あんのん寺(埼玉県 狭山市 熊耳山 安穏寺)

あんのん寺(埼玉県 狭山市 熊耳山 安穏寺) 毎週「日曜日」 PM「三時」から
 お寺の会
(*'▽')坐禅会(´-`*)
宗派とわず どなたでも
法話・イス坐禅体験・茶話会・仏教の勉強
基本、イス。
坐禅のコツと仏道の要点をわかりやすく。

26/07/2026

暑い中、坐禅会参加者5名。

エアコンも無い中、お堂で静かなひと時を過ごしました。

坐禅をするとは、この自己の真実のありようを見届けることでもあります。

人は自分自身の本来の様子、自分自身が存在しているだけで元々安楽なる様子、救われている様子、大寂静なる様子をみたことが無い。みたことが無いから、見届ける必要があるのです。

見届ける為に住職はご案内、ガイドをします。

住職も見届けたので、見届けるための最良の、最短のコース、ショートカット、誰にでもできる方法を伝授します。

鐘が鳴って何もしないままだと、人は坐禅をしているようでも坐禅をしたことにはならない。

それは修行道場でもそうでした。

坐禅の指導、禅の指導とは、本当に見届けた人でないと、その静寂安楽大自在なるところへとご案内できないものだとつくづく思います。

人間の内なる大安楽、宝のありか、安らぎの所在地。
それは他方にはない。
求めるにしても求めると求めるという動きによってそこを見失う。

🍂いろは歌 提唱🎐色は匂へど 散りぬるをわがよ誰ぞ 常ならん有為の奥山 今日こえて浅き 夢見じ(路) 酔いもせず色が匂うというのはこの身心の上にあらわれたるにおいのように感じられる一切のことを言う。映像も音も、香りも味わいも感覚も、色かたち...
18/07/2026

🍂いろは歌 提唱🎐

色は匂へど 散りぬるを
わがよ誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日こえて
浅き 夢見じ(路) 酔いもせず

色が匂うというのはこの身心の上にあらわれたるにおいのように感じられる一切のことを言う。
映像も音も、香りも味わいも感覚も、
色かたちとしてあらわれても、散っていく。
それを無常、無我、涅槃のさまとして説いている。
なぜ無常なのか。人がいない。残り物がないからである。
なぜ無我なのか。人の願いや希望とはうらはらに事実には人のルールというものが及ばない。
なぜ涅槃なのか。事実はもともと人のお手つき無き涼やかなるさまだからである。

いろはにほえどちりぬるを。
わが世誰ぞつねならん。
別に衰えていくこと、死んでいくことを言っているのではない。
すべてが無常なのだからこそ、真新しいことも如来としてきたるがごとくに現れている。

それが色はにおえどちりぬるをという救いの道理である。
それがわが世誰ぞ常ならんという救いの真実を説くのである。

有為の奥山今日こえて。

有為とは人為、人間のやること、人間が人間のルールで価値や雹か良し悪し、苦楽をおこすことである。

損得、勝ち負け、優劣、よしあし、バカにされた褒められた、立派だ立派じゃない、美しい醜い、価値がある、価値がない、役に立つか役に立たないか、そんなものはみんな人間の小さな頭、小さなものの見方で決めつける小さな考えなのです。そういう小さな、こざかしい、人を苦しめたり、一喜一憂させる思いはみな有為の奥山、この頭の奥山、脳の為すことである。

自分が自分の頭の中からおこしたガスで自分を苦しめるのが愚かな人間、われわれ衆生である。
だから、その自分の奥山を今、超えていかなければならん。
どうやって超えるか。
最初からものの方は人の見解に染まることが無いと知ることである。
ここでいうもの、こととは、今皆さんが触れている一切。
色はにおえど散っていく、散っていっている、一切のことです。

