都城福音キリスト教会

都城福音キリスト教会 宮崎県都城市にあるキリスト教会です。礼拝は朝10:30と夜7:30に行われてい?

「遊女ラハブ」          ヨシュア記2章【旧約聖書339頁/第3版370頁】1)ラハブと斥候  ヨシュア2:1 2:1ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しな...
28/01/2024

「遊女ラハブ」
ヨシュア記2章【旧約聖書339頁/第3版370頁】
1)ラハブと斥候 ヨシュア2:1
 2:1ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。
 今まさに、イスラエルの民がヨルダン川を渡ってエリコに攻めの登ろうとしていました。シティムは40年前、イスラエルの民がモアブの娘たちに誘惑され、偶像礼拝をして2万4千人が神に打たれて死んだ町です(民25:9)。ヨルダン川を挟んだシティムの向かい側がエリコの町でした。
 このエリコの町にラハブと言う遊女が住んでいました。ラハブの家はエリコの城壁の中に建て込まれていました。ラハブは遊女とありますが、斥候を亜麻の茎の中に隠しているので、亜麻布を織りながら遊女の仕事をしていたのかも知れません。ある注解者は、ラハブの家は宿屋だったのではと言う人もいるので、少なくとも専業の遊女ではなかったようです。
 ラハブは、イスラエルの民が必ずこのエリコの町を滅ぼすことを知っていました。それは、イスラエルの神が紅海で奇跡を行い、二人の王シオンとオグを聖絶されたこと(民21章)を聞いていたからです。エリコの住民はみな恐れおののいていました。 
2)ラハブの信仰告白 ヨシュア2:11
 2:11私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。
 ラハブは聖絶される偶像礼拝の民の中にいました。このままではエリコの住民と一緒に滅ぼされることが分かっていました。エリコの町の人たちは、自分たちは滅びるとパニックになっていました。しかしラハブは、恐れると同時に、イスラエルの神こそ真の神であることを信じていました。
 ラハブはどうしたら助かるか色々考えたことでしょう。斥候が来るはずだから、その斥候を自分の家に招いて隠すことが出来れば、その恩返しに助けてもらえるかも知れない。問題はどうやって斥候と会い、自分の家に迎え入れるかと言う事でした。ラハブはこの事を神様に祈ったことでしょう。その願いに応えて、神様は斥候をラハブの家に導びかれます。
 「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」(ヘブ11:31)。 聖書の神様は、信じる者と共に働かれる神様です。恐れる者と共にではなく、神は必ず救って下さると信頼する者と共にいて下さる神様です。  
3)ラハブの願い ヨシュア2:12,13
 2:12 どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。2:13私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」
 ここでラハブは「私があなたがたに真実を尽くしたように」と言っています。しかし、実際は斥候をかくまうために嘘をついているのです。この事について宗教改革者のカルヴァンは、「神は、スパイが助けられることを望みつつも、うそによって保護されたことをよしとはされない」と割り切っています。第二次大戦中、多くのユダヤ人がナチの目を逃れ、善意の信仰者たちの多くの嘘によってかくまわれたことをどう見るのか、一筋縄ではいかない問題です。
 ラハブは自分ひとりが救われる事を願ったのではありませんでした。家族全員の救いを願っています。両親、兄弟姉妹の他、すべて彼らに属する者とありますから、少なくとも2~30人はいた思われます。地震で崩れた瓦礫の中を無事に連れ出すのは大変なことだったと思われますが、「斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた」(6:23)。こうして、全員救われたのでした。
4)ラハブとは ヨシュア2:4,5
 この勇敢なラハブとは一体誰なのでしょうか?系図を見てみると、ラハブは、ルツと結婚したボアズのお母さんになります。ラハブはサルモンと言う人と結婚し、ボアズを生んでいます。遊女ラハブはイエス様の先祖になるのです。 ユダヤ教のあるラビは、ラハブは4人の美人のひとりだと言っているそうです。4人の内のひとりはバテシバでしょうが、後のふたりはだれでしょう?ラハブは美人だっただけでなく、とても勇敢で、信仰深く、知恵の働く人でした。斥候が来たことを知った町の役人とのやりとりからもその事が分かります。
 2:4ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。2:5その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」
 ここで、町の役人はラハブの家に押し入っていません。この当時の習慣として、家主の許可なく家に入ることは許されなかったようです。ラハブの巧妙な言葉によって、斥候は命拾いをします。この後、二人の斥候はエリコの城壁から綱でつり降ろされます。窓には斥候が渡した赤い布が目印として結びつけられました。遊女ラハブは信じただけでなく、神様に大きく期待しました。そして同時に賢く行動しました。今年の教会の目標は「神の恵みを大きく求めよう」です。ラハブのように、信じて、神様の恵みを大きく期待しましょう。神様は必ず、私たちの信仰に応えて素晴らしい事をし下さると信じます。

「遊女ラハブ」 ヨシュア記2章【1)ラハブと斥候 ヨシュア2:12:1ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、....

「サウルは何故退けられたのか」Ⅰサムエル記13章7~14節1)イスラエルの初代の王様サウル 前回の話にありましたように、イスラエルの民の中から王様を求める声が高まりつつありました。それはサムエルの息子達がサムエルのようでは無く、私利私欲を求...
05/11/2023

「サウルは何故退けられたのか」
Ⅰサムエル記13章7~14節

1)イスラエルの初代の王様サウル

 前回の話にありましたように、イスラエルの民の中から王様を求める声が高まりつつありました。それはサムエルの息子達がサムエルのようでは無く、私利私欲を求め、裁きを曲げていたためでした。それでイスラエルの民は他の国のように王様を願い求めました。そこで選ばれたのがサウルでした。
 彼が選ばれた経緯はというと、ある時、お父さんの雌ロバがいなくなったので探しに出かけたのですが、なかなか見つからなかった為、諦めて帰ろうとした時、一緒にいた僕から「神の人と呼ばれている人がいるのでお伺いをたててみましょう」と提案されるので、その人に会に向かうのです。それが預言者サムエルとの出会いでした。しかし、それは神様が前もって計画されていたことで、神様から前もって言われていたサムエルは、この訪ねてきたサウルに油を注ぐのです。油注がれたサウルが家路に着く途中、主の霊が激しく下って、彼は新しい人に変えられるという体験をするのです。
 そういう体験をした後に、イスラエルの王に相応しい人を選ぶためのクジが引かれるのですが、なんとそのクジがサウルに当たるのです。ところが、彼はイスラエルの王に選ばれたことを非常に喜んだのでは無く、荷物の陰に隠れていたと聖書に記されています。彼は引っ込み思案な性格なようなのです。
 さて、サウルは30歳でイスラエルの王様となり、12年間イスラエルを治めます。(13:1) しかし、彼が王様として立った時、イスラエルの中に3000人の勇士はいたものの鍛冶屋がないために、剣といえばサウルとサウルの息子ヨナタンのものしかなく、イスラエルの民が持っているものと言えば、隙や鎌とったものしか無かったのです。(13:19) そういう中で大変な苦労があったと思われるサウルでしたが、油注がれ、聖霊によって新しくされたにもかかわらず、彼の人生は祝福されたものではありませんでした。その一番の理由は主から退けられたというのが大きかったのです。では、油注がれて、祝福されるはずの人生だったはずなのに、どこからどのような形で落ちていったのでしょうか?今日はそのことを一緒に考えて見たいと思います。

