恵泉キリスト教会 小美玉チャペル(Omitama Chapel, Keisen Christ Church)

恵泉キリスト教会  小美玉チャペル(Omitama Chapel,  Keisen Christ Church) 池の傍に位置している、四季折々の変化が楽しめる土地です。
2014年3月21日に新しい教会堂が献堂されました。
どなたでも気軽に入れる教会を目指しています。

2014年3月。被災したプレハブの建物から、バリアフリーの建物に建て替えられました。
床はもちろんバリアフリー。言葉も、英語はカナダ、アメリカの人がいるので大丈夫です。
車椅子で入れるトイレや大きなお風呂もあります。

今夜は、五月二度目の満月・フラワームーンです。一ト月に二度満月があるのは珍しいですね。きれいな満月を見たいものです。さて、5月31日の週報コラムです。タイトル ; 『聖霊の力によって』聖書箇所 ; 使徒 2:14~21 今朝は、一週遅れです...
31/05/2026

今夜は、五月二度目の満月・フラワームーンです。一ト月に二度満月があるのは珍しいですね。きれいな満月を見たいものです。
さて、5月31日の週報コラムです。

タイトル ; 『聖霊の力によって』
聖書箇所 ; 使徒 2:14~21

 今朝は、一週遅れですが、ペンテコステについて考えたいと思います。
 ペンテコステはギリシア語で、第50番目を意味します。ユダヤ人が大切にする過越祭から七週目のお祭りの日で、教会ではイースターから50日目の日です。この日、イエス様が召天する以前に弟子たちに予告していたとおり、一軒の家に集まっていた12使徒や弟子たち、イエスの家族など120人に聖霊が降りました。この人々は、イエス様の予告に忠実に従って、『その時』を待っていたのです。そして聖霊を受けました。
 聖霊が降ったとき、弟子たちは口にしたことも無い外国のことばで、一斉に神さまの素晴らしさを語り出しました。周囲にいた、祭りのために国外から一時帰国していた人々も驚きました。数千人はいたと思われるその人々に向って、ペテロは大声でイエス様の十字架と死、復活を語ったのです。
 ペテロと言えば、イエス様を死刑に定めた裁判の時は群衆に隠れていて、人々に見つかったときは恐れて、「私は知らない❗」と抗弁した者でした。しかし、聖霊を受けた彼は恐れること無く、多くの人々の前で声を張り上げてイエス様を証ししたのです。正に、聖霊が臨んで力を受けた姿でした。
 このできごとは、今から二千年ほど前のことです。一方、現代の私たちも、イエス様を信じて受け入れました。こんな私たちも、同じように聖霊を受けると聖書は伝えています。
 しかし、イエス様を信じて聖霊を受けても、同じように聖霊の力を現わすことができるのではありません。聖霊の力を現わすには、聖霊に満たされていないといけないのです。
 聖霊は聖いお方なので、聖い者、聖くあろうとする者には働きかけて力を現わされます。しかし、私たちは自分で自分を聖く保つことはできません。罪を犯しやすい存在だからです。ですから、いつでも自分を神さまに明け渡し、罪に気付いたらその都度悔い改めていかなければなりません。
 聖霊の力を受けて現わすには、神さまのみことばに従順に従うことと、日々悔い改めて自分と自分の信仰を聖く保つことが必須なのです。

今日は、キリスト教ではペンテコステの日という大切な記念日です。言い換えれば、教会の誕生日と言っても良いでしょう。来週は、この事を取り上げます。さて、5月24日の週報コラムです。タイトル ; 『神に従う生き方』聖書箇所 ; 創世記 11:27...
23/05/2026

今日は、キリスト教ではペンテコステの日という大切な記念日です。言い換えれば、教会の誕生日と言っても良いでしょう。来週は、この事を取り上げます。
さて、5月24日の週報コラムです。

