セブンスデー・アドベンチスト長野キリスト教会

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10/11/2023

2023年9月23日(土)    「上医の信仰!」    LT(Loving Time)大平耕司
列王記上3章10 ~11節『主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。」』・・・ソロモンと言えば、大岡審きではありませんが、二人の遊女の子供争い裁判での審きが有名です。父ダビデの死後、その子ソロモンがイスラエル王国の王になりました。神は、ソロモンの父親ゆずりの信仰に応えて、このように言われました。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(同5節)。それに対してソロモンは、「どうか、あなたの民を正しく審き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」(同9節)と応答しました。神は、その無欲と神の民への愛情をたいそうお喜びになり、冒頭の言葉を述べられると共に、このように続けられました。「・・今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える・・また、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。・・あなたに長寿も恵もう」(同11~14節)。さて、神から与えられたソロモンの知恵について、先ほどの子供争いのお話です。二人の遊女が同じ家に住んでいて、同じ時期にお産をして二人に赤ちゃんがそれぞれ生まれました。片方の母親が就寝中にわが子に覆いかぶさり窒息死させてしまいました。それでその母親は、もう一人の母親が寝ている間に死んだわが子とすり替えてしまいました。そこで、すり替えられた母親がソロモンに訴え出たのです。もちろん両方とも、わが子だと言い張り決着がつきません。それで、ソロモンが剣でこの子を真っ二つにしてそれぞれに分けよと言い渡しました。そしたら、片方の母親が「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言いました。もう片方の女は、「この子を私のものにも、この人のものにもしないで、割いて分けてください」と言ったのです。それを聞いて、ソロモンはその子を前者の女に渡しました。まさしく、大岡審きです。「王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである」(同28節)とあります。ソロモン王は、ダビデ王のあとのイスラエル王国を継いで、40年あまり国を治めました。エジプト王の娘との政略結婚で国境を固め、父ダビデが戦いに明け暮れて築き上げた領土の内部を整備していきました。その主たるものが大規模な建設事業でした。エルサレムの防備を強化し、神殿や中央政庁、神殿の建設を進めました。なかでも、父ダビデの代からの念願であるエルサレムの神殿は贅沢を極めました。奥行50m、幅25m、高さ15mの神殿が、すべて純金で覆われていました。完成までには約7年半の歳月が費やされました。ソロモンはまた、全国に「倉庫の町」と「戦車の町」及び「騎兵の町」を設置して軍備も整えました。これらの町には合わせて1,400台の戦車と1万2000の騎兵を擁していました。シナイ半島とアラビアの間のアカバ湾の近くには製銅所と造船所も造っています。造船所で造られた船は、軍事目的に加え、アフリカとの通商にも用いられました。また、徴税目的で北イスラエルを12の行政区に分けました。町の建設や軍事、行政の制度もしっかりと整えた国造りをしたのです。
 さて、もう一つのソロモンの知恵を表すのがシバの女王の訪問です。シバの女王の国はイエメンか、紅海を隔てたエチオピアだと言われています。彼女は賢者ソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとやってきました。そして、ソロモンの前に出ると、難問をすべてぶつけます。「ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何もなかった」(列王記上10:3)とあります。神殿の豪華さと聞きしに勝るソロモンの知恵に驚いた彼女は、「私に知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せ
なことでしょう。・・あなたの神、主はたたえられますように・・」(同10:7~9)と言
いました。そして、彼女は、多くの金、宝石、香料をソロモンに贈り帰路につきました。
さて、5世紀の中国の医書「小品方」に、上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病を治す、というスケールの大きい格言があります。その1、上医はいまだ病まざるものの病を治し、中医は病まんとするものの病を治し、下医はすでに病みたる病を治す。その2、上医の勤勉な医者は、毒さえも薬となして人を助ける。中医の凡庸な医者は、薬を薬として使って人を助ける。下医の怠惰な医者は、薬を毒となして却って病を重篤にする。その3、化学合成薬を使って治療する医師を下医と言い、漢方医のことを中医、そして食事で病気を治す人を上医、つまり食医と言う。つまり、人の命を救う医者にも三種類の人がいるというものです。上医と呼ばれる人は、病気の根本原因を国や社会構造の中に見いだし、そこから抜本的に治す人であり、中医と呼ばれる人は、その人の生活習慣、人間性などから病気の原因を見いだし治療する人、下医と呼ばれる人は、病気の原因は見ず、症状だけ見て対処する人です。例えば現在、日本人は二人に一人がガン患者と言われていますが、その大きな原因の一つは添加物や農薬であり他国に比べても何倍もの有害な商品の輸入が認可されています。だから、上医と言われる医者は、そこから指摘し指導して、国や地域の健康を改善していきます。下医と呼ばれる医者は、「今だけ、金だけ、自分だけ」と対症療法によりその病の症状だけに目をやり、自分の懐具合を見て、高額な薬をどんどん処方しています。ここ数十年で日本の医療費は3~4倍にはね上がり、現在年間に約50兆円もの大金が費やされています。しかし、それでガン患者や病人が減ったかというとそうではなく、逆に何倍も病人が増えています。アメリカのビッグファーマーと呼ばれている大手の薬品会社から莫大な有害添加物や農薬、医療薬が輸入されて、ガンや病が増えていく一方で、ガン保険もアメリカから入ってきて大きな市場を形成しています。まさしく、日本はかっこうの利益を生んでくれる家畜場というわけです。だから、上医と呼ばれる優秀な医者は、そのような政治を暴露し、家畜化している国民を正気に戻し、生活習慣と食べ物から指導し、根本から病人が出ないような社会に変えようと努力している医者です。下医の医者が横行し、医療保険制度を悪用し、多額の金が入るように、無理やりに病名をつけ、薬を何種類も処方し、医療点数を爆上げし、高級車を乗り回し、優雅な暮らしをしている大金持ちの象徴、これぞ「The ドクター」というイメージが定着している現在の風潮は、嘆かわしいことなのです。赤ひげ先生のように病人の家にかけつけ、お金がなかったら大根一本でも大丈夫。逆に貧しく、忙しい人であり、賢明で人格者である人が、医者でなければなりません。なぜならば、その姿はイエス・キリストの御姿だからです。
 さて本日は、「上医の信仰」と題名をつけました。父ダビデ王のあとを継いだ当時のソロモンの信仰はこれに近いなと感じたからです。ソロモン王は、その最初に「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と神から言われた時に、自分の長寿や富、敵の命を願いませんでした。むしろ、国民全体の平安と幸せのために、自分にできる最上の事柄を願いました。そのために神に知恵を求めたのです。
最近、ドイツのバイエルンの町フォートの教会で、AIのアバター牧師が説教をしました。興味を持った人も含めて300人が参加しました。牧師不足が深刻になっているドイツ国教会では、AIアバター牧師が引き続き奉仕するそうです。チャットGPTが流行る一方で、人間がますます怠慢化していく時代です。昔のSF映画が、現実になりつつあります。指導者が人間でなくてもいいと、AIにひれ伏す時代がそこまで来ています。政治家も含め、下医の「今だけ、金だけ、自分だけ」の考えを持っている政治家や経済人、社会人や一般人がはびこる一方、それに飽き飽きしている人たちが、人間味が無くても不正がないと思えるような、AIの指導者に頼る気持ちは分かるような気がします。しかし、それは神の創造の意志に反することです。神に創造された人間は、イエス・キリストが最後まで貫かれた「愛」(上医の信仰)を全うすべく、その使命と人生を与えられたのです。

