高知伊勢崎キリスト教会(日本バプテスト連盟)

高知伊勢崎キリスト教会(日本バプテスト連盟) キリスト教プロテスタントのバプテスト教会です。毎週日曜の午前10:30から礼拝を行っています。100歳体操、子ども食堂、お茶会、映画会なども行っています。どうぞ、いらして下さい。

03/10/2020

2020年9月27日 主日礼拝説教要旨  平林稔牧師 
「凡てのこと相働きて益となる」 ローマ8章28節

 本日の聖書のローマの信徒への手紙8章28節の「万事が益となるように共に働く」は、新約聖書の中でも、特によく知られた箇所でしょう。本日のタイトルはその文語訳です。この手紙を書いたパウロも、その生涯において「どうしてこんなことが・・・」と神さまを疑うようなことはいっぱい経験していたでしょうが、「凡てのこと相働きて益となる」「万事が益となるように共に働く」と述べるのです。本日はそのことをご一緒に考えていきましょう。
 パウロはここで、ただ「働く」とは言っていません。「共に働く」と述べています。益とは思えないことであっても、それら全部を合わすと益となるというのです。しかしそれだけではありません。その万事の中には、神も入っている、すなわち神が益となるように働いて下さるのだというのです。この言葉は、積極思考、結果が悪くても悪いように考えない所謂ポジティブシンキングのようなものではありません。これは信仰の言葉に他なりません。
 神さまは全てのことに関わり共に働いて下さいます。私たちは、礼拝するために自分たちの意志でこの場に来ているとしても、そこにも神の意志が働いて神によって召されているのです。人生における大きな決断を伴う、進学や就職、また結婚や転職なども、そして今回の牧師の辞任も、私たちの思いだけで進んだのでなく、神が益と変えるよう私たちの意志を超えて働いて下さった結果なのです。私たちは、祈りの結果が自分たちの願いが叶った時には「祈りが聞かれた」と言い、そうではないと「祈りは聞かれなかった」と考えがちですが、そうではない。神は私たちの祈りには必ず耳を傾けて下さいます。祈りは対話ですから、全ての祈りは「聞かれている」のです。ただし、どうお応えになるか(どんな結果となるか)は、神の御心なのです。
 大切なのは、物事の捉え方ではなく、共に働いて下さる神さまとどのような関係を築くかです。私たちの願いや祈りに耳を傾けて、最善をなすために共に働いて下さるのですから、神に協力することです。パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(Ⅱコリント6章1節)と言っています。神さまが与えようとされている恵みを無駄にしないよう、神を信じ委ねて協力することが最善への道なのです。
 では、神さまが与えようとして下さる益とは具体的に何なのでしょうか。今日の29~30節にあるように、召し出された者たちを義とし栄光をお与えになるために、御子の姿に似たものにして下さることです。御子は、父なる神との豊かな交わりに生き、神と人を愛する生き方を示し、死によっても失われない栄光を復活を通して示して下さいました。そのような生き方をするように、私たちの意志や努力を超えて、私たちを変えて下さること、それこそが神が与えて下さる、永続的で究極の益なのです。ですからキリスト教は「究極のご利益宗教」なのです。
 最後に、先ほどご一緒に交読しましたコヘレトの言葉の3章1~11節をご一緒に唱和したいと思います。神のなさることは、全て時にかなって美しいのです。お祈りしましょう。