2)人の目を気にするサウル

 サウルが失敗してしまった原因はまず、人の目を気にすることが一番の原因だったと思われます。それは王様として選ばれた時、荷物の陰に隠れていたということもそうですが、預言者サムエルが来なかったので勝手に生け贄を捧げてしまったあの出来事のからも。彼が非常に人の目を気にする人だったことが覗えます。というのも、彼がサムエルが来るのを待たずして、焦って行動に移してしまったのは、せっかく集まってくれた3000人の勇士たちが、敵に囲まれていることと、サムエルが来ないということもあって、帰ってしまいそうになったからなのです。どんどん人が帰ってしまう中、自分の面目を保つために彼は勝手に捧げ物を捧げてしまうのです。この出来事というのは、実はサムエルと最初に出会ったときに油を注がれてから、まだ7日目の話なのです。(10:8、13:8を比較) 本当はこのとき、これからサウルが王としてやるべき事を告げられるはずだったのですが、なんと退けられると宣告されるのです。
 そして決定的なのは戦いで勝ったときに全てを聖絶するように命じられていたのにも拘わらず、つまらないものだけを処分し、良い物を戦利品として取ろうとしたことでした。この点についてサムエルから指摘されると、サウルは「自分は間違ったことをしていない」と主張するのです。おそらく自分はそんなことをしていなかったのでしょう。ただ、民がほしいままに振る舞っているのを制止できないでいたのだと思います。しかし、サムエルから怒られて初めて悪かった事を認めるのです。その時の理由が「私は民を恐れて彼らの声に従った」(15:24)と釈明しました。
人の目を気にしてしまうとき、命令されていたものでさえ、曲げられてしまうというのをここに見ます。私たちは何処までも人の目よりも、神の目を気にする生き方をしなければならない事を教えられます。だから、聖書はいいます。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6) まっすぐにされるというのは、気がつかないうちにちょっとずつ曲がって行ってしまうのでしょうね。だからこそ、一瞬一瞬主を認めて行かなければならないのです。
 失敗してしまった他の原因を挙げるとすると、サウルは悔い改めることが無かったということに尽きると思います。それ故に、どんどんと彼の人生はねじ曲がっていくのです。悪霊に取り憑かれ、ダビデに対して嫉妬し、最終的には霊媒師の所に行き、黄泉の世界からサムエルを呼び出して、お伺いを立てようとする行為にまで行ってしまうのです。その時にサムエルから言われた言葉が強烈でした。「何故私に尋ねるのか?主はあなたから去り、あなたの敵となられたのに・・・」(28:16) 神様によって選ばれたサウルでしたが、いつのまにか神様の敵になっていたのです。それは悔い改めない心の頑なさが災いしたのだと思います。それ故に主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても彼に答えられなかったのです。(28:6)

3)結局のところ

サウルは聖霊に満たされ、確かに新しい人になったのです。神様から選ばれ、油注がれた素晴らしい王様だったのです。しかし、結局の所、彼もまた神様を知らない、知ろうともしない人物でした。人からの栄誉だけをもとめるあまり、ダビデに嫉妬するだけの12年でした。もし、彼がどこででも主を認める歩みができていたら、どんなに素晴らしい王様だったでしょうね。
 私たちも神様によって選ばれ、聖霊によって新しくされました。しかし、サウルの人生がいつの間にか曲がってしまったように、私たちも曲がってしまいやすいのです。だからこそ、私たちは常に神様を認めて行く必要があるのです。

「サウルは何故退けられたのか」Ⅰサムエル記13章7~14節 1)イスラエルの初代の王様サウル 前回の話にありましたように、イスラエルの民の中から王様を求める声が高まりつつありました。それはサムエルの息...

「下がれ。サタン!」  マルコの福音書8章31~9章1節1)下がれ。サタン!  8:31~33 ペテロがイエス様をキリスト・メシアと告白した後、イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日...
22/10/2023

「下がれ。サタン!」
マルコの福音書8章31~9章1節

1)下がれ。サタン! 8:31~33

 ペテロがイエス様をキリスト・メシアと告白した後、イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と、弟子たちに教え始められました。
 ここで、イエス様がご自分のことを「人の子」と言っておられる事について調べてみました。「人の子」は、ヘブル語では「ベン・アーダーム」と言い、「人」あるいは「人間一般」の事を意味します。弱さを持った人と言う意味です。イエス様は、ご自分のことを一度も「メシア」と言われたことはなく、いつも「人の子」と言っておられます。イエス様がご自分を「人の子」と呼ばれたのは、イザヤ53章の「苦難のしもべ」を意識しておられたからでした。
 「長老、祭司長、律法学者」は、当時のユダヤ国家の最高決定機関で、彼らに捨てられることは死を意味していました。イエス様は死を宣告され、十字架刑で殺されるけれども、三日の後に「よみがえる」と希望の言葉を語られましたが、弟子たちには「よみがえる」とはどう言うことか理解出来ませんでした。
 しかもこの事をはっきり言われました。するとペテロは、イエス様をわきにお連れして、いさめ始めたとあります。まるでクラスの生徒を職員室に呼んで注意する先生のようです。「いさめる」の意味の中に「(目上の人に対して)誤りや良くないことを改めるように言う。忠告する」とあります。よっぽど、イエス様に言われた事が腹にすえかねたのでしょうね。ペテロだけでなく、他の弟子たちも、メシアのことを一般のユダヤ人と同じように考えていたと言うことです。
すると、イエス様が振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(33)。自分の愛弟子に対して、イエス様が「サタン」と言われたのです。あの優しい柔和な先生が、厳しい声で、しかも弟子たち皆を見ながら言われた。ペテロだけでなく、弟子たち全員が、何故こんなにイエス様が激しく言われるのかサッパリ分からなかったことでしょう。

2)自分の十字架を負い 8:34~38

 イエス様は、ペテロの信仰告白と受難予告に続いて、弟子たちだけでなく、そばにいた群衆にも、ご自身に従うように呼びかけられました。イエス様が第一に教えられたのは、自分を捨てることでした。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(34)。
 自分を捨てるとは、完全に自己を否定することです。では、自分の十字架を負うとはどう言うことでしょうか。
 当時、処刑される罪人は、自分が処刑される十字架を負わされて、刑場へ引き立てられて行きました。自分の十字架を負うと言う事は、死を覚悟してイエス様に従うことです。イエス様は、その上ですべてを捨て、完全な心からの信頼を持って「私に従ってきなさい」と言われたのでした。
 この自己否定と徹底した服従こそが、真実の信仰の姿であり、真実の生き方であることを、イエス様は教えられたのでした。
 次に、イエス様は自分を救うとはどう言うことであるかを教えられました。
ここに出てくる「いのち」という言葉は、肉体の命と霊的命の両方で使われています。自分を救おうとする者は結局自分の命を失い、福音のために自分を捨てる者は、あらゆる意味で自分を得る、すなわち神様の救いに与ることが出来ると言われたのでした(35)。
 イエス様は、この真理を現実に即した形で表現されました。
「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」。
ここでの「いのち」は、肉体の命と霊的命の他に、神様と共に生きる祝福をも指しています。
 政治家も実業家も群衆も、弟子たちでさえも、自分のために、この世の価値を求めて生きています。しかし、イエス様は。徹底して自分を捨てた生き方の中にだけ、弟子としての本当の姿があり、すべてを得る秘訣があることを諭されたのでした(36)。
三番目に、イエス様は、イエス様ご自身と福音を恥じてはならないことを教えられました。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」。
 ペテロはイエス様の裁判の時に、三度もイエス様を知らないと言いました。また、パウロも福音を恥じとし憎んだ時がありました。しかし、イエス様は、この世とご自身がどうしても相容れないことや、人間がいかに弱い存在であるかを良く知っておられました。
 後日、ペテロは悔い改め、パウロは福音を恥としなくなりました。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ロマ1:16)。
 それだけでなく、命を掛けてイエス様のために生き、福音のために殉教しました。ペテロは、イエス様と同じ十字架に掛かるのはもったいないと、逆さ十字架で死んでいったと言われています。イエス様の12弟子のうちヨハネだけが地中海のパトモス島に島流しになり、他の弟子たちは全員殉教の死を遂げたと言われています。
 日本でも、島原の乱の後、キリシタンの取り締まりが厳しくなり、26聖人の他、多くの信者が迫害を受け、殉教の死を遂げています。今の平和な時にこそ、信仰をしっかり持って、いざという時には死も厭わない、信仰の先輩たちに恥じない生き方をしていきたいと思います。

「下がれ。サタン!」 マルコの福音書8章31~9章1節1)下がれ。サタン! 8:31~33 ペテロがイエス様をキリスト・メシアと告白した後、イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律....