散っていっているということは、こちらがもはや手のつけようがないという事。
散っていく姿をよくご覧ください。
こちら、人のルールが及ばない。
自ずから離れていく。
おのずから自由なさまをしている。
お互いが自ずから自由なさまをしているということなのです。
それが、解脱のさまです。悟りの様相です。涅槃寂静なるそのものそのことから一切影響を受けない静けさなのです。

有為の奥山、今日、今まさに超えているでしょう。
こういう道理を人は知らないから、いつまでも内なる有為の奥山を超えることができないのです。

釈尊が山から出てこられたように、私達も今、あらゆる人間世界のおろかな、こざかしい、人を苦しめる小さな価値観から脱却をするべきではありませんか。

誰がこの自分自身をそういったくるしみから脱却させてあげることができるのですか?

こういった仏法の尊い道理をきちんと知って、正しくとらえて、我がこととして、いま、ここできちんと決着をつけることなのです。

そうすることで、内なる煩悩、雑念、様々な思いというものから騙されることが無くなる。

人間の真実のありようは身心脱落。
もともと大脱落、脱落のありさまをしているのです。
色はにおえどちりぬるをとは身心脱落の様相、常に解脱をしている事の様相を説いたものとして受け取るべきものでしょう。

あらゆる現象が、心理作用が。
こちらが何をせずとも、願わずとも頼まずとも、おのずから流れ去って、落ち切っていく。
無常や到彼岸、脱落身心とは、人がいない無我なるさまのありさまです。
南無とは、その働きに打ち任せにすることです。

おまかせをすることが念仏であり、天台摩訶止観であり、阿字観であり、坐禅なのです。

いろは歌にしてもそうですが、仏道の修行ということも、ただしく解脱、すくいの在り方を見出し得ることが無ければ、真似事に過ぎませんので、みずからの法の眼、仏のはたらきとしての眼をしっかり開いて、我の無いところに救いのはたらきがあることをしっかりと受け止めてください。

有為の奥山 今日こえて

浅き夢みじ 酔いもせず。

そうしてこの身心に現れ来たる一切の如来如去のさまに打ち任せにしている時、どうですか。

色はにおえど散っていく、
わがよ誰ぞ常ならん

その無常、無我のはたらきに打ち任せにしていけば、自ずから一切が透過され、洗い清められ、今の事実と等しく自動で更新されて、脱落の身心が現成されるのです。
そこに目が開くことを悟りというのです。
そこで目が開くことを悟りというのです。
そこに目が開いたならば、その法のはたらきにお任せをする。
そうすることで涅槃寂静の道が自ずから開かれるのであります。

涅槃寂静とは、内なる一切の有為の思い、人間界、人間世界の良し悪し損得に引っかからなくなる、騙されなくなる、他に瞞ぜられず、己の内なる思いにたぶらかされないようになれるということですよ。

浅き夢見じ酔いもせず。

そんな夢めいた妄想、煩悩にもうだまされなくなれる。
そんな自分を惑わせるような山道に酔うことも無くなれる。
こんなに素晴らしい救いが他にありますか。

自分を今まで苦しめてきたのは相手ではありません。その相手に対してあれこれと自分流に思いを重ねて、自分の負の思い、悪い作用となる思いの闇路に取り込まれて、山道に迷うような心理に陥ってしまっていたのではないですか?

仏教の救いとは他方に求めるものばかりではありません。
自分が自分の身心のはたらきをきちんと見つめて行けば、一切のものは「色はにおえど散りぬる」のですから、自ずから離れている。
「わが世誰ぞ常ならん」ですから、昨日のことも、さっきのことももうありませんよ。

「有為の奥山今日こえて」
眼の前の事、今新しく来たることの全てには、何もさっきまでの思いや負の思いが伴われていません。
全くもって真新しい山河です。
まったくもって真新しい大自然の演奏、壮大な交響曲が今目の前に響いております。