https://youtu.be/oI_rrbn_P1Y
27/09/2020

https://youtu.be/oI_rrbn_P1Y

高知伊勢崎キリスト教会における平林稔牧師の最終礼拝の宣教動画です。この日は平林稔牧師のお誕生日でした。

24/09/2020

2020年9月20日 召天者記念礼拝説教要旨  平林稔牧師 
「わたしは道であり、真理であり、命である」 ヨハネ14章1~6節 

 本日の召天者記念礼拝は、故人のことを覚え、それぞれの生涯を守られた神さまへの感謝を献げることが大きな目的です。そしてもう一つ、今日ご一緒に考えたいのですが、死を見つめることを通して生きる意味を考える時でもあります。本日与えられたみ言葉から、私たちにとっての生きる意味とイエスさまが弟子たちに何を残されたかを主に聞いてまいりましょう。
 この14章で主イエスは十字架を目前にして、ご自身の死は覚悟なさっていますが、それだけでなく十字架の先の死んでから行くべき父の家に目を注いでおられます(1~2節)。そして、ご自分だけが父の家に行くのでなく、弟子たちも父の元に迎え入れられるとおっしゃいます(3節)。神によって造られた私たちが、神の元に帰って行く。それは私たちの生きる目的と意味は神にあるということです。私たちは自分の力で生きているのでなく、神によって生かされているのです。
 この前のお写真のお一人おひとりは、それぞれに精一杯生きられたことと思います。大きな働きでなくとも何か小さな事でも成し遂げられた方、志半ばで人生を終えられた方、正当な評価を受けることなく生涯を終えられた方もおられるかもしれない。世間的には残念な事とされ顧みられないでいる方もいらっしゃるかもしれません。しかしそんなことはどうでも良いのです。なぜなら、一人ひとりは神によって生かされているのですから、生涯の評価を下すのは私たちではなく、私たちをお造りになった神さまがその人に生きる意味と目的を持って生かされたからです。
 私たちのための場所は父の元には無いので、イエスさまは場所を用意しに行くとおっしゃった(2節)。その用意とは何か、それこそが十字架の道であります。イエスさまは、父の元に私たちの居場所を作るために、私たちの罪の身代わりとなって、血を流して十字架で死なれたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)。ヘブライ語で「道」とは「踏みつける」という言葉に由来します。道は踏みつけられて、人が通れる道となります。イエスさまは、私たちが父のみ元に行くために踏みつけて通るための道となって下さった。それこそが、私たちが知るべき真理であり、真理そのものとなられて、イエスさまは死んで下さったのです。
 この真理を知るとは、単にイエスさまについて知ること、イエス・キリストに関しての知識を得ることではありません。私たちがこうして日曜毎に集まるのは、聖書の知識を深めるためでも、キリスト教の勉強会をするためでもありません。私たちが父のみ元に行けるように死んで道となられたイエスさまを信ずるためであり、キリストを愛し、イエス・キリストを礼拝するためです。
 そのイエスさまが「わたしが命である」とおっしゃった。これも単に、生命力の意味での命だというのでも、この世で生きるエネルギーということでもありません。イエスさまは十字架の死の後三日目に甦られた。だから真の意味で死を克服した命となられたということなのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント15章55~56節)イエスさまは死に勝利して、命そのものとなって下さったのです。
 イエスさまが、父の家であるみ元に場所を用意して下さいました。信仰の先達の方たちは、父の家で今イエスさまと共に過ごされています。私たちもそのイエスさまの御業を信じ、この地上での生涯を歩んで行きたいと思います。「わたしは道であり、真理であり、命である」アーメン

20/09/2020

教会員限定の、全礼拝の配信動画です。

https://youtu.be/YN2oh-i-KXE2020年9月20日(日)高知伊勢崎キリスト教会召天者記念礼拝 公開用の宣教のみの動画です。
20/09/2020

https://youtu.be/YN2oh-i-KXE
2020年9月20日(日)高知伊勢崎キリスト教会召天者記念礼拝 公開用の宣教のみの動画です。

教会員限定の、全礼拝の配信動画です。

19/09/2020

13日宣教要旨・訂正版

2020年9月13日 主日礼拝説教要旨  平林稔牧師 
「神の民として」 出エジプト記18章13~26節 

 私たちの地上での歩みは、目に見えない敵との❝闘い❞でもあります。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6章12節)。神の民の群れは、その見えない敵との闘いに勝利するために整えられ、時には組織化される必要があるのです。
 妻チッポラの父である舅のエトロが、荒れ野のモーセを訪ねて来ました。そのエトロに、自分たちイスラエル民族の救いのために神が何をして下さったかを、モーセは語り聞かせましたが、それを聞いたエトロの口から出たのは「主をほめたたえよ、主は全ての神々にまさって偉大で会ったことを知った」というイスラエルの神への信仰告白の言葉でした。エトロは、聖書における最初の異邦人改宗者であり、これはモーセの証しによる家族伝道の結果でした。家族伝道は難しいとよく言われますが、ここに家族伝道の原点があります。それは、神さまが何をして下さったかを素直に語ること、これこそが神への証しであり、伝道の本質だからです。
 モーセが朝から晩まで一人で民の相談事に乗って裁きを行なう様子を見たエトロは、単刀直入に「あなたのやり方は良くない」(18章17節)と言い、民の中から、神を畏れる有能で信頼できる者を選び出し、人数に応じてそれぞれの長を民の上に立て、平素は彼らに裁かせ、重大な問題だけをモーセが裁くようにアドバイスしました(19~23節)。そうすることで、モーセの負担が軽くなり民たちも長く待たなくてもよくなりました。しかし民の組織化の目的は、それではありません。初代教会においても似たようなことがありました。日々の食事の分配でもめ事が起こり使徒たちがみ言葉の奉仕に専念出来なくなったので、霊と知恵に満ちた評判の人物を選任し、使徒たちがみ言葉の奉仕に専念することが出来るように組織化したのです(使徒言行録6章4節)。
 神の民の組織化は、モーセの負担を軽くすることが目的ではありませんでした。イスラエルの民が、神の民としてみ言葉を受け、み言葉に従えるように、民のリーダーであったモーセがみ言葉の奉仕に専念できるようにすることにありました。目的は、民がみ言葉を大切にして歩めるようになることです。そしてそれは、現代の教会にも当てはまることではないでしょうか。

