伊勢崎聖書キリスト教会

伊勢崎聖書キリスト教会 御言葉によっていきる。主の弟子としていきる。神の家族としていきる。

04/09/2026

#みことばの黙想
2026年9月5日(土):詩篇 119:65〜72
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:詩篇 119:65〜72
65主よ あなたはみことばのとおりにあなたのしもべに良くしてくださいました。
66良い判断と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じています。
67苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。しかし今は あなたのみことばを守ります。
68あなたは いつくしみ深く良くしてくださるお方です。どうか あなたのおきてを私に教えてください。
69高ぶる者は 私を偽りで塗り固めましたが私は 心を尽くしてあなたの戒めを守ります。
70彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし 私はあなたのみおしえを喜んでいます。
71苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。
72あなたの御口のみおしえは 私にとって幾千もの金銀にまさります。

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)
65〜72節は、ヘブル語アルファベットの9番目の文字「テット」(ט)で始まる段落です。この文字で始まる各節の頭文字は「トーブ」(良い)という言葉に通じ、この段落全体のテーマは「苦しみの中にあっても、みことばを通して良くしてくださる神様を信頼すること」です。

1. 主の良くしてくださる御業(65~67節)
65 主よ あなたはみことばのとおりにあなたのしもべに良くしてくださいました。
66 良い判断と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じています。
67 苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。しかし今は あなたのみことばを守ります。
詩人はまず、主がみことばの約束どおりにご自分に良くしてくださったことを告白します。そして、主から来る良い判断力と知識を求めています。彼はみことばを完全に信頼しているのです。
さらに興味深いのは67節です。苦しみに遭う前は道を踏み外していたが、苦しみを通してこそ、みことばに従うようになったという告白です。苦しみは詩人にとって、みことばへ立ち返らせる神様の道具でした。

2. 苦しみさえも益となる(68節、71節)
68 あなたは いつくしみ深く良くしてくださるお方です。どうか あなたのおきてを私に教えてください。
71 苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。
主はどんな状況においても善であられ、主のなさることもまた善です。だからこそ詩人は、この良き主から直接おきてを学びたいと願っています。
そして71節では驚くべき告白がなされます。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」。なぜなら、その苦しみを通してこそ、みことばを深く学ぶことができたからです。苦難は無意味な痛みではなく、神様がご自分の民をみことばへと導かれる恵みの手段なのです。

3. 高ぶる者との対比(69~70節、72節)
69 高ぶる者は 私を偽りで塗り固めましたが私は 心を尽くしてあなたの戒めを守ります。
70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし 私はあなたのみおしえを喜んでいます。
72 あなたの御口のみおしえは 私にとって幾千もの金銀にまさります。
高ぶる者たちが偽りをもって詩人を汚そうとしても、彼は心を尽くしてみことばを守り抜きます。彼らの心は「脂肪のように鈍感」ですが、詩人はみことばを喜びとしています。そして最後に、主の御口から出るみことばは、幾千の金銀にもまさる価値があると告白するのです。

4. 新約時代の契約の民として
新約時代の契約の民とは、イエス・キリストを信じて救われた者、すなわち新しいイスラエルです。
「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)
彼らは神のものとなり、神もまた彼らのものとなる契約関係に入ります。
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(Ⅰペテロ2:9)
旧約の契約の民に求められたのは、みことばに従う「シェマ」(聞け、イスラエルよ)でしたが、新しい契約においては「身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになること」が求められます。
「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」」(エレミヤ31:34)

5. 神の所有とされた者の喜び
神の所有とされた者は、神に近づくことを喜びとします。それは、贖いの恵みによって神の家に住むことを慕い求める姿です。
ファニー・クロスビーはこの喜びを、大いなる賛美をもって歌いました。
「神のこどもよ 叫べよ歌え輝く道に われらは進み天(あま)つ御殿(みとの)に まもなく入らなん御栄えハレルヤ!」「歌えど尽きせぬ主のほまれ」(聖歌総合版481番)

6. 命に至る狭い道
この道は命の道であり、狭く細い道です。詩人はこの道を喜びとしますが、心が脂肪のように鈍感な者はこの道に入ることができません。
「彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私はあなたのみおしえを喜んでいます。」(70節)
心が「脂肪で覆われて鈍くなる」状態とは、いわば霊的な感受性を失った状態を象徴的に表しています。イエス様は、御国のみことばを聞いても悟らないユダヤ人の心の状態を、これと同じように語られました。
「この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。」(マタイ13:15)

7. 何が心を鈍くさせるのか
では、何が心を太らせ、鈍くさせる「脂肪」となるのでしょうか。イエス様はそのような心を「いばらの中に落ちた種」にたとえられました。それはこの世の思い煩い、富、快楽によって息が詰まってしまう状態です。
もちろん、クリスチャンであっても世との関わりを断って生きることはできません。しかし、この世の思い煩いや富、快楽が、心を鈍くさせる「脂肪」となってしまうのです。これを一言で言えば、自己中心的な生き方、肉のためだけの生き方にほかなりません。

8. 心の貧しさこそ祝福の道
心が太っている状態は、「心の貧しい」状態と正反対です。心の貧しい状態とは、ただ神様だけを慕い求める状態です。
では、神様だけを慕い求める貧しい心とは、どのような心でしょうか。それは、詩人が告白したように、神ご自身が自分の受ける分(嗣業)であることを、はっきりと悟っている者の心です。
神様が私の受ける分であるゆえに、私自身もまた神様の完全な所有物となることを慕い求める者。日々、肉の思いと欲望を十字架につけながら、同時に神様だけで自分の心が満たされることを祈り求める者。それが、詩人が示す信仰の姿なのです。

4私の黙想(個人:心に響いた御言葉や、黙想のメモ)