10/11/2023

2023年9月9日(土)   「ハイブリッド信仰!」   LT(Loving Time)大平耕司
サムエル記上17章45,47節『お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。・・主が救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない・・この戦いは主の戦いである。主はお前たちを我々の手に渡される』・・・これは、若いダビデが敵のペリシテ軍の戦士ゴリアテと戦う前に放った言葉です。紀元前1020年頃、この当時、イスラエルに初代王サウルが立てられていました。預言者サムエルによって油注がれたものの、神の命令に背いてしまい、最後は神から見放されてしまいす。神はサムエルに命じて、羊飼いエッサイの末息子ダビデに油を注がれました。そんな時、敵のペリシテ軍がイスラエルに戦いを臨んできました。そして、背が3メートルほどのバカでかいゴリアテが戦場で進み出て、「お前たちの中から誰か一人を選んで、私の方へ下りて来させよ。もしその者が私と戦って、打ち負かすことができたなら、我々はお前たちの奴隷となろう。しかし、もし私がその者を打ち負かしたなら、お前たちは奴隷となって、我々に仕えるのだ」(同17:8,9)。これに対してイスラエル軍はとても怖がり、誰も戦いに行くことはできませんでした。このような事が40日間も続いたある日、父親のエッサイから頼まれて、戦場にいる兄達や兵に差し入れの食事を持たされたダビデの姿がありました。その時、いつものゴリアテの挑発を聞いたダビデは、兵にこの内容を尋ねたところ、ゴリアテを打ち負かした者には、サウル王が大金と王女を嫁にあげて、さらに特権を与えるという旨を聞きました。そのダビデのゴリアテ討伐に興味津々な様子を見て、王に告げる者がありました。サウル王は、ダビデを呼び寄せます。ダビデは王に、「私が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」と宣言します。驚く王に、「私は羊飼いです。羊を襲うライオンも熊も打ち殺してきました。ですから、あの無割礼のペリシテ人もあの獣のようにしてみせます。生ける神の戦列をあざ笑ったのですから。主は、あのペリシテ人からも、私を救い出してくださいます」(同17:33~37略)と言いました。王は、「行くがよい」と許可を出し、自分の鎧や兜を着せ、剣を持たせようとします。しかし、重たくて、それを断りました。いつものかっこうで、羊を追い立てる杖と、獣用の石投げ機と五個の石を拾ってゴリアテの前に進み出ます。すると彼は、「私は犬か。杖を持って私に向かってくるとは」と驚嘆してあざ笑い、「さあ掛かって来い。お前の肉を空の鳥、野の獣にくれてやろう」と叫びました。その時に、ダビデがゴリアテに言った言葉が冒頭の聖句です。…『お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。・・主が救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない・・この戦いは主の戦いである。主はお前たちを我々の手に渡される』。その言葉を発するや否や、ダビデは石投げ機に石を詰め、ゴリアテをめがけて投石しました。そしたら、その石がゴリアテの額にみごと命中し食い込みます。巨人はその場で倒れ、ダビデは急いで彼の所へ走り寄り、ゴリアテの剣でとどめを刺し、首を切り落としました。それを見たペリシテ人たちはいっせいに逃げ出します。鬨の声を上げて、イスラエル軍は敵を追撃し、打ち負かしました。その後、サウル王はダビデを召し抱え、あちこちの敵地に出陣させました。そのたびに勝利を収めるダビデに対して、王は彼を戦士の長に任命しました。しかし、敵に勝利し戻ってきた軍隊をタンバリンを打ち鳴らしながら喜んで迎えた女たちが、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」とはやし立てました。それを聞いたサウルは激怒します。王は狂ったようになりダビデを妬み、二度も槍で突き殺そうとしました。神の守りで難を逃れた彼は、その後も出陣し勝利を収め帰ります。王はますます彼に恐れを抱きます。それでも、ダビデは最後までサウル王に仕え、忠誠を尽くし切ります。やがて神はサウルを完全に離れます。戦場で追いつめられた王は、自刃します。その後、ダビデはサウル王のあとを継いで、イスラエルの偉大な王として君臨することになります。15年後の紀元前1005年のことです。                                                                                                                                                                                                                                           
 さて、話は変わりますが、今日の題名にありました「ハイブリッド」という言葉を聞いて皆様が思い出すのは、そうです。車のハイブリッドカーですね。モーターとガソリンエンジンが組み合わさった車です。世界で初めてこの車を開発したのが、つい最近までトヨタ自動車の社長を務めていた、現会長の豊田章男氏です。ハイブリッドとは、「異なる二つの要素が組み合わさったもの。またはそのような要素を持つものを指す」(実用日本語表現辞典)とありました。さて、本日の説教題「ハイブリッド信仰」とは、ダビデと同様神の力と共にある人間の二つの異なる要素が組み合わさった者の信仰ということになります。世の動きは、人間の罪と悪魔の邪悪さにより滅びへ向かっています。それを止められるのは、イエス・キリストの愛です。今、私たちの周りに溢れる欲望に火をつける数々の邪悪な嗜好品があります。それは、情報化によるインターネットの普及により加速を増しています。毎日、世界は大きく変わっています。その混沌とした社会にあって、従来の方法で対処しても通用しない様々な問題に頭を悩ますようになりました。特に翻弄されているのが、幼い子供たちです。現在の子育て中の親たちやこれから家庭を持つ人にとって、受難の日々です。すでに、子供や家族の問題で悩んでいる人たちもたくさんいます。さきほどの、トヨタがハイブリッド車を開発した理由とは、変わりゆく世の中の環境と人間のニーズに合わせたものです。そうでないと企業としても生き残れません。それと同じで、私たちの変わりゆく社会においても自分たちの力だけでは、どうにもならない問題がますます増えてきます。そんな時に、全てを御支配なさり、私たちを心から愛しておられるイエス様の力を必要とします。ダビデやその時代を生きた士師たちと同じように、ハイブリッド信仰をもち、神に寄り頼み、これからの時代を生き抜く必要があります。・・・ヨシュアによって、約束の地カナンに戻ったイスラエル民族ですが、12部族の100万とも200万とも言われる人たちの安住の地が確保されました。戦いに明け暮れた戦いの時代は終わりを告げました。しかし、今度は外敵の脅威にさらされる時代が幕を開けました。彼らの土地のほとんどは、周辺を異民族に取り囲まれていたため、その領土を狙った侵略が継続的に続いていたし、イスラエル人によってカナンを追われた人々も、虎視眈々と領土の復活を狙っていました。軍事的な攻撃に加え、さらにイスラエル人の団結を乱す脅威となったのが異教の存在でした。安住の地を得た新しい世代のイスラル人たちは、自分たちの神から離れて、カナン人の崇拝するバアル神のような豊穣の神を求めるようになっていきました。こうした気運は、異民族との婚姻関係を通じて、イスラエル人に浸透していきました。これは民族の解体につながる危機的状況です。だから、民族の再団結が求められるようになったのです。それで登場するのが12人の士師たち。人間の愚かさが招く歴史の繰り返しですが、イスラエル民族が神に背くことにより、神から見放され、敵に攻められ異民族の支配になってしまう。やがて人々が自らの過ちに気づき、悔い改める。そして民が再び神を崇めるようになると、神は士師を遣わして彼らを救う。しかし、事態が好転すると、再びイスラエル人たちは神に背いて、異郷の神を崇拝するようになる。このような外敵による侵略と支配の時代と、これらを撃退した12人の士師によってもたらされる平和の時代が繰り返された時代を、士師時代と呼びます。約200年間そのような時代が続きます。その時代を終わらせたのが、サウルによるイスラエル王国の建設、それを継いだダビデ王の時代でした。私たちがこの神の民の歴史を学んで、何をしなければならないのか?それは、「今だけ、金だけ、自分だけ」といったことではなくて、私や隣人の子供、孫、曾孫、そのあとの世代を考えなければならないということです。ひどい時代は起こらないと考えたいのは人情です。しかし、士師時代や聖書が示す愚かな歴史のように、必ず私たちの子孫たちが苦境に陥る時代がきます。それも、どうしようもない邪悪で最悪な時代が到来しそれから終わりの時代が来るのです。その時には取り返しがつきません。私たちには、ハイブリッド信仰をしっかり持ち家族や隣人に伝える責任が、赦されているのです。

