松戸栄光教会

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主?

https://youtu.be/RxfAi9avZD8Ⅱコリント人への手紙 13章8節  『主のためならできる』8節私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。真理に逆らうことは何もできないけれども、真理...
23/08/2026

https://youtu.be/RxfAi9avZD8

Ⅱコリント人への手紙 13章8節  『主のためならできる』

8節
私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。

真理に逆らうことは何もできないけれども、真理のためなら、できると、神のことばが、語っています。・・・すなわち、それが真理のためであることを悟るなら、私たちには、それができると、神様が私たちに保証してくださっています。

たとえば、神のことばが、「恐れるな。わたしがあなたとともにいる。」と言うなら、
私を愛し、私を守ってくださる、神様が一緒にいてくださることのゆえに、私は、恐れないでいることができる・・・
「恐れるな。わたしがあなたとともにいる」という、みことばの真理を悟るとき、真理に逆らって、恐れることができなくなり、真理のために、恐れないでいることができるようにされる・・・

しかし、神様がともにいてくださることを信じていても、なぜか、私のように、恐れてしまう、という方もおられるかもしれません。
イエス様が一緒にいて守ってくださる、と、信じますか?と聞かれるなら、信じます、と、答えはしますが、そう答えながらも、心が恐れてしまう・・・何故でしょうか?

・・・真理のためならできるという、みことばを悟っていないからです・・・真理のため・・・すなわち、主のためならできる・・・このみことばの真理を悟るなら、できる。
ローマ人への手紙 14章7-9節
 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
  キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

 イエス様は、私の罪のために死んでくださった。よみがえってくださったと、信じるなら、私は、自分のためではなく、主のために生きる人に変えられた人だと、神のことばが語っています。

 イエス様の十字架の死と復活は、私のためであったと、信じた人は、もはや、自分のものではなく、主のものにされた、と、神のことばが語っています。
 
 私のために死んでよみがえられたイエス様を、自分の救い主として信じ、受け入れた人は、主のために生きる者として、聖霊様によって、生まれ変わった、全く新しい存在にされた、と、神のことばが語っています。
 もし、あなたが、イエス様を信じ、受け入れたなら、あなたは、もうすでに、全く新しい存在です。それは、イエス様が、あなたのために成し遂げてくださった、救いのわざのゆえです。
すべてのことがイエス様の恵みのおかげです。
私のすべての罪が赦されたのは、イエス様の恵みのおかげでした。
罪人であった私が、神様の子どもとされたのも、イエス様の恵みでした。
 自分のためにしか生きられなかった私が、主のために生きる者に変えられたのも、イエス様の恵みでした。

 イエス様の恵みを、みことばから悟るとき、その恵みの力が働いて、私たちを、主のために生かしてくださる。私たちではなく、イエス様の恵みが、私たちに、そうさせてくださる。

神のことばから、神の恵みを悟ることによって、神の恵みが私たちを造り変えます。
神の恵みが、私たちを生かし、神の恵みが、私たちに力を与え、神の恵みが、私たちに神の働きをさせてくださる・・・だからこそ、神の恵みを悟った使徒パウロは、次のように告白しました。
Ⅰコリント人への手紙 15章10節
 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

 キリストとキリストの教会を迫害した、迫害者サウロを、偉大な伝道者パウロに生まれ変わらせたのは、神の恵みでした。
 使徒パウロが、自分で働いたのではなく、パウロとともにあった神の恵みが、パウロに神の働きをさせてくださった。

 同じように、私たちも、神の恵みを悟るとき、その恵みの力によって、主のために生き、主の働きをさせてもらえる・・・だからこそ、今、この時間、聖霊様の助けを受けて、神のことばから、神の恵みを悟らせていただきましょう。
8節
私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。

真理に逆らっては何もすることができない。真理のためなら、できる・・・このみことばを悟るだけで、大きな恵みの力が働きます。
真理に逆らっては何もできない、という恵みを悟るとき、その恵みの力によって、真理に逆らう罪を犯すことができなくされていき、罪の力から解放されていきます。
真理に逆らって、アルコール中毒でいることができなくされていきます。その他、薬物中毒、スマホ中毒、真理に逆らう、どんな中毒でいることも、できなくされていく・・・恵みのおかげです。

また、真理のためなら、できる、すなわち、主のためなら、できるという、恵みを悟るとき、主のために生きることが喜びとなり、喜んで、神に仕えることができるようにされます・・・すべてが恵みのおかげです。恵みの力が、そうせてくださる・・・だからこそ、主のためなら、できるという、恵みを悟りましょう。・・・・主のためなら、できるという、恵みを、今、信じ、受け入れる、皆さんに、神様が恵みの力を働かせてくださることを、主イエスの御名によって、祝福します。
ローマ人への手紙 14章7-9節
 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
  キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

イエス様が死んで、よみがえられた目的は、私たちの主となるためでした。
イエス様は、ご自分が始められた働きを、途中でやめてしまったり、失敗してできなくなったり、することは、絶対にありません。

神様のわざは、イエス様を信じた私たちのうちに、もうすでに始まっています。
ヨハネの福音書 6章29節
イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」

私たちがイエス様を信じること、それが、神のわざです。
自分でイエス様を信じているように思われるかもしれませんが、実は、私たちは、神様の恵みによって、イエス様を信じさせていただいているのです。
神様の恵みが、私に働いたので、私はイエス様を信じることができました。今も、神の恵みが、私のうちに働いているので、私はイエス様を信じ続けさせていただいています。

神の恵みによって、私たちがイエス様を信じることが、神様のわざです。・・・イエス様を信じるこことが、最も偉大な神様の奇跡のわざです。

イエス様を信じる奇跡によって、私に、罪の赦し、永遠のいのちが与えられました。
永遠のいのちが与えられる奇跡よりも偉大な奇跡は存在しません・・・不治の病が癒される奇跡よりも、無一文から億万長者になる奇跡よりも、どんな奇跡よりも、偉大な奇跡は、私たちがイエス様を信じる奇跡です。

もし、あなたがイエス様を信じるなら、それは、神様が最も偉大な奇跡を、あなたに行ってくださったということです。・・・その恵みを、神様に感謝してください。・・・イエス様を信じるという最も偉大な奇跡を、神様が、私たちに行ってくださった恵みを、いつも覚えて、感謝してください。

神の恵みを無視しないで、忘れないで、感謝すること・・・神様が、私に恵みを与えてくださったと認めて、神様に感謝するとき、恵みの扉が、さらに開かれていくのです。
あの人にでも、みんなにでもなく、神様が私にしてくださった恵みのわざを認めて、感謝するとき、神の恵みのわざが、さらに、実現していきます。
私たちがイエス様を信じること自体が、神の恵みです・・・私が努力したから信じることができたわけでも、お金を払ったから信じることができたわけでも、私が正しいから、信じることができたわけでもありません・・・一方的な神の恵みによって、イエス様を信じる奇跡が与えられました。
イエス様を信じること自体が、最も偉大な神の奇跡であることを悟るとき、その他の神の奇跡も、どんどん、実現していきます。

神様は、もうすでに、イエス様を信じる最も偉大な奇跡を、私に行ってくださった・・・その恵みを認めて、神様に感謝するとき、その他の奇跡も与えられていきます。

神様が良くしてくださった一つ一つの恵みを忘れることなく、感謝していくときに、神の恵みの力は、パウロに働いたように、私たちのうちにも働くようになるのです。
ローマ人への手紙 14章7-9節
 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
  キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

イエス様が死んで、よみがえられた目的は、私たちの主となるためでした。
そして、イエス様を信じ、受け入れた私たちのうちに、イエス様は、その目的を成し遂げて、今や、イエス様は、私たちの主となってくださいました。

イエス様は、もうすでに私たちの主です。そして、私たちは、もうすでに、イエス様のものです。
さらに、私たちは、もうすでに、イエス様のために生きる存在に生まれ変わらせていただきました。すべてが恵みのおかげです。イエス様を信じる奇跡を私たちに与えてくださった神様の恵みのおかげです。

