守谷キリスト教会(東京フリー・メソジスト教団)

守谷キリスト教会(東京フリー・メソジスト教団) 茨城県守谷市のキリスト教会です。
普段の生活と仕事に活力を。人間関係に笑顔と赦しを。そして本当に知るべき神との出会いを。祝福を受け継ぎ分かち合う教会です。

マタイの福音書6章9~13,25~34節 主の祈り③「天の父を見上げる祈り」2024.6.9礼拝説教要約主の祈りでは「天にまします我らの父よ」と呼びかけます。神は天と地を創造しました。ここで創造された天とは、英語の「heaven」であり、単...
25/06/2024

マタイの福音書6章9~13,25~34節 主の祈り③「天の父を見上げる祈り」2024.6.9礼拝説教要約

主の祈りでは「天にまします我らの父よ」と呼びかけます。

神は天と地を創造しました。

ここで創造された天とは、
英語の「heaven」であり、

単なる空ではなく、

目に見えない霊的な領域を意味します。

この天に、神はご自分の居場所を定めておられます。

主の祈りは、この方に向けられた祈りなのです。

天に居場所をもっておられる神は、
私たちの近くに来てくださいました。

旧約の時代において、

神はアブラハムとその一族を呼び出し、
ご自分の臨在を表す民とされました。

モーセを通じてイスラエルを導き、
幕屋や神殿をその臨在の場所とされました。

そして神はイエス・キリストという一人の人間となり、
その肉体にご自分の場所を定めておられました。

イエスが天に昇られるとき、
使徒たちに「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」
と約束されました。

天という領域は、今日もこの地において広がっています。

神の国は目に見える形ではなく
、私たちのただ中にあるのです。

洗礼式や聖餐式、賛美の中に神の臨在があります。

天の父に祈ることは、
神を正しく畏れることでもあります。

神は私たちの理解を超えて働かれる方です。

現代社会ではわかりやすさが重視されます。

教会が宣教を志すなら、わかりやすさは大切です。

しかし、神の御心は時にわかりにくいこともあります。

自分の理性では納得のいかないことに従うよう導かれることもあります。

わかりやすさを当たり前としている私たちは、
神がそのような促しをされたときに従う準備はできているでしょうか。

聖霊が私たちのうちに働いてくださるなら、
たとえ理性で難しいと感じることに従う時であっても、
そこに悲壮感はありません。

イエスは主の祈りを教えた後、
天の父の暖かい眼差しについても語られました。

「明日のことをなぜ心配するのですか。信仰の薄い人たち。」

天というところに場所を持ち、
すべてをご覧になっておられる父が私たちを養ってくださるのです。

信仰の手を今日も共に伸ばしましょう。

説教要約はこちらhttps://note.com/star_14/n/ncfcabf09803b守谷キリスト教会https://www.moriyachurch.org毎週日曜日子ども礼拝9:15〜礼拝 10:00〜 #キリスト教  #教会  #創世記

08/06/2024

創世記1章1~13節「神の暖かい眼差し」 2024.6.2 礼拝説教要約

どうして、私は今ここに立っているのか。
どこから来て、どこへ行こうとしているのか。

どの時代にあっても、どの文化にいる人であっても抱く疑問かもしれません。

それに応えるために、各文明ではそれぞれの神話が語り継がれました。

いくつかの神話で共通するのは、はじめに混沌があり、
神々の間での戦いが起こり、世界はそのはずみで生み出されるというものです。

例えば、古代バビロニアのエヌマ・エリシュでは、
淡水の神アプスーと塩水の女神ティアマトから若い神々が生まれ、
神々の戦いの末に世界が形成されます。

しかし、聖書の創造物語はこれとは大きく異なります。

唯一の神が意図を持って秩序をもたらし、
6日で世界を創造し、7日目に休まれたとされています。

私たちは創世記を神話としてではなく、
私たちの起源と目的を示すものとして大切に扱っています。

今日、特に注目したいのは、
創世記の記述を古代の宇宙論として理解する方法です。

古代のイスラエルにとって、「存在する」とは機能的な概念であり、
物質的な存在や認知的な存在よりも重要でした。

例えば、椅子が存在するかどうかは、
その椅子が機能を果たしているかどうかによって決まります。

創世記の最初の三日間で、
神は時間、天候、生物の生息環境を創造されました。

第一日目には光を創造し、昼と夜を分けて時間の基礎を築きました。

第二日目には大空を造り、天候を機能させました。

第三日目には大地と海を分け、植物が育つ環境を整えました。

この創造の御業を感動と感謝を持って受け取りましょう。

詩篇139篇13~18節には、
神が私たちを創造された時の美しさが描かれています。

光を良しと見られ、海を良しと見られ、
そして豊かに成長する植物をご覧になって良しとされた、
神の暖かい眼差しは、
まだ私たちがお母さんのお腹の中にいる胎児のときに、確かに注がれたのです。