「神の声を聞く」  Ⅰサムエル記3章1~10節1)神が不在?10月に入りました。早いもので暦の上では今年も残すところあと3ヶ月となりました。10月は神無月とも言われます。神無月とは、神様が出雲のほうにでかけて不在になることから、神様が居ない...
01/10/2023

「神の声を聞く」
Ⅰサムエル記3章1~10節

1)神が不在?

10月に入りました。早いもので暦の上では今年も残すところあと3ヶ月となりました。10月は神無月とも言われます。神無月とは、神様が出雲のほうにでかけて不在になることから、神様が居ない月というように言われてきました。逆に出雲地方では10月は神様が集まって来るということで、「神在月」と言われてきた経緯があるそうです。しかし、神様が不在だというのはなんとなく滑稽ですよね。でも、日本人は昔から、そう信じてきたのです。しかし、これは日本だけじゃなく、昔の沖縄(琉球王国)でも同じで、10月には祭りを行わないことから、神無月に近い思想があったようなのです。
 しかし、本当の神様はそんな方ではありません。聖書はいいます。「見よ。私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます」、「私はあなたを見放さず、見捨てない」、そう仰ってくださっている方がいるのです。でも、人はどうしても、神様を遠く感じてしまう事、いわゆる不在かのように思うことが多いようなのです。それは詩篇の中にも見ることができます。「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか。』と私に言う間」とあるように、人は何かある度に、神様が不在かのように思うのです。
 それはサムエルを育てた祭司エリの時代もそうでした。祭司エリが活躍していた時代は士師(裁き司)たちが活躍していた時代でした。士師の時代というのは特徴的で、堕落→苦難→悔い改め→士師登場→解放→士師の死→堕落という繰り返しの時代です。そんな中で神様からの語りかけはまれにしか無く、幻も示されなかったと聖書は言っています(3:1)。
 何故そのように主の語りかけがまれだったのでしょうか?シロという場所に設置されたモーセの幕屋での礼拝は捧げられていました。祭司もいました。エリという立派な祭司もいました。その後を継いだ2人の息子達もいました。でも、神様からの語りかけはまれにしかなく、まるで神様が不在かのようでした。
その理由は他でもない主に仕えている祭司の堕落にありました。エリの二人の息子たちは祭司職に就いていましたが、なんと!主を知らなかったと言うのです(2:12)。また女性に対してだらしなく、また神様を恐れもせず、捧げ物さえも奪い取っていました。父であるエリはそのことを知りながらも息子達を厳しく指導が出来ませんでした。なぜなら、彼自身もいい思いをしていたからなのです。彼は4章において契約の箱が敵に持って行かれ、息子2人も死んだと言うことを聞いた時に、椅子から転げ落ちて亡くなるのです。その理由として年寄りであり、太っていたからだと聖書は理由を述べています。彼自身も祭司職にありながらも、贅沢に暮らしていたということなのです。
 神様をあなどり、飢え渇きのない所には神様はほとんど語られないという典型的な構図がここに描かれているのです。神様が語られない時、それは神様が遠くにおられるのではなく、私たちの側に問題があるということを肝に銘じなければならないと思います(イザヤ59章1,2節参照)。

2)お語りください

さて、少年サムエルが主の宮で寝ていたときに、「サムエル、サムエル」と呼ぶ声が聞こえてきました。サムエルは、きっと祭司エリが呼んでいるのだろうと思い、エリの元に行くのです。しかし、エリからは「私は呼ばない。帰ってお休み」と言われるのです。そういうことが2回繰り返されました。しかし、主はまたサムエルを呼ばれるのです。それで、サムエルがエリのとこに行った時、エリは初めて主がサムエルに語りかけようとされておられることに気がつくのです。1,2回で気づけば良いのに・・・と思うのですが、3回目でやっと「主だ」と気づく霊的な鈍さがここに描かれています。ホント、霊的に目が閉じてしまうと、霊的な事すべてに気づかなくなるんでしょうね。
 それで祭司エリはサムエルにアドバイスをします。「今度呼ばれたら『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と言いなさい」と。この祭司エリのアドバイスは的確でした。なぜなら、それは彼自身が祭司となって主のみ声を聞いた時から、ずっとやってきた事であったからです。それでサムエルは、もう一度呼ばれた時に、「お話しください。しもべは聞いております」と答えると、主はサムエルに語られたと言うのです。こうして預言者サムエルが誕生するのですが、「主よお話しください。しもべは聞いております」という姿勢を持つ時にこそ、主はお語りになられるのです。さあ、皆さんは持っていますか?
 因みに、3節で補足として「神のともしびは消えていず」と言う状況が書かれています。ともしびは焚かれていました。それは「会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともしびをととのえなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである」と戒めの中にあるからです。その規定通り、ともしびは焚かれていました。でも、規定通りともしびが焚かれていたとしても、主の言葉はまれにしかなく、幻も示されなかったと言うのです。
 と言うことは、神様は形式だけを求めておられないということが分かります。もちろん、永遠のおきてとありますから、それを行う義務があります。しかし。それ以上に神様は、へりくだって神様の声を聞こうとする姿勢を求めておられるということをここから汲み取ることが出来るのです。
 聖書は言います。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』(マルコ7;6,7) 口先だけ、表面だけ繕ってても、心が遠く離れているならどうして主がお語りになるでしょうか?私たちは常に主の前にへりくだって聞く姿勢を持ち続けなければならないのです。主を知る事を切に追い求めるクリスチャンであり続けて下さい。

「価値を決めるのは神様」       詩篇71篇9節1)私の価値は高い?低い? 明日は敬老の日ですね。それで、今日は敬老の日に因んで、お話ししたいと思います。「価値を決めるのは神様」というタイトルでお話したいと思いますが、皆さんは自分自身を...
17/09/2023

「価値を決めるのは神様」
詩篇71篇9節

1)私の価値は高い?低い?

 明日は敬老の日ですね。それで、今日は敬老の日に因んで、お話ししたいと思います。「価値を決めるのは神様」というタイトルでお話したいと思いますが、皆さんは自分自身をどう見ていますか?どう評価していますか?年と共に変わって行く自分自身を見て、自分に対する評価というものが、かなり落ちていたりしてはいませんか?
 聖書に出てくる登場人物で年を取った人が口にする言葉があります。「もう年を取っていますし・・・」。いわゆる自分はもう老いぼれていると言うことです。年を取れば確かに若い時と明らかに違います。体力も知力も何もかも落ちてきていますから、老いぼれと自覚してしまうのも納得ではあります。
 あの勇ましかったダビデでさえ、詩篇においてこんな事を言っているのです。「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」(詩篇71:9)。それはきっと、年をとってくると役に立たなくなる自分を神様から見捨てられるのではないかと恐れていたのでしょうね。人は年を取りたくないと思っています。しかし、どんなに頑張って若さを保とうとしても、残念ながら人は年を取ってしまうのです。
 では、そういう年を取った自分に、いったいどれくらいの価値があると思っていますか?きっと誰もが、自分自身にそんなに価値はないと思い込んでいるのではないでしょうか?というのも、人は自分自身で物心ついた時から自分の価値を決めてしまっているところがあります。何かが出来る出来ないとか、外見とか、そういったもので自分を評価します。それと同時に他人に対しても価値を勝手に決めつけてしまいます。それが年を取ってからも続いているのです。しかし、その基準は何処にあるのでしょうか?
 私たちの側でそういう感じで価値を勝手に決めつけてしまうのは、実は罪の結果なのです。エデンの園においてアダムは取って食べてはいけないと言われた木の実を食べました。でも、神様からそれを問われたときに、自分は正しいとし、相手を悪いと決めつけました。アダムの言葉に注目してください。彼は「この女が・・・」と言いました。でも、罪が入る前、エバを見た時には「これこそ、いまや、私の骨からの骨、肉からの肉と感動さえしたのです。
 罪が入ったことによって自分の内側にある物差しで自分を測り、人を計るようになったのです。しかし、聖書は言います。全ての人が罪を犯したので神様からの栄誉を受ける事ができない。また、全ての人が罪の中にとじこめられている。とも言っています。結局のところ、どんなに自分は正しい、あの人よりも自分は正しい!と主張したとしても、どんぐりの背比べということなのです。