しかし、イエス様を信じて、イエス様のために生きる新しい存在に変えられた恵みを悟らないまま、古い罪人として、自分のために生きてしまう・・・自己中心の罪に縛られたまま、生きてしまうことが、あるのです。みことばの真理を悟り、自由にされる必要があるのです。

イエス様を信じたのに、生き方は変わらない・・・イエス様を信じたのに、心がむなしい・・・イエス様を信じたのに、恐れ、不安、怒りに心が支配される・・・何が必要でしょうか・・・みことばからイエス・キリストの恵みを悟ることです。もうすでに、神様が、私に与えてくださっている恵みを、みことばから悟ることです。

その恵みが、もうすでに、与えられていることを悟るとき、その恵みの力が、私のうちに働き始めます。・・・しかし、悟らなければ、恵みは、私のうちに働くことができない・・・
ですから、その恵みを悟りましょう。私のために死んでよみがえられた、イエス様の恵みによって、もうすでに、私は、イエス様のために生きる、全く新しい存在に造り変えられた恵みを悟りましょう・・・今や私は、イエス様のために生きることを喜ぶ存在に造り変えられた・・・この恵みを、みことばから悟ることを求めるあなたに、今日、主ご自身が、みことばを悟る恵みを、与えてくださることを、主イエスの御名によって、祝福します。
信仰生活に起こるあらゆる問題の原因は、主のために生きる恵みを、みことばから悟ろうとしないことです。
イエス様を信じる、神様の奇跡が与えられた時点で、私たちは、主のために生きる新しい存在に変えられました・・・しかし、その恵みを悟ろうとしないまま、引き続き、古い罪人として、自分のために生きてしまうから、あらゆる問題が起こるのです。

皆さん、掃除機は、細かいゴミを吸い取るために造られました。掃除機が、本来、造られた目的から外れて、水を吸い取るなら、故障します。
水を吸い取ることは、そのために造られたポンプに任せて、掃除機は、ゴミを吸い取るという自分の使命に忠実になれば、主人に用いられる最高のパフォーマンスを発揮して、輝きます。

同じように、私たちも、主のために生きるという自分の使命に忠実になれば、主に用いられる最高のパフォーマンスを発揮して、私たちは世の光として輝きます。
だからこそ、主のために生きるとは、どういうことなのかを、みことばから悟る恵みを受けるとき、あらゆる問題は解決し、私たちは主の喜びに満たされて、輝くようになります。
ルカの福音書 15章7節
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

 主のために生きるとは、主の願いを自分の願いとして、主と共に生きることです。
 主が喜ぶことを、私も喜び、主と心を一つにして、主と共に生きることです。
 主が最も喜ばれることとは、何でしょうか・・・それは、失われた魂が、悔い改めて救われること。

 私たちが、イエス様を信じる恵みを受けたとき、天国に溢れるほど、大きな喜びで、主は、私たちの救いを喜んでくださいました。たましいの救いを喜ぶ主の喜びは、何よりも大きい。
 私たちも、主と一緒に魂の救いを喜ぶとき、私たちにうちに主の喜びが湧き上がって来ます。

 私たちの使命は、たましいの救いのために、主と一緒に働くことです。
神を知らない人々のために、心を痛めている主と一緒に、彼らの救いのために涙を流して祈ること、聞く耳を持つすべての人に、イエス様の救いのみことばを宣べ伝えること・・・それが、私たちに与えられた主の使命です。
ヨハネの福音書 3章16節-17節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神の御心は、一人も滅びることなく、すべての人がイエス様を信じる信仰によって救われることです・・・主のために生きるとは、主と心を一つにして、たましいの救いのために、自分に任された働きに忠実になることです。
自分に与えられた主の使命を、みことばから悟ろうとしないで、自分のために生きることが、人生に問題を引き起こし、私たちの心を虚しくするのです。
イエス様を信じた時点で、私たちは、主のために生きることに、最高の喜びを感じる、新しい
存在に変えられました。主のために生きる恵みを悟ろうとしないで、自分のために生きるとき、問題が起こり、心は虚しくなっていく・・・

しかし、みことばから、主のために生きる恵みを悟り、主と心を一つにして、たましいの救いのために、忠実に働くとき、神の喜びが、私たちを輝かせます。
主のために生きる恵みを悟るとき、主と心を一つにして、人々を愛し、仕えることが喜びとなるのです。

ですから、まず、みことばから、主のみこころを悟る恵みを受け取りましょう。
主のみこころは、たましいの救いです。主は、私の救いを喜んでくださった・・・まず、この恵みを認めて、神様に感謝しましょう。
私を愛し、私を救ってくださった主の恵みを認めて、感謝することから始めましょう。

今週、一週間、神様が、私に、イエス様を信じるという神様のわざを行ってくださった恵みを、いつも感謝しましょう。

神様が、私に恵みを与えてくださったと認めて、感謝するとき、さらに恵みの扉が開かれます。
あの人にでも、みんなにでもなく、神様が私にしてくださった恵みを認めて、感謝するときに、神の恵みの力が、ますます、力強く働くようになります。
神の恵みを認めて、感謝し続けるとき、神の恵みの力が、私を越えて働き、人々にも働くようになります。

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09/08/2026

https://youtu.be/9f9jX02WL0s?list=PLiShuZxCnOyPRqhzNHOHE0YOzaFLyP-X4

Ⅰコリント人への手紙 11章23-26節   『主の死による赦し』

26節
 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 イエス様は、世の終わりに、イエス様が再び来られるまで、イエス様の死を告げ知らせなさいと命じられました。なぜ、イエス様の死を告げ知らせる必要があるのでしょうか・・・それは、イエス様の死が、私たちに、赦しを与えるからです。イエス様の死による赦しが、私たちを罪から自由にするからです。

イエス様が、私のすべての罪のために十字架で、死の罰を受けてくださったことにより、私は赦された・・・この真理を知るときに、私たちは、罪から自由にされます。
ヨハネの福音書 8章32節
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

真理を知り、そして、真理は自由にする・・・すなわち、真理を知ることがなければ、真理によって自由にされることもない・・・イエス様はすべての人の罪のために、死の罰を受けてくださいました。しかし、すべての人が、罪の赦しを受け取っているでしょうか・・・受け取っていません。

すべての人が罪の赦しを受け取るのではなく、イエス様が私の罪のために、十字架で死の罰を受けてくださったという真理を知った人だけが、信仰によって、罪の赦しを受け取ります。
真理を知らなければ、真理は私たちのうちに働くことができません。
ですから、まず、真理を知る必要があります。

真理とは、何でしょうか・・・真理とは、私たちの救い主イエス・キリストであり、イエス様が語られたみことばが、真理です。・・・特に罪の赦しについての真理であれば、イエス様の十字架の死と復活の真理です。

イエス様は、私たちを罪から救う救い主です。
イエス様は、私たちを愛し、私たちの代わりに罪の罰を受けて死ぬことによって、私たちを罪から救ってくださいました。
なぜ、イエス様は、そこまでして、私たちを罪から救わなければならなかったのでしょうか。

罪は、私たちの人生のすべての問題の原因です。
夫婦関係の問題、親子関係の問題、経済的な問題、心の問題、鬱、健康の問題・・・それらすべての問題の原因は、何でしょうか・・・聖書は、罪が原因だと言います。

罪がなかった初めの人アダムは、鬱ではありませんでした。心も体も健康で、貧困に苦しむこともありませんでした。夫婦で愛し合い、喧嘩などしたことがありませんでした。
しかし、罪犯したその直後から、夫婦喧嘩が始まりました。さらには、兄弟が生まれると、お兄ちゃんは、弟を殺してしまう。・・・すべての問題は、罪が入ったことから始まりました。

ですから、罪の問題が解決するとき、すなわち、罪の赦しを受け取るとき、すべての問題が解決していきます。・・・罪の赦しを受け取るとき、罪によって破壊された家族関係が回復していきます。心の健康も、体の健康も回復していきます。