あの時、あなたのことを神は良しと見られたのです。

あなたの魂は、実はそれをもう知っています。

だから、私たちは今日もこの創造主である神に向かって大胆に目を上げます。

私たちは、私たちに与えられているたくさんの神様からの良いもの、
贈り物を管理する者として、ここから出発しましょう。

https://youtu.be/Ziz-Lb6CuE4

ヨハネの福音書14章16~18節「聖霊の親しい交わりへの招待」 2024.5.19 守谷キリスト教会礼拝 説教要約「聖霊の交わり」という言葉を祝福として受け取って、私たちは毎週の礼拝から送り出されていきます。ペンテコステの今日はこの言葉につ...
22/05/2024

ヨハネの福音書14章16~18節「聖霊の親しい交わりへの招待」 2024.5.19 守谷キリスト教会礼拝 説教要約

「聖霊の交わり」という言葉を祝福として受け取って、
私たちは毎週の礼拝から送り出されていきます。

ペンテコステの今日はこの言葉についてより深く思い巡らし、
恵みとして受け取っていきます。

ペンテコステはイエスが弟子たちになさった約束が実現した日です。
それは助け主として聖霊が弟子たちに与えられるという約束でした。

聖霊は、私たちの傍らに立って助けてくださる神です。

彼は私たちに父なる神と御子イエスがどのような方であるのか教えてくださいます。

聖霊によって私たちは、
キリストを通して差し出されている途方もなく大きな恵みを、
自分のためのものとして受け取ることができます。

聖霊によって、
父なる神の愛によって子としての身分が回復されていることを確信します。

このように聖霊は、
私たちに神について教え、
私たちの新しい身分について確信させてくださる神です。

これを学ぶために、
聖霊が私たちを今日も招待してくださっている場があります。

父・子・聖霊の三位一体の交わりに私たちも加わるよう招かれているのです。

この三位一体の交わりの多様性を表すものとして教会があります。

また、御子イエスの十字架によって、聖霊に助けられて、
父なる神の身許に出ていく礼拝に出席することも
三位一体の交わりに加えられることです。

あるいは聖書から個人的に教えられること、

そしてそれを信仰の友と分かち合うことも

三位一体の交わりに加えられることです。

私たちと神との関係とは、父と私との1vs1の関係ではなく、

天の父と御子イエスと聖霊と私の4人の関係性なのです。

この親密な三位一体の交わりに自分も加えられるとき、

そこには深い感動があります。

その交わりの中で私たちは新しい自分へと、
さらに造り変えられ続けていくのです。

聖霊についての約束と同時に、
イエスは「わたしはあなた方を捨てて孤児にはしません。
あなた方のところに戻ってきます。」
という約束もなさいました。

その約束はまだ実現していません。

しかし一つ目の約束はすでに果たされたのです。

それは旧約の時代から実現が待ち望まれてきた約束でもありました。

だから、私たちは二つ目の約束も確信して待ち望むことができるのです。

ペンテコステおめでとうございます。

説教要約はこちらhttps://note.com/star_14/n/ncfcabf09803b守谷キリスト教会https://www.moriyachurch.org毎週日曜日子ども礼拝9:15〜礼拝 10:00〜 #キリスト教  #教会  #ヨハネの福音書     #新約聖書

16/05/2024

マタイの福音書6章1〜13節 主の祈り②「本当の願いを満たす祈り」守谷教会キリスト教会礼拝説教要約 2024.5.14

今回は、神を呼びかける時に使う「父」という語に注目します。

イエスは主の祈りを教える時、
偽善者や異邦人のようであってはならないと言われました。

偽善者とは、信仰を持っている人でもあります。

しかしその人は自分が本当は何を求めて祈っているのかがわかっていません。

偽善者の祈りや断食の結果、
彼らはすでに自分の報いを受けているとイエスは言われました。

それは彼らが心の奥底で本当に求めているものは人からの賞賛であり、
プライドが満たされることだからです。

だから宗教的で慈善的な行為を人前でわかりやすく行うなら、
それを見た周囲からの反応によって、
その心の願いは達成されていることになるとイエスは皮肉を持って指摘しています。