5. 黙想の祈り(個人)+

03/09/2026

#みことばの黙想
2026年9月4日(金)詩篇 119:49〜64
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:詩篇 119:49〜64
49どうか あなたのしもべへのみことばを心に留めてください。あなたは 私がそれを待ち望むようになさいました。
50これこそ悩みのときの私の慰め。まことに あなたのみことばは私を生かします。
51高ぶる者は ひどく私を嘲ります。しかし 私はあなたのみおしえからそれません。
52主よ 私はあなたのとこしえからのさばきを心に留め 慰めを得ます。
53悪しき者 あなたのみおしえを捨てる者のゆえに激しい怒りが私をとらえます。
54あなたのおきては 私の旅の家で私の歌となりました。
55主よ 夜にはあなたの御名を思い起こしあなたのみおしえを守ります。
56これこそ 私のもの。私があなたの戒めを守っているからです。
57主は私への割り当てです。私は あなたのみことばを守ると申し上げました。
58私は心を尽くして あなたに乞い求めます。みことばのとおりに 私をあわれんでください。
59私は 自分の道を顧みてあなたのさとしの方へ足の向きを変えました。
60私はすぐ ためらわずにあなたの仰せを守りました。
61悪しき者の綱が私に巻き付いてもあなたのみおしえを 私は忘れませんでした。
62真夜中に 私は起きてあなたに感謝します。あなたの正しいさばきのゆえに。
63私は あなたを恐れるすべての人あなたの戒めを守る人たちの仲間です。
64主よ 地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)
49〜64節前半:ザイン(ז)の段落 ―― どんな時も、みことばが私を慰め導く
ヘブル語アルファベットの7番目「ザイン」で始まるこの段落は、「זָכַר(ザーカル=覚えてください)」ということばから始まります。テーマは、どんな状況にあっても、みことばこそが私たちを慰め、導くということです。
49節 「あなたのしもべへのみことばを心に留めてください」――詩人は、主のことばこそが自分の希望の源であることを告白します。神ご自身が、この希望を待ち望むように詩人を導かれたのです。
50節 苦しみのただ中にあるとき、詩人を慰めるのはみことばです。それは、みことばが実際に彼を生かしてきたからです。
51節 高ぶる者たちがどれほど嘲っても、詩人は主のみおしえから離れません。
52節 詩人は「とこしえからのさばき」、すなわち昔からの神の律法を心に留めることで慰めを得ます。ここでいう「昔からの律法」とは、いつの時代にも変わらない神のことばのことです。移ろいゆく世界と人の中で、変わることのないみことばだけが、真の慰めとなるのです。
53節 一方で詩人は、みおしえを捨てる悪しき者たちのゆえに、激しい怒りに満たされます。これは詩篇1篇が描く対比と重なります。
詩篇1篇1〜4節は、主の律法を喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむ「幸いな人」と、そうでない「悪しき者」とを対比しています。幸いな人は、水路のそばに植えられた木のように時が来れば実を結びますが、悪しき者は風に吹き飛ばされるもみ殻のようだと語られています。
詩人がみことばを慕い求める思いの深さと同じだけ、みことばを離れた悪しき者たちに対する怒りも深いのです。
54節 それでもなお、みことばに従って生きる詩人にとって、みおしえはどこにいても彼の「歌」となります。
55節 真夜中であっても、彼は主の御名を思い起こし、みおしえを守ろうとします。
56節 主の戒めに従うこと自体が、詩人にとっての幸い(分け前)となっています。
この段落からの学び
詩人は、主の恵み(ヘセド)と救いが自分に臨むことを願い求めています。それゆえに彼は、真理のみことばを手放さず、しっかりと握りしめようとするのです。みことばは、どんな状況の中にあっても私たちに自由を与え、権力者の前でさえ大胆にみことばを証しする力を与えます。
新約時代における「真理のみことば」とは、福音にほかなりません。コロサイ人への手紙1章5節は、天に蓄えられている望みのゆえに、私たちが福音という真理のことばを聞いたのだと語っています。
福音には神の恵み(ヘセド)が現され、それが救いへと至らせます(ローマ1章16〜17節、5章8節参照)。福音によっていのちを得た者は、そのいのちのことば――福音――をしっかりと握りしめます。そのとき、この神に逆らう曲がった世代の中にあっても、その人は傷のない神の子として、世の光として輝くのです(ピリピ2章15〜16節参照)。
福音、すなわち真理のみことばを慕い求め、しっかりと握りしめることは、どんな状況にあっても自由と慰めをもたらします。いのちのことばを握りしめる者は、苦しみの中でも慰めを受け、その苦しみに十分耐えることができます。みことばを離れた高ぶる者、悪しき者がどれほど嘲っても、彼はみことばをあきらめません。むしろ、福音を持たない人々のために、聖なる怒りを注ぐのです。
その怒りは、いわば愛の裏返しです。みことば(福音)の内にとどまりたいと慕い求める思いが強いからこそ、みことばから離れた状態を見て怒りを覚えるのです。
アダムにあるすべての人は、生まれながらにみことばを離れた者です。みことばを離れた者は、神の目には悪しき者であり、何をしても悪しき業となります。そのような者に、神の恵み(ヘセド)が現され、救いが臨みました。今、救われた者はみことば(福音)の内に生き、福音の外で生きることを、怒りをもって断固として拒みます。かつてみことばを離れた悪しき者であった私たちが、神の恵みによってみことばに従って生きる幸いな者へと変えられたのです。だからこそ、日々いのちのことばをしっかりと握りしめる理由は、あまりにも明らかなのです。

57〜64節:ヘト(ח)の段落 ―― みことばを守ることは、主を所有する特権
ヘブル語アルファベットの8番目「ヘト」で始まるこの段落は、「חֶלְקִי(ヘルキー=私の分け前です)」ということばから始まります。テーマは、みことばを守ることが、神ご自身を所有する特権であるということです。
神は契約の民イスラエルの所有となり、契約の民は神の所有となります。「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」――これは、契約を結んだ双方が、それぞれの関係における責任を果たしている状態を指します。すなわち、契約の民イスラエルがみことばに従うことによって神の民となり、神は彼らの神となって、彼らをご自分の宝の民、祭司の王国、聖なる国民としてくださるのです(出エジプト19章5〜6節参照)。
58節 みことばを守る詩人は、みことばのとおりに恵みを施してくださるよう願い求めます。この恵みとは、契約の中で神が民を顧みてくださること――所有の民、祭司の王国、聖なる国民としてくださることを意味します。
59節 詩人は自分の歩みを顧み、みことばの方へと足の向きを変えます。
60節 悪しき者はすぐに血を流すことに走りますが(イザヤ59章7節参照)、詩人はためらわず、すぐに戒めを守ろうとします。
61節 みことばを離れた悪しき者の綱が彼に巻きついても、詩人はみおしえを忘れません。
62節 それどころか、真夜中にも彼は起きて、みことばのゆえに神に感謝をささげます。
63節 彼は、主を恐れるすべての人、みことばを守るすべての人たちの仲間です。
64節 主の恵み(ヘセド)が地に満ちていることを知り、詩人はみおしえを教えてくださるよう願い求めます。

