同志社教会

同志社教会 【牧師】菅根 信彦(すがね・のぶひこ) 【礼拝】毎週日曜10:30〜 【会堂】同志社栄光館ファウラーチャペル(同志社今出川キャンパスの別のチャペルで礼拝を行う場合もあります)

【重要】同志社教会では、新型コロナウイルス感染拡大防止の措置を講じつつ、教会員を中心に、対面での主日(日曜)礼拝を継続するとともに、オンラインで礼拝にご参加いただける方法を備えています。こどもの教会や諸集会も概ね、同様の対応を行なっています。当教会がはじめての方や、ご不明な点がある方は、電話(075-256-1067)にてお尋ねください。

★主日(日曜)礼拝
・とき:毎週日曜10:30〜 教会の中心的な礼拝
・場所:同志社栄光館ファウラーチャペル
 https://www.doshishachurch.jp/
★日曜日の集会
・こどもの教会:毎週日曜09:30〜 こどもたち中心の礼拝とプログラム
・礼拝前祈祷会:毎週日曜10:10〜 主日礼拝前の心の備え
・青年の集い :第4日曜礼拝後〜 学生・青年の集まり
・風の会   :第5日曜礼拝後〜 語らいや交流の場
★水曜日の集会(ぶどうの会)
・旧約聖書をよむ:第1水曜10:30〜
・新約聖書をよむ:第3水曜10:30〜

22/08/2026

2026年8月23日の主日礼拝
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2026年8月23日(日)午前10時30分

聖霊降臨節第14主日

会 場:同志社礼拝堂

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「人生の土台に何を据えるか」   菅根信彦牧師

聖 書:マルコ福音書12章1~12節

招 詞:イザヤ書40章7~8節

交読文:詩編40篇1~7節

讃美歌:24,155,449,28

司 式:渡辺優子

奏 楽:田中志緒

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6 (礼拝式順序(週報)ダウンロード)https://www.doshishachurch.jp/home/weekly ※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。 ~聖歌隊からのお知らせ~パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

22/08/2026

2026年8月23日の説教要旨
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説教要旨2026.8.16 エフェソの信徒への手紙4章17〜32節「正義を行え」 高田太

日本において、夏は平和について考えさせられる季節である。日本は戦争終結からの81年間、幸いにも戦争の主体となることなく歩んでくることができた。しかし世界に目を向ければ、目下のロシア・ウクライナ戦争、さらにはイランとアメリカ、イスラエルとの戦争など、戦争や武力行使を伴う争いは絶えていない。

平和の定義には諸議論があるにせよ、戦争や紛争の状態にある場所に平和がないことについては等しく同意を得られるはずである。戦争に敗れ、二度と戦争をしないと志した国家において、過ちを記憶して語り継ぎ、その悲惨さを恐れてでも二度と戦争の主体にならないと志し、次の世代へ平和への思いを受け継ぐこと。それがこの国における正義となったと言える。

平和とは何か、平和はどう学ばれるべきか。京都教区の平和学習ツアーで沖縄の辺野古海岸を訪れ、平和運動を行う牧師の話を聞いた経験がある。その牧師は「イエスに従うキリスト者は平和のために働かねばならず、平和のために働けば必ず敵ができる。平和を棄損する軍隊や暴力組織は明確に平和の敵である。しかしイエスは『敵を愛せ』と教えたため、兵士が誰の命も奪わずに済むよう、基地廃絶のために戦わねばならない。それが敵を愛するということだ」と語った。

この経験は強い違和感を植え付けたが、同時に「平和とは何か」「キリストの平和とは何か」「敵を愛するとはいかなることか」と考え続けさせる動因となった。参加者が自由な思考主体であり、十分な検討の下で安全に実施され、考える自由が配慮される限りにおいて、現地を訪れる平和学習には意味がある。

現地で強く感じられたのは「正義の主張」であった。「平和を求めることは正しい。平和のために軍隊や基地はいらないと思うなら、すぐここに来て戦え」という強い正しさの主張である。教団の「戦責告白」文書にある「『見張り』の使命」という言葉のように、旧約聖書の預言者たちが為政者へ批判を発したスピリットがそれを動機付けているのかもしれない。ミカ書やアモス書が語るように、時に腐敗し滅びゆく国家において預言者たちは正義を求め、「見張り」の使命を果たした。悪や不正の告発は必要だが、正義を求めることは自分を「正義の側」に置くことでもある。しかし、自身の正しさの主張が強力な反発を招くことがあり、違和感の根底にはそれがあったのである。

エフェソ書は「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送る」ことを求めている。正しくない生活、情欲に従う放縦な生活を離れるための倫理的な勧めとして、以下の内実が示される。

偽りを捨てて真実を語ること。怒ることがあっても、罪を犯さず、その怒りを次の日に持ち越さないこと。盗んではならないこと。自分で働き、困っている人に分け与えること。悪い言葉を口にせず、人を造り上げる言葉を語ること。憤りや怒りを悪意と共に捨てること。互いに親切にすること。そして、赦すこと。