また、異邦人とはここでは信仰を持っていない人のことを指します。

往々にして、
彼らは自分の熱心さや捧げる犠牲、
あるいは痛みに耐えることによって、
求めているものを得ようとします。

神が「父」であるという概念は、出エジプト記で登場します。

神はモーセをファラオの元に遣わして、
イスラエルを「わたしの長子」と呼びました(出エ4:22-23)。

イスラエルが、古代中近東の神々から父と名乗る神を選んだのではなく、
神がイスラエルを選び、救いの計画のための特別な民族として任命しました。

私たちが本当に願い求めているのは、ここにいて良いと納得できる理由です。

天の父よ、と目をあげて祈る時、
私たちが誇るのは、私たちを選ぶために犠牲を払ってくださったイエスの十字架です。

イエスは
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、
わたしがあなたがたを選び任命し、遣わす」と宣言されました。

父である神と、
兄であるイエスがすでになさっているプロジェクトに加わるよう、
私たちは弟・妹として招かれています。

主の祈りを祈る時、私たちは聖霊の助けによってそこに加えられるのです。

そこには朽ちることのない誇りが与えられます。

主の祈りが、定型文であることは私たちへの贈り物です。
私たちの気持ちが沈み込む時であっても、
また1週間の中で1度も祈ることもできずに礼拝に戻ってきた時にも、
主の祈りは私たちに与えられています。

私たちは父に望まれて、この世界に生き、それぞれの場所に遣わされているのです。

https://youtu.be/rLcSZ6iUPd8

10/05/2024

エペソ人への手紙4章20〜5章2節「聖霊の装いが似合う自分へ」2024.5.5 礼拝説教要約

初めてスーツに袖を通した時、着られている感と同時に、
大人になっていく自分の両方にむず痒い感じがしました。

愛されている子どもらしく、神に倣う者の歩みとはどのようなものか。

パウロは衣服の比喩でもって語りかけます。

古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ることで、着ている人は新しくされ続けるのです。

「新しい」という言葉がキーワードです。

4章24節の「新しい人」で使われているギリシャ語はカイノスです。

これは質的に全く新しい、
これまでのものとは異なっているという意味があります。

「新しい人」とは聖霊のことで、
イエス・キリストが十字架で死んでよみがえられたことによって実現した、
イエスの約束です。

このために私たちの側で努力したことは、一つもありません。

ただ、神がその愛ゆえにに、
それまで私たちを縛っていた古い人、鎖を打ち砕いて、
私たちに「新しい人」を着せてくださったのです。

この聖霊という衣服は、たとえ悪魔によっても脱がされることはありません。

聖霊は証印であり、それは贖いの日まで私たちの霊を守り続けるからです。

だから悪魔は、過ぎ去った以前のものを私たちに見せ、
私たちが自分からこの衣服を脱ぐように仕向けようとするのです。

しかし騙される必要はありません。
そしてこの新しい人を着続ける時、
私たちの霊は23節にあるように「新しくされ続け」ます。

ここでは英語のNewに派生したネオという単語が使われます。

新鮮さ、若さを獲得し続けていくのです。

それは私たちが日常で選び取る一つ一つの行動によってです。

いつまでも怒りを持ち続けないこと。

不正なことをせずに正当な労働し、必要な人に分け与えること。

簡単に口から出てくる悪い言葉ではなく、
周りの人の成長に役立つ言葉を語ること。

聖霊の声に聞き従うこと。

悪意の種である恨みや憤り、怒り、わめき、冒涜を捨てること。

互いに親切にし、赦し合うこと。

私たちには、これらを選び取ることのできる人生が与えられているのです。

洋服でも和服でも、素晴らしい服を着ているなら、
私たちはそれに相応しい振る舞いをし、自分になろうとします。

イエス・キリストの人生、その愛に全ての魅力があるのです。

このイエスの愛に倣う者として、この週も歩んでいきましょう。

https://youtu.be/yXxMkXs0grQ

エペソ人への手紙1章1~12節「教会は天国の看板をデザインする」 2024/04/21 説教要約以前住んでいた家の近所に、とても美味しいラーメン屋さんがありました。しかしそこに掲げられている看板は、地味なものでした。現代は「映え」が大切とさ...
21/04/2024