大切なのは、罪の赦しについての真理を知って、そして、真理によって自由にされることです。
聖書で言う、知る、という言葉の意味は、知識的に知ることではありません。実際的に自分で体験して知る・・・ああ、本当にそうだったと、本当にみことばは、私にも実現するんだ、と、そのようにみことばの真理を悟ることです。

かつての私は、真理を知りませんでした。
イエス様を信じた後も、罪の赦しについての真理を知らなかったので・・・私には、神様の前に、汚れていて、ダメなところがある、そのような罪悪感のような思いにつきまとわれていました。

罪を犯すと、ああ、また罪を犯してしまった。悔い改めようと思って、祈ります。
そして、3日間ぐらいはもつことがあっても、また、すぐに同じ罪を犯してしまう。
なぜ、だろう。もう二度としないと決心したのに、悔い改めの祈りが足りなかったのか、涙が足りなかったのか・・・また、一生懸命、悔い改めようとして、祈って、祈って、やっと、涙が出て、「主よ、もう二度と、同じ罪を犯さないように助けてください。」 切実に祈っても、なぜか、また、罪を犯してしまうような不安が拭い去れない・・・なぜでしょうか。 

私の悔い改めの涙の祈りが、私を罪から自由にすることはできないからです。私を罪から自由にすることができるのは、真理です。私が真理を知るときに、真理が私を罪から自由にします。

ある方が、次のように証されていました。
私には、20年以上、ずっとやめることができない罪がありました。

やめよう、やめよう、と、思ってもやめられなくて。神様、ごめんなさい。・・・何度、悔い改めて、祈っても、やめられなくて、罪悪感と罪責感だけが、重く重くのしかかり、罪に対する無力感に押しつぶされそうになっていました。もう、どうやっても罪に勝てない。罪の奴隷にされたまま、自由になることができない・・・もうダメだと、無力さに打ちのめされていました。

この気持ちなんとなく分かるのではないでしょうか。・・・・私は、よく分かります。
罪を犯かしていない時は、気分がよくても、罪を犯した瞬間、ああ、やっぱり私は罪人だ。自分はダメなんだ。もう赦されないかもしれないという、思いになってしまう。
一応、聖書は読んでいたので、すべての罪は赦される、という知識はあるのですが、
私の心が、私を責めます。あなたは、罪を犯した。罪をやめることもできない。罪に打ち負かされた敗北者、罪の奴隷だと。
それで、悔い改めます。涙を流して祈ります。しかし、また、同じ罪を犯す。悔い改めても、悔い改めても、また、同じ罪を犯してしまう・・・そのうち、悔い改めても、涙を流しても、祈っても、賛美しても、何も変わらないじゃないか・・・どうしようもない惨めな罪人・・・ただ、罪悪感だけが、大きくなって、罪から自由にされるどころか、ますます、罪に束縛され、奴隷にされていました。

聖書が、真理のみことばが、罪について何と言っているのか、その真理を知るまでは、何をしても、罪から自由になることはできませんでした。

証しされていた方も同じでした。
20年以上、やめようと思って、やめられなかったことが、一時間ぐらい聖書のメッセージを聞いて、十字架の福音の真理を知ったとき、不思議にやめられたと言います。
その時、イエス様の十字架の死と復活の真理が、その方の心に、ストンと入って来て、素直に信じることができた。
その真理を知ったとき、どんなにやめようとして、絶対にやめられなかった罪が、なぜか、自然と、やる気がしなくなった。頑張って、力を振り絞ってやめよう努力したわけではなく、自然とやめさせてもらったというのです。

その方がしたことは、ただ、メッセージを通して、イエス様の十字架の死と復活の真理を知った・・・それだけでした。イエス様の十字架の死による赦しを受け取ったことにより、罪から自由にされたのです。

聖書で言う、赦しと、私たちの思う許しは、別物です。
私たちの感覚では、許してあげるよと言って、大目に見て、罰を与えることなく、許してあげることが、許しかもしれません。
しかし、聖書の赦しは、罪を大目に見ることは絶対にありません。罪は必ず、罰します。罪に対する正当な罰を受けたから、赦します。これが、聖書の赦しです。

ですから、スピード違反で捕まったときの赦され方に似ています。
スピード違反を犯して、捕まったなら、罰金を払わない限り、赦されません。
警察感の前で、どんなに悔い改めて、涙を流して、ごめんなさいと、泣きついたところで、赦されません。ただ罰金を払うことによって、赦され、自由にされます。

同じように、罪を犯したなら、罪に対する正当な罰である、死の罰を受けなければ、赦されない。しかし、私たち罪人は、死んだら、終わりでした。だからこそ、罪のない神の御子イエス様が、私たちの代わりに、死の罰を受けて、死んでくださいました。

イエス様は、私たちの、すべての罪の罰を受けてくださいました。・・・盗み、妬み、高ぶり、アルコール中毒、スマホ中毒、殺人、赦せない、愛せない、怒り、憎しみ、人間関係を破壊する罪など、すべての罪のために、それも、過去に犯した罪だけでなく・・・現在犯している罪・・・未来に犯すことになる罪・・・すべての罪のために、死の罰を受けてくださいました。
イエス様が、私たちの代わりに死の罰を受けてくださったことにより、私たちの罪は赦されました。・・・この真理を、素直に信じて、イエス様から、罪の赦しを受け取るとき、私たちは、罪から自由にされるのです。
へブル人への手紙 9章14節
 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

死んだ行い・・・これが、やめたくてもやめられない罪の行いです。
死んだ行いから、私たちを離れさせ、自由にするのは、涙を流して悔い改める私たちの行いではありません。・・・イエス様の血です。イエス様の血によって、私たちの良心がきよめられるとき、私たちは死んだ行いから離れ、生ける神に仕えることができる。

イエス様の血とは、イエス様が十字架で流された血・・・すなわち、イエス様の死を意味します。
イエス様の死による赦しという真理が、私たちを死んだ罪の行いから離れさせ、罪から自由にするのです。

真理を知ることが大切です。イエス様の十字架の死と復活の福音の真理を知るとき、私たちは真理によって自由にされ、神に仕えることができる。
十字架の真理は、イエス様が、私の代わりに死んでくださった・・・これが一つの真理です。しかし、それだけではありません。イエス様は、私と一つになって、私として死んでくださった。これが、もう一つの真理です。
ローマ人への手紙 6章5節
 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。

イエス様は、私と一つになって、十字架で死んでくださった・・・ですから、イエス様が死んだとき、私もイエス様と一緒に、罪に対して死にました。

私は罪に対して死んだので、罪との関係は断ち切られました。罪と私は関係が持てなくなりました。もはや、罪の力が私に働くことができなくなった。

この真理を悟るとき、やめられなかった罪、あんなに強力だった罪の誘惑の力が、力を失い、私たちは、罪から自由にされます。

イエス様と一つにされて、罪に対して死んだ私たちは、罪との関係は断ち切られました。その代わりに、イエス様と一緒によみがえらされた私たちは、神様との関係に生きる、永遠のいのちが与えられました。今や、神様のとの関係に生きる私たちのうちには、神の力が働くようになったので、私たちは、生ける神に仕えることができるのです。

これが、イエス様の十字架の死と復活の真理です。大切なのは、真理を知ることです。
この真理を、知識として知るのではなく、体験して知る・・・ああ、本当にそうだったと、本当に私はイエス様と一緒に罪に対して死んだんだ。罪の力は消え失せた。本当に、私は神様に愛されている神様の子ども・・・神様の力が、今も私のうちに働いている・・・体験して知ることです。
ヨハネの福音書 8章32節
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

罪から自由にされると言われても、私は警察に捕まるような犯罪は犯していないと思うかもしれません。聖書が言う罪は、いわゆる犯罪ではなく、的外れと言う意味です。
本来、神様は、私たち人間を愛される存在、祝福された存在、神様の栄光を現す存在としてお造りになりました。
ですから、私たちの本来あるべき姿、的を外していない、的を得た姿とは、
神様に愛され、また、互い愛し合う喜びと祝福に満ちた私たちです。