タイトル ; 『神に従う生き方』
聖書箇所 ; 創世記 11:27~32

 今年、私たちのチャペルは『自分を捨て、神に従順に生きる群れ』を目指すことを行動目標に掲げました。礼拝メッセージも、そのことを意識して学び会えるようにと願っています。
 様々な信仰者の生き方を聖書に見ることが出来ますが、そこで、まずは創世記の登場人物の信仰から学びたいと思います。トップバッターは、信仰の父と言われているアブラハム(最初はアブラムと言われたが、便宜上アブラハムで通す)を見てみましょう。
 父テラには、三人の男の子がいました。その一人がアブラハム。ウルの地は月の神を祀ることで有名なところで、テラもその熱心な信奉者でした。ニンゲンが偶像にうつつを抜かしたことで心痛めた神が、大洪水で全人類を滅ぼしましたが、ただノアとその家族だけが神を信じて助かりました。そのノアの洪水からまだ250年ほどしか経っておらず、まだノアも存命だった時期、早くもノアの子孫達はバベルの塔を造ったり、月の神を創って拝むなどと愚かな行為に走っていたのです。
 神の指示があって、テラとその家族はそのウルの町を出、カナンへと向かいました。しかし、ハランに来たとき、そこに腰を下ろしてしまいました。そこも月の神崇拝が盛んで、テラには居心地良かったのかも知れません。
 新約聖書の表現に依れば、ウルを出たのは、神がアブラハムに示したからのようですが、結果的には父も家族も一緒に行動し、ために目的地に着かないところで安住してしまったのでした。中途半端な従い方でした。でも、神は忍耐して待ちました。そこでテラが死んだ時、改めて神はアブラハムに言いました。「私が示す地に向え」と。アブラハムがさらなる神の指示に従って行動を起こしたとき、神は新たなビジョンと祝福の約束をアブラハムに示されました。不従順を責めず、従う彼に次なる一歩の道を指し示したのです。
 神は、従順に神に従って行動する時に、次なる道を少しずつ示して下さいます。私たちも身近なところで教えられたら、まずはそれに従う者となりましょう。そして、少しずつでも神に喜ばれる者へと成長していきたいものです。

昨日から一気に暑くなりました。まるで夏のよう。この急激な気温・季節変化に体がついていけない方も多いと思います。服装や空調を適切に使いながら、健康を維持しましょう。さて、5月17日の週報コラムです。タイトル ; 『全身全霊で聖なる者となれ』聖...
16/05/2026

昨日から一気に暑くなりました。まるで夏のよう。
この急激な気温・季節変化に体がついていけない方も多いと思います。服装や空調を適切に使いながら、健康を維持しましょう。
さて、5月17日の週報コラムです。

タイトル ; 『全身全霊で聖なる者となれ』
聖書箇所 ; Ⅰテサロニケ 5:23~24

 『平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。』(Ⅰテサロニケ5:23)
 神さまは、神を信じて心から従う人々が聖なる者となるようにと願っておられます。もちろん、神さまには私たちを清くするお力があります。しかし、神さまは私たちを奴隷かロボットのように自分勝手になさいません。その力を振りかざして強引になさろうとはされないのです。ただ、必死に求めて祈り、心底願う者にはその力を現わし、変えてくださるのです。
 モーセはヘブル人でしたが、エジプトの王女に赤児の時に拾われ、エジプト王子として育てられました。しかし、ヘブル人であることを自覚したモーセは、自分の立場と力を持ってヘブル人を助けようとしましたが、そのことがエジプト王に知れると、彼はエジプトへの反逆者として王宮を逃げ出さないと行けなくなりました。しかし、神に声を掛けられ、謙虚に神さまの声に従うようになった時、あのイスラエル民族(ヘブル人)の大人数を率いて、エジプトを脱出するリーダーとして用いられていったのです。
 しかし、彼に卓越したリーダーシップがあったからこの大事業をなしとげられたとは、私は思いません。もちろん、すばらしいリーダーシップがありましたが、それ以上に彼は、神の前に謙遜で、従順だったから神さまに用いられたのだと思います。聖書にこのように書かれています。
『モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。』(民数12:3)。だからモーセは神に用いられたのだと思います。
 このみことばを読んだとき、私は一生懸命に聖なる者となることを求めて祈れば、神様が私をそのように変えてくださることに感謝すると同時に、もっと心いっぱい神さまを思い、神さまが望まれる聖なる姿を求めて励まないといけないと思わさせられました。
皆さんも、小さな罪も悔い改め、自分中心の判断から離れるよう共に励まし合い、頑張りましょう。