まとめ
この二つの段落を通して詩人が伝えているのは、みことば(福音)は、苦しみの中にある私たちを慰め、支え、導くだけでなく、それを守ること自体が神を所有する者としての特権であるということです。真夜中にも御名を思い起こし、感謝をささげる詩人の姿は、私たちにも、日々の生活の中でみことばを慕い求め、しっかりと握りしめて生きるようにと招いています。

4私の黙想(個人:心に響いた御言葉や、黙想のメモ)

5. 黙想の祈り(個人)+

02/09/2026

#みことばの黙想
2026年9月3日(木)詩篇 119:33〜48
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:詩篇 119:33〜48
33主よ あなたのおきての道を教えてください。そうすれば 私はそれを終わりまで守ります。
34私に悟らせてください。私があなたのみおしえから目を離さず心を尽くしてそれを守るために。
35私にあなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
36私の心をあなたのさとしに傾かせ不正な利得に傾かないようにしてください。
37むなしいものを見ないように 私の目をそらせあなたの道に私を生かしてください。
38あなたのしもべへの 仰せのことばが成り私があなたを恐れるようにしてください。
39私がおびえているそしりを取り去ってください。あなたのさばきはすぐれて良いからです。
40ご覧ください。私はあなたの戒めを慕っています。あなたの義のわざにより私を生かしてください。
41主よ あなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いが みことばのとおりに。
42そうすれば 私をそしる者に対して言い返すことができます。私はあなたのみことばに信頼していますから。
43私の口から 真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私はあなたのさばきを待ち望んでいるのです。
44こうして私は あなたのみおしえをいつも とこしえまでも 守ります。
45そうして私は広やかな所に歩いて行きます。あなたの戒めを私が求めているからです。
46私は あなたのさとしを王たちの前で述べしかも 恥を見ることはありません。
47私は あなたの仰せを喜びます。それを私は愛します。
48私は 愛するあなたの仰せを求めて両手を上げあなたのおきてに思いを潜めます。

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)

詩篇119篇は、ヘブル語アルファベット22文字それぞれに8行ずつを割り当てて構成された、22の段落からなる詩です。176行のほとんど(122節と132節を除く)に、「みことば」を言い表す8つの言葉(おきて、みおしえ、仰せ、さとし、戒め、みことば、さばき、道など)が用いられています。
各段落の間に、はっきりとしたストーリーの流れや構成上のまとまりがあるわけではありません。むしろ、同じような思いが色合いを変えながら繰り返し語られる、いわば「モザイク」のような詩です。
けれども、その根底に一貫して流れている確かな思いがあります。それは、契約の民にとって、みことばこそが人生を決定づけるものであるということです。みことばに従って生きることは、神と正しい関係の中にとどまり、契約の民としての本分を果たすことを意味します。

33〜40節 「ヘ」の段落 ― みことばを慕い、その道を歩む
この段落(ヘブル語の5番目の文字「ヘー」で始まる)のテーマは、神のみことばを慕い、その道を歩ませてくださいと願い求めることです。
33 主よ あなたのおきての道を教えてください。そうすれば 私はそれを終わりまで守ります。 34 私に悟らせてください。私があなたのみおしえから目を離さず心を尽くしてそれを守るために。
みおしえを守ることは、まず主ご自身が悟らせ、教えてくださることを前提としています。神の恵みによってみことばを悟り、みことばを学ぶ者だけが、それを最後まで守り抜くことができるのです。
35 私にあなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
主に悟らされ、教えられた道を歩む者は、その道の中に確かな喜びを見出します。
主の道を歩む者は、二つの誘惑に警戒しなければなりません。それは、心の中の不正な利得への傾きと、むなしいものを見つめる目です。

36 私の心をあなたのさとしに傾かせ 不正な利得に傾かないようにしてください。
37 むなしいものを見ないように 私の目をそらせ あなたの道に私を生かしてください。
詩人はまた、約束を成し遂げてくださる神を恐れ敬うことを願います。
38 あなたのしもべへの 仰せのことばが成り 私があなたを恐れるようにしてください。
38節の「私があなたを恐れるように」という仰せは、文字どおりには「あなたを恐れ敬うための約束」を意味します。
39 私がおびえているそしりを取り去ってください。あなたのさばきはすぐれて良いからです。 40 ご覧ください。私はあなたの戒めを慕っています。あなたの義のわざにより私を生かしてください。
詩人は、主のさばき(おきて)がすぐれて良いものであると信じているからこそ、自分の身に降りかかっている恥が取り除かれることを願い、主の戒めを慕い、主の義によって自分のいのちが生かされることを祈り求めています。

41〜48節 「バウ」の段落 ― 主の恵みと救いにより、みことばを堅く守る
この段落(ヘブル語の6番目の文字「ワウ」で始まる)のテーマは、主の恵みと救いが臨むことにより、みことばを堅く守り続けることです。

41 主よ あなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いが みことばのとおりに。
詩人は、みことばの約束どおりに、主の恵みと救いが自分に臨むことを願い求めます。
42 そうすれば 私をそしる者に対して言い返すことができます。私はあなたのみことばに信頼していますから。 43 私の口から 真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私はあなたのさばきを待ち望んでいるのです。
そして、たとえ自分をそしり、あざける者たちの前に立たされても、真理のみことばを堅く保ち続けたいと願います。
44 こうして私は あなたのみおしえをいつも とこしえまでも 守ります。 45 そうして私は広やかな所に歩いて行きます。あなたの戒めを私が求めているからです。
45節の「広やかな所」とは、文字どおりには「広い場所」を意味し、苦難や圧迫に閉じ込められることのない、自由な状態を表しています。主のみおしえを守ることによって、詩人は自由に、伸び伸びと歩むことを決意しているのです。
46 私は あなたのさとしを王たちの前で述べ しかも 恥を見ることはありません。
詩人は、たとえ権力者たちの前であっても、臆することなく主のみことばを証しし、恥を受けることはないと言います。
47 私はあなたの仰せを喜びます。それを私は愛します。
48 私は 愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ あなたのおきてに思いを潜めます。
それは、彼が主のみことばを心から喜び、愛しているからです。彼は両手を上げてこの愛するみことばを求め、賛美し、静かにそのみことばを口ずさみ、思いを潜めるのです。