その響きに耳を傾けることが法眼を開くことであり、無常という道理を念ずるということの真意です。

たとえ人との別れであっても、嫌な出来事であっても、それでもそのことは今猛攻して既に過ぎ去って、今この全く真新しい大真実が現れ来たっているではないですか。

そこに定住なされれば、どこへ移行が迷うことはありません。

どれほど紆余曲折、曲がりくねった道であっても、どれほど波乱万丈な人生であても、誰もが等しく平等に、このたったいま、このときを共有しているのですから、迷いや、人生の車酔いはありません。

ねがわくは、この功徳をもって、あまねく一切衆生にめぐらし、われらと世の人々、みなともに無上菩提、涅槃寂静なる法の相をあきらかにされますことを。

南無 十方三世一切諸仏 諸尊菩薩摩訶猿 摩訶般若波羅蜜

※提唱とはその話を通して自己の真実の様子を明らかにすることができて、自身の内に救いを見出すことのできる尊い仏法の道理を説いたお話です。
知識や情報として読むのではなく、今のご自身のありさまを見つめながら記されている事とご自身の様子を照らし合わせながら読み取ってみてください。

仏からのプレゼントをナイスキャッチする方法しあわせの受け取り方、受け止め方、ものごとのキャッチが上手にできない人は、幸せになるための機会を毎回空振り三振しているようなものである。アウトな生き方である。しかもキャッチャーなのに、空ぶってるので...
12/07/2026

仏からのプレゼントをナイスキャッチする方法

しあわせの受け取り方、受け止め方、ものごとのキャッチが上手にできない人は、幸せになるための機会を毎回空振り三振しているようなものである。アウトな生き方である。
しかもキャッチャーなのに、空ぶってるのです。いいのよ、打ち返さなくて。

世界は仏からのプレゼントに溢れている。
いたるところに。
そこかしこに。

ところが自分ファースト、主観ファーストな人間は仏からの贈り物、プレゼントをキャッチできない。

いや、キャッチをしていながらも、これっぽっちもうれしいと感じられなくなっている。

キャッチはできていても自分の主観や主張が強い、早い、根強いから文句を言ったり、嬉しい反応がない。

ひでーのになると愚痴とか、反発が多くなる。
防衛的な心理になっているのだ。

彼らは仏の世界からかなり遠ざかっている人たちである。

もともとは仏からのプレゼントをナイスキャッチできていたのではあるが、修羅界(ぷんぷん丸)、餓鬼界(エゴイスト)、畜生界(口を縫い付けたりするレベルのサイコパス)に陥ってしまった心理にある人たちによって、嫌な目にあわされて仏さまからの贈り物、プレゼントを気持ちよく受け取りたくても受け取れなくなってしまっている。
そこのあなた。大丈夫かい。

この世で仏ナイズした人たちは違う。
仏ナイズした人たちはちゃんと神・仏からの贈り物を最高にうれしい状態で授かることが可能である。
だから、ハッピーでやすらかで、健全。

なぜか。
自分の主観、主張、要求、我見がないからである。だから仏からの投げかけに対して物凄く最高のリアクションができている。
本来あらゆる人間は、これが健康という状態である。

その健康、健全な人たちのリアクションは決して、無理をしていない。ウソや作り事がない。
あざといファンサービスめいたものでもない。

ささいな、おせんべいでも、駄菓子でも本当に美味しく感じられる。そういう待ち受け最高レベルの画面がこの身心の上に実現されている。
その待ち受け最高レベルの画面がわが身の上に実現されちゃった人、仏ナイズしちゃった人のことを、ほとけという。
ほとけとは別に難しいことではないのだ。

よって、そこのこの記事をご覧になられた、まだ自分、ほとけと
ちょっと距離があるかな、あ、おれ、最近貰えてない、受け取りヘタだわ、と感じた人、立ち止まってください。