2)価値は自分が決めることではない

 聖書は「私達は作品」であると言っています。作品です。作品は作品自体が価値を決めることはありません。決めるのはだれですか?作者です。そしてその作者が有名であればあるほど、その作品の価値は高額なものになります。私たちは作品です。誰の作品ですか?神様の作品なのです。しかも、神様が人間を造られた時に「はなはだ良かった」と最高の言葉を述べられたのです。では、そういう神様の作品である私たち人間は、罪を犯した結果、その価値はどうなったのでしょうか?
 ノアの時代を見ると悪い考えに傾く人間をご覧になられて、人を造った事を悔やまれているシーンがあります。人間の価値は下がったのでしょうか?いいえ、そうではないのです。「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と神様は言われるのです。
 私の目とは誰の目ですか?私たちをお造りになった神様の目です。神様はあの天地創造の時に「はなはだ良かった」という、あの時に思われた目で私たちをご覧になられているということなのです。いわゆる価値は変わってないということなのです。
 では、どのくらいの価値なのでしょうか?聖書は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」と言っていますので、この世の宝に勝るということなのです。誰がですか?あなたのことです。
 あなたは大変価値があるのです。それはどんなに年を取っていたとしてもです。今週の聖句にもあるように、神様は「あなたがたが年を取っても同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」と言われました。どんなに年を取ろうとも、神様が私たちをご覧になられる目は同じなのです。

3)あなたには価値があるから

 では皆さんに質問です。「イエス様が十字架に架かられたのはなんの為でしょうか?」 これは基本的な質問ですけど、これはとても大切なことなのです。それは私たちを救うためです。罪に汚れた私たちを救う為です。いや、罪に汚れた”私”を救う為です。でも、なんででしょうか?それは価値があるからです。だからこそ、イエス様はこの罪の世界に来てくださったのです。例えあなたが年を取り、「もう自分は役立たずだ」と思ったとしても、それでも、神様は「あなたは高価で尊い」と仰ってくださるのです。
 年を取ることは自分自身では良いことでは無いように思えるのですが、神様の側では違います。今週の聖句にあるのように「わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」と言っておられます。「そうしてきた」というのは、過去の信仰者たちに対してです。しかし、それと同じようにあなたをも救い出そうと仰っておられます。これは神様の約束なのです。役立たずでも老いぼれでもない、尊い存在、それがあなたなのです。

「解決は何処に」  ローマ人へ手紙7章19~25節1)HOW TO 本屋さんに行きますと「~になる方法」、「~になるための秘訣」、「~すれば○○になれる」という、方法論の本が沢山売られています。私も大好きでいろいろな本を読みあさりました。い...
27/03/2023

「解決は何処に」
ローマ人へ手紙7章19~25節

1)HOW TO

 本屋さんに行きますと「~になる方法」、「~になるための秘訣」、「~すれば○○になれる」という、方法論の本が沢山売られています。私も大好きでいろいろな本を読みあさりました。いろんな考え方があって本当に勉強になります。しかし、そういう本が沢山でているということは、それだけ、人はてっとり早く楽して何かを手に入れたいと思っていると言うことなのかも知れません。
 しかしながら、本を買ったからと言って、それで何かを手にいれられる訳ではありません。また、本を読んだからと言って、それで「完璧!」と言うことでもありません。また、本を熟読し、線を沢山引っ張ったからと言って、本に書かれていることが現実に起こる訳でもありません。結局の所、本が示唆している事をやらない限り、何も変わらないのです。にも拘わらず、人は行動に移すことをせずに、「もっと他に簡単な方法は無いだろうか?」と、更なる本をあさくりまわるのです。
 それは聖書においても同じです。聖書を読んでいて「あー、良いことが書いてある!」と思っていても、「お!なるほど!」と線を引っ張ってみても、結局の所、それを実践しなければ、ただの絵に描いた餅になってしまうのです。聖書を読むのは、実践するためにほかなりません。聖書には本当に素晴らしい本です。そして「~すれば~になれる」という方法論が沢山書かれているのです。律法全体を見てもそれが分かります。
 例えば申命記28章を読みますと、主の命令を守り行えば、どんな祝福を得られるのか、主の命令を守らなければどのように呪われるのかが書かれています。また、詩篇1篇には「何をしても栄える方法」が書かれています。またイエス様の所にきた富める青年との会話の中に「永遠の命を得る方法」が書かれています。また「幸せで長生きする方法」も十戒の中に記されているのを見ます。と言うことで、聖書には「~すれば~になる」という方法論が無数に書かれているのです。
 その方法論を一生懸命やろうと頑張ったグループがいます。それがパリサイ人なのです。律法の言う方法論を本当に実践しようとしたのです。その中にパウロという人がいまいた。パウロは律法を実践してきた自分自身のことをこう言っています。「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(ピリピ3:6)。ものすごく真剣に取り組んでいたのです。しかしながら、この律法を実践しようとすればするほど、必ず、ぶち当たるものがあるとパウロは言いました。それは自分の罪深さです。律法の言葉を実践すればするほど、それとは違う事をしてしまう自分がいることに気づくのです。パウロはローマ書7章に於いて、「私はほんとうに惨めな人間です」と自分の惨めさを率直に書きました。彼は律法に関しては非の打ち所のない者としての自負がありましたが、でも、実際はどうだったのでしょうか。心の奥底ではやればやるほど「惨めな人間である」ということを思い知らされたのです。
 人はダメな自分に気がついた時に、「どうすればもっと改善できるだろうか」と考えます。それ故に人は解決策を求めて「どうすれば・・・」というスパイラルに陥っていくのです。
 そこで聖書はいいます。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ロマ3:20)。どんなに解決策を求めてあらゆる方法をとったとしても、結局の所、「私は惨めな人間です」というところにしか行かないのです。すなわち、罪の意識を感じるしかないと言うことです。
 それはあの富める青年も同じでした。イエス様から「律法を行いなさい」と言われた時に、このように答えているのです。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20)。富める青年もまた小さいころから律法を守っている自負がありました。しかし、律法を小さいころから守っているという自負があっても、まだそこに何か不足を感じ、「他にすることはないのだろうか?」と、どこまでも「HOW TO」を追い求めていたのです。結局のところ、そこには救いというものが存在しないのです。 

2)HOW TO から WHO へ 

 では、どうすれば良いのでしょうか。解決策はあるのでしょうか。あります。パウロは自分の惨めさを痛感した時に、「もっと他のいい方法があるのだろうか」とは、もう考えませんでした。惨めさを悟った後に出した結論があります。それは「どうすれば」という方法論ではなく「誰が」という事です。今まで「どうすれば」という視点で生きてきた彼が、その方法では救いがないということに気がついたのです。それでパウロはガラテヤ書でこう言っています。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」(ガラ3:24)。律法は確かに良い物です。しかし、その律法はには目的がありました。それは罪の意識を生じさせることによって、こんな私を救ってくださる方が必要なのだということに気づかせるためのものであったと言う事なのです。
 もし、パウロがイエスキリストに出会っていなければ、ずっと方法論「どうすれば」の世界の中でもがき続け、「惨めな私」という思いの中に閉じ込められていたと思うのです。そこには「あなたは高価で尊い」と、神様が仰っておられるような価値を自分の中に見いだすことが出来ないまま。いつまで経っても惨めな私のままなのです。しかし、律法を完全に成し遂げ、死の力を打ち破られたイエス・キリストにこそ希望があるのです。イエス・キリストにこそ、唯一の解決策があるのです。救ってくださるイエス様のゆえに神様に感謝しましょう。

「解決は何処に」 ローマ人へ手紙7章19~25節1)HOW TO 本屋さんに行きますと「~になる方法」、「~になるための秘訣」、「~すれば○○になれる」という、方法論の本が沢山売られています。私も大好き....

