蓮行寺

蓮行寺 仏道は人の道の延長上にあり、私たち日々の生活での「ものさし」を出来?

嘘をつかない人テーマ:御法門               御 教 歌       あらはれる 事をばしりて かしこきは         人にうそをば つかぬ也けり 本当に心の賢い人は、人に嘘をつけば、いつかは事にふれてあらわれてくるものであ...
11/11/2018

嘘をつかない人
テーマ:御法門

               御 教 歌

       あらはれる 事をばしりて かしこきは

         人にうそをば つかぬ也けり

 本当に心の賢い人は、人に嘘をつけば、いつかは事にふれてあらわれてくるものであることを知り、嘘をつかないものである。

このように仰せいただいた御教歌です。

「嘘は後(うしろ)から剥(は)げる」という言葉がありますように、嘘は何時かばれるものです。

逆の言葉に

「嘘で丸めて上手(じょうず)でこねる。」

とありまして、嘘で固め上手に世渡りをしていく人のことを指す言葉です。

また、次のような滑稽(こっけい)な言葉もあります。

「嘘と坊主の頭はゆったことがない」・・・

嘘は絶対に言ったことがない・・ということですが、「言う」と「結(ゆ)う」をかけた洒落(しゃれ)で、確かに坊主の頭には髪の毛はないものです。

いずれにせよ、「嘘をつく」ということは良くないのです。

嘘のなかにも、人を欺(あざむ)くような嘘は絶対に良くないです。

結局はその嘘から人を傷つけ、その傷つけたことから恨まれ、また自分自身にいずれ還(かえ)るようになるのです。

ですから、心のかしこい人は、人を欺く嘘をつけば必ず自分に還ってくるのを知っていますから、嘘をつかないのです。

嘘をついてまで己の欲を満たしたところで、人に嫌われ信用を失ったのでは、何の価値も意味もありません。

それより、人から信頼されるようになっていき

「あの人は実直で嘘は絶対つかない人だ!」

このように言われて生きていった方がどれだけ価値があるかわかりませので、嘘をつかない人になっていきたいものです。

 [ 敬いの心 ]御指南に「人をうやまへば、人またわれを敬ふ。人をかろしむれば人また我をかろしむ。この因果を信ぜよ。」とあります。人を人として敬う。人を大事に、人を思いやるといった言葉を使うのは簡単なことですが、実際に出来ているのでしょうか...
10/11/2018

 [ 敬いの心 ]

御指南に

「人をうやまへば、人またわれを敬ふ。人をかろしむれば人また我をかろしむ。この因果を信ぜよ。」

とあります。

人を人として敬う。

人を大事に、人を思いやるといった言葉を使うのは簡単なことですが、実際に出来ているのでしょうか?

自分のことが精一杯で人どころではない。

日々の生活に追われて、周りの人のことなど考えてない自分はいませんか?

だとしたら、自分の心が荒(すさ)んでいるのだと思います。

だからこそ、自分の心をしっかりと磨いていきたいものです。

どういうふうに磨いていくかというと、「人を敬えるように」「人を大事にしていけるように」・・・

そんな自分磨きが出来たら素敵ですね!

[ 人は人らしく ]教えに「夫れ老狐は塚を後にせず。白亀は毛宝が恩を報ず。畜生すらかくの如し。いわうや人倫をや。」とあり、狐(きつね)は死を迎える時、自分が生まれ育った塚に足を向けて死なないのだそうです。狐は生まれ育った場所への恩・おかげを...
09/11/2018

[ 人は人らしく ]

教えに

「夫れ老狐は塚を後にせず。白亀は毛宝が恩を報ず。畜生すらかくの如し。いわうや人倫をや。」

とあり、狐(きつね)は死を迎える時、自分が生まれ育った塚に足を向けて死なないのだそうです。

狐は生まれ育った場所への恩・おかげを知っているのです。

また「白亀(はっき)は毛宝(もうほう)が恩を報ず」とは、中国・晋(しん)時代のお話です。

毛宝がまだ若い頃、江辺で一匹の白い亀をいじめていた子供達を見て、お金をあげる代わりに白い亀を助け、逃がしてあげたのです。

それから20数年経ち、毛宝は武将として戦をしていたのですが、戦いに敗れ水を渡って逃れようとするものの、敵から追い込まれ、いよいよ「ここまでか」と諦めた時、以前助けた白亀が現れて、毛宝を背中に乗せて向こう岸まで連れていき、難を逃れたというお話です。