もし、この的から外れて、痛み、苦しみ、争い、憎しみ、失望、虚しさがあるなら、そこが、的外れの罪に束縛されているところです。

罪の束縛からの解放、罪からの自由は、ただ一つ真理だけです。
私たちが真理を知り、そして、真理が私たちを自由にする。

イエス様は、すべての罪、すなわち、すべての的外れな状態を、的を得た状態に回復するために、十字架で死んでくださった・・・イエス様の死による罪の赦し・・・イエス様の死による、的外れな状態からの回復・・・この真理を知るとき、私たちは、本来あるべき姿に回復されるのです。

本来あるべき姿、神様が私たちのために用意された姿・・・それは、イエス様と同じ、神様の子どもとなること・・・イエス様のように神の愛と力で、互いに愛し合う喜びに生きる神様の子どもです。

そのために必要なのは、イエス様は、私のために、十字架で死んで、よみがえられた・・・この真理を、素直に信じて、受け入れることです。
今、この時間、イエス様の十字架の死は、私の罪のためであったことを認め、感謝しましょう。
私のこの罪のために、イエス様が、もうすでに、死の罰を受けてくださったことにより、罪の赦しが与えられていることを認めて、感謝し、イエス様から、赦しを受け取りましょう。

罪を告白するなら、これから赦されるというのではありません。もうすでに、イエス様が、ご自分の死によって、勝ち取った赦しを、私たちの前に差し出してくださっています。
イエス様の一方的な恵みによって、差し出されている赦しのプレゼントです。ただ、感謝をもって、受け取るだけでいいのです。
イエス様、感謝します。と言って、赦しを受け取るだけいいです。

今のこの時間、イエス様の一方的な恵みによって、与えられる赦しを、感謝しながら、受け取りましょう。

赦しとは、罪に対する死です。イエス様から赦しを受け取るなら、やめられない罪から、完全に自由にされます。

また、赦しとは、的を外した状態からの回復です。
イエス様と一つにされていないところ、愛せない、赦せない、何で自分はこうなんだろうか・・・弱さ、足りなさ・・・そこに、イエス様から赦しを受け取るとき、本来あるべき姿が回復され、イエス様のように、愛する力をもって、互いに愛し合って生きるように回復されます。

今、この時間、
私のこのところが、的から外れています。イエス様、的から外れてしまった私の罪のために、イエス様は、私と一つになって死んでくださった・・・よみがえられたイエス様は、今も、私のうちに生きておられる・・・信じます。イエス様、今や、私のうちに生きておられる、イエス様のいのちの力によって、私は変えられたことを、信じ、感謝します。
私は、このところにも、イエス様の死による赦しと、復活によるいのちを受け取ります。

そのように、今、一番、赦しが必要なところに、回復が必要なところに、赦しの恵みを受け取る時間を持ちましょう。

https://youtu.be/SkxFG8WAXjw?list=PLiShuZxCnOyPRqhzNHOHE0YOzaFLyP-X4箴言 29章18節   『主のビジョンを持つ』18節  幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、み...
09/08/2026

https://youtu.be/SkxFG8WAXjw?list=PLiShuZxCnOyPRqhzNHOHE0YOzaFLyP-X4

箴言 29章18節   『主のビジョンを持つ』

18節
  幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。

 幻とは、主のビジョンです。神様が、私たちのために計画された、神様のビジョンです。
 主のビジョンがない民は、それぞれ、これが私の夢、これが私の願い、と言って、好き勝手にふるまって、一致しません。

同じように、主のビジョンがない教会は一致しません。しかし、主のビジョンが与えられるとき、教会は一致します。
主のビジョンが与えられる前までは、
それぞれが、これが神のみこころだと思う、これが正しい良いことだと思うと言って、一致することが難しいのですが、
教会のかしらであるイエス様のビジョンが、明確に与えられるとき、教会は一つになります。

なぜ、宣教チームは、一つになって、日本に来ることができるのか・・・日本に対するイエス様のビジョンを、自分のビジョンとして受け取ったからです。
日本に来るために、多くの時間、労力、経済・・・さまざまな犠牲がありました・・・しかし、彼らは、それらの犠牲を、愛の犠牲として、喜んで、惜しみなくささげています・・・それは、彼らが、イエス様のビジョンを自分のビジョンとしたからです。

そのように、ビジョンによって、一つになるのは、宣教チームや、教会だけではありません。
家族においても、イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うというビジョンを持つなら、家族は一つになります。
家族が一致して、愛し合うというゴールに向かって生活するようになります。
それまでは、それぞれ仕事を中心、受験勉強を中心、自分の都合を中心にして、食べたいときにバラバラに食べていたとしても、互いに愛し合うビジョンを持つとき、自分の都合を下ろして、愛し合うための時間を持つために、共に集まって食事をすることを大切にし始めます。

教会は、神の愛で、互いに愛し合う家族です。イエス様が、十字架で、いのちを捨てた愛によって、私たちは神様の家族として、生まれ変わりました。・・・いのちを与えるほどの愛、イエス様の愛の絆で結ばれた神の家族・・・それが、私たち教会です。

ですから、皆さんの隣にいる兄弟姉妹は、神の愛で、互いに愛し合い、信頼し合う絆で結ばれた、愛すべき家族です。
今、互いに、あなたと私は、イエス様の愛で、愛し合う家族ですと、祝福し合いましょう。

 私たち神の家族は、神の愛によって一つにされたので、一人が喜ぶと、みんなで喜びます。一人が悲しむと、みんなで悲しみます・・・しかし、それだけではありません。
 神の愛で一つにされたということの意味は、一人が祝福されるなら、家族全員が祝福される・・・すなわち、一人が癒やしを体験したなら、他の家族も、癒やしを体験します。
 一人が苦しみから救われるなら、他の家族も苦しみから救われます。
 神の家族である私たち教会は、キリストのからだです。一つのからだなので、一部分だけが、癒されて、体全体が癒されないことはありません。
右手だけが祝福されて、他の部分が呪われるということもありません。
体のどこかが祝福されるなら、キリストのからだ全体が、私たちすべてが祝福されます。・・・これが、本来あるべき、教会の姿です・・・一つにされた、私たち教会の姿です。

 一つになることが大切です。教会を一つにするのは、主のビジョンです。教会のかしらであるイエス様のビジョンを、私たちのビジョンとするとき、私たちは、神の愛によって、一つにされます。
 
 イエス様のビジョンを、自分のビジョンとするとき、私たちの生き方は、ブレなくなります。イエス様の生き方がブレなかったように、私たちの生き方もブレなくなります。

 イエス様のビジョンとは、神の愛で、人を愛することです。そして、究極の愛こそ、たましいの救いです。イエス様は、いつも、たましいの救いというビジョンをもって生きていました。
 イエス様は、たましいの救いをゴールにして、一つ一つのことをしていました。

 イエス様のようにビジョンを持って生きることは、ナビに、目的地をセットするようなものです。
 たとえば、ディズニーランドを目的地として、ナビにセットするなら、右に曲がる目的は、ディズニーランドに行くため、まっすぐに進むのもディズニーランドに行くため、赤信号で止まるのは、愛をゴールとしているので、誰もケガすることなく、ケガさせることもなく、安全に、楽しく、ディズニーランドに行くため・・・すべてのことに目的と意味が与えられます。

 私たちが、イエス様と同じビジョンを持ち、たましいの救いをゴールにするなら、私たちは、今日、行う、一つ一つのこと、すべてに目的と意味を持って、行うことができるようになります。
 
