日本基督教団まぶね教会 - Mabune Church

日本基督教団まぶね教会 - Mabune Church 川崎市麻生区下麻生にあるプロテスタントの教会です。礼拝出席30人く? プロテスタント教会

04/06/2026

2026年6月5日(金)

おはようございます。

ヨハネの黙示録1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。

ヨハネの黙示録というと、世界の終わりに何か恐ろしいことが起こるようなイメージがもたれることがありますが、じつは、「黙示」とは、「覆いを取り除くこと」「隠れていたことを明らかにすること」「啓示すること」です。

イエス・キリストのご生涯と十字架、復活も、神さまがご自身を「啓示」する出来事であるとキリスト教では考えます。

生まれてまもない当時のキリスト教会は、ローマ帝国の圧力や迫害を受けていました。

しかし、「ヨハネの黙示録」は、「ローマ皇帝が支配者ではなく、神さまとキリストが世界を治めておられる、そのことがやがて明らかになる」ことを伝えようとしていると考えられます。

ヨハネの黙示録からは、「何年何月何日に世界にどのようなことが起こる」といったことではなく、「神の言葉とイエス・キリストの証し」(2節)を受け取りたいと思います。

今世界は困難な状況にあり、わたしたちひとりひとりも苦難を抱えていますが、神さまが世界とわたしたちを治めていてくださり、最大の喜びをもたらしてくださることを信じて、歩みましょう。

終点にて 聞こえてくるは 叫び声 にはあらずして 喜びの歌

03/06/2026

2026年6月4日(木)

おはようございます。

ホセア書14:9 ああエフライム/なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ/彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。

イスラエルの民は、神さまを偶像(神さまではないもの、お金、権力、軍事力、自分の思い・・・)と比べて、偶像に傾きます。

けれども、民の求めに本当にこたえ、民を本当に見守るのは神さまです。

神さまは、「命に満ちた糸杉」です。

民は、神さまにつながって、「実を結ぶ」のです。

糸杉の 枝にはどんな 実が結ぶ すがたさまざま 虹色がいい

02/06/2026

2026年6月3日(水)

おはようございます。

ホセア書14:8 その陰に宿る人々は再び/麦のように育ち/ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。

イスラエルの民は神さまから離れましたが、神さまはこの民をふたたび迎え入れます。

神さまとともにあって、この民はレバノン杉のように大きく育つ、という幻が神さまに示されます。

さらに、この大樹の陰に、他の民も宿るようになり、育ち、花を咲かせると。

わたしたちはどうでしょうか。

わたしたちも神さまの意に沿わない者でありながら、神さまはわたしたちを愛し抜いてくださいます。

わたしたちは神さまからいただいたその愛を、わたしたちの出会う人々とわかちあっているでしょうか。

わたしたちは、道を行く人々に木陰を提供できているでしょうか。

イエスさまが先頭に立ってわたしたちを導いてくださることを信じましょう。

キリストの 木漏れ日を浴び 空を見て 花を咲かせる 野草になりたい

01/06/2026

おはようございます。

ホセア書14:6 露のようにわたしはイスラエルに臨み/彼はゆりのように花咲き/レバノンの杉のように根を張る。

神さまから離れたイスラエルでしたが、神さまはイスラエルをけっして見捨てません。

神さまは御言葉と愛によって、露のようにイスラエルを潤し、イスラエルは冬を乗り越えたゆりのように花を咲かせます。その根は大木のように神さまという大地に深く張っています。

神さまは、わたしたちも、来る朝ごとに、愛と御言葉によって、潤いを与えてくださいます。

わたしたちは、白百合のように、今日を生きるいのちを咲かすことができます。

神さまは、わたしたちの根っこを、深いところでしっかりとお支えくださいます。

春に咲く うるわしの花 白百合に 萌えたつこころ うるおう眼(まなこ)

31/05/2026

2026年6月1日(月)