これらは個人の倫理にとどまらず、正義の主張においても考慮すべき問題を含んでいる。不正に対する正義の怒りであっても罪を犯すことがあり、正しい言葉が人を壊すこともある。正しさの主張を戦わせる中で「憤り、怒り、わめき、そしり」、そして「悪意」が働くことがある。問題は単に「正しいことを言っているか」だけでなく、「その正しさをどのように語るか」であり、特に平和を考える上でこの問題は重くのしかかってくる。

先週、教団副議長を招いて洛南教会で行われた教団の機構改正を巡る「対話」の場でも、対話のあり方について考えさせられた。京都教区は沖縄教区の扱いを批判して教団巡安使を拒絶しつつも、「対話を拒むわけではない」として、対話の場を設定した。しかし、説明や質問、応答が噛み合わず、すっきりしないものであった。

その中で「対立軸の双方に対立相手へのリスペクトがなく、むしろ敵意がある」という発言や、「両極は対立相手を思って祈ることがなく、祈ったとしても『父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです』と互いに相手を愚かだと思って祈っている」という指摘がなされた。互いに相手を「知性が暗く、無知で神の命から離れている」と見なしている現状がある。さまざまな立場や教会観を持つグループが一つになっている以上、対立が生じることは避けがたい。

敵意と平和について、エフェソ書2章14節は「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し……十字架によって敵意を滅ぼされました」と語っている。

カントも『永遠平和のために』において平和を「すべての敵意の終焉」と捉えた。敵意がある限り平和はなく、敵意が終わるところに平和が実現する。「敵を作り、その上で愛する」として自ら敵を作る態度をよしとし、「自分はイエスに従っているから敵ができて当然だ」と開き直るならば、敵に立ち向かう手段が非暴力であっても敵が現れ続け、平和とは言えない状態が続いてしまう。自らの正しさを確信して戦い続ける中で、わたしたちは疲れ果ててしまうのではないだろうか。

カントは、人類が敵味方に分かれて殺し合い全員が滅亡した後の「巨大な墓地」において初めて敵意が終わるという皮肉な最悪の状況を描いたが、「すべての敵意が終わるところが墓である」という観点は示唆的である。

これに対しエフェソ書は、敵意が終わるもう一つの場所として「十字架」を示す。人間の敵意が神の子を殺したその場所にこそ、敵対者や逃げ出した弟子たちをそのまま受け入れる神の愛が示された。この十字架での逆説的な神の原理の勝利こそが、エフェソ書が示す真理ではないだろうか。

敵のいない世界、対立のない世界など想像できないかもしれない。わたしたちは対話をしてもすれ違い、自分を守るために誰かを敵視するというようなことが続くかもしれない。そういう愚かさについて、改善できる部分は改善しなくてはならない。その上で、エフェソ書が示しているのは、敵のいない世界を目指すということではないか。

正義の主張によって世界が敵味方に塗り分けられていくように見えるときでも、敵意を終わらせる道を行くことが求められる。大切なのは「正義の側に立つ」ことでも「正義を語る」ことでもなく、自らの正義が誰かを敵とするものになっていないかを常に問いながら、「正義を行う」こと、「正義を生きる」ことだと考えさせられた。

15/08/2026

2026年8月9日の説教要旨
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説教要旨2026.8.9.ダニエル書3章1~18節「たとえそうでなくとも」菅根信彦

旧約聖書ダニエル書の「ダニエル」という名前は、「神は私の裁き主である」、「神は我が審判者なり」との意味があります。この名前のように、ダニエル書は、この世の権力者の暴力的な支配に対して、イスラエルの民がその不当な支配に翻弄されたとしても、隠れた歴史の支配者である神の審判が必ずあるとの終末的な希望が書かれています。それゆえに、「自分の信仰を貫いていきなさい」という励ましが込められた物語となっています。「イスラエルの民の抵抗の証し」の文書と言ってもよいでしょう。

このダニエル書が現在の形で完成したのは、シリアのセレウコス朝のアンティオコス4世・エピファネス王がパレスチ地方を支配した時代と言われています。時に、紀元前2世紀のことです。アンティオコス4世は、激しい強制力をもってユダヤ教徒を迫害します。ユダヤ人にとっては大きな試練に遭遇した時代でした。

このダニエル書は、「黙示文学」と言われる文学ジャンルの代表的な一つです。新約聖書では「ヨハネ黙示録」がもう一つの代表的な文書となります。その特徴は「終末思想」にあると言われています。また、ダニエル書の物語の時代設定はバビロニア帝国の王ネブカドネツァル(紀元前642年 - 562年)の時代となっています。執筆されたシリアのアンティオコス4世の時代からすれば、3~400年の開きがあります。「古い時代の信仰上の有名人の名前を借りて、その権威の下に書くということも黙示文学の特徴」(佐竹明著『黙示録の世界』より)であるといえます。