 洗濯物がメチャクチャたまって、もういい加減、洗濯しなければならない・・・ビジョンがなければ、大変なだけかもしれません。
しかし、たましいの救いをゴールにするとき、きれいな清潔な服で、みんなのところに出て行って、福音を伝えるために、洗濯します。・・・洗濯することも、たましいの救いのためにするようになります。
 食事をすることも、家族で愛し合って食事をし、家族が力と励ましを受け、心を満たされて、イエス様を伝えるために、出て行くことができるようにと、たましいの救いのために、食事をするようになります。
 学校では、短い靴下をはかなければならない、しかし、子どもは長い靴下をはきたいというとき、学校のルールだから、短い靴下をはきなさいというのではなく、学校の先生を愛するために、先生の言う通りに短い靴下を選ぼうと・・・靴下を選ぶことも、愛するため、たましいの救いのために、するようになります。
ビジョンを持つ人は、ビジョンと言うゴールに向かって、すべてのことをするようになります。愛するために、たましいの救いのために、こういう場合は、こうする。しかし、こういう場合は、こうしない。そのように、何をするにも、目的と意味を見つけることができます。

 意味のないこと、無駄な時間、むなしさが、なくなっていきます。
どんな些細なことでも、私の人生のすべてのことに意味がある・・・今まで、ただ、こうしなければならない。ああしなければならない、意味が分からなくて、虚しかった、苦しかったことにさえ、ああ、この苦しみは、この人の救いのためだった・・・私の、こんな小さな犠牲さえも、イエス様は喜んでくださる・・・すべてのことに生きがいを感じるようになっていきます。
 そのために必要なのは、主のビジョンです。主からの幻を受け取る必要があります。
18節
  幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。

 幻がなければ、主のビジョンがなければ、私たちは好き勝手に生きるようになります・・・しかし、好き勝手に、自分の思いのまま生きようとしているのに、なぜか、自分の思い通りに上手く行かない・・・こんなはずじゃなかった・・・なぜ、私ばかり・・・挫折、失望、むなしさを経験します。
 何故でしょうか・・・主のビジョンを、自分のビジョンとしていないからです。

自分の罪のために、滅びて当然だった私を愛し、救ってくださったイエス様のビジョン、神の愛のビジョンを、自分のビジョンとするなら・・・イエス様と一緒に、神の愛をゴールにして生きるなら・・・たましいの救いをゴールにして、イエス様と一緒に生きるなら、イエス様の喜びが私の喜びになります。

イエス様のビジョンを、自分のビジョンとする人は、幸いな人です。・・・どうすれば、イエス様のビジョンを、自分のビジョンとすることができるでしょうか。
18節
  幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。

幻がなければ、民は好き勝手に生きて、不幸になります・・・しかし、幻があれば、幸いである・・・とは言わず、みおしえを守る者は幸いであると、書かれているのは、みおしえを守る者に、幻が与えられるからです・・・みおしえを守る者、すなわち、主のみことばを心にとどめる者に、主のビジョンが与えられます。

ですから、私たちは、イエス様のビジョンを受け取るために、イエス様のみことばを心にとどめましょう。
イエス様は、天に昇られるとき、たましいの救いという、イエス様のビジョンを、弟子たちに与えるために、次のみことばを語られました。
マタイの福音書 28章18-20節
 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
  わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

このみことばがイエス様のビジョンです。しかし、このみことばを心にとどめるなら、イエス様のビジョンが与えられる・・・しかし、みことばを心にとどめるとは、ただ、暗記して覚えることではありません。
かつて私は、このみことばを暗記しましたが、イエス様のビジョンを私のビジョンとすることができませんでした。イエス様のビジョンを、自分のビジョンとするためには、ただ暗記するだけでは、足りなかったのです。私に必要だったのは、イエス様との親密な愛の交わりです。

皆さんに質問します。
知らないおじさんから言われた言葉と、愛する家族から言われるた言葉なら、どちらの言葉の方が、皆さんに影響を与える力があるでしょうか。

私のことをよく知っていて、私もその人のことをよく知っている、信頼できる人から言われる言葉と、初対面で、もう二度と会わないかもしれない人から言われる言葉とでは、どちらの言葉の方が、私にとって、意味があり、力があるでしょうか。

いのちの、ことばと言うのは、愛し合い、信頼し合う関係の中で、力強く働きます。
もちろん、人を殺すことば、否定し、批判し、傷つける言葉は、関係がなくても働きます。
しかし、人を生かすことば、私のたましいを生き返らせるいのちのことばは、信頼し合う関係がなければ働きません。
いのちのことばは、愛し合い、信頼し合う関係の中で、力強く働き、私に、希望、喜び、平安、いのちを与えます。

かつての私は、暗記して、イエス様の言葉は、よく知ってはいましたが・・・イエス様というお方は、ほとんど知りませんでした。・・・イエス様との親密な愛の交わりがなかったからです。

イエス様のビジョンを、私のビジョンとして受け取るためには、イエス様と愛し合い、信頼し合う関係が必要です。私に足りなかったのは、イエス様との親密な愛の交わりでした。すなわち、祈りの交わりです。
Ⅰコリント人への手紙 6章17節
しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

祈りによって、主と交わる者は、主と一つ霊になる・・・主と心が一つになるということです・・・主と一つ霊になるなら、主の願いが、私の願いとなる・・・主と一つ霊になるなら、たましいの救いと言う主のビジョンが、私のビジョンとなり、たましいを愛する主の愛が、私の愛となります。
だからこそ、主と一つ霊になるための、主との祈りの交わりの時間が必要です。
イエス様も、たましいの救いという父なる神様のビジョンに生きるために、祈りによって、父なる神様と交わる時間を、何よりも大切にしていました。

そのイエス様の生き方を、誰よりも間近で見ていたのは、弟子たちでした。
弟子たちが、イエス様に教えてくださいとお願いしたことは、二つのことだけです。
一つは、みことばを教えてください。そして、もう一つが、お祈りを教えてくださいでした。

弟子たちは、イエス様に、病気の癒し方を教えてくださいとはお願いしませんでした。
悪霊の追い出し方、死人を生き返らせ方、メッセージの仕方、どうすれば、たましいは救われるのか、リバイバルの起こし方を教えてくださいとは、お願いしませんでした。

何故でしょうか・・・イエス様がなさった数々の素晴らしい奇跡、癒し、救いのみわざ・・・そのすべての力の秘密が、イエス様の祈りにあると、気づいたからです。
ルカの福音書 11章1節
 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

イエスはある場所で祈っておられた・・・この時も、イエス様は祈っています。父なる神様との祈りの交わりを何よりも大切にし、優先しています。
もちろん、イエス様は、福音を宣べ伝えることも大切にされました。しかし、イエス様、イエス様、と、イエス様のもとに集まって来た人々に福音を宣べ伝えるよりも、人々を解散させてまで、祈りによる神様との交わりを大切にされることが、よくありました。

寝る暇も食べる暇もないほど忙しい時も、イエス様は、祈りの時間を選びました。・・・祈りによる神様との交わりが、食べ物以上に、イエス様に力を与えました。
休むこと以上に、父なる神様との祈りの交わりが、イエス様に癒しと力を与えました。

誰よりも間近で、イエス様の生き方を見ていた、弟子たちには、それがよく分かったのです。
・・・だからこそ、弟子たちは、何よりもまず、お祈りを教えてくださいと、お願いしました。

 そのように、イエス様から、祈りを教えられた弟子たちが、どのように祈っていたのかが・・・使徒の働きから、分かります。・・・午後三時の祈りの時間に・・・とあります・・・弟子たちは、イエス様のように、時間を決めて祈っていました。

 時間を決めて、祈ることは、簡単ではありません・・・この時間に祈ると決めると、なぜか、その時間が忙しくなる。その時間になると、急にラインが来る。お客さんが来る。問題が起こる。
・・・ああ、洗濯物がたまっている・・・予報では、明日から、しばらく雨が続くから、洗濯するチャンスは、今しかない、という時間が、祈りの時間だったりします。
しかし、弟子たちは、どんなことがあっても、祈りの時間を守っていました。それが、イエス様と愛し合い信頼し合う関係を保つ秘訣でした。
  祈りの時間は、イエス様とのデートの時間のようなものです。

