵みになります。

住所

鵜の木3-12-2 キリスト教東京鵜の木教会 内
Ota-ku, Tokyo
146-0091

電話番号

+818066837795

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