17/09/2020

2020年9月13日 主日礼拝説教要旨  平林稔牧師 
「神の民として」 出エジプト記18章13~26節 

 私たちのこの地上での歩みは、目に見えない敵との❝闘い❞でもあります。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6章12節)。神の民の群れは、その見えない敵との闘いに勝利するために整えられる必要があるのです。
 モーセの妻チッポラの父である舅のエトロが、荒れ野のモーセを訪ねて来ました。そのエトロに、自分たちイスラエル民族の救いのために神が何をして下さったかを、モーセは語り聞かせましたが、それを聞いたエトロの口から出たのは「主をほめたたえよ、主は全ての神々にまさって偉大で会ったことを知った」というイスラエルの神への信仰告白の言葉でした。エトロは、聖書における最初の異邦人改宗者であり、これはモーセの証しによる家族伝道の結果でした。家族伝道は難しいとよく言われますが、ここに家族伝道の原点があります。それは、神さまが何をして下さったかを素直に語ること、これこそが神への証しであり、伝道の本質だからです。
  モーセが朝から晩まで一人で民の相談事に乗って裁きを行なう様子を見たエトロは、単刀直入に「あなたのやり方は良くない」(18章17節)と言い、民の中から、神を畏れる有能で信頼できる者を選び出し、人数に応じてそれぞれの長を民の上に立て、平素は彼らに裁かせ、重大な問題だけをモーセが裁くようにアドバイスしました(19~23節)。そうすることで、モーセの負担が軽くなり民たちも長く待たなくてもよくなったのですが、民の組織化の目的は、それではありませんでした。初代教会においても似たようなことがありました。日々の食事の分配でもめ事が起こり使徒たちがみ言葉の奉仕に専念出来なくなったので、霊と知恵に満ちた評判の人物を選任し、使徒たちがみ言葉の奉仕に専念することが出来るようにしたのです(使徒言行録6章4節)。
 神の民の組織化は、モーセの負担を軽くすることが目的ではありませんでした。イスラエルの民が、神の民として、み言葉を受け、み言葉に従えるように、民のリーダーであったモーセがみ言葉の奉仕に専念できるようにすることにありました。そしてそれは、現代の教会にも当てはまることではないかと思います。

