真言宗智山派 宝性院

真言宗智山派 宝性院 杉戸不動尊宝性院は安産不動尊をおまつりするご祈願のお寺です。地域に?

七夕です。皆さん、願い事は書きましたか。以前、童謡「たなばたさま」の歌詞についてお話ししました。「ささの葉 さらさら のきばに ゆれる お星さま きらきら きん ぎん 砂子 五しきの たんざく わたしがかいた お星さま きらきら 空から 見...
07/07/2026

七夕です。皆さん、願い事は書きましたか。
以前、童謡「たなばたさま」の歌詞についてお話ししました。「ささの葉 さらさら のきばに ゆれる お星さま きらきら きん ぎん 砂子 五しきの たんざく わたしがかいた お星さま きらきら 空から 見てる」。この歌は、短い言葉の連なりで情景が鮮やかに立ち上がり、たいへんリズミカルです。とくに冒頭の「ささの葉さらさら」が素晴らしく、この一言だけで夏の夜に涼しい風が吹き抜けてくるようです。
では、なぜ笹に願い事を書いた短冊を吊すのでしょうか。
笹は古来より邪気を祓うとされ、笹の葉が風に揺れて「さらさら」と響くその清浄な音に、悪いものを払う力があると信じられてきました。笹に短冊を結ぶという行為は、こころを浄めることであり、自分が本当に願っていることが顕われることを意味しています。
「さらさら」という言葉は、自分のこころの奥に眠っている“内なる願い”にそっと目を向けることを表し、「たんざく わたしが書いた」につなげています。「わたし」は自分が書いたんだよーという自己アピールではなく、自分の内なる声を聞いて書いたという意味なのです。
七夕までの一ヶ月、お寺では参拝に来られた方に短冊を書いていただき、竹に吊してもらっています。私も願い事を書こうと、国民の声としていくつか考えてみました。「熊などの野生動物の被害に遭いませんように」「台風などの自然災害が起きませんように」「猛暑になりませんように」「オレオレ詐欺がなくなりますように」。
ところが、これらの願いをすでに実現している場所があることに気がつきました。それが、先日訪れた佐渡島です。
佐渡島には熊などの大型野生動物が生息していません。台風の直撃もほとんどなく、豪雪地帯でもなく、周囲が海のため猛暑になりにくい。詐欺に遭う危険がなく、代わりにトキが空を舞っています。自然の恵みが豊かで、水がきれい。農作物も魚も豊富にとれ、歴史と文化が息づき、お祭りがたくさん行われている。交通渋滞もない。まさにこの世の楽園のような場所です。
そこで、私の内なる願いをひとつ追加しました。「もう一度、佐渡に行けますように」
次回の写経と法話の会は、8月9日(日)午後3時からです。ご参加ください。

本日3時から写経会でした。法話は「お施餓鬼のこころ」お寺では一年を通してさまざまな行事が営まれますが、その中でも日本全国の多くの寺院で行われている代表的な法要といえば、大施餓鬼会、通称「お施餓鬼」ではないかと思います。この行事のメインテーマ...
21/06/2026