20数年前に助けてもらった恩を、白亀は忘れていなかった・・・

このように、狐や亀も「恩・おかげ」を知っているというお話で、私たちも人として忘れてはいけない道があることを教えてあります。

私たちが、忘れがちになるのが「恩・おかげ」なのかも知れません。

自分のことが精一杯になってしまいがちですから・・・

「人として大切なこと」として「恩・おかげ」ということは、大事にしていきたいものです。

[ 物の見方・捉え方 ] 物の見方・捉え方に、近視眼的・刹那的な捉え方と大局的な捉え方があります。近視眼的といいますと、私自身、眼鏡を掛けていませんと遠くのものはボーっとしか見えず、近くのものでも目を近づけないと中々見えません。近くのものは...
08/11/2018

[ 物の見方・捉え方 ]

 物の見方・捉え方に、近視眼的・刹那的な捉え方と大局的な捉え方があります。

近視眼的といいますと、私自身、眼鏡を掛けていませんと遠くのものはボーっとしか見えず、近くのものでも目を近づけないと中々見えません。

近くのものは何とか見えても、周りにあるものは見えません。

このように、目先のことはよく見えても、遠くにあるものは見えないことです。

刹那的というのは、その時その時に起こる出来事が、一瞬にして起こり、一瞬にして消えてしまいます。

そして、一つ一つの出来事がすべてのように思い、一喜一憂してしまうのです。

大局的な捉え方というのは、人の生涯を通して、今何をしていくことが大事なのか、そのためには自分自身がどうあるべきか?を考えていきます。

そういう捉え方をしていくと、目の前に起きていることや目先のことに、一喜一憂することなく、冷静に判断が出来ていくのだと思います。

近視眼的、刹那的な物の見方を「点の生き方」としますと、大局的な物の見方を「線の生き方」と呼べるのかもしれません。

どちらの生き方に重きを置くか・・・考えてみるのも良いことですね。

[ 人の生涯について ] 人の生涯を長さに表すと、果たしてどの位の長さになると思いますか?普段はこのようなことなんか考えて生活していないと思いますので、たまには、ご一緒に考えていきましょう。皆さん方は人の生涯をどの位の長さだと想像されますか...
07/11/2018

[ 人の生涯について ]

 人の生涯を長さに表すと、果たしてどの位の長さになると思いますか?

普段はこのようなことなんか考えて生活していないと思いますので、たまには、ご一緒に考えていきましょう。

皆さん方は人の生涯をどの位の長さだと想像されますか?

人の生涯って、長いようで短いような・・短いようで長いような・・どっちなのでしょう?

例えば、自分自身が苦しんだり悩んだり、あるいは辛いことがあった時って、すごく長く感じますよね。

笑える日が来るのだろうか・・などと、思ったりします。

でも、月日が経って暫くすると、笑える自分があったりするものです。

また、順風満帆な日々を過ごしている時は、人生そのものが楽しく、このまま上手くいって欲しい!と願っていても長続きしなかった・・・

ということはありませんか?

こう考えると、人の生涯って長いようで短いし、短いようで長いものです。

仏さまは「人の生涯は瞬(まばた)き」のようなものと表現されてます。

まばたきは、目と目がほんの一瞬だけ閉じる瞬間ですよね。

それが「人の生涯」の時間的長さであるということです。

人の生涯は、一瞬にして終わる「夢・幻」のようなものである、ということなんですね。

仏さまの教えはとても深く、人の生涯を単なる「人だけの生涯」と捉えられたのではなく、「魂の生涯」のなかの「人の生涯」として捉えておられます。

魂は、過去・現在そして未来へと、ずっと「生まれ死に」を繰り返していく中で、現在人として生活しているわけです。

その魂の生涯に比べたら、人の生涯は「まばたきみたいなもの」と仰せです。

人の生涯は、まばたきみたいなものと云われているのだから、苦しいこと・辛いこともいついつまでも続くわけがない・・・と。

また物事が万事都合よくいっている時でも、いつまでも続くわけがない・・・

ということを捉えておきたいものです。

それと大事なことは、人の生涯は夢・幻のようなもので、一瞬にして終わりを遂げるはかないもの・・・

だからこそ、人の生涯で大事なことは何か?を捉えておきたいものです。

06/11/2018

[ 話上手(じょうず)は聞き上手 ]