もし、自分の仏センサーを高めたいと思ったら、そのこころをアツくされたし。

ほとけはいつもフレッシュネスな無垢清浄の仏の投げかけをしている。
産地直送とれたて新鮮出来立てホヤホヤのフレッシュなプレゼントはいま、そこ、めのまえに、ほら。

※この記事はアナタの仏レベルのチェックです。
病んでいるあなた、おクスリに漬かる前に、自身の内なる仏センサーの磨き、精度を高めるアプローチをこころがけてください。

この世の修羅界・餓鬼界・畜生界で酷い目にあわされた人、おなじくこの世の修羅界・餓鬼界・畜生界で虐げられた重SHOCK(住職)があなたをケアいたします。

画像は、心がポキッと折れてしまったかた向けの、仏さまからのプレゼントを今一度ナイスキャッチするための理想的な姿勢の在り方です。(別にこうでなくても構いません)

仏となるために必要な助言、アドバイスを希望される方は当山までご連絡ください。あなたがあなたのフィールドで仏となることであなたのフィールドの方々が、あなたも含めて幸せになれます。

宝鏡三昧仏法、悟りの内容を明らかにするためには、明らかにされた方「祖師」たちの言葉、お示しを頼りにするのが最も早い。ところが祖師の言葉が記された「💀祖録💀」というものはどれも何百年も前の言葉なので現代人が読んでもチンプンカンプンなものが多い...
11/07/2026

宝鏡三昧

仏法、悟りの内容を明らかにするためには、明らかにされた方「祖師」たちの言葉、お示しを頼りにするのが最も早い。

ところが祖師の言葉が記された「💀祖録💀」というものはどれも何百年も前の言葉なので現代人が読んでもチンプンカンプンなものが多い。

とくに無門関、従容緑、碧眼集、正法眼蔵などは原文を見るだけでこころは「イミフ」モードに旅立ち👼だれも寄り付かなくなる。🐣?

べつに難しい所やわからないところなんぞ相手にせんでいいのである。
必要なことは「法」である。
あきらかにするべきことは「法」である。
「法」とは本の中の文字に用があるのではない。
この自己の身心が今ここで触れているこの事に用がある。
だから、今のことによくよく照らし合わせて、まずはわかるところだけでもよいのである。

仏祖憐みのあまり広大の慈門を開き置けり。
これ一切衆生をして仏にせしめんが為なり。

だから、
タイトルだけでも良いのである。
「宝鏡三昧」
日蓮宗にまなびなさい。お題目を念ずるだけで救いがある。
真言宗にまなびなさい。お大師様を念ずるだけで救いがある。
浄土宗にまなびなさい。阿弥陀様を念ずるだけで救いになる。
法相宗にまなびなさい。自己及び目の前のことで法相で無いものがあるか。

仏教の純粋活動の中で「法」でないものなどない。
人は法を知る、会得することで法の喜び「法悦」に入るのである。👼

そんなわけで人間の真実の様子を表したもの。この世の真実を端的に示したものが祖録の名前だったり、お寺の名前だったり、坊さんの名前だったりするのである。
全国のお寺の名前や、坊さんの名前などをざっと思いつく限り読み上げたり、ネットで検索してみたらよい。
法の内容を示したものも数多くある。
円覚寺、妙通寺、慈照寺、永平寺、宝慶寺、平等院、清水寺、妙心寺、観音寺、楞厳寺…

空海、法然、道元、善導、普照、如宝、善珠、空也、顕真、一遍、道光、良寛…

このように身近にあるお寺の名前や坊さんの名前などにこそ、法の様子は端的に記されていたりするものである。
みな、法の様子、法の功徳、救いを表したものである。
だからこそ、僧侶たちも、仏教を学ぶ人々、人々や世界のやすら意を願い求める人たちはこの道理を明らかにし、さらに多くの人々に届く形で救いがうちにあることを広めるべきでしょう。
僧侶や仏教者の悪い所は、自分が出来上がってしまうとそこで行動が止まってしまうことである。それは罪悪である。
釈尊は悟りを得られた後も山から下りられて45年間、日々布教伝道されたのである。我々は何をしているのかと、反省すべきである。ぺちぺち。