適用 ― 新約の教会に生きる私たちへ
詩篇119篇が8つの言葉で言い表している「みことば」は、新約時代を生きる私たちにとって、福音にほかなりません。
福音は、人が自分の力で悟ったり、学び取ったりできるものではありません。ただ聖霊によってのみ悟り、学ぶことができ、この福音によって私たちは永遠のいのちを受けます(Ⅱテモテ1:10)。福音を通して与えられる永遠のいのちは、世界の始まる前から神が約束してくださったご計画です(テトス1:2、エペソ3:11)。
永遠のいのちを受けた者は、約束のとおりに成し遂げてくださった神を恐れ敬うのがふさわしい歩みです(38節)。
いのちを与えてくださった神を恐れ敬う生き方とは、そのいのちを実際に生きることです。そのために私たちは、心の中の不正な利得への欲望を退け、むなしいもの、価値のないものから目をそらし、目に見えない永遠のものに目を留めて歩みます。

いのちを保ち続けようとする者は、日々、肉とともにその情欲と欲望を十字架につけます。また、その目を世の見えるものから引き離し、永遠のものに目を注ぎます。
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(ガラテヤ5:24)
「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
福音を聞き、福音の上に堅く立ち続けたいと慕い求める者を、神はご自身の義によって、そのいのちを保ってくださいます。

4私の黙想(個人:心に響いた御言葉や、黙想のメモ)

5. 黙想の祈り(個人)

01/09/2026

#みことばの黙想
2026年9月2日(水)詩篇119:17〜32
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:詩篇119:17〜32
17あなたのしもべに豊かに報い 私を生かし私があなたのみことばを守るようにしてください。
18私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。
19私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
20いつのときも あなたのさばきを慕い求めて私のたましいは押しつぶされるほどです。
21あなたは あなたの仰せから迷い出る高ぶる者のろわれるべき者を おとがめになります。
22私から そしりと蔑みを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。
23たとえ君主たちが座して私に敵対して語り合ってもこのしもべは あなたのおきてに思いを潜めます。
24あなたのさとしこそ 私の喜び私の助言者です。
25私のたましいは ちりに打ち伏しています。みことばのとおりに私を生かしてください。
26私は自分の道を申し述べました。するとあなたは私に答えてくださいました。どうかあなたのおきてを私に教えてください。
27あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私があなたの奇しいみわざを語り伝えることができるように。
28私のたましいは 悲しみのために溶け去ります。みことばのとおりに私を強めてください。
29私から偽りの道を取り除いてください。みおしえをもって 私をあわれんでください。
30私は 真実の道を選び取りあなたの定めを自らの前に置きました。
31私はあなたのさとしに固くすがります。主よ どうか私に恥を見させないでください。
32私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)
詩篇119篇は、ヘブル語のアルファベット(アレフ・ベート)の順番に沿って作られた「アクロスティック詩」です。22個のアルファベットそれぞれに8節ずつが割り当てられ、合計176節から成る、詩篇の中で最も長い詩です。

この詩は、特定の出来事や状況を背景に書かれたものというより、「みことば」そのものを賛美するために作られた文学作品と考えられます。しかし、その中には一貫したメッセージがあります。それは、「神のみことばと律法は、人生のあらゆる領域において決定的に重要である」ということです。

契約の民にとって、みことばが人生の決定的要素である理由は、みことばに従うことによって初めて、神のうちにとどまることができるからです。つまり、みことば自体というより、「みことばに従い、契約の中にとどまり続けること」こそが、神の民の歩みにとって最も大切なことなのです。

第一部:18〜24節(ヘブル語アルファベット第3文字「ギメル」)
この段落のテーマは、みことばへの献身と、みことばを持たない世の高ぶる者から離れること(21節)です。
主のしもべは、神の顧みと恵みへの感謝から、みことばに従います(17節)。
18節 詩人は「私の目を開いてください。」と祈ります。ここでの「奇しいこと」とは、通常、神の贖い(救い)のみわざを指します。神ご自身が目を開いてくださって初めて、みことばの中にある驚くべき真理を見ることができるのです。
19節 詩人は自分を「地では旅人」と呼びます。この世のどこにも本当の居場所を持たない者として、彼が必要としているのは、ただ神の仰せ(みことば)だけです。
20節 その渇きは、たましいが押しつぶされるほどの激しさで、みことばを慕い求める思いとして表されています。
21節 みことばから離れる者は「高ぶる者・のろわれるべき者」と呼ばれ、神ご自身がその者たちを戒められます。
22節 みことばを守っている詩人は、みことばを離れた高ぶる者たちからのそしりと蔑みを受けないようにと願います。
23節 権力を持つ「君主たち」が座り込んで詩人を非難しても、詩人はかえって静かにみことばに思いを潜めます。ここで「座して」語り合う者たちとは、旅人である詩人とは対照的に、この世に安定して根を下ろした者たちを意味しています。
24節 ヘブル語で「思いを潜める」(シーアハ)という言葉は、単に読んだり暗唱したりすることを超えて、その深い意味を悟り、心の内から湧き上がる喜びを味わうところまで至ることを意味します。この世で安定し力を持つ者たちがどれほど詩人をあざけっても、詩人はみことばから湧き出る喜びによって、それに十分に耐えることができます。みことばこそが、彼の喜びであり、助言者(相談相手)なのです。

第二部:25〜32節(ヘブル語アルファベット第4文字「ダレット」)
この段落のテーマは、たましいが「ちり」の中にあっても、心が「広げられて」いても、詩人はどんな状況でも神のみことばに堅くすがり続けるという決意です(31節)。

