同志社教会

同志社教会 【牧師】菅根 信彦(すがね・のぶひこ) 【礼拝】毎週日曜10:30〜 【会堂】同志社栄光館ファウラーチャペル(同志社今出川キャンパスの別のチャペルで礼拝を行う場合もあります)

【重要】同志社教会では、新型コロナウイルス感染拡大防止の措置を講じつつ、教会員を中心に、対面での主日(日曜)礼拝を継続するとともに、オンラインで礼拝にご参加いただける方法を備えています。こどもの教会や諸集会も概ね、同様の対応を行なっています。当教会がはじめての方や、ご不明な点がある方は、電話(075-256-1067)にてお尋ねください。

★主日(日曜)礼拝
・とき:毎週日曜10:30〜 教会の中心的な礼拝
・場所:同志社栄光館ファウラーチャペル
 https://www.doshishachurch.jp/
★日曜日の集会
・こどもの教会:毎週日曜09:30〜 こどもたち中心の礼拝とプログラム
・礼拝前祈祷会:毎週日曜10:10〜 主日礼拝前の心の備え
・青年の集い :第4日曜礼拝後〜 学生・青年の集まり
・風の会   :第5日曜礼拝後〜 語らいや交流の場
★水曜日の集会(ぶどうの会)
・旧約聖書をよむ:第1水曜10:30〜
・新約聖書をよむ:第3水曜10:30〜

30/05/2026

2026年5月31日の主日礼拝
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2026年5月31日(日)午前10時30分

聖霊降臨節第2主日

会 場:栄光館ファウラーチャペル

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「異なるものに目を向ける」 黒柳志仁教師

聖 書:申命記6章4~5節

招 詞:マタイ福音書7章7~8節

交読文:詩編97篇1~6節

讃美歌:24,516,575,28

司 式:川崎寿美

奏 楽:津田能人

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)

https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6

(礼拝式順序(週報)ダウンロード)

https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加( 視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。

※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。

※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。

※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

~聖歌隊からのお知らせ~

パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?

礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。

どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

30/05/2026

2026年5月24日の説教要旨
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説教要旨2026.5.24.ヨハネ福音書16章1~15節「生と死の二重性」菅根信彦

