愛ランド・キリスト教会

愛ランド・キリスト教会 神戸市東灘区の六甲アイランドにあるキリスト教会です。愛ランドは神様?

2026年5月31日 三位一体愛ランドキリスト教会宣教宣教者:Ⅼ.シグルソン師宣 教:「あなたには、名前がある」詩編 8篇 (旧840)コリントの信徒への手紙二 13章11~13(新341)マタイによる福音書 28章16~20節(新60)━...
02/06/2026

2026年5月31日 三位一体
愛ランドキリスト教会宣教

宣教者:Ⅼ.シグルソン師
宣 教:「あなたには、名前がある」


詩編 8篇 (旧840)
コリントの信徒への手紙二 13章11~13(新341)
マタイによる福音書 28章16~20節(新60)

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洗礼:天の戸籍に入る
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今日の箇所は、洗礼についてです。洗礼とは何でしょうか。

日本では、名前は所属を表します。姓が先に来て、名前はその後です。そして、すべての日本人は戸籍に登録されています。市役所に保管されている、家族の公式な記録です。

生まれたとき、名前は戸籍に書き込まれます。そこに書かれることは、認められることです。どこに属しているかが決まることです。戸籍に入っている人は、居場所があります。

今日の箇所から、こう言えます。

洗礼は、儀式ではありません。洗礼は、神様の家族の名簿に名前を書き込まれる瞬間です。父と子と聖霊の名前の中に入れられる瞬間です。今日は、そのことを一緒に見ていきたいと思います。

マタイによる福音書28章16節から17節をお読みします。

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📖 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」
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弟子たちはガリラヤへ行きました。イエス様が指示された山に登りました。そしてイエス様に会いました。ひれ伏した人もいました。でも、疑った人もいました。礼拝した人と疑った人が、同じ場所にいました。

そして、イエス様はすべての人のそばに来られました。疑っている人たちが答えを見つけるまで、待たれませんでした。イエス様は、完全な信仰を条件にされませんでした。それは、頑張って手に入れるものではありません。与えられるものです。

これは、洗礼について大切なことを教えています。最初から最後まで、洗礼は神様の恵みです。

次に、19節を見ましょう。

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📖 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」
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これが今日のメッセージの中心です。

一つ、言葉に注目してください。

イエス様は「父と子と聖霊の名前たち(複数)によって」とはおっしゃいませんでした。「名前(単数)によって」とおっしゃいました。父なる神様と、子なるイエス様と、聖霊様。この三つのお方が、一つの名前の中におられます。三つの別々の場所に入るのではありません。一つの家族に入るのです。一つの名前、一つの所属です。

戸籍のことを考えてみてください。子どもが生まれると、その名前は家族の戸籍に書き込まれます。公式に。法的に。ずっと変わらずに。その子どもは家族に属しています。

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テーブルに用意された「あなたの居場所」
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洗礼は、神様の戸籍です。

洗礼のとき、あなたの名前が、父と子と聖霊の家族の名簿に書き込まれます。しばらくの間だけではありません。ずっと、変わらずに。

ルカによる福音書10章20節で、イエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたの名は天に書き記されている。」これが洗礼です。名前が書き込まれること。天の戸籍に入ることです。

では、父と子と聖霊という三つのお方について、少し見てみましょう。

15世紀のロシアに、アンドレイ・ルブリョフという修道士がいました。彼が描いた一枚の絵が、600年以上にわたってキリスト教の世界で語り継がれてきました。三つの人物がテーブルを囲んで座っています。それぞれがお互いを向いています。テーブルの手前には、一つの空いている場所があります。見る人への招待です。

この場所は、ただで用意されたのではありません。なぜ、あの場所に座ることができるのでしょうか。パウロはこう書いています。「わたしたちは、キリストの死にあずかるために洗礼を受けた。」暗い話ではありません。私たちの代わりに死なれたイエス様と、同じ場所に立つということです。イエス様がその場所を離れて、十字架に行かれました。復活されたから、その場所は今もそこにあります。

洗礼は、あなたがそのテーブルに招かれ、座る瞬間です。

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ケニアの人も、神戸の人も、同じ名簿に
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少し、遠い場所の話をさせてください。私が2000年から2001年にかけて、ケニアのカラポコットという地域で働いていたときのことです。6人のポコット人の伝道者たちと一緒でした。その地域の人々が、イエス様のことを聞かせてほしいと、伝道者たちを招いてくれました。伝道者たちは、丁寧に、時間をかけてみことばを教えました。

ある日、数百人の人々が洗礼を受けました。私はそこに立って、その様子を見ていました。一人ひとり、この名前の中に入れられていくのを見ました。イエス様を信じたいと願っていた人々です。

今、猶さんが準備しています。一つひとつのレッスンを通して。6月に、同じこの名前の中に入れられます。ケニアと神戸。言葉も、文化も、規模も、すべてが違います。でも、同じ名前です。同じ家族の名簿です。

この名前は、受けるためだけにあるのではありません。持って歩くための名前です。その名前を背負って、日常の中へ出ていくということです。

最後に、20節の後半を見ましょう。

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📖 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
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マタイの福音書は、1章23節から始まります。イエス様の名前、「インマヌエル」。「神は我々と共におられる」という意味です。そして、この福音書の最後はここで終わります。「いつもあなたがたと共にいる。」この福音書は、この約束から始まり、この約束で終わります。それらは同じ約束です。

「いつも」とはどういう意味でしょうか。たまにではありません。信仰が強いときだけではありません。毎日です。どの日も。

すでに洗礼を受けている方々に、言いたいことがあります。

皆さんの中には、何十年も前にこの名前の中に入れられた方々がいます。この国では、クリスチャンは100人に1人もいません。その中で、この名前を静かに持ち続けてきた方々がいます。仕事の中で。病気の中で。悲しみの中で。ただ過ぎていく、普通の毎日の中で。皆さんの名前を持っておられる方は、そのすべての日、一緒にいてくださいました。

そして、一人で持ち続けてきたのではありません。今日ここにいる方々を見てください。同じ名前の中に入れられた、家族です。

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99歳の生涯。完全にかなえられた約束
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今週の金曜日、私たちの教会に長く連なってこられた方が、99年の生涯を終えられました。桂月兄といいます。洗礼を受けたとき、「神様のもとに行ける」と喜んでいたと聞きました。そして今週の金曜日、その言葉の通りになりました。洗礼のときにいただいた約束は、ずっと、有効でした。そして最後に、完全にかなえられました。

今日、こんなことを思っている方がいるかもしれません。

「洗礼を受けたのはずっと昔のことです。今でも有効でしょうか。」約束は過去形ではありません。現在形です。「いつもあなたがたと共にいる。」「毎日」の中に、今日も入っています。

「洗礼の後で罪を犯しました。名前を失ってしまったでしょうか。」17節の弟子たちを見てください。使命を与えられた、まさにその日に疑いました。それでも、イエス様は名前を取り消されませんでした。神様の家族の名簿に属していることは、あなたの行いにかかっていません。そして、この名前はあなたを呼んでいます。罪の中に留まるためではありません。もう一度、イエス様に従うためです。

「自分が属しているという感覚がありません。」戸籍は、その日の気持ちで変わるものではありません。名簿はそのままです。感覚は来たり去ったりします。でも、名前は変わりません。

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愛する人の名を、神様の前に持っていく
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もう一つだけ言わせてください。

皆さんの中には、愛する人がまだこの名簿に入っていないと知っている方がいます。それは本当の痛みです。今日のメッセージはその痛みを解決しません。でも、こう言えます。その名簿を持っておられる方は、すべての民のところへ行くようにと命じてくださった方です。カラポコットに伝道者を送った方です。猶さんを洗礼盤へと引き寄せている方です。その名前は、私たちが見えるよりも遠くまで届きます。その届き方の一つは、あなたの祈りです。愛する人の名前を、毎日、神様の前に持っていくことです。もう一つは、あなたの言葉です。この名前について話す機会を、恐れずに持つことです。「行って、すべての民を弟子にしなさい」という言葉は、遠い国への命令だけではありません。あなたの隣にいる人への招きでもあります。