ダニエル書は、大きく2つに分けることができます。1~6章までの前編はダニエルの物語です。後編7章~12章までが、わたし(ダニエル)が見た幻とその意味・解釈です。本日の聖書個所である3章は、ダニエルの物語ですが、実は、唯一ダニエルが登場せず、ダニエルの友人であるシャドラク(ハナンヤ)、メシャク(ミシャエル)、アベド・ネゴ(アザルヤ)が主人公となっています。この3人はダニエル同様に、「創始改名」(1章6節参照)をさせられた、宮廷に仕えるユダヤ人たちでした。

ネブカドネツァル王は、夢で見た金の巨像を自分の力を誇示するために造らせます。「高さは60アンマ(27㍍)、幅は6アンマ(2.7㍍)」、(1節)のトーテム・ポールのような巨像であったと推定されます。そして、その除幕式には、行政府の人が集まり、そして、楽器によって音楽が奏でられます。しかも、「ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる」(6節)との命令が出されます。神々を拝むことはすなわち、ネブカドネツァルに忠誠を誓うことであり、金の像はその意味で、専制君主である王の絶対的支配権を示す具体的な象徴であったことが分かります。

実際には、アンティオコス4世の時代、エルサレム神殿にゼウス像を建て、その祭壇で豚の犠牲を捧げたと言われている史実と重ね合わせて描写されているようです。しかも、神々を讃えるとき、「角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴」(5.7.10.15節)の楽器が繰り返し描写されているのも意味あることです。この楽器描写は、絶対的専制君主の支配の徹底さを示すと同時に、王を崇拝することへの不可分さを強調しています。美しい音色の中に、絶対的服従の強要があるということです。

この王の強要に対して、ダニエルの3人の友人は崇拝を拒絶します。その拒絶する姿を見て、カルディア人の中傷が始まります。そして、偶像崇拝を迫る王様、その王の命令を拒絶するダニエルの3人の友人たちは、告訴されていきます。しかし、3人は弁明もせずに、不抗争の姿勢で自らの答弁すら拒絶します。むしろ、彼らは、自分たちの仕える神への信頼をもって、「必ず救ってくださる」(17節)と語ります。さらに、「そうでなくても」(18節)との言葉で、深い神への信頼を表現します。

宗教が政治体制に絶対的権威を意味づけていくことは古代社会だけでなく、近代の専制国家でも同じです。宗教と政治はその意味で無縁でないようです。宗教は常に政治に利用されていきます。また、宗教団体は政治の中で繁栄することを願う誘惑に駆られていきます。だからこそ、宗教団体は政治に強くコミットするよりは、国との距離をもって批判的視点を持つ方がよいのではないかと思っています。日本でも、アジア・太平洋戦争下、国内はもとより植民地支配地域では、国家神道による「神社参拝」が強要されました。国内では、「国民儀礼」が全ての宗教団体に課せられた歴史をもっています。日本基督教団も例外ではありません。そして、教会も自分たちの信仰の主体を守ることができずに神ならぬ神を拝んでいった負の歴史をもっています。

かつて、アジア・太平洋戦争下、安利淑(アン・イスク)という韓国人クリスチャンがいました。彼女は、朝鮮での日本の軍事政権によるキリスト教弾圧に対して抗議するために帝国議会の議場で告発文を投げ入れたために逮捕され、さらには帰国後、朝鮮で「神社参拝」を拒否したことで再び逮捕されます。その生涯を綴った手記が『たといそうでなくても』(待晨社・1972年)という著書です。日本の軍政下の弾圧は半端なものではありませんでした。特に、日中戦争(1937年)以降、朝鮮にものすごい勢いで、神社が建設され、神社参拝、宮城遥拝はもちろん、各家庭に神棚設置が強要され、伊勢神宮のお札が強制配付されました。神学部の大先輩である韓皙曦(ハン・ソッキ)さんの著書『日本の朝鮮支配と宗教政策』(未来社・1988年)は参考になります。安利淑さんは、そのような厳しい状況の中で、6年余りの壮絶な獄中生活を送ることになります。厳しい拷問に耐えながら、彼女は、ダニエル書の「(たとえ)そうでなくとも」(18節)との言葉を口の中で繰り返し唱えながら、たとえ神が私を救わなくてもいいと念じながら、偶像に最敬礼をしなかった当時の思いを綴っています。

「たとえそうでなくとも」との言葉はまた、イエスのゲッセマネの「御心に適うことが行われますように」との言葉と相通じるものがあるように思います。神の終末的な支え、イエスの十字架の苦難によって罪を執り成すの生涯。そのことを想起しつつ、「たとえそうでなくとも」と受けとめる信仰の深みへと導かれていきたいと思うのです。