「キリスト教の死者儀礼」について研究されている神戸女学院々長の中野敬一先生は教会の担ってきた「葬送」と「記念」について、実践神学の領域から研究をされている方です。葬儀が簡略・簡素化する時代状況の中で、「死者が覚えられる」つまり「その人を忘れずに想起する」ことの大切さを語っておられます。「想起」(ギリシア語で「アナムネーシス」)という言葉は「今ここで、その人がいたら」というとても大事な宗教的概念を示すものです。 礼拝で行われます「聖餐式」は「洗礼」と合わせて「サクラメント」(秘儀)・「聖礼典」と呼ばれています。聖書の伝承に基づいて、「キリストの体」であるパンと、「キリストの血潮」としての葡萄酒を通して、キリスト・イエスの言葉と業を想い起こしていくことが促されています。2000年前に生きたイエスの十字架の愛を今ここでも注がれていることを「想起」するのです。その働きを促すものが「聖霊」の力です。「生も死」も覆う神の深い憐れを教えてくれるのです。 さて、私たちが日常に歩んでいる生活の中では、「おめでたいこと」と「悲しいこと」の区別は割合とはっきりしていることが多いです。教会では「葬儀」はもちろん、「埋骨式」や「記念式」が営まれます。また、「結婚式」が挙げられます。前者は、黒や地味な服装を基調として「悲しみの時」として行われます。人の死や別れの儀式、病気や事故などは悲しみの時として受けとめられています。他方、後者の「結婚式」は華やかな晴れ着を着て「おめでたいこと」「喜びの時」として行われます。「入園」、「入学」、「卒業」、「就職」、「出産」、「昇進」などの場合もそうでしょう。このように、私たちの生活の中では、おめでたい「喜び」と、別れの「悲しみ」というものがある種の明確な区別があって守られていると言えます。 しかし、本日の聖書箇所の「別れの説教」の後半部分であるヨハネ福音書16章を読むと、人間の生活の中でのおめでたい「喜び」と、別離などの「悲しみ」が実は、明確な仕方で分けられるものではなく、むしろ、深い所で関わりながら、「生と死の全体」を包む神の支えと導きがあることが語られています。イエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなた方のためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなた方のところに来ないからである。わたしがいけば弁護者をあなた方のところに送る」(7節)と語っています。       「弁護者」(パラクレートス)とは「励ます者」「支える者」「慰め主」「助け主」と訳すことができる言葉です。すなわち、「聖霊」自身を指す言葉です。イエスは、自分が十字架で死ななければならないこと、それは、愛する弟子たちとの悲しい別れの時となります。人間的には辛く悲しいことでです。しかし、一方で、その悲しいイエスとの別れによって、神とイエス自身から聖霊がくだり、離れていても、常にあなた方の共に歩むことができるとイエスは弟子たちに約束するのです。 このように、このイエスの言葉は、愛する者との悲しい別れと、その別れを通して下される「聖霊」の働きによって一人で歩むことが「表裏一体の関係」で語られていることが分かります。聖霊の働きによって、人間が自立して生きることは素晴らしいことです。しかし、これは、イエスとの別れなくしてはできないのです。「聖霊」の働きはイエスの十字架の死を通して与えられるものだからです。 イエスは、弟子たちとの別れを単なる悲しみとして見るだけでなく、別れも、深く温かい、全体を包むような神の計らいがあることを伝えようとするのです。すなわち、神の憐れみは、喜びも悲しみも合わせて、表裏一体のように人の心を包むものであること、それが弁護者である「聖霊」付与の約束なのです。 実は、このような喜びと悲しみの両義的な人生の経験を、実はわたしたちは日常の中での繰り返し経験しているはずです。入学式は子ども成長を覚える喜びの時ですが、実は親から自立していく離れの時です。結婚式でも、新郎新婦の両親は子どもの自立を喜ぶ時ですが、同時にそれは苦労をかけた子どもとの別離の時です。葬儀も同様です。愛する者との別れは辛く悲しいものですが、しかし、それは、神の許に永遠の安らぎを与えられる時であり、また、世の終わりの時、また相見える希望があることを確認する時でもあるのです。このように、聖書は喜びと悲しみは深いところで繋がるものであることを伝えています。 童謡の中で「サッちゃん」(作詞/阪田寛夫・作曲/大中恩)という名曲があります。この歌は「近所に住んでいたある少女、転園してしまうお友だちである少女サッちゃんのことを歌っている」と言われています。この中の詞の1番にはサッちゃんへの出会いのときめきと密かな思いが綴られています。しかし、他方で、3番では別れの寂しさが子どもながらに綴られたものとなっています。「どんぐりコロコロ」もそうですが、童謡の中には、出会いの喜びや遊びの楽しさを語りながら、家への郷愁と一日の終わりを迎える寂しさや悲しさが両義的に伝えられるものがあるのです。子どもは歌を歌いながら、「会うは別れのはじまり」のような、人生そのものを無意識に知っていくようです。出会いの喜び、そして、別れ、そして、その別れが自立を促していくように、「分離(separation)」は、同時に「個体化(individualization)」を生んでいくです。その関係は深いところで繋がっているのです。 イエスは神の憐れみ、慈しみは、生と死全体を包むように大きく、深く、そして広いことを語ります。また、あなた方を決して一人にはしないとの思いをもって聖霊派遣を約束します。「聖霊」はイエスが生きていた時と同じように歩むことができる神の力です。その「聖霊」は今に生きる私たちにも注がれています。今日はペンテコステの主日です。「聖霊」に押し出されて、主イエスを証し、神の慈しみを示すイエスの愛の業を伝えていきたいと思います。

23/05/2026

2026年5月17日の説教要旨
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説教要旨202 6 . 5 .17 エフェソの信徒への手紙1 章 15 〜23 節 「右とか左とか」 高田太