エペソ人への手紙1章1~12節「教会は天国の看板をデザインする」 2024/04/21 説教要約以前住んでいた家の近所に、
とても美味しいラーメン屋さんがありました。

しかしそこに掲げられている看板は、地味なものでした。

現代は「映え」が大切とされます。
写真映えするもの=おいしい、見かけの良い人=正しい
という公式が成立しつつある社会です。

看板は、その店の商品の前味を伝えるものです。

教会がキリストにおいて一つであることは、
時が満ちて神が計画を実行されることの予告です。

教会の存在そのものが、
やがてキリストが来られる日にキリストにあって
一切のものが一つに集められるという、
みこころの奥義についてのメッセージなのです。

だから、教会が一つとなって集まる姿は、
やがて完成する神の国の前味を伝える魅力的な看板となります。

一つとなりたいという思いは、
人間の本質に組み込まれたもので聖書にも随所で見られます。

一方で、一体性には全体主義や同調圧力、
他者の排除につながる面もあります。

バベルの塔は、その側面を暗示しています。

人間たちは一つとなって、天に届くほどの塔を建てようとしました。
神は言われました。
「彼らがしようと企てることで、不可能なことは一つもない(創11:6)。」
そうして、神はその人間たちをバラバラに、地の全面に散らされたのです。

私たちを一つにするのは、人間の力によるバベルの塔ではないのです。

神の国が完成する時の「一つにされる」ことが、
具体的にどのようなことであるのかは、詳細にはわかりません。

私たちの目の涙が拭われるように、私たちがこれまでに経験し、
これからも背負っていくことについて、
それらが伏線だったのだと納得が与えられることではあるでしょう。

またイエスが山上の説教で描いたような
大逆転の喜びが与えられることでもあるでしょう。

この看板を掲げる教会の例として、
使徒の働き11章に出てくるアンティオキアの教会があげられます。

ここに教会を建てたのは
エルサレムでの大きな迫害によって散らされたユダヤ人たちでした。

彼らはキリストの苦しみを身に負うようにして、
その土地にやってきたのです。

彼らはユダヤ人以外には福音を語りませんでしたが、
不思議なことにそこに集められたのは異邦人たちでした。

やがて、
エルサレムでの大迫害を先導した一人であるパウロもそこに加えられたのです。

パウロを受け入れる時には大きな葛藤があったに違いありません。

しかし、教会に集まり共にパンを裂く時、
説明し切ることはできないけれども、
目の涙が拭われるという納得感が与えられたのではないでしょうか。

キリストにおいて一つである教会には、
赦しと和解があります。

ビジョンや共通の文化はそれ自体良いものですが、
キリストを見ないでいるならばそれらもまたバベルの塔になります。

一つとされた教会の祝福は内側で留まらず、外へと溢れ出ていきます。

この恵みを携えて、今週も1週間歩み出していきましょう。

説教要約はこちらhttps://note.com/star_14/n/n2c496bfed2e3守谷キリスト教会https://www.moriyachurch.org毎週日曜日子ども礼拝9:15〜礼拝 10:00〜 #キリスト教  #教会  #一体感   #エペソ人への手紙  #新約聖書

主の祈り① 愛することが下手な私たちに与えられた祈り ルカの福音書11章1~13節ある時、弟子たちはイエスに願いました。「私たちにも祈りを教えてください」。何をどう祈ったら良いのか、教えてもらわないとわからない。古今東西、あらゆる宗教や文化...
14/04/2024

主の祈り① 愛することが下手な私たちに与えられた祈り ルカの福音書11章1~13節

ある時、弟子たちはイエスに願いました。
「私たちにも祈りを教えてください」。

何をどう祈ったら良いのか、教えてもらわないとわからない。

古今東西、あらゆる宗教や文化に「祈り」という文化があります。

だから私たちは、祈りならなんとなくわかると考えているのではないでしょうか。

しかし実のところ、
天地を創造され私たちを愛してくださっている神に何をどう祈ったら良いのか、
私たちは本当にはわかっていないのです。

イエスは「私の背中を見て学びなさい」とは言いませんでした。

非常に具体的な祈りの言葉を弟子たちに教えられました。

主の祈りは、
私たちが古い習慣や独自に身につけてきた我流の祈り方を脱ぎ捨てて、
新しい習慣としての祈りを身につけるために、
イエスが教えてくださった祈りなのです。