もし、つき合っている男女が、約束をしたデートの時間に、一時間以上遅れて来て・・・その理由が、「いやぁ、洗濯物が溜まっていて・・・」など、と、言うなら、その二人は、次の日には別れているかもしれません。
ディズニーランドで、デートの約束をしました。ディズニーランドに到着してから、5分以内に、相手が帰ってしまったら、その二人の関係はよくなるでしょうか。

祈り始めて、5分以内に祈りを終える、眠りに陥ってしまう・・・それは、デートに行って、5分以内に帰ってしまうようなものです。
もちろん、祈ったことのない人が、5分でも祈り始めるなら、主はこの上なく喜んでくださいます。

しかし、もっと主と愛し合い、信頼し合う関係を築いていきたいと願うなら、祈りの交わりの時間は、もっと必要になってきます。

今週、私たちは、信仰の一歩を踏み出しましょう。
いきなり、大ジャンプをする必要はありません。
祈りの交わりの時間を持っていなかったなら、まずは、5分からでもいいです。
すでに5分祈っている、それなら、10分、20分、30分・・・30分が大きな壁となります。
30分を越えると、突破が起こってきます。
祈りの中で、御霊に逆らう、肉の思いがそぎ落とされて、祈りの交わりが、心の喜び、楽しみになっていきます。

イエス様のように、また、弟子たちのように、祈りの交わりの時間に、ビジョンを受けることを、主イエスの御名によって、祝福します。

主との祈りの交わりの時間が、私たちすべての心の喜び、楽しみとなり、
癒しと回復、力と愛を受ける時間、恵みに満たされる時間となることを、主イエスの御名によって、祝福します。

【松戸栄光教会HP】https://mg-church.net【礼拝案内】https://mg-church.net/guid...

https://youtu.be/NvEGTRfSo30?list=PLiShuZxCnOyPRqhzNHOHE0YOzaFLyP-X4Ⅰヨハネの手紙 4章7-11節  『人生を変える愛』 この世界には、いろんな形の愛があります。 「愛して...
09/08/2026

https://youtu.be/NvEGTRfSo30?list=PLiShuZxCnOyPRqhzNHOHE0YOzaFLyP-X4

Ⅰヨハネの手紙 4章7-11節  『人生を変える愛』

 この世界には、いろんな形の愛があります。
 「愛しているよ」と言ったり、何か物をプレゼントしたり、何かをしてあげたり・・・いろんな愛し方があります。

 私たちも、誰かに愛されて、嬉しくなったり、心が満たされたことがあると思います。 
しかし、愛されることによって、人生が変わった・・・生き方が変わってしまうほどの大きな愛で、愛されたことは、あるでしょうか。

 聖書が示している愛とは、一時的に心を満たす力しかない愛ではなく、人生を変える力に満ちた愛です。
9節
  神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

神の愛が私たちに示された・・・・神の愛は、私たちの人生を変える力に満ちています。
その力は、人生を少しと良くするぐらいの力ではなく、いのちを得させるほどの力です。

この世には、殺す力はあっても、死んだ者をよみがえらせるいのちの力はありません。
生きていても、苦しいだけ、死んだ方がマシ・・・絶望しかない人生に、いのちを与え、希望と喜びを与える力が、神の愛には、あります。
いのちを与える神の愛とは、どんな愛でしょうか?
10節
  私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 ここに愛がある・・・これが、聖書が教える神の愛の定義です・・・私たちのために十字架でいのちをささげる愛・・・愛する者のために、喜んで犠牲を払う愛、それが神の愛です。

 愛の大きさとは、愛する者のために、どれほど大きな犠牲をささげることができるのか・・・それが愛の大きさです。
 神様は、あなたを愛するゆえに、いのちさえも、喜んで犠牲にしました。

友人や家族、夫婦との愛の関係が、どれほど強い絆で結ばれているのか・・・それは、その人を愛するゆえに、どのぐらいの犠牲をささげることができるかによって、試されるのです。

愛する人に、プレゼントを買ってあげたり、マッサージしてあげたり、何かしら、その人が喜ぶことをしてあげる・・・それらの愛も、愛ではあるかもしれません。・・・しかし、それらの愛に、喜びの犠牲が伴っているでしょうか。
イエス様は、私たちのために、喜んで、いのちまでささげました。
死ぬほどの苦しみの中でも、イエス様は、私たちを愛するゆえに、喜んで犠牲をささげました。

犠牲をささげるときには、痛みが伴います。しかし、愛するゆえに、その痛みを越えた、喜びがあります。痛みの中でも、喜んで犠牲をささげる・・・それが、神の愛です。

全世界を造られた、何でもできる力ある神様にとって、私たちに富を与えたり、病気を癒したり、私たちの人生の問題を解決することは、簡単なことです。・・・何の犠牲を払わなくても、できることです。
神様が、私たちに何か良いことをしてくださったとしても、そこに喜びの犠牲がなければ、神様にとっては、愛ではないというのです。

しかし、私たちの罪を赦すことだけは、犠牲なしには、絶対にできないことでした。
罪を犯した人は、必ず、死ななければなりません。
すべての人は、必ず、死にます。すべての人に罪があるからです。

私たちの罪は、死ぬことによってしか、償うことができません。・・・罪のない誰かが、私たちの代わりに、死んで償わなければ、罪の赦しを与えることはできない。

だからこそ、神様は、私たちに罪の赦しを与えるために、神の御子イエス様を遣わしてくださいました。 
 イエス様は、私たちを愛するゆえに、十字架の苦しみを耐え忍び、喜んでいのちまでささげてくださいました。・・・ここに愛があります。

 愛するとは、喜びの犠牲をささげることです。
 子どもを産んで、お母さんになられた方は、分かるのではないでしょうか。
 
 子どもが生まれたことによって、一人の女性が、お母さんに変わりました。
 初めて見た、会ったばかりの子どもなのに、考えられないほどの愛おしさ、大きな喜びを感じます。その子のためなら、喜んで、自分の時間、労力、経済をささげます。

彼女を変えたのは、愛の犠牲です。産みの苦しみは、人が人のためにささげる犠牲の中でも、大きな犠牲の一つです。
彼女が、子どものために大きな犠牲をささげたことによって、彼女のうちに、子どもに対する愛と喜びが与えられ、さらには、子どものためなら、喜んで自分の生き方を変える愛の力が働くようになりました。

私たちは、ただ、愛されているだけでは、そこまで、変わることはできません。
ただ愛されているだけなら・・・神様は、神様を信じていない人も、すべての人を愛しています。神様は、実に、そのひとり子、イエス様を与えるほどに、すべての人を愛しています。
しかし、すべての人が、その神様の愛を信じ、受け入れるわけではありません。
神様の愛が、私たちにとどまるためには、神様に愛されるだけではなく、愛し合う必要があります。神様と愛し合うというとき、神様が私たちを愛してくださったように、私たちも神様を愛する。

神様が、私たちのために喜んで犠牲をささげて、愛してくださったように、
私たちも、神様のために喜んで犠牲をささげて、愛する・・・そのように、愛し合う関係に、神様の愛がとどまり、愛の力が、私たちに働き始めます。

私たちが、喜びの犠牲を伴う愛で、愛し始めるとき、愛の力が、私たちに働き始め、私たちは変えられていきます。

再来週の主日に、スジソンハン牧者教会から宣教チームが来られます。
宣教チームとの、ズームでの合同の祈祷会に参加された方は、日本のために、また、私たちのために、涙を流して祈る、宣教チームの熱さを、感じられたと思います。