4 月5 日のイースター(復活祭)から始まった復活節の歩みも7 週目を迎え、今日がその最後の主日となる。使徒言行録によれば、復活されたイエスは40 日間にわたって弟子たちに現れ、神の国について語り、聖霊の到来を予告して天に昇られた。それが昇天日であり、そこから10 日後、イエスの復活から数えて50 日目に、聖霊が降り教会が誕生した「ペンテコステ(聖霊降臨日)」を迎える。「ペンテコステ」はギリシャ語で「50 番目の日」を意味し、ユダヤ教の「シャブオット(週の祭り)」にも由来している。 イースター以降、復活のキリストが共におられる喜びを「白」の講壇飾りが表してきたが、昇天日からペンテコステまでの期間は、地上にいない期間である。イエスは「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言い残して天に昇られた。弟子たちはエルサレムに戻り、婦人たちやイエスの母マリア、兄弟たちと共に、上の部屋で心を合わせて祈っていた。その群れは 120 人ほどとなり、裏切って脱落したユダの代わりとして、くじ引きでマティアを選び、 12 使徒に加えた。 そうして教会としての形は整っていた。体ができていた。そこに創世記冒頭のアダムの創造の記事のように、命の息、聖霊が吹き込まれてその体が動き出す、言葉の壁を越えて宣教する教会が生まれるのである。そんなペンテコステを目前にした今日、昇天に伴って成立した信仰を表すエフェソ書の箇所を読んだ。 今日の箇所の小見出しは「パウロの祈り」となっているが、エフェソ書はパウロ自身が書いた手紙ではなく、かなり後になってパウロ書簡の形式に倣って書かれた文書だというのが、聖書学者たちが概ね一致して指摘するところである。また、コロサイ書を下敷きにしてこれを換骨奪胎する形で書かれた、というのも定説となっている。そうしたところからも、教会の中でかなり練り上げられた信仰の表現を、そこに見出すことができると思う。 今日の箇所もそうである。キリストの父である神が霊を与えてくだされば、神を深く知ることができる、また心の目が開かれる、そしてどのような希望が与えられているのか、聖なるもの達の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかが悟られる、わかるのだと言っている。加えて、信仰者に働きかける神の力の大きさがわかり、またその力がキリストを死者の中から復活させ、神の右の座につかせたと言っている。 キリストは今や神の右の座にあって、すべての地上的な力を凌駕してその上に立ち、そのキリストを頭として、その体たる教会が成り立つ。そしてその教会は、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちる場なのだと言う。 しかしそうして読んでみて気になったのは、上だとか下だとか、そして右だとか左だとか言うことであった。それで「右とか左とか」と説教題をつけた。というのも、右とか左とか、上とか下とか、これに先立つ2 回、先月、先々月のわたしの担当する回の聖書箇所でもそういうことが問題になっていたからである。 イエスは神の右に座しておられるという記述があったが、マルコ福音書の十字架への道で、使徒のヤコブとヨハネはイエスの右と左に座らせて欲しいと願い出ていた。それに対してイエスは、上になりたいものは下になれと言っていた。ルカ福音書はその話を最後の晩餐のすぐ後に置き、ヨハネ福音書はそこに洗足の記事を置いていた。上のものが下になる話である。イエス自身が弟子達に仕えるそのように、そして十字架でイエスが命を献げたそのように、仕えあうこと、愛し合うことが新しい掟なのだということであった。 今日の箇所はもちろん、そういう弟子達の誰が偉いのかという話ではない。しかしそれでもキリストが神の右の座につかされ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれたと言っていて、それはつまりキリストが偉い、偉大だということなのである。 そうして思えば、わたしたちも毎週、使徒信条で右だとか上だとか下だとか言っていることに気付かされる。キリストは死んで葬られ、陰府に下り、天に昇り、神の右に座しておられる。 昨今の世のニュースとそれを巡るSNS などでの議論でも、右だとか左だとか言われるのが耳についていた。その場合の右とか左とかは、18 世紀の終わり、フランス革命の時の国民議会の席の位置に由来する話である。カトリック教会の国教的体制や王権の存続、それゆえ伝統を擁護する人々が右に、これを打倒せんとする改革派、急進派の人々が左に座っていた。そこから政治的な立場や思想の傾向を表すのに、右、左という言葉、イメージが問題になってきたのであろう。 先日、大阪教区と京都教区でそれぞれ教区総会が開かれ、現政府の姿勢や政策を批判する声明の採択などを巡り、世俗的な「右左」の議論がなされた。特に、大阪教区総会はカトリック玉造教会で行われ、性的マイノリティ(LGBTQ+ )の課題や、委員の男女比・年齢のジェンダーバランスが議論される中、伝統的なカトリック(右のイメージ)の教会で、プロテスタント(革新・左のイメージ)が総会を行うこと自体が、歴史の対立を超えた革新的な出来事であり、右と左の関係の複雑さを物語っているようと思わされた。 右とか左とかいう政治や思想の議論は、地上の歩みの中で避けることは難しい。しかし、聖書が語るキリストの姿は、そうした偏りや境界線を遥かに超えている。キリストは天のいと高きところから、人間の「下」、すなわち「陰府(よみ)」にまで下られた(第一ペトロ書には、ノアの箱舟に乗れず捕らえられていた霊たちにまでキリストが宣教されたとある)。すべての人を救うために最も低いところまで下り、そして最も高い天へと昇られたのである。 昇天の後、120 人の弟子たちは、右に行くべきか左に行くべきか悩みながら、心を合わせて祈っていたのかもしれない。そこにペンテコステの日、聖霊が降った。私たちが連なる教会は、「すべてにおいてすべてを満たしている方(パンタ・エン・パーシン)」が満ちている場である。第一コリント書が語る終わりの日の希望、「神がすべてにおいてすべてとなられる」という完成を、教会は聖霊によって先取りしているのである。そこにおいては、政治的な右も左も、身分の上も下もない。私たちは、陰府にまで下ってすべての人を救おうとされたキリストを頭とし、いつもその方を見上げることで自分たちの「方位」を定めたいと思う。地上の左右に偏るのではなく、父・子・聖霊なる神に満たされ、導かれ、すべての人の救いのために祈りつつ、前に進んでいきたい。 x