ルカの福音書では、
主の祈りを教える前に幾つかの出来事について記録されています。

律法の専門家が永遠のいのちを受け継ぐことについて、
そして自分の隣人とは誰なのか、質問します(10:25~)。

イエスは善きサマリヤ人の譬えを話し、
「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。

しかし、その直後に同じようにはできないマルタが描かれます。

彼女はイエスをもてなすために一生懸命でしたが、
自分の姉妹に不満を抱きました。

そして11章5節から、深夜に友人にパンを借りに行く人の譬え話がされます。

彼自身、思いつきで要求したのではありませんでした。

彼は自分のところに来た旅人をもてなしたかったのですが、
そのための持ち合わせがなかったので、友人を頼ったのです。

善きサマリヤ人のように、
行って同じようにできる人間になりたいと誰もが思います。

しかし同時に、簡単にはそうはできない現実も知っています。

良い動機で奉仕を始めてもいつの間にか誰かと比較しています。

誰かの必要を知っても、他への責任もあり、余裕を持ち合わせていません。

だから、「行って同じようにする」ことは素晴らしいと思いつつ、
自分の役割ではないと線を引きます。

そのようにして、愛さないことをいつのまにか習慣としてしまうのです。

愛することを諦めた祈りに慣れてしまっていないでしょうか。

失望することを恐れ、期待するのを止めた祈りが、
いつの間にか当たり前になってはいないでしょうか。

健全な境界線は大切です。
しかしその線引きを、何によって判断しているでしょうか。

主の祈りは、まず天の父に私たちの目を上げさせます。

聖霊によって、私たちは愛することができる者へと作り変えられました。

この恵みに応答して、
イエスが教えてくださったこの主の祈りを新しい習慣を身につける時、
私たちはますますイエスに似た者とされていくのです。

説教要約はこちらhttps://note.com/star_14/n/n1c27470bce5b守谷キリスト教会https://www.moriyachurch.org毎週日曜日子ども礼拝9:15〜礼拝 10:00〜 #キリスト教  #ルカの福音書  #主の祈り   #教会  #新約聖書

エペソ人への手紙2章17~21節「私たちを組み合わせる力」 2024.4.7 守谷キリスト教会説教要約私たちにとって、教会はどのような場所でしょうか。奉仕や人間関係に疲れてしまうことや、大切な人との時間を天秤にかけなければならなくなったこと...
09/04/2024

エペソ人への手紙2章17~21節「私たちを組み合わせる力」 2024.4.7 守谷キリスト教会説教要約

私たちにとって、教会はどのような場所でしょうか。

奉仕や人間関係に疲れてしまうことや、
大切な人との時間を天秤にかけなければならなくなったこと、
それまで来ていた人や子どもたちが来なくなるのを見るなど
痛みを経験することがあります。

