大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)

大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市) 大澤山 常陽院 明圓寺は(1240年)に隠居の為に建立された浄土真宗のお寺です。 住職 土井千浩(どいちひろ)
法名 釋千浩(しゃくせんこう)

01/09/2026

(9月)の言葉

「足ることを知る」

    慈雲(江戸時代に正法律を創唱した    
       真言宗の僧侶)

私達は現在 情報社会と言われる中で、           
 損得感情が働き情報を求め、餓鬼の様に
 いつまでも欲求を追い求め満足する事なく
 「もう少し金を儲けなければ」と、心せわし
 く、忙しく働いているのではないのでしょう
 か?

 潤いとか、思いやりとか、愛情とか満足とか
 が無かったら、人間として生まれてきた甲斐 
 がないと思えるのです。
 
 我々は老少不定に生きる存在ですから、
 明日、交通事故で亡くなってしまう可能性
 を持った生き物なのです。

 多くの事を知り、経済的に利益を得たとして
 も、満足を知る事が無ければ必ずしも幸せな
 状態に導かれないのです。

 慈雲は、「足るを知る者は常に富み、怒らざ          
 る者は寿也」と、『慈雲短篇法話』の中で、
 興味深い教えを説いている。

 つまり、満足を知ることの出来る者は富む
 者であり、怒ることの無い者は長寿を得るこ
 とが出来ると言っているのである。  

 我々は現代社会の中にあって、知識・情報
 と共に、英知とか智慧というものを持たない 
 と、真の富む者になれないと思われます。

 フランス革命の時、殺された王妃である
 マリー・アントワネットが、重税に苦しめら
 ていた国民が「パンをくれ」と声を大にして
 いった時、国民の言葉の意味を理解出来ず
 「パンがないならお菓子を食べれば良いでは
 ないか」と答えたと言う。

 なに不自由も無く生きてきた王妃に、国民の
 言葉を理解する事が出来なかったのも当然に
 思えるが、実は 彼女には英知とか智慧を持
 ち合わせず、国民の痛みを理解出来なかった
 のだと思われます。

 我々人間は、社会のあり方、自分自身のあり 
 方、すなわち物事の本質を正しく見る目、
 英知・智慧を身につけるべく、人生を学んで    
 行く事が大切である様に思えるのです。

 自分自身を見つめる事により、自分自身の本  
 質を十分に知り、うなずける存在になれば、
 自ずと足るを知り、充実した人生を歩む事が   
 出来る様に思えます。

 つまり、小欲・知足で毎日を歩む事の大切
 さ重要さを知らされ、お金とか物とかに振り    
 回されている今の私たち日本人、自分とか
 物事の本質を見きわめる英知・智慧を身に
 つけ、人生を毎日歩むことが、真の幸せに
 導かれる道であるのでは無いでしょうか?
 「未得の財において小欲あり。巳得の財に 
 おいて知足あり」

 「行住坐臥 飲食衣服等、みな準じて
 これを守る。この心ざし断絶ずして
 三界に独歩し、十方に遊歴すぺし。」

 
 慈雲は、その事を涅槃経のこの文を引いて
 強調されております。

 寺の住職たる私どもも、大きな伽藍、
 綺麗な荘厳や境内の護持に心を奪われ
 本来すべき仏法の土地を耕し、その土地に
 信心の芽を育てる事を怠り、住職や寺族と
 同行門徒との往き交いをはかり、人生を
 朋に語り、人間を見つめ、法味を愛楽する
 人間同志の心と心のつながりを持つ大切さに
 気づかなければならないと反省するところで
 有ります。

           合    掌

01/09/2026

今月は、秋季永代経が勤まる月で有りますが
本年も、見送りたいと思います。

報恩講法要は、11月8日(日)13:00~
のお勤めを予定しております。

合掌

01/09/2026

9月に入りましたね!