08/09/2023

2023年9月2日(土)     「神の群れ!」     LT(Loving Time)大平耕司
ヨシュア記24章13、14a節『「私はさらに、あなたがたが自分で労せずして得た地、自分で築いたのではない町を与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている。」今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。』・・・これは、ヨシュア記の最後の章である24章のシェケムの契約の一文です。ヨシュアは、イスラエルの全部族をシェケムの町に集め、彼らの前で「イスラエルの神、主はこう言われる」(ヨシュア24:2b)と神様からのメッセージを語りだしました。その中で、神は、「私がイスラエルの民を暗闇から導き出し、最後に安住の住まいと豊かな食物を与えたのだ」と語られました。それゆえに、「あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい」とヨシュアが民に訓戒しています。それに対して、すべての民は、ヨシュアに向かって、「私たちは私たちの神、主に仕え、その声に聞き従います」(同24節)と誓いを立てました。「その日、ヨシュアは民と契約を結び、シュケムで掟と法とを定めた。ヨシュアはそれらの言葉を神の律法の書に記し」(同25節)とあります。神の群れは、神と契約をし、それを彼らの律法とし、守り行う民です。それが彼らの中心となり、よりどころとなって求心力を発生させました。
 さて、神との契約とはどういうことでしょうか。人間の神に対する契約は、上記にあるように、「神に仕え、その声に聞き従う」ということです。そして、神の人間に対する契約は、「安住の住まいとか食物など、神の祝福を与える」ということです。信仰の父アブラハムに与えられた神の約束も、やはり、子孫の繁栄、つまり、祝福された神の群れを作り、その民に安住の地を与えるということでした。
 まず、私たちの契約は、「神に仕え、その神に従う」ということです。ヨシュアなど旧約時代の神の民のそれは、モーセに与えられた数々の律法に従い生活をする事と、行く先々でヨシュアやその後の士師、ダビデなどのリーダーに与えられた神の御声に従って行動するということでした。では、現代の私たちは、どうすればいいのでしょうか。イエス様は「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」(ヨハネ15:17)と弟子たちに言われ、その生涯の最後には、ペトロとのこのようなやりとりがありました。『イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っています。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」・・「私に従いなさい」と言われた』(同21:12~19)。つまり、神に仕えるとは、「神を愛し、また互いに愛し合い、そのことにより、神の群れを養う」ということに集約されるのではないでしょうか。
 そうすれば、「神の祝福が与えられる」と、神は私たちと契約されました。イエス様は「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」(同14:1~3)と約束されました。その様子は、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神は人と共に住み、人は神の民となる。神自らが人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21:3b~4)とヨハネを通して、神の祝福が描写されています。それは、この世の安住の地ではなく、新たに創造される究極の楽園にて、永遠の命と安住の住まいとその生活に必要なすべてのものが与えられるということです。
 神はその初めに、安息日を制定されました。創造の7日目に休まれて、神を覚え礼拝をしなさい。神との愛の交わりに入りなさいと、関係を求められました。そして、アダムと
エバの間に結婚制度を制定されのです。つまり、男女が愛し合い、神の前に契約をして、子孫を残していくということです。愛するためには相手が必要です。愛し合う関係を持つ神の群れが必要なのです。
 私が、聖書の神様を信じるようになったきっかけは、父の死でした。仏壇の父親の位牌に向かって、朝晩拝んでいた私に一つの疑問が生じてきたのです。自分や家族の健康やビジネスの成功を拝んでいた私にとって、死んだからといって人間が神になるわけでない、ということでした。やはり、きっと神と呼ばれるにふさわしい存在がおられるにちがいないというわけです。それから、不思議と牧師や聖書との出会いが重なって、少しずつ愛の神の存在に導かれていきました。イエス様との出会いにより、自分を心から慈しみ、愛してくださる神の存在を知ったのです。心がなんとも言えない祝福に満たされ、愛に包まれた経験を与えられたのでした。クリスチャンの皆様も通られた経験だと思います。
 しかし、時が経つごとに、また、聖書の内容を知るにつれ、個人的に自分に愛を降り注いでくださるイエス様の像だけではない、ちょっと違う像もあるぞ、と思えるようになってきたのです。どういうことかと申しますと、どうも、イエス様は、私自身やそれぞれ個人を深く愛して下さるとともに、それだけではなく、イエス様がさらに愛されるのは、神の群れだということではないか、ということでした。いつも私個人を注視し、愛していてくださるということよりも、愛し合う神の民の群れに焦点を合わせておられるということです。つまり、イエス様の愛は、優先順位で私が一番目、その次が、神の群れ、というのではなく、その反対で、第一が神の群れ、その次が私ということです。そう考えると、なんだかちょっぴり寂しいような気がしました。またそこが疑問でもありました。
 どういうことでしょうか。罪ある人間は、どうしても自己中心的な性質があるために、すべての愛情を自分に集めたいというワガママな心があるのも事実です。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37b)、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と言われた事にも関連しているのかもしれません。つまりイエス様が私たちを愛してくださるのは、自己中心の罪の影響から少しずつ離れ、隣人を愛することができるようになるためだということです。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20 )と言われたイエス様は、関係の中に存在されます。三位一体の神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神のお三方の関係の中に存在されます。愛は相手との関係に存在します。だから、「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)ということができるのです。旧約時代の神の愛は、個人というよりも、明らかに神の群れを重要視されておられるように思われます。それでも、関係の中に存在され、それを繰り返し示されました。神がいかに民と関係を持たれたか、冒頭の神の民へのメッセージでもよく分かります。そして指導者たちも神との信頼関係を貫き、民もその時代に立てられた指導者との信頼関係の中に生き続けてきたのです。信頼関係の絆は、契約という形で具現化しました。神がモーセと交わされた契約は、十戒という形で明文化され、その要約は、それぞれ個人が、神と人との信頼関係を保ちなさいというものです。またそれは、天国の愛のルールを示しています。そして、イエス様の時代になると、人間個人に深く焦点をあてておられるように思われます。でもやはりその中であっても、最終的には神の群れを愛されることには変わりがないようです。確かに愛という存在は、神と人そして、人と人との信頼関係の中にのみ生き続けるのです。イエス様は、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)という主張を繰り返され、父なる神と関係を最後まで貫かれました。そして、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と瀕死の十字架の上から罪ある人間に心からの愛の関係を示されたのです。99.9999…%の罪に支配された自分自身よりも、愛の信頼関係を保っている神の群れの中に、確かに神は存在されるのです。