沖縄は、例年よりも早く梅雨に入りました。この後、九州から北東北へと、梅雨入り宣言地域は次第に北上していきますね。植物が育つ時期。楽しみです。さて、5月10日の週報コラムです。タイトル ; 『イエスの弟子になる』聖書箇所 ; ルカ 14:25...
09/05/2026

沖縄は、例年よりも早く梅雨に入りました。この後、九州から北東北へと、梅雨入り宣言地域は次第に北上していきますね。植物が育つ時期。楽しみです。
さて、5月10日の週報コラムです。

タイトル ; 『イエスの弟子になる』
聖書箇所 ; ルカ 14:25~35

 NHKの朝ドラ、『風、薫る』を見ていました。看護学校で学ぶ女性達が、看護を教えるためにアメリカから来たハワード女史に、「看護を教えてください」と懇願したとき、「自分で考えなさい」と言われていました。このことばに、私はハッとしました。とてもキリスト教的な発想だ、と思いました。信仰も、人から教えられるのでなく、自ら悩み、もがいて体験していくものだからです。
 イエス様の弟子になる、ということも、私たちは頭で考える以上に、体で覚えていかないといけないと思います。
 イエス様は弟子たちに、『あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい』と言われました。ということは、あれから2000年経ってイエス様を信じた現代の私たちは、キリストの弟子でないといけないということです。
 ルカの福音書14:25~35を読むと、○○な者はわたし(イエス様)の弟子になることはできない、といくつかの例で上げられています。弟子になりなさいとおっしゃったイエス様は、こんな人は弟子になれないと言われたということは、イエスを信じたからと言って、自動的に弟子になるのではないと言うことです。それなりに決意し、イエス様に必死について行かないなら、弟子に到達はできないのです。
 ではどんなことを心がければ良いのでしょう。第一に、この世の価値観を捨てることです。自分が大事だと思う家族関係、友人、自分のいのちさえも、神より大切にしてはいけないという意味になります。
 第二に、自分の十字架を負う、言い換えれば、神が私に望んでいることを心込めて行うことです。自分の考えに頼ってはならないのです。
 第三は、財産に価値を置かないということ。私たち現代の多くの人は、お金が大事、と言います。しかしイエスは、お金ではない、神だということを知るようにとおっしゃっているのです。
 神に心底従順することこそ、弟子の道ですね。

今日は祭日ですが日曜日です。キリスト教会は、どんな時でも日曜日は主の日として神さまに礼拝をお捧げする日です。心から神様に感謝と賛美をお捧げします。さて、5月3日の週報コラムです。タイトル ; 『不従順の怖さと神の憐れみ』聖書箇所 ; 詩篇1...
03/05/2026

今日は祭日ですが日曜日です。
キリスト教会は、どんな時でも日曜日は主の日として神さまに礼拝をお捧げする日です。
心から神様に感謝と賛美をお捧げします。
さて、5月3日の週報コラムです。