13/09/2020

2020年9月13日の高知伊勢崎キリスト教会の敬老感謝礼拝の宣教のみの公開動画です。

https://youtu.be/jHWeMQHEmW0
13/09/2020

https://youtu.be/jHWeMQHEmW0

2020年9月13日の高知伊勢崎キリスト教会の敬老感謝礼拝の宣教のみの公開動画です。

09/09/2020

2020年9月6日 主日礼拝説教要旨  平林稔牧師 
「主の臨在の守りと導き」 出エジプト記13章17~22節 

 皆さんお帰りなさい。今月も引き続き出エジプト記を読んでまいります。出エジプトに際し、出発時の人数は壮年男子だけで60万人と12章37節にありますが、これはあまりに突拍子もない数字なので、女性や子どもを含めてもせいぜい1万人ほどだったのではないかとも言われています。1万人の移動だけで大変ですが、実際は家畜を連れ家財道具も持って出たでしょうから、その道行きが半端ないものだったことは明らかです。
 約束のカナンの地までの最短ルートは、地中海沿いのペリシテ街道ですが、その街道沿いは軍事上の要衝の地であり、好戦的で有名なペリシテ軍との衝突は避けられなかったことから、神はそのルートには導かれず、葦の海に通じる南の荒れ野の道へと迂回させられました。民たちは、この後の試練(葦の海の奇跡・荒れ野での飢えとマナの奇跡等)を通して、神の民として整えられる必要があったのです。神さまは時に、私たちを遠回りの道に進ませられることがあります。それは私たちにとっては回り道にしか思えないことが多いですが(この時の民たちは結局荒れ野の道を40年さまようことになった)、神さまは必ず最善の道を示して下さいます。「あなたの道を主にまかせよ、主は計らわれる」(詩編37編5節)
 荒れ野を進む彼らを導いたのは、雲の柱、火の柱でした。それがどんなものであったのかは想像するしかないのですが、竜巻や隕石や彗星だったのかもしれません。そしてそれらは単に彼らの進むべき道を示す方向指示器であっただけではありませんでした。彼らにとっては、神さまが共におられることの臨在のしるしでもありました。神さまが昼は雲の柱を通して、夜は火の柱によって寝ずの番をして下さった。民たちは、その柱を目にすることで、主がいつも共に居て下さることを確信したのです。
 私たちにとっては、それは主のみ言葉でしょう。み言葉は、私たちの進むべき道筋を示し、その歩むべき道を照らす光であります。そして、それに加えて、先頭に立って、私たちを守り導いて下さるイエスさまでもあります。先週もイエスさまが私たちの救いの過ぎ越しの犠牲となって下さったことを学びました。荒れ野を行くイスラエルの民が、雲の柱・火の柱を確認することで主の臨在の守りと導きを確信したように、私たちも十字架の死の三日目に死を乗り越えて甦って下さったイエスさまを覚えて、主の日の日曜日に礼拝することで、イエスさまが私たちの雲の柱・火の柱となって下さっていることを追体験しましょう。アーメン!

07/09/2020

2020年8月30日 主日礼拝説教要旨  平林稔牧師 
「主の過ぎ越し」 出エジプト記12章21~28節 

 皆さんお帰りなさい。本日の聖書箇所の12章は、イスラエルの民にとって最も重要な事件が記されています。それは彼らが奴隷であったエジプトから解放された時に起こった出来事です。10個目の最後の災いとしてエジプト中の初子が撃たれたことによって、エジプト王ファラオはこのままイスラエルの民を国に留めておくことは、エジプトの国を滅ぼすことになると思い、民を解放することに同意しました。
 エジプト中の初子が殺されるという凄惨な出来事が起こったのですが、主はイスラエルの民の家の初子は撃たれなかったのです。それは主が国中巡った際に、事前にモーセを通して命じていた通りに、鴨居と柱に血が塗られていたイスラエルの民の家の初子を撃つことなく「過ぎ越された」ことによります。その命令が、21~22節「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。『さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない』」です。
 主なる神さまが自分たちの処を過ぎ越して、エジプト人の初子を撃って奴隷の苦しみから解放して下さったこの「過ぎ越し」の出来事こそが、ユダヤ人にとっての民族の原点です。そのためこの出来事を記念して毎年行われるのが、ユダヤ教最大の祭りである「過ぎ越しの祭り」です。この祭りを毎年繰り返し行なうことで、民族としての土台を確認します。そして24~27節にあるように、この出来事と祭りを子どもたちに語り伝えて、ユダヤ人としての信仰を継承しているのです。彼らは国が失われ、世界各地に散らされて行ってからも、この祭りを忠実に守り続けることで、民族としてのアイデンティティを保っているのです。
 新しい神の民である私たちキリスト教会も、古い神の民であるイスラエルの歴史を受け継いでいます。それゆえ、キリスト教会は、新約聖書だけでなく旧約聖書も聖書として重んじます。出エジプトを巡る過ぎ越しの出来事は、古い民であるイスラエルの民に与えられた救いであると同時に、私たちキリスト教会に与えられる救いのひな型でもあります。家の柱と鴨居に塗るための血を流した(犠牲となった)のは、1歳の雄の小羊でした。その一方、罪の虜となっている新しい民の救いと贖いのために、神の御独り子であられるイエス・キリストが十字架で血を流して下さったのです。「キリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(Ⅰコリント5章7節)。キリストこそが私たちの救いのための過ぎ越しの小羊の犠牲となって下さいました。それゆえ、毎週の礼拝が、私たち新しい神の民の過ぎ越しの祭りなのです。キリストが復活して下さったのが週の初めの日であったことから、主の日として日曜に礼拝を献げて来たのです。血を流して犠牲となって下さったイエスさまに感謝して、毎週の礼拝を献げてまいりましょう。

住所

伊勢崎町3-8
Kochi-shi, Kochi
7800046

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