   〜御 教 歌〜
おけばよい ひとり合点(がてん)の 長談義
さぞやきき手は しんきくさかろ

 独(ひと)り合点(がてん)の長談義(ながだんぎ)は、さぞや聞き手はしんどいものであろう。
このように仰せの御教歌です。

長談義(ながだんぎ)というのは、長たらしい説法や講話のことで、俗に言う

 「下手(へた)の長談義(ながだんぎ)」

のことで、「話の下手な者にかぎって、長々と退屈な話をして、聞く方に迷惑をかける。」ことをいいます。

ある演説家が

「長い話なら即座に立ってもやれるが、短い5分間ぐらいの話は、相当前に準備しないとやれない。」

という言葉は、頷(うなず)けるものがあります。

ましてやその長談義が、独り合点の自分だけ分かっているつもりで、延々と続くようだと、聞く方にすればイライラしてくるものです。

そこには、話す側が聞く側の立場にたって話をしていないことが多いのかもしれません。

「話上手(じょうず)は聞き上手」

という言葉がありますように、

「本当の話上手は、しゃべることが達者なだけでなく、人の話を聞くのも上手なもの。」

で、人の立場に立って、人の心に届くように語りかける人を、「本当の話上手な人」だと思います。

また話上手の人は、伝えたいこと・話したいことを分かりやすい、平たい言葉で、しかもポイントを押さえて話してくれますから、聞く側からすると時間を忘れるぐらいに楽しませてくれるものです。

難しいことを専門用語で、さも「自分は教養があるのですよ・・・」と言わんばかりに話されても、聞く側からすると、これほど聞きづらいものはありません。

話す側からすると、難しいことをむずかしい専門用語で話したほうが楽なのかも知れませんが、難しいことを平たい言葉で分かりやすく話すことが、聞き手の心を引き込んでいくことが出来るようです。

私自身、下手の長談義にならないように反省させられた御教歌でした。

[ 井の中の蛙大海を知らず ]  ~御 教 歌~わが宿の 蟻(あり)は隣の 庭しらで 国土はよそに なしと思へり我が家の蟻は、となりの庭を知らない故に国土は他所にないと思っているように、私たち人間も実に了見が狭いことをお示しの御教歌です。こ...
05/11/2018

[ 井の中の蛙大海を知らず ]

  ~御 教 歌~
わが宿の 蟻(あり)は隣の 庭しらで
 国土はよそに なしと思へり

我が家の蟻は、となりの庭を知らない故に国土は他所にないと思っているように、私たち人間も実に了見が狭いことをお示しの御教歌です。

ことわざに

「井の中の蛙(かわず)大海(たいかい)を知らず」

とあり、自分のせまい知識や見解にとらわれて、他の広い世界があることを知らないことの例えです。

また

「知らぬ京物語」

「見たこともない都の話を、さも見てきたように人に語ることで、見たことのない事柄を、見てきたようにほらをふくことにいう。」

ということで、見たことのない世界を、まるで見たかのように言う人を指した言葉です。

そういえば、私たちの住んでいる地球は約46億年前に誕生したとのこと。

さらに宇宙の年齢とか距離になると想像すらつかない世界のようで、その宇宙は今もなお膨張し続けているとか・・・

こうなってくると、自分の狭い了見だけでは井の外の大海がどれ程の広さであることが全く分かりません。

そんな自分は井の中の蛙だという自覚を持ち、何事も謙虚に学び広い視野で物事が捉えられるようになっていきたいものです。

[ 心の癖は直りにくいもの ]   〜御 教 歌〜わすれては おもひ出して はげめどもをこたりがちに  成るぞくやしき  教えを忘れないよう励んでも、すぐに怠りがちになることは実に悔しいことである。このようにお詠みいただいた御教歌です。 「...
04/11/2018

[ 心の癖は直りにくいもの ]

   〜御 教 歌〜
わすれては おもひ出して はげめども
をこたりがちに  成るぞくやしき


 教えを忘れないよう励んでも、すぐに怠りがちになることは実に悔しいことである。
このようにお詠みいただいた御教歌です。



「心のくせは止みがたきものなり」で、心に沁みついた癖というのは、なかなか直りにくいものです。



表面上では良くなったように思えても、しばらくしたら心に沁みついた癖が出てくることもあります。



教えに



「過去よりの宿習(しゅくしゅう)あり。所によりて今生(こんじょう)もその性(しょう)はさとしがたく、耳に入らず、心にとどめず。」



「過去から沁みついたものが習慣となり心に深く染めつき、時によっては、教え諭(さと)しがたく耳に聞き入れようともせず、心に留めて置こうともしない癖となっていることがある。」


このようにあります。



日々の教えというものを習っても、その時は行動に移していくのですが、しばらくすると怠りがちになりやすい自分がいたりします。



教えそのものを忘れているところに、行動に移していくことへの怠りが始まっているのです。



心の癖というのは、中々止みがたいものがあるのでしょうね。



ですから古歌に



「心の駒(こま)に手綱(たづな)ゆるすな、引かれなば悪しき道にも入りぬべし。」



「心を引き締めて油断なく身を保ち、悪の道に引かれないよう戒めていきなさい。」


このような教えもあるのです。



さらに



「よき事としりつつせぬは、しらずしてせぬ者にすぐれたる愚者(ぐしゃ)也。この理をしらずしてよき道にすすむ人は、しりてすすむ人よりも智者(ちしゃ)とも云ふべきか。」



「善い事と知りながら行わないのは、知らないが故に行わない者よりおろかである。また深いことは判らなくても善き事に進む人は、道理を知ってから進む人より智者というべきであろうか。」


このように教えていただいていますので、怠りがちな心に打ち勝っていき、我が身で行じていくことを大切にしていきたいものです

[ 命の尊厳 ]  〜御 教 歌〜いきてゐる 程の宝と 今はしりぬ むかしは金で しなぬと思ひし 昔は、金の為なら命を果てても と思っていたが、今は「生きている」これ以上の宝はないことを実感している心境をお詠みの御教歌です。世間でいう「人の...
03/11/2018

[ 命の尊厳 ]

  〜御 教 歌〜
いきてゐる 程の宝と 今はしりぬ
 むかしは金で しなぬと思ひし


昔は、金の為なら命を果てても と思っていたが、今は「生きている」これ以上の宝はないことを実感している心境をお詠みの御教歌です。

世間でいう「人の命は万宝(ばんぽう)の第一」といわれているほど、人の命ほど尊いものはありません。



また「死んで花実(はなみ)が咲くものか」とありますように、枯れた木には花や実がならないように、人も死んでしまえば何もならないし、生きていればこそ喜びの日もやってきます。



厳しい冬が過ぎ、春になれば綺麗な花も咲きます。



そのように生きていけば、必ず春が来ます。



今から約30年前、当時19歳だった友(M)は、生まれながらの心臓弁膜症で何時死んでもおかしくない状況のなかで、一生懸命生きていた男でした。



Mの夢は、「一度でいいから友達と校庭を走ってみたい」でした。



「叶えられない夢かもしれないけど、夢を持ち続ける限り生きていけそうな気がする。

反面、何時死ぬか分からない身体だから、出来るだけ友達も作らないようにしてきた。

でも死ぬことを考えると気が狂いそうになるぐらい怖い。」



このように話していたことを思い出します。



それから、Мは19歳という若さで他界しました。



Мは生き続けたかったはず。



生きること、死ぬことに正面から向き合い、決して逃げることをしなかったМは、私の生きるお手本でした。



だから、私自身「出家」という道を選んだのかもしれません。



「人身を得し一生は至って重し。」



人は生き続けていくところに、かけがえのない尊いものがあり、それはお金で買うことが出来ない宝の筈です。



御指南に



「病貧(びょうひん)等の苦も、此信心起らば仏道修行の発心者(ほっしんじゃ)の為には、数にもあらぬ娑婆三界(しゃばさんがい)の夢中(むちゅう)の苦と知る。」



「病や貧しさなどの苦しみも、仏道(人を助けていく道)を志すきっかけになる因となるのであるから、ほんの暫しの夢の苦しみではないか。」



このようにお示しで、今悩み苦しむことも、人として大切な思いやりの心を身につけるための過程であり、今を無駄にしない生き方に切り替えていくことは、とても大切なことのように思います。

[ 様々な喜び ]   〜御 教 歌〜 よそに見て 羨まんより 我やどの花と思へば うれしかりけり  よその庭に咲く綺麗な花を羨むより、自分の庭に咲いている花だと思えば実に嬉しいものであることをお詠みの御教歌です。 人には ・人が苦しんでい...
02/11/2018

[ 様々な喜び ]

   〜御 教 歌〜
よそに見て 羨まんより 我やどの
花と思へば うれしかりけり


 よその庭に咲く綺麗な花を羨むより、自分の庭に咲いている花だと思えば実に嬉しいものであることをお詠みの御教歌です。



人には



・人が苦しんでいる姿をみて喜ぶ陰湿な喜び

・自分のことで喜ぶ喜び

・人が良くなることを喜ぶ喜び



この3つの喜びを持ち合わせているといわれてます。



・人が苦しんでいる姿をみて喜ぶ陰湿な喜び



心が荒れ果てているときは、人の幸せを妬む心が起こってきやすいものです。



そして、他人の不幸を喜ぶ喜びです。



・自分のことで喜ぶ喜び



自分のことで喜ぶ喜びには、読書にふける。趣味に勤しむ。競馬・パチンコに没頭するなど自分にあった楽しみ方で過ごす喜びです。



・人が良くなることを喜ぶ喜び



私達は、自分が良くなり幸せになっていくところに喜びを感じるものですが、喜びの中にも「人が良くなることを喜ぶ喜び」があります。



人が悩み苦しんでいるのを見て、そこから共々に這い上がっていこうとする中で、相手が良くなっていけば、自分のことのように喜ぶ喜びです。



以上3つの喜びがありますが、同じ喜びの中で暮らしていくのなら、人が良くなること・幸せになることを、自分のことのように喜ぶ心に住して暮らしていきたいものです。

[ 弁慶と義経 ] 弁慶(べんけい)といえば、かの五條の大橋で少年牛若丸(後の義経)と出逢い、その智慧・才覚にひれ伏しその場で家来となり、生涯をこの方へささげていくことを誓ったのです。それからは、義経(よしつね)のもと平家を打ち破る手助けを...
30/10/2018

[ 弁慶と義経 ]

 弁慶(べんけい)といえば、かの五條の大橋で少年牛若丸(後の義経)と出逢い、その智慧・才覚にひれ伏しその場で家来となり、生涯をこの方へささげていくことを誓ったのです。