おはようございます。

ホセア書14:5 わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。

イスラエルの民は神さまに背き、神さまから離れました。

しかし、神さまは、いまや、この民を癒やし、「喜んで」「愛する」と言われるのです。

いまや、神さまの怒りはこの民から離れ、神さまの愛がこの民に臨むと言うのです。

わたしたちも、神さまの愛の御心に、じゅうぶん適っているとは言えません。

神さまをじゅうぶんに信頼しているとは言えません。

しかし、神さまは、わたしたちを癒し、喜んで愛してくださいます。

神さまの怒りは、わたしたちから離れ、神さまご自身がわたしたちと一緒にいらしてくださると言うのです。

遠ざかる 我を追いかけ 呼びとめて 振り向きざまに いだくはイエス

31/05/2026

2026年5月31日

30/05/2026

【今週の聖書の言葉】 「愛は天から」 

「すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(マルコ1:11)

イエスさまはヨルダン川で洗礼を受けられました。バプテスマとは「水に浸す」という意味ですが、教会では早くから頭に水をかける形の洗礼も行われ、幼児洗礼も2世紀頃には始まっていたようです。そこには「神さまの愛は大人だけでなく子どもにも注がれている」という信仰がありました。洗礼は教会のはじめからすでに多様でした。

現代のわたしたちにおいても洗礼を受ける理由も人それぞれです。罪の赦しを求めて、イエスさまの教えに感動して、あるいは「あなたは愛されている」という聖書の言葉に心を打たれて受けた人もいるでしょう。

洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めの洗礼を授けました。「悔い改めにふさわしい実を結べ」とは、人から奪わず、分かち合って生きることでした。しかしイエスさまはさらに、洗礼を「父と子と聖霊の名によって」行うよう命じられました。また、イエスさまは、洗礼とは弟子となり、「隣人を愛しなさい」「敵を愛しなさい」という教えに生きようとすることでもあると示されました(マタイ28:19-20)。

パウロは、洗礼によって古い自分が死に、新しい命に生きると語ります。また、洗礼を受けた者は「キリストを着る」とも述べています。そこでは民族や身分の違いを超えて、皆が一つとされるのです。

今日のマルコ1章の箇所で、イエスさまが洗礼を受けられると、天が裂け、聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子」という声が響きました。ここには父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体の神さまのお姿があります。

洗礼とは、わたしたち人間の決意表明だけではありません。その前に、神さまが「あなたはわたしの愛する子」と語り、愛を注いでくださる出来事なのです。まず神さまの愛がある。その愛に支えられて、私たちも隣人を愛する者へと導かれていくのではないでしょうか。

30/05/2026

祈り。神さま、あなたは聖霊によって、あなたの愛を天からわたしたちに注いでくださいます。心から感謝いたします。わたしたちはあなたに愛されていたのです。ほんとうにうれしいことです。神さま、あなたの愛にお答えして、わたしたちも隣人や敵を少しでも愛することができる者へと生まれ変わらせてください。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。

30/05/2026

2026年5月31日 「愛は天から」 マルコ1:9-11

おはようございます。

今日の聖書の箇所で、イエスさまは洗礼を受けられました。バプテスト系の教会などでは、これをバプテスマと呼ぶこともあります。

バプテスマという言葉は新約聖書にも出てきます。これは、もともとは、水に浸すこと、水に浸らせることですが、これを、日本聖書協会の聖書では、洗礼と訳したのです。けれども、水に浸す、身体を浸水させるのですから、浸す礼と書いて、浸礼と訳した方が良かったかもしれません。

しかし、キリスト教の歴史では、早い時期から、つまり、キリスト教会が始まった一世紀の終わり頃から、身体を水に浸すのではなく、頭に水をかける形式のバプテスマも採用されていたようです。

ですので、バプテスマを洗礼という日本語に訳すことも間違いであるとは言えないでしょう。

さて、わたしは、今から65年前の1960年の10月に生まれて、その半年後のイースターに、つまり、生後6ヶ月に洗礼を受けました。

こういうのを幼児洗礼と言います。幼児洗礼も、じつは、2世紀には始まっていたようです。

その理由は、赤ちゃんや子どもが洗礼を受けないまま死んでしまったら天国に行けないという考えがあって、では、赤ちゃんにも洗礼を授けようとなったそうです。

しかし、わたしは、洗礼を受けた人は天国に行ける、と言うのは良いと思いますが、洗礼を受けていないで人生を終えた赤ちゃん、子ども、大人は天国に行けない、と言ったり、考えたりするのは、どうでしょうか。わたしは、そのようには言いませんし、考えもしません。