01/09/2023

2023年8月26日(土)   「子孫を残す旅路!」   LT(Loving Time)大平耕司
ヨシュア記1章6節『強く、雄々しくあれ。私がこの民の先祖に誓い、今この民に与える地を、彼らに受け継がせるのはあなただからだ。』・・・これは、アブラハムに与えられた神との契約の継続をヨシュアに託された箇所です。神はアブラハムと契約されました。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(創世記13:16)。その契約は、アブラハムからその子イサク、孫ヤコブ、曾孫ヨセフに受け継がれます。そして、その430年後に、モーセに託され、出エジプトが神の手により実現します。砂粒の数ほど神の民を増やす計画は順調に進んでいました。「さあ、あなたは自分がいる所から北、南、東、西を見回してみなさい。見渡すかぎりの地を、私はあなたとあなたの子孫に末永く与えよう」(創世記13:14,15)とアブラハムに約束されたカナンの地に200万人とも言われた神の民が、430年前の飢饉にてエジプトへ避難した先から帰還した瞬間でした。いよいよカナンの地に入ろうとするときに、神がヨシュアに言われました。「私の僕モーセは死んだ。さあ今、あなたとこの民は皆立ち上がり、このヨルダン川を渡りなさい。その先には、私がこの民、イスラエルの人々に与える地がある。私はモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとくあなたがたに与える。この荒れ野から、あのレバノン山、大河ユーフラテスに至るまで、さらにヘト人のすべての地と、太陽の沈むあの大地に至るまでが、あなたがたの領土となる。あなたの命の続くかぎり、誰一人あなたの目に立ちはばかる者はいない。私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すこともなく、あなたを見捨てることもない。・・冒頭聖句・・」(ヨシュア記1:2~6)。モーセは80歳の時に神からの召命を受け、200万の神の民と共に出エジプトを成し遂げました。そしてその労苦の40年の旅が終わろうとする寸前にその生涯を終えました。そして最後の仕上げはヨシュアに受け継がれたのでした。その際も、モーセに与えられたような神の奇跡が行われます。いよいよヨルダン川を渡れば、神の約束されたカナンの土地に入れるという時、契約の箱を担いだ祭司たちの足がヨルダン川の水際に浸ると、川の流れがはるか上流で壁のように立ち、せき止められました。そして、神の民はその乾いたヨルダン川の川底を歩いて対岸まで渡ることができたのです。その直後にも、神の大いなる奇跡が起こります。ヨルダン川を渡った後、目の前に立ちふさがる、城壁に囲まれた要塞都市エリコが現れました。この敵陣を突破しなければ、乳と蜜の流れる故郷カナンの地に入れません。神は、7人の祭司(角笛隊)と神の箱を先導させ、兵士たちと共に角笛を吹きながらエリコの周りを行進させます。一日一回、6日間同じようにさせ、7日目は7周回らせました。最後に神の民が鬨の声を上げると、強固な要塞であるエリコの城壁が崩れ落ちたのでした。そこから一斉にエリコの町になだれ込んだイスラエル軍が難なくそこを占領したのです。しかし神の民の旅はこれで終わりではありません。彼ら12部族がこれから住んで暮らす地域の配分と、430年の間に、そのそれぞれの地域に住みついてしまった敵の軍隊との戦いが残っています。もちろん、神が主導されるので絶対的勝利の約束に頼り続ければ快進撃になるはずですが、そこが罪人である人間の難しさですね。神はヨシュアにその約束成就となる契約条項を述べられました。「私の僕モーセがあなたに命じた律法を、すべて守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功を収める」(ヨシュア1:7)。つまり神に聞き従うということです。しかしやはり弱い人間です。神の奇跡を目の当たりにしながらも、すぐそのあと、神の言いつけを破り、ある兵士が罪を犯してしまいます。イスラエルの軍隊が弱い小さなアイの町の軍隊にあっさりと敗れてしまい、その罪が明るみに出ます。ヨシュアは神にどうして敗北したのか祈ります。すると、アカンという兵士が神の言いつけを破り、エリコの町を占領したその最中、分捕り品を私物化してしまったのが発覚しました。ヨシュアは罪を犯したアカンとその家
族にその責任を取らせ、イスラエル全体は神の前に罪を悔い改めました。そして、再びアイの町を占領することができたのです。神の民の旅路は、リアルな神の敵との戦いと、自分の内側にある罪との闘いの連続です。つまり、神に敵対する堕落天使の悪魔、ルシファーとその手下は、聖書の教えと神の約束をことごとく打ち崩そうと躍起になっています。その反対勢力の奴隷になっている人間とのリアルな戦いと、人間の心の中にある罪を犯させる誘惑などとの闘いの二つがあるというわけです。
 神が計画されて、神に似せて創造された私たち人間には、確かに神の意図があります。それが、私たちの人生の歩みとリンクするのです。アダムとエバの選びにより、私たちは二刀流の生き方の狭間で苦しむ結果となりました。つまり、神の意図された歩みと、神に敵対する悪魔の歩みの葛藤です。さて、その葛藤がすべてクリアーに解決するかというとこのヨシュアの旧約時代にはそうはいきません。イエス様がお生まれになる以前までが、旧約時代ですが、旧約聖書だけでは神の人類に対するご計画は成就しないのです。壮大な神の人類救済計画は、イエス様にその神の御約束が受け継がれた時に完成するのです。その第一段階に過ぎないその内容をもっと詳しく述べてみましょう。イエス様は、私たちの罪は、実際に犯した時に問われるのではなく、心の中でその思いを抱いた時点ですでにアウトであると言われました。つまり、人は生まれながらに罪人、そのままでは救いはないと断言されたのです。あなたがたは、心の中に抱く罪をもって、神の律法である十戒(出エジプト20:3~17)をすべて犯していると指摘されました。先ほどのアカンの罪は、実際に神の言いつけを守らなかった出来事に焦点が合わされていますが、厳密に考えると、心の中でこの分捕り品が自分も欲しいと思った兵士は他にも万といたことでしょう。実際のその思いを実行しなくても罪人なのです。神の言いつけに心底従えなかったのですから。そのどうしようもない罪の解決をされたのがイエス様でした。イエス様は、ご自分の罪のない神のご性質を私たちに罪の代償として差し出されたのです。私たちの罪の身代わりとなり十字架にお架かりになり、私たちが永遠に滅びる結果を御自身が負われたのでした。その御約束を信じる信仰という、新しく結ばれる神との契約によって私たちの罪が永遠に贖われます。そして、近い将来に起こるイエス様の再臨により、罪のない心と体をもう一度与えられ、永遠の御国での再スタートができます。
思えば、アダムとエバ以来、カイン、ノア、そしてアブラハムと受け継がれた神の人類救済の旅は、『強く、雄々しくあれ。私がこの民の先祖に誓い、今この民に与える地を、彼らに受け継がせるのはあなただからだ』とヨシュアに告げられた約束にその意味を捕らえることができます。信仰の大先輩たちに約束され、使命を与えられた旅路は、私たちにも受け継がれているのです。つまり、イエス様に継承された旅路は、完成された契約と希望を後世に受け継がせるように、私たちにも与えられているのです。イエス様は生涯の終わりに弟子たちに命令されました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授けあなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)。私たちの為すべき旅路とは、先祖たちが命をかけて信仰の民を後世に残したように、私たちも後世に信仰の家族である霊的子孫を残す働きなのです。そして、より具体的な働きは何かというと、パウロに引き継がれた信仰が明らかにしました。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上に立つ頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)と述べ、熱心に教会建設のために伝道旅行をしました。パウロがいたからこそ、現在の世界的に広まっている教会が存在するのです。つまり、私たちの究極的な人生の旅路とは、教会を後世に何としてでも残していくことなのです。