「神は存在する」  詩篇14篇1節1)神はいない? 今日ここに集うクリスチャンの方々は「神様は存在する」と確信を持っておられると思います。それはおそらく、聖書のお話しを聞いたから・・・ということ以上に、神様に出会い、神様を体験をしたからだと...
04/09/2022

「神は存在する」
詩篇14篇1節

1)神はいない?

 今日ここに集うクリスチャンの方々は「神様は存在する」と確信を持っておられると思います。それはおそらく、聖書のお話しを聞いたから・・・ということ以上に、神様に出会い、神様を体験をしたからだと思うのです。私もいろいろな体験をしてきました。聖霊体験により本当に信仰の目が開かれましたし、「これは確かに神様がしてくださったことだ」と思える体験もあります。私はその体験があるから、神様がいらっしゃることを疑わないし、その神様がどんな時にも助けてくださると信じています。
 しかし、今日の聖書の中に「神はいない」という言葉が出てきました。これはまことに不思議な事だと思うのです。というのも、この詩篇が書かれた時代はダビデ~ソロモンの時代です。その時代は神様が働いてくださったイスラエルの黄金時代です。その時代に於いてもイスラエルの民の中に、「神はいない」と思う人がいたというのです。
因みに新共同訳聖書では「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。」となっているのを見ます。神を知らないとは一体どういうことでしょうか。イスラエル人というと、小さい頃からモーセ五書を暗記して徹底的に神様を恐れる事を教えるのです。ですから、物心ついたころから、神様を意識してきたと思うし、また礼拝してきているはずなのです。それなのに神を知らない人がいたり、「神はいない」と思っている人がいると言うのですから不思議ですね。結局の所、これというのは、教えだけでは神様を見いだすことができないのだということだと思います。
 私はクリスチャンホーム、しかも牧師家庭に育った4人兄弟の次男ですが、いまの時点で本当に神様を信じてるのは私だけです。同じように神様の事を教えられてきたはずなのに、こうも違うのはやはり「教え」ということだけではないのだ!と言うことを痛感します。本当に神様に出会い、神様を体験出来たかどうかだと思うのです。
 しかしながら、聖書を見る限り、神様に出会い、神様を体験をしたとしても「神はいない」という結論に走る人もいるのは確かです。例えばイスラエルの民はエジプトに於いて10の災いを見ました。また、紅海が分かれるという奇跡も、そしてエジプト軍が全滅するという出来事も、また苦い水が飲める水に変わるという奇跡も体験しました。しかしその彼らが、モーセがシナイ山に上っている時に、すぐに心変わりをして「私たちを導く神を造ってくれ」とアロンに頼み、金の子牛を造って、それを拝むのです。その金の子牛はすぐに壊されましたが、不思議なことに40年の荒野の生活のなかで、神様が雲の柱、火の柱でイスラエルの民を導き、天からパンを降らせ、岩から水を流れさせ、イスラエルの民は多くの奇跡を体験しているのですが、それでも、他の神々を慕い、神でもないものを神だと礼拝していたというのです。(使徒7:43) 
また、カナンの地を征服していく中で、人々はその地の偶像を慕い求めていくようになるのです。この詩篇が書かれたダビデ王以降の王様達を見ても、すぐに偶像に心を引かれていく姿が聖書に描かれているのを見ます。
そういう出来事を見る時に人は神様の事を教えられても、また神様を体験をしたとしても、そして奇跡を見たとしても、「神様はいない」という思いが生まれることもあるというのを垣間見ることができます。その原因はなんでしょうか。

2)腐っている故に

 神はいないと思う、そういう思いを持つその原因は、その心が腐っているからだと聖書はいいます。しかし、すべての物は初めから腐っていた訳ではありません。何かの原因によって初めて物は腐るのです。例えば腐っている物と一緒になった時、それに影響されて腐ります。あるいは落として傷が付いたとき。あるいは害虫が付いて食われてしまった時。あるいは病気が入った時。あるいは時間が経過して古くなった時など、腐るには色々な原因があります。
 信仰がなくなり「神はいない」と思う、愚かで腐った思いになる原因も同じような感じでは無いでしょうか。初めは腐っていなかったのです。しかし、何かの要因によって腐り始めるのです。要は悪い友達に影響されたり、何か傷ついて癒やされないまま放置していたり、悪魔が心に入るのを放置していたり、もしくは、信仰が長ければ長いほど惰性的になり全然生き生きしてなかったり・・・だと思うのです。
 しかし、信仰って、そんな何かに影響をされやすく、弱々しいものなのでしょうか。いいえ違います。イエス様は言われました。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10) もし、私たちが「神はいない」という思いを持っているとするならば、それはイエス様ではなく、「盗人」であるサタンに心を支配されて腐りはじめ、滅ぼされるように仕向けられているにすぎないのです。しかし、イエス様が来られたのは私たちが腐ることなく、命に溢れた生活をするために来られたのです。
 さあ、いまの自分をよく吟味して、腐っているのか?それとも神様にあって生き生きしているのか?を確認してみてください。どうやって吟味するのかは「実」によって確認できます。聖書は「忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」と言っています。すなわち、私たちの生活の中で生みだされる実によって、自分はどっち側にいるのかを知る事ができるのです。イエス様は言われました。「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ7:17) 私たちが本当に腐りきって愚かにならないためにも、いつもしっかりとイエス様に繋がり、「私の主」として交わりを持っていただきたいと思います。

「神は存在する」 詩篇14篇1節1)神はいない? 今日ここに集うクリスチャンの方々は「神様は存在する」と確信を持っておられると思います。それはおそらく、聖書のお話しを聞いたから・・・ということ以上に、.....

