日本基督教団まぶね教会 - Mabune Church

日本基督教団まぶね教会 - Mabune Church 川崎市麻生区下麻生にあるプロテスタントの教会です。礼拝出席30人く? プロテスタント教会

06/09/2026

2026年9月7日(月)

おはようございます。

ヨハネの黙示録22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

ヨハネの黙示録の最後の言葉です。この書は、ローマ帝国の支配のもとで苦しんでいる信仰者たちに、やがて天上の礼拝と一つにされ、神の都に迎えられるときが来る。それを信じ、希望を持って生き抜こう、と呼びかけています。

「以上すべてを証しする方」とは、イエス・キリストのことです。キリストは、神の救いが完成し、天地が新しくされる日が必ず来ることを保証しておられます。

そしてキリストは、「然り、わたしはすぐに来る」と言われます。「然り」とは、この約束が確かであり、信頼に値するということです。「すぐに」とは、キリストの到来が確実であり、いつ起こってもよいほど差し迫っていることを表しています。そして、やがて来られるキリストは、今も私たちの近くにおられます。

このイエス・キリストに対して、教会は、「アーメン、主イエスよ、来てください」と答えます。そこには、キリストへの信頼とともに、今、教会が置かれている状況の厳しさと、祈りの切実さが表れています。

「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」。それは、イエス・キリストの恵みが、自分たちだけでなく、すべての者と共にありますように、という祈りです。ヨハネの黙示録は、厳しい裁きの言葉ではなく、すべての者に向けられた恵みの祈りによって閉じられているのです。

主の恵み われのみならず 万人に あらんことをば 信じ祈らむ

06/09/2026

2026年9月6日

05/09/2026

【今週の聖書の言葉】 「すべて任せる」

『この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた』(マルコ12:44)

「依存」と言う言葉があります。この言葉には、神さまなどに依り頼むような肯定的な意味と、お酒などに頼ってしまい、生活を損なうような否定的な意味があります。信田さよ子さんの『溺れながら生きる』という書では、依存を、苦しむ人が生き延びるために選んだ手段とも捉えます。しかし、その手段が命を滅ぼすこともあるため、同じ苦しみを抱える仲間とケアし合う道が必要だと言います。

イエスさまは、人から敬われることに依存する律法学者や、財産と多額の献金を誇る金持ちに対して、生活費のすべてを献げた貧しいやもめを示されました。これは、全財産を献金せよという命令ではありません。自分の力ではどうにもならないことや人生全体を、神さまに委ねてよいという招きです。

私たちが本当に依り頼むべきものは、酒や名誉や財産ではなく、共にいてくださるインマヌエルの神、無条件に愛してくださるアガペーの神、平安を与えるシャロームの神です。

また、同じキリストを信じ、苦しみを分かち合い、祈り、支え合う教会の交わりにも頼りましょう。それは組織や人への依存ではなく、教会の中心におられるイエス・キリストに自分を委ねることです。困難の中でも、神さまがきっと支えてくださると信じ、すべてをお任せして歩んでいきましょう。

05/09/2026

祈り。神さま、わたしたちには、ときどき、自分の力だけでは解決できないことが起こったり、自分の人生はどうなってしまうのだろうと心配になったりすることがありますが、神さまを信じて、神さまにお任せすることができますように。インマヌエル、アガペー、シャロームの神さまであるあなたにお委ねすることができますように。イエス・キリストが中心にいてくださる教会の交わりに支えられることができますように。イエス・キリストのお名前でお祈りいたします。

05/09/2026

2026年9月6日 「すべて任せる」マルコ12:38-44

おはようございます。

依存症という言葉があります。アディクションとも言います。

依存という言葉には肯定的な意味と否定的な意味があります。一番わかりやすいのは、神さまに依り頼むという意味での依存はとてもよいことですが、お酒に頼るという意味での依存には問題があります。

また、わたしは生活の潤いや嫌なことを忘れる方法、ストレス解消として、テレビのドラマはかなり見ます。ある意味、ドラマに依存しているのですが、これは依存症ではありません。

依存症というのは、テレビのドラマを観続けて、床から起きない、仕事をしない、テレビドラマを観ることに執着するせいで生活や人生に大きな支障があるようなことを指すようです。

最近、「溺れながら生きる  依存とケアのあいだで」という本を読みました。

この本の著者は信田さよ子さんという方で、1946年生まれで、臨床心理士として50年以上の経験を持っておられ、病院でおおぜいのアルコール依存症の人びとと10年以上向き合ったり、カウンセリングセンターで何十年も、依存症の人びとやその家族と交わってこられました。上野千鶴子さんとの接点もあるようで、フェミニストであり、男性優位社会を見抜く視点を強く持っておられます。