25節 詩人はちりの中に打ち伏す(=打ちのめされ、絶望的な)状況にありながら、みことばによってたましいが新しくされることを願います。
26節 自分の歩んできた道を主の前に正直に申し述べ、みことばによる応答を求めます。この惨めな状況の中でこそ、みことばを正しく知りたいと願っているのです。
27節 そうすることで、神が行われた驚くべきみわざ(救い)を、人に語り伝えることができるようになると告白します。
28節 悲しみで力尽きた詩人は、みことばによって強められることを求めます。
29節 疲れ果て、無力になった状態の中で、偽りの道(悪の道)に陥らないよう守ってくださいと願い、それと同時に、みことばを教えられ、憐れみを受けたいと願います。
30〜31節 詩人は真実の道を自ら選び取り、主の定めを自分の前に置きます。心をみことばに合わせ、みことばに固くすがり続けます。そうして、恥を見ることがないようにと祈ります。
32節 苦しみの中にあっても主の命じられた道を走ることができるのは、神ご自身が詩人の心を広くしてくださったからです。

まとめと適用:福音的な視点から

詩篇における「みことば」は、新約時代においては、いのちに至るみことば、すなわち福音を指し示しています。福音の中には、救いという驚くべきみわざが啓示されています。

「私の目を開いて、あなたのみおしえ(福音)のうちにある奇しいことを見させてください」

福音によって示された驚くべき出来事とは、御子イエス・キリストによって神に近づくことができるという「いのち」の実在です。

この福音による、いのちの実在を知る者は、どんな状況にあっても、そのいのちを渇き求めます。すなわち、御子と御父の内にとどまり、永遠のいのちを味わうことを願うのです。たとえこの地上で旅人としての人生であっても、それで十分です。なぜなら、神ご自身のうちに喜びがあるからです。

しかし、永遠のいのちを知らない者は、天にではなく、この地上での安定と豊かさを求めます。そして、天に属する者(旅人として生きる者)をかえって見下し、そしります。残念なことに、教会の中にも、この世の生き方に慣れきってしまい、天の御国を心から喜び求める人々を理解できず、批判してしまうことがあります。彼らの関心は、この世における安定や評判、豊かさに向いているからです。

今日、教会の中で、みことばを慕い求め、みことばを通して天の御父のもとに帰ることを切に願っている人が、どれほどいるでしょうか。

神を信じていても、地上で旅人であることをやめ、この世での安定を求めようとする者は、本当の意味で神を「信仰している」のではなく、神を「利用している」に過ぎません。そのようにして自分のいのち(人生)を守ろうとする者は、かえってそれを失ってしまいます。

しかし、自分が旅人であることを受け入れ、主と福音のために自分のいのちを差し出す者は、最終的に本当のいのちを得るのです。

このような祝福された歩みとは、日々、天の御父の家に入っていくこと、すなわち、みことばを喜びとする生き方にほかなりません。

4私の黙想(個人:心に響いた御言葉や、黙想のメモ)

5. 黙想の祈り(個人)+

31/08/2026

#みことばの黙想
2026年9月1日(月):詩篇119:1〜16
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:詩篇119:1〜16
1幸いなことよ全き道を行く人々主のみおしえに歩む人々。幸いなことよ
2主のさとしを守り心を尽くして主を求める人々。
3まことに彼らは不正を行わず主の道を歩みます。
4あなたは戒めを仰せつけられました。それらを堅く守るように。
5どうか私の道が堅くされますように。あなたのおきてを守るために。
6そうすればあなたのすべての仰せを見て私は恥じることがありません。
7あなたの義のさばきを学ぶとき私は直ぐな心であなたに感謝します。
8私はあなたのおきてを守ります。どうか私を見捨てないでください。
9どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。
10私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください。
11私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。
12主よあなたはほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。
13私はこの唇で語ります。あなたの御口のさばきすべてを。
14私はあなたのさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます。
15私はあなたの戒めに思いを潜めあなたの道に私の目を留めます。
16私はあなたのおきてを喜びとしあなたのみことばを忘れません。

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)

詩篇119篇とはどんな詩篇か

詩篇119篇は「みことばの賛美歌」と呼ばれる特別な詩篇です。全150篇の中で最も長く、176節から成りますが、これは決して無計画に書かれたものではありません。

ヘブル語のアルファベットは全部で22文字あります。この詩篇は、1つの文字につき8節ずつ、22文字分(22×8=176節)を割り当てて作られた「アクロスティック詩」(各行の頭文字を順番に並べる詩の技法)です。今日学ぶ1〜16節は、その最初の2つのグループ(アレフ:1〜8節、ベート:9〜16節)にあたります。

1節に込められたテーマ

「幸いなことよ、全き道を行く人々、主のみおしえに歩む人々。幸いなことよ」(1節)

この一節は、詩篇119篇全体、いや詩篇の巻頭を飾る詩篇1篇とも響き合う、聖書全体の大きなテーマです。

「全き道を行く」ことと「主のみおしえに歩む」ことは、ヘブル語の詩によく見られる並行法(同じ内容を違う言葉で言い換える技法)によって、同じ一つの事柄を指しています。すなわち、幸いな人とは、主のみことばを喜びとし、それを昼も夜も思い巡らす人のことです。

「幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。」(詩篇1篇1〜2節)

「みことば」を表すさまざまな言葉

この詩篇では、神の言葉が一つの単語だけでなく、「おきて」「さとし」「戒め」「さばき」「みおしえ」「みことば」など、複数の言葉で豊かに言い表されています。1〜16節の中にも、

主のみおしえ(1節)
さとし(2節)
戒め(4、15節)
おきて(5、8、12、16節)
あなたの義のさばき(7、13節)
みことば(9、11、16節)

というように、さまざまな表現が織り込まれています。表現は多彩でも、そこに込められているのは一つ、神がご自分の民と結ばれた契約のことばです。

契約の中にある「おきて」

神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を恵みによって救い出され、シナイ山で彼らと契約を結ばれました。

「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」」(出エジプト記19章4〜6節)

つまり、おきてを守ることは、それ自体が目的なのではありません。おきてを守ることによって、神との正しい関係、契約の中にとどまり続けることこそが目的なのです。9〜10節で「若い人はどのようにして自分の道を清く保つことができるか」「心を尽くしてあなたを求める」と歌われているのも、規則を守ることそのものよりも、神ご自身を求め、神との関係の中に生きようとする姿勢を表しています。

律法(おきて)そのものが崇拝の対象なのではなく、おきてを守ることによってその中にとどまっておられる神こそが、賛美の対象なのです。

おきてが「掟」に変質してしまう危険

残念なことに、後の時代のユダヤ教では、おきては契約の中で生きるための道しるべではなく、それ自体を守ることによって自分を義とする「律法主義」へと変質してしまいました。神との生きた関係から切り離された、形だけの「規則集」になってしまったのです。