パウロはエペソの人々に対して、
教会は「主にある聖なる宮、神の御住まい」であると語ります。

罪やさまざまな痛みによって、私たちは教会に失望することがあります。

しかし神は確かな目的をもって、地上に教会を置き続けておられます。

パウロによれば、
教会は「組み合わされて成長する」生きた共同体です。

この表現を使って、
パウロは2:21では「建物」、4:16では「からだ」というイメージで
人々の集まりを比喩で表します。

福音が広がって間もない頃、
組み合わされたのはユダヤ人と異邦人でした。

ユダヤ人にとっては、
自分たちが異邦人と一緒に組み合わされるということは考えられないことでした。

彼らには「約束の契約(2:12)」とそのしるしとしての割礼があり、
異邦人は「無割礼」の者であり、
希望もなく神もない者たちと見なされていたからです。

現代にあっても教会には様々な人々が集まります。

同じ日本語を話していても、それぞれの異なる経験や背景が、
互いの理解にすれ違いが生じさせることもあります。

また、スマートフォンの普及と共に、
私たちの好みの細分化と多様化は加速しました。

使用するコミュニケーション手段やSNSは多様です。

また普段視聴する映像や音楽の好みはより「自分らしく」カスタマイズされ、
好みを追求しやすくなり、細分化は加速しています。

これらの影響から無関係ではいられない私たちは、
どのようにして同じ「建物」として、また「からだ」として
組み合わされるのでしょうか。

教会には当初から、バラバラにする力が働いていました。

しかし正反対の、ピッタリと組み合わせる力も同時に働いています。

キリストは建物においては「礎石」、からだにおいては「かしら」です。

どちらも、それを構成するものをつなぎ合わせる最重要な部位です。

それはイエスが十字架の死に従い、
父なる神は彼をよみがえらせてくださったからです。

キリストは平和を告げ知らせてくださいました。

このことによって異邦人とユダヤ人は
共に約束にあずかる者となったのです(3:6)。

この年度、あなたが平和を求める関係はどれですか?

「主にある聖なる宮」は旧約の時代にあっては至聖所と呼ばれていました。

そこはキリストによる平和な交わりと賛美、そして感謝の溢れるところです。

神の栄光が、教会から満ち溢れ、
私たちを通して人々が神を見ることができますように。

説教要約はこちらhttps://note.com/star_14/n/n1c27470bce5b守谷キリスト教会https://www.moriyachurch.org毎週日曜日子ども礼拝9:15〜礼拝 10:00〜 #キリスト教  #エペソ人への手紙   #教会  #新約聖書

マタイの福音書21章1~17節「王なる祭司イエスを迎える」 守谷キリスト教会礼拝説教イエスには様々なタイトルがつけらています。救い主、良い羊飼い、罪人の友、神の子などです。マタイは、福音書の最後の1/4の文量をイエスの最後の1週間を描くこと...
24/03/2024

マタイの福音書21章1~17節「王なる祭司イエスを迎える」 守谷キリスト教会礼拝説教

イエスには様々なタイトルがつけらています。

救い主、良い羊飼い、罪人の友、神の子などです。

マタイは、福音書の最後の1/4の文量をイエスの最後の1週間を描くことに割き、
イエスの「王」、そして「祭司」という側面に光を当てます。

それは「先の者が後になり、
後の者が先になる」という大逆転の神の国の、
王であり祭司です。

イエスがエルサレムに到着した時、
群衆はそれまでで一番大きな一団となって、彼をイスラエルの王として賛美し、
熱狂的に迎えました。

「先の者」として立っていた宗教家が警戒し、
「先の者」になりたがっていた群衆たちが期待していたのは、
軍事的な力を持った王でした。

しかしイエスはそうではなく、
旧約の預言の成就としてロバに乗って、
「平和の王」として入城したのです。

そしてこの王は詩篇の預言の通り、

それまで「後の者」として扱われてきた
子どもたちによる賛美を喜んで受け取られたのです。

一方でイエスは、
王としての権威も確かに振います。

それが12節からの宮きよめと呼ばれる場面です。
神殿はユダヤ人の生活と心の中心地です。

しかし礼拝に乗じて利益も得るための制度が
長い時間と人手をかけて当たり前になっていたのでした。

両替人は人々が献金をするために、
動物を売る人たちは、人々が傷のないいけにえを
捧げるために必要とされいましたが、
イエスは彼らを追い出しました。

それまで絶え間なく行われていた神殿での礼拝を、
イエスは一時的に止めさせ、神殿としての機能を失わせたのです。

そして代わりに、
イエス自身が祭司としての役割を担われ、
神殿に来た人々にあわれみを示されました(21:14)。

宗教家たちには、
イエスがなされたことの本当の意味がわかりませんでした。

イエスはその日、彼らを「後に残して」去っていかれたのです。

受難週を歩む私たちは、
イエスを自分の王として迎えましょう。

幼子の賛美のようなまっすぐな期待をもっているでしょうか。

この方が私の生活に、人間関係に、和解と回復を与えてくださる方です。

また生ぬるく形ばかりになってしまっている行いはないでしょうか。

王であるイエスは、私たちの奥深くを探り、
私たちに変革を迫ることがあります。

そして弱さをもった私を、
大祭司としてのイエスはとりなし、恵みの座に引き寄せてくださいます。

この方を自分の心の王座にお迎えしましょう。

説教要約はこちらhttps://note.com/star_14/n/nad5f2c7b7982守谷キリスト教会https://note.com/star_14/n/nc487689668aa毎週日曜日子ども礼拝9:15〜礼拝 10:00〜 #キリスト教  #マタイの福音書  !棕櫚  #新約聖書