15/08/2026

2026年8月16日の主日礼拝
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2026年8月16日(日)午前10時30分

聖霊降臨節第13主日

会 場:栄光館ファウラーチャペル

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「正義を行え」   髙田太副牧師

聖 書:エフェソ書4章17~32節

招 詞:ミカ書6章8節

交読文:詩編8篇1~10節

讃美歌:24,58,424,28

司 式:南野紫乃

奏 楽:川崎寿美

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6 (礼拝式順序(週報)ダウンロード)https://www.doshishachurch.jp/home/weekly ※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。 ~聖歌隊からのお知らせ~パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

08/08/2026

2026年8月9日の主日礼拝
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2026年8月9日(日)午前10時30分

聖霊降臨節第12主日

会 場:栄光館ファウラーチャペル

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「たとえそうでなくても」

菅根信彦牧師

聖 書:ダニエル書3章1~18節

招 詞:エフェソの信徒への手紙5章8節

交読文:詩編126篇1~6節

讃美歌:24,424,499,28

司 式:吉川 健

奏 楽:前川 恵

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6 (礼拝式順序(週報)ダウンロード)https://www.doshishachurch.jp/home/weekly ※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。 ~聖歌隊からのお知らせ~パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

08/08/2026

2026年8月9日の説教要旨
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説教要旨2026.8.2.イザヤ書40章1~11節「声をあげよ」菅根信彦

8月第1主日は、日本基督教団では「平和聖日」と定められています。戦争の惨禍と平和について考える日です。特に、1941年10月にアジア・太平洋戦争下に合同した日本基督教団は、1967年復活日に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦争責任告白)を表明しました。戦時下の教団の名において犯したあやまちを自覚し、主の憐れみと隣人の赦しを請い求めることを告白しました。その文中には、「『見張り』の使命をないがしろにいたしました」との文言が出てきます。この「見張りの使命」とは異変を伝える急報者との意味があります。旧約聖書では、「悪しき道から立ち帰らせること」「角笛を吹いて警告を伝えること」(エゼキエル書33章1~11節)を指し示しています。このような働きを「預言者的使命」と言います。アジア・太平洋戦争下、日本の教会はその使命を果たせず戦争に協力してしまったことへの悔改めがこの「戦争責任告白」の内容です。

さて、古代イスラエルには、「預言者」と言われる人々が活躍した時代(紀元前9~6世紀)がありました。「ダビデ・ソロモンの王国時代」から「王国分裂」「バビロン捕囚の時代に当たります。「預言者」はヘブル語で「ナービー」と言います。神によって「呼ばれた者」「神の代弁者」を意味します。多くの預言者たちは神による直接的な召命によって立てられ、神の御心や意志を人々に示し、神との「契約」に戻らせることを促します。特に、預言者は「為政者の不正」「偶像崇拝」「民衆への抑圧」に対して厳しい言葉で臨んでいきます。それ故、時の権力者に排斥されます。しかも、単なる厳しさだけではなく、王国滅亡後は、民を励まし、希望の光を指し示す言葉を告げるのも預言者の働きでした。

今日の聖書の個所は、三大預言書の一つであるイザヤ書40章の冒頭部分です。このイザヤ書は、「第一イザヤ」(1~39章)、「第二イザヤ」(40~55章)、「第三イザヤ」(56~66章)と時代の相違によって3つに分けられます。40章は、「第二イザヤ」に属し、紀元前6世紀後半の「バビロン捕囚」末期に活躍した無名の預言者に由来するものです。

紀元前587年にバビロニア帝国によって、ダビデ王以来続いた南ユダ王国は滅亡し、エルサレム神殿は完全に破壊されます。そして、王族、貴族、役人、祭司、軍人、手工業者たちは、バビロニアに強制移住させられます。捕囚民の大部分は灌漑用運河であるケバル川沿いに連行され、「運河の建設」「農地の開拓」、「道路の建設」の苦役を課せられます。これを「バビロン捕囚」と呼びます。捕囚は約50年、60年ほど続きます。

この捕囚の地での異教的な環境と民族の主体を奪われた苦難の歴史の中で、イスラエルの民を励まし、ヤㇵウェ信仰を守ることを訴えたのが第二イザヤでした。自分たちの国の滅亡は神への不信に対する審判であると理解し、民族の深い悔い改めを促し、同時に解放と救済の時が必ず来ることの希望を語り続けます。そして、ペルシャ王キュロスの「解放令」が出されます。その頃、第二イザヤの預言が告げられます。