よって、法とは法そのものとしてのありようを全うをしているが、そのままでは人々に届くことが無いために、届く形に転ずればよいのである。

さて、宝鏡三昧とはなにか。
人間は、誰でもいつでもどこでも宝の鏡の三昧である。
三昧とはそのことがそのことのまま何でもない様子。何であるかともわからずしらず、そのものと最初から等しくある様子である。そこにあるもの、そこで起こっている事がそうありながら、最初から何の問題も無い様子を三昧という。その三昧という様子は人間の最上安楽の満たされた様子である。
我がない時、人は最初から無上菩提、三昧である。
ただし、そこを坐禅をしてきちんと実証をする必要がある。
宝鏡三昧とは、それをやり抜いた人の言葉であるから、これをご覧の方がたも、宝鏡三昧とはどういうことか。
どうして、人間が何をせずともそのまま宝の三昧相であるのかをきちんと弁える必要があるのです。
人間の、この自身の様子を鏡に喩えたのである。
人はこの世の一切をありのままに映しだす鏡である
鏡は好き嫌い無くものごとを遷す。
残り物がない。
鏡はケガをしない傷つきもしない。
コメントもキャプションも批判もない。
人間には「真実」を映し出す6枚の鏡がある。
それが目と耳と鼻と舌と体と心の六境、六鏡である。
この世の中で最も大きな鏡とはなにか。
もっとも大きなものには大ということがない。
大円鏡の智とは、境目も無く一切合切を隔てなしに映す様子の事である。
坐禅をして、自己の真実に目を向けることで、我のなき自己に目覚めることができて、法の内容に等しくあることを自覚、実証することが可能となるのである。
宝鏡三昧。
人は今も目の前のことをそのままその通りに映し出しつつ、救いのありさまを全うしている。

「達磨不識」ダルマ大師と武帝との問答における「不識」についての続編である。この話においての一番大事なところはどこか。仏法のエッセンスとも言うべきところは一体なにか。それが「不識」という所である。いや、厳密にはそこの内容なのである。それが自分...
06/07/2026

「達磨不識」

ダルマ大師と武帝との問答における「不識」についての続編である。

この話においての一番大事なところはどこか。
仏法のエッセンスとも言うべきところは一体なにか。
それが「不識」という所である。
いや、厳密にはそこの内容なのである。それが自分の上に見出されることが一番大事なトコロ。
文字での答えは出ている。
「不識 ーーー しることをもちいず」
だが、言葉でわかったとしても!
そこでその内容をきちんと会得して、自身の上の「こういう様子」を不識というのだなぁ!と納得・会得・確信がなければならない。そうでないと救いを見い出せないからだ。
救いを見い出し得ることがなければ、自分のものにはならない。
自分のものにならないということは、他人事のまま。これがいけない。外道なり。真の外道とはそういうことだ。だからわれわれ現代僧侶たちの大半は外道であるとしるべきである。なぜなら、どこぞの宗派に属していたとしても、道の外、法の外だから。
法がわからない。道がわからないのだ。
だから、法を説けない。法話が法話にならない法話をしているのである。
他人事だもの。
だから、いくら仏教の教えを学んでいて、何年、何十年と本山で修行をしたとしても、自分を救う教えに出会えない。だから人を救える教えにならない。なぜか。それは、ダルマさんがどうした、お釈迦さまや祖師がどうした、こうしたといつまでも他人事にしているからなのである。
それが、マーラ、悪魔の正体である。なにがマーラか。
僧侶業界にありながら、仏の教えを身近に聞いていながらも、法の中に入って行かないこと。入我我入がないこと。自分のものにならないコト。よくわからないのに分からないままにしていることこそがマーラ、悪魔、仏敵、魔波旬である。