05/08/2026

今月(8月)のことば

「自分が今生きている事は、先祖が自分の中に生きている事だ。爺さま婆さまたちと共に」

今月は、お盆の月ですね。
生まれ故郷へ帰省される方も多いのではないでしょうか。
故里の山河に接し、父母に会い祖先のお墓に参るなど、先祖供養や追慕の季節でもあります。

お盆になると、子供の頃は良く父親と祖父の実家である笠間の光照寺に、ご先祖様をお迎えに行ったものです。
昔、大人の人から良く「人は木の股から生まれた人は誰もいないよ、ご先祖様あっての私たちなんだからご先祖様は大切にしなさいね」と、言われたものでした。

私が今ここに生きている為には、数え切れない沢山のご先祖様の連続的繋がりによって存在しているのです。
一組でも、縁談が成立していなければ今の私はいないのです。
だから、命は自分だけの所有物では無いのです。
私達は、限りない先祖の「ねがい」の中にあり
目にも見えず、耳に聞こえないけれど、ご先祖様が「今有る命を喜べ」と呼びかけている事を感知したいものです。

そこに気づけた時、私自身の命も他人様の命も大切にしなければならないと感じられるのだと思います。
そんな知覚が、如来様の智慧なんだと思うのです。

仏教学的に、往相廻向とか還相廻向とか難しく考える事も大切では有りますが、私達の持っている感性で、その呼びかけを受けとめる事が出来るのも、ご先祖様からの還相廻向の働きでは無いでしょうか。

今年も、そんな事を考えながら、お盆を迎えたいと思うのです。

お盆は、年中行事の仏事では有りますが、私が受け継いでいる命、そして、その生活の中に有る仏性を感じ、味わい、子孫に伝える日でも有りたいものですね。

ご先祖様は、常に阿弥陀様と同体となられ、慈光の中 私を暖かくお守り下さっている事に気づきたいものです。
そして、悲しみの深さの中に真のよろこびが有る事を、お念仏生活によって味わいたいものですね。

すなわち、阿弥陀如来様の真実心を仰ぎ、信心と金剛心を獲得した念仏の行人と成り、又如来様のお心に生きる人と成って、どんな苦悩や悲しみに出会っても、そこから打ちひしがれる事無く、くじける事の無い人生、自己にめざめるご縁の月にしたいものですね。

              南無阿弥陀仏

               合  掌

04/08/2026

令和八年 明圓寺 盂蘭盆会法要のお知らせ

8月15日(土)13:00~本堂にて、盂蘭盆会法要が勤まります。又、読経のあとに石塚信昌氏(全日本仏教会賛助会員、築地本願寺倶楽部会員)による仏教紙芝居(①しんらんさまとやまぶしべんねん ②あみださまとたんこぶ ③りゅうじん池としんらんさま ④しんらんさまと白い道)を予定しております。

皆様お誘い上、ご参詣下さります様お願い致します。

              合  掌

02/07/2026

今月(7月)の言葉

美しくするには まず汚なさに気づくこと、汚なさを知らなければ汚れは落とせない
この汚れは 自分だけの力だけでは落とせない

親鸞聖人は、「罪悪深重の凡夫」とは、人間は全て他の生き物の命を奪い、他人の物を消費し、心には、そねみ ねたみ 怒りの心が満ちみちていると自らを懺悔しつつ、その様に述べられています。

人間の醜悪な心が根底に有る事を見抜き、気づかされた時、仏の救いが届くものでありましょう。

例えば「五戒」は、在家の仏教徒が守るべき基本的な五つの戒め(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)を指し、人としての道徳と心の安定の土台とされますが、不殺生戒1つを省みても、蚊やゴキブリ、蝿などを懺悔の思いどころか憎しみを持って命を奪っているところが有るのでは無いでしょうか⁈
又、その事実にも、気づかずに善人面している自分の存在の中に今生きているのです。
私なども、家族に虫が出たなどとさわがれると、慌てて蝿叩きで叩いたりしております。