この「溺れながら生きる  依存とケアのあいだで」という本にはどういうことが書いてあるのでしょうか。

副題に「依存とケアのあいだに」とありますが、まず、依存について、この本では、アルコール依存、摂食障害、自傷行為依存、ギャンブル依存、恋愛・異性関係依存、ホストクラブ依存、推し活依存、ゲーム依存などが挙げられています。

けれども、著者の信田さんは、こうした依存がかならずしも悪いものと言い切っているのではありません。

わたしがこの本から得たことを一言で言うとこんな感じになります。

依存症は、ただ悪いというだけでなく、その人が苦しみながらも、生き延びるための、手段でもあります。依存によって苦しみをやわらげて生き延びようとするのです。しかし、今度は生き延びるための手段であるその依存がその人を滅ぼしてしまいかねません。だから、依存という手段ではなく、同じ苦しみを抱える仲間とケアしあって生き延びていくのがよいのです。

依存は、ある意味、その人が苦しみを抱えながらも、苦しみを和らげて、生き延びる手段でもあった、とこの本は言うのです。しかし、お酒に依存すれば、生き延びるどころか、いのちを縮めてしまいます。だから、生き延びるにしても、アルコール依存、ギャンブル依存などとは違う道を見つけなければならない、と言うのです。そのひとつが仲間とケアしあうことだ、と言うのです。

NHKの朝のドラマ「風、薫る」の、先週の月曜日の放送で、訪問看護師のなおみさんが、お酒に頼って生きている平蔵さんを訪ねます。

なおみさんの夫は日清戦争が原因で死んでしまいます。平蔵さんが、そんな大変な時におれの看護などしなくてもいいよ、と言うと、なおみさんは、こうすることが気晴らしになります、と答えます。

すると、平蔵さんは、おれの看護があんたの気晴らしになるなら、おれはあんたの看護を受けるよ、と言うのです。そうすると、なおみさんは、平蔵さんもお酒の代わりになる気晴らしを見つけましょう、と答えます。

お酒は、平蔵さんが抱えている苦しみをやわらげる気晴らしではあるけれども、いのちを縮めてしまう、それに代わる気晴らしは、平蔵さんとなおみさんがたがいに苦しみを抱える者同士、そういう仲間として向かい合うことだ、とこのドラマは言っているようにも思えました。

ここで言っている気晴らしは、たんなる気晴らしではなくて、もっと本質的なもの、わたしたちの日々の生活や人生を支える柱のようにも思えます。

言い換えますと、わたしたちが、良い意味で依存すべきもの、頼るべきもののことのように思えます。

わたしたちは、何に頼るべきなのでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。

マルコによる福音書12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスさまが律法学者たちを批判しています。彼らの何が問題なのでしょうか。

律法学者たちは、自分たちは律法をしっかり守っているから神さまに顧みられる、と考えています。また、いろいろ事情があって律法を守れない人びとを非難しています。

それから、今のイエスさまの言葉にあるように、「長い衣」つまり立派な服を着て歩き回ることや、広場で人びとから「ああ立派な方だ」と尊敬の念を込めて挨拶されること、会堂、礼拝堂や宴会の場では、上位者向けの席に座ること、見せかけの長い祈りをすること・・・このようなことを、律法学者たちは好みます。

つまり、彼らは、立派な服を着て歩くこと、人びとから褒められること、人より上に立っていることを感じること、自分はすばらしい祈りをできるとアピールすること・・・このようなことに、依存して、このようなことによって、自分の存在価値を確認して、このように、ようするに、人からすごいと言われることに依存して生きているのではないでしょうか。

これは、言うまでもなく、健全なことではありません。いや、わたしたちの中にも、人からたまには褒められたいとか、人からほめられるとうれしいとか、そういう気持ちがあるのですが、律法学者の場合は、人からほめられること、自分が他の人より偉いと思えること、そういうことで、そういうことだけで、自分の人生を支えていますから、つねに自分がほめられるようなことをしたがるのではないでしょうか。

聖書の続きを読みましょう。

12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

お金持ちたちは、たくさんの献金をすることに依存しているようにも見えますが、それは、イエスさまが金持ちは「有り余る中から入れた」と言っているように、たくさん献金してもそれよりはるかに多くのお金が残っているのですから、人より多く献金しているとアピールすることに依存しているのでしょう。