23/05/2026

2026年5月24日の主日礼拝
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2026年5月24日(日)午前10時30分

聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝

聖霊降臨節第1主日

会 場:神学館3階礼拝堂

説 教:「生と死の二重性」 菅根信彦牧師

聖 書:ヨハネ福音書16章1~15節

招 詞:ローマの信徒への手紙5章5節

交読文:詩編122篇1~7節

讃美歌:24,351,342,28

(聖歌隊合唱)「平和の祈り」

司 式:芹沢 良

奏 楽:川崎寿美

◎聖餐式

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)

https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6

(礼拝式順序(週報)ダウンロード)

https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加( 視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。

※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。

※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。

※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

~聖歌隊からのお知らせ~

パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?

礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。

どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

16/05/2026

2026年5月17日の主日礼拝
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2026年5月17日(日)午前10時30分

復活節第7主日

会 場:栄光館ファウラーチャペル

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「右とか左とか」  髙田太副牧師

聖 書:エフェソの手紙1章15~23節

招 詞:イザヤ書45章6~7a節

交読文:詩編102篇13~19節

讃美歌:24,337,338,28

司 式:水野薫

奏 楽:田中志緒

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)

https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6

(礼拝式順序(週報)ダウンロード)

https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加( 視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。

※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。

※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。

※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

~聖歌隊からのお知らせ~

パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?

礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。

どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

15/05/2026

2026年5月10日の説教要旨
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説教要旨202 6 . 5 .10. コロサイ書3 章12 ~17 節「イエス-神のデザイン」菅根信彦

4 年に及ぶウクライナでの戦闘による両軍の死傷者・行方不明者は推計で約180 万人と言われています。イスラム組織ハマスの攻撃を受けてイスラエル軍によるガザ攻撃で7 万2000 人以上が死亡し、そして、今年の2 月28 日に始まったイランへのアメリカ・イスラエルによる空爆では死者7 万人と言われています。日本においても「武器輸出の制限を緩和」する閣議決定がなされ、戦後の防衛政策であった「平和主義」から大きな転換が起こっています。

このような国際・社会情勢について、臨床哲学者の鷲田清一さんによる、ある地方紙で掲載された「ぐちゃぐちゃな世界でも」とのエッセイが目に止まりました。「世界がぐちゃぐちゃになってきた。世界から〈軸〉とか〈筋目〉とかが見えずらくなった、あるいは歯止めということがまるできかなくなくなってきた」と指摘し、同時に「言葉が信じられなくなっているというよりも、言葉からいのちが湿りから温みまで、きれいさっぱりに抜けおちている」と語ります。また、ネットやSNS などは真偽もぐちゃぐちゃであることを訴えていました。そのような状況の中で、鷲田さんは、時代遅れの言葉であるけれどもと前おきして、人間として「まっとう」さを取り戻すこと、本当の事実、本当の言葉を探すことの必要性を強く語っていました。いわゆる、いのちが通う言葉を先ず取り戻すこと、そこから導きだされる生き方のぶれない「軸」「筋目」を形成する必要を強く感じました。