なぜ、彼らはそこまで、日本のたましいのために熱く祈ることができるのでしょうか。
彼らは、今、喜びの犠牲をささげながら、日本に来る準備をしています。

暇だから、経済的に余裕があるから、日本に来るわけではありません。
私たちと同じように、彼らにも、仕事があり、家庭があり、毎日の生活の忙しさがあります。

たましいを愛するというなら、近くにいる人を愛するだけでも、良かったかもしれません。なぜ、わざわざ、日本まで来る必要があるのでしょうか。

彼らの主が、日本を愛しているからです。
彼らの主が、十字架でいのちを捨てるほど、日本を愛しているから・・・主が、日本のたましいの救いのために涙を流して祈っておられるから・・・彼らは、主と共に涙を流し、主の願いを、自分の願いとして、日本に来ることを選びました。

主の願いを自分の願いとして祈る、彼らの心に、主の愛が注がれました。
喜びの犠牲を伴う主の愛が注がれた彼らは、時間、労力、経済、多くの犠牲を、喜んでささげながら、日本に来る準備をしています。

喜びの犠牲が伴う主の愛が、彼らを突き動かす力です。その愛は、彼らが、主の願いを自分の願いとして祈る祈りの中で、主が、彼らの心に注いでくださいました。

私たちの主と、彼らの主は同じ主です。私たちも、宣教チームと一緒に、私たちの主の願いを、自分の願いとして、日本のたましいの救いのために、私たち松戸栄光教会のリバイバルのために、祈りましょう。

何よりも、イエス様と心を一つにするために祈る時間を、喜びの犠牲として、ささげましょう。 
イエス様は、今もたましいの救いのために、心を燃やして祈っておられます。

イエス様の願いを、私たちの願いとして祈る時間を、喜びの犠牲として、ささげるとき、主は、私たちの心に、愛を注いでくださいます。
10-11節
  私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

神がこれほどまでに愛してくださったのなら、私たちも互いに愛し合うべきです・・・と聞いても、神がこれほどまでに愛してくださったというところが、抜け落ちて、・・・互いに愛し合うべきだというところだけが残ることがあります。
そうなると・・・ああ、愛し合わなければならないなんて・・・愛のない私には無理だと・・・愛することが、喜びの犠牲ではなくなり、重荷になってしまうことがあります。

だからこそ、神がこれほどまでに私を愛してくださった・・・ここに、とどまる必要があります。
神がこれほどまでに愛してくださったとは、10節、ここに愛がある・・・十字架の愛です。

イエス様は、いのちを与えるほど、私を愛してくださっている・・・私は今も、イエス様に愛されている・・・この愛に、とどまるとき、愛することが、喜びの犠牲になります。

この愛に、とどまるために、みことばを思い巡らして、祈るための時間をささげるのです。
みことばにとどまって祈る私たちに、イエス様が近づいて来てくださり、たましいの救いのために出て行く、力と愛を与えてくださいます。
マタイの福音書 28章18-20節
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
 
 イエス様の願いは、あらゆる国の人々を弟子とすること、すなわち、たましいの救いです。
・・・そのために、まず、イエス様は、私たちに近づいて来て、権威を、すなわち、力と愛を与えてくださる。

力と愛を与えた上で、イエス様は、たましいの救いのために出て行きなさいと言って、私たちを遣わしてくださるのです。
 宣教チームは、みことばにとどまる祈りの中で、イエス様から日本を愛する、力と愛を受けました。そして、今、たましいの救いのために、韓国から日本に出て行こうとしています。
 私たちも、宣教チームのように、みことばにとどまって祈り、力と愛を受け取りましょう。

みことばにとどまって祈る、私たちに近づいて来てくださるイエス様は、私たちに力と愛を与えて、たましいの救いのために、遣わしてくださいます。
  イエス様から力と愛を受け取るとき、私たちは、たましいの救いのために、出て行くことができる・・・皆さん、出て行くことについて、難しく考えないでください。

いつも通りの生活から、一歩踏み出して、たましいの救いのために、出て行くとき、
主は、その私たちの従順とともに働いてくださり、出会うべき人に出会わせてくださいます。
主は、会話にも介入してくださり、私たちが自然と、イエス様について話すように導いてくださり、その人にイエス様に対する関心を抱かせ、たましいの救いに導いてくださいます。

たましいの救いは、主がなさることです。私たちは、ただ、主を愛するゆえに、主が一番、願っている、たましいの救いのために、出て行くという、主への愛の従順をささげるだけです。
たましいの救いのために、出て行くという、喜びの犠牲を、主にささげるとき、主は、私たちと共に働くことができる。

たましいの救いのために出て行く、従順において、大切なのは、私たちの心です。
いつも通りの生活をするとしても、たましいの救いという目的をもって、生活の場に出て行くなら、それは、愛の犠牲として、主に受け入れられます。

いつも通り家族と過ごすのであっても、家族の救いという、主と同じ目的をもって、家族のところに出て行くなら、それは、主に喜ばれる、愛の犠牲です。
たましいの救いという主の切なる願いを、自分の願いとして、会社に出て行くのであれば、それは、主に喜ばれる愛の犠牲です。

主は、私たちの心を見ます。
生活自体はいつもと同じであったとしても、私たちの心が変わるとき、主が私たちの生活に介入して、働くことができるようになります。
たましいの救いを願われる主の願いを、自分の願いとして、主と心を一つにして、生活するとき、主は、私たちの生活に介入して、働くことができるようになります。

ですから、まず、私たちは、主の願いを、自分の願いとするために、みことばにとどまる祈りの時間を、ささげましょう。
私たちが、主にささげる前に、まず、主が私たちのために、十字架でいのちを、すべてをささげてくださいました。
まず、主が私を愛してくださった。いのちを与えるほど、私は、主に愛されている・・・主の愛にとどまるために、主と交わるための祈りの時間を、喜びの犠牲として、主にささげましょう。

【松戸栄光教会HP】https://mg-church.net【礼拝案内】https://mg-church.net/guid...

https://youtu.be/WN9zeB2Omy8?list=PLiShuZxCnOyPRqhzNHOHE0YOzaFLyP-X4エペソ人への手紙 5:8-14 『心を照らす光』8節 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光と...
09/08/2026

https://youtu.be/WN9zeB2Omy8?list=PLiShuZxCnOyPRqhzNHOHE0YOzaFLyP-X4

エペソ人への手紙 5:8-14 『心を照らす光』

8節
 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。

 あなたがたは以前は闇でした・・・これは、心の状態です。
 心が闇なら、ちょっとしたことで、イライラしたり、失望したりします。
 しかし、心が明るいと、困難の中でも、喜ぶことができます。
 
闇は光に打ち勝つことはできません。
部屋が暗くても、明かりをつければ、部屋は明るくなります。

いや、私の家では、光の力よりも、闇の力が強くて、明かりをつけても、暗いままですということは、ありません。・・・光があるなら、闇は消え去ります。

光があるかないかで、明るいか、暗いかが決まります。闇の力がどんなに強くでも関係ありません。光があれば、明るいのです。

同じように、心に光があるなら、人生が明るくなります。
主イエスを信じて、受け入れた私たちの心の中で、イエス様が希望の光となってくださいました。私たちは、今も、私たちのうちにおられるイエス様によって、光となりました。
絶望の闇がどんなに強くても関係ありません。光であるイエス様がおられるなら、私たちの人生全体が明るいのです。

私たちを世の光として輝かせてくださるのは、イエス様です。
現実が暗くなれば、なるほど、私たちは光輝き、私たちを輝かせてくださるイエス様が素晴らしいお方であることを証しする光の子どもとされました。

ですから、多くの人が絶望する困難の中でも、主イエスは、私たちを、光の子どもとして、希望に輝かせてくださるはずなのですが・・・
なぜか、虚しさを感じたり、心配、悩み、イライラして、心が闇のように感じることがあるかもしれません。

私たちは、心の目で、何を見るかによって、心を光にすることも選べれば、心を闇にすることも選べます。
ルカの福音書 11章34-35節
 からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。
 ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。
 あなたの目が健やかなら全身も明るくなる・・・目が健康であるとは、見るべきものが見えることです。・・・見るべきものとは、私たちの光であるイエス様です。
イエス様ご自身が私たちの光であり、また、私たちを光としてくださったお方です。

