最圓寺 最圓寺, 宗教団体, 原田町小原2058, Onomichi-shiの連絡先情報、マップ、方向、お問い合わせフォーム、営業時間、サービス、評価、写真、動画、お知らせ。

浄土真宗本願寺派華野山最圓寺
古くは真言宗の寺院で詳細は不明。
中国地方に初めて浄土真宗をもたらしたのは明光上人長寛元年(一一六三)~文和二年(一三五三)とその一門である。上人は十五歳にして比叡に天台を学び、従兄弟である将軍頼朝の請けにより鎌倉に最寶寺を建立するが、親鸞に帰依して、法流を真宗に改める。間もなく師命を受け、弟子と共に備後山南に赴き元応二(一三二〇)年金明山光照寺を開基する。
明光上人の備後下向に従った鎌倉武家がいたという系図記録がある。その相州三浦氏は桓武平氏の流れを汲み、鎌倉幕府の有力御家人となり、六代三浦駿河守義村の時は下総武蔵相模三カ国の太守であった。しかしその惣領泰村の時、執権北条時頼によって挑発されて挙兵し、開幕以来の北条対抗勢力三浦一族は滅ぼされ勢力を失う。これを宝治合戦・宝治元年(一二四七)という。なお、八代景村の女子が小原村中山城主三浦相模守義形に嫁すと伝える

。※光照寺縁起本より
歴應元(一三三八)年正月十六日、中山城三代目城主・三浦相模守智満入道淨存は長男義福(後に忠福と改名)に城主を譲り、山南村金明山光照寺に上山し、存覺上人の弟子と成り剃髪して出家。花埜山満月院最勝圓寺を開基し、浄土真宗に改宗した。
この開基の資金は智満・忠福親子の度々の軍功により、足利尊氏公より八千両の金資を賜ったと伝わる。
歴應四(一三四一)年には先祖の三〇〇回忌法要を修行し、一切経を求めたと伝わる。
永正四(一五〇七)年中山城は、鷲尾山城主木梨元清に攻められ、城主三浦賀親は敗れて九月九日城を焼き自刃して果てた。以来里人は「栗の節句」を祝わず、永く城主の悲運を弔ったと云う。
元禄十二(一六九九)年現在地に移し、寺名も「華野山最圓寺」とした。※最圓寺伝記より
本堂前には、尾道市原田町出身の彫刻家・矢形勇氏寄進の慈母観音像、寺内には同氏寄進の聖徳太子像がある。

住所

原田町小原2058
Onomichi-shi, Hiroshima
722-0201

電話番号

+81848380626

ウェブサイト

アラート

最圓寺がニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

ショートカット

共有する

カテゴリー