28/07/2023

2023年7月22日(土)  「新しい耳で聞く!」    LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
マタイ13章15、16節『この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らをいやさない。しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。』・・・これは「種を蒔く人」のたとえの箇所です。イエス様はこのように語り始められました。マタイ13章1節から23節です。
『その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると根がないために枯れてしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人達は、あなたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いていることを聞きたがったが、聞けなかったのである。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉で覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」』
 イエス様は、カフェルナウム付近のガリラヤ湖畔のほとりに座っておられました。そうすると群衆がきたので、舟に乗り込まれ押し寄せる群衆から少し距離をとられ、そこから自由にお話になりました。そこで多くのたとえ話をされました。その中でもこの「種を蒔く人」のお話が特別にここでは記載されています。大切なお話だったということが言えます。内容はシンプルです。三種類の土地に落ちた種が、それぞれの地に応じて芽を出しそこなったり、枯れてしまったり、あるいは成長しそこないますが、良い土地に落ちたものだけが百倍、六十倍、あるいは三十倍の実を結びました。ここで中心的なことであり、大切なことは、何よりも、「聞くこと」です。9節に「耳のある者は聞きなさい」という御言葉が記されています。これが、イエス様がここで話されたい主題でした。どういう意味かと申しますと、例えば、音楽を聴くのにも、十人十色の聞き方があります。ある人は、その音楽についての知識があり、ある人は、その演奏もできるかもしれません。それぞれによって、その受け止め方が違うのです。イエス様は、「いったいあなたには、神の真理
を聴き取るための耳を持っているか?」と問われているのです。私たちの人生がしっかりとした岩の上の家に等しい人生であるようにと、神の心遣いで聞かせて下さっている言葉です。ちょうどすぐれた音楽を理解しようとして努力するのと同じように、耳を整えているだろうか。イエス様の御言葉は、真理の言葉を聞き耳を立てて聞くようにとの招きであり、また聞いているようでも聞いていない者への審きの言葉でもあります。
 さて、さきほどの三種類の種の行く末について、イエス様は最後に解き明かされます。まず第一に出てくるのは、「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」。こう書かれています。聴き取ったはずの、御国についての言葉を聞くには聞いたけれども、ぼんやりしていて、その御言葉を奪い取られてしまいました。実をもたらす暇もなかったのです。そして次に、「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」。最初は、御言葉を聴いて、受け入れています。御言葉の通りに生きていこうと決心します。しかし、ちょっとでも何か難しい問題にぶつかると、へなへなと崩れてしまいます。それに続く三番目の人は、「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聴くが、世の思い患いや富の誘惑が御言葉をふさいで、実らない人である」。御言葉を聞き取っています。しかし、その御言葉を養う心を持てなくて、色々な思い煩いに負けてしまいます。「神かこの世の富か」という選択に迫られ、ついには神を捨ててしまいます。結局、実を結ぶことができません。ここに三つの種類の、神の言葉を正しく聞き、正しく御言葉に生きることができない人たちの姿があります。いずれも神の御言葉を聞きそこなっています。
このお話は、誰でも分かりやすいお話です。神の御言葉には、命が宿っています。余談ですが、つい最近、私の妻がふとしたことから、毎日食べている玄米を小さな計量カップに入れて水に浸したのです。そしたら芽が出てきました。以前聞いたことはあったのですが、実際に目の当たりにしてとても驚きました。同じように、イエス様は、その中に命の宿っている種になぞらえて、神の御言葉を聞いて自分の内側に宿らせ、育てるようにお話をされたのでした。しかし、現実的には、なかなか簡単にはいきません。それは、生まれながらに私たちの中に自己中心という罪が宿っているからです。それで、イエス様は、イザヤの言葉(イザヤ書6章9,10節)を引用してそのことを説明なさいました。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らをいやさない』(マタイ13:14,15)。この中に「悔い改め」という言葉が出てきます。この「悔い改める」とは、「向きを変えること」ということです。私たちは生まれながらの耳では、神の御言葉を聞くことはできません。イエス様は、「耳のある者は聞きなさい」と言われますが、真実は生まれながらに神の求める耳を持っている人は誰一人いません。ですから、心を変えなければなりません。新しい耳を持たなければならないのです。自分の心の受信機のチャンネルを変えなければなりません。そうしますと、今までの悩みや、問題が解消していきます。病気が癒されていきます。聞き方を変えましょう。私たちの罪が赦され、心がすっきりしていきます。神のみこころに沿って、イエス様の願いに沿って変えていくのです。自分のこころではなく、神のみこころにチャンネルを合わせるのです。そのようにして、新しい耳で聞いた時に初めて、イエス様の御言葉が、今のこの世にとって、自分にとってどんなにか大切な真理であるかが、はっきり分かってきます。その時に、私たちはイエス・キリストによって癒され、霊的な実りが60倍100倍となるのです。そうした時に、イエス様が引用されたイザヤの審きの言葉が、私たちには当てはまらなくなるのです。