26/06/2022

「自分を愛するように」
マタイの福音書22章36~40節

1)大切な戒め

 イエス様は戒めの中で大切な戒めがあることを言われました。それは『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』と、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。という、この二つです。この二つの戒めはきっても切り離せないものであるのです。今日はこの大切な戒めの中で、私自身と一番関わりのある「自分を愛するように・・・」ということを考えて見たいと思います。
 この戒めは人を愛するということであるように見えて、実はそうではないのです。初めの出だしは何と書いてありますか?「自分を愛する」です。自分を愛するということ、ここがスタートであるのです。もちろん、みな自分を守り、自分のことを一番に考えます。だから自分を愛していると思っています。ところが「自分が好きですか?」と質問すると、必ず多くの場合、「いいえ」という答えが返ってきます。人は自分中心ではありますが、自分が嫌いなのです。
 例えば自分の顔が好きですか?と質問したとします。おそらく答えはNOです。私も小さい頃から自分の顔はすきではありませんでした。鼻が大きく、髪の毛も天然パーマで、高校2年生まで一度も女の子にモテたことがありませんでした。「あんなふうになりたい。」格好いい友達を見ては羨ましいと思いました。しかしながら、とてもハンサムな人、とても美人な人であっても、ここが嫌い、ここを整形したいと思っている人は沢山いるのです。
 性格はどうでしょうか?好きですか?おそらく答えはNOです。自分の嫌な部分が見え隠れして、もっとこう無くてはならない。こんな人間ではダメだ!と思っているところがあるのではないでしょうか。それで自己啓発とかの本などを読んで、自分を高めたいとか思ったりするのです。私もよくそういう本を漁って読みました。自分を変えよう変えようとするのは素晴らしいことなのですが、その裏にあるのは、今の○○なこういう自分が嫌で赦せないからなのです。
 人は自分を愛しているようで、実は愛してはいないのです。逆に自分を嫌いだし、赦せないでいるのです。そんな私がどうして他人を愛することができるのでしょうか。実は、そこが問題なのです。

2)愛されているから

 聖書がいう『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』との戒めは、自分を愛することが出来なければ、隣人を愛することなどできないと言うことでもあるのです。でも、どうやって自分を愛することができるのでしょうか。自分の嫌なところが沢山見えているのに、どうやって愛せばよいのでしょうか。
 そこで、聖書がまず何と言っているか見てみましょう。聖書はいいます。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」(箴言19:22) よくよく考えて見ますと、自分自身は嫌いでも、誰かに自分の事を好きになって欲しい、誰かに愛されたいと思う思いがあります。それは愛されることによって、幸せを感じ、また愛されることによって自分の価値を見いだすことができるからです。
でも、実際どうでしょうか。自分の周りに変わらぬ愛が存在したでしょうか。裏切られ、傷つけられ、そのたびに自分の価値を見失い、そして、また新たな愛を探す。そんな繰り返しではないかと思います。本当に人の変わらぬ愛が果たして存在するのでしょうか。無条件に受け入れてもらえる場所があるのでしょうか。
あります。それは神様の元にあるのです。神様は私たち一人一人にこう言われます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4) こんな私を高価だと言ってくださる方がいらっしゃいます。こんな私を愛していると言ってくださっている方がいます。その愛に触れたら、どんなに素晴らしいでしょうね。でも、神を見た者は誰1人としていないのです。目に見えない存在から「高価で尊い、愛している」と言われても、実態がありません。それに先ほどの聖書にもありましたように人の望むものはどこまでも「人の変わらぬ愛」なのです。
 そこで今週の聖句です。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」 人として生まれてこられた神の御子イエス様の十字架によって何が分かったのでしょうか。それは愛です。なんの愛でしょうか。神様の愛です。神様が本当にこんな私を変わらない愛で愛してくださっている事、また、こんな私が高価で尊い存在であることが、イエス様の命をかけた十字架によって理解できたのです。私は愛されている!どんなに自分が嫌いでも、神様が愛してくださっている。
そこを理解することがまずスタートなのです。それを理解出来てこそ、聖書は言います。「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
すなわち、神様から本当に愛されていることを理解してこそ、本当の意味で自分の価値を見いだし、自分を愛することができ、その上で隣人を愛する事ができるのです。愛されてこそ、愛する事ができるのです。

3)神の声を聞く

 私たちは自分のここが嫌い、あそこが嫌いと自分に言ってきました。他人からも色々と言われてきました。そんな声を今まで聞いてきたのです。そして、自分を粗末に扱ってきました。神様から愛されているこの自分自身を粗末に扱ってきたのです。高価で尊い存在なのにです。自分を粗末に扱っているならば、他人を高価に思えない、愛せないのは当然なのです。しかし、父なる神様はイエス様を通して、愛していることを示されました。それは空想話しではなく事実です。私たちは空しい生き方をさせようとする超え聞くのでは無く、神様の声を聞かなければならない。イエス様の十字架を見上げる事によって、愛されていると確信しなければならない。そこに愛があるのですから。

https://youtu.be/yg3INeU-WvE

05/06/2022

「ペンテコステの日の出来事」
使徒の働き2章1~4節

 今日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステは、イースターやクリスマスと共にキリスト教の三大行事の一つです。クリスマスはイエス様の御降誕をお祝いする日で、イースターはイエス様の復活をお祝いする日です。それではペンテコステ(五旬節)は何をお祝いする日でしょう? 

1)イエス様の約束 使徒1:8、 

 イエス様の弟子であったルカは、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書きました。どちらもテオピロと言う人に宛てて書いています。弟子たちのほとんどはガリラヤ出身の漁師でしたが、ルカは医者でした。恐らくパウロの出身地タルソで生まれ、タルソの大学で医学を学んだデアスポラ(離散)のユダヤ人ではないかと言われています。デアスポラのユダヤ人は、ギリシャ語を話していたので、彼の書いた文章は美しいギリシャ語で書かれているそうです。
 「ルカの福音書」には、イエス様の誕生から復活、昇天まで書かれています。イエス様が昇天される時の約束はこうでした。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。
 そして、「使徒の働き」では、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)と言う約束でした。聖霊に満たされた弟子たちは、エルサレムから始めて、シリア、トルコ、そしてギリシャの方まで福音を伝えました。その結果、教会が各地に誕生していきました。
 「ルカの福音書」は、地上で人として働かれたイエス様を描き、「使徒の働き」は、聖霊の働きによってキリストの体である教会が誕生し拡大していく様子を描いています。前半はペテロ、後半はパウロを中心に書かれています。

2)ペンテコステの日の出来事 使徒2:1~4、33,38,41

ペンテコステはギリシャ語で「50日目」を意味します。何から数えて50日目かと言えば、イスラエルの民がエジプトを脱出した事を記念する「過越の祭り」から数えて50日目で、これが五旬節(ペンテコステ)なのです。イエス様は復活して40日後に昇天されましので、弟子たちが約束の聖霊を待っていたのは10日間だったことになります。
 「五旬節の日」に弟子たちが一つ所に集まって祈っていると、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に響き渡りました。すると、「炎のような分かれた舌」がひとりひとりの上にとどまりました。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(使徒2:4)。
 ここで、弟子たちが聖霊に満たされた時、語ったのは「他国のことば」であって、「異言」ではなかったことに注意しましょう。弟子たちは、メソポタミヤ・エジプト、ローマ人、アラビヤ人など15カ国以上の国ことばで「神の大きなみわざ」(福音)を語ったのでした(使徒2:9~11)。
 ペンテコステの日に弟子たちが聖霊に満たされる体験をしましたが、それは大風が吹くような大きな響きと、弟子たちの頭の上の「炎のような分かれた舌」と、酔ったように外国語で話す弟子たちの姿でした。ここで何故、炎ではなく「舌」だったのでしょうか?
 大きな物音に驚いて、何事が起こったのかと数千人の野次馬が集まってきました。この群衆を目の前にして、ペテロはどうしたでしょうか?イエス様の裁判の席で、人々の顔を恐れて三度もイエス様を知らないと否定したペテロが、弟子の11人と共に勇敢にも立ち上がって、声を張り上げて語りはじめました。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください」。
 こうして、ペテロは聖書を引用し、イエス様の死と復活について、また聖霊について大説教をしたのです。それはまるで「炎のように分かれた舌が」ペテロの舌に乗り移ったかのようでした。これを聞いた人々は、「私たちはどうすれば良いでしょうか」と質問しました。そこでペテロが「悔い改めなさい」と言うと、3000人がバプテスマを受け、教会が誕生したのでした。