僧侶たちはここをきっちり説かないといけないと思います。
祖師がどうしたぁ、こうしたぁでは人は救われないのだから。

だから、ぶっちゃけ相承とか伝承といっても、実際は正しく仏法が伝わっていないことになる。

もっと過激なことを言えば、日本には仏教は伝来していない。伝来したのは仏教文化であって、僧侶たちはいまだ仏法の真意を会得した僧侶は実は指折りでしかないのだ。法や道を会得していないということは、仏教の文化に触れたというだけなのだから。
まるで文化財の管理の資格を持つ者が宝物殿に身を置いていながらも、その宝の価値を理解していないようなものである。
文化財的な価値がわかっていたとしても、その宝の価値を価値あるものとして、世間に送り届ける力がなかったならば、宝の持ち腐れだからである。

宝とすべきことはなにか。
そこに宝がある。
宝があるのに、それを宝と知らないと宝にならない。
宝がありながらも、宝を台無しにしている。

すると僧侶たちはこうなっていく。
形の上で、祖師たちが仏法の相続をしたものだからと、自分たちはよくわからないままなのであるが、とりあえず祖師たちをまつりあげるだけの形式的な仏教になる。

さぁ、ここまで読んでギクリとした僧侶は多いはずである。
私もこういう話を聞いた時はゾッとしたものである。

そこで誠実に、正直に、向き合うべきことに向き合える人だけが真の仏法のお宝の管理人となり、宝を広められる人となる。

では、不識とはどういうことか。

ものが、ことが、そこにそうありながらも、それと知らずに、一切と和していながら、和しているとも知らずに、ただこうしているさまである。

知らぬ存ぜぬではない。

人間の心のおさまりのついた様子のままでおることである。

それをほとけという。

本来成仏ということは、人間の心の中の活動する意識である能動意識が大休みをして、やらんでいいことをやらんでいいようになることである。

人はとかく保身に忙しい。
我が身ファーストだからエゴに忙しい。
エゴに振りまわされんようになった人間はやることがなくなる。
やることがなくなるから坐禅がはじめて坐禅になる。
やることがなくなるから念仏がはじめて念仏になる。己が立たないようになる。

からの、一切の眺めは、どうか。
それを不識という。
それが仏のありさまなのである。

さて、この不識なるありようを自身の中できちんと見出すことはできたでしょうか。

別に難しいことではありません。
自分の心で自分の様子を見つめることをしてください。
すると、そこに名もなき、今だ何とも言いようのない、ただの無色透明な事実が常に来たっておるはずでしょう。
誰もお手つきもしない所。

今日はそこに親しんでみると良いでしょう。
あなたが、あなた史上、はじめてあなたの心を見つめる習慣が身につけば、はじめて仏の道を歩む人となれるからです。

仏の話を聞いても、人が立つ人は仏の道を歩むことが始まりません。
仏の話、法の話を聞いて、そこに人の見解の立たざるところに焦点を合わせることのできる人が、即身成仏、即、その場で、ただちに仏となることができるのです。
これは誰もがちゃんと成仏することができる話です。
成仏しないのは人が立っている、人が優位に立っているだけのことですから、それを優位に立たせないのが万法に証せられる、他力本願、自己をして仏の家に投げ入れる、万法すすみて自己を修証するはさとりなり、という仏道の修行の具体的な心の在り方でございます。

ねがわくは この法の説示の功徳をもって SNS上のあまねく一切におよぼし われらと世の衆生とみなともに 仏道を成就せんことを 
南無 十方三世一切諸仏 諸尊菩薩摩訶猿 摩訶般若波羅蜜

さらに法を明らかにされたい方は僧俗宗派問わず、あんのん寺まで。

達磨大師と武帝の問答にみる仏法の真意武帝とダルマの問答は禅の世界では広く知られている。禅僧、道を求めるものはこの真意を読み取る力が要求されるが、一番広く知られていながら、もっとも誤解されている話でもある。「読み取るべきところ」を見落としてし...
02/07/2026