20/07/2023

2023年7月15日(土)    「賢い人!」     LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
マタイ7章24節『そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。』・・・これは「家と土台」のたとえの箇所です。イエス様はこのように語り始められました。
 「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲い掛かると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7章24~27節)
 先日、イスラエルのパレスチナ紛争のニュースがまた流れていました。聖書物語の中心地なだけに、何か残念な気がしてなりません。でもその地域に住む住民は、家にそれぞれシェルターがあり、なにか問題が起これば、家族中がそこに逃げ込みます。子供でも銃の扱い方を知っています。私たち日本人からしたら、なんと物騒で考えられない世界のように感じてしまいますが、彼らにとってはそれが日常なのです。ある日本人がその現地の人たちに「大変な生活を強いられていますね?」とインタビューしたところ、「日本だって地震や災害が頻繁に起こっているじゃないか!」と返事が返ってきたそうです。よく考えてみますと、その通りで、先日から線状降水帯が発生し、日本各地で土砂崩れで壊れた家や水没した地域など、被害を受けたり、亡くなった方もたくさんおられます。また、そのちょっと前の5月初めには石川県で震度6の地震があったばかりです。私たちは、自然の災害の恐ろしさを知っています。地震や台風など日本は絶えず災害に遭う危険にさらされています。ですから、災害に耐えられる家を造ろうとします。もし、家が倒れたりしたら絶望です。建て直すのに、大きな苦労を強いられます。連日のニュースは、そのような人たちの困り果てた姿を映し出しています。ここで、イエス様はこのような災害に備えなさいと言われたのでしょうか。それと同じように、イエス様のお話の主題は、私たちの人生の崩壊です。人生が一度崩壊すると、取り返しのつかない状態になりかねません。
 言われるまでもなく、私たちは、一生を通じてこの御言葉で教えられている通りに、一所懸命に自分の人生を岩の上に建てようと考えています。特に日本人は、勤勉ですから、今回のイエス様のお話は、よく分かると思います。長野とか富山は、日本でも有数な教育県です。それは、自分の子供たちに、将来の生活をよりよくしてもらいたいと思う親心からきています。良い学校教育、学歴をよくしたいと思うのは人情です。そうして、収入のちょっとでもいい会社や仕事に就こうとします。そして、自分の土地を手に入れ、家を建て、よい家族が与えられる、そういう段階を踏んでいくと、自分の人生はしっかりした岩の上に建てられていると確信します。多くの人たちが願っていることです。これは、個人の生活だけではなく、社会全体にも言える事です。
 もちろんイエス様は、もろい家を建ててはいけないとだけ言っておられるのではありません。どうしたら家(人生)がしっかりするのか、どういう岩の上に、どのように建てたらよいかを問うておられるのです。この御言葉は、マタイによる福音書の5章3節から始まっています。有名な「山上の説教」と呼ばれる長いイエス様の教えの最後の言葉です。    
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは血を受け継ぐ」そのように語り始められました。この個所は、神の子として命を与えられた人間が歩むべき道を凝縮して語られた興味深い部分です。
イエス様は、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」について話されました。賢くならなければいけないのです。イエス様のみ言葉に生きる人は愚かではなく、賢いのです。
 それで、この「賢い人」とは、どういう人の事でしょうか。この賢さは、冒頭の聖句にあるように、「私の言葉を聞いて行う者」です。イエス様の言葉を聴いて行うということが、賢いということなのです。このたとえ話の前に語られた言葉が大切です。マタイ7章21~23節です。「私に向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私は御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』」。
 ここでは、ただ御言葉を実行する者と実行しない者という区別ではありません。ここには二種類の人たちがいます。岩の上に家を建てる人と、砂の上に家を建てる人です。これが賢い者と愚かな者です。どちらかが実行し、どちらかが実行しないというのではありません。両方とも何かをしているのです。しかも、「私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と叫んでいます。神の名によってなすべきことをしたと主張しています。つまり、自分では、きちんと信仰に生きて、その信仰をもって聴き取った神の言葉を語ったし、実行したつもりでいるのです。ところが、それがイエス・キリストの目から見ると不法になっています。法に適っていないのです。「不法を働く者ども、私から離れ去れ」と、イエス様は言われます。これらの人々は「私の天の父の御心を行う者」ではありません。「私の言葉を聞いて行う者」ではないのです。キリストの言葉をキリストの言葉として聞いていません。
 これは、私たちにも言える事ではないでしょうか。信仰に生き、神の言葉を聞いて生きているつもりでも、そうではなく、その間違いに気づいていないのです。つまり、『イエス様の言われることを理解せずに、自分よがりの信仰で、神の名前を利用し、本当は、自分の意志を行っているだけではないか?』ということです。この「山上の説教」の中で、イエス様が繰り返されたのは、『偽善者』についてでした。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(マタイ6:5)「偽善者たちは、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」(同6:16)「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか。・・偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」(同7:3,5)。そして、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍びこんで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(同6:19~21 )と言われ徳を積むことを求められました。つまり、「だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(同6:6)「あなたは断食するときに、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」(同6:17,18)など、純粋に神への捧げものとしてすべての行為を聖めなさいと言われます。そして、「こう祈りなさい。『御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天のおけるように地の上にも』」(同6:9,10 )とまず、何よりも、神のご支配が確立するように求められました。ただひたすら神の御旨がなるように、神のご意志が地上の現実になることを、私たちの生きる目的とするように求められたのです。この祈りが真実であるとき、私たちの人生は、岩の上の家となります。
 私たちが神の願われることに集中して、己の自我や欲望、下心を抹殺し、ひたすら神様の御心がなるように一所懸命になる時に、己の思い煩いが完全に消え去るのです。イエス様が示された無条件の愛に集中しましょう。私たちもその思いが成るように祈りイエス様を真似びましょう。イエス様の事をつねに考えましょう。その人が「賢い人」なのです。

14/07/2023

2023年7月8日(土)    「愛の権威!」     LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
マタイ21章42,44節『イエスは言われた。「聖書にこう書かれてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで私たちの目には不思議に思える。』・・この石の上に落ちる者は打ち砕かれる。この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」』・・・これは「ぶどう園と農夫」のたとえの箇所です。イエス様はこのように語り始められました。
 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう』。そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」。イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者たちの捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』。だから、言っておくが、神の国はあなたたちの手から取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」
 前回、これに先立つぶどう園のお話をしました。その主題は権威についてでしたが、今回も権威が主題です。現代の日本社会では、権威をやたらに振り回す人は嫌われます。それはそれでいいと思いますが、ここの問題は、一般的な権威ではありません。イエス様の権威です。私たちに救いをもたらす権威です。イエス様の権威を土台にすることにより、私たち人間に真実の自由が与えられるのです。
 ひとりの家の主人が旅に出かけました。ぶどう園を農夫たちに貸して、収穫を彼らに委ねたのです。もちろん、農夫たちを信頼していました。この農夫たちは、神の民イスラエルと呼ばれた人たちのことです。ユダヤ人のことです。その代表者たちが、祭司長たちです。主人とは神様のことです。しかし、同時に、現代を生きている私たちの世界が神のぶどう園そのものです。そして、私たちは、神様からこの世界をお借りしているのです。仏教の世界では、この世は「仮の世」と言います。聖書ではそのようには言いません。神様が造られたものだからです。そして、私たちは神様からお借りして、住んでいます。いわば、「借りの世」です。だから、責任を自覚して、この世で生きる必要があります。所有者に対する誠実、それが働き場所を貸して頂いている者の当然のことです。ですから、この世で真実の権威があるのは神様です。その権威が重んじられてない所では、ぶどう園での働きも健康的で実り多いものにはなりません。
 でも、働いている場所が自分のものではないのは、農夫にとって気に入りません。そこに主人からの使いの者がやって来ました。定期的に収穫の利益を計算し、その取り分を持っていくのは当然のことです。しかし、農夫たちはその主人の権威を否定し、その使いの者を次から次へと、驚くべきことに殺してしまいます。その時点では、まだ農夫たちの忠誠心を疑ってはいませんでした。そこで主人は、「いくら何でも、私の息子なら敬ってくれるだろう」と考えて、息子を送ったのですが、農夫たちはこの跡取りがいなくなれば財産は完全に自分たちのものになると考えて、とうとう殺してしまいました。彼らは、主人の権威を完全に否定し、主人の跡取りの権威も否定し、自分たちの権威を主張しました。
 これは、とても恐ろしく、悲しい物語です。しかし、それが現実となりました。神様が最愛の御子イエス・キリストをお送りになり、悔い改めを求められた神の民イスラエルの現実となったのです。神様がすべてを託し、神殿の管理も委ねておられた祭司長たちは、その神殿で御言葉を語る御子イエス・キリストを抹殺しようとします。イエス様は、その権威者たちと対峙しつつ、神様の権威に逆らう者の正体を明らかにされます。神様がイスラエルの民を信頼して委ねた園から産み出された宝を、神様に献げ、栄光を帰することを彼らは拒否しました。神様自身を抹殺しようとする事実を、このたとえ話でイエス様は語られました。これが恐ろしい、神の民イスラエルの現実でした。
 しかし、またこれが、神様に作られ、神の栄光をほめたたえるべき私たちの世界の現実でもあります。現代の世界は、次から次へと色々な問題を抱え込み、苦しみ、悩んでいます。一方では、人間が造ってきた文化や文明に酔いしれているところもあります。それだけに、私たちの心の中の矛盾と葛藤は深い闇の中にあります。その根本的な問題は何でしょうか。この世界は、自分が所有者であるかのように思い込んでいるところにあります。そして、これは個人的な生活の場面でも当てはまります。職場や、学校や、家庭においての私たちの姿はどうでしょうか。みんなどこかでこの世の主人になりたがっています。自分も権威を持とうとします。会社でうだつの上がらない夫は、家庭の中で威張りたくなります。妻は自分の権利を譲りません。当然そこに争いが生まれます。子供は、自分の所有権を少しでも増やしたいから、兄弟喧嘩が起こります。親は、子供に対して、自分たちの望みを押し付けます。子供に親の要望を要求し、命令し、反抗すると腹を立てて、虐待が起こります。最近では、子供たちが結託し母親を虐待して押し入れに監禁し、末の弟を殺したというむごたらしい事件が起こっています。考えてみますと、私たちはとてもよく腹を立てます。怒り、腹を立てて、自己主張する時に、迷惑を受けるのは家族だけではありません。あるいは、部下や友人や周りの人だけでもありません。そのことによって、私たちは神様が世界の所有者であられるということを忘れてしまうのです。これは最大の問題です。この世は神様からすべてお借りしているものです。家族でも、友人でもそうです。神様をこの世の所有者として大切にして生きることは、とても大切な事です。私たちの周りに送られてくる神様の使いが、愛のメッセージを伝えます。しかし、それを聞こうとしないのは、ことごとくそれら使いを殺しているのと同じことです。この物語における悲劇は、そのような神様への裏切りが神の子を殺すことにおいて極まるということです。イエス様は、世界のすべての権威を持っておられる方として登場されました。しかし、その権威を奪われ殺されてしまいます。一方では、何か情けない物語のようにも思えます。なぜ殺されるままに任せておられるのでしょうか。イエス様は、その結論は、「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』だから神の国はあなたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれからの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と語られました。神の国を建てる務めにあるはずの者に捨てられる石、それがご自分である、とイエス様は知っておられました。邪魔で捨てられた石が、新しく家が造られる時の、最も中心的な礎になるのです。ここに秘密が隠されています。真実は、愛の権威により、神を裏切った私たちは捨てられずに、造りなおされるのです。御自身が私たちの代わりに殺されて、自分の権威を貫かれました。それこそ愛の権威です。十字架は真に世界を永遠に支配されるイエスの愛の権威を表しています。