イエスさまは、このような形式主義的な信仰のあり方を厳しく戒められました。

「そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」」(マルコの福音書8章15節)

新約時代における「みことば」―恵みの福音

では、私たちにとって「みことば」とは何でしょうか。旧約の時代、さまざまな仕方で語られた神は、今や御子を通して語られました。

「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。」(ヘブル人への手紙1章1〜2節)

御子によって語られた神のことばは、私たちに「いのちを与えることば」です。

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネの福音書6章63節)
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネの福音書6章68節)

この「いのちのことば」(ピリピ人への手紙2章16節)こそ、新約聖書が語る「福音」です。「キリストのことば」「主のことば」「信仰のことば」「真理のことば」「神の福音」など、聖書はさまざまな呼び方でこの一つの福音を語っています。

今日、私たちにとっての幸い

詩篇1篇と119篇の幸いな人は、「みことばに歩む人」でした。今、私たちにとっての幸いな人とは、「いのちの福音」に生かされて歩む人です。

福音は一度聞いて終わりにするものではなく、日々聞き続け、その中に立ち続けるべき真理です。福音を聞き、キリストのことばが私たちの内に豊かに宿るとき、私たちは御霊に満たされ、主のみこころを行う幸いな歩みへと導かれていきます。

「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ人への手紙3章16節)
「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ人への手紙5章17〜18節)

9〜16節にある「心を尽くしてあなたを求める」(10節)「みことばを心に蓄える」(11節)「あなたのおきてを喜びとする」(16節)という詩人の姿は、今日私たちが福音を日々味わい、その中を歩む姿と重なります。律法の時代の詩人が仰いだ幸いを、私たちは今、キリストにある恵みの中で、より豊かに味わうことができるのです。

4私の黙想(個人:心に響いた御言葉や、黙想のメモ)

5. 黙想の祈り(個人)+

30/08/2026

#みことばの黙想
2026年8月31日(月):エゼキエル書48:23〜35
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:エゼキエル書48:23〜35
23なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。
24ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。
25シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。
26イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。
27ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。
28その境界線は、ガドの地域の南側を延び、タマルからメリバテ・カデシュの水、さらにエジプト川に沿って大海に至る。
29以上が、あなたがたがイスラエルの部族ごとに、相続地としてくじで分ける土地であり、以上が彼らの割り当て地である──神である主のことば。
30町の出口は次のとおりである。北側は四千五百キュビトの長さで、
31町の門にはイスラエルの部族の名がつけられている。北側の三つの門は、ルベンの門一つ、ユダの門一つ、レビの門一つ。
32東側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ヨセフの門一つ、ベニヤミンの門一つ、ダンの門一つ。
33南側も四千五百キュビトの長さで、三つの門がある。シメオンの門一つ、イッサカルの門一つ、ゼブルンの門一つ。
34西側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ガドの門一つ、アシェルの門一つ、ナフタリの門一つ。
35町の周囲は一万八千キュビト。この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる。」

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)
ベニヤミンより南の部族(23〜29節)

ベニヤミン族を境として、その南にシメオン、イッサカル、ゼブルン、ガドの各部族の分が、東から西へと分配されます。

ガドの南の境界は、東は死海付近のタマルから、メリバテ・カデシュの水場までに至り、そこからエジプト川に沿って地中海まで達します。

ダン族から始まる北の境界線と、ガド族で終わる南の境界線は、47章13〜20節に記された土地の境界線と一致しています。これが、回復されたイスラエルがくじによって分配する土地であり、各部族の分です。「主なる神の言葉である。」

分配の構造とその特徴

各部族への土地の分配は、同じ構造を持つ簡潔な言葉で記されています。土地は北の境界から南の境界まで同じ幅で分配され、この分配地は東の境界から西の境界まで帯状に広がっています。この土地の幅そのものは記されていません。

レビ族は、他の世俗的な部族の一つとしては数えられず外れ、代わりにヨセフがエフライムとマナセに分かれて数に加えられています。

部族の配置において独特なのは、12部族のうち7部族が都と神殿の北側にあり、南側にはわずか5部族しかないという点です。ここでは、エルサレムが中心線より南に位置するという地理的条件だけが考慮されており、各部族が実際に定住してきた歴史的・地理的な事情は一切考慮されていません。

また、ヨシュア記の時代の部族の土地と比べても、明らかな違いがあります。かつて北方にあったイッサカル、ゼブルン、ガドは南へ移され、ヨルダン川の東側に定住していた部族はヨルダン川西側に配置され、ユダはかつてと違いエルサレムの北側に位置し、ベニヤミンはユダに代わって都の南側に位置しています。

このような配置の変更は、大きく見れば、正妻(レア、ラケル)の子孫と側女(ビルハ、ジルパ)の子孫という出自の違いによるものと考えられます。すなわち、側女の子孫の部族は北の端と南の端、つまり神殿から最も遠い場所に置かれ(ダン、アシェル、ナフタリ、ガド)、一方、正妻の子孫の部族は、南と北にそれぞれ4部族ずつ、神殿の近くに配置されています。

新しい町の門(30〜35節)

この回復のビジョンの結びに置かれているのが、この箇所です。新しい町の四方の城壁には、それぞれ三つずつ、合計12の門があり、そこにイスラエル12部族の名がつけられています。

方角 門の名前
北 ルベン・ユダ・レビ
東 ヨセフ・ベニヤミン・ダン
南 シメオン・イッサカル・ゼブルン
西 ガド・アシェル・ナフタリ

ここで注目したいのは、かつて祭司の部族として相続地を持たなかったレビ族が門の一つとして数えられ、逆にヨセフの子エフライムとマナセは「ヨセフ」の名で一つにまとめられているという点です。つまり、バラバラに分裂していた12部族が、ここで本来の姿へと回復されているのです。

そして35節、この箇所全体の結論とも言える一言が語られます。

この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる。

ヘブライ語で「ヤハウェ・シャマー」。「シャマー」は「そこに」という意味です。興味深いことに、「エルサレム」というヘブライ語の発音(エルシャライム)は、この「ヤハウェ・シャマー」と音が響き合う言葉遊びになっています。つまり新しいエルサレムとは、「主がそこにおられる町」という意味を持つのです。