今日のタイトルに戻りましょう。

「あなたには、名前がある。」

6月に、猶さんはこの名前の中に入れられます。

あなたには、名前がある。

それが洗礼です。

── 祈り ──

神様、今日のみことばをありがとうございます。洗礼によって、私たちの名前があなたの家族の名簿に書き込まれたこと、改めて感謝します。父と子と聖霊の名前の中に入れていただいた恵みを、今日も覚えて歩んでいくことができますように。まだあなたを知らない、私たちの大切な人たちのためにも祈ります。あなたの名前が、その人たちにも届きますように。イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン。

2026年5月10日 愛ランドキリスト教会宣教 平野嘉春宣教者:平野嘉春師宣 教:「聖霊と共に生きる恵み 」使徒言行録17:22~31Ⅰペトロ3:13~22ヨハネ14:15~21♪讃美歌21 4 世にあるかぎりの54 聖霊みちびく神のことば...
11/05/2026

2026年5月10日 愛ランドキリスト教会宣教 平野嘉春
宣教者:平野嘉春師
宣 教:「聖霊と共に生きる恵み 」


使徒言行録17:22~31
Ⅰペトロ3:13~22
ヨハネ14:15~21

♪讃美歌21 
4 世にあるかぎりの
54 聖霊みちびく神のことばは
342 神の霊よ、今くだり
402 いともとうとき

♪リビングプレイズ 
72 いのちの水

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はじめに
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主イエス・キリストから恵みと平安がありますように。4月5日主イエスの復活を喜び祝いました。イエス様に選ばれ、招かれた弟子たちは、イエス様が十字架に架けられ墓に葬られた時、悲しみと絶望のどん底に沈んだと思います。平安を失いました。幾人かの婦人たちはイエスの遺体を丁重に葬るために香料を準備して墓に向かったのです。しかし、そこで驚くべきことを目撃しました。墓は空になっており、イエス様が復活されたのです。イエス様は復活の事実を現すために、40日にわたって弟子たちにご自身を現されました。今日は復活後第6主日です。今週の木曜日が主の召天日です。主は約束されました。「わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいる。」祈りましょう。

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祈祷
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天地創造の父なる神様、あなたのみ名を称え賛美します。あなたは豊かな恵みを日々私たちに与えてくださいます。私たちは心も身体も霊的にも弱さを抱えています。体の弱さを覚えている者に癒しを与えてください。心の問題を抱えている者に慰めと平安を与えてください。霊的な問題を抱えている者にイエス様の十字架の恵みにより罪の赦しと聖霊の助けを与えてください。私たちの国にあなたの平和を、世界の国々に和解と平和を与えて下さい。父と子と聖霊のみ名によって祈ります。アーメン。

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Ⅰ.キリストの十字架によって赦され、新しい命に生きる
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イエス様は捕らえられ十字架に架けられる前にヨハネ福音書13章から16章で弟子たちに告別の説教をしています。イエス様の死による別離に不安を覚えていた弟子たちに語りました。

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📖【ヨハネ14:1~3】「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
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私たちの信仰の中心はイエス・キリストの十字架と復活です。イエス様は私たちのすべての罪を負って十字架につけられ裁かれました。そして三日目に死からよみがえられました。

イエス・キリストの救いとはどのような救いでしょうか。

第一に罪からの解放です。罪を犯す弱さを持った私たちです。この肉体を持って生きる限り罪から自由ではありません。従って罪に対して死ぬ以外にありません。キリストの十字架は罪に支配された私がキリストと共に死んだことを保証しています。主は私たちの罪を見ないで、信仰を見ておられます。

第二に罪の裁きからの救いです。私たちが犯した罪はキリストの十字架によって神の裁きを受けました。ですから今は罪に対する裁きから解放され、赦されています。

第三に死からの救いです。キリストは復活されました。罪赦された私たちは新しく生まれ、永遠の命を受けています。魂は永遠にキリストと共にあります。この肉体は死を通されますが、キリストは私たちを朽ちることにない新しい体によみがえらせてくださいます。

イエス様を信じて洗礼を受けた人はこの救いの約束が保証されています。私たちは洗礼を受けて神の救いをうけていますが、日常生活において、今も罪を犯してしまう現実があります。新しい命に生きる生活において何が重要でしょうか。イエス様は二つの事柄を語っています。

①あれをしてはならない、これを食べたり飲んだりしてはならない。クリスチャンらしく生きなければならない。など律法に縛られた生活ではありません。また欲望のままに生きるのでもありません。

イエス様が語られた新しい掟によって生きることです。また律法ですかと思われるかもしれません。アダムから受け継ぐ罪の支配というものは強力なものです。私たちは罪赦された罪びとです。本質においてはイエス・キリストの恵みにより罪の贖いをすでに受けています。しかし、肉の弱さはまだ続いています。罪の支払う報酬は死という原理は残っています。従って毎日の生活で十字架が必要です。十字架によって私たちはすでに死んだのです。洗礼は古い罪に支配された私が死んだことを示しています。

ペトロの手紙の中でノアの洪水の水が洗礼に譬えられています。ノアの時代、世界は罪に満ちていました。神様はこの罪に満ちた世界を洪水によって滅ぼすことにしました。ただ一人神への信仰をもって生きたノアを救おうと決められました。神様は洪水によって世界を滅ぼすと警告を与えました。神はノアにすべての動物の雄と雌のつがいを入れることのできる巨大な箱舟を造り、ノアとその家族が箱舟に入り洪水から命を守るように語られました。ノアは神の言葉を信じて箱舟を造りました。この建造にかなりの年月がかかったでしょう。ノアはその時代の人々に洪水が迫っていると神からの警告を伝えたでしょう。しかし彼らはノアをあざけり、神の言葉に耳を傾けることはありませんでした。ノアとその家族だけが箱舟に入り救われたのです。この洪水の水は洗礼を象徴しているというのです。私たちは洗礼を受けることによって罪と死と神の裁きから救われます。これまでの罪の生活から新しい生活に変えられるのです。

新生したキリスト者は生まれたばかりの乳飲み子のように、霊の乳であるみ言葉を受けて生きることが必要です。サタンと私達の肉の性質は罪に誘います。イエス様によって与えられる新しい命に生きることが必要です。これをイエス様は新しい掟と言われます。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することです。

②弟子たちはイエス様と共に歩んだ3年間、イエス様が一緒だったので安心でした。しかし、イエス様は離れていかれるのです。それは不安でした。主が離れていかれたら以前の生活に戻るのでしょうか。イエス様は語りました。

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📖【ヨハネ16:6~7】「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
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イエス様が弟子たちを離れて天に挙げられることは弟子たちのためになる。それは聖霊をひとりひとりに送ってくださるからです。そうするとイエス様がそばにおられた時よりももっと素晴らしいことが起こるからだと言われるのです。聖霊を受けることにより毎日そして永遠にイエス様が一人一人と共にいてくださるのです。

4月25日北大阪教会の一人の姉妹が98年の生涯を終えて召されました。召される前日お見舞いしました。お祈りしました。イエス様が共におられることを話して祈りました。主の祈りを共にしました。私は姉妹がイエス様に出会っていることを信じて祈りました。

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📖【ヨハネ14:16~18】わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
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聖霊はみ言葉と共に私たちを助けてくださいます。