第二イザヤの預言は、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」との象徴的な言葉で始まります。イスラエルの捕囚が終わった、服役の期日は終了したことを宣言する内容です。「慰め」が主題となっています。最も「福音的な言葉」であると言われています。「慰める」はヘブライ語で、「深く息を吸い込む」ことを意味します。「助ける」「喜びを与える」さらに、「贖う」という言葉と同義語的に用いられています。特に、第二イザヤは、長い捕囚からの解放の出来事を神の「慰め」と「贖い」(イザヤ53章参照)が平行して論じられています。確かに、私たちも神の御心に従い切れない自らの弱さや破れを感じて生きています。使徒パウロの「義人は一人もいない」と言葉のように、人は神の「贖い」を必要とするのです。その「贖い」こそが人間への「慰め」であると第二イザヤは理解するのです。

この神の「贖い」と「慰め」の関係を最も印象的に表現しているのが、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(42章3節)との言葉です。人間存在の弱さ、その弱さをそっと守り導いていく神の姿です。「魂の配慮」に満ちた言葉です。

沼地に生える「葦」は、欧米文学の世界では折れやすく、傷つきやすい人間存在の比喩として用いられています。パスカルの「人間は考える葦である」(『パンセ』)の言葉を思いだします。第二イザヤは、チグリス、ユーフラテス川に生息するこの植物を、大国に翻弄され、国の滅亡を経験し、「バビロン捕囚」という憂き目にあった自分たち民族に下った裁きと重ね合わせて、にもかかわらず、「葦を折ることなく」「灯心を消すことなく」との神の赦しと慰めを語るのです。

この「傷ついた葦を折ることなく」との言葉に対して、ドイツ文学者であった小塩節(1931‐2022年)さんは、あるエッセイで、このような言葉を残しています。「風が吹くと互いに当たって傷ついてしまう葦を、本当の愛を知る者はちょうど一匹の迷った子羊を求めるように、大事に労り慰めて折ったり捨てたりはしないのだ。ちょうど油がつきて、ちらちらゆらめき、いやな黒い油煙をあげるランプやローソクの灯心もそれと同じように扱われる。・・本当の魂の看取り手は、そっと手をかざし風から守り、灯心をそっと伸ばすであろう。これは、人間存在の弱さとそれに対する導く人、さらに、神の慈愛の美しい象徴である。私たちの人生は、誰もが長い人生に幾つかの傷を受け、痛みを負い、風にそよぐ葦のようだ」と語ります。確かに、私たちは傷ついた葦のように、消えかかる灯心のように、弱さや破れを抱えています。しかし、その傷ついた葦を折ることなく、灯心を消すことなく、人間存在の弱さを覆う神の慰さめの業があることを伝えています。

しかも、第二イザヤは、「力を振るって声をあげよ」「声をあげよ、恐れるな」(9~11節)と語ります。自由を奪われた生活、虚無の世界から抜け出せなかった者たちが、解放の言葉を聞き、深い悔い改めを通して慰められていく、その喜びを告知せよと語るのです。福音に生かされ、新しい歩みを始めようとする人間の姿を語ります。その贖いと慰めの働きは、イエスの十字架によってさらに鮮明に示されています。神の赦しと愛と平和のメッセージを、高らかに声をあげて、語り伝えていきたいと存じます。

01/08/2026

2026年7月26日の説教要旨
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説教要旨2026.7.26 コリントの信徒への手紙一12章14〜25節 「一つの霊によって」 高田太

創立150年の記念日が近づいて来ている。記念事業として150年を一望できるコンパクトな年表を作成すべく、先月の月報にはその試案を載せた。本日は礼拝後に教会の歴史を語る会も予定されているため、今から150年前の、同志社英学校の創立から同志社教会創立までの期間に目を向けたい。

本日の聖書箇所には、個性的でさまざまな役割を担う部分が組み合わされて一つの体になることが記されていた。27節でパウロは「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」と、教会のあり方を教えている。150年前の今はまさに、年末の教会発足に向けて、キリストの体たる部分が集められていた時期であった。

日本組合基督教会の源流の三大要素として「アメリカン・ボード、新島襄と澤山保羅、熊本バンド」が挙げられる。菅根先生が就任式で語られたように、これらが交わり、一本の流れとなって現在の会衆主義教会の伝統を培ってきた。1876年は、この三大要素が関西に集まってくる時期である。

当時、アメリカン・ボードの宣教で神戸・大阪・三田に教会や女学校が生まれ、京都では新島襄とデイヴィスらによって同志社英学校が開校した。スタークウェザー宣教師も来日し、同志社女子部の出発準備が進んでいた。また、7月に帰国した澤山保羅も大阪の松村診察所での伝道を開始する。

そしてまさに同じ頃、7月に金森通倫が熊本から京都へやってきたのを皮切りに、9月までに「熊本バンド」と呼ばれる約37名が京都に到着する。1月30日で花岡山での盟約から150年が経った。同志社教会150年の年表にも、熊本バンドの人々が仮牧師や牧師として名を連ねている。