3)聖霊の満たしと異言 使徒10:46

 ここで、聖霊と異言について触れておきたいと思います。「異言」と言う言葉がはじめて出てくるのは百人隊長コルネリオの家でのことです。ペテロの話を聞いていた人たちに聖霊の賜物が注がれました。ある人は異言を話し、ある人は神様を賛美していました。この様子を見たペテロが、「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから」と言って、バプテスマを授けています。この出来事は、異邦人がはじめて救われた記念すべき日となりました。
 聖霊を求めて祈っていると、酔っ払ったようになったり、恍惚状態になったり、体を震わせたり、奇声を上げたり、倒れたり、床の上を転げ回る人もいたりする人もいます。これは、聖霊を受けた時に起きる様々な現象です。中には狐か何かに取り付かれたようになる人もいます。この全ての現象を聖霊の結果だとするには疑問が残ります。
 10章までの間に、聖霊に満たされた事が数回(4:8,31,7:55,8:17,9:17)出て来ますが、異言で語ったとは書かれていません。むしろ大胆にイエス様のことを宣べ伝えています。聖霊に満たされる目的は異言を語ることではなく、イエス様が言われたように、力を受け、イエス様の証人になることです。その為には、いつも聖霊様を歓迎し崇めることです。そして、自分が罪許され、救われ、愛され、永遠の命を持っていることの素晴らしさを、言葉に、表情に表わすことです。さあ、今日から実践してみましょう!

https://youtu.be/SbDClLxEhXE

29/05/2022

「私たちの誇り」
ガラテヤ人への手紙6章11~18節

 救いは律法の行いか、それとも主イエスを信じる信仰だけで良いのかと言う事は、ガラテヤの教会の問題だけではなく、常にキリスト教の歴史の中で問われてきた重要なテーマです。ルターが直面した宗教改革も同じでした。 

1)律法主義者の誇り  6:11~13

パウロは、どの手紙でもそうですが、自分で書いたのではなく、書記に自分が言ったことを筆記させていました。しかし、このガラテヤ人への手紙では、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなた方に書いています」と、最後の言葉は自分で書いたと記しています。それだけ、この手紙に込める思いは強かったと言うことでしょう。
 ここでパウロは、律法主義者の3つの特徴を挙げています。

①外見を良く見せる
 「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」(6:3)。律法主義者は、自分は律法をちゃんと守っているからお前たちとは違うんだという誇りを持っていました。

②迫害を恐れていた
 律法主義者は、割礼を行い、ユダヤ人のように生活すれば救われると教えていましたから、ユダヤ人から迫害を受けることはありませんでした。「彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです」。しかし、パウロは激しい迫害の中にいました。律法の行いではなく、ただ復活した主イエス様を信じることが救いの条件だと主張したからです。

③肉を誇る
「なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです」
律法を守るために割礼を受けたはずなのに、律法を守っていないとはどう言うことでしょうか?割礼を受けても、その人は新しく生まれ変わることは出来ません。肉のままだからです。
 「肉を誇る」とは、何人の人に割礼をさせることが出来たか、自分の取り巻きは何人かと言う自分の信者の数を誇りとしたと言うことです。

2)私たちの誇り  6:14~16

①キリスト共に死んだ
 十字架に死んで三日目に復活されたイエス様を信じる人は、イエス様と共に十字架に死にました。そして、イエス様と共に新しい命に復活したのです。
 生きているのは、滅び行く古い自分ではなく、イエス様と一体となった新しい自分です。イエス様が死に勝利されたように、死に勝利したのです。

②新しい創造
 たとえ、割礼を受け、律法を守っていたとしても、救われていなければ何の意味もありません。大事なのは、「新しい創造」です。新しく生まれ変わることです。それは聖霊の働きです。聖霊はイエス様のみ業を完成するために働いています。イエス様を信じることも、罪を認め、悔い改めることも、救いの確信を得ることも、すべては聖霊の働きです。
 心からイエス様を信じているなら、あなたは新しく創造されたのです。それは今、私たちが完全であると言う事を意味しません。成長には段階があり、聖化に終わりはないからです。一生が聖化です。

③平安とあわれみ
「この基準に従って進む人々」とは、律法の行いではなくイエス様を信じる信仰によって新しく生まれ変わった私たち信者のことです。その人たちに平安とあわれみがあるように祈っています。
 この人生で最も必要なもの、それは「平安」であり、「あわれみ」ではないでしょうか。これは、目に見えるものが全て問題がない状態のことではなく、たとえ病気をし、経済的にも人間関係でもいろいろ問題がある中で、イエス様が共にいて下さるという信仰から来る確信です。だからこそ、多くの信仰の先輩たちは迫害の中で殉教して行くことが出来たのではないでしょうか。主にあって死ぬことは幸いであると。

3)祝祷  6:17,18

「イエスの焼き印を帯びている」と言っています、パウロは何度も迫害を受け
死に目に会いました。「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度」、「ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度」(2コリ11:24、25)。
 「焼き印」とは、所有権を示すために奴隷や家畜に記す印のことです。パウロは、かつては律法の奴隷でした。しかし今では、進んでイエス様の奴隷になりました。パウロにとっては、迫害によって受けた傷は、「イエスの焼き印」でした。この焼き印は、イエス様の所有物であることを示すものでした。
 パウロは、ガラテヤ人への手紙を終えるに当たって、「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン」と結んでいます。イエス様の恵から離れ、律法主義に走っていった人たちに、「兄弟たち」と呼んで、ガラテヤの信者たちへの愛の表現を表しています。
 パウロが、この手紙の中で一番言いたかったことは「主イエス・キリストの恵み」でした。ガラテヤの信者たちは、「恵み」の重要性を確信したことでしょう。 ガラテヤ人への学びは今回で終わりです。来週はペンテコステです。弟子たちみんなが集まって祈っている所に聖霊が注がれました。この一週間、聖霊の恵みに預かれるように祈っていきましょう。

https://youtu.be/g4GI9EA-G5E

22/05/2022

「人生は学び」
マタイの福音書11章28~30節

1)勉強しなさい

 「勉強しなさい」 みなさん、親からそう言われてきたと思いますが、何故、勉強しなさいと親は言うのでしょうか。それは恐らく、良い大学に入って、良い会社に就職して・・・と、人生の成功を収めるためだと思うのです。しかし、本当に良い大学に入り、良い会社に入れば、バラ色の人生が待っているのでしょうか。ある人がツイッターでこんな事をつぶやいていました。「将来の選択肢が広がるという理由で偏差値の高い大学に入学するも、高学歴ゆえに大企業に入る道しか許されず、大企業にてやりたくもない仕事で毎日を消耗させ、年金2000万問題に踊らせられ、結婚も子供を作ることもままならず、生涯世間のしがらみに生きていかねばならぬ人生、それは果たして幸福か」。
 確かに彼は端から見ると、うらやましいと思われる存在です。しかし、内心はそうではない現実があるのです。なぜなら人生における本当の幸せというものは、そこにあるのではなく、却って人生に疲れを覚えてしまうのです。
 そもそも何故、勉強しなければならないのでしょうか。
ある時、子供に「勉強しなさい!」と注意したら、「なんで勉強しなきゃならないのか?」と反論されたので、どう答えたらよいか返事に迷ってしまい「勉強しないと、ろくな人生を送れないからだ」と応えた親がいました。確かに学びは大切です。しかし、聖書は「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか」(Ⅰコリ1:20)と言い、また更に聖書は「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」(箴言10:22)と言っています。どんなに頑張って勉強して、人が羨ましがるような歩みだとしても、その人生に主がいなければ、その人生に主の祝福がなければ、どんな学問を得ようとも、それは本当の意味で成功者ではないのです。
 では勉強しなくて良いのかと言うと、そうでもありません。今日の聖書の箇所には「学びなさい」と記されているので、学びは必要だということです。要はどこで、誰から、何を、どうやって学ぶか・・・なのです。