12の門が指し示す先 ― 黙示録へ

この12の門の幻は、そのまま新約聖書の黙示録にも受け継がれています。

「大きな高い城壁があり、十二の門があった…東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった」(黙示録21:12-14)

そしてこの町に集うのは、血筋としてのイスラエルだけではありません。

「あらゆる国民、部族、民族、言語のうちから、だれも数えることのできないほどの大群衆が…御座と小羊の前に立ち、大声で叫んでいた。『救いは、御座に座っておられるわたしたちの神と小羊とのものである』」(黙示録7:9-10)

12部族の門は、やがてキリストにあって救われるすべての人々を指し示していたのです。

この箇所が指し示すもの

新しいイスラエルに分配される土地は、部族ごとに均等です。そして地理的な特性は一切考慮されず、順序に従って淡々と割り当てられていきます。ただその中心には、聖く区別された神殿があり、そこには真実であることが証明されたツァドク家の祭司が住んでいます。

このことから、新しいイスラエルが受け継ぐこの土地は、新しい契約の民が受け取る分、すなわち神の国そのものを指し示していると理解できます。

イエス・キリストの死によって、新しい契約が結ばれました(ルカ22:20)。今や、キリストを信じる者は誰でも、新しい契約の民、すなわち神の国の民となります。こうしてキリストにある者は誰でも、御父のもとに近づく特権を持ち、そこには何の差別もなく、皆が等しく神の家族とされています。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ人への手紙 2:18-19)

私たちにとって最も価値があり、大切なことは、「神殿としての人生」を生きることです。それは、聖霊が宿るこの体を通して神に栄光を帰する人生であり、心では主を愛し、体をもって神に栄光を帰す歩みです。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙 第一 6:19-20)

主は義を愛し、不法を憎まれました。それゆえ神は喜びの油を主に注ぎ、その仲間たちにまさって高められました。

あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。(へブル人への手紙 1:9)

キリストを主として受け入れた者も、同じようにこの主のうちを歩みます。その時、喜びが満ち溢れ、ツァドク家の祭司のように、他の人々にまさる尊さをいただくことになるのです。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人への手紙 2:6-7)

わたしたちにとっての「ヤハウェ・シャマー」

旧約の時代、神は定められた場所に「おられ」ました。モーセの時代は幕屋の契約の箱の上に(出エジプト25:22)、その後シロの聖所に(ヨシュア記19:1)、そしてソロモンの神殿に(列王記上9:3)。しかしイスラエルの罪のゆえに、神はシロからも(詩篇78:59-60)、エルサレム神殿からも(エゼキエル11:18)去って行かれました。

地上の神殿には、神が「おられて」は「去って行かれる」という繰り返しがありました。しかしエゼキエルが見た新しい神殿に戻って来られた神は、もう二度と去られません。それは、神が入って来られた東の門が永遠に閉ざされることによって確証されています(44:1-2)。

この「永遠にそこにおられる新しい神殿」とは何でしょうか。それは万物を超えた、天にある聖所そのものであり、全能の神と小羊(キリスト)との交わりのことです(黙示録21:22)。

イエス・キリストがこの世に来られたことは、この天にある聖所がこの世に現れたことにほかなりません。神の御子は父を世に示され(ヨハネ1:18)、その十字架の死は、天の至聖所を隔てていた幕を裂きました。今、わたしたちは誰でも、キリストの血によって天の聖所に入る確信(パレーシア)を持っています(ヘブル10:19)。

「ヤハウェ・シャマー」とは、御子がおられる所に、父もまた共におられるということです。御子の死のうちにとどまる者は、永遠のいのちを得ています(ヨハネ3:15)。そしてその人は、天地創造の前からある父と御子との交わりに、日々あずかることができるのです。

「わたしが彼らのうちにおり、あなたがわたしのうちにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです…わたしに賜わった人々をも、わたしのいるところに、わたしと共におらせたいのです」(ヨハネ17:22-24)

これがエゼキエル書全体の結論であり、48章35節「主はそこにおられる」という一言に凝縮された福音です。教会という共同体もまた、この「ヤハウェ・シャマー」――主が共におられる場所――として召されているのだと言えるでしょう。

4私の黙想(個人:心に響いた御言葉や、黙想のメモ)

5. 黙想の祈り(個人)

30/08/2026

高橋浩一先生: "不健全な喜び"というものを感じた事があるでしょうか。 パウロは以前自分が誇りとしていたものを引き合いに出しながら信仰者の喜びについて続けて語ります。 どんな事を彼は喜んでいたのでしょう。今....

30/08/2026
29/08/2026

#みことばの黙想
2026年8月30日(日):エゼキエル書48:15〜22
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:エゼキエル書48:15〜22
15幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトの残りの地所は、町の一般用であり、居住地と放牧地のためである。町はその中央に建てられなければならない。
16その大きさは次のとおりである。北側は四千五百キュビト、南側は四千五百キュビト、東側は四千五百キュビト、西側は四千五百キュビトである。
17また、町の放牧地は、北へ二百五十キュビト、南へ二百五十キュビト、東へ二百五十キュビト、西へ二百五十キュビトである。
18残りの地所の長さは、聖なる奉納地に接し、東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。それは聖なる奉納地に接している。そこから収穫した物は町の働き人の食物となる。
19その町の働き人はイスラエルの全部族から出て、これを耕す。
20奉納地の全体は二万五千キュビト四方であり、あなたがたは、聖なる奉納地を町の所有地とともに献げることになる。
21聖なる奉納地と町の所有地の両側にある残りの地所は、君主のものである。これは二万五千キュビトの奉納地に面し、そこから東の境界までである。西の方も、その二万五千キュビトに面し、そこから西の境界までである。これは部族の割り当て地にも接していて、君主のものである。聖なる奉納地と神殿の聖所とは、その中央にある。
22君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)
15〜22節では、8節から始まった聖なる奉納地の記述がさらに続き、祭司とレビ人の地に加えて、都のための共有地と、君主(王)のための地が定められていきます。
7番目の部族ユダと8番目の部族ベニヤミンの間にあるこの聖なる地域には、神殿が建てられ、ツァドク家の祭司とレビ人が住み、また聖なる都も建てられます。神殿はこの地域の中央に置かれ、その両側には君主(王)の地が接しています。
この配置が示しているのは、まことの王がまことの神殿のそば近くに置かれるということです。奉納地全体は、祭司の地・レビ人の地・都のための地・君主の地という順序で構成され、これらすべてが一つの聖なる区画としてユダとベニヤミンの間に据えられています。
この記述もまた、45章1〜8節で先に示された内容の詳細な繰り返しであり、回復されたイスラエルの中心に、神殿と都と王座が共に置かれていることを、くり返し確認させるものとなっています。