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Ⅱ.パウロが伝えた「知られざる神」
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イエス様が十字架につけられて墓に葬られた時、弟子たちはユダヤ人の指導者たちを恐れて部屋にカギをかけて集まっていました。彼らはこの世の権力を恐れたのです。しかし復活の主が彼らに現れました。そしてペンテコステに聖霊が彼らの上に降ってこられた時、彼らは変えられていました。新しい命を受けていたのです。世の権力も恐れなくなっていました。神の力が彼らの内に働いていました。神の力によるしるしも現れました。聖霊を受けることによって世界の果てにまでイエスの救い、恵みが伝えられるためでした。大胆に福音を伝えるようになりました。

パウロは小アジアからギリシャさらにローマにまで福音を伝える使徒となりました。今日の聖書の個所ではギリシャの中心地、アテネのアレオパギス評議所で福音を伝えました。ギリシャのアテネ、それは多くの哲学者を輩出しました。またゼウスをはじめ多くの宗教がありました。ヘレニズムの文化の影響は世界に広がっていきました。パウロはそのアテネで福音を語ったのです。この都市では信仰を受け入れた人は多くはありませんでした。

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📖【使徒17:22~27】「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
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この聖書の言葉は、現在の日本に当てはまると思います。世界で二番目にクリスチャン人口の少ない国と言われています。日本でクリスチャンが最も少ないのは福井県です。私は福井県の奥深い山村で生まれ育ちました。仏教・曹洞宗の永平寺があります。私の父は仏教の求道者でした。ここにも福音は届きました。日本もパウロの時代のアテネと同様に多くの宗教があります、進化論をはじめとする様々な哲学思想にあふれています。パウロはたとえ彼らが受け入れなくても力強く大胆にこの町の中心で彼らに福音を伝えたのです。

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Ⅲ.聖霊を受け、世の光、地の塩となる
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使徒ペトロは熱しやすく冷めやすい性格、多血質であったと言われます。信仰においても積極的で、誰よりも一番でありたい性格でした。イエス様はペトロをよく知っておられました。ペトロは一番弟子のような存在です。非常に目立つ存在です。人はそれぞれ性格が違っています。イエス様はそれぞれの性格、成育史を知っておられます。ペトロは漁師でした。そしてバプテスマのヨハネの弟子でした。イエス様に招かれて弟子となりました。イエス様が山の上で変貌された時に目撃者となりました。イエス様への信仰の告白をしてほめられましたが、そのすぐ後にイエス様が十字架に架けられて死ぬことを語られた時、「そんなことがあってはなりません」と語り、叱責を受けました。イエス様が捕らえられた時、守ろうとして大祭司の手下の耳を切り落とし、イエス様からたしなめられました。どんなことがあってもイエス様を拒むことは無いと豪語しましたが、イエス様が裁判を受けている時、三度イエスを知らないと否認しました。イエス様が復活された時、空になった墓を確かめるために墓に行き確認しました。復活のイエス様から「私を愛するか、私の羊を養いなさい。」と三度語られ、新たに召命を受けました。罪深く失敗ばかりする弱さを持ったものを招かれる主です。

聖霊を受けたペトロは変えられていました。ペンテコステの日に群衆に向かってイエス様の十字架と復活、そして聖霊が降ってこられたことを宣教しました。異邦人コルネリオの一族に宣教しました。最後はローマで逆さ十字架につけられて殉教したと伝えられています。ペトロこの手紙第一を書いています。この手紙の中で、社会生活において、家庭の中で、イエス様の言葉に従って生きるようにと強調しています。キリスト者の内には聖霊が共におられるのです。あなたがみ言葉を信じて従う時、あなたの内にはキリストが共におられます。聖霊はあなたと共におられます。そしてあなたは世の光、地の塩となります。聖霊が助けてくださるからです。

2026年5月3日愛ランドキリスト教会宣教宣教者:Ⅼ.シグルソン師宣 教:「だれが祭司ですか」使徒言行録 7章55~60節(新227)ペトロの手紙一 2章2~10節(新429~430)ヨハネによる福音書 14章1~14節(新196~197)...
05/05/2026

2026年5月3日
愛ランドキリスト教会宣教

宣教者:Ⅼ.シグルソン師
宣 教:「だれが祭司ですか」


使徒言行録 7章55~60節(新227)
ペトロの手紙一 2章2~10節(新429~430)
ヨハネによる福音書 14章1~14節(新196~197)

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相楽園で見た神前式に思ったこと
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先日、家族と一緒に相楽園に行きました。そこで、相楽園パーラーのテラスで、神前式を見ました。神主さんが、白い特別な服を着ていました。式はとても静かで、大切な感じがしました。

神主さんは、式の中心にいました。祈りをささげ、言葉を述べ、儀式を行いました。新郎と新婦は静かに立っていました。招かれたお客さんたちは、静かに見ていました。神主さんだけが、宗教的な仕事をしていました。他の人は、ただ見ているだけでした。

それを見ながら、私はこう思いました。「もし今、皆さんにこう言ったら、どうでしょうか。」「この部屋にいるすべての人が、祭司です。」

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祭司とは「他者のために神の前に立つ者」
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まず、祭司とは何か、考えてみましょう。祭司とは、神様のもとに行くことができる人です。そして、その道を自分のためだけではなく、他の人のために使います。これが、祭司の大切な仕事です。

◎アロン

旧約聖書の中に、アロンという人がいました。アロンは、他の人が入ることができない聖なる場所に入りました。でも、自分のためだけではありませんでした。出エジプト記28章29節に、こう書いてあります。

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📖「このようにして、アロンは聖所に入るとき、裁きの胸当てにあるイスラエルの子らの名を胸に帯び、常に主の御前に記念とするのである。」
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アロンは、神様のもとに行くとき、人々の名前を心に持って行きました。これが祭司の姿です。他の人のために、神様のもとに行くことです。

◎モーセ

もう一人の人を見てみましょう。モーセです。ある日、イスラエルの人々は大きな罪を犯しました。神様はとても怒られました。その時、モーセは神様と人々の間に立ちました。出エジプト記32章32節で、モーセはこうお願いしました。「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」モーセは自分の命をかけて、人々のために神様に祈りました。これが祭司です。神様のもとに行き、他の人のために祈る人です。

さて、正直に話しましょう。多くの宗教は、相楽園で見た式と同じように見えます。特別な人が神様に近づきます。他の人はただ見ています。そして、もしかしたら、私たちも教会についてこう思っているかもしれません。「先生は特別な人だ。私たちは聞くだけでよい。」「信仰は、自分だけのものだ。他の人に話す必要はない。」「私には、特別なことは何もできない。」そう思う気持ちは、よく分かります。でも今日、聖書はとても違うことを言っています。

神様は、ずっと前から、ある夢を持っておられました。それは何でしょうか。それは、神様の民がみんな、祭司になることです。出エジプト記19章6節で、神様はこうおっしゃいました。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」「祭司の王国」です。一人の祭司ではありません。王国のすべての人が、祭司です。これが神様の夢でした。

でも、イスラエルの人々はこの夢を受け取ることができませんでした。彼らは神様を怖れて、こう言いました。「わたしたちに話してください。そうすれば聞きます。神が直接話されないようにしてください。死んでしまうといけないから。」だから、アロンとレビ族の人々が祭司になりました。普通の人々の代わりに、彼らが神様のもとに行くことになりました。でも、これは神様の本当の夢ではありませんでした。

ここで、民数記11章の話を聞いてください。モーセは一人で、たくさんのことを担っていました。神様は、モーセを助けるために、70人の長老を選ばれました。そして、モーセの上にあった聖霊を、70人の長老にも分けてくださいました。長老たちは会見の幕屋に集まりました。聖霊が来ると、彼らは預言しました。