07/07/2023

2023年7月1日(土)   「考え方を変える!」    LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
マタイ21章32節『なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。』・・・これは、イエス様の「不正な管理人「二人の息子」のたとえの最後の箇所です。・・『ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」』(マタイ21章28~32節)
 兄と弟のふたりが、それぞれ、父に頼まれます。ぶどう園へ行って働いてくれと、命じられました。兄のほうは「いやです」と答えました。しかし、実際には考え直して出かけていって働きました。しかし、弟のほうは、「お父さん、承知しました」と返事はよかったのですが、実際には行きませんでした。ただそれだけの単純なお話です。しかし、イエス様は、このあと間もなく十字架におかかりになって死んでいかれます。それだけに、この中に込められたイエス様の思いは深いものがあります。
イエス様がこのたとえ話をされるきっかけがありました。『イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。イエスはお答えになった。「では、私も一つ尋ねる。それに答えるなら、私も、何の権威でこのようなことをしているのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば群衆が怖い。皆はヨハネを預言者と思っているから」。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」。』(マタイ21:23~27)。当時のユダヤ社会の中で、指導者的な立場の人々が、神殿の一切を取り仕切っていた祭司長や長老たちです。その彼らとイエス様との間に激しい緊張関係が生じてきています。エルサレムの町にお入りになられて、さらに緊張が高まり、ついに十字架につけられる事件が起こります。その直前のたいへん緊張した状況の中で、イエス様はこのお話をなさいました。しかも、ここで問われているのは、イエス様の権威です。バプテスマのヨハネの話をしておられます。ヨハネのバプテスマも、天からの権威によるものです。ヨハネからバプテスマを受けた人たちは認めているのに、祭司長たちは、認めようとしません。そこで、イエス様は、このお話をされたのです。ぶどう園というのは神の民イスラエルのことです。このぶどう園の主人は神です。父親でもあります。その父である神のぶどう園で働くのは、その子供たちです。そこで働く人間として二つのタイプの人間が登場しています。イエス様が、私たちを神の子として見ておられます。神の子として、その父にふさわしい生活をするかどうかということを、私たちに問うておられるのです。
そこで、神の子として、父なる神の支配しておられるぶどう園で働くように命じられたのが二人の兄弟でした。問題は、ただ、有言不実行か不言実行かということではありません。二人の兄弟が実行すべきは父の意志でした。「どちらが父親の望みどおりにしたか」
とイエス様は問われます。この二つの種類の人間が存在していると、イエス様は語られました。その二つの種類の人間とは、誰でしょうか。まず、「徴税人や娼婦」が兄として描かれています。では、なぜ、徴税人と娼婦が実行したのでしょうか。また、神が命じられたことは何でしょうか。それに対して、弟とは、祭司長や民の長老たちです。彼らはたいへん模範的な信仰と道徳の生活をしていた人々です。彼らは反対に、父である神のご命令を実行していません。何を実行していないのでしょうか。
 このたとえ話の前に、イエス様はバプテスマのヨハネのことを語られました。そして、この場面でも、ヨハネのことを語られました。「はっきり言っておく、徴税人の娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て神の義を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。イエス様が来られるのに先立ちヨハネは、ただひたすら、神の民の悔い改めを説き、そのためのバプテスマを勧めたのです。神のぶどう園を神のものとしてお返しするための浄化作業をしました。マタイは、ヨハネの登場を、このように描いています。『そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」』(マタイ3:1~3)悔い改めなさい。天の国、神の国は近づいた。神の国とは、神の支配ということです。神の支配がはじまり、ぶどう園で働くときが来ています。その神にふさわしいように、悔い改めなさい。今までの生活を変え、今までの考え方を変えなければなりません、と語られます。考え方を変える、このたとえ話の主題はこれです。イエス様はこう語られます。「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた」。そして最後の言葉も、こうであったのです。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、・・あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。徴税人や娼婦たちが、なぜここでイエス様によって、高く評価されているかというと、それは神のご命令に従ったからです。預言者が伝えた神のご命令に従ったのです。それが考え直したということでした。心を入れ換えたのです。実行すべきことは、このことでした。こころを変えるとは、悔い改めることです。つまり、自分の罪を認めることです。バプテスマのヨハネが登場して、誰にでも罪があると言いました。信仰に生きて正しい行いをしていると思っている人間であっても、本当に神の御心にふさわしい生活をしているかどうか、神のぶどう園にふさわしく生きているか、そのことをよく考えてみると、自分は悔い改める必要はないと言える人は誰もいません。そうだとすれば、徴税人や娼婦たちにしても、祭司長や民の長老にしても、しなければならないことはただ一つしかありません。ぶどう園に行って、つまり父なる神のもとに行って、その父なる神にふさわしい仕方で神を愛し、神のみこころに従って生きること、それはまず何よりも、悔い改めることに始まります。つまり、己を神とする生き方から、ほんとうの神に立ち返ること。わがままで欲望優先の自己中心的な生き方から、愛と憐みを中心とするイエス様の生き方にすべての人が、考え方を変える必要があるのです。なぜなら、最初からそのように人は神によって造られたからです。その愛のゆえに、人は永遠に生きるように造られたのです。
 また、このたとえのきっかけは、当時の宗教界における権威者たちとの論争でした。イエス様の権威を祭司長、長老たちが問い正しました。誰から許可、認可を得たのかということでした。彼らの権威に関わることでした。イエス様は、「ヨハネに見られる権威は、天からのものか、それとも、人からのものか」と逆に問い直されたのです。祭司長、長老たちが、イエスを裁いているつもりでした。しかし、ここでは、イエス様の厳しい裁きが聞こえます。祭司長、長老たちが神殿における権威を主張していましたが、それを凌駕する神の絶対的権威です。今、私たちは兄であるのか、弟であるのかを改めて問われます。

