06/08/2023
本日は配信ができませんでしたので、メッセージを掲載いたします。
「先に、ガリラヤへ」
マルコ14章27〜31節
井出新役員
みなさん、おはようございます。今日は田辺先生が夏期休暇中なので、役員の私が御言葉の取り次ぎをさせていただきます。
さて、先を読む人の行動や言葉が、しばしば目先ばかりにとらわれている人を驚かせるということはよくあります。例えば藤井聡太・棋士の奇抜な一手が、見ている人たちに「この手は一体なに?」と、最初はどよめきと困惑を生むことがあります。みな困惑するような一手を打つのですが、戦いが進んでいくうちに、なるほど、そうだったのか!と、ようやく納得するなんていうことがあります。
今日読んでいただいた箇所は、イエス様が捉えられて十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に最後の晩餐をした後のことです。そこでも同じようなことが起こっています。
イエス様は、これからどういうことが起きるか、よくわかっておられました。弟子たちには神の国が来たことを話していましたが、その国はまさにご自分が十字架につけられ、その恥辱と苦しみと甦りによって打ち立てられなければならないことを、よくわかっておられました。
そのように、かなり先を見据えて弟子たちを教えていたのですが、弟子たちは目先のことばかりにしか目がいっていません。
「自分たちはいよいよ神の子であるイエス様と一緒に、イスラエルを支配し、神の国を建て挙げるのだ」そんな風に、政治や自分たちの地位のことばかり弟子たちは考えて、イエス様の言っていることを誤解していました。
これまでイエス様が様々な奇跡を行って人々を癒やし、パリサイ派やサドカイ派の権力者たちをぎゃふんと言わせ、その教えには権威がありましたから、弟子たちがそんな風に考えるのも当然のことだったかもしれません。
特にペテロはそうした傾向がありました。
ペテロは人情味があり、理性よりも感情を重んじ、行動的で、自分の思っていることをすぐに言葉にする人です。もちろん、そうした長所は短所にもなります。興奮しやすく見境がない、ずっこけやすい、余計なことを言うという短所です。
そして、今日私たちが読んだこの箇所のすぐ後で、群衆がイエスを逮捕しにきた時に、彼は大祭司のしもべの耳を切り落としました。これまでペテロが知っていたイエス様が一緒にいてくだされば、なんでもできると思えたのです。
ですから弟子たちには、そして特にペテロには、なぜイエス様がオリーブ山で、いかにも弱気にも思えることを言い始めたのか、皆目見当もつきませんでした。
「あなたがたはみなつまずきます」「羊は散らされると書いてあるからです」。イエス様は神の国を治める王になる前に、十字架の苦難と恥辱を通らなければならない、と繰り返し弟子たちに語られました。
私たちからすると、このことは、イエス様が本当に真実を見抜いて、先を読んでいる証拠だとわかるのですが、弟子たちには、そして特に目先にとらわれているペテロにはわかっていません。
おっちょこちょいのペテロはその言葉が聞き捨てならないと、すぐに反応するのです。
いや、待て待て、イエス様、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」思っていることも思っていないことも口にする、ペテロらしい台詞です。
イエス様は、そしてこの後にどういうことが起こるか知る私たちも、よくわかっています。ペテロは朝の鶏が鳴く前に、三度、イエス様を知らないということになるのですが、興奮しやすいペテロは色をなして断言します。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」
これは確かにペテロにとっては自分の名誉にかかわる問題でした。これまで弟子としてイエスにしたがってきた自分が、イエスを知らないなどということになるなんて、しかも三度もイエスを否むなんてことを他の弟子たちの前で予告されるなんて、有り得ない!なんでイエス様はそんなことをおっしゃるのだろう!
ペテロの関心は自分の目先のことだけ、自分の世間体や対面だけに向けられていました。だからこそ、実は、ペテロも弟子たちも、イエス様の言った本当に大事なことを聞き逃してしまうのです。
「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
これは先の先を読んだイエス様の、慰めに満ちた言葉です。
いくら強がっていても、自信をもっていたとしても、弟子たちがやがてつまずくこと、失敗することをイエスは見通していました。特にペテロは「他のものがつまずいても、私はつまずきません」と言っていたにもかかわらず、三度も「イエスなんか知らない!」と言い捨てた最低の人間になってしまう、そのこともイエスにはわかっていました。それをすべてわかった上で、イエス様は「私は甦える。そしてその後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われているのです。何という慰めに満ちている言葉でしょうか。
まず一つ目の言葉「甦った後」とは、十字架にかけられた後、三日目に甦るとイエス様は言っていたのですが、それがもう一度念押しされている、実に驚くべき言葉です。
でもペテロも弟子たちも、誰一人としてこの言葉に引っかかろうとはしませんでした。彼らが引っかかった言葉は「みんなつまずきます」という言葉でした。
さらに「あなたがたより先にガリラヤへ行きます」という不思議な言葉。これにも弟子たちは引っかかっていないのですが、これはどういうことでしょうか? あなたがたは散らされるであろう。しかし私はガリラヤへ行くだろう。これはおかしくないですか?「あなたがたは散らされる、しかし私はもう一度集めるだろう」ならわかります。「あなたがたは散らされる、しかし私はガリラヤへ行くであろう。」
先にガリラヤへ行くというのは、文字通りガリラヤへ行くということでしょうが、ガリラヤにどういう意味があるのでしょうか?ガリラヤとはどういうところなのでしょうか?