達磨大師と武帝の問答にみる仏法の真意

武帝とダルマの問答は禅の世界では広く知られている。
禅僧、道を求めるものはこの真意を読み取る力が要求されるが、一番広く知られていながら、もっとも誤解されている話でもある。
「読み取るべきところ」を見落としてしまうのである。
禅仏教の祖師たちのやり取りが掲げられるのは、そこに大切な道理、仏法が説かれているからである。どうでもいい話などはただの逸話なので、さしたる教えにはならない。

これは禅のバイブルとされる書の一つ『従容録』の第二話、第二則「達磨廓然」の話に掲げられている。
従容録と無門関と碧巌集は三大難関門とされる書で、祖師たちの悟りの機縁となった話が盛り込まれている。

達磨の話は、武帝とのやりとりで武帝が仏法の第一義、仏教における最高の教えとはどういうものか?とストレートに問いかける。
それに対してダルマもストレートにこう答えている。
廓然無聖。
坐禅※して自己を見つめ自己の真実相を明らかにしてみれば、何も認めるものが無く大安楽な心が自ずから開かれるので、それをそのように表現をされた。
※坐禅でなくとも静慮=自己をみつめる作用となる行であれば念仏でも阿字観、止観でも同様である。

雲一つないようなつかまえるものも、留まるものも何もないという事。聖俗ということも離れた、ただ如是なるさま。

ところが、武帝にはそこがわからない。
もちろん当時の通訳が正しく通訳できていたかどうかも疑問である。
自分自身が坐禅して法そのものになれば万人共通の答えが浮かび上がる。

そこで武帝は「朕に対する者は誰そ」と問う。
あなたは仏法を明らかにされた聖者ではないのか。
お前はいったい何者だ?と問う。

そこで達磨は、また仏法の観点から、ものの真実の様相を示す立ち位置から、人間の考えや概念、価値観を離れたところからその様子をそのまま示す。

それは何とも言いようがない。
ものの真実の姿とは人がお手つきする前のさまをしている。
あなたがそう思おうが、一切は最初から何とも言いようのない、その通りのさまをしている。

そこで「不識(ふしき)」という言語が通訳された。

これは多くの本では「知らない」という風に訳されるが、そうではない。
盤珪禅師風に言えば「不生」。
般若心経風に言えば「不生不滅」。
道元禅師風に言えば「非思量」「不思量」。
人間の考え、ことば、情報、言語的な表現をもって仏法の内容をじかにそのまま説き示すことは甚だ困難であるために、こちら側がそれを主観でどうこうと色付けする前の真実のさまを示された。
「不識」と。
「識」することをしない心の在り方を言う。

その識することをしないこと、不識とはいかなる様子か。

ここにこの身がちゃんとありながら、周りの一切と和しつつも、何も拾い上げたりすることなく、すべてのことを透過しながらもちゃんとわかるようになっている。

それが万人共通の本来の成仏の姿である。

ほとけといわれる人や坐禅を究め得た禅定人とは、この身、このものが今触れているもの・ことが、そこに「そう」ありながらも、そのことを取り上げたり、これは◯◯であるという認識や分別にわたらないさまをしている。
能動意識の休息によって人の意識は最上の静まりを得る。
その最上の静まりの様子からものことを眺めれば、当然こちら側も取り上げるものがないために、不識、識せず、感覚以上認識未満、分別にわたらざる様子を言うよりほかにないのである。

だからその考えや認識を離れた様子を非思量・不思量ともいう。
そのことを知識、情報、言語、考えの表現でそのことを取り扱うことをしていない。それが坐禅のビジョンであり、自己の真実真相を明らかにした人のモノコトの映し出されである。

だから不生とも言う。立ち上がるものがないのである。
だから不識とも言いう。認識すること、識することを用いていないありかたをいう。
それが法、仏法、人間の見解を離れたものごとの真実のありようである「法」「道」としての顕現(あらわれ)の様子である。

達磨大師は法の様子とは、まさにこうなっておりますよとストレートに法の様子を示しただけなