松戸栄光教会

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https://youtu.be/ZGlgeyr0K2cルツ記 2章1~3節  『回復させる信仰』今日の箇所には、神様を信じる二人の人について語られています。神様を信じる家庭に生まれ育ったナオミという人です。もう一人は、ナオミの息子と結婚し...
31/05/2026

https://youtu.be/ZGlgeyr0K2c

ルツ記 2章1~3節  『回復させる信仰』

今日の箇所には、神様を信じる二人の人について語られています。
神様を信じる家庭に生まれ育ったナオミという人です。もう一人は、ナオミの息子と結婚して、神様を信じるようになった、ルツという人です。

ナオミは、神様を信じていましたが、なぜか、のろわれているかのように、不幸に次ぐ不幸に見舞われました。
ルツ記 1章1-2節
さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。
 
 ナオミと家族は、この地に飢饉が起こったので、食べ物があるモアブに引っ越すことにしました。つまり、環境があまりにも悪くなったので、環境を変えることによって、幸せになろうとしました。
しかし、そのように、約束の地を手放すことは、神様の祝福を手放すことを意味していました。
神様が彼らと共に住むと約束された地から離れることは、神様と共に生きることから、離れることを意味していました。
彼らは、苦しい環境の中でも、共にいてくださる神様に助けを求めるよりも、苦しい環境から離れて、幸せになろうとしました。その結果、彼らは幸せになることができたでしょうか。
ルツ記 1章3-5節
 するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。
 二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。
 するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。

環境が変わり、さぁ、これから、みんなで幸せに生きようと、思った矢先に、夫エリメレクが死にます。それでも諦めずに、二人の息子を幸せにしようと、モアブの女を妻として迎えました・・・しかし、何と、二人の息子に先立たれて、ナオミだけが残される・・・もう絶望でした・・・環境を変えれば、幸せになると思って、モアブまで来ましたが、この環境でもダメでした。・・・そんな時に、ナオミは、あるニュースを聞きました。
ルツ記 1章6節
ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。

主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さった・・・すなわち、経済的にも祝福された良い環境に回復されたと聞いたので、ナオミは、帰ることにしました。

ナオミには、環境に影響されて、転々と動く性質があります。
物事が上手く行っている間は良くても、問題や試練が来て、環境が難しくなると、環境を変えることによって祝福を得ようとします。・・・まるで、かつての私のようです。

環境のせいで、上手く行かなかった。環境を変えれば上手く行く・・・そのように問題の解決を環境に求めてしまう・・・しかし、本当の解決は、主だけにあります。

良くても、悪くても、最悪の環境であったとしても、私と、ともにいてくださる主に信頼するとき、主が、私を解決に導いてくださる・・・ですから、私に、必要だったのは、どんな環境に置かれたとしても、主に信頼して、主の導きに従う信仰でした。

しかし、かつての私は、その苦しい環境にとどまって、主に信頼して、試練に打ち勝つことよりも、その苦しい環境から逃げてばかりいたので、主に信頼して、主の導きに従う信仰が、ほとんど成長しませんでした。

このような誘惑は、人生の至るところにあります。
例えば、この会社に入れば上手く行くと思って、その会社で働き始めます。しかし、試練が来て、上司の圧力があまりも酷くなりました・・・その時こそ、主に信頼して、主のみことばの導きに従って、上司を敬うことによって、主からの解決を受け取ろうとするよりは、
環境を変えることによって、自分にひどいことをしない、自分によくしてくれる上司と同僚がいて、いい給料をくれる・・・そのような環境に変えることによって、解決しようとする誘惑です。

ナオミが、この時、故郷に帰ると決断したのも、主に信頼し、主の導きに従って決断したというよりは、良さそうな環境を見て、環境に解決を求めて、決断しました。
そして、故郷に帰って来たナオミの心からの言葉が、次の言葉です。
ルツ記 1章20-21節
  ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。
私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」

ナオミは、「かつて私は満ち足りていたのに、神様が、私にすべてを失わせた。神様が私をこんなにも苦しく辛い目にあわせた。」というのです。
皆さん、ナオミは、神様を信じる人です。しかし、神様を信じていても、神様に信頼し、神様の導きに従う信仰によって生きるのでなければ、どんなに幸せになろうとして、環境を変えても、苦難に次ぐ、苦難に襲われることがあるということです。

何故でしょうか・・・神様が、ナオミを愛していなかったからでしょうか・・・むしろ、逆です。神様はナオミを愛していて、ナオミに、神様の使命を任せていました。ルツの息子オベデは、ダビデ王のお爺ちゃん、すなわち、その子孫から救い主イエス・キリストが生まれます。
後に、救い主を生み出すことになる、オベデを養い育てたのは、ナオミです。この使命を神様は、ナオミに任せていました・・・しかし、神様に任された使命を果たすためには、ナオミの信仰が成長する必要があった・・・ナオミが経験した苦しみは、神様が、ナオミを、ご自分の子どもとして愛しているからこその、愛の訓練でした。
へブル人への手紙 12章5-9・・11
 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
  訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
 ・・・すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

主イエスを信じた私たちは、神様の子どもです。そして、神様の子どもである以上、父なる神様は、必ず、私たちを訓練されます。そして、すべての訓練は、そのときは苦しく思われるものなのです・・・しかし、その訓練にとどまり、その苦しい環境にとどまり、主に信頼する信仰が成長するとき、義という平安の実が結ばれ、苦しみを遥かに超えた、圧倒的な喜びが与えられます。

しかし、ナオミのように、試練にとどまらず、その苦しい環境から離れるなら、環境を変えても、また、主の試練が与えられることになります。
神様は、ナオミの信仰と使命を回復するために、ルツを用いられました。
3節
 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。

ルツが出かけて行った畑は、はからずも、ボアズの畑でした・・・このときから、のろわれたかのように不幸だったナオミとルツの人生が、一気に、祝福の人生に導かれて行きます。
ルツが、何かをすると、はからずも、すべてが働いて益となって行きました。
まさに、神のことばが実現する人生に導かれました。
ローマ人への手紙 8章28節
 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ルツには、ナオミの持っていなかった、ある信仰の性質がありました。・・・その信仰の性質を持っていたので、神様は、ルツを用いて、ナオミの信仰と使命を回復することができました。
しかし、神様は、そんなナオミを、祝福に導くために、ルツを用いました。
今日、みことばを悟る恵みを受け取り、神様に喜ばれる性質を持つ者となることを主イエスの御名によって、祝福します。
ルツ記 1章8-10節
 ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。
 また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。
  二人はナオミに言った。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」

ナオミは、これから、イスラエルに戻ります。しかし、二人の嫁、オルパとルツにとって、イスラエルは外国です。しかも、イスラエル人は、外国人とは結婚してはならないという、法律があります。
もし、二人の嫁が、イスラエルに行くなら、ほぼ、間違いなく、一生、未亡人のまま、貧しく、苦しい生活が強いられる・・・モアブに残った方が、再婚して、幸せになれる可能性は遥かに高い。

それで、ナオミは、二人を思って、実家に帰りなさいと言いました。しかし、二人は、ナオミと一緒に、ナオミの民のところに戻るというのです。
これは、二人が、自分の幸せを諦めて、一生、ナオミに仕えるという決心の言葉でした。
しかし、ナオミ、答えます。
ルツ記 1章11-14 節
 ナオミは言った。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。
  帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、
 だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」
 彼女たちはまた声をあげて泣いた。オルパは姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。
 
 ナオミは、二人が自分と一緒について来たとしても、どう考えても、二人が、幸せになれるとは思えませんでした。
再婚は、ほぼ不可能・・・経済的にも、非常に貧しく、食べて行くのがやっとの苦しい生活が待っていました。
それで、ナオミは、人間的な良い生活を考えて、人間的な優しさと思いやりによって、「モアブに帰りなさい。」と言いました。
皆さん、どちらが優しく感じるでしょうか。困難しか見えないのに、私について来なさいというのと、「帰って、良い人を見つけ、結婚して幸せな家庭を築いて欲しい。私には築けなかった幸せを、あなたがたには築いて欲しい。」と言うのでは、どちらが、愛情を感じるでしょうか。
明らかに、「モアブに帰りなさい」と言う方が、愛情だと感じるでしょう。

このとき、ナオミを始め、神様の計画が見えている人は、誰もいませんでした。
もし、ナオミについて行った先に、ボアズという大富豪と結婚する幸せな結婚生活が用意されており、さらには、救い主を生み出すという、神様の使命に生きることができるという、神様の計画が見えていたなら、みんなナオミについて行ったでしょう。

しかし、ほとんどの場合、神様の計画は、見えないものです。
ですから、オルパは、ナオミの愛情に涙し、感謝して、モアブに帰りました。
しかし、ルツは、帰りませんでした。ルツは、ナオミにすがりついたとあります。
この時、ルツにも、神様の計画は見えていません。それにもかかわらず、なぜ、ルツは帰らなかったのでしょうか。
神様の計画は見えなくても、ルツが目を留めたところに秘密があります。
ルツ記 1章15-18節
ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」
ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」
ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。

 弟嫁は帰ったのに、ルツは自分から離れようとしない。愛する娘ルツの幸せを思うと、ナオミは胸が痛くなりました。できれば、帰って欲しい、親心です。
しかし、ルツは言いました。「お母様を捨てるように仕向けないでください。」
ルツは、お母さんが言うとおりにすることは、お母様を捨てることだと言いました。

ルツが目を留めたのは、自分の幸せではありませんでした。もちろん、ルツも自分の幸せを願っていなかったわけではありません。ルツも幸せな結婚生活を求めて、ナオミの息子と結婚したのです。
しかし、この時、ルツが目を留めたのは、自分の幸せ以上に、自分にイスラエルの神、主を教えてくれた、ナオミお母さんでした。

ルツは、言いました。別れて帰るように仕向けないでくさい。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民となり、お母さんの神は、私の神・・・あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。

 ナオミも、ルツも、モアブからイスラエルに、移り住んだという点では同じでしたが、ナオミの心の動機と、ルツの心の動機は違いました。
移り住むという行動は同じように見えますが、心の動機は、全然違いました。
ナオミは環境を見ていました。 しかし、ルツは、自分に、主を教えてくれたナオミを見ていました。ルツは、ナオミに、主にあって忠実に仕えることを選びました。
ナオミは、完璧な信仰者ではありませんでした。主よりも、環境に解決を求めるところもありました。しかし、それでも、ルツは、主にあって、ナオミに忠実に仕えました。

ルツは、良さそうな環境、目先の幸せよりも、主にあって忠実に仕えることを選びました。その信仰の性質を、主は用いて、すべてを働かせて益とされたのです。
2-3節
モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。

ここでも、ルツは、主にあって、ナオミに忠実に仕えています。
ルツは、ただ、自分の思いで、畑に出て行ったわけではありません。
ナオミに「畑に行かせてください。」と言い、ナオミが「娘よ、行っておいで」と言って、遣わされたので、ルツは出て行きました。
そのように主にあって忠実に仕える心で、出て行ったルツは、はからずも、ボアズの畑に導かれました。

 ルツの、主にあって忠実に仕える心・・・この信仰の性質を、主は用いて、すべてのことを益とする人生に導いてくださいました。

 主にあって忠実に仕える心・・・この信仰の性質を通して、主は、私たちの人生に力強く介入してくださいます。
ある婦人は、救われて間もなく、聖書もよく分からず、右も左も分からない状態でしたが、救いに導いてくださった先生に教わるまま、素直に、やってみていました。。
救われて半年ぐらい経った頃、三男の幼稚園を選ぶ時期が来ました。
教会の皆さんのお子さんのほとんどが近くのミッション系の幼稚園だったので、私も、一番下の三男は、クリスチャン系の幼稚園に入れる最後のチャンスだから、そこに入れようと思いました。

しかし、丁度、聖書の学びの中で、何をするにしても、祈って、神様に聞いてから、するようにと教えられていたので、それで、一応、お祈りして聞いたところ、神様は、長男も通っていた、地元の幼稚園に入れるようにと示されました。
それで、彼女は、クリスチャン系の幼稚園の方が絶対にいいという自分の思いを下ろして、神様が示された幼稚園に、三男を入れました。
しかし、3年間、特に何か実を結んだり、祝福があったわけでもなく、なぜ、自分は、ここに置かれているのだろうと思いました。神様に聞いても、ただ愛して、仕えなさい。受けるよりも与える方が幸いであるということが示されるだけ・・・それでも、彼女は、そこで、主にあって、忠実に仕え続けました。そのように、仕えながらも、なぜ、ここなんだろうという、思いが、ずっとありました。
しかし、三年間の最後の最後、卒園の間際になって、主は、何人かのママ友との出会いを与えてくださり、救いに導いてくださいました。
主は、ママだけではなく、家族も救いに導いてくださり、20年以上たった今、ママたちだけではなく、その娘さんたちとも一緒に、毎日のように、一緒に奉仕するようになっています。

もし、あの時、聖書から教えられた通り、祈って、神様に聞いていなかったら・・・もし、あの時、神様が示されたところよりも、自分の行かせたい方に行かせていたら、今のこの恵みはなかったと思います、と、証しされていました。

皆さん、大切なのは、主にあって忠実に仕える心です。主は、今も、私たちに、みことばによって、示してくださいます。
何をするにしても、祈って、神様に聞いてみる・・・そのとき、主が、みことばによって、私たちに示してくださいます。

祈らなければ、主は示してくださらないというのではありません。主は、いつも私たちに示してくださっていますが、私たちには、それが見えないときが多いのです。
私たちが、主にあって忠実に仕える心を持って、祈って、主に聞いてみるとき、私たちの霊の目が開かれて、主が示してくださっていることが、見えるようにされるのです。

主にあって忠実に仕える心を持って、何をするにしても祈って、神様に聞くことを選びましょう。

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https://youtu.be/ep1eYf1-S0Mルカの福音書 4章14-22節  『聖霊のバプテスマ』 今日のみことばには、イエス様が受けた、聖霊様のバプテスマについて語られています。14節 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られ...
28/05/2026

https://youtu.be/ep1eYf1-S0M

ルカの福音書 4章14-22節  『聖霊のバプテスマ』

 今日のみことばには、イエス様が受けた、聖霊様のバプテスマについて語られています。
14節
 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。

 イエス様は御霊の力を帯びた・・・すなわち、聖霊の力に満たされた・・・これが聖霊のバプテスマです。
 イエス様も、聖霊の力を受けてから、神様の働きを始められました。
 この地上に生まれてから、聖霊の力を受けるまで、30年もの間、イエス様は、ナザレ村の大工、ヨセフの息子として、置かれた場所に、とどまり、家族や人々に、忠実に仕えていました。

 同じように、イエス様は、弟子たちにも、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けて、地の果てまで、わたしの証人になる・・・だから、その力を受けるまでは、都にとどまっていなさい。」と命じました。
 聖霊の力を受けなければ、弟子たちが、神様のみこころ通りには、神様の働きをすることはできないことを、イエス様は、知っておられたからです。

神様の働きをするためには、どうしても聖霊様の力が必要です。
もちろん、聖霊様の力なしでも、やろうと思えば、人間の力で、一生懸命、働くことはできます・・・しかし、実は結ばれません・・・人が救われるのは、聖霊様の働きによるからです・・・御霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。

 ですから、私たちは、イエス様が約束された聖霊の力を受ける必要があります。
イエス様のように、聖霊の力に満たされるためには、何が必要でしょうか・・・今日、みことばから悟る恵みが、私たちすべてに与えられることを、主イエスの御名によって、祝福します。
16節
 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

 聖霊の力に満たされた後、イエス様は、いつもしているとおりに安息日に会堂に入って・・・とあります・・・すなわち、聖霊の力に満たされる前に、いつもしていたことを、イエス様は、聖霊の力に満たされた後にも、同じようにされました・・・要するに、聖霊の力を受けた後も、イエス様の生き方の方向は、変わっていません。神を愛し、人を愛して、神のことばに忠実に生きるというイエス様の生き方の方向は、聖霊の力に満たされても、満たされなくても、ブレませんでした。
・・・聖霊のバプテスマ、すなわち、聖霊の力に満たされることは、生き方の方向を変えるためのものではありません。聖霊の力は、方向を変える力ではなく、前に向かって進ませる力です。
ですから、もし、生き方の方向が定まっていない・・・あっちに向いたり、こっちに向いたりしている人に、聖霊の力が与えられると、最悪の場合、その人の人生は、行ってはならない方向に、突き進んでしまいます。
だからこそ、神のことばから、右にも、左にもそれず、まっすぐに生きる・・・神を愛し、人を愛して、神のことばに忠実に生きる・・・生き方の方向が、神のことばと一つになる従順の訓練が必要です。・・・何があっても、神のことばから離れない。神のことばに従って生きる従順が、十分に訓練される必要があります。
その訓練を十分に受けた人の一人が、先週、メッセージで、分かち合った、ヨセフでした。
詩篇105篇19節
 彼のことばがそのとおりになるときまで 主のことばは彼を練った。

主のことばが実現するまで、主のことばはヨセフを訓練したように、今も、主のことばは、私たちを訓練します。それは、主のことばに約束された祝福が実現した後も、私たちが、主から離れることなく、最後まで、主について行き、主の使命を全うする、祝福された人生を生きるためです。

しかし、ヨセフのように、主のことばに従う従順の訓練を、十分に受ける人はわずかです。
イスラエルの王様を見れば、よく分かります。多くの王様は、従順の訓練を十分に受けなかったので、祝福されると、祝福を手放したくなくなり、その祝福のために、主のことばから離れました。そして、悲惨な最後を迎えました。

祝福を受けるまで、主のみことばに従うという人は多いです・・・しかし、最後まで、主のみことばに従い続け、祝福の上に、さらに祝福を受け、周りの人にも祝福を流し続ける人は、わずかです。・・・それは、主のことばに従う従順の訓練を十分に受ける人がわずかだからです。

ヨセフ、ヨシュア、ダビデなど、彼らは、どんなことがあっても、主のことばから離れませんでした。彼らは、最後まで、主のみことばに従い続ける従順を十分に訓練されました。彼らは、恵みの上にさらに恵みを受け、自分だけではなく、周りの人に、神様の恵みを流し続け、最後まで、主の使命を全うしました。

イエス様も、最後まで、従い続ける従順を学びました。
へブル人への手紙 5章8-9節
 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、

 イエス様が、従順を学ばれたのは、ご自分に従うすべての人にとって、永遠の救いの源となるためでした。
 イエス様は、従わない者にではなく、従う者に永遠の救いの源になってくださる・・・ですから、私たちも、イエス様に従う者となって、従順を学びましょう。
 従順を学んで、身に着けたとき、私たちもイエス様のように、聖霊様の力を受けます。

イエス様は、聖霊に満たされた後も、神のことばに忠実に生きるという生き方の方向は同じでした。しかし、聖霊の力に満たされたイエス様が、以前していたことと、同じことをしたにもかかわず、その結果は、全然、違いました。
17-22節
 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
 主の恵みの年を告げるために。」
 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

 イエス様は、いつもしていたとおりに、以前と、同じことをしたにもかかわらず、人々はみなイエス様をほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚きました・・・なぜなら、以前とは違って、イエス様が語ることばには、大きな力が働いたからです。

 イエス様は、「あなたがた耳にしたとおり、今日、聖書のこのことばが実現しました」と言われましたが・・・その日、実現したことは、イエス様は、聖霊の力に満たされ、貧しい人に良い知らせを伝え、捕らわれ人に解放を告げ、目に見えない人に目の開かれることを告げ、主の恵みの年を告げたことでした。

 イエス様がしたことは、いつもしていた通り、聖書に書かれている、良い知らせを伝えたこと・・・主の恵みのことばを告げたことなど・・・つまり、いつも通り、神のことばを語っただけです。しかし、いつもと違ったのは、イエス様が語ると、聖霊の力が働き、神のことばが実現したことでした。

 以前は、神のことばを語っても、その通りに実現する聖霊の力は働きませんでした。
 しかし、聖霊の力に満たされたイエス様が語ると、聖霊の力が働き、神のことばが実現していく・・・それを目の当たりにした人々は、驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と、言いました。

 今まで、ずっと、ヨセフの子が、聖書のことばを語っても、何も起こらなかったのに、今になって、突然、この人が語ると、ヨセフの子が語ると、語った通りに実現する・・・その理由は、聖霊のバプテスマを受けたからです。
聖霊の力に満たされたイエス様が、いつもしていたのと同じように、聖書のことばを語ると、以前は、働かなかった、聖霊の力が働き、語った通りに、神のことばが実現していきました。
このことを使徒パウロは、御霊の力の現れと言いました。
Ⅰコリント人への手紙 2章4-5節
 そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

使徒パウロは、説得力のある言葉の巧みさや、話術によって、人々を納得させることによって、人々にイエス様を信じさせたのではありません。
使徒パウロも、イエス様と同じでした。聖霊の力に満たされたパウロが、神のことばを語ったとき、聖霊の力が働いて、語った通りに、神のことばが実現していきました・・・人々は、その聖霊の働き、御霊の力の現れによって、主イエスを信じ、救われていきました。

人が救われるのは、聖霊の働きによってです。聖霊様が共に働いてくださらなければ、救われません。私たちだけが、どんなに頑張っても、だれも救うことはできません。

だからこそ、聖霊のバプテスマが必要です。イエス様も、聖霊のバプテスマを受けるまで、約30年の間、とどまるべき場所にとどまり、主にあって忠実に仕えながら、聖霊の力を受けるのを、待たれました。
しかし、イエス様は、ただ、何もしないで、待っていたわけではありません。
イエス様は、30年間、神を愛し、人を愛して、神のことばに忠実に生きる、従順を学び続けながら、聖霊のバプテスマを待っていました。
イエス様も、何があっても、みことばから決して離れない従順、みことばにとどまり続ける従順の訓練を受けたのです。

これが、聖霊様の力に満たされるために必要な訓練です。どんなことがあっても、みことばにとどまり続ける従順を訓練され、身に着けることです・・・ペンテコステの日に、聖霊様に満たされた120人は、まさに、イエス様のことばに、とどまり続けることを訓練された120人でした。
ルカの福音書 24章49節
  見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

ペンテコステは、イエス様が復活された初穂の祭りから、50日目のお祭りの日でした。
復活されたイエス様に出会った弟子たちは、500人以上いました。
しかし、イエス様のみことばにとどまり続けて、50日目を迎えた、弟子たちは、120人だけでした。このとき、イエス様は、あなたがたは、50日目には、聖霊の力を受けるから、都にとどまっていなさいと言われたのではありません。
イエス様は、いつまで待てばいいのか、については、何も言われませんでした。
ですから、120人は、イエス様のみことばが、いつ実現するのか、全く分からない状態でしたが、いつも心を一つにして祈っていたと、聖書に書かれています。

皆さん、二人であっても、心を一つにして祈ることは簡単ではありません。しかし、このとき、120人もの人が、何に心を合わせたから、心を一つにすることができたのでしょうか・・・みことばです・・・「聖霊の力を受けるまで、とどまっていなさい」と、イエス様が語られた、みことばです。
みことばに目を留めなければ、どうしても、現実を見てしまいます。
いつまで、待てばよいのか、全く分からない状態で、現実を見てしまうなら、待つことができなくなります。
500人のうち、380人は、みことばに目を留め続けませんでした・・・みことばよりも、現実に目を留めたからです。
・・・私にも生活がある。養わなければならない家族がいる。ここにとどまっていたら、何もできない。何かしなければ・・・380人は、様々な理由で、みことばにとどまることを途中でやめました。

しかし、120人は・・・もちろん、120人も、「いつ実現するのか。このまま、とどまり続けて、本当に、大丈夫だろうか・・・そんな思いがよぎったことが、あったはずです。
・・・しかし、それでも、120人は、みことばに目を留めることを選び続けました。

みことばに目を留めることを邪魔する、さまざまな思いが湧き上がって来る度に、それらの思いを、みことばの下に下ろして、下ろして、下ろして、みことばに目を留め続ける従順によって、心を一つにして、祈り続けました。

この従順こそ、イエス様を愛するゆえの従順です。
みことばに従ったら、祝福される、何かが変わる現実が見えるときは、従いやすい・・・しかし、みことばに従っても、現実は何も変わらない。いつまで、従えばいいのかも分からない。

・・・それでも、イエス様、あなたを愛して、従います・・・ただ、イエス様のためだけに、従う、従順・・・この従順のいけにえを、主は、この上なく喜んでくださる。
・・・主が喜んでくださることが、私の力となり、主のみことばに従い続ける力となり、主に従うことこそが、喜びになり、最高の満たしになって行く。

ああ、今日も、主に従わせていただける・・・この恵みが、涙が出るほどの喜びとなる。現実が変わらなくても、もう関係なくなります。
イエス様、あなたが、喜んでくださるなら、私は従います・・・この従順が十分に訓練されるとき、
現実が良くても悪くても、イエス様を愛するから、イエス様が喜んでくださるから、イエス様に従う従順が身に着きます。・・・この従順が、イエス様の従順です。

イエス様は、30年間、神を愛し、人を愛して、神のことばに従い続けました・・・しかし、30年間、従い続けても、物凄い救いとか癒しとか奇跡とか起こったわけではなく、現実は変わらなかった。

しかし、イエス様は、失望しませんでした。イエス様は、現実ではなく、神様に目を留めていたからです。イエス様を愛し、イエス様に語りかけてくださる父なる神様に、イエス様は、目を留め続けました。

イエス様は、いつも、神様に目を留め、神様を愛し、神様が喜んでくださるから、神のことばに従いました。このイエス様の従順こそ、私たちがイエス様から、学ぶべき従順です。
この従順を身に着けるとき、私たちは、聖霊様に満たされます。
聖霊様の力に満たされた私たちが、いつもどおり、祈り、聖書のことばを朗読するだけで、信仰が湧き上がってきます。
そして、私たちも、イエス様のように、みことばを宣言するようにされるのです。
21節
 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

聖霊様の力に満たされたあなたが、神のことばを語るとき、聖霊様の力が働き、あなたが語った通りに、神のことばが実現していくようになります。

そのために大切なのは、イエス様から従順を学ぶことです。
現実が良くても悪くても、イエス様のことばに目を留めて、イエス様を愛するから、イエス様が喜んでくださるから、イエス様、私は、あなたに従います・・・従順のいけにえをささげていくことです。

皆さん、従順は、いつからでも学ぶことができます。
才能や能力がなくてもできます。

まず、聞くこと、そして、聞いたみことばを心に受け入れることです。
イエス様が、今日、私に語ってくださる、ことばに、とどまるだけです。

しかも、イエス様は、私を愛しているから、語られます。
イエス様は、私を救うために語られます。
私を癒すために、私を悩み苦しみから解放し、自由にするために語られます。
私を、聖霊様の喜び、希望に満たすために、イエス様は、語ってくださいます。

ですから、「アーメン。主イエスよ。その通りです。信じます。従います。」・・・と言って、イエス様が、今日、語ってくださる、一つのことばを、心に受け入れ、何度も何度も、思い巡らして、祈り、心にとどめること、イエス様のことばを手放さないこと・・・それは、能力がなくても、やろうと思えば、できることです。

 今、この時間、イエス様の前で、決心したことを、祈りましょう。

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https://youtu.be/QYsRxkm0Skc創世記 39章1~5節  『主のことばに練られた者』1節 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュ...
17/05/2026

https://youtu.be/QYsRxkm0Skc

創世記 39章1~5節  『主のことばに練られた者』

1節
 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。

 ヨセフは、12人兄弟の11番目でしたが、お兄ちゃんたちに妬まれ、裏切られ、奴隷として売られ、遠い国エジプトに連れて行かれました。
 ヨセフは、酷く傷つきました。しかし、その傷を、神様は、ヨセフを訓練するために用いました。
詩篇105篇17-19節
 主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。 ヨセフが奴隷に売られたのだ。
 ヨセフの足は 苦しみのかせをはめられ その首は 鉄のかせに入れられた。
 彼のことばがそのとおりになるときまで 主のことばは彼を練った。

ヨセフが生まれる前から、ヨセフを通して、イスラエルを、そして、エジプトを救う神様の計画がありました。もし、ヨセフがいなければ、エジプトの国は、七年間の飢饉で滅びていました。
ヨセフを通して、家族、親族だけではなく、エジプトを始め、周りの国々を救う神様の計画を、神様は、ヨセフに任されました。

しかし、ヨセフが、神様に任された使命を全うするためには、ヨセフは、主のことばによって訓練される必要がありました。
この訓練によって、ヨセフは、凄まじいほど親密な、主との関係を持つ者に変えられました。
試練を通して練られた関係です。ヨセフは、どんな状況でも、主を見失うことがない者、どんな苦しみの中でも、主のみことばに目を留めて、主と共に生きる忠実な者に変えられました。

もし、今日のみことばを悟る恵みを受けて、私も、ヨセフのように主と共に生きる忠実な者になります、と、決心し、みことばの恵みにとどまるなら、誰でも、ヨセフのように、神様に任された使命を全うする忠実な者に変えられます。
今日、みことばを悟る恵みを受け取る、私たちを通して、神様の救いの計画が実現していくことを、主イエスの御名によって、祝福します。

ヨセフは、家族に裏切られ、殺されそうだったところを、辛うじて救われ、奴隷として売られました・・・物凄く傷ついたでしょう・・・・ヨセフは、なぜ、自分だけ・・・と思ったはずです。

皆さん、ヨセフのように、なぜ、自分だけ、こんな目に・・・なぜ、自分だけと思うときは、主の訓練が始まるときです。
なぜ、自分だけと思うのは、みんなは持っているのに、自分だけは、持っていない・・・自分だけは失っていく、奪われていく・・・
みんなには頼れるものがあるのに、自分だけは頼れるものが、一つ一つ、削ぎ落とされていく・・・神様の訓練が始まるときです。
さて、ヨセフは、エジプトに連れて行かれ、ファラオの廷臣、侍従長のポティファルが、ヨセフを奴隷として買い取りました。
侍従長とは、エジプトの王様の近くで仕えていた側近の中の側近・・・王様に最も近いところで仕えている侍従たちのリーダーです。
神様の計画は、この後、ヨセフを、エジプトのトップに引き上げ、イスラエル、エジプトを始め、周りの国々を救うこと・・・そのために、神様は、エジプトの王のすぐ近くにヨセフを導かれました。

外国人であるヨセフが、いきなり、エジプトの王様に最も近い人の家に入ることなど、普通は、できません。ですから、ヨセフが、侍従長ポティファルの家に入ることができたのは、まさに、神わざでした。・・・ただし、そのために、神様が用いられた方法は、ヨセフが奴隷として買い取られる、と言う方法でした。

その時には、とても受け入れられないと思うような方法を、神様は、用いることがあるということです。ヨセフにしても、なぜ、家族に裏切られ、奴隷として売られたのか・・・なぜ、こんなに傷つかなければならなかったのか・・・その時は、ただただ辛くて、意味が分かりませんでした。
・・・もしかすると、ヨセフは、ああ、自分の性格が悪かったから、あのとき、もっとへりくだって、お兄さんたちを敬っていたら、こんなことにはならなかったかもしれない・・・そのように、自分を責めていたかもしれません。

しかし、この時も、主のことばはヨセフを練りました。
ああ、自分があの時こうしていればと、自分のことを思うのではなく・・・また、ああ、兄弟たちのせいで・・・と、人のことを思うのでもなく、今も、共におられる主を思って、主に信頼することができるように、と、主のことばは、ヨセフを励まし、慰め、力づけ、訓練しました。
2節
 主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。

主がヨセフとともにおられたので、ヨセフは成功した・・・というのではなく、成功する者になった・・・すなわち、一回きりの成功ではなく、いつでも、どこでも、どんな状況においても、主がともにおられる限り、成功する者となった・・・成功する者となったということは、そうなる前までは、成功する者ではなかったということです。
主のことばによって訓練された結果、ヨセフは、主にあって成功する者に変えられたのです。
 
 この成功は、主と関係のない、この世の成功ではありません。主にあっての成功は、私たちが予想できるレベルの成功ではありません。私たちの思うところを遥かに超えた、すばらしい主の計画が実現していく成功です。
主にあっての成功とは、主がともにおられるので実現する、成功です。
自分が上手くできた、できなかったで、成功したり、失敗したりするようなものではありません。
たとえ、取り返しのつかない大失敗をしたとしても、どんな問題があったとしても、共におられる主に対して忠実であるなら、必ず、成功する・・・それが、主にあっての成功です。
 だからこそ、主のみことばは、ヨセフが、いつも共におられる主に忠実であるように、と、励ましました。・・・いつでも、どこでも、ヨセフが主にあって忠実に仕え続けることができるように、主のことばは、ヨセフを訓練しました。

 多くの場合、ヨセフのように、人生に傷がある人は、その傷を隠そうとします。アダムとエバが、いちじくの葉っぱで、隠そうとしたように、自分の失敗、過去の傷・・・この傷のせいで、私は失敗した、惨めになった・・・この傷がある限り、私は失敗者、成功することはできないと思うものです。
それで、その傷を隠すために、学歴、資格、財産など、いろんなものを身に着けて、その傷を覆うほどの力を手に入れることによって、成功しよう・・・その傷によって、損なわれてしまった自分の価値を取り戻そう・・・自分の力で、自分の価値を取り戻し、成功しようとします。

かつての私が、まさに、そうでした。無意識にやっていました。・・・自分の傷を覆うために、良くなろう、良くなろうと努力するのですが、それが失敗すると、物凄くダメージを受けました。
この傷さえなければという傷を隠すために、これさえあれば、大丈夫、という、良いものを築き上げようと努力するので、その良いものが崩れるとき、まるで、自分のすべてが崩れるかのようなダメージを受けました。

皆さん、私たちの価値は、傷によって、損なわれることはありません。ボロボロに傷ついても、取り返しのつかない大失敗、大きな罪を犯したとしても、それによって、私たちの価値が失われることはありません。私たちの価値は、神様のいのちと同じ価値です。神様は、ご自分のいのちの代価を払って、私たちを、神様のもの、神様の宝物としてくださいました。
神様の宝物である、私たちの価値が、損なわれることは、絶対にありません。
逆に言えば、自分の価値を上げようと思って、富、権力、名誉、何を手に入れたとしても、私たちの価値が上がることはありません。もうすでに、私たちは、この上なく、最高に価値ある存在です。私たちには、イエス様のいのちと同じ価値があるのです。
・・・このことを、私たちに悟らせるために、主のことばは、私たちを訓練するのです。

 主のことばに訓練されたヨセフは、このことを悟ったので、自分の傷を隠そうとしたり、自分の価値を上げようとすることから、解放されました。また、自分が自分をどう思うか、人からどう思われるか、という葛藤、恐れからも、解放されました。
 ただ、自分のことを最高に価値ある存在として、愛してくださる主に、忠実に仕えることが、ヨセフの喜びとなりました。・・・主のことばに訓練されたヨセフは、凄まじいほど親密な主との関係を持つ者に変えられたのです。

どんな状況に置かれても、主を見失うことがない者、どんな苦しみの中でも、主のみことばに目を留めて、主と共に生きる忠実な者・・・それが、主にあって成功する者です。

皆さん、この時点で、ヨセフは、誰の目から見ても、成功者には見えませんでした。・・・17歳で、家族に裏切られ、奴隷として売られ、酷く傷つきました。誰から見ても、悲惨で、惨めな子にしか見えなかったはずです。
しかし、この時にも、主のことばはヨセフを練りました。・・・人に理解されなくても、拒絶されても、状況が悪くても、主がともにおられるので、成功する、と、・・・この時点から、主のみことばは、ヨセフに教え込みました。
3-4節
 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。

侍従長ポティファルは、ヨセフを見て、心に傷のある失敗者だとは思いませんでした。
この子は、最近来た奴隷で、心に傷があるのか、みんなが楽しそうにしているときにも、急に泣き出したり、夜中に「うう、お父さん、辛いよ」という泣き声が聞こえたりするらしいけど・・・なぜか、彼に任せると、すべてが上手く行く・・・ポティファルは、気づきました。

ヨセフは、ポティファル家でも、主にあって忠実でした。・・・ポティファルは、完璧な主人ではありませんでした。本当の神様を信じていない主人でした。しかし、ヨセフは、主にあって忠実に、ポティファルに仕えました。
ヨセフが、主にあって忠実に仕えていたので、ヨセフのすることなすこと、すべてを、主が成功させてくださった・・・それが、主人であるポティファルの目に留まり、ヨセフは、主人のそば近くで、直接、仕えるようになりました。

忠実さには、段階があります。最初は、小さなことが任されます。
ヨセフは、小さなことにも、主にあって忠実に仕えました・・・その結果、主が成功させてくださった・・・人の目にも物凄い成功でした・・・それで、もっと多くのものが、任されるようになりました。

毎日の小さなことに忠実になることです・・・そんな小さなことを一生懸命頑張ったところで、誰もほめてくれません・・・しかし、そんな小さなことでも忠実に仕えるとき、ともにおられる主が喜んでくださる・・・主に仕えること自体が喜びになっていくのです・・・毎日、小さなことに忠実になるとき、主にあっての忠実さが身についていくのです。
家庭であれ、職場であれ、今、私たちが置かれている場所で、小さなことに忠実になるとき、主に仕えること自体が喜びになります・・・主にあって、地上の主人に忠実に仕える・・・小さなことでも、忠実に仕える・・・この忠実さが、私たちを神の計画の実現の場所へと、引き上げます。
しかし、神の計画の実現に向かって、引き上げられていく時、必ず、敵の妨害があります。
創世記39章7節
 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。

 これは、ポティファルの妻によるハニートラップです。・・・主にあって忠実に仕えて、引き上げられた多くの人が、ハニートラップを経験しました。ダビデ、ソロモンなど、どんな信仰者でも、どんなに知恵があっても、気をつけていなければ、ハニートラップにかかる可能性があります・・・今の時代も、同じです・・・私たちは、みな気をつけなければなりません。
  主人の妻は、ヨセフに「一緒に寝ましょう」と言いました・・・「二人で、一緒に何かをしましょう。あの部屋で一緒に交わりを持ちましょう。」 気をつけなければなりません。
創世記 39章8-9節
  しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。
 ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」

ヨセフの答えは、「ご覧ください。主人は、家の中のことは何でも、私に任せてくださいました。」
ヨセフの思いは、主人が何を自分に任せてくださっているのか・・・これが、忠実に仕えている人の思考回路です・・・この時も、ヨセフが考えていたことは、主にあって、地上の主人に忠実であろうということです。

主人がヨセフに任せたのは、家の中の全財産です。ヨセフは、自分に任された範囲の中で、忠実に仕えることに心を尽くしていたので、自分に任されていないこと、自分に任された範囲を越えたところにあるものには、手を出さない・・・しっかりと、ボーダーラインを引いていました。
・・・ヨセフのように、ボーダーラインを引いていなかったので、アダムとエバは、善悪の知識の木の実に、手を出したのです。
しかし、ボーダーラインを引いていた、ヨセフは言いました。「主人は、家の中のことは何でも私に任せてくださいました。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。」

自分に任された範囲の中で、忠実に仕えるなら、何をしても成功する・・・しかし、奥様、あなただけは、私に任されていません。・・・ですから、あなたと一緒に成功しようとしても、成功しません・・・それは、神に対して罪を犯すことだ、と・・・
創世記 39章10節
彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、一緒にいることもしなかった。

ヨセフのように、忠実に仕えて、神の計画に進むとき、敵の攻撃はしつこくなります。
毎日 LINEが来ます。「ヨセフ、今日、会わない?今、あなたの事業が成功したって聞いたわ。主人も、あなたにもっと任せたいと言っていたから、ちょっと、二人で、一緒に食事しない。」

ヨセフは、ポティファルの妻のことで、不安になったことがあったはずです・・・この人を敵に回したら、ヤバいんじゃないかと思ったときが、あったはずです。
・・・あの悲惨な状況から、物凄い大金持ちの全財産を任せられるほどの地位に上り詰めました。しかし、もし、ここで、この人の機嫌を損ねるなら、また、すべてを失ってしまうかもしれない。
・・・それよりは、この人の言うことを聞いて、何もなかったことにした方がいいんじゃないかと、思ったことがあったはずです・・・しかし、この時にも、主のことばは、ヨセフを練りました。

これは、神様からのテストでした。主にあって忠実に仕え続けて来た結果、与えられた良いもの、良い人間関係、キャリア・・・せっかく手に入れた良いものを失いたくない。この良いものさえあれば、何とかなる、そのように、より頼むことができるものを、人は手放したくなくなるものです。

忠実になることよりも、自分がより頼めるものを失いたくない・・・しかし、それを手放して、主にあって忠実になることを選ぶとき、主だけが、力になり、ますます、主の力が働くようになります。
創世記 39章19-20節
 彼の主人は、「あなたの奴隷がこのようなことを私にしました」と告げた妻のことばを聞いて、怒りに燃えた。
  ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。

主にあって忠実になることを選んだヨセフは、再び、すべてを失いました。しかし、すべてを失ったヨセフが置かれた場所は、王の囚人が監禁されている監獄・・・ある意味、王様に最も近いところでした・・・この時も、ヨセフをエジプトのトップに引き上げて、神の救いの計画を実現するために、主のことばは、ヨセフを訓練していたのです。
創世記 39章21-23節
 しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
  監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。

監獄の長は、すべての囚人を、同じ囚人であるヨセフの手に委ねた・・・考えられますか・・・いくら、成功しても、ヨセフは囚人です・・・囚人がどんなに忠実に仕えて、成功したところで、そこまで評価されません。普通は、看守の中で、成功しそうな人に委ねます。・・・しかし、主にあって、忠実に仕えたヨセフの成功は、普通ではなかった・・・神わざだったのです。
創世記 40章1-4節
 これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
 ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、
 彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。
 侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。

エジプト王の献酌官長と調理官長・・・この二人は、王の食べ物、飲み物を管理する人たちのリーダー・・・つまり、やろうと思えば、王様を暗殺できるような立場にいた二人・・・王様に最も信頼され、最も近いところにいた二人です。いわば、VIPの中のVIPです。
この二人のVIP、最重要人物の世話をする付き人に、ヨセフを選んだのは、侍従長でした・・・侍従長とは、誰ですか・・・ポティファルです。
この時には、ポティファルも、認めざるを得なかった。やはりヨセフに任せるなら、どこでも上手く行く、この二人は、他の誰でもなく、ヨセフに任せよう・・・やはり、ヨセフだ。ヨセフがいい、と。
過去に、誤解され、裁かれ、批判されたとしても、ヨセフのように主にあって忠実に仕え続けるなら、再び、認められるようになります。
・・・ですから、人に認められようが、誤解されようが、私たちが、心を尽くすのは、主に認められるために、主にあって、忠実に仕え続けることです。
創世記 41章39-41節
 ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
 おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
 ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」

ポティファルの家にいた時も、監獄にいた時も、ヨセフが心を尽くしたのは、主にあって、忠実に仕え続けることでした。その結果、ヨセフは、引き上げられ、イスラエル、エジプト、周りの国々を救う、神様の計画に用いられました。

ヨセフは、自分の力で伸し上がったのではありません。自分が置かれた場所で、主にあって忠実に仕え続けた結果、主が引き上げてくださいました。

神様は、ヨセフを、エジプトを治める地位に引き上げることによって、国々を救うという神様の計画を、ヨセフが生まれる前から立てていました。
この神様の計画は、家族に裏切られ、酷く傷つけられても、変わりませんでした。
奴隷にされても、その計画は破綻しませんでした。
強姦未遂、性犯罪者という汚名を着せられても、その計画は破綻しませんでした。
何故でしょうか・・・ただ一つ、ヨセフが、主にあって忠実に仕え続けたからです。

皆さん、主にあって忠実に仕え続ける限り、私たちに立てられた神様の計画は、必ず、実現します。失敗しても、裏切られても、ボロボロに傷ついても、犯罪者の汚名が着せられても、関係ありません。主にあって、忠実に仕え続けるなら、必ず、主が引き上げてくださり、主の救いの計画のために、用いてくださいます。
ただ、この恵みを悟らずに、失敗したから、取り返しのつかない罪を犯してしまったから、もうダメだと諦めて、主にあって、忠実に仕えることをやめてしまう人が多いのです・・・それは、勿体ない・・・勿体なさすぎます・・・神の計画は、諦めるには、勿体なさすぎるものです。

ヨセフは、自分に任された神様の計画が、いつ分かったでしょうか。エジプトの王様が、「さあ、私はおまえにエジプトの全土を支配させようと言われたとき、ようやく分かりました。
今、自分に任された神様の計画が分からなかったとしても、大丈夫です・・・分かっていながら、忠実にならないよりは、今は分からなくても、主にあって忠実になることが、何よりも必要です。
今、自分に任されている小さなことに、主にあって、忠実になりましょう。それが、第一歩です。

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https://youtu.be/p9ynsqqaMoYⅠサムエル記 17章1-11節  『霊的な戦い』 信仰生活には、霊的な戦いがあります。 霊的な戦いの戦い方を知っているかどうかで、信仰生活は、大きく変ります。 イスラエルにとって、ペリ...
14/05/2026

https://youtu.be/p9ynsqqaMoY

Ⅰサムエル記 17章1-11節  『霊的な戦い』

 信仰生活には、霊的な戦いがあります。
 霊的な戦いの戦い方を知っているかどうかで、信仰生活は、大きく変ります。
 イスラエルにとって、ペリシテ人との戦いは、まさに霊的な戦いでした。

 今日の箇所の数十年前、まだ、祭司エリがイスラエルを治めていた時代、イスラエルが、ペリシテ人と戦ったとき、イスラエルは、主の契約の箱を、戦場にまで、担ぎ出して、戦いました。その戦いの結果は、ペリシテ人の勝利でした。
 ペリシテ人は、イスラエルから奪い取った、主の契約の箱を、ペリシテ人の神である、ダゴンの神殿に置きました。翌日、ペリシテ人の神ダゴンは、イスラエルの神の箱の前に、うつぶせになって倒れていました。

 つまり、イスラエルの神、主は、ペリシテ人のダゴンに勝利していました。霊的な戦いにおいて、主は、いつも勝利しています。しかし、イスラエル人が、霊的な戦いの戦い方を知らなかったので、物理的な戦いにおいて、イスラエル人は敗北しました。

 同じように、私たちの救い主、イエス・キリストは、いつも勝利しておられます。しかし、私たちが霊的な戦いの戦い方を知らなければ、物理的な現実の生活で敗北するのです。

 霊的な戦いの勝利・・・イエス・キリストの勝利を、私たちの物理的な勝利として受け取る必要があります。・・・ダビデは、主の勝利を、自分の勝利として受け取ることができました。
 ダビデは、霊的な戦いの戦い方を知っていました。

 私たちは、まず、霊的な戦いとは、何かを知る必要があります。
 今日の箇所においても、ペリシテ人との戦いが、霊的な戦いであることが、ペリシテ人の巨人ゴリヤテの戦い方を見ると、分かります。
8節
 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。

 身長が3メートルもある巨人ゴリヤテが、ムキムキの筋肉を見せびらかし、素手で石を握りつぶすなどのパフォーマンスを見せたので、イスラエル人は、ゴリヤテを恐れたわけではありません。
ゴリヤテは、ただ、突っ立って、叫びました。すなわち、ことばを語っただけです。
ゴリヤテの最大の武器は、ゴリヤテの見た目の強さではなく、言葉の力です。ゴリヤテは、言葉の力によって、戦う前から、イスラエル人を打ち負かしました。
11節
 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。

サウルと全イスラエルは、ゴリヤテのことばを聞いて、非常に恐れました。ゴリヤテの最大の武器は、言葉です。言葉の力です。

ゴリヤテの見た目の強さは、ゴリヤテの言葉に注意を惹きつける、餌のようなものです。
ゴリヤテを見て、「ああ、何か大きいのが来た」と、圧倒された瞬間、一気に、聞く耳が開かれ、ゴリヤテが語ることが、何でも、正しく聞こえてしまう・・・これが、霊的な戦いです。

霊的な戦いとは、言葉とことばの戦いです。
ゴリヤテは、この後、40日間、毎日、言葉によって、イスラエル人の心を恐怖に陥れ、イスラエル人の心を、言葉の力によって、支配しました。
Ⅰサムエル記 17章16節
  例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。

ペリシテ人の巨人は、40日間、毎日、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた・・・何のためでしょうか・・・言葉の力によって、イスラエル人の心を支配するためです。
Ⅰサムエル記 17章23節
ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。

 彼は前と同じことを語った・・・ゴリヤテが、40日間、毎日、朝と夕に、語り続けた言葉は、同じ言葉です・・・すなわち、言葉の巧みさとか、話術によって、恐怖に陥れたわけではなかった。
イスラエル人の心を支配下のは、言葉の巧みさでも、話術でもなく、ゴリヤテの言葉の力です。ゴリヤテの言葉には、霊的な力がありました。
ゴリヤテは、どんな言葉を語ったのでしょうか・・・ダビデに語った、ゴリヤテの言葉を見れば、ゴリヤテが、どんな言葉を語っていたのかが、分かります。
Ⅰサムエル記 17章43節
 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。

自分の神々によって、ダビデを呪った・・・すなわち、40日間、毎日、語り続けたゴリヤテの言葉は、偶像の神々による呪いの言葉・・・この言葉の力によって、イスラエル人は、戦う前から、打ち負かされ、この言葉の力によって、心が支配されました。

皆さん、ゴリヤテは、この40日間、物理的には、一度も戦っていません。ゴリヤテが、誰かを打ち殺して、力を見せつけたので、イスラエル人は恐れたのではなく、40日間、ただ突っ立って、語ったゴリヤテの言葉の力が、イスラエル人の心を恐れによって、支配しました。

実際、ゴリヤテが、どんなに強かったとしても、たった一人です。数十人で戦えば、必ず、勝てます。歴史的に、イスラエルは、ゴリヤテのような巨人を何度も打ち負かしました。
また、当時の戦争において、一対一で戦うというルールはありません・・・この戦いにおいても、イスラエルの王とペリシテ人の王が、話し合って、一対一で戦うというルールを決めたわけでもありません。
一対一で戦うというルールは、ゴリヤテが勝手に言っていただけです・・・守る必要はありません。それにも関わらず、なぜか、イスラエル人すべてが、そのルールを守らなければならないと思い込み・・・ああ、絶対に勝てないと、戦う前から、打ち負かされた・・・何故でしょうか。
言葉の力です・・・ゴリヤテの言葉には、力があったのです。

皆さん、私たちは、大なり小なり、言葉の力によって動かされています。
例えば、コロナのとき、多くの人がソーシャルディスタンスを取るようになりました・・・何故でしょうか・・・NEWSなどで、ソーシャルディスタンスを取りましょうという、言葉を聞いたからです。
その言葉を聞いてもいないのに、自分で思いついて、ソーシャルディスタンスを取るようになった・・・という人はいないはずです・・・自分が聞いた言葉に、人々は動かされました。

人は、自分が聞いた言葉に影響を受けます。言葉には、人を動かす力があります。
人が落ち込むのは、言葉によってです。人が生き返るのも、神のことばによってです。
霊的な戦いとは、言葉と、ことばの戦いです。自分のうちにあることばと、相手のうちにあることばとの戦いです。
言葉はすべて霊的なものです。ことばには、霊的な力があります・・・主イエスは言われました。
ヨハネの福音書 6章63節
 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

 イエス様のことばは、霊であり、いのちです。しかし、悪魔の言葉は、霊であり、死です。
 この世の神と呼ばれる悪魔の言葉が、この世には満ちています。私たちは、知らず、知らずのうちに、この世の言葉、霊的な死の言葉を聞いて、落ち込み、恐れ、絶望し、鬱になります・・・そのように、霊的な死の言葉によって、打ち負かされ、心が支配されてしまうことがあります。
 
どうすれば、打ち勝つことができるでしょうか・・・ダビデに倣うことです。
ゴリヤテが語った、霊的な死の言葉を聞いた、イスラエル人は、打ち負かされ、戦う前から、絶対に勝てないと、心が、ゴリヤテの言葉に支配されました・・・しかし、ダビデだけは違いました。
 ダビデは、ゴリヤテの言葉を聞いたとき、次のように答えました。
Ⅰサムエル記 17章26節
 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

 このペリシテ人を打ち取って・・・みんなが絶対に勝てない、必ず、負けると絶望していたときに、ダビデだけは、戦うなら、必ず、勝てる・・・ダビデの心は、もうすでに、ゴリヤテに打ち勝っていました。・・・何故でしょうか。
ダビデの心には、神のことばが満ちていました。・・・ゴリヤテの言葉は、ダビデのうちにあった神のことばに、打ち勝つことができなかった。

皆さん、神様が、私たちに与えてくださった唯一の武器は、御霊の剣・・・神のことばです。
言葉はすべて、霊的な剣です。しかし、どんな言葉の剣よりも、神のことばの剣は鋭く、力があります。神のことばは、私たちを生かす力がある、いのちのことばです。
へブル人への手紙 4章12節
 神のことばは生きていて、力があり、(どんな)両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 霊的な戦いは、自分のうちに、どれだけ、神のことばが蓄えられているかで、決まります。すなわち、神のことばが、どれだけ、信仰によって、自分に結びついているかで、決まります。
へブル人への手紙 4章2節
というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。

 ダビデは、みことばを信仰によって、自分に結びつけました。ダビデは、みことばを心に蓄えていき、心に満ちたみことばが、ダビデの口から溢れるほどに、ダビデは、神のことばを蓄えたのです。・・・これが、霊的な戦いの勝利の秘訣です。
 
 ダビデの心には、神のことばが満ちていたので、主の御名によって戦う私は絶対に勝つ、と、確信する信仰を持つことができました。神のことばを土台とした信仰の確信です。

 イスラエル人すべてが、ゴリヤテを恐れ、逃げ出しましたが、神のことばを土台とした信仰の確信を持っていた、ダビデは、ゴリヤテに向かって、走って行きました。

もし私たちが、ダビデのように、神のことばを土台とした信仰の確信を持つなら、私たちもダビデのように、敵に向かって、走って行くことができます。
もし、私たちが、ダビデのように、神のことばを心に蓄えるなら、私は必ず、この問題を解決できると、確信する信仰を持って、問題に向かって、走って行くことができます。
・・・大切なのは、神のことばを、心に蓄えることです。・・・どうすれば、ダビデのように、心に満ち溢れるほどに、神のことばを蓄えることができるでしょうか。
 
 ダビデとは、正反対の力を、ゴリヤテは蓄えました。ゴリヤテの言葉には、イスラエル人すべてを恐怖に陥れ、イスラエル人の心を支配する力がありました。そのような言葉の力を、ゴリヤテは、どうやって、蓄えたのでしょうか。・・・ゴリヤテは、40日間、何をしていたでしょうか。
 四十日間、朝早くと、夕方に、毎日、同じ時間に、同じ言葉を語り続けました。
 そうすることによって、霊的な祭壇を築いたのです・・・霊的な祭壇で、言葉を語ると、霊的な力が蓄えられます・・・良くも悪くも、霊的な祭壇を築くなら、言葉の力が蓄えられるのです。
例えば、預言者ダニエルは、日に三度、決まった時間、決まった場所で、感謝の祈りをささげることによって、霊的な祭壇を築きました。
ダニエルは、どんなことがあっても、毎日、三度の祈りをささげることによって、毎日の生活の中に、霊的な祭壇を築きました。
この霊的な祭壇が入口となって、神様は、毎日、ダニエルに介入することができました・・・この霊的な祭壇、この三度の祈りが、ダニエルの力の源でした。
・・・だからこそ、敵は、ダニエルの力の源であった、三度の祈りをやめさせるために、30日間だけでも祈ることをやめるなら、ライオンの穴に投げ込まれずに済む・・・という、罠を仕掛けた・・・この罠は、ダニエルの3度の祈りをやめさせることだけに、狙いを定めた、罠です。

しかし、ダニエルは、三度の祈りをやめませんでした。その結果、ダニエルは、ライオンの穴に投げ込まれましたが、ライオンからダニエルを救った神の力ある介入は、三度の祈りから来たのです。
毎日の三度の祈りを通して、ダニエルのうちに蓄えられた神のことばが、神様は、ライオンからも、必ず、守ってくださると、確信する信仰を、ダニエルに与えたのです。

使徒の働き10章の、ローマの百人隊長コルネリウスも、毎日、決まった時間に祈ることによって、霊的な祭壇を築きました。その霊的な祭壇で、祈っていたとき、すなわち、決まった時間に祈っていた時に、コルネリウスは、はっきりと神のみ使いを見て、「あなたの祈りと施しは神に覚えられている」という、主からのことばを聞きました。
そのように、毎日、決まった場所で、決まった時間を、神様だけにささげることによって、霊的な祭壇を築くことが、神様の力ある介入を、自分の人生に受け入れる入口になります。

この時間は、他のことはしない。ただ、神のことばを思い巡らし、祈る時間として、神様にささげます・・・そのように、毎日の生活の中に霊的な祭壇を築きましょう。
この時間は、ただ神様に出会い、神様と交わりを持つためだけの時間としてささげます。
そのように、神様のことばを心に蓄える時間として、神のことばを思い巡らしながら、祈るとき、思い巡らしている神のことばが、心にどんどん蓄えられていくのです。

神のことばが、どのぐらい心に蓄えられているのか・・・神のことばが、どのぐらい、信仰によって、結び付けられているのか・・・それが、霊的な戦いの勝敗を大きく左右します。

皆さん、私たちは、絶対に負けられない戦いに直面することがあります。
家族が事故で、意識不明・・・今夜が峠・・・もう、神様に祈る以外に、できることは何もない・・・そんな時に、一、二分、祈っただけで、祈りを終えるでしょうか。
  愛する人が生きるか死ぬかと言う時に、イスラエル人のように、戦う前から、勝てないと諦めて、祈ることをやめてしまうことなど、できるでしょうか。
そのときこそ、ダビデのように、戦うなら、必ず、勝てる・・・私が祈るなら、神様は、必ず、答えてくださる、と、確信する信仰が必要になって来ます。・・・神のことばによって確信する信仰が必要です・・・この信仰がなければ、勝つことができない戦いがあります。
皆さん、これからの時代、私たちは、激しい、霊的な戦いに、ますます、直面していきます。
今は、世の終わりの時代です・・・難しい選択が迫られます・・・何が正しいのか、何が間違っているのか全く分からない・・・どのが道が、正しいのか、全く見えない・・・闇の中を歩まなければならない・・・その時、心に蓄えられた神のことばが、光を放ちます。
神のことばは、今日という日に、私の足もとを照らす光です。

神のことばは、私たちの外側にではなく、内側に蓄えられたときに、力を働かせます。
いざと言う時に、神のことばが内側に蓄えられているなら、私たちも、ダビデのように勝利することができます。しかも、その勝利は、自分だけの勝利ではなく、神の家族全員に勝利をもたらす、大勝利です。

たとえ、神の家族全員が、戦う前から、勝てないと絶望していたとしても、たった一人のダビデが立ち上がるなら、神の家族全員に、大勝利をもたらすことになる・・・

皆さん、神様は、あなたを、ダビデとして、召されています。すなわち、あなただけではなく、あなたの愛する人すべてに、神の勝利、神の救い、神の祝福をもたらす者として、神様は、あなたを選んでいます。

ですから、私たちは、ダビデのように、神のことばを心に蓄えましょう。
霊的な祭壇を築くことです。そして、その祭壇で、毎日、祈ることです。
神様のためだけに、ささげる時間、ささげる場所を聖別しましょう。

この時間、この場所は、神様のためだけにささげます。
この時間は、神様のことばを心に蓄える時間として、神のことばを思い巡らしながら、祈ります・・・そのようにして、神のことばを、心に蓄えていきましょう。

・・・日々の生活の中に、霊的な祭壇を築くなら、いざと言う時に戦い抜く力が与えられます。
愛する家族の救いのために、愛する人を死から救うために、どうしても、神様の介入が必要なとき、どうしても、神様の力ある助けが必要な時・・・祈ります・・・30分祈っても足りなければ、1時間、祈ります・・・それでも足りなければ、2時間・・・それでも足りなければ、3時間・・・いざと言う時に、神様からの実際的な助けを受け取るまで、祈り抜く信仰の力は、どこから来るでしょうか。
日々、自分の内側に蓄えて来た神のことばから、信仰の力は与えられます。

皆さん、日本のリバイバルは、すでに始まっています・・・ますます、大きく激しくなっていきます。それは、霊的な戦いも、ますます激しくなることを意味します。
ダビデのように、霊的な戦いの戦い方を知っている人は、ますます勝利して、リバイバルに用いられていきます・・・しかし、知らなければ・・・

ですから、私たちは、ダビデのように、神のことばを心に蓄えましょう。・・・日々の生活の中で、神のことばを思い巡らして祈り、主との交わりを持つ時間を聖別して、霊的な祭壇を築きましょう。

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