でも、エルダドとメダドという二人は、幕屋に来ませんでした。彼らはまだ、宿営の中にいました。しかし、神様の聖霊は、彼らの上にも来ました。そして彼らも、宿営の中で預言し始めました。ある若者がモーセのもとに走って来て言いました。「エルダドとメダドが宿営の中で預言しています。」

モーセの助手のヨシュアは、とても心配しました。民数記11章28節で、ヨシュアはこう言いました。「わが主モーセよ、やめさせてください。」ヨシュアはモーセを守ろうとしていました。悪い気持ちからではありません。でも、モーセの答えはとても違いました。民数記11章29節で、モーセはこう言いました。

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📖「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
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「神様の民がみんな、預言者になればよい。」モーセは自分の特別な力を守ろうとしませんでした。反対に、みんながその力を持てばよいと願いました。これは、神様の夢と同じです。すべての人が神様のもとに行くことができる。すべての人が、他の人のために祈ることができる。

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「生きた石」として用いられる
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そして、ついにその夢が実現しました。どのようにして実現したのでしょうか。イエス様によってです。

ペトロの手紙一2章4節と5節に、こう書いてあります。

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📖「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」
+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

ここで、「石」という言葉が出てきます。イエス様は「生きた石」です。人々はイエス様を捨てました。でも、神様はイエス様を選ばれました。そして、私たちも「生きた石」です。でも、大切なことに気づきましたか。私たちは、一人の石ではありません。私たちは、一緒に積み上げられています。家を建てるとき、一つの石だけでは家になりません。たくさんの石が一緒に積み上げられて、初めて家になります。私たちは、イエス様のまわりに、一緒に積み上げられています。これが教会の姿です。一人一人ではなく、一緒に、です。

では、9節を読みます。ゆっくり聞いてください。ペトロの手紙一2章9節に、こう書いてあります。

+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+
📖「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」「王の系統を引く祭司。」
+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

これは出エジプト記19章の言葉です。神様の古い夢がここで実現しました。モーセが願ったことが、ここで実現しました。

約500年前、マルチン・ルターという人がこの聖書の真理を再び人々に伝えました。ルターはこう教えました。特別に選ばれた聖職者だけが祭司になるのではありません。洗礼によって、すべての信者がすでに神様のもとへの直接の道を与えられています。洗礼が、私たちを祭司にするのです。

そして10節です。ペトロの手紙一2章10節に、こう書いてあります。

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📖あなたがたは、かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けているのです。
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もしかしたら、この部屋にいる人の中で、こう思っている人がいるかもしれません。「私はまだ信仰が浅い。」「私はもう年を取っている。大きなことは何もできない。」「私はただの普通の人間だ。」でも、聖書はこう言います。あなたは神様の民です。あなたは神様の祭司です。これは、私たちが何か特別なことをしたからではありません。神様がそう決められたからです。イエス様がその道を開いてくださったからです。

ヨハネによる福音書14章6節で、イエス様はこうおっしゃいました。

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📖「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
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イエス様が道を開いてくださいました。神様のもとに行く道です。今は、特別な人だけが神様のもとに行く時代ではありません。祭司の仕事を思い出してください。神様のもとに行き、他の人のために祈ることです。自分のためだけに祈る祭司は、本当の祭司ではありません。祭司は、他の人を心に持って、神様のもとに行きます。もしかしたら、こう思っている人がいるかもしれません。「私はもう年を取っている。体も弱くなった。祭司として何ができるだろうか。」聞いてください。祭司の仕事は、体の強さでは決まりません。誰かの名前を心に持って、神様のもとに行くこと。これは、若くても年を取っていても、誰でもできることです。

◎ステファノ

最後に、ステファノという人の話をします。使徒言行録7章です。ステファノは祭司ではありませんでした。彼は執事でした。教会の中で食べ物を配る仕事をしていた人です。でも、ステファノが死ぬとき、彼は最も祭司らしいことをしました。

使徒言行録7章55節から60節に、こう書いてあります。

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📖「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」
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そのとき、人々はステファノに石を投げ始めました。聖なる場所も、祭壇も、守ってくれる壁もありませんでした。石が体に当たる中で、ステファノはこう祈りました。

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📖「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」
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それから、

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📖「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」
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ステファノは、自分を殺そうとしている人たちのために、神様に祈りました。白い服はありませんでした。特別な称号もありませんでした。でも、ステファノは祭司でした。神様のもとに行き、他の人のために祈ったからです。

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すべての人が祭司として招かれている
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今朝、相楽園の話から始めました。白い服を着た神主さんが、式を行っていました。彼だけが、宗教的な仕事をしていました。他の人は、静かに見ていました。でも、イエス様が開いてくださった道は違います。皆さんには、特別な服はないかもしれません。でも、皆さんには、イエス様を通して神様のもとに行く道があります。そして、他の人のためにその道を使う呼びかけがあります。私たちは、一人一人が祭司なのではありません。私たちは一緒に、祭司の民です。イエス様のまわりに積み上げられた、生きた石です。互いのために、そして世界のために、神様のもとに行く人々です。

最後に、一つだけ質問をします。リストではありません。一つだけです。

あなたは今、だれの名前を神様のもとに持って行っていますか。

私たちは一緒に、祭司の民です。暗闇の中から、驚くべき光の中へと招かれた、神様の民です。

2026年4月26日 復活後第4主日 愛ランドキリスト教会宣教宣教者:籠谷昌宏 宣 教:「良い羊飼いとその羊/の群れ 」使徒言行録 2章42~47節(新215)ペトロの手紙一 2章19~25節(新431)ヨハネによる福音書 10章1~10節...
29/04/2026

2026年4月26日 復活後第4主日
愛ランドキリスト教会宣教

宣教者:籠谷昌宏
宣 教:「良い羊飼いとその羊/の群れ 」


使徒言行録 2章42~47節(新215)
ペトロの手紙一 2章19~25節(新431)
ヨハネによる福音書 10章1~10節(新186)

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はじめに
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復活後第4主日ですが、今日のテーマは復活されたイエス・キリストと教会の関係についてです。使徒言行録の箇所は誕生したばかりの教会の様子を記述しています。ヨハネ福音書の箇所は、イエス・キリストがこの世におられた時に語られた、羊飼いと羊の譬えですが、後の教会の様子を譬えで示しておられます。そして、ペテロの手紙は、教会の基礎となる、イエス・キリストの十字架と復活の福音を再確認している箇所で、「羊」がクリスチャンの譬えとして語られています。まず今日の結論を述べ、その後に各箇所の説明をします。


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教会の誕生と存在意義
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この世におられた時のイエス・キリストは教会の創始者ではありません。イエスとその弟子の集団は作られましたが、十字架に掛かって死なれた時、その集団は一旦なくなりました。イエス・キリストが十字架の死から復活されて、再び、この世に現われ、イエスの集団は再生されました。そして、弟子たちをイエス・キリストの復活の確かな証人とされ、宣教使命を与えられた後、イエス・キリストは天に昇られました。その後、聖霊が弟子たちに下された時に「教会」が誕生しました。ペンテコステの出来事です。ペテロが、集まってきた群衆にイエス・キリストの十字架と福音を宣べ伝え、大勢の人がイエス・キリストを信じ、弟子たちとそれらの信徒が教会を形成しました。

このように、神は、教会の成立に際して、こまやかに手順を踏まれました。それは、この世に誕生した教会が、今は天におられるイエス・キリストのこの世での顕現、現われとなるためです。パウロが、その書簡の随所で、教会はイエス・キリストの身体である、また、イエス・キリストは教会の頭であると述べているとおりです。神の独り子であるイエス・キリストはこの世において唯一の存在でした。復活されたイエス・キリストも唯一の存在で、同時にあちこちに現われてはいません。従って、宣教のため、全世界に普遍的に存在するには、「教会」という姿、形を取らなけければならなかったのです。「教会」は、すべての人が見ることができ、聞くことができる、復活され、天に上られたイエス・キリストのこの世での現われです。純粋に霊的な意味において、イエス・キリストの身体です。教会の誕生と存在は、イエス・キリストが私たちと同じ人として、すべての人の霊の救いのためにこの世にお生まれになり、目に見える姿で、住んでくださったのと霊的に同質の出来事です。また、教会は、来るべき再臨、さらには天国の予兆、雛形でもあります。