当時の京都には新島や宣教師たちが居を構え、宣教師宅での礼拝拠点が増えていた。英学校の生徒も40名ほどに増え、市中には4箇所の礼拝場所ができ、500人くらいが集まっていたという。『七一雑報』は、信じて聞く人も、試みるために来る人もいたと伝えている。そこへ熊本から37人がやって来た。半数が既に洗礼を受けており、英学校の生徒は70人になる。9月には相国寺門前に校舎と寄宿舎が竣工し、同志社は見事に彼らを受け入れることができた。絶妙なタイミングの神様の導きであった。

そして11月末からは西京第一、第二、第三の公会が続けて設立される。第一公会はラーネッド邸で設立され、市原盛宏が仮牧師になった。第二公会は新島邸で23名で設立され、これが同志社教会のルーツとなる。金森通倫や徳富猪一郎はここで新島から受洗し、新島が仮牧師を務めた。第三公会はドーン邸で設立され、海老名喜三郎や小崎弘道らが加わった。仮牧師は神戸から来た本間重慶が務めた。3教会合わせて60名中、37名が熊本からの生徒であり、まさに「同志社の教会」だったと言える。

彼ら「熊本バンド」を導いたのは、熊本洋学校の教師キャプテン(大尉)・ジェーンズであった。ウェストポイントの陸軍士官学校で鍛えられ南北戦争に従軍したエリート軍人で、宣教師ではなかった。1871年に熊本に赴任し、全寮制の4年課程で、彼が持ち込んだのは軍隊風の厳格な管理法だった。朝から鐘の音に合わせて生活し、タバコや酒は厳禁、毎日が試験のような厳しい環境であった。

カリキュラムは、1年目は英語、2年目は地理や歴史、3年目は代数や歴史、4年目で物理、天文学、生理学、英文学などを学ぶ実学志向で、当初は、宗教色は全くなかった。

だが4年目になり、物理を学ぶと、万有の秩序の背後にある創造主の姿が見え始め、歴史や英文学を学ぶ中では必然、キリスト教の影響に突き当たる。彼らの関心に応え、1874年の秋頃からジェーンズは自宅で聖書勉強会を始めた。日本と生徒たちの未来のために涙を流して祈る姿が、次第に生徒たちを捉えていった。

不思議な導きで日曜礼拝も行われるようになり、礼拝後、生徒たちは花岡山に登って信仰を語り合い、日本語で熱心に祈るようになった。1875年の冬休みには人目を忍んで聖書を持ち帰ると、年明けの学校ではリバイバルの炎が巻き起こる。そして1876年1月30日、35名が花岡山に登り、「奉教主意書」に署名してキリスト教をもって日本を拓く誓約をしたのである。

しかし、同年10月に神風連の乱が起こるような熊本では、生徒がキリスト教に改宗したとなれば、猛烈な反発が起きた。ジェーンズの解任と洋学校の閉校が決まり、生徒らは激しい迫害に遭った。金森通倫は一家総掛かりで説得され、座敷牢に入れられ、書物を焼かれた。横井時雄も母から「棄教せねば自害する」と迫られた。

そのような中、ジェーンズは生徒たちに洗礼を授ける決断をする。聖公会の宣教師が来て、「神の前に出るには洗礼という礼服を着るべきだ」と洗礼の必要性を説いた際、宮川経輝が「神の御前ではすべてのものが裸である」と返したエピソードや、自分たちが相互に洗礼を授ければ良いという議論もあったが、病床の生徒へのジェーンズによる洗礼を契機に、7月末には残りの生徒らにも洗礼が授けられ、聖餐式も行われた。その後、彼らは数グループに分かれて京都へ旅立った。なお、製茶の研究を口実に、いち早く京都へ向かった金森は、ジェーンズから洗礼を受けていなかった。

京都に来た熊本バンドの背後には、信徒による洗礼の有効性というややこしい問題がある。しかし、結果的に、京都ですみやかに教会が組織され、彼らがそこに組み込まれることで問題は解決されていく。ジェーンズはデイヴィス宛の手紙に、「神の導きの御意志があとのことは導いてくださる」と記したが、まさにその御意志が、彼らを京都へと導き、できたばかりの寄宿舎に住まいを与え、教会の設立へと導いたのではないだろうか。緊急時の洗礼が教会組織に組み入れられることで、かつて教会不要を訴えた者達も新島先生と共にキリストの体の部分とされ、日本組合基督教会の礎石となっていった。

パウロは「わたしたちは一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受けた」と語った。見てきたところ、熊本バンドの信仰は、誰かによって植え付けられたというようなものではなく、実に聖霊の導きによって与えられたものであると言える。その一つの霊が150年前、彼らを京都へ、同志社へと導き、キリストの体とならせたのである。

私たちもまた、その同じ一つの霊によって一つの体とされ、導かれ進む歩みであることを、今日改めて確認したい。

01/08/2026

2026年8月2日の主日礼拝
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2026年8月2日(日)午前10時30分

聖霊降臨節第11主日

会 場:神学館礼拝堂

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「声をあげよ」菅根信彦牧師

聖 書:イザヤ書40章1~11節

招 詞:マタイ福音書5章9節

交読文:詩編94編8~15節

讃美歌:24,425,431,524,28

司 式:宇野みさ

奏 楽:川崎寿美

◎聖餐式 ◎永眠者記念

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)

https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6

(礼拝式順序(週報)ダウンロード)

https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加( 視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。

※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。

※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。

※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

~聖歌隊からのお知らせ~

パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?

礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。

どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

25/07/2026

2026年7月19日の説教要旨
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説教要旨202 6 . 7.19 . エフェソ2:14 ~22 「もはやよそ者ではない ー250 年目のアメリカからー 」布施智子

今年もこの同志社教会の講壇に立たせていただけることを、心から感謝している。もっとも、今回は「久しぶり」という感覚はあまりないのが本音だ。この冬から春にかけて、私はビザ更新のため、思いがけず長い時間を日本で過ごすことになった。その間、何度も同志社教会の礼拝に出席し、イースターも久しぶりにここで迎えることができた。同志社教会は、私にとって長年のホームチャーチであるが、この数か月は単に「帰ってきた場所」という以上に、不安の中で身を寄せ、祈りを共にする場所となった。

昨年、この講壇に立った時、私は信徒伝道師として奉仕をしていたが、今年1 月、米国合同教会(UCC )において資格取得のためのプロセスを経てライセンスを取得することができた。しかしその直後、ビザ更新の手続きが予想以上に難航してベイエリアに戻ることができなくなった。私のアメリカでの日常生活は制度の上に成り立っている。いつ帰れるのか、本当に戻ることができるのか。自分の今の「ホーム」に戻れなくなるかもしれないという不安の中で、私は初めて「私はどこに属しているのか」「私は本当にここにいてよいのだろうか」という問いを切実なものとして感じた。もちろん、日本という故郷を持つ私が、世界の各地で故郷を追われている人々と同じ立場にあるわけではないが、自分の暮らしている場所にもう戻ることができないのでは、という感覚と不安は、これまで経験したことのないものであった。そんななかで、何度も同志社教会の礼拝に出席し、皆さんと共に祈ることができたことは、私にとって大きな慰めであった。何とか4 月下旬に無事にアメリカへ戻り、6 月には牧師就任式を執り行い、正式に牧師としてここに立つことができている。

そんな半年を経て迎えた今年の7 月4 日は、私にとって、これまでとは少し違う意味を持つものとなった。今年、アメリカは「建国250 年」という節目を迎えた。7 月4 日は日本では「独立記念日」と呼ばれるが、ベイエリアでは、単純に「独立を祝う日」として受け止められない人々が数多く暮らしている。アジア系、ラテン系、アフリカ系、そして近年アメリカへ渡ってきた移民たちにとって、この日はそれぞれ異なる意味を持っている。私もまた、日本からアメリカへ渡った新一世として、7 月4 日をどこか遠い国の祝日のように感じてきた。しかし今年は違っていた。ビザ更新を通して自分の居場所が制度によって左右されることを経験したからこそ、自分が属する場所が、どこにあるのかをより強く意識せざるを得なかった。

そんな時に、心に深く響いたのが、エフェソの信徒への手紙2:19 の言葉であった。「あなたがたは、もはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ国籍を持つ者であり、神の家族なのです。」これは、国境や国籍の問題がなくなるという単純な約束ではない。しかし、新一世としてアメリカに生きる私にとって、この言葉は大きな慰めとなり、勇気を与えてくれた。制度の上では外国人であったとしても、神の前では「よそ者」ではない。誰かの許可を得て、ようやく神の家に入れてもらう客ではなく、すでに神の家族の一員として招かれているという福音の言葉である。

パウロがこの手紙を書いた当時のエフェソの教会にもまた、同じような問いが存在していた。そこには、自分たちこそ神の民であると理解してきたユダヤ人と、後になって共同体へ迎え入れられた異邦人とが共に集っていた。彼らは同じ神を礼拝していたが、育った環境も、言葉も、食卓の習慣も異なっていた。「外国人」や「寄留者」という言葉は、当時の人々にとって単なる比喩ではない。どこに住めるのか、誰と共に生きることができるのか、どの共同体に属しているのかという問は、人間の尊厳そのものに関わる切実な問いであった。しかしパウロは、「みんな仲良くしましょう」と語るのでなく、また、違いを忘れて同じになるよう求めているのでもなく、むしろ、本来なら同じ食卓を囲むことのなかった人々が、キリストによって一つの共同体へと招かれていること、その驚きを語っているのである。また、パウロは「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、隔ての壁を取り壊されました」とも記す。まさに教会のあり方が示されている。教会とは、もともと同じ人々が集まる場所ではない。異なる歴史や記憶を持つ人々が、キリストによって招かれ、共に生きる場所なのである。