イエスが甦った時の記事(これはイースターによく読まれる箇所ですが)、そこをちょっと見ておきましょう。16章7節で真っ白な衣をまとった青年がイエスの甦りをマグダラのマリアや母マリア、サロメに伝えたとき、次のように言います。
「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
ここで面白いのは、まず御使いが「ペテロに伝えなさい」とペテロを名指ししているところです。そうです、私たちがこれまで見てきたように、イエス様に良いところを見せたものの、叱られて、挙げ句は「イエス様なんか知らない」と言った、あの失敗だらけで落ち込んでいるペテロにそう伝えなさいと御使いが言ったということ、それがとても面白い点の一つ目です。
そしてもうひとつの面白い点は、先ほども問題にしたこと、つまり「ガリラヤで会える」ということが、再び繰り返されているところです。なんで再び「ガリラヤ」なのでしょう?そもそもガリラヤってどんなところだったでしょうか?
渋谷で会うとか横浜のルミネで会うとかいうとカッコいいんですが、ガリラヤで会うというのはあまりイケてませんね。三戸浜で会うとかいってもあまり格好良くありません。ガリラヤ(テベリア湖畔)とは、ペテロ(そしてヤコブとヨハネ(つまりいつもイエスと深いかかわりを持った弟子たち)が、漁師として一生懸命働いて生活していた場所です。彼らはそこに戻れば、自分たちの漁師としての仕事をすることができるところです。ですから、言わばガリラヤは生活の最前線です。イエス様や教会から遠く離れて、一生懸命に学んだり働いたり、戦ったりしているところです。
イ エス様を裏切ってつまずいて、号泣した挙げ句、ペテロはこれからどうしようかと思ったことでしょう。自分はもうとてもじゃないけど、イエス様の弟子だなんて言えない。弟子であることは変わらないとしても、自分たちは生活をしていかなくてはいけない。もう一度自分が生活していたところに帰ろうと思ったに違いありません。他の弟子たちも、イエス様が捕まると、散り散りばらばらに逃げて、息を潜めて隠れていたのですが、生活をしていかなければ生きていけません。
「そうだ、漁に戻ろう。所詮、イエス様の弟子になるなんて、所詮、自分の高望みだったんだ。神の国をイエス様と一緒に治めるようになるなんて、それは私たちの独りよがりだったのかもしれない。これからどんなことになるのか、自分にはよく分からないが、とりあえずもう一度、地道に漁師として暮らそう。確かに、イエス様に対しては大変申し訳ないことをしてしまった。今から、もう一度弟子としてくださいと頼む自信もないし、そんな厚かましいことはできない。でも生活は続けなければ生きていけない。もう一度、漁に戻ろう。」そうペテロたちは思ったことでしょう。そして彼らはその生活の場に戻ったのです。それがガリラヤでした。
ヨハネ21章にはペテロが「私は漁に行く」と言い出し、他の弟子たちも同じようにガリラヤ湖で漁に出たという記事があります。イエス様は先を読んで、そんなペテロに、御使いを通して言われたのです。「私は甦って先にガリラヤへいく。」そしてその言葉の通り、ペテロたちが漁をしているまさにその時、イエス様は彼らに現れて、あなたがたの網を船の右側に打ちなさい」と言って、大漁になり、彼らの仕事は祝福されます。そして彼らはそれがイエスだと気づくことになるのです。それだけではありません。イエスは岸に上がってきた弟子たちに朝食を用意され、彼らを力づけ、励ましたことが記されているのです。
皆さんのガリラヤはどこにありますか?ガリラヤは生活の最前線です。ある人にとっては横須賀の仕事先がガリラヤかもしれません。ある人には台所が、ある人には勉強部屋が、ある人には病と闘う病室がガリラヤになるでしょう。ガリラヤは私たちが日々の暮らしの中で一生懸命に学んだり、働いたり、戦ったりしているところです。
教会で礼拝を通して恵まれ、励まされ、イエス様に従って行こうと私たちは決心をします。しかし、自分の望むように希望が叶わない、生活がうまく行かない、失敗をしてしまう。色々な苦難に会うことがよくあります。そうすると私たちはしばしば、ペテロのように、自分なんかどうでもいい人間だ、イエス様には付いて行けない落ちこぼれだ、出来も悪いし、なんのとりえもない、イエス様のことは考えずに、生活のことだけ考えていた方が楽だ、そんな風に考えて生きることもしばしばあります。
しかしそんな生活の最前線であるガリラヤに、甦りのイエスさまは先回りをしていてくださいます。私たちの生活の最前線であるガリラヤで、イエス様は私たちにその存在を示し、ペテロと同じように私たちを励ましてくださるのです。「甦って先にガリラヤへ行く」というイエス様のお約束は、ペテロと同様、私たちに騙られた約束でもあるということを覚えておきましょう。イエス様は私たちの弱さを先回りしてわかってくださっているのです。そして私たちよりも先回りをしてガリラヤで待っていてくださいます。
先にガリラヤで待ってくださっているイエス様に望みを置いて今週も歩んで参りましょう。