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信徒の交わりを通じて聖霊が働く場所「教会」
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教会とは、具体的にどのようなもの、もしくは状態なのでしょう。もちろん、単に建物や物理的な形や物ではありません。教会の基礎は、イエス・キリストの十字架の福音です。聖書、または神の御言葉と言ってもよいでしょう。今日のペテロの手紙の箇所がそれを代表して示していますが、聖書全体がイエス・キリストの福音を証ししています。

その福音の基礎の上に形成される教会の基本要素は、イエス・キリストと主に従う「私」、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられた「私」であり、すなわち「あなた」です。皆さん、一人一人とイエス・キリストの関係、「我と汝」の霊的な絶対的関係です。トマスが復活されたイエスに出会った時に、「わが主、わが神よ」と信仰告白した関係です。しかし、その基本要素、イエス・キリストと私の関係性だけでは教会は成立しません。基本要素が2つ以上集まった集まり、使徒信条で告白するように、「信徒の交わり」が教会であり、今現在のこの世におけるイエス・キリストの身体です。今日のヨハネ福音書の箇所では、「羊飼いとその羊」が基本要素で、「羊飼いとその羊の群れ」が教会の譬えとなっています。この集まりは「イエス・キリストと私」の集合体であり、「イエス・キリストと信徒たち」ではないことに留意してください。

具体的には、今この礼拝の時と場所、時空間が「教会」です。この世にありながら、「教会」は神の時空間の中に存在しています。そこには、神の言葉があり、福音があり、聖霊の力が働いています。信仰告白で、「我は聖霊を信ず」と告白した後、続いて、「また、聖なるキリスト教会、すなわち聖徒の交わりを信ず」と信仰を告白しますが、聖霊があっての教会だからです。聖霊は教会を通して働くと言われます。聖霊は「信徒の交わり」を通して働かれます。神の言葉があり、信徒が二人以上集まっている場所と時間が「教会」です。家庭集会、祈り会、役員会なども教会です。教会に属していないクリスチャンは存在しないといっても過言ではありません。一人で家で祈ることや聖書を読むことは大切ですが、それは神と、またイエス・キリストとの個人的な交わりであり、「教会」ではありません。

また、この世における「教会」は、きたるべき「神の国」、「天の御国」の予兆、雛形です。この世に在る限り、完全な「教会」はありえません。「私」たちは罪赦された罪人だからですが、イエス・キリストが再臨される時には、すべての信徒が復活したイエスと同じ復活の身体、「原罪」のない身体に与って、完全な、一つの「教会」が成立し、イエス・キリストが共に住んでくださる「神の国」に永遠に生きることが約束されています。

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ペテロの手紙一:魂の牧者の元へ
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それでは、今日与えられている聖書の箇所を、復活されたイエス・キリストと教会との関係において、考えてみましょう。まず、教会の基盤である、イエス・キリストの十字架の福音を再確認しましょう。今日も、私たちは使徒信条によって信仰告白をしましたし、皆さんは毎週の礼拝において、福音を聞いておられますので、詳細な説明は必要ないでしょう。十字架を指し示すだけで十分だと思いますが、折角ですから、今日与えられている、ペテロの手紙12章19節以下を見てみましょう。

ペテロの手紙1は、ローマ帝国支配下の、現在のトルコの異邦人キリスト者の集会に向けて書かれた手紙で、ローマの支配下、迫害をはじめとする困難な状況下にあった信者たちを励ますため書かれています。今日の箇所は、18節にあるように、「召し使いたち」、つまり「奴隷たち」にむけて勧めをしています。

21節以下が今日のテーマにそった箇所で、24節が福音を示している箇所です。「そして、十字架にかかって、みずからその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました。」とあります。ここで「罪」とあるのは「原罪」のことで、神に対する霊的な罪のことです。犯罪のことではありません。神に対する罪ですから、裁くこと、赦すことができるのは神のみです。

25節で、「あなたがたは羊のようにさ迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところに戻ってきたのです。」とあります。魂の牧者、イエス・キリストのことですが、福音は、私たちの魂に関わる霊的な事柄なのです。霊的な事柄は、完全に主観的、個人的な事柄です。誰かと比べたり、真似たり、肩代わりしたり、強制したりすることはできません。神と私、イエス・キリストと私の問題です。「汝と我」という絶対的な関係であり、ヨハネ福音書における「羊飼いとその羊」の関係です。ここの「羊のようにさ迷っていた」がヨハネ福音書の箇所とリンクしています。

私たちの魂は、神に世話されずに放っておかれるとさ迷うのです。私たちの魂は、天地の創造主なる神から与えられています。神がその息を吹き込まれたから、わたしたちは生きているのです。だから、本質において神と同一であるイエス・キリストの十字架の福音によって、魂の牧者、すなわち神なるイエス・キリストのところに「戻れる」とペテロは証言しています。イエス・キリストだけが具体的に私たちの魂の世話ができるのです。

なお、今日のテーマとは少し外れますが、ペテロは、そのような福音を得たのだから、奴隷たちに、イエス・キリストに倣って、困難な状況を耐え忍ぶようにと勧め、励ましています。根拠なく、「がんばれ」と言っているのではないのです。福音があるから、イエス・キリストが共におられるから、忍耐して生きようと励ましています。今日のテーマに関連して、もう少し深く解釈すれば、この生きにくい世の中にあっても、復活されたイエス・キリストの顕現である「教会」があり、その教会の交わりに入れて頂いているのだから、すなわち、教会によって、復活されたイエス・キリストと共に生きることができるのだから、この世の困難にも忍耐することができるとペテロは証ししています。


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ヨハネ福音書:羊飼いの声を聞き分ける羊
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次に、ヨハネ福音書の箇所を見ていきましょう。今日の箇所は1節から6節までと、7節から10節までの二つの部分に分かれます。前半は、9章からの続きで、イエス・キリストが生まれながらの盲人の眼を癒されたという奇跡に対して、ファリサイ派や律法学者が疑ったという話の結論となっています。10章1節で、盗人、強盗にたとえられているのは、イエス・キリストの奇跡、すなわち神性を疑うファリサイ派や律法学者たちのことです。

今日のテーマに関連するのは、3節で「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」というところです。「羊飼いと羊」の関係が書かれていますが、羊はそれぞれ名前が付けられています。ここに、羊飼いであるイエス・キリストと「私」の一対一の関係が示されています。この譬えでは、羊の囲いは「この世」で、門番は神、羊飼いはイエス・キリストとなります。私はイエス・キリストの羊です。イエス・キリストの羊であることは、名前を付けられていることから分かります。名前を付けられるとは、イエス・キリストの十字架の福音を受け容れ、「洗礼」を授けられたということの譬えです。羊飼いの声を聞き分けるとは「信仰」を得ているということです。羊飼いとその羊の群れが教会の譬えとなります。羊の群れは、羊飼いが先頭に立って、水場、草地へと導かれて行きます。夜になると羊の囲いに連れ帰られ、他の羊飼いの羊と混じって夜を過ごします。最初、この箇所を読んだときに、羊の囲いが教会に譬えられているのかと思いましたが、少し考えれば、羊の囲いは「この世」のことであることが分かります。盗人や強盗が囲いを超えて入って来るからです。注目したいのは、囲いの中の羊は、良い羊とも悪い羊ともかかれていません。羊飼いであるイエス・キリストの声を聞き分ける羊か、そうでない羊かの違いです。「声を聞き分ける」とは、既に申し上げたように、イエス・キリストを信じるということです。それは、イエス・キリストが、「あなたはわたしの羊である」と名前、もしくは「しるし」を付けてくださる、その名前、しるしを受け入れるということです。