タイトル ; 『不従順の怖さと神の憐れみ』
聖書箇所 ; 詩篇106:7~23

 5月2日のディボーションで、私は頭を殴られたようなショックを受けました。詩篇106篇のイスラエルの民と自分が重なって感じられたからです。
 イスラエルの民は、エジプトで長い間、奴隷として苦しい状態を強いられていました。神がモーセを遣わして、彼らをエジプトから救い出してくれるまでは。
ついに神の時が来て、民はエジプトを出ましたが、エジプトは考えを変えてイスラエルを追いかけ、民はついに紅海に面するところで窮地に立たされました。しかし神はモーセを用いてこの紅海の中を通って対岸まで徒歩で行けるようにしてくださって、民は助けられました。
 この大きな奇跡を体験した民は、神の大きな愛と力を肌身に染みて知ったはずでした。しかし、いくらも時間が経たないうちに、民はまた自分勝手なことを言い出し、神に従おうとしなくなったのです。それで神は民に試練を与え、多くの不従順な者は滅びました。それでも、喉元過ぎれば熱さ忘れると言いますが、民はまたまた偶像に走ったりしたのです。
 私は、高校生の時にイエス様を信じました。その時は大きな喜びに溢れ、道を歩いていても宙を歩くような感じになるほど舞い上がったりしました。しかし、長く信仰生活を過ごしてきた間に、あの感動は何処へやら、自分の考えと計画を大切にすることが多くなったように思いました。毎日みことばをいただきながら、自分の霊性の血や肉になっていないと、昨日のディボーションで思わせられたのです。
 神さまは不従順な民をさばかれ、彼らが周辺国から攻められて苦しむままにされました。しかし、民が苦しんで、苦しんで悔い改めて神に叫ぶと、神は民を憐れみ、助けてくださったのです。特にモーセの命がけのとりなしも用いられました。
 私たちも、信じた初心の純粋さを忘れて、次第に自己中心の判断、この世の価値観に惑わされるなどで神さまに距離を置くようになることがあります。そうすると、神さまは厳しい目で私たちを見ておられます。罪からの救いが霞みます。
 私たちも初心を忘れず、子どものように神さまを求め続ける必要があります。

日本に来て60年以上、子ども達に神さまのことを伝えてくださったフレッド田中宣教師の奥様が、昨夜91歳で召されました。いのちを司る神さまの許に帰られたのです。病院から呼ばれて駆けつけましたが、その表情はとても安らかで、今にも目を開けて下さるよ...
25/04/2026

日本に来て60年以上、子ども達に神さまのことを伝えてくださったフレッド田中宣教師の奥様が、昨夜91歳で召されました。いのちを司る神さまの許に帰られたのです。病院から呼ばれて駆けつけましたが、その表情はとても安らかで、今にも目を開けて下さるような気持ちになりました。今日、葬儀日程が決まります。
さて、4月26日の週報コラムです。

タイトル ; 『ひたすら目標を目指して』
聖書箇所 ; ピリピ 3:12~20

 クリスチャンは、イエス・キリストが自分の罪を代わりに負って、十字架でいのちをもって罰を受けて下さったと信じる者です。キリストは死んで終りではなく、葬られてて三日目によみがえりました。それは死の力を打ち破ったということです。この事を深く信じています。
 キリストを信じた人には、神さまは永遠のいのち、すなわち神の御国で神と共に永遠に生きることを約束して下さいました。なんと素晴らしいことでしょう。ただ、これは、私たちに与えてくださるという変わらない『約束』ではあっても、今の私に『実現』しているわけではありません。神さまがお決めになった時期に、最後の審判があり、そのときに実際に手にすることが出来ます。
 ただ、高名な聖書学者たちは、この約束をいただいているからと言って安易に考え、信仰生活に緩みがあってはいけない、安易に考えていい加減な信仰であってはいけないと忠告しています。約束のものを手に入れるには、忍耐して日々生きること、聖い神にふさわしい者となるために、常に自分が聖くあることを願い、実行していることが不可欠です。
 え? そんなに厳しいこと、自分はできない、と考える必要はありません。私たちが弱くて、高い目標を掲げても届かないことが多いことは、神さまはよくご存じです。ただ、イエス様のたとえ話にもあるように、自分に出来る精一杯の誠実さで神さまのみことばに従えば、神さまはそれを高く評価して下さいます。
 パウロは、ピリピの信徒達に書き送った手紙で、自分はまだ約束のものを手に入れていないのだから、目標目指して精一杯励んでいると言いました。それが賞をいただく要件だと。だから、パウロが精一杯神の御言葉を学び、行っているように、ピリピの信徒達も(現代の私たちクリスチャンも)パウロの姿勢に倣う者となって欲しいと言っています。私たちもお互いのために祈り、励まし合っていこうではありませんか。
 このピリピ3:13~14が、今年のチャペル目標聖句です。