さて、本日の聖書の個所には、ぶれない軸となる言葉が出てきます。それは、「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」(12 節)との言葉のように、人としての「まっとうな」生き方が求められています。そして、日々新たに生きるための方向を定める倫理的な「徳目」・「筋目」(=道理)が示されています。さらに、「すべてに加えて愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させる絆です」(13 節)と愛することの大切さが強調されています。

このように、聖書には「愛」「愛する」という言葉が満ち溢れています。それ故にキリスト教の一番大切なものは何かと問われれば、「愛すること」であると言えます。その意味で、キリスト教は本来的には「審きの宗教」「分断する宗教」ではないはずです。「愛は何事においても関係を切らないことである」と心理学者の河合隼雄さんの言葉を思い出します。特に、イエスの生涯を描いた福音書の中には、イエスが語った言葉として、「愛」「愛する」ことの様々な言及が多々あります。

例えば、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5 章44 節)との言葉がマタイ福音書の「山上の説教」にあります。「完全なる愛」をイエスは語っています。ロシア文豪トルストイ、マハトマ・ガンジー、マルティン・ルーサ・キングがこの言葉から「平和」・「独立」・「非暴力」「人権」を唱えたことは歴史が示すところです。「汝の敵を愛せよ」との言葉を世界の為政者はどう聞くのでしょうか。

また、イエスは「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分にように愛しなさい」(マルコ12 章30 ~31 節)と語っています。所謂「愛神・愛隣」の教えです。イエスはこの教えこそ神の「最大の掟」であると命じています。さらに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15 章12 節)と、イエスは十字架の死を前にした「別れの説教」で弟子たちに、遺言としてこの言葉を伝えています。

しかも、大切なことは、先行する「神の愛」のことです。私たちを傷つくまで愛しぬいたイエスの愛の先行性といっても良いかも知れません。つまり、聖書の語る愛は私たち人間の側から出た行為ではなく、「愛の源泉」は神にあるとのことです。

そのことは、コロサイ書でも同様です。「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているから」と、先ず、神の働きかけがあったことが伝えられています。また、「赦し」に関しても、「主があなた方を赦してくださったように」「あなたがたも同じようにしなさい」と語られています。しかも、「愛」はアガペーとの言葉が用いられています。「無償の愛」、「他者のために自己を与えるような愛」を示しています。

ところで、新約聖書が語るイエスとは、本当に不思議な人であったと思います。イエスご自身は文字に記した言葉、建造物など、何一つ残しているわけではありません。しかし、弟子たちを始めイエスと出会った人々は、憐れみ深いイエスの人格性、その真実さに心を動かされたのです。人々の伝承が集められ福音書になり、イエスがキリストであるとの告白が書簡(手紙)として残っていったのです。

宮城学院女子大学で長く教鞭をとっておられた佐伯晴郎先生が『イエス―神のデザイン』(キリスト新聞社/2004 年)という著者を出されています。佐伯先生は、イエスは誰であり、何者だったのかについて、イエスの素描を試みた点でユニークな表題となっています。彼はイエスの全体像を見る中で、神の究極的な意図を模索していくことを目指したそうです。そこには「自然と人生の教師」、「いやしの行者」、「人間の同行者」、「救い主であるキリスト」の様々なイエスの姿を「神のデザイン」として捉えている所に面白さがあります。ところで、私たちはどのようなイエスのイメージを作り上げ、どのようなイエスの愛のメッセージに心引かれるでしょうか。

私はキリスト教のもっている一番の良いところを上げるとすれば、それは、人間が今ある自分とは違う自分、また、自分が生きてきたのとは違う世界が、自分の中に可能性として秘められていること、そういう自分を知ることができることだと思っています。それこそが、実はイエスが示した愛の力ではないかと思っています。それぞれが、神のデザイン」としてのイエスの愛の姿を、聖書の言葉から豊かにイメージし、その愛に応えて生きていきたいと思うのです。

09/05/2026

2026年5月3日の説教要旨
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説教要旨202 6 . 5 .03. ペトロの手紙第一4 章7 ~11 節「恵みの善い管理者」菅根信彦