誰が共同体の内側に迎えられ、誰が外側へ押しやられてきたのか。その問いは、250 年目を迎えたアメリカにも鋭く突きつけられている。今年の7 月4 日を私はベイエリアで過ごした。地域の祭りに参加し、教会の人々と時間を共にし、翌日にはUCC の中国系ローカル教会である Berkeley Chinese Community Church と合同礼拝を守った。礼拝のテーマは、「アジア系移民の信仰と共同体を通して、アメリカ250 年をあらためて思い描く」というものであった。アメリカで250 年という節目が祝われている今、私たちはそれをどのように受け止めればよいのか、この国の歴史の中で、私たちはどこに立っているのか、そして「この国に属する」とは、一体どういうことなのか。

250 年という節目を迎える中で、この国の物語を誰が語り、誰がその中に居場所を見いだしてきたのかは、人によって大きく異なる。先住民族にとって、アメリカの歴史は土地を奪われた歴史でもある。アフリカ系アメリカ人にとって、それは奴隷制度や差別の歴史と切り離すことのできないものである。そして私たちアジア系移民にとっても、この国の歴史は、歓迎と排除の両方の経験によって形づくられてきた。ベイエリアには、多くの移民コミュニティが存在する。私自身もまた、新一世としてアメリカで暮らしている。だからこそ、7 月4 日という日を、単なる祝祭の日としてではなく、「誰がこの共同体に迎えられ、誰が周縁へと押しやられてきたのか」を問い直す機会として受け止める人々がいるのである。

エフェソの教会の人々もまた、「自分はどこに属しているのか」という問いを抱えていた。パウロは、そのような人々に向かって、「あなたがたは、もはや外国人でも寄留者でもない」と語りかける。この言葉は、国籍や歴史、文化の違いがなくなることを意味しているのではなく、むしろ異なる背景を持つ人々が、それぞれの歴史や記憶を抱えたまま、なお一つの共同体として生きることができるという福音の宣言である。神は、私たちに同じ人間になることを求めているのではない。それぞれの言葉や文化、経験を持つ者として、互いの尊厳を認め合い、共に生きるよう招いておられるのである。7 月5 日の合同礼拝で、シカモア教会と BCCC の人々は、共に礼拝をささげ、同じ聖餐の食卓を囲んだ。私たちは、同じ歴史を持っているわけではない。同じ言葉を話し、同じ文化の中で生きてきたわけでもない。それでも、その違いを抱えたまま、共に祈り、共にパンを分かち合った。それは、とても小さな出来事だったかもしれない。しかし私は、その食卓の中に、パウロが語る「神の家族」の姿を見たように思う。

教会とは、「誰が内側で、誰が外側なのか」というボーダーを決め直す場所ではない。教会とはこれまで「よそ者」とされてきた人々に、「あなたもここにいてよい」と語りかける場所である。同志社教会で信仰を育まれた私が、今、海を越えた場所で牧会に携わりながら、再びこの場所でエフェソ書の言葉を皆さんと共に読むことになったのも、不思議な導きであるように思う。

エフェソ書の最後で、パウロは、キリストを「かなめ石」と呼ぶ。そして、私たち一人ひとりが、神の住まいを形づくる一部であると語る。神の家は、すでに完成した建物ではない。異なる歴史や言葉、記憶を持つ私たちが、キリストをかなめ石として、今もなお共に築き続けているものである。250 年目のアメリカを生きる私たちは、今もなお、「どのような共同体を築いていくのか」を問われている。しかし、その問いに先立って、福音は私たちに語りかける。キリストは、私たちの平和である、私たちは、もはや外国人でも寄留者でもない。

私はアメリカで、皆さんは日本で、それぞれ異なる場所に立っている。それでも私たちは、同じ福音に支えられ、同じ神の家を形づくる者として生かされている。この冬、不安の中で同志社教会の礼拝堂に座っていた私自身もまた、そのことを改めて知らされた一人であった。神が今もなおこの世界に築こうとしておられる家を、互いの違いを尊びながら共に築いていきたい。その招きこそが、エフェソ書の語る福音なのである。

25/07/2026

2026年7月26日の主日礼拝
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2026年7月26日(日)午前10時30分

聖霊降臨節第10主日

会 場:神学館礼拝堂

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「一つの霊によって」髙田太副牧師

聖 書:コリントの信徒への手紙一

12章14~26節

招 詞:使徒言行録1章8節

交読文:詩編13編1~6節

讃美歌:24,393,390,28

司 式:宗村太郎

奏 楽:田中志緒

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)

https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6

(礼拝式順序(週報)ダウンロード)

https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加( 視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。

※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。

※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。

※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

~聖歌隊からのお知らせ~

パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?

礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。

どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

住所

上京区今出川通烏丸東入 同志社栄光館ファウラーチャペル(礼拝堂)
Kyoto-shi, Kyoto
602-0898

電話番号

+81752561067

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