マタイの福音書20章24~34節「目を開けていただきたいのです。」2024.3.17 守谷キリスト教会礼拝説教「目が開かれる」という経験を、人生の中で何度かしたことがあるでしょうか。それまで狭まっていた視野が、新しい経験や見識、気づきによっ...
17/03/2024

マタイの福音書20章24~34節「目を開けていただきたいのです。」2024.3.17 守谷キリスト教会礼拝説教

「目が開かれる」という経験を、
人生の中で何度かしたことがあるでしょうか。

それまで狭まっていた視野が、新しい経験や見識、
気づきによって広げられることで「心の目が開かれる」ことがあります。

「心の目が開かれる」とは、
自分の立ち位置について正直に見る経験を言うのかもしれません。

自分がどういう状況に置かれているのか、正直に把握すること。
それが心の目が開かれるという体験だと思います。

では霊の目が開かれるとはいったいどういうことか。

それは、このみじめな私を救うことができるのは、イエスさまだけです、
と確信できるようになることではないでしょうか。

イエスに触れられて霊の目が開かれなければ、「いのちを失ってもそれを得る」というイエスの約束を確信することはできません。

エルサレムに近づくつれ、
イエスの一行に加わっていた弟子たちや群衆の期待は高まっていました。

彼らはイエスが新しい王国を建設し、
ローマ帝国から自分たちを解放してくれることを願っていました。

そのような高揚感の中で、ある種の政治ゲームが内部で始まっています。

自分たちの中で誰が一番偉いのかという議論です。

金持ちの青年がイエスについていくことを諦めて立ち去った時、
ペテロは言いました。「私たちは全てを捨ててついてきました。」

ヨハネとヤコブは母親と一緒に抜け駆けを図ろうとします。

弟子たちは子どもたちがイエスのもとに来ようとした時、叱りました。

かつて、病人や悪霊に憑かれた人、
障害を持った人をイエスのもとに連れてきていた群衆たちも、
イエスを求めて叫ぶ2人の盲人に対して静かにするようたしなめます。

それはあたかも、
異邦人の偉い人たちのように権力を振るっているかのようです。

どのようなコミュニティであれ、
所属する人たちは、
その内側の中心部や最も魅力的と思われる立ち位置に引き寄せられるものです。

しかしイエスは、
そのような席次争いをやめて、

仕える者になりなさいと言われました。

そしてイエスは「主よ、ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」という
外側からの叫びを聞かれました。

そしてイエスご自身が彼らに仕える者となって、

何をして欲しいのかと聞かれたのです。

彼らは目が開かれることを願いました。

私たちは受難週とイースターを前にしています。

仕事や家庭において、今私たちを夢中にさせている目標はあるでしょうか。

それがどのようなのものであれ、一旦イエス様の前にそれを手放してみませんか。

必要なのは、「私をあわれんでください」という、
無力さを認める謙遜な祈りです。

霊の目が開かれて、またもう一度その重荷をイエスとともに担って、
新しい1週間を歩めますように。

説教要約はこちらhttps://note.com/star_14/n/n59ade529c432守谷キリスト教会https://note.com/star_14/n/nc487689668aa毎週日曜日子ども礼拝9:15〜礼拝 10:00〜 #キリスト教  #マタイの福音書   #新約聖書

マタイの福音書4章8~17節 「この世界、いくら?」 2024.2.18 守谷キリスト教会礼拝説教要約『お宝カーマスターズ』というリアリティ番組があります。価値のない、あるいは安い車を手に入れて、それに熟練工の技を加えて生まれ変わらせて価値...
21/02/2024