それからは、義経(よしつね)のもと平家を打ち破る手助けを行なっていくのですが、返って源頼朝(みなもと・よりとも)の嫉妬(しっと)と怒りを買うことになるのです。

そのために義経一行は、奥州の藤原氏を頼りに向かう途中、安宅(あたか)の関所に行き着くのです。

ここでの押し問答はあまりにも有名で、今でも語り継がれています。

山伏姿(やまぶしすがた)をした義経一行に対して、関守(せきもり)の富樫(とがし)が、義経一行であることに気づき先陣をきる弁慶に

「勧進帳(かんじんちょう・寄付金台帳)の文言(もんごん)を読んでみよ」

と持ちかけるのです。

とっさの問いかけに弁慶は、何も書かれてない一本の巻物をとりだして、あたかも勧進帳かのように読みきったのです。

それに対して富樫は何も言えずに関所を通すことを許可するのですが、後尾にいた義経を見るや

「待たれ、その若者、義経殿に似ている」

と言って一行を引き止めたのです。

その時、弁慶が

「お前のような小僧のおかげであらぬ疑いをかけられたではないか!この足手まといめ!」

と言って、殿であり、師である義経を殴り蹴ったのでした。

その姿をみていた富樫は、

「もうそこまでで結構でござる」

と言い、一行の関所越えを許可したのです。

富樫は、殿であり師である義経をあんなにしてまでも守ろうとした弁慶の忠義心・武士道を感じたが故に、許可をしたのでしょう。

また、関所越えをしてからの弁慶は、義経の前にひれ伏して、無礼千万な行為を謝られたのです。

「いくら殿のためとはいえ、私のした行為は恥ずべきもの。此の場にて切腹を・・・」

これに対し義経は

「いや、そうではない。これほどに私のことを思い示してくれた行為は何よりにもかえがたいものである。

私は、弁慶というこの世で最高の家来をもてて幸せ者である。」

このように言われたのです。

これを機にますます主従関係が深まっていき、弁慶は義経のために命をささげる覚悟を不動のものとしていったのです。

その後藤原軍に攻められたとき、弁慶は義経を最後まで守るために全身で無数の矢を受け止め、立ち往生したまま最後を遂げたのです。

かの弁慶は、最後の最後まで義経に仕え、御守りし、命をささげていったのです。

これが弁慶の生涯でした。

仏様の教えを歌にして

    生まれきて 何をおもひ出と 人とはば

      みのりにつかへ しぬとこたへむ

 

という御教歌があります。

人として生まれてきて何を思い出としていくのか・・・

と問われれば「みほとけに仕えて死を迎える」とこう答える。

このように仰せです。

同じ生涯です。同じ命を使うならちょうどかの弁慶のように、生涯の師に御仕えしてその師のために命をささげたように、私はみほとけに御仕えしてそのみほとけのために命をささげたい。

そう思うこの頃です。

 [ 死と向き合う事とは ] こういうお話があります。仏様の時代の頃に、幼い子供を亡くした母親がいたのです。母親は、幼くして亡くなった息子のことが、どうしても諦めきれずに、仏様のもとへ懇願しにいったのです。母親「仏様、私は最愛の息子が死んで...
29/10/2018

 [ 死と向き合う事とは ]

 こういうお話があります。

仏様の時代の頃に、幼い子供を亡くした母親がいたのです。

母親は、幼くして亡くなった息子のことが、どうしても諦めきれずに、仏様のもとへ懇願しにいったのです。

母親

「仏様、私は最愛の息子が死んでしまいました。私は生きる術を失いました。もう生きていく意味もありません。」

仏様

「・・・・・」

母親

「そこで仏様にお願いがございます。私の一生涯のなかで、最初で最後のお願いです。どうか、どうか、今一度我が息子を生き返らせていただけないでしょうか?」

仏様

「・・・・・」

母親

「どうか、私のわがままを聞いていただけないでしょうか?」

必死で懇願している母親に仏様は

「そこまで懇願するのであるならば、次のことを約束しなさい。」

と云われて

「芥子(けし)の木のある家から、一粒の芥子の実をもらってきなさい。ただし、一粒の芥子の実をいただいてくる家で、今まで誰一人「死人」が出たことのない家の芥子の実をです。」

と云われたのです。

母親は、喜んで芥子の実を捜し求めにいくのです。

成る程、芥子の実は、あることはあるのですが、そこの家からいまだ死人が出たことのない家なんてないのです。

ホトホト疲れ果てた母親は、仏様のもとへ行き

「仏様、芥子の実はあるのですが、その家に死人が出たことのない家なんてありませんでした。」

と話すと

仏様は

「そうであろう・・死人の出ていない家なんて、どこにもない筈だ・・人はみんな生まれてきたら、いつかは死ぬのである。

それは、年老いたものが先に死ぬ、ということは決まっていないのである。でもいつかは、必ず死ぬということは定まっているのである。」

ということをお話され、母親に「死」ということを諭された一幕です。

仏様は、このお話を通して私達に

「人生まれぬれば、死はのがれ難し。おくれさきだつ無常は、今はじめて驚くにはあらず。」・・・

つまり、人は必ず死ぬ・・ということを思い定めての、日々の生活をしていくことが大事だということです。

だから、「人として」生まれて死ぬまで、「何をしていくことが大事」なのか・・

そのようなことを考えて、生きていくことがとても大事・大切なことなのだと思います。

人の生涯を「点」として捉えるのではなく「線」として捉えていけば、何かが見えてくるのかも知れません。

生涯を「線」として捉えればこそ、今の行ないも必ず未来へ影響していく訳ですから、今の生き方そのものが、いい加減に出来ないのだ・・

そういう捉え方が出来ていくのではないでしょうか。

「人として、人らしく」・・・

そのためには、今何をすべきなのか・・を真剣に取り組んでいきたいものです。

そして、そのような生き方を心から望みたいものです。

住所

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