15/11/2020
今日も礼拝
イエスキリストの救いはありのままを認めるところにある。
旧約聖書で神は人が幸せに生きるために神の教えに忠実である事、人に十戒を与え、それを事細やかに解説して守るように教えられた。
人を裏切らず、誠実に生きて、神の教えに忠実であれば争いごとも恨みを買うこともないのではとも思える。
規範があることが、人を裁くことにつながる。自分の罪がどれほどでも、人の罪や自分に対しての罪は大きく感じてしまう。
イエスの教えでは人を裁かないと言うことは自分もまた許されると言うことにつながるとある。
イエスは言われた。
人を殺さなくても人を恨む気持ちがあればそれは罪だと。
不品行を行わなくても、女を欲望の対象としてみるならそれも罪だと。
不倫現場を押さえられた女について
罪のないものがこの女を裁くように、と言われた。すると年長のものから順にいなくなった。イエスはわたしには罪がないがわたしもあなたを裁かないと言われた。
罪のないものはいない。
自分の犯した罪に心を痛める。罪悪感があると心は痛む。あるいはなかったことにする。自分はいいのだと言い聞かせる。何かの陰にかくれようとする。
イエスについて福音書に語られていることは、一貫してありのままを受け入れると言うことなのだ。
新約聖書の契約は愛によって成し遂げられる。
人への深い理解と哀れみ、その人の思いへの共感、それが古い契約から人を自由にする。平和を作り出す力になる。
発想を転換するのは難しい。
時として、人の信仰は、罪を棚にあげて見ないことにすることになったり、愛がないものをあると言うことにしてしまったり、何かに隠れていいのだと言うことになる。それだと聖書の言う救いとは反対に行くことになってしまう。
神の愛は人が好きとか、生半可な自己憐憫とは違う。人のいうやさしさとも違う。
そのもののありのままの中に尊さや命を、悲しみも、痛みも、傲りも、どうにもならない人としてのありようを、生きようとする何かを見ようとするところにあるのだと思う。
子どもと接しているとそれがわかりやすい。わがままにも泣くのにも人を傷つけてしまうのもその子なりの理由がある。それを周りの大人が何かを評価するのではなく、そうだったんだね〜と受け入れた時に、子どもは心を強くして、心を切り替えて自分の道を行こうと思える。そのたくさんの積み重ねの中に、人への優しさも、許す気持ちも、共感も生まれてくる。
大人だと複雑でわかりにくい時もあるけど。
うまくいかないことや、自分とは違うことに心を閉ざす人がある。
傷ついた時は誰かが悪いのだと思いたくもなる。
それでも、イエスの愛を自分のものにした時に、その人の背後にある世界も、その人ならではの痛みも願いも受け止めてゆくことができるのだと思う。
そこに嘘や偽りのない生を生きることができて、それを救いというのだと思う。それがこの世界で神の子としてイエスが歩まれた道なのだと。
何がいいとか悪いとかと言うことはあまり意味がなく、今ここにある全てのことは、神のみ心のままになるべくして完全なものこととして起こっていて、それをそっくり認めてゆくことこそが人の生きる道ではないかと思う。心の痛みや恨みや情欲なども、全てをありのままに認めること。事実をそのままに、そうなんだなあと認めてゆくこと。
そこから出発して何をどうしてゆきたいのかを見出して、自分の命を生きてゆくことなのだと。
発想を転換するのは難しい。
どんな時も馴れ合いではなく、真実を写す鏡のようになれたら。おぼろげにでもその中から真実は見つけてゆきたい。
人はこの世では鏡に写して見るようにおぼろげに見ている。でもその時には顔とを合わせて見るようにはっきりと見る。コリント人への手紙から