4私の黙想(個人:心に響いた御言葉や、黙想のメモ)

5. 黙想の祈り(個人)+

#みことばの黙想2026年8月29日(土):エゼキエル書48:1〜141開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。①イエス様、私の魂を主の血...
28/08/2026

#みことばの黙想
2026年8月29日(土):エゼキエル書48:1〜14
1開始の祈り(個人)➡この祈りは自由にどんな形でも大丈夫です。しかしどのように祈ればいいのかわからない場合は下の三つを参考にして祈ってください。
①イエス様、私の魂を主の血潮で洗い清めてください(否定的な部分も)。
②聖霊様、主の光を照らしてください。主のみ言葉を悟らせてください。
③.恵みの御座の前で永遠のいのちを知り、主との交わりに入れていただき、御父の懐に留まらせてください。

2聖書箇所:エゼキエル書48:1〜14
1部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、北にハマテを望む、ダマスコの境界のハツァル・エナンまで──東側から西側まで──これがダンの分である。
2ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。
3アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。
4ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。
5マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。
6エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。
7ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。
8ユダの地域に接して、東側から西側までが、あなたがたの献げる奉納地となる。その幅は二万五千キュビト、その長さは、東側から西側に及ぶ部族の割り当て地の一つと同じである。聖所はその中央にある。
9あなたがたが主に献げる奉納地は、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。
10祭司たちへの聖なる奉納地は次のとおりである。北側は二万五千キュビト、西側は一万キュビトの幅、東側は一万キュビトの幅、南側は二万五千キュビトの長さである。主の聖所はその中央にある。
11この区域は、ツァドクの子孫で聖なる者とされた祭司たちのものである。彼らは、イスラエルの子らが迷い出たとき、レビ人が迷い出たように迷い出ることなく、わたしへの務めを果たした。
12彼らの地域はレビ部族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。
レビ部族の分は、祭司たちの地域に接して、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。すなわち、全体の長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビトである。
彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を譲り渡してはならない。主の聖なるものだからである。
13レビ部族の分は、祭司たちの地域に接して、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。すなわち、全体の長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビトである。
14彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を譲り渡してはならない。主の聖なるものだからである。

3本文の注解(自分で直接に注解をする。/そのまま読むだけでも大丈夫。)
はじめに ― エゼキエル書のあらすじ:「主はそこにおられる」に至るまで

紀元前597年、ユダのエホヤキン王がバビロンに捕らえ移された時、預言者エゼキエルも有力者1万人と共に捕囚となりました(列王記下24:14)。捕囚から5年目の紀元前593年から、彼は22年間にわたって神の言葉を語り続けます。

彼の預言は大きく二つの時期に分かれます。

前半(捕囚後7年間):「エルサレムは必ず滅びる」という警告(1〜24章)
後半(その後15年間):周辺諸国への裁き(25〜32章)と、イスラエルの回復(33〜48章)

栄光が去った神殿 裁きの頂点は、神の栄光がエルサレム神殿から去っていくという出来事でした(8章、11章)。捕囚6年目(紀元前592年)に主の栄光は神殿を去り、その6年後の紀元前586年、栄光なき神殿の建物はバビロンによって焼き払われました(エレミヤ書52:13)。栄光が去った神殿は、もはやただの「建物」に過ぎなかったのです。

回復の約束 しかし神は、一度選んだイスラエルを永遠に滅ぼし尽くすことはなさいません。周辺諸国は徹底的に裁かれますが、イスラエルには回復が約束されます。その回復は「新しい神殿の幻」として示され、そこに再び神の栄光が入って来ます(43:4-5)。神の臨在する神殿から流れ出る水は、すべてのものを生かします(47:1-12)。

この回復のビジョンの結びに置かれているのが、まさにエゼキエル書48章です。以下、3日間に分けて読み進めます。

エゼキエル書 48:1〜14 ― 土地分配の全体像と聖なる奉納地の始まり
エゼキエル書48章は、回復されたイスラエルに対する土地の分配を描いています。土地の分配は、まずイスラエルの中に住む在留異国人への配分から始まります。続いて、12部族への土地分配が語られます。分配は北から南へと進み、ダン部族から始まります。
1. 北の部族への分配(1〜7節)
1節 「一部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、北にハマテを望む、ダマスコの境界のハツァル・エナンまで──東側から西側まで──これがダンの分である。」
ダン部族の割り当ては、北の境界線であるヘテロンの道を通り、レボ・ハマテを経て、ダマスコ北の境界にあるハツァル・エナンまで、すなわちハマテの境界に至る、東から西までの土地です。
続いてアシェルの分がダンに接して東から西まで(2節)、その後ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベン、ユダの分が順に東から西まで連なります(3〜7節)。
2. 聖なる奉納地の始まり ― ツァドクの祭司たち(8〜14節)
ユダ族とベニヤミン族の間には、主に献げる奉納地があります(8節)。
8節 「ユダの地域に接して、東側から西側までが、あなたがたの献げる奉納地となる。……聖所はその中央にある。」
8〜22節の奉納地についての記述は、45章1〜8節ですでに示された内容が、ここでさらに詳しく述べられたものです。
注目すべきは、神殿が置かれる中央の地が、ツァドク家の祭司たちのためのものだという点です。
11節 「この区域は、ツァドクの子孫で聖なる者とされた祭司たちのものである。彼らは、イスラエルの子らが迷い出たとき、レビ人が迷い出たように迷い出ることなく、わたしへの務めを果たした。」
彼らは、イスラエルの民が神に背いたとき、それに加担した他のレビ人たちとは違い、最後まで真実を守り抜いた祭司たちでした。それゆえ、この地の中でも特別に区別された部分は、彼らへの特別な賜物として「最も聖なる地」となり、レビ族の地に接することになります(12節)。
12節 「彼らの地域はレビ部族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。」
こうして、ユダとベニヤミンという二つの部族の間に、レビ人と祭司たちのための聖なる地が置かれることが示されます。

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