実は、私達は五戒の何一つ戒めるどころか、守っていないのです。

ところで、「戒名」が有りますが、
これは、この五つの戒めを守りますという誓いの名前なのです。
ですから、本来は亡くなってから付けるものでは無く、生前に誓いの名前として付け、10年、15年、20年…と山に籠って修行して、仏の救いが届くかどうかという厳しい自力聖道門の戒律なのです。
守ることで、自分と他者を傷つけない生き方を目指すものです。

浄土真宗に於いては「法名」といい、仏・法・僧 を拠り所に生きる事を誓った人に授けられる仏弟子としての名前であり、阿弥陀仏の救いを拠り所として生きる事を誓った証の名前で、やはり、本来は生前にいただくものです。
性格的には、戒律より「法(教え)」への帰依を示すもので有ります。

我々は、我執(自分の考えや欲望、立場)に強くとらわれて、手放せずにいます。
仏教では、苦しみの根本原因である心の執着を意味します。

つまり、自分の経験を根本と考え、自己中心(煩悩)に固執し、自分だけの小さな考えにとらわれ、私こそが実体として存在すると云う思い込みを手放し素直に生きる事が困難な生き物なのです。

だから、先に述べた様に、この人間の汚れは自分の力だけでは落とせないのでは無いでしょうか。

だから、親鸞聖人は、阿弥陀仏がそんな罪深い事にも気づけずにいる我々凡夫を、ことに憐れみたまい救うと願いをかけられている阿弥陀如来の呼び声に、一刻も早く耳を傾けてお念仏を心の拠り所とした生き方を勧められているのです。
浄土真宗では、易往而無人(往き易くして人無し)と云いますが、中々難しい課題ですね。

南無阿弥陀

       合  掌

02/06/2026

今月(6月)の言葉

「春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪さえて冷しかりけり」

     道元禅師

この歌は、道元禅師が、日本の四季を永平寺の夜空を眺め、詠われたものです。

自然の美をありのまま、素直に賞でる気持ちが、そのまま、仏の御いのちに通じる事を表したものでその言葉自体が禅を説いております。

禅では、これを「不立文字(ふりゅうもんじ)
教外別伝(きょうげべつでん)、以心伝心(いしんでんしん)、直指人心(じきしじんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」等と要約され、言葉を超越し、教義体系にしばられず、自分の胸中をじかにつかむ事かによって、
その中に仏の御いのちが見出されると説き、禅の世界に解け込んで行く事を指しています。その境地に成り切る事が、坐禅の姿であります。

現代人は、本当に有るべき自己を見失い、我が身を飾り、言葉をも持ち遊んで、あたかもそれに実体があるかの様に考えている所に、自己疎外や断絶の要因がある様に思えます。

最近、游心庵に別離の悲しみの中、お参りに来ていた方から、又 少しお墓が荒れて来た様に思えますと言われました。

游心庵を管理をお願いしている業者さんにその旨をお伝えした時に返って来た言葉を思い出し綴った歌であります。

管理費を負担されている游心庵の利用者の方々の想いを、胸の片隅に何時も持ち
お寺に携わり働かせて頂く事の意味を取り違えたり、見失うこと無い様に気をつけなければと、改めて自分を見つめるご縁を頂いたと思った次第で有りました。

もう少し、自分を見つめ良く考える事に、この禅の言葉の意味が有るのであろうと感じさせられました。

道元禅師は、眼前のすべての現象のありのままの姿を仏法の現れとし、「正法眼蔵」を著し、人は、名利を捨て、俗塵(ぞくじん)を離れ、理想とした禅の生活を勧められた方であります。

親鸞聖人とは考え方が少し異なるところが有りますが、私共がお寺で生活をする上で、名利を先にするのでは無く、お参りする方の立場、思いに心をよせ、その代償としての対価が働く(自分が仕事させて頂く事は、他人様が喜び、楽しく思ってくれ事で有る)との認識を持つ事を忘れてならないと改めて心に留めた事でありました。