ここで、ちょっと横道にそれますが、なぜ、神様が私を、また、あなたを大事に思ってくださるのかを考えてみたいと思います。本質的に、私は神の恵みに与る資格はありません。私は犯罪人ではありませんが、聖書で言うところの「罪人」であることは事実です。私は、当然、私自身の霊性、内面を知っていますので、自信を持って断言できます。しかし、神がそんな罪人の私を大事にしてくださるのです。何故でしょう。それは、神にとって、私は、この世でたった一つの宝だからです。神は天と地、この世のすべてを創造され、すべての人を造られ、それぞれに魂(霊)を与えられましたが、私と全く同じ人格はありません。私は、この世で一つ、過去にも未来にも、たった一つの人格です。創造主なる神にとっては掛けがえのない宝です。ユダヤ人にとって、羊は貴重な財産、宝でした。一匹たりとも損ないたくない、一匹でも多く所有したい財産でした。神にとって、すべての人が、たった一つの掛けがえのない宝です。ここに、既に教会の姿があります。

次に、後半部分ですが、ここでは、イエス・キリストはご自身を羊の門に譬えられています。イエス・キリストは、「わたしは羊の門である」と話され、十字架での死による罪の贖いとその死から復活を、良い羊飼いの譬えを用いて、語られています。イエスという門を通って、すなわちイエス・キリストが救い主である、私の羊飼いであるということを受け容れて、でしか、誰も、神の救い、神の赦しに与れず、神の国に入れないということです。今日のテーマの教会の基盤となる「福音」について、イエス・キリストご自身が語っておられる部分です。10節で「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」という御言葉です。復活され、天にのぼられたイエス・キリストの、この世での顕現、もしくは御姿である「教会」がこの世に成立したのは、羊である「私」が命、霊的な命を豊かに受けるためであるということをはっきりと明示しています。11節からもその続きで、18節まで続きます。今日は復活後の礼拝なので、受難と復活は既に完了したこととして、10節までで区切ったのだろうと思います。

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使徒言行録:聖なる公同の教会
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次に、使徒言行録から、教会の大切な要素を考えてみたいと思います。初代教会が大事にしたことは、2章42節で、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあります。使徒の教えとは、御言葉であり、礼拝であり、メッセージのことです。相互の交わりは、信徒の交わりであり、教会そのものであると同時に、信徒間の交わりのことです。ここで注意したいのは、ここまでお話ししてきたことを考えると、信徒と信徒の直接的な交わりではなく、イエス・キリストを介した交わりであるということです。具体的には、御言葉があり、相互の祈りがあり、イエス・キリストが教えられた「互いに愛し合いなさい」という教えに基づいた交わりです。例えば、祈り会、家庭集会、聖書研究会、役員会、信徒総会など、御言葉があり、イエス・キリストの名による祈りがある集会が相互の交わりと言えるでしょう。

「パンを裂くこと」とは、聖餐式のことです。イエス・キリストの十字架での福音を思い出し、罪許されたことを確認するために、イエス・キリストが制定された「聖礼典」です。ここから、教会とは、「福音」が語られ、聖礼典が正しく行われる場所と時間、時空間ということになります。

43節以下にも初代教会の様子が証しされています。44節、45節は、原始共産主義といわれる、初代教会の様子ですが、これは、イエス・キリストがこの世におられた時の、イエス・キリストの集団が、そのような共同体であったことの名残だろうと思います。この共同体形態は、残念ながら、この世にあっては長続きしませんでした。この時点では、「家ごとに集まって」と書かれているように、家の教会、今で言う、家庭集会が「教会」の基本単位であったようです。しかし、宣教が行われ、救われる者が増えるに従って、信徒の交わりである教会が大きくなり、各地に成立するようになり、教会組織が整備されていくことになります。しかし、その基本要素は、先にみた42節や、46節の「毎日、ひたすらに心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まって、パンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた。」であり、御言葉と礼拝と聖礼典であったことがわかります。現在、世界中に「教会」がありますが、すべて、キリストの教会であり、各地にありながら、一つの群れです。それぞれの「教会」すなわち、信徒の交わりには、それぞれの特徴がありますが、基本要素のおいては、すべての教会が、一つのイエス・キリストの身体です。使徒信条で、「聖なるキリスト教会、すなわち聖徒の交わり」を信じると告白しますが、「聖なるキリスト教会」は、正式には「聖なる公同の教会」というべきです。讃美歌21では、使徒信条は「公同の教会」となっています。「公同の」という単語は元々、「カソリック」という意味なので、プロテスタント教会では、「キリスト教会」と言い換えているのです。しかし、今日お話ししたことを踏まえれば、単に「教会」というだけ良いのではないかと思います。「教会」とは「イエス・キリストにある交わり」、「羊飼いイエス・キリストとその羊の群れ」のことだからです。

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ルターの教会観と私たち
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最後に、私たちの教会のルーツであるルターの教会観を紹介します。ルターは、教会を、見える教会と見えない教会の二つの側面からとらえました。見えない教会とは「信仰によって結ばれた、信徒の交わり」であり、教会の本質としては、第一に大事な要素です。見える教会とは、その信徒の交わりの具体的な、地上で活動している集会のことです。地上で活動しているという点が大事な要素です。教会は、この世に存在しているということであり、この世に開かれていなければなりません。使徒言行録で「民衆全体から好意を寄せられた」と書かれているように、教会は神の時空間にあるのですが、同時に、この現実の世界に存在していることを忘れてはなりません。ボンヘッファーは「教会は世俗的でなければならない」と言っています。「世俗的」という言葉は誇張されていますが、教会は、この世を超越した、孤立した、孤高の存在であってはならないのです。

ルターのもう一つの教会観は、万人祭司という考え方です。真の祭司は、もちろん、イエス・キリストですが、信徒の交わりにおいては、それぞれが、それぞれの祭司であり、信徒でもあるという考え方です。教会のすべての信徒が直接神と向き合い、他の信徒のために執り成しの祈りをなし、仕えあうという権利と義務を有するという考え方です。

「教会」は、現在社会においても、初代教会から連綿と続いてきた本質、基本は少しも変わっていませんし、神様から与えられた宣教の使命は今も続いています。この世は、目まぐるしく変化しますが、教会はその本質を変えることなく、しかし、この世に開かれていなければなりません。どのように「教会」に関り、イエス・キリストに仕えていくかが、神様から私たち一人一人の信徒に問われています。それぞれに祈り求めていきましょう。イエス・キリストは「良い羊飼い」です。必ず、私たち、六甲アイランド教会を、豊かな牧場、清らかな水辺へと導き、それぞれの羊の豊かな人生を歩ませてくださり、ついには、天の御国にまで連れて行ってくださいます。

2026年4月19日 愛ランドキリスト教会宣教宣教者:平野嘉春師宣 教:「キリストの復活と私たちの救い」使徒言行録2:14a、36~41Ⅰペトロ1:17~23ルカ24:13~35♪讃美歌21 3 扉を開きて333 主の復活、ハレルヤ472 ...
21/04/2026

2026年4月19日 愛ランドキリスト教会宣教
宣教者:平野嘉春師
宣 教:「キリストの復活と私たちの救い」


使徒言行録2:14a、36~41
Ⅰペトロ1:17~23
ルカ24:13~35

♪讃美歌21 
3 扉を開きて
333 主の復活、ハレルヤ
472 朝ごとに主は

♪リビングプレイズ 
65 主は今生きておられる
73 よみがえられた主に仕えて

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はじめに
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皆さんおはようございます。主イエス様から恵みと平安がありますように。イスラエル・アメリカ・イランをめぐる中東に休戦、和平が成立しますように続いて祈りましょう。