そして、献金した額よりもはるかに多くのお金、庶民からすれば大きなお金を残しているのですから、そのような大金に依存しているのでしょう。

聖書の続きを読みます。12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

この女の人が、世の中からしたら多額とは言えないかもしれませんが、彼女にとってはすべてをささげたということは、彼女が人生のすべてを神さまにお委ねしたことを意味するのではないでしょうか。

彼女は人から見たらわずかと言えども全財産をささげたら、あとは神さまにお委ねするしかないのです。言い換えれば、彼女は神さまを信頼して、自分のすべてを委ねているから、そのような献金ができたのでしょう。

わたしたちはどうでしょうか。

まず、わたしたちは誰かと比べて誰かより多くささげるなんてことを考える必要はありません。献金は人と競争するものではありません。

それから、わたしたちは、持っているお金をすべて献金する必要もありません。そんなことをしなくてもよいのです。

では、イエスさまは、本当はどういうことをおっしゃりたかったのでしょうか。

それは、自分が本当に困ったとき、そして、自分ではどうしようもないときは、神さまにお任せしなさい、ということだと思います。

この女の人は持っているお金をすべて神さまにささげてしまいました。お金はもうありません。あとは神さまにお任せするしかないのです。

わたしたちはすべてを神さまにおささげする必要はありません。でも、困ったとき、自分ではどうしようもないときは、神さまにお任せいたしましょう。

わたしは、この世に生まれ、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学で学び、そして、仕事をして、もうすぐ66年目になります。これを人生と呼びます。

そして、この人生では、わたしはわたしなりに努力はしてきましたが、人生全体の流れは、神さまにお任せしてきました。

高校や大学に行くために、あるいは、仕事ができるようになるために、自分で努力もしてきましたが、人生全体の流れは、神さまにお任せしてきました。

今日の聖書で、イエスさまが持っていたすべてのお金をささげたこの女の人の話をしたのは、わたしたちの手に負えない難しいことや、人生全体の流れは、神さまにお任せしましょう、神さまがきっとなんとかしてくださると信じましょう、ということを教えてくださるためではないでしょうか。

わたしたちは、自分の力だけでは難しいことや、人生全体の流れは、神さまを信じて、神さまにお任せして生きていきましょう。

最初に依存のお話をしました。

わたしたちがほんとうに依存すべきは、お酒でもギャンブルでもなく、神さまではないでしょうか。

わたしたちは、神さまがともにおられること、インマヌエル、神さまがわたしたちを無条件に愛してくださること、アガペー、そして、神さまがそのようにしてわたしたちにくださる平安、シャロームにこそ、より頼みましょう。むなしいものにではなく、インマヌエル、アガペー、シャロームにこそ依存いたしましょう。

もう一つ付け加えれば、教会に依存しましょう。これは宗教組織、宗教団体としての教会に依存しようということではなく、信徒の交わりである教会に依存しましょう、依り頼みましょう、ということです。

今日の最初の方にわたしは、信田さよ子さんの本のまとめとして、「依存という手段ではなく、同じ苦しみを抱える仲間とケアしあって生きていくのがよい」ということを申し上げました。

わたしたちは、むなしいものに依存するのではなく、イエス・キリストという同じお方を信頼し、生きている上での苦しみを抱える同じ仲間として、たがいに、信仰やまた生きる上での苦しみをわかちあい、たがいに祈りあい、ささえあっていく、そのような場としての、教会にこそ、依り頼みましょう。

むろん、教会には人間のしがらみや葛藤があり、傷つくことがよくあります。しかし、わたしがここで申しあげているのは、それは、宗教組織や人に依存するということではなく、教会はキリストの体と言われるように、イエス・キリストご自身にお委ねすることなのです。イエス・キリストを真ん中にした、愛の交わりにお委ねすることなのです。

わたしたちは、インマヌエル、アガペー、シャロームの神さま、そして、この神さまを示してくださるイエス・キリストにこそ、イエス・キリストによる愛の交わりにこそ依存しましょう。いや、信頼し、依り頼みましょう。

祈り。神さま、わたしたちには、ときどき、自分の力だけでは解決できないことが起こったり、自分の人生はどうなってしまうのだろうと心配になったりすることがありますが、神さまを信じて、神さまにお任せすることができますように。インマヌエル、アガペー、シャロームの神さまであるあなたにお委ねすることができますように。イエス・キリストが中心にいてくださる教会の交わりに支えられることができますように。イエス・キリストのお名前でお祈りいたします。