お寺の法務や作務に当たる事は、人間の生死に関わる仕事をさせて頂いていると云う事実をわすれてはいけないと、坊守とお互いに確認させて頂いたことでした。

   南無阿弥陀           

   南無阿弥陀
    

     合  掌

30/04/2026

今月(5月)の言葉

「人身受け難し、今已(いま、すで)に受く
仏法聞き難し、
今已に聞く。
此身(このみ)今生に向かって度せずんば
さらにいずれの生に向かってか此身を度せん。
大衆諸共に至心に三宝に帰依したてまつるべし」
       
礼賛文(三帰依文)

先日、行年百歳になるお婆ちゃんのお葬儀を勤めました。

亡くなられてから、3ヶ月が過ぎており百カ日法要も、併せてお勤め致しました。

我々は、死んだらお葬式をして遺体を火葬にしそれをお墓に納めます。

どんな葬儀をするか、どんな墓をつくるかと言う事に頭が一杯になっているのではないでしょうか?

そんな事より、今生きている間にこそ仏法に出会わなくては、まことの生きがいは無いのではないかと思うのです。

問題は、墓場に行くまでの人生の道案内人を見つけた生き方をしているかと言う事であると思うのです。

その生き方を教えてくれるのが
三宝(仏・法・僧)に帰依することなのです。

余談ですが、三宝帰依の文は「華厳経」によった文の様であります。

真宗においては、「仏に帰依」するとは、阿弥陀仏に帰依(帰命)することであり、「法に帰依」するとは、よきひとの仰せに帰依することであり、「僧に帰依」するとは、聞法の道場に集う人々は勿論、道場を荘厳(しょうごん)する全体に帰依することでありましょう。

我々は、仏法に今現に会っているのに、又、人身も今現に受けているのに、その事が良くわからず、迷っているのです。

勿体なく、早く仏法をいただくことに目ざめなさいと云う趣旨を示して下さっているのです。

三宝との本当の出遇いこそが、墓場へ行くまでの人生の道案内人なのです。

「親鸞においては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」

            歎異抄 第二章

親鸞聖人の教えによれば、聖人はご自身の所信を同行衆に、この様に語っておられ、仏 法 僧の三宝に帰依すると云う表白は一言で言えば
「ただ念仏する」と言う事で、南無阿弥陀の名号が三帰依文であり、それは遇法(ぐうほう)の喜びと仏弟子の「如来の真実義を解したてまつらん」と云う、仏弟子の生涯の歩みで有ると終始しておられます。

お念仏申しましょう。

南無阿弥陀  

南無阿弥陀 

  合  掌

03/04/2026

今月(4月)の言葉

「長寿百歳 尊きにあらず、今を永遠に生きることが肝要」

 佐々木 蓮麿

今年(令和八年)に入って、20歳代から40歳代のお葬儀を勤める事が多く続いております。

私も、今年は僧侶になって49年になりますが、若い方の葬儀を勤めるのは、ちょっと苦手なところが有ります。

「人生は長いだけが能でない 長さに加えて広さ、
広さに加えて深さ、長くて広くて深い人生をおくりたい」

誰しも、長生きしたい気持ちは持ち合わせておりますが、人生は深さが肝要であり、人生の過去の上に、しかも、未来を展望して現在を永遠に生きねばならぬ事であるべきなのです。

人生の広さというのは、空間の世界で、自分だけの事を考えるのでは無く、隣人をはじめとして、地球上に存在するあらゆる動物や植物、さらに、地球上の資源にまで思いを寄せ、その中にある自分という存在を考える世界観が必要とされると思われます。

私たちは、自己中心的で、自分だけ、今日だけを考えがちで、人生の長さや幸せを追い求める狭い人生に陥りがちですが、永劫の世界の中の人生を過ごす事を心がけ、長いだけで事足る人生では無く、広く、しかも、深い人生を歩む事が肝要であると思うのです。
                   
    合 掌

住所

真家1055
Ishioka-shi, Ibaraki
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