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祈祷
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天地の創造者なる神様、あなたの愛とはかり知れない恵みを感謝いたします。人間社会におけるあまりにも深い罪を覚えるときに戦慄を覚えます。
世界各地で戦争が続いています。又凶悪な犯罪も世界を覆っています。この世界にあなたの平和を与えてください。私たちは日々の生活の中で、あなたに対して、また隣人に対して罪、過ちを犯してきました。どうか私たちの罪、過ちをお許しください。私たちの心と目をあなたに向かわせて聖霊に満たしてください。あなたの聖なる・生けるみ言葉を与えてください。この世界に、そして日本においてあなたとの平和が与えられるように導いてください。試練の中にある方々の上に、主の助け、導きを与えてください。愛ランドキリスト教会の交わりと働きを導いてください。あなたの臨在を私たちの日々の生活の中で現してください。父と子と聖霊のみ名によって祈ります。アーメン。

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I. 「信じるのは難しい」から「心燃やされる喜び」へ
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2週間前にイースターを迎えました。日本ではまだイースターを迎える喜びは浸透していません。インドネシアの教会で奉仕していた時にはイースターを迎える一週間を特別な週として教会でお祝いしました。今年も世界中の教会でイースターが祝われました。私たちの教会でのイースターには特別賛美とお茶会、墓前礼拝を行いました。この2週間、礼拝でのみ言葉は主の復活の出来事です。主イエス・キリストの十字架と復活は私たちの救いの保証です。私たちに新しい命を与える保証です。今日は使徒言行録2章、Ⅰペトロ1章、ルカによる福音書24章のみ言葉が与えられています。

イエス様が十字架に架けられ、三日目に復活することは旧約聖書の中で預言されていました。またイエス様は弟子たちに十字架につけられる前に語っておられました。

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📖【ルカ9:21~22】イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

弟子たちはイエス様が十字架上で息をひきとってから3日目に復活することを信じることができませんでした。イエス様を十字架につけたファリサイ人、祭司たちもイエスの復活を認めることはできませんでした。多くのユダヤ人はそれから2000年たった今も、旧約聖書に約束されていたメシア(イエス・キリスト)が来られ、十字架の死の三日目に復活されたことを信じることができないのです。しかし、最近はイエス様の復活を信じるユダヤ人、メシアニックジューが増えてきています。

先週は弟子のトマスが復活のイエス様を信じるようになった出来事のメッセージを聞きました。トマスはイエス様に出会った仲間の証しを信じることができませんでしたが…復活したイエス様がトマスの前にも表れ、十字架にくぎ付けされた手の釘をしめされ、槍で刺されたわき腹を示されました。「あまたの手を入れて確かめなさい、信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」と語られました。トマスは復活のイエス様に出会って信じました。イエス様はトマスにわたしを見たから信じたのか、見ないで信じる者は幸いである。」と諭されました。トマスも復活のイエス様を目撃して信じるようになったのです。

今日の聖書箇所では、イエス様が復活三日後クレオパともう一人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かって歩いていたところ一人の旅人が彼らに近づいて、「あなた方が今話していることは何のことですか」と尋ねました。二人はイエス様であることに気が付きません。二人は暗い顔をしてこの旅人に話しました。「あなたはエルサレムで3日前に起こったことを知らないのですか、イエスが十字架につけられ墓に葬られました。幾人かの婦人たちがイエスの納められた墓に行ったところ、墓は空になっていて天使が現れてイエスが復活したと告げられ、何人かの仲間が墓を確かめに行ったところ墓は空になっていたというので驚いています。」と旅人に告げました。

するとこの旅人は「ああ物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちが言っていることを信じないのですか、メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないですか。」と話し始めて旧約聖書全体を解き明かし始め、イエス様ご自身について説明されたのです。

三人がエマオに着いて、この旅人はさらに旅を続けようとしたので、二人は夕方になっていたので、一緒に今晩は留まるようにと勧めて家に入りました。一緒に食事の席についた時、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった時、二人の目が開け、一緒に歩いていた人がイエス様だとわかりました。するとイエス様の姿が見えなくなりました。暗い顔をしていた二人でしたが、イエス様と出会って旧約聖書のからの解き明かしを聞いていた時、心が燃やされるのを感じ、喜びに代わりました。

そして直ちにエルサレムに引き返して、イエスの他の弟子たちが集まっているところに行き、イエスに出会ったことを報告しました。仲間の弟子たちもペトロが復活の主に出会ったと話していたのです。そして弟子たちが話しているとそこにも復活のイエス様が現れたのです。

弟子たちも皆、旧約聖書の預言を知っていました。イエス様が三日目に復活すると言われていたことも聞いていました。しかし、復活のイエス様に出会うまでは誰も信じることができませんでした。これほどに復活は信じることが難しいことでした。だからイエス様は復活の確かなことを40日にわたり500人以上に現れて復活の確かさを示されたのです。そして見ないで信じる人は幸いな人ですと言われるのです。

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Ⅱ.イエス様の十字架と復活はあなたのために
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弟子のペトロは復活の朝、婦人たちの証しを聞いて、確かめるために墓に行き、墓が確かに空であることを確認しました。イエス様が復活したのはユダヤの初穂の祭りの日でした。それから50日後はペンテコステ、ユダヤ人にとって大切な七週の祭りでした。7週の祭りとは、神様がモーセを通してシナイ山で律法を与えられた記念の日でした。当時の世界各国からユダヤ人をはじめユダヤ教に改宗していた異邦人がおおぜい集まっていました。この日イエス様が約束された通りにエルサレムに集まっていた弟子たちの上に聖霊が下ってこられました。弟子達はそこに集まる外国人にそれぞれの言葉で神の言葉を伝えたのです。人々は驚きました。弟子たちが自分たちの国の言葉で話し始めたからです。

ペトロはそこで今何が起こっているのかを人々に話しました。使徒言行録2章にペトロの説教が書かれています。そこに集まっていたのは主にユダヤ人でした。そこでペトロは旧約聖書の約束の言葉から説教しました。そしてイエス様を救い主として受け入れることを勧めたのです。

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📖【使徒言行録2:36~39】だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
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 説教を聞いて多くの人がイエス様の十字架と復活が自分の為であったことを信じました。その日イエス様を信じて洗礼を受けた人が3000人あったのです。

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Ⅲ.古い自分を脱ぎ捨てて、新しい命へ
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今日のもう一か所の聖書の言葉はペトロの手紙第一・1章です。ペトロは当時の世界にある教会に手紙を書いています。初期の教会にはイエス様を信じるユダヤ人も、また異邦人もいました。

イエス・キリストの十字架と復活は、すべての人の罪を贖うためであり、復活されたことは、これを信じるすべての人のが新しく生まれることであると語りました。

人生においては様々な試練に悩まされますが、イエスを信じる者には天国に召されて素晴らしい神様からの財産を受け継ぐ希望が与えられています。ペトロの宣教当時はキリストを信じることによって受ける苦しみがありました。ユダヤ教の指導者から迫害を受け、ローマ帝国の名において迫害を受ける時代でした。ユダヤ人は旧約聖書を読んで、預言者によってメシア(イエス・キリスト)が救い主としてこの世界にこられることを知らされていました。そして待ち望んでいました。約束を信じて希望を持っていました。しかしユダヤ教の人々はイエス様をメシアとして受け入れませんでした。

ペトロはこの手紙の中で、イエスキリストを信じた結果、旧約聖書の時代から約束されていたすべての恵みをすでに受けていると語っています。ですからその受けた恵みの中で神様と共に新しい生き方をしようではありませんか。罪に満ちた古い生活から聖霊に満たされた新しい生き方をしましょう。と勧めています。