「教会」の語源である「エクレシア」は「呼び集められた者」「神の民の集まり」という意味です。キリスト教会は「キリスト・イエスによって召された共同体」ということです。しかも、「ミッションのために呼び集められた共同体」です。使徒パウロは、この「教会」を「キリストの体」と言っています。 以前、ある先輩牧師が「教会はパッチワークのようなも」と言われたことがありました。一つひとつの個性をもった作品が、それが合わさることによって、全体をさらに豊かに装飾するとの意味で、「キリストの体」である教会の姿を譬えたのだと思いました。また、「同志社礼拝堂」や「有終館」のレンガが、一枚一枚、風雪を耐えて、色合いや風合いがみな違っているように、教会もまた、それぞれの個性の違いが生かされ、主イエスによって結び合わされている共同体であるようです。  本日のペトロの手紙第一には「あなたがたはそれぞれ賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と書かれています。集う一人ひとりには、神から様々な「賜物」(カリスマ/恵み)が与えられていること、さらに、その「恵みの善き管理者」として歩みなさいと促されています。「賜物」は神のために用いることが求められているようです。  この「賜物」という表現は、旧約聖書では「天賦の恵み」という意味をもって用いられています。「農産物」、「職業」、「人生」、「大地」など、幅広い意味でこの言葉が用いられています。しかし、新約聖書では総じて「イエス・キリストにおける神の救いの出来事」そのものを言います。さらに、イエスによってもたらされる数々の「信仰の恵み」を意味するようになっていきます。  特に、新約聖書における「賜物」は、「聖霊の働き」によるものであることが強調されています。パウロは、「霊は望むままにそれを一人ひとりに分け与えていること」(コリント第一12 章11 節)、そして、「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶ」(26 節)と語っています。さらに、教会内での具体的な働きも奉仕も聖霊の働きであり、その中で「もっとも大いなる賜物」(13 章)は「愛」であることを伝えています。  しかも、ペテロ第一の手紙の著者は「賜物」を用いていく時、その時を非常に切迫した時間で語っているところに、この手紙の最大の特徴があります。それが「万物の終わりが近づいています」(7 節)との冒頭の言葉です。だからこそ、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりも、まず、心をこめて愛し合いなさい」と、その賜物の謙遜な用い方を促すのです。 確かに、この手紙は、小アジアに在住する離散したユダヤ人たちに宛てられたものです。特に、文中に迫害の表現が多く出てきます。「試練」・「苦しみ」という言葉(12 節)が多用されています。この手紙はキリスト教会に対するローマ帝国の組織的迫害が開始される紀元後90 年代頃のものと考えられています。その緊迫した状況の中で、なお「恵みの善き管理者」となるように、神から与えられた賜物を生かして互いに仕え合うことが示されています。「時の切迫」を感じる手紙です。 もちろん、「万物の終わり」との言葉は、この世にあるものは全て有限で相対的であるという「時の認識」を示した表現と受けとめることができます。命とて必ず終わりがあるとの時の切迫感をもって、キリスト・イエスの愛を受けた者としての働きを強調しています。しかも、「愛は多くの罪を覆う」(8 節)と言うように、主に従いきれない自分でも、相応しく賜物を用いられない管理者であっても、なお、朽ちることのない希望が神の許にあることを伝えているのです。  クラブ活動指導中に頸髄の損傷を負った星野富弘(1946 ~2024 年)は、事故後口に筆を加えて文や絵を書き始めて40 年に渡って活躍なされた方でした。『いのちより大切なもの』(いのちのことば社/2012 年)で、入院最初の時期の母親の支えについて語っていました。膀胱に留置カテーテルを入れていた時に、よく管がつまり、苦しい思い出が書かれていました。その時、苦しがる自分を見かねてお母様が、カテーテルの管を口にくわえて、息を吹きかけ、吸ったりして管のつまりをとってくれたそうです。母親にしかできない行為です。お母様は「わが身を切り刻んでも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」とその時の想いを伝えています。星野さんが、その母の愛に応える術をもっていない中で、作った詩がこのような言葉です。 「神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらお う。風にゆれるペンペン草の実をみていたら、そんな日が本当に来るような気がした」  母の愛に応えたいが適わない、しかし、そうできる時が来るという、まさに「終末的な祈り」となっています。現代と未来への「時の切迫」を示した言葉です。適わない姿と、いずれの日にかとの希望としての祈りが同居しているところに、緊迫感と、同時に、心温まる真実な言葉となっているのです。  神の招きに応えられない私たち、その賜物を中々生かしきれない私たちです。その弱さを抱える中で、なお「賜物を生かして互いに仕えなさい」と著者は語りかけてきます。この勧告が、それこそアーメンで終わっているところに、「終末的な祈り」となっていることに気付かされます。神の計らいをみるのです。  教会はそれぞれの異なった存在が、聖霊の働きによって深いところで繋がり一人ひとりの存在が他者のために存在するという「賜物」の交わりです。躓きや躊躇を覚えながらも、「今」という時を逃さずに神に応えていきたいと思います。また、「今」という時を逃してしまう時でも、なお、神の恵の管理者として、賜物をお返していく、その祈りだけは忘れずに歩んでいきたいと思うのです。