今日は地図の日。最初の一歩の日。寛政12(1800)年のこの日(旧暦閏4月19日)、伊能忠敬が蝦夷測量に出発した日です。正確な地図を得るには、最初の一歩が肝心。私たち人生も同じですね。最初の一歩が大切だと同時に、常に始めと同じ気持ち、同じ歩...
18/04/2026

今日は地図の日。最初の一歩の日。寛政12(1800)年のこの日(旧暦閏4月19日)、伊能忠敬が蝦夷測量に出発した日です。正確な地図を得るには、最初の一歩が肝心。私たち人生も同じですね。最初の一歩が大切だと同時に、常に始めと同じ気持ち、同じ歩幅が大事です。
さて、4月19日の週報コラムです。

タイトル ; 『聞き従う祝福』
聖書箇所 ; Ⅰサムエル記 15:13~23

 イスラエルの初代王は、サウルという若者でした。サウル王は始めはとても謙虚で、決して権力を誇示したりしていませんでした。神はこの王を用いて、イスラエルを圧迫する周辺諸国から守るようにして下さいました。
 しかし、好事魔多し。何度かの他国との戦いにいつも勝利しているうちに、彼は次第に自分が何者かのように思い始めたのです。神に聞かず、彼のアドバイサーであった預言者サムエルにも聞かずに、自分勝手に振る舞い始めたのです。
 ある時、隣国のアマレクが攻めてきました。サムエルは主の命を受けてサウル王に言いました。「行ってアマレクを撃て。男も女も、家畜も容赦せずに聖絶(完全に破壊、殺害する)せよ。」
 サウルは軍を率いて闘い、敵を打ち破りました。しかし、敵の王は殺さずに生け捕りにし、家畜の良いものも聖絶せずに取り分けました。これが神の怒りを招きました。
 サムエルがサウル王に詰問しました。「どうしてすべてを聖絶しなかったのか」。サウルは、「家畜の良いものは、神に感謝の献げ物として献げるように残しました」と言ったのです。サムエルはサウルに言いました。「愚かなことを❗ お前は神のことばに完全に従わなかった。神はどんな優れた献げ物よりも、神のお言葉に従う心と態度を喜ばれるのだ。だから、従わなかったお前は神に捨てられた。」
 この事を通し、サウル王は精神的な病になり、ついには敵に殺されることになったのです。そして王位は、一介の羊飼いであった少年ダビデに移ったのです。
 私たちはどうでしょう。初め神を知って信じた時は、本当に謙虚にへりくだって信じたのではないでしょうか。しかし、信じて年月を経る内にその初めの心が薄れ、何だか自分が何者かになったかのように振る舞ってはいないでしょうか。そして自分の行動を正当化し、言い訳をする信仰になってはいないでしょうか。
 この機会に、一人一人自分の信仰を点検し、ぜひ謙虚に聖書の基本を胸に納め、神に従う者になろうではないでしょうか。

学校や社会が新年度スタート。気持ちを新たに、歩みを始めている方も多でしょう。新社会人には五月病にならずに、新しい社会に溶け込んでいけるようにと願います。さて、4月12日の週報コラムです。タイトル ; 『今の私に絶望せずに』聖書箇所 ; マル...
11/04/2026

学校や社会が新年度スタート。気持ちを新たに、歩みを始めている方も多でしょう。
新社会人には五月病にならずに、新しい社会に溶け込んでいけるようにと願います。
さて、4月12日の週報コラムです。