赤ちゃんや子どもに洗礼を授ける理由は、早く命を終えても天国に行けるように、ということだけでなく、神さまの愛は、大人だけでなく子どもにも注がれている、神さまの恵みはすべての人に与えられている、という考え方にもあるように思います。

皆さんは、どのようにして洗礼を受けられたでしょうか。多くの方は、人生のある時点で、神さまを信じよう、イエスさまを信じようと決心して洗礼をお受けになったのではないでしょうか。

しかし、その信じ方も人それぞれのようにも思います。ある人は、神さまはイエス・キリストの十字架によってわたしの深い罪を赦してくださった、この神さまとイエス・キリストを信じよう、という思いで洗礼を受けたのではないでしょうか。

また、隣人を愛しなさい、敵をも愛しなさい、というイエスさまの言葉、聖書の言葉に感動して、洗礼を受けたという人もいるでしょう。

あるいは、「思い煩うな。空の鳥を見よ。神さまは空の鳥を養っているではないか」というイエスさまの言葉に心を打たれ、洗礼を受けたという人もいるでしょう。

あるいは、こんな小さく弱い自分でも、神さまは無条件で愛してくださる、神さまはいつでもともにいらしてくださる、という聖書のメッセージに感動した人もいるでしょう。

わたしたちの洗礼の受け方は、ひとそれぞれです。

では、聖書ではどうでしょうか。

今日の聖書でイエスさまは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのですが、今日のマルコ福音書の少し前にはこうあります。

1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

つまり、ヨハネが人びとに授けていた洗礼とは、人びとが自分の罪、おそらく、神さまを信頼しきっていないという罪と、隣人を愛しきっていない、隣人を傷つけたという罪を告白し、その赦しを神さまから受けるための洗礼であったということではないでしょうか。

マタイによる福音書を見ますと、こうあります。

3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。

「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とはどういうことでしょうか。

ルカによる福音書にはこうあります。

3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3:12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3:13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3:14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

ようするに、人から奪わない、人とわかちあう生き方をすることが、良い実を結ぶということなのではないでしょうか。

そうすると、わたしたちが、よし、これからは、奪わない、わかちあう、という生き方、神さまの御心に沿った生き方をしよう、という思いを、洗礼を受けることに重ねても、間違ってはいないでしょう。

しかし、ここまで見てきたのは、洗礼者ヨハネによる洗礼です。

イエスさまご自身はどう言っておられるのでしょうか。

マタイによる福音書の最後で、イエスさまは弟子たちにこう言います。

28:19あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

ここでは、大事な点が二つあるように思われます。ひとつは、人びとが洗礼を受けるということは、イエスさまの弟子になるという点です。

そして、イエスさまの弟子になることは、イエスさまが命じたことを守ることだという点です。

では、イエスさまはどういうことを命じたのでしょうか。

神さまを愛しなさい、隣人を愛しなさい、敵を愛しなさい、人を赦しなさい、心を貧しくしなさい、憐れみ深くありなさい、富に仕えてはならない。

洗礼を受けることは、イエスさまの弟子になり、このようなイエスさまの戒めを守ることだと言えるでしょう。

もう一つ大事な点は、イエスさまはマタイによる福音書の最後の言葉で、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」と言っておられる点です。

「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ことは、わたしたちの教会でもそうしています。また、キリスト教会は、昔から、「父と子と聖霊の名によって洗礼を受けること」と使徒信条によって父と子と聖霊の三位一体の神さまへの信仰を告白することは結びついていたと言われます。

そして、じつは、今日の聖書の箇所も、洗礼が「父と子と聖霊の御名によって」なされることにつながるように思いますが、その前に、パウロが洗礼について、どのように言っているか、見ておきましょう。

ローマの信徒への手紙でパウロはこう言っています。

6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

つまり、イエス・キリストが十字架で死んで、しかし復活なさったように、わたしたちも、洗礼によって、これまでのわたしたちは死んで、しかし、新しいわたしたちとして復活するというのです。