09/05/2026

2026年5月10日の主日礼拝
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2026年5月10日(日)午前10時30分

復活節第6主日

会 場:栄光館ファウラーチャペル

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

説 教:「イエス-神のデザイン」 菅根信彦牧師

聖 書:コロサイの手紙3章12~17節

招 詞:ローマの信徒への手紙8章26節

交読文:詩編15篇1~5節

讃美歌:24,58,417,28

司 式:吉川 健

奏 楽:川崎寿美

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)

https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6

(礼拝式順序(週報)ダウンロード)

https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加( 視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。

※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。

※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。

※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

~聖歌隊からのお知らせ~

パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?

礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。

どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

02/05/2026

2026年5月3日の主日礼拝
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2026年5月3日(日)午前10時30分

復活節第5主日

会 場:栄光館ファウラーチャペル

https://www.doshishachurch.jp/home/chapelmap

会 場:栄光館ファウラーチャペル

説 教:「恵みの善き管理者」菅根信彦牧師

聖 書:ペトロの手紙4章7~11節

招 詞:ガラテヤの信徒への手紙3章28節

交読文:詩編95編1~7節

讃美歌:24, 396, 516, 28

司 式:宇野みさ

奏 楽:川崎寿美

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)

https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6

(礼拝式順序(週報)ダウンロード)

https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加( 視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。

※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。

※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。

※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

~聖歌隊からのお知らせ~

パイプオルガンの音色と共に、讃美歌をご一緒しませんか?

礼拝は、毎週10時30分からまもられますが、聖歌隊は、朝10時から、当日の礼拝で歌う讃美歌や応答唱の練習をしています。礼拝後は、12時30分まで、クリスマスや特別礼拝に向けての練習もいたします。

どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしています。

02/05/2026

2026年4月26日の説教要旨
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説教要旨202 6 . 4 .26  ヨハネによる福音書13 章31 〜35 節   「愛の掟」 高田太

イースターからペンテコステまでの 7 週間は、復活されたキリストが私たちと共におられることを祝う喜ばしい期間である。この期間にヨハネ福音書を読むことは、弟子たちがイエスの十字架と復活を経た後に、生前の教えを思い起こし、そこに込められた真意を深く理解していった過程を私たち自身が追体験することでもある。