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📖【Ⅰペトロ1:18~22】知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
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イエス・キリストは私達の罪を取り除くために十字架に架けられました。三日目に復活し天に挙げられました。復活による神恵みを感謝して受けましょう。私達に聖霊を送ってくださいます。私たちのために祈り、天国に迎えてくださいます。イエス様が復活されたように私たちも朽ちることのない新しい体に復活させてくださいます。私たちを新しい命に生きるものへと変えてくださいます。

2026年4月12日 復活節第2主日愛ランドキリスト教会宣教宣教者:Ⅼ.シグルソン師宣 教:「見ないで信じる人は幸いである」使徒言行録 2章14a、22~32節(新215)ペトロの手紙一 1章3~9節(新428)ヨハネによる福音書 20章1...
14/04/2026

2026年4月12日 復活節第2主日
愛ランドキリスト教会宣教

宣教者:Ⅼ.シグルソン師
宣 教:「見ないで信じる人は幸いである」


使徒言行録 2章14a、22~32節(新215)
ペトロの手紙一 1章3~9節(新428)
ヨハネによる福音書 20章19~31節(新210)

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1. 疑いながらも求め続ける
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あなたはこんなことを思ったことがありますか?「あの部屋にいたかった。自分の目でイエス様を見たかった。」弟子たちは見ました。トマスは触りました。「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。でも、私たちはあの部屋にいませんでした。イエス様の顔を見たことがありません。傷に触れたことがありません。これは問題でしょうか?私たちの信仰は弱いのでしょうか?今日、イエス様はその質問に直接答えてくださいます。そして、その答えはとても驚くべきものです。

復活の日の夜のことです。弟子たちは部屋に集まっていました。ドアに鍵をかけていました。恐れていたからです。彼らのリーダーは十字架で死にました。自分たちも危ないかもしれないと思っていました。希望は消えたように感じていました。そこに、イエス様が現れました。ドアは閉まっていました。でも、イエス様は中に入ってこられました。最初の言葉はこうでした。「あなたがたに平和があるように。」そして、手とわき腹の傷を見せられました。弟子たちは主を見て喜びました。イエス様は息を吹きかけて言われました。

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📖 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
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しかし、トマスはその場にいませんでした。他の弟子たちがトマスに言いました。「わたしたちは主を見た。」でも、トマスは信じませんでした。こう言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」これは悪い言葉でしょうか?いいえ、そうではありません。トマスは正直でした。もう一度希望を持つことが怖かったのです。傷ついた心を守ろうとしていたのです。疑いは信仰の反対ではありません。疑いながらも、求め続けることができます。トマスはそうしました。

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2. 見ないで信じる信仰
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八日後のことです。弟子たちはまた部屋にいました。今度はトマスも一緒でした。イエス様が現れました。そしてトマスに言われました。

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📖 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
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イエス様はトマスを責めませんでした。トマスの言葉を覚えていて、その通りにしてくださいました。触れなくても、見るだけで十分でした。トマスはひざまずいて言いました。

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📖 「わたしの主、わたしの神よ。」
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これはヨハネの福音書の中で一番力強い告白です。疑いから始まって、最も深い信仰の言葉に至りました。

イエス様はトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。」そして、イエス様は部屋の向こうを見られました。時間を超えて、遠くを見られました。二千年後の私たちを見られました。そして、こう言われました。

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📖 「見ないのに信じる人は、幸いである。」
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この言葉はトマスへの言葉ではありません。私たちへの言葉です。イエス様を直接見たことがない、すべての人への言葉です。これは「残念ですが、あなたは見ることができませんでした」という慰めの言葉ではありません。これは特別な祝福です。イエス様が意図的に、私たちのために語られた言葉です。見ないで信じること。これは弱い信仰ではありません。これがイエス様の言う、復活の信仰の形です。

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3. 今日、イエス様はどこにおられるか
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では、復活されたイエス様は今日、私たちにどのように来てくださるのでしょうか。イエス様は弟子たちに息を吹きかけられました。「聖霊を受けなさい」と言われました。そして、罪を赦す使命を与えられました。これは小さな言葉ではありません。聖霊によって、御言葉を通して、罪の赦しが与えられます。復活されたイエス様は、弟子たちに赦しを宣言する使命を与えられました。これがルーテル教会の礼拝と告白の中心にあることです。復活は過去の出来事ではありません。今日も聖霊を通して、私たちに赦しをもたらす生きた現実です。

見ないで信じることは、目を閉じて信じることではありません。証拠を無視することでもありません。使徒言行録2章32節に、ペトロはこう語っています。

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📖 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」
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ペトロは復活のイエス様を見ました。そして、命をかけてその事実を証言しました。弟子たちの多くは、この信仰のために命を失いました。それほどまでに確かなことを、彼らは見たのです。日本でイエス様を信じることも、簡単ではありません。それでも信じ続けるあなたの信仰は、その証しの列に連なっています。トマスは証拠を求めました。イエス様はそれに応えられました。私たちにはヨハネの証言があります。ペトロをはじめとする弟子たちの命をかけた証しがあります。二千年の教会の歴史があります。信仰は暗闇の中への飛躍ではありません。復活された主への、確かな信頼です。

ペトロの手紙一、1章3節から9節を聞いてください。ペトロは眼で見た弟子です。あの部屋にいました。復活のイエス様を見ました。そのペトロが、イエス様を見たことのない人々に手紙を書きました。

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📖【ペトロの手紙一1:3】3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」てくださいました。
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生き生きとした希望。これは死んだ希望ではありません。過去の出来事についての記憶でもありません。今も生きている希望です。

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📖【ペトロの手紙一1:4】「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」
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朽ちない。汚れない。しぼまない。私たちは美しいものが消えていくことを知っています。桜の花は散ります。大切な人は去ります。体は老いていきます。何も永遠には続きません。しかし、ペトロはこう言います。復活によって与えられた希望は違います。朽ちません。汚れません。しぼみません。天に保たれています。

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📖【ペトロの手紙一1:8】「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」
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見たことがないのに愛している。今も見ていないのに信じている。ペトロはこれを批判していません。これを美しいと言っています。これがあなたの信仰の姿です。見ないで愛する。見ないで信じる。見ないで喜ぶ。イエス様はこれを「幸い」と呼ばれました。

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4. 見ていない私たちへの贈り物
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ヨハネはなぜこの福音書を書いたのでしょうか。31節にこう書かれています。

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📖【ヨハネ20:31】「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
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ヨハネはあの部屋にいました。復活のイエス様を見ました。そして、見ていない私たちのためにこれを書きました。この福音書は、私たちへの贈り物です。

聖書の言葉を通して、復活されたイエス様は今日も私たちに出会ってくださいます。目で見なくても、耳で御言葉を聞くことができます。心でイエス様に触れることができます。トマスはイエス様を見て信じました。私たちは見ないで信じます。そして、イエス様はこう言われます。「見ないのに信じる人は、幸いである。」この祝福は、今日ここにいるあなたへの言葉です。あなたはイエス様を見たことがありません。でも、愛しています。見ていません。でも、信じています。その信仰は弱くありません。その信仰こそ、イエス様が祝福される信仰です。

少し静かにしましょう。

復活されたイエス様は、今日もここにおられます。御言葉の中に。聖霊の中に。この集会の中に。あなたの心の中に。イエス様はあなたのことを知っておられます。あなたの疑いも、あなたの傷も、あなたの名前も。そのあなたに、今日も語りかけられます。見ないで信じるあなたに、イエス様は今日も静かに語りかけられます。

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📖「あなたは幸いである。」
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住所

東灘区向洋町中1-4-124-B/014
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