タイトル ; 『今の私に絶望せずに』
聖書箇所 ; マルコ 16:9~18

 イエス様の使徒とされた弟子たちは、イエス様が十字架で『死んだ』ことに大きなショックを受けていました。生前からイエス様が、ご自分が指導者達の陰謀で殺されることと併せて、必ず三日目には生き返ると予告していたのに、そのことに希望を置くことができなかったのです。
 ですから、イエス様のお墓に行ったマグダラのマリアがよみがえったイエス様にお会いしたということを、気落ちしていた弟子たちに伝えた時も、他の弟子がエマオという村に行く途中でイエス様にお会いして数時間離した後でその話し相手がよみがえったイエス様だと分かったということを伝えに来た時も、使徒達は信じれませんでした。死人が生き返るということが分からなかったのではありません。彼らは、イエス様が3人の死人を生き返らせたことを目撃していたからです。でも、イエス様がいなくなったことで、彼らは完全に絶望していました。将来が見えなくなったのです。
 弟子たちが暗い思いで集まっていたそんな時に、彼らの目の前にイエス様は生き返ったお姿を現わされました。そして、ご自分がよみがえると言ったことを信じれない弟子たちをお責めになりました。でも、『責めた』とは言っても、彼らをダメだと切り捨てたのでもなければ、見捨てたのでもありません。弱い彼らの弱さを認め、それでも、新しいビジョンを与えたのです。
 『全世界に出て行って、すべての人々に福音を宣べ伝えること』。これが彼ら弟子たちへの新しいビジョン、その働きへの召命でした。
 私たちの世界、特にビジネス社会では、できない人に新たな目標を与えると言うことはまずありません。私自身ビジネス社会に46年間も身を置いた者として、深い緊張感を持ってそのことは受け止めていました。でもイエス様は彼らに、新しい使命を与えたのです。それは、今の弱さだらけ、不信仰な状況にある弟子に絶望せず、心から自分の弱さに気付いて悔い改めてイエスに従う時の将来の弟子の姿を見ておられたからです。
 イエス様は、今の私に絶望していません。主に従う時の私に期待しておられるのです。

今日は、教会暦ではクリスマスと並ぶ二大祭りの一つ、イースター・復活祭です。十字架に着けられて死んだイエス様が生き返ってくださり、信じて従う人たちに希望を与えてくださったことを記念する日です。さて、4月5日の週報コラムです。タイトル ; 『よ...
04/04/2026

今日は、教会暦ではクリスマスと並ぶ二大祭りの一つ、イースター・復活祭です。十字架に着けられて死んだイエス様が生き返ってくださり、信じて従う人たちに希望を与えてくださったことを記念する日です。
さて、4月5日の週報コラムです。

タイトル ; 『よみがえりの希望』
聖書箇所 ; ルカの福音書 24:1~9

 もう20年近く前、初めて聖地旅行に行きました。その時、イエス様が十字架を負って行った道から十字架刑場に行き、イエス様が葬られたお墓を見ました。
 その後ガイドの方が、「もう一つのイエス様のお墓ではと言われる場所があります。そこも見ましょう。」と言ってご案内くださいました。そこは、聖書に書かれている状況を彷彿とさせるところで、園の墓と言われていました。そこのイエスのお墓と言われるところに立ったら、入り口にドアが取り付けられ、英語で『ここには居ません。復活しました』と書いてありました。それを見て、鳥肌が立つほど感動しました。イエス様は復活したんだ❗ と 体験的に感じました。
 イエス様は、生前、何度もご自分が苦しんで刑を受けて死ぬが、そのあと三日目に必ずよみがえると弟子たちに伝えていました。しかし弟子たちはそれを信じていませんでした。「死人が生き返るなんて。」
 実際に十字架に着けられて死に、お墓に入れられました。すると弟子たちはショックで引きこもり状態になりました。ただ、ずっとイエスに付き従っていた女達の数人は、イエス様のご遺体に何もしてあげられなかったことを残念に思い、外出ができる祭り明けの早朝、お墓に来ました。『死んだイエス様』にお会いするために。しかし女達はそこでイエス様が生き返ったことを知って驚き、皆に伝えました。
 女達から話を聞いた弟子たち。イエスさまが死んで夢も希望も失った群れになっていましたので、ショックで信じられません。エルサレムから3里ほど離れた村で、やはりよみがえったイエス様に会った他の弟子も駆け込んできたその日の夕方、皆が集まっていたところにイエス様は忽然と現れました。そして「わたしだ。幽霊ではない。信じる者になりなさい」とおっしゃったのです。
 自分の考えに固まりやすい弱い弟子たちを責めないで、ただ、信じなさい、と教えてくださったのです。