22/06/2023

2023年6月24日(土)   「首尾一貫した人生!」   LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ルカ16章13節『どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない。』・・・これは、イエス様の「不正な管理人」のたとえの最後の箇所です。・・・イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口する者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて行った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない』。管理人は、考えた。『どうしようか、主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』。そこで、管理人は、主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい』。また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい』。主人は、この不当な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。・・冒頭聖句・・・。
 ある金持ちが、自分の財産を管理するために一人の男を雇っていました。その男に全財産を任せていました。しかし、その男は自分のためにお金を使い、それがばれてしまいました。そこで、主人に呼ばれて、会計報告を出せと命令されました。もしも会計報告にいい加減なところがあったら、クビだと言われました。追いつめられ、困ってしまった男はそれからいったい何をしたのでしょうか。イエス様がしてくださったお話のなかでも、緊張感あふれる、興味ある物語です。私たちがこの男だったら、考えられる道は何でしょうか。とにかく主人に徹底的に謝り抜いて、何とか側に置いてもらおうと決心することもできたでしょう。あるいはまた、ここまで悪いことをしてきたのだから、きっばり諦めて、放り出されて、最初からやり直すこともできます。肉体労働でも何でもやって、一から出直そうという考え方もできたかもしれません。ところが、この男はどのどれもしませんでした。思いついたのは、今まで主人に借りを作ってしまった人々を呼び出したのです。そして、改めてどれだけの借りがあるか確かめさせます。ある人は油100バトス分と言いました。1バトスは23リットルです。ですから2,300ℓ(約2トン)の油です。また他の人は、小麦100コロス、1コロスは230リットル、つまり23,000ℓ(約18トン)の小麦になります。そこで、この男は、その場で借用書は書き換えさせます。最初の2トンの油を借用の男は、半分の1トンにしてやります。そして、小麦18トンを借用の男は、14トンにしてやります。負債の証書を次から次へと書き換えさせて、返すべき額を少なくしてやりました。どうしてかというと、ここで恩を売っておいて、あとで、自分がクビになった時に、自分が恩を売っておいた男たちの所へ行き、自分の面倒を見てもらうためです。悪賢い男の手口です。これはイエス様のたとえ話ですが、実際にありそうですね。
 この話の内容は、とても分かりやすいものです。そして聖書の中でも、このたとえ話は
よく知られています。なぜかと言いますと、イエス様が話されたにしては、不道徳すぎるからです。しかも、この主人は、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります。この口ぶりですと、見どころがあるということで、この管理人は仕事を続けられたかもしれません。主人も、もともと、自分が雇っていた管理人と同じように「抜け目のない」人であって、自分と同類の人間をほめたのかもしれません。しかし、問題なのはイエス様が決して否定的に語っておられないということです。不正な管理人を決して非難してはおられません。むしろ、私たちの手本にしなさいと言っておられるようです。
 なかなか難問です。どうしてイエス様は、このように徹底して偽り、主人をだまそうとし、しかも自分を助けるのに、今まで自分が貯めた財産を誰かにあげて、助けを乞うというのではなく、その場になっても、主人の財産を用いて自分の立場を確保しようとした悪人をおほめになったのでしょうか。もちろん、イエス様は、管理人の不正を強調しておられます。「不正にまみれた富」とさえ呼んでおられます。私たちが戸惑うのは承知の上で話されたようにも思われます。明らかに私たちに何かを気づかせるためのようです。
 イエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。ここでは「この世の子ら」と訳されていますが、他の聖書箇所では、「闇の子」とも訳されています。つまり、「光の子」に対する「闇の子」です。
 先日、ある女性画家へのインタビューが放送されていました。最近とても評価されて、売れっ子の絵画アーティストです。彼女が小学生の頃、絵が好きだから将来は画家になると母親に話したそうです。母親は音楽家として生きてきたので、その道で生きるというのはとても大変だと実感していました。それで、娘にそれを伝えたくて、一つの絵本を買ってきて読みなさいと与えたそうです。その本は、「フランダースの犬」でした。少年ネロは、画家志望でしたが、極貧の中、放火の濡れ衣を着せられて、最後は、愛犬のパトラッシュと共に雪が降り積もる極寒の夜、教会の大聖堂の「キリストの昇架」の絵の前で息絶えるという物語です。これを読んだ彼女は、“娘が画家を諦めてくれる”との母親の思惑に反して、少年ネロはとても要領が悪い子だからダメなんだと結論付けました。それよりも、「アラビアンナイト」に出てくるような、“ずるがしこさ”が生きていくためには必要なんだ。むしろ、そのような人間が称賛されるんだと確信しつつ、その後、海外留学で苦労を積んだ末の今の自分があると結びました。何か、身につまされそうなお話です。
 イエス様は、「闇の子」つまり、神を信じていない人たちの悪賢い生き方に、徹底的に「首尾一貫」した闇の子の姿を示唆されました。もちろん、その生き方を称賛されて、私たちに勧めておられるわけではありません。そうではなくて、「光の子」と自認している私たちの生き方を振り返る必要を語られます。クリスチャンとしての「光の子」を自認していながら、私たちは世に生きています。世には不条理がいくらでもあります。会社では不本意でも上役や会社の命令に従わなければなりません。言ってはいけないと思う事を言わないと商売が成り立たないかもしれません。人間関係を保つために嘘を言ってしまう事もあるかもしれません。光の子が闇の子と共に生きていくには、妥協しなければなりません。そのように生きていながら、なおも、私たちは、自分は光の子なのだと自認しています。何かおかしいですね。イエス様は、そのような私たちの中途半端さに目を向けておられるのではないでしょうか。神を友とすることを第一とし、神に喜んで迎えていただけるような生活を、自分のこの世のさまざまな財産、さまざまな才能、どんなものを使ってでも徹底して生きる、そのことがここで勧められているように思われます。そのあとの「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とのイエス様の御言葉は、徹底した光の子としての「首尾一貫した人生」を私たちに提示しておられます。選ぶのは私たちです!

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