本日の箇所で、イエスは弟子たちに「新しい掟」を与えられた。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。隣人を愛することは旧約聖書にも記された古い掟であるが、イエスはこれを「わたしが愛したように」という基準をもって、共同体に留まり、互いに愛し合うための新しい掟として定められたのである。  「互いに愛し合う」、つまり人が仲良くし続けるというのは、口で言うほど簡単なことではない。日々報じられる国家間の争いや家族内の事件を見ても明らかである。身近な例を挙げれば、小学校から「保護者間の学年全体のグループ LINE 作成を控えるように」という通知が来る時代である。 SNS の普及で簡単につながれるようになった反面、そのつながりの中でトラブルが頻発している。  愛の共同体であるはずの「教会」においても、同じ難しさがある。説教者が神学部の大学院生だった頃、「教会は来るべき理想の『神の国』を先取りする共同体である」と発表したところ、恩師の森孝一先生から「神の国の先取りというよりは、寧ろ地獄の先取りとちがうか」と指摘され、頭を抱えたことがあった。年齢、性別、職業を超えてあらゆる人が集う教会は、確かに神の国の先取りであるが、多様な人が集まるからこそ、もめごとや諍いも起こる。理想を求めて集う場所である分、そこで受ける傷や落胆は深く、結果として教会を去る人や、会議での対立に躓く人も出てきてしまうのが、悲しい現実なのである。  支え合おうと繫がりながら、なぜ私たちは傷つけ合ってしまうのだろうか。哲学者ショーペンハウアーはこれを「ヤマアラシのジレンマ」に例えた。寒い日に温め合おうと近づくヤマアラシは、互いのトゲが刺さって痛い思いをし、離れればまた寒さに凍える。人間関係もこれと同じである。  人間にとっての「トゲ」とは、「それぞれの正しさの主張」である。創世記で、禁じられた善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバが神から身を隠し、言い訳をしたように、「善悪の知識」は「自分が正しい」という意識と強く結びついている。私たちは誰かと意見がずれるとき、自分の正しさを主張して争う。そして自分の正しさが誰かを傷つけたり、逆に誰かに不当に否定されたりすると、他者に「自分の正しさを認めてほしい」と強く願う。この承認欲求が互いを引き寄せ、同時に正しさの衝突によって互いを刺し合ってしまうのである。  哲学者カントは、人間関係における「愛(近づこうとする引力)」に対して、他者を人格として尊重し距離を保つ「尊敬(遠ざかろうとする斥力)」が必要であると説いた。  このことは、黄金律と呼ばれるイエスの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えにも通じる。孔子の「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」という言葉と似ているが、後者が「するな」という尊敬・禁止の形式であるのに対し、イエスの言葉は「しなさい」という愛の行動を命じている。  他者を尊重して傷つけないためには、何もしないのが一番安全である。愛をもって「よかれ」と思ってしたことが、相手にとっては不快なお節介になることもしばしばある。愛と尊敬の両立は困難である。さらに言えば、カントが指摘するように「誰かを愛しなさい」と命令・強制することは本来不可能である。では、なぜイエスは愛を「掟」として示されたのであろうか。  その答えは「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉にある。今日の聖書箇所は最後の晩餐の直後であるが、ヨハネ福音書は聖餐式の代わりに、主であるイエスが弟子たちの足を洗う「洗足」の出来事を記している。イエスは、これから自分を裏切るユダや、見捨てて逃げ去る弟子たちに対しても、ひざまずいて仕える姿勢を示し、「世にいる弟子達をこの上なく愛し抜かれた」のである。  神の愛とは、相手の裏切りや悪意を裁くことなく、そのまま受け入れる愛である。イエスは悪意に逆らうことなく、人間の罪の身代金として十字架でご自身の命を献げられた。神は人間との関係を断ち切るのではなく、一方的に愛を示し、人間が自由にその愛に気づき、受け入れることができるようにしてくださったのである。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1 ヨハネ4.10 )。この十字架の愛を知ることでのみ、私たちは「愛の掟」の本当の意味に気づくことができる。  イエスが示された「互いに愛し合う」ことの本質、愛の掟の真意とは、「関係に留まり続ける」ということではないだろうか。相手の不完全さや違いを受け入れ、裁くことなく、その関係に留まり続けること。強制されて仲良くなるのではなく、神が十字架で示された圧倒的な愛を受け止めるからこそ、その理不尽とも思える「愛しなさい」という命令に留まり、互いに仕え合い、関係を築こうと努力し続けることができるのである。  私たちは、黄金律の「人にしてもらいたいこと」が何なのか、すぐには正解がわからない。しかし、キリストの愛に動かされ、愛することに挑戦し続ける中で、知識を深め、技術と感性を磨き、相手が本当に求めていることを少しずつ理解していくのである。  ヤマアラシのジレンマにおいても、私たちはまず神の愛によって自分の内側に確かな熱を持つことで一人で立つことができる。その上で、神の愛に促されて共同体に留まり続けるのである。互いのトゲが刺さらない適切な距離を学びつつ、同時に自分のトゲの先を丸くしていく。そうして互いに愛し合い、留まり続ける群れとなることで、私たちが「キリストの弟子である」ことが世に示されていく。  私たちが「関係に留まり続ける」愛の共同体として立とうと志すとき、神は必ず聖霊の風を吹き込み、私たちの言葉と思いを互いに通わせてくださる。この約束を信じて、ペンテコステへと向かう日々を共に歩むことができたらと願う。

住所

上京区今出川通烏丸東入 同志社栄光館ファウラーチャペル(礼拝堂)
Kyoto-shi, Kyoto
602-0898

電話番号

+81752561067

ウェブサイト

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