2)疲れた人を招いておられるイエス様

 先週、お笑い芸人の方が亡くなられたというニュースが流れました。後輩思いの、皆から愛されていた方です。でも、そんな方が自ら命を絶ってしまいました。とても残念です。思い詰めていたのか分かりませんが、人を笑わすのが仕事ですから、多くの方々が「まさか!」と思ったと言っていました。
 どんなに成功したとしても、どんなに地位を確立したとしても、そしてどんなに愛されたとしても、本人の心は幸せではないことがある!ということなのかも知れません。人の心の中の苦しみは、その人にしか分からないものなのです。
 今日の聖書の中で、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:26)と言わわました。確かに、人生には疲れることがあるということです。これは神様を信じていない人に対してではなく、クリスチャン対しても言われている言葉なのです。神様を信じる人であっても、人間ですから人生に疲れを覚えることだってあるのです。
 聖書の中に出てくるモーセもそうですし、ダビデもそうですし、エリヤだってそうです。神様を信じているから、大丈夫ということではないのです。誰であれ、みな人生に疲れを覚えているのです。というのも、どんな人でも負うべき重荷があるからです。徳川家康は天下統一を成し遂げてた人物ですが、彼の遺訓は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず・・・」でした。ここには彼の人生そのものが凝縮されていると思います。確かにその通りなのでしょう。しかし、人は重荷を下ろさず遠くへ歩んでいると、いつしかその重荷につぶされてしまうのです。
 だからこそ、そこから救って下さる方が必要なのです。
救って下さる方はいらっしゃるのでしょうか。どこにいけば救いはあるのでしょうか。それはイエス様です。幸いなことにイエス様の方から「わたしの元に来なさい」と招いて下さっているのです。その声はあなたにも届いていますか?

3)人生は学び 

 イエス様の元に来ればOK? 魂に安らぎが来るのか?と言えば、そうではないのです。確かにイエス様の元には安息があります。しかし、イエス様は続けてこう言われました。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)。 
 ここに「くびき」と出てきますが、これは農耕の時に家畜同士を繋ぐための装置です。発祥はBC2500年頃のナイル河畔、またはユーフラテス河畔に始るといわれ、初めは人力だったそうです。歩調を合わせるためには、そのくびきは大切なものだったのです。ことを踏まえ、イエス様が言われた「私のもとにきなさい。私のくびきを負うて、私から学びなさい」という事を考える時、この聖書の言葉が理解できます。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~12)。
 すべての人が迷い出ているゆえに、イエス様は私達を招かれているのです。そして、人生が無益にならないように「私から学びなさい」と言われているのです。それはイエス様と一緒に歩き、イエス様と歩調を合わせ、イエス様から学ぶという事を通して安息を得ることができる唯一の道なのです。イエス様は「私から学びなさい」と今日も仰っておられます。あなたは学びますか?

https://youtu.be/s65uuDkiFzc

01/05/2022

「ユダヤ教から受け継がなかったもの」
ガラテヤ人への手紙2章16節

 今まで、キリスト教がユダヤ教から受け継いだ①唯一神信仰、②契約思想、③メシア思想、④終末論について学んできました。今回は、ユダヤ教から受け継がなかった①選民思想、②律法至上主義について学んでみたいと思います。

1)選民思想

 選民思想とは、ユダヤ人だけが神様から選ばれた特別な民族であるという考え方です。確かに、神様はアブラハムを選び、この地を与え、あなたの子孫を祝福すると約束されました。モーセに率いられたイスラエルは、多くの民族を追い出し、約束の地カナンを征服することが出来ました。
 カナンの地は12部族に分配されましたが、ソロモンの子レハブアムの時に北イスラエル(10部族)と南ユダ(2部族)に分裂してしまいます。その後、北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、捕囚となります。
 北イスラエルの後に異邦人が入ってきて混血が行われ、サマリヤ人と呼ばれるようになります。幸い南ユダは祖国に帰りエルサレムの神殿を建て直すことが許され、町を復興していきます。この頃からイスラエル民族はユダ族を中心にユダヤ人と呼ばれるようになり、ユダヤ教の基礎が出来ます。律法学者やパリサイ人、祭司階級のサドカイ人が出て来たのはこの頃です。
 ユダヤ人は、自分たちは神様から特別に選ばれた聖なる民族であり、自分たちユダヤ人だけが救われると言う考えを持つようになります。このため、サマリア人など異邦人を軽蔑し、罪人や遊女などとは決して交わろうとはせず、自分たちの世界が唯一正しいと信じていました。
 しかし、イエス様は誰とでも親しく交わり、神様の愛を示していかれました。ヤコブの井戸で出会った女性はサマリヤ人でしたし、罪人とされていた取税人とも親しく食事をしたりなさいました。そして、ユダヤ人をはじめサマリヤ人もすべての異邦人が救われるために十字架に命を投げ出して下さいました。神様はユダヤ人だけでなく、すべての人が救われることを願っておられます。
 また、パウロはパリサイ人で、クリスチャンを憎んで迫害していましたが、復活のイエス様に出会って、すべての人は神様の前では平等であって、区別はないと異邦人に伝道していきました。こうして、選民思想はキリスト教には受け継がれなかったのです。

2)律法至上主義

律法学者やパリサイ人は、イスラエルの民が異邦人に苦しめられ、バビロンによって滅ぼされ捕囚になったのは、十戒をはじめ律法を守らなかったからだと考えるようになります。「安息日にどんな仕事もしてはならない」とあるので、何をすれば「仕事」になるのかを考えました。たとえば、何キロ歩けば仕事になるのか、荷物は何キロまでは許されるとか、食器や身体をどのように清めれば良いかとか、律法を守ることについて議論していました。
 パウロが異邦人に伝道して救われる人が起こってくると、異邦人にも律法を守らせるべきだと考えるユダヤ人クリスチャンがいました。それに対して、パウロはガラテヤ人への手紙で、律法の行いではなくイエス様を救い主と信じる信仰だけで救われることを強調しています。
 「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラテヤ2:16)。
 このようにして、パウロは律法至上主義を完全に否定しています。キリスト教がユダヤ教から受け継がなかった二つ目のものは律法至上主義です。
 しかし、ユダヤ人は今でも、安息日を守り、律法の教えに従って生活しています。そして、近い将来、シオンの山で昔のように犠牲を捧げる日が来ることを信じて準備をしていると言われています。その犠牲の動物がイエス様を表していることに気づいていないのです。

3)まとめ

 キリスト教は、ユダヤ教から生まれました。ユダヤ教なしにキリスト教は存在しません。ユダヤ教はキリスト教の母親のような存在です。歴史上、キリスト教はユダヤ教を否定して、激しい迫害を行い撲滅しようとしました。ユダヤ教は迫害の歴史そのものです。
 しかし、どんなに迫害されても生き延びることが出来たのは聖書(旧約聖書)があったからです。聖書こそがユダヤ教の拠り所です。小さい頃から聖書に親しみ、その教えを生活の糧にしてきました。どんなに迫害され、見捨てられても、聖書の神(ヤーウエ)を信じて生き残ってきました。
 キリスト教は、その後ローマの国教に取り入れられ、政治に利用され、本来の純粋な姿を失っていきます。世界のキリスト教会は大きく分けて、カトリックとプロテスタントの二つに分かれています。
 カトリックの神父であったルターが救いを求めて聖書を学び、今のキリスト教は違うのではないかと気付きます。それが宗教改革の始まりとなったのです。ルターは最初からプロテスタントと言う新しい宗派を作ろうと考えたのではありませんでした。ただ、純粋に救いの確信を得たいと願っただけのことでした。
 大事なことは、どの教会に属しているかではなく、純粋にイエス様を救い主と信じているかどうかです。信仰だけが救いの条件だからです。 
 ユダヤ教からキリスト教への学びは今回で終了です。次回からは、ガラテヤ人への手紙を学ぶことにします。

https://youtu.be/OIK8gg4IfVE

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