マタイの福音書4章8~17節 「この世界、いくら?」 2024.2.18 守谷キリスト教会礼拝説教要約

『お宝カーマスターズ』というリアリティ番組があります。

価値のない、あるいは安い車を手に入れて、

それに熟練工の技を加えて生まれ変わらせて価値をつけ、

顧客に売り、

その資金を元手にして扱う車をステップアップさせていく構成に、
私は惹きつけられます。

値段交渉の場面で、
売り手はできるだけ高く、
買い手は安く交渉をしようとします。

荒野において、
悪魔とイエスはこの世界にどれほどの価値があるのかを話しています。

通常の交渉と逆なのは、
悪魔は安い価値に見せているのに対して、
イエスはご自分のいのちという価値をこの世界に見積もっておられることです。

悪魔はイエスに「この世のすべての王国と栄華」とを見せました。
幻を見せたと解釈して良いでしょう。

当時の王宮の生活や娯楽を見せたのかもしれません。

しかしそれら華やかなに見える世界や人々のことも含めて、

預言者は
「闇の中に住んでいた民」、「死の影の地に住んでいた者たち」(マタイ4:16)と
表現しています。

イエスはこの世界のことを、幻ではなく、
実際に肌に感じて手で触って、知っていました。

彼はカペナウムという町に住みました。

バプテスマのヨハネが義のために迫害されているニュースを聞いていました。

ガリラヤ湖を歩いて、弟子を招かれ、
そして会堂にやってきた人を教えました。

イエスの目には、病を含めたさまざまな問題課題に苦しむ人、
そしてその人たちを連れてきた憐れみ深い人たちが映っていました。

この彼らのことを指して、
イエスは山の上で「幸いなるかな(5:3-10)」と語られたのです。

それは光であるイエスがこの世界に来られたからです。
悪魔はイエスを安っぽい偶像礼拝でこの世界を変えられると誘惑しましたが、
イエスは神による高価な値付けを知っていました。

すなわち、十字架によって、ご自分のいのちを代価として、
この世界を贖うことです。
このイエスのうちに、私たちは「光を見る(4:16)」のです。

そしてイエスは私たちのことを「世の光」と呼ばれました。

悪魔は私たちにも、もっと簡単な、
安っぽい偶像によって世界をより良くせよと誘惑してきます。

私たちはまず神を礼拝し、
イエスに目を留め、聖霊の助けをいただいて今週も歩みましょう。

私たちを通して、今週も天の父が崇められますように。

マタイの福音書3章16〜4章7節 「それでも神の子?」 2024.2.4 守谷キリスト教会礼拝説教要約 (説教音声はコメント欄から)福音は私たちを力づけます。そもそも福音とはなんでしょうか?聖書には「福音とは…御子に関するもの。御子はキリス...
20/02/2024

マタイの福音書3章16〜4章7節 「それでも神の子?」 2024.2.4 守谷キリスト教会礼拝説教要約 (説教音声はコメント欄から)

福音は私たちを力づけます。

そもそも福音とはなんでしょうか?

聖書には「福音とは…御子に関するもの。御子はキリストです」(ローマ1:2-4)とあります。

福音とは、イエスが誰であるのか、イエスが何をなさったのか、
それによって世界がどのように変化したのかを語ることです。

イエスが洗礼を受けた時、
彼は父なる神から「わたしの愛する子」という約束を受け取りました。

しかし直後の荒野において、悪魔はこのイエスの確信を奪おうとします。

かつてイスラエルの民たちが荒野を旅した時、
彼らは奴隷として生活していたエジプトを
お腹いっぱい食べられた場所として美化しました。

このように、
石をパンに変える誘惑とは、
最悪で思い出すこともしんどいような経験について、
色々な考え方によってポジティブなこととして
言い換えようとすることかもしれません。

しかしイエスは石は石のままで放っておかれました。

神の口から出る一つ一つの言葉は、周りの石をパンに変えるよりも先に、
まず私たち自身に語られるのです。

愛されていることを土台にして、
私たちは周りの石を見つめることができるのです。

そして2つ目は、神を試みるという誘惑です。
それは神について自分の基準で合否を判定することです。

それは、本当に自分は愛されているのか?という疑いから始まります。

アダムとエバは、
神が本当に自分にとって最善のものを備えているかどうか疑い、
悪魔の誘惑に負けたのです。

私たちは誰もが、このアダムの敗北による罪の影響を、
人間性の深いレベルで受けています。

愛したくても望んでいるように愛することができません。
そして誰かの罪の犠牲者で、傷も癒えていません。

だからイエスが誰であり何をなさったのかが福音なのです。

アダムに始まり、
人類の代表であるイスラエルも負けた悪魔との戦いにイエスは勝利しました。

この方に目を向ける時、
私たちもまた神に愛されていることを確信し、

愛による応答を選び取ることができるのです。

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