今日は、教会暦では棕櫚の聖日、イエス様のエルサレム入城の日です。この日からイエス・キリストの受難の一週間が始まるので、今週を受難週と言います。イエス様が私たちの罪のためにご自分のいのち差し出して十字架で死んでくださったのが金曜日(聖金曜日)...
28/03/2026

今日は、教会暦では棕櫚の聖日、イエス様のエルサレム入城の日です。この日からイエス・キリストの受難の一週間が始まるので、今週を受難週と言います。イエス様が私たちの罪のためにご自分のいのち差し出して十字架で死んでくださったのが金曜日(聖金曜日)になります。来週日曜日はイースター、クリスマスと並んで有名なキリスト教界の二大祭りの一つになります。
さて、3月29日の週報コラムです。

タイトル ; 『愛に基づかなければ』
聖書箇所 ; コリント人への手紙第一 13章

 教会の聖書通読表で聖書を読んでいる方は、昨日の聖書箇所がⅠコリント13章だったと思います。その冒頭で、私はとても衝撃を受けました。
 クリスチャンは自分の生活で一体何を想い、何を願い、何を目標にしているでしょうか。私は若い頃から聖霊のすばらしい賜物(癒やしの力、不思議を起こす力、など)を求めていたように思います。そんな力を現わせば、多くの人がイエス様を信じるだろうと思っていたからです。また、すばらしいメッセージをする方(先生)に憧れてもいました。大学一年生の時、著名なラジオ牧師の方が山形に来られて、日曜礼拝ですばらしいお話しをなさいました。そのメッセージの内容はほとんど覚えていないのですが、最初から最後まで感動で男泣きに泣き、涙を留めることが出来なかったことだけは覚えています。
 またイエス様は、大きな愛を持つ人は自分の財産に執着せず、弱い人に施すと教えておられます。この様な施す心、福祉的精神も大切だと思います。
 しかしパウロの一言は、私のそんな考えに冷たい水を掛けました。どんなにすばらしい霊的な賜物を持っていても、すばらしいお話しが出来る知識や話術に長けていても、その人の内に愛が無ければ、そういった力は神の前に空しいものだ、と。
 だから、私たちが求め、目標にすべきは、何よりも神にある愛だというのです。
 《こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。
その中で一番すぐれているのは愛です。》(Ⅰコリント13:13)
 この言葉は、聖書の中でも有名な一句で、クリスチャンのほとんどの方はこの聖句を暗唱していると思います。それを座右の銘だ、という方もおられます。でも、そのことばをいくら暗記して、すらすら言えても、その方の内に神を愛し、隣人を愛する愛がなかったら、そのことばは空虚なものです。単に学校で覚えるべき事柄(漢字、歴史の年号、数学の基本形、理科の分子記号など)を暗記しているにしか過ぎないのです。
 あなた自身の信仰生活に、愛が実践されているでしょうか? こころして顧みましょう。

住所

栗又四ヶ2421-1(2421-1, Kusimatashika)
Omitama-shi, Ibaraki
311-3434

アラート

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