パウロは、またガラテヤの信徒への手紙ではこう述べています。

ガラテヤ3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

「キリストを着る」とは、キリストのものとされる、キリストの命に包まれる、という意味が考えられます。洗礼を受けるとは、キリストを着て、キリストのものとされ、キリストの命に包まれるということだと言うこともできるでしょう。

さらには、キリストを着ると「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」とありますから、洗礼を受けることは、人種や民族、身分、セクシュアリティの違いや差別を乗り越える生き方を示されるということでもあるのではないでしょうか。

さて、今日の聖書を振り返ってみましょう。

マルコ1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

イエスさまはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。頭のてっぺんまで水に浸かったのでしょう。

そして、水の中から顔を上げると、天が裂けた、とあります。

「天が裂ける」とは、空が曇っていたのが、急に雲の合間から太陽の光が差し込んできたような様子でしょうか。

そして、霊が、聖霊が鳩のように降ってきた、というのです。

そのあとに「あなたはわたしの愛する子」という神さまの声が聞こえてきますから、聖霊は神さまの愛、神さまの御心ということもできるのではないか、とわたしは考えます。

これを絵にするとこんな感じでしょうか。


わたしは、この風景に、父と子と聖霊がおられるように思います。天には父なる神さまがおられ、地上には子なるイエス・キリストがおられ、その間には、聖霊がおられる、そのような風景に思われました。

キリスト教会の洗礼式が、父と子と聖霊によってなされるのは、今日のイエスさまの聖書の箇所が思い出されて、とてもよいように思われます。

ただ、ヨハネの洗礼は、わたしたちが自分で反省して、今日からは人を愛して生きていきます、というようなものに思えますが、イエスさまがヨハネから洗礼を受けることによって、ヨハネの洗礼に、ひじょうに新しい意味が加えられたのではないでしょうか。

ひとつは、洗礼は、わたしたちが隣人を愛して生きていきますと決心するだけでなく、今日のイエスさまの洗礼のように、わたしたちの洗礼においても、天の神さまから、愛が注がれるということです。わたしたちの洗礼においても、「あなたはわたしの愛する子」という神さまの声、神さまの愛が注がれるということです。

すでに洗礼を受けている方々も、ああ、あのとき、天の神さまから愛が注がれた、そして、今も注がれているという思いを、今日新たになさってください。

そして、「あなたはわたしの愛する子」という声に続いて「わたしの心に適う者」という神さまの声が聞こえてきます。

わたしの心に適う者、とは、隣人を愛せよ、敵を愛せよ、という神さまの御心に適う者ということではないでしょうか。

それは、わたしたちには難しいように思われます。しかし、神さまは、「わたしはあなたを愛している。だから、あなたもきっと隣人や敵を愛せる、そのような希望を持つことができる」と言っておられるのではないでしょうか。

洗礼は、たんに、隣人や敵を愛していこう、というわたしたちの決意表明ではありません。洗礼は、わたしたちが神さまから愛されていることを確認することではないでしょうか。わたしたちの決意表明よりも、神さまの愛が注がれることが先にあるのです。

まず、神さまがわたしたちを愛してくださる。それに、お答えして、わたしたちも少しでも隣人や敵を愛することができるように祈り求めていこうではありませんか。

祈り。神さま、あなたは聖霊によって、あなたの愛を天からわたしたちに注いでくださいます。心から感謝いたします。わたしたちはあなたに愛されていたのです。ほんとうにうれしいことです。神さま、あなたの愛にお答えして、わたしたちも隣人や敵を少しでも愛することができる者へと生まれ変わらせてください。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。

30/05/2026

本日、5月31日(日) 午前10時半より、礼拝のライブ中継を、まぶね教会のFacebookページ(日本基督教団まぶね教会 - Mabune Church)でご覧いただけます。

使信(説教)以外は音声が小さいかもしれないので、ボリュームをあげてご覧ください。

なお、午後には、使信の部分をYouTubeに投稿します。これは、まぶね教会のホームページからご覧いただけます。

住所

麻生区下麻生2-27/30
Kawasaki-shi, Kanagawa
215-0022

電話番号

+81449881104

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