05/09/2026

本日、9月6日(日) 午前10時半より、礼拝のライブ中継を、まぶね教会のFacebookページ(日本基督教団まぶね教会 - Mabune Church)でご覧いただけます。

使信(説教)以外は音声が小さいかもしれないので、ボリュームをあげてご覧ください。

なお、午後には、使信の部分をYouTubeに投稿します。これは、まぶね教会のホームページからご覧いただけます。

05/09/2026

おはようございます。

ヨハネの黙示録22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

ヨハネの黙示録は、ローマ帝国下で迫害に苦しむ信仰者に、「どれほど苦難が深くても、神さまはやがてすべてを新しくしてくださる」「神さまの救いが勝利する」「この神さまと約束された救いを希望として、忍耐して、生き抜きなさい」というメッセージを伝えています。

これは神さまからのメッセージそのものであり、これを取り去ってはならないのです。

わたしたちも、日々の不安や苦しみの中で、神さまの救いを希望として、生き抜こうではありませんか。

天つ神 定めてわれら 救わんと 一字たりとも 欠かせたまわず

04/09/2026

2026年9月5日(土)

おはようございます。

ヨハネの黙示録22:17 “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

「花嫁」は神の民、教会を指しますが、「 “霊”と」とあるのは、聖霊に導かれて、という意味だと思われます。つまり、聖霊に導かれて教会は「主イエスよ、来てください」(22:20)と祈るのです。この祈りを聞く者もともに「主イエスよ、来てください」と祈るのです。

この祈りを聞いて、イエスさまもわたしたちに「渇いている者は来るがよい」と呼びかけてくださるのです。

つまり、わたしたちがイエスさまに「来てください」と呼びかけ、イエスさまもわたしたちを「来るがよい」と招いてくださるのです。

「命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」とあります。「命の水」は「価なし」つまり無償なのです。イエスさまは、何かと交換ではなく、「価なし」にわたしたちに「命の水」をくださるのです。

「命の水」は、わたしたちが自分の力で手に入れるのではなく、神さまが無償でくださる恵みなのです。わたしたちは、それをいただき、ただ感謝をささげるばかりです。

来てください われら祈れば イエスきみは われに来たれと 招きたまわる

03/09/2026

2026年9月4日(金)

おはようございます。

ヨハネの黙示録22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。

ヨハネが天使から示された幻は、じつは、イエスさまからのメッセージでもあったのです。

その内容は、今は迫害の夜にある諸教会も、やがて天上の賛美に結ばれ、天から降って来る神の都に迎え入れられて、神さまと小羊イエス・キリストの光に包まれる朝を迎える、というものです。

「ダビデのひこばえ、その一族」とあります。これは、イエスさまがダビデ家の子孫であることを意味します。

「輝く明けの明星」とあります。イエスさまは、神の都が地上に到来する朝が来ることを先取りして輝く「明けの明星」です。すなわちイエスさま御自身が、新しい朝が必ず来ることの保証であり、私たちの希望である、ということではないでしょうか。

長き夜(よ)も 朝(あした)迎へむ とぞ告げし 明けの明星 ダビデのひこばえ

01/09/2026

2026年9月2日(水)

おはようございます。

ヨハネの黙示録22:10 また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。22:11 不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。22:12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。

「黙示録」と訳されているもともとのギリシャ語は「アポカリュプシス」で、これは「覆いを取り除くこと」「隠されていたものを明らかにすること」という意味です。

ですから、10節に「秘密にしておいてはいけない」とあるのは、「隠されていたものを明らかにする」という「黙示録」の意味そのものなのです。

今、この地上において神の民は苦しんでいるが、じつは、神さまは民をこの苦しみから救い出し、永遠の賛美、神の都へと招き入れてくださる、ということが、「ヨハネの黙示録」によって、あきらかにされているのです。

「不正を行う者」「正しい者」「それぞれの行いに応じて報いる」とは、困難の中にあっても、神さまを信頼し、神さまから希望を受け取り、獣を拝まず、神さまだけを賛美する生活は、「 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(21:4)ところへと続いているということではないでしょうか。

神さまを信頼し、神さまを希望として、天の約束を胸に、歩き続けましょう。

「苦しい」と 書かれた覆い はずされて 「希(のぞみ)望(のぞみ)」の 二文字いただく

(この57577、ぼくとしてはかなり気に入っています(^^))

住所

麻生区下麻生2-27/30
Kawasaki-shi, Kanagawa
215-0022

電話番号

+81449881104

アラート

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