本日3時から写経会でした。法話は「お施餓鬼のこころ」
お寺では一年を通してさまざまな行事が営まれますが、その中でも日本全国の多くの寺院で行われている代表的な法要といえば、大施餓鬼会、通称「お施餓鬼」ではないかと思います。この行事のメインテーマは、「皆で餓鬼に施す」です。餓鬼とは、あの世で飢えと渇き、そして愛情の欠如に苦しむ亡者のことです。
餓鬼の姿は半透明で、痩せ細り、腹だけが突き出て、目は落ちくぼむように飛び出しています。餓鬼が食べ物に口をつけようとすると、それは炎となって燃え上がり、何ひとつ口にすることができません。餓鬼は常に飢えと渇きに苛まれている存在です。
餓鬼には人に悪さをする力はありませんが、しばしば人の前に姿を現し、
「私は生前ケチであったため、今は食べ物がありません」
「私はふざけてばかりで修行を怠ったため、今は着るものもなく裸です」
と語りかけてきます。そして、「あなたも自分勝手にふるまい、他者に施しをしなければ、やがて餓鬼となってしまいますよ」と告げてきます。
餓鬼は誰かに気づかれ、供養の施しを受け、救われることを願っています。そうした餓鬼を不憫に思い、皆で集まって供養を行うようになったことが、お施餓鬼のはじまりです。
「餓鬼なんて見えないし、何も告げられないのだから、自分には関係ない」と思われるかもしれません。しかし、人の心に潜む「無関心」こそが、透明な存在である餓鬼を生み出すのです。他者への無関心、共感の欠如がなぜ餓鬼の世界につながるのか。それは、魂が成長しないからです。
魂とは、心の中心にある核のようなもので、あの世につながっていくものです。「魂が抜ける」「魂を奪われる」といった言葉が示すように、魂とは、それが曇ると、生きていても生きている実感が湧かなくなる大切なものです。では、その魂は何によって輝き、成長するのでしょうか。それは、感動と共感です。さまざまなものとふれあい、心を動かされることによって、魂は育まれていきます。
自分勝手にふるまい、魂が育たないままでいる人を、私たちが「ガキ」と呼ぶのは偶然でしょうか。
私たちのご先祖さまは、お施餓鬼において餓鬼への供養だけでなく、飢饉や戦争、不慮の事故などで亡くなり、十分な供養を受けられなかった多くの人々にも手を合わせてきました。お施餓鬼の供養棚に祀られる「三界萬霊」の位牌は、そうした無数の精霊を忘れてはならないという戒めでもあります。
餓鬼をはじめとする多くの精霊は、お施餓鬼の供養が自分のために営まれたことを喜び、「ああ、よい法要であった。心のこもった祈りであった。供えられた食事もありがたかった」と感謝しながら救われていきます。
「廻向」とは、善き心を他へとまわし向けることです。お施餓鬼は、餓鬼や供養の行き届かない人々にまで施しの心を広げる行いです。その善心を、ご先祖さまは見守っています。子孫の優しい心を感じ、共に喜んでくださるのです。だからこそ、お施餓鬼はご先祖さまの供養にもなるのです。
共感の心を広げ、善き行いを他へと回していく――その廻向のはたらきこそが、世界を明るく清らかにしていく。お施餓鬼は、そのこと説いているのではないでしょうか。

今月の法話「小さなホスピタリティ」ボクシングの試合を見るのが好きで、テレビやインターネット配信でよく観戦しています。先日の井上直哉選手と中谷潤人選手の試合は、どちらが勝つのか最後まで分からず、ドキドキしました。互いへのリスペクトが伝わる、素...
10/05/2026

今月の法話「小さなホスピタリティ」
ボクシングの試合を見るのが好きで、テレビやインターネット配信でよく観戦しています。
先日の井上直哉選手と中谷潤人選手の試合は、どちらが勝つのか最後まで分からず、ドキドキしました。互いへのリスペクトが伝わる、素晴らしい一戦でした。
人が成長し、人格を磨いていくためには、他者の考えや行動を理解し、尊重する姿勢が欠かせないのではないかと思います。だからこそ、他人にすぐ怒りをぶつける人を見ると、「リスペクトが足りないのでは」と感じてしまいます。共感力の低下が、自分の怒りを抑えられないことにつながっているのではないかと思うのです。
私たち現代人は、消費社会のまっただ中で暮らしています。消費社会とは、お金を払えば、ほとんどあらゆるモノやサービスをすぐに手に入れられる社会のことです。 フランスの哲学者ボードリヤールは 1970 年代に、近い将来、私たちの欲望そのものが記号の体系に組み込まれ、モノ・体験・イメージ・自己表現までもが“消費”の対象になると予見しました。まさに達見です。
現代では、「自分の価値を高めてくれる」と感じさせる商品や体験が次々とサービス化され、「お金で買えないもの」を想像することが難しくなっています。こうした環境に慣れてしまうと、自分中心の考え方に陥りやすくなり、「自分の権利」「自分が払った対価に見合うか」ばかりが気になり、かえって自分自身を見失ってしまうことがあります。
しかし、人間の脳は本来、共感し合いながら人間関係を築き、進化してきました。だからこそ、誰かを助けると「善かった」と感じ、人から感謝されると嬉しいのです。お金では買えない価値を自分の内側に持つことが、心の豊かさや安心につながっていきます。それは井上選手のような特別な能力である必要も、社会を動かすような大きな理想である必要もありません。ほんの小さなホスピタリティで十分なのです。
仏教には「無財の七施」という、“お金や物がなくても誰でもできる施し”があります。 ① 眼施(がんせ):優しいまなざしを向けること ② 和顔施(わがんせ):穏やかな笑顔を向けること ③ 言辞施(ごんじせ):優しい言葉・励ましの言葉をかけること ④ 身施(しんせ):身体を使って相手を助けること ⑤ 心施(しんせ):相手を思いやる心を向けること ⑥ 床座施(しょうざせ):席や場所を譲ること ⑦ 房舎施(ぼうじゃせ):雨露をしのぐ場所を貸すこと、安心できる場を提供すること。これらは相手のために行う無償の行為ですが、実はそれが自分自身の心の安定にもつながっていきます。
自分なりの“小さなホスピタリティ(無償の行為)”を見つけていくことこそ、今の時代を生き抜くための智恵なのかもしれません。
次回の法話と写経の会は6月21日(日)午後3時からです。ご参加お待ちしております

継続と努力は才能に勝るといいますが、日々の小さな積み重ねが、やがて自分を支える大きな力となることがあります。先日、お檀家さまのご葬儀で、そのことをあらためて実感いたしました。百一歳でお亡くなりになられた H さんは、学生時代に英文学を学び、...
19/04/2026

継続と努力は才能に勝るといいますが、日々の小さな積み重ねが、やがて自分を支える大きな力となることがあります。先日、お檀家さまのご葬儀で、そのことをあらためて実感いたしました。
百一歳でお亡くなりになられた H さんは、学生時代に英文学を学び、英語教師として教鞭をとられ、退職後も公民館で英語購読会を開き、その活動を九十歳まで続けてこられました。
葬儀会場の片隅に設けられた思い出コーナーには、H さんが毎日欠かさず取り組んでこられた英語学習ノートが数冊置かれていました。手に取ってページをめくると、最後の記録は百一歳の8月1日、まさに「継続」の証でした。
H さんは英語を学び続けたことで、日本だけにとどまらず、世界各地に多くの仲間を得られました。写真に写る H さんの周りには、年齢も国籍も超えた友人たちが集い、その和やかな雰囲気が伝わってきます。ご葬儀には、共に学んだ多くの方々が参列し、顔を寄せ合って「See you again」と語りかけていました。
人は、気兼ねなく話せる友が一人でもいれば幸せだと思います。しかし九十歳、百歳ともなると、多くの友はすでに遙か空の向こうへ旅立ってしまっています。そんな中で H さんは、学び続けることで新たな友と出会い、豊かな人生を歩まれました。まさに「継続は力なり」です。
仏教では、継続の力を 「習気(じっけ)」 と呼びます。これは「行いが心に染み込み、やがて性格や生き方そのものになる」という意味です。私たちは年齢を重ねるほど、身体に染みついたもの、自然とできることこそが大切だと気づかされます。しかし、何かを続けていくことは、簡単なようで難しい。時には、続けることが苦しくなることもあります。そんな時は、水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」の歌詞を思い出しましょう。
「幸せは歩いて来ない だから歩いて行くんだね 一日一歩、三日で三歩 三歩進んで二歩さがる」
二歩さがってもいいのです。歩みを止めず、また一歩を踏み出せば、その足跡にはきれいな花が咲くでしょう。
次回の写経会(法話と写経の集い)は5月10日(日)午後3時からです。どなたでもご参加可能です。お待ちしております。

遠くアルゼンチン・ブエノスアイレスより、杉戸町のお寺にギターを抱えてやってきた。至高のデュオ!パトリシオ・クロム×フアン・ビジャレアル、最高の演奏🎶を有難う!参加の皆さまをアルゼンチンの風景の世界に連れていってくれました!TEAM PLAN...
13/04/2026

遠くアルゼンチン・ブエノスアイレスより、杉戸町のお寺にギターを抱えてやってきた。至高のデュオ!パトリシオ・クロム×フアン・ビジャレアル、最高の演奏🎶を有難う!
参加の皆さまをアルゼンチンの風景の世界に連れていってくれました!
TEAM PLANTS の皆さまの装飾(植物で飾り付けたステージも良かったです。Gracias❣️

今回も前回に引き続き、「涅槃図」の絵解きを行いました。以前、「お釈迦さまが入滅された場面を描いた涅槃図には、見るたびに新たな気づきがある」と書きましたが、今回はとくに、お釈迦さまの最期を見届ける者たちに注目してみました。お釈迦さまの死を受け...
15/03/2026

今回も前回に引き続き、「涅槃図」の絵解きを行いました。以前、「お釈迦さまが入滅された場面を描いた涅槃図には、見るたびに新たな気づきがある」と書きましたが、今回はとくに、お釈迦さまの最期を見届ける者たちに注目してみました。
お釈迦さまの死を受け入れられず、天を仰いで嘆く者、声をあげて泣く者、肩を落としてうなだれる者──涅槃図に描かれる姿は実にさまざまです。なかでも、もっとも長く身近に仕えてきた弟子アーナンダは、悲しみのあまり気絶してしまいます。一方で、お釈迦さまの教えを深く理解した菩薩たちは、静かにその死を見つめています。
涅槃図には実に多くの人物が描かれていますが、その中には動物たちの姿もあります。象、獅子、猿、鳥たち、牛や羊、さらには蛇やさそりまで──五十二種類もの生きものが、お釈迦さまの死を嘆き悲しんで集まってきたといわれています。実際、お釈迦さまの説法の場には、動物たちが静かに集まり耳を傾けていたとも伝えられています。
しかし、なぜ動物が泣くのでしょうか。
「動物だって泣くでしょう。亡くなった飼い主のそばを離れない犬もいるし、愛する者との別れを悲しむ気持ちはあるはずだ」と思われるかもしれません。しかし、お釈迦さまは動物を飼い育てていたわけではありません。動物たちは、お釈迦さまの“教え”を聞けなくて悲しんでいるのです。
ここに、お釈迦さまの悟りがあらゆる生命とつながっていることが示されています。
お釈迦さまは悟りを開いた直後、しばらくの間、その教えを説くことをためらいました。
「人々は執着を楽しみ、執着に耽り、執着を喜んでいる。欲にまみれ暗闇に覆われた人々には、仏の教えを聞くことも、見ることもできない」と語っています。
動物には「自分」という強い執着はないように思われますが、生きるために瞬間ごとに判断し、時にその情動(生存欲)が過度の争いや怒りとなり、自らの死へとつながることもあります。それが苦しみであるならば、動物たちもまた、お釈迦さまの教えによって心を鎮め、安らぎを感じたのではないでしょうか。その教えがもう聞けなくなることを悲しんでいる──そう考えると、涅槃図に描かれた動物たちの涙が、より深く胸に迫ってきます。
お釈迦さまの悟りから導かれた「縁起」の法は、まさにすべての生きとし生けるものに向けて説かれた教えです。その広大さと深さを思うと、あらためて心を揺さぶられます。

涅槃図の絵解きの後は、写経に参加してくれた方たちと共に、お釈迦さまの「はなくそ」を食べました。「はなくそ=花供曽」はお釈迦さまの涅槃会に配られるお菓子で、もともとは、京都のお正月にご本尊さまにお供えした鏡餅を小さく刻み、軽く焼き、黒砂糖をからめて菓子にしたものです。涅槃会に食べると無病息災過ごせるといわれています。
次回の写経会は4月19日(日)午後3時からです。どなたでも参加できます。お待ちしています。

2月 15 日はお釈迦さまが入滅された日です。この日は、多くのお寺でお釈迦さまの遺徳を偲び、お釈迦さまが入滅された場面を描いた「涅槃図」を掲げて法要が営まれます(月遅れの 3 月 15 日に行う寺院もあります)。この法要は「涅槃会」と呼ばれ...
08/02/2026

2月 15 日はお釈迦さまが入滅された日です。この日は、多くのお寺でお釈迦さまの遺徳を偲び、お釈迦さまが入滅された場面を描いた「涅槃図」を掲げて法要が営まれます(月遅れの 3 月 15 日に行う寺院もあります)。この法要は「涅槃会」と呼ばれることが多いのですが、真言宗では「常楽会」と呼んでいます。その理由は、「仏教は通常、この世のすべては無常で、苦しみに満ち、よるべなき無我であり、不浄であると説くが、お釈迦さまの悟りは、永遠に変わることなく常住で、よく苦しみを抜いて楽を与え、自由で何ものにも拘束されない我であり、澄み切った清らかな浄である」という見方からで、涅槃の徳(お釈迦さまの悟りが伝える素晴らしい教え)を「常・楽・我・浄」で表して、「常楽会」と呼ぶようになったのです。
お釈迦さまの教えの目的は、「苦しみを滅すること」にあります。
そのために示されたのが、諸行無常──すべてのものはとどまることなく変化し続ける、
そして 諸法無我──すべては因縁によって生じ、独立して存在するものはない、
という二つの真理です。この二つの教えを基盤として、あらゆる存在を正しく観察し、熱心に努め、精神を統一し、執着や憎しみを抑えていく道を歩むことになります。これがお釈迦さまの説かれた修行の方向性です。
一方、真言宗では、悟りの境地から見た世界の実相を「常・楽・我・浄」という清らかで美しい姿としてとらえ、そこから仏の道を歩んでいくことを説いています。
これは一種の“コペルニクス的転回”ともいえる、驚きです。
向かうベクトルが逆なのです。
• お釈迦さまの道:人間 → 仏へと近づいていく道
• 真言宗の道:仏の立場 → 人間へと働きかける道
たとえるなら、険しい山を一歩一歩登っていくのがお釈迦さまの道であり、山頂から地上へと降りていくのが真言宗の道、と言えるかもしれません。では、すでに山頂の雰囲気を味わった者の目的とは何でしょうか。それは、お釈迦さまが悟りの後の 45 年間、休むことなく説法の旅を続けられたように、自利利他円満をめざすことでしょう。自ら悟りを深めつつ、同時に他者を導いていくことだと思うのです。
今月の写経会では「涅槃図の絵解き」を行いました。来月は3月15日(日)午後3時より、再度「涅槃図の絵解き」を行います。ご参加ください。

加須の総願寺の節分会で、お稚児さんのお加持をして、自坊に帰って、豆まき式を厳修致しました。豆を投げて魔を滅す!心の鬼も滅して!皆さまにたくさんの福が来ますように。立春大吉!ご参集ありがとうございました🙏
03/02/2026

加須の総願寺の節分会で、お稚児さんのお加持をして、自坊に帰って、豆まき式を厳修致しました。
豆を投げて魔を滅す!心の鬼も滅して!
皆さまにたくさんの福が来ますように。
立春大吉!
ご参集ありがとうございました🙏

今年は午歳です。馬は日本で古くから神仏の乗りものとして神聖視され、神仏のお告げを受けるために馬を献上する風習がありました。それが時代を経て、神社や寺院に祈願するときに奉納する絵馬となりました。どうして合格祈願に馬なのかというと、「どうかうま...
18/01/2026

今年は午歳です。馬は日本で古くから神仏の乗りものとして神聖視され、神仏のお告げを受けるために馬を献上する風習がありました。それが時代を経て、神社や寺院に祈願するときに奉納する絵馬となりました。どうして合格祈願に馬なのかというと、「どうかうまくいきますように」という語呂合わせがあるようです。
昔の諺に「馬は八歳、牛は六歳」があります。これは馬と牛の働き盛りの年齢を示したもので、馬は八歳ぐらいが性格もよく、いうことを聞き、人の役に立つ年齢といわれてきました。昔から馬は貴重な労働力であり、移動の際の交通手段として欠かすことのできない動物として、人の身近で大切に飼われてきました。
各家々で馬を飼っていた時代、宝性院では毎年 3 月 1 日に「馬寄せ」が行われ、着飾った馬たちが馬頭観音の周りを巡って、健康長寿と道中安全を祈る儀式が営まれていました。
今では交通手段は馬から車や電車に変わりましたが、車や電車を動かすモーターの動力の単位は「馬力」です。どれだけ重い荷物をどれだけ遠くまで運べるかを、馬何頭分に当たるかで示した馬力が、今も基準として使われています。
さて、馬の働き盛りは八歳だそうですが、では人の働き盛りは何歳でしょうか。三十歳、四十歳、五十歳……。その答えはいろいろあるでしょうが、それは「目標に向かっているとき」ではないでしょうか。
先日、朝日新聞の「天声人語」で知りましたが、漢字研究の泰斗である白川静先生は、還暦で初めて新書を出版され、字書三部作(『字統』『字訓』『字通』)の大著に挑んだのは 70歳を過ぎてからで、完成は 86 歳のときだったそうです。
正月 8〜14 日の間、京都・東寺で行われていた後七日御修法(弘法大師・空海が宮中真言院にて、国家安泰・玉体安穏・万民豊楽を祈って行ってきた宮中の恒例行事)では、真言宗各派の歴練の僧侶の方々が、極寒のお堂のなか二十一座の行法をお勤めくださいました。そのなかで、真言宗智山派の管長吉田猊下は 90 歳であられます。吉田猊下は、御修法を終えてのご感想を「毎座、身の引きしまる思いで、清々しい気持ちになった」と述べておられました。いつまでも目標をもち、こころあらたに、感動を得ることが、人の原動力なのだと思い知らされました。
次回の写経会は2月8日(日)午後3時から、どなたでも参加いただけますm(__)m

住所

埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸1−5−6
Miyashiro-Machi Minamisaitama-gun, Saitama
345-0036

電話番号

0480320342

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