心の目で、イエス様を見つめるとき、私たちの心には光が満ち、私たちの人生全体が明るくなります。しかし、光であるイエス様から目を離すと、人生全体が暗くなります。
へブル人への手紙 12章2節
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

 イエス様から目を離さないでいなさい・・・どうすれば、イエス様から目を離さないで、心の目でイエス様を見つめていることができるでしょうか?
 イエス様を賛美することです。

ある婦人は、環境の変化についていくことができず、体を壊し、心も病み、うつになりました。
彼女は、良くなろうと、祈ったり、いろいろと試しました。
ある時、「獄中からの賛美」という本を読んで感動し、
私も、パウロやシラスのように苦しみの中でも賛美し、素晴らしい神様の恵みを体験しようと、今まで以上に、毎日、祈り、賛美しました。

そのように良くなろうとする彼女の心に、いつも、暗い思いが囁きました。
「そんなに頑張っても、何も変わらない。もう諦めよう。もう生きていても仕方がない。死んだ方がマシだ」・・・悪魔のささやきでした。

彼女は、その暗い思いに聞くのではなく、みことばを聞くことを選びました。
「私は、私のうちにおられるイエス様とともに、この闇と戦う」
・・・彼女は祈りと賛美によって、いつも心にイエス様を思い、イエス様のみことばを思うことによって、闇の思いと戦う決心をしました。

そう決心して、祈りと賛美によって、イエス様から目を離さない生活を続けていくうちに、この戦いは、私だけの戦いではなく、私と同じように闇に苦しんでいる人々のための戦いでもある。祈りと賛美によって、人生が変えられたことを、私は証しするようになる。・・・そのような思いが与えられました。

しかし、そのような思いが与えられた後も、すぐには癒されませんでした。・・・本当に、そんなことが起こるだろうか、疑い、諦めてしまいそうになりながら、それでも、祈りと賛美によって、イエス様を思い、イエス様のみことばを思いました。
すると、彼女のうちにおられたイエス様が、彼女を励ましてくださったので、彼女は最後まで戦い抜くことができました。
・・・完全に癒されるのに、実に、二年以上かかりました・・・しかし、そのことさえも、神様はすべてを働かせて益としてくださいました。
彼女には息子がいました。息子は、母の戦う姿を見ていました。
祈りと賛美によって、いつもイエス様を思って、闇の思いと戦う、母の姿を見ていました。

彼の人生は、母の賛美の姿によって変えられました。後になって、彼は、牧師となり、世界中で歌われる賛美を生み出すようになりました。

もし 彼女が諦めていたなら、「どうせ、何も変わらない。頑張っても無駄・・・」 闇の思いに耳を傾けて、諦めていたなら、息子の人生は変えられませんでした。
しかし、彼女が、心の目で見つめることを選んだ、イエス様が彼女を助けてくださったので、彼女は最後まで戦うことができました。

私たちも、神様を求め始めるとき、なぜか、問題や困難が起こることがあります。そのとき、だれか心にさややきます。
「ほら、神様、信じても意味がない。もうやめよう。」・・・悪魔のささやきです。

私たちは、心にささやく思いに聞くのではなく、みことばを聞くことを選ぶとき、心のうちにおられるイエス様が、私たちを励ましてくださり、私たちの心を愛で満たしてくださいます。

闇の思いを思い続けることをやめて、光であるイエス様のみことばを思うとき、イエス様の思いが、心に与えられて、励ましを受けます。
ですから、心に闇を思うのではなく、光であるイエス様を思うために、イエス様を賛美し、感謝することを選びましょう。
10節
 何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。

イエス様を賛美し、感謝をささげることを選ぶとき、私たちの心は、イエス様に向きます。
私たちの心がイエス様に向くとき、イエス様の思いが伝わってきます。イエス様は何を喜ばれるのかが、伝わってきます。
ヨハネ10章27節
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分ける。主イエスを信じた、私たちはイエス様の羊です。
私たちは、私たちのうちにおられるイエス様の声を聞き分けて、イエス様について行くことができると、イエス様が言われました。
イエス様は、ご自分が語られたように、私たちにしてくださる・・・私たちにイエス様の御声を聞き分けさせてくださるのはイエス様・・・また、聞き分けたイエス様の思いに従うことができるようにしてくださるのも、イエス様です。
ある姉妹は、教会の特別な伝道集会に友だちを誘いました。
しかし、誘っていた友だちが、突然、来れなくなりました。
彼女は、祈りました。
「神様、どうしたらいいですか。私は一人で行きたくありません。あなたが喜ばれることをしたい。たましいの救いのために、誰かを誘って行きたいです」
そのような思いで、祈っていると、
彼女の心に 「お隣さんを誘いなさい」という思いが与えられました。
彼女は一瞬、「まさか、お隣さんが来るわけがない」と思いましたが、
与えられた思いに従って、お隣さんを誘いました。
すると、そのお隣さんは、お孫さんも一緒に連れてきて、その日、二人とも救われました。

彼女は、このように証ししています。
「神様は、お祈りしていると、私の心に思いを与えてくださいます。・・・「これをしなさい」「これはやめなさい」・・・ささやくような、小さな思いですが、その思いに従うと、平安な思いになります。
不思議です。 「これは、ちょっと無理」と思うことでも、従ってみると、従う力も与えられます。
その思いに従うと、神様は、思いも寄らなかったような素晴らしいことをしてくださいます。」

私たちの心には、さまざまな思いがあります。
従うべき、良い思いもあれば、従うべきではない悪い思いもあります。
ですから、私たちの心におられるイエス様が与えてくださる思いを見分ける必要があります。

どうすれば、イエス様の思いを見分けることができるでしょうか。
みことばを心に蓄えることです。
どんなことばを心に蓄えるかによって、心に聞こえて来る思いの大きさが変わって来ます。

私たちの心には、自分が見聞きしたこと、心で考えたことが、蓄えられて行きます。
たとえば、スポーツが好きで、普段からスポーツを見聞きする人は、心に、スポーツのことばが蓄えられるので、誰かがスポーツについて話していると、よく聞こえて来ます。

また、忘れてしまいたい辛い出来事であっても、考えたくなくても、考えてしまうと、その思いが、心に蓄えられ、似たような出来ごとが起こると、過敏に反応します。

ですから、自分が見聞きし、心で考えることによって、その思いを、心に蓄えれば、蓄えるほど、その思いの声が大きく聞こえるようになります。

私たちは、聖書のみことば、すなわち、神のことばを聞いて、いつも、イエス様を心に思うことを選びましょう。
へブル人への手紙 4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
神のことばは、他のどの言葉とも、違って生きています。
神のことばは、生きているので、私たちが神のことばを聞こうとすると、神のことばが私たちに語りかけ、私たちが聞くのを助けてくださいます。

しかし、他の言葉は、生きてないので、私たちが聞くのを助けることはできません。
生きている神のことばだけが、私たちが聞こうとするとき、語りかけてくださり、聞くのを助けてくれる・・・神のことばとは、イエス様です。

イエス様は、神のことばであり、すべての人を照らすまことの光です。
私たちは、イエス様を信じて、心に受け入れました。
生きている神のことばであるイエス様は、私たちのうちにおられます。
すべての人を照らすまことの光であるイエス様が、私たちのうちにおられます。

イエス様は、私たちの心におられるので、私たちが、イエス様を思い、神のことばを聞こうとするなら、イエス様は、私たちの心を照らしてくださいます。
13-14節
 しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。
 明らかにされるものはみな光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」

日々の生活の中で、イエス様を思い、神のことばを聞くことを選ぶとき、私たちの心に語りかける、イエス様の声が大きくなっていきます。
イエス様が、私たちを助けてくださいます。イエス様が、私たちの耳を開いてくださり、私たちがイエス様の御声を聞き分けて、イエス様について行くことができるようにしてくださいます。

ですから、今も生きておられ、私たちのうちにおられるイエス様に助けてもらいながら、神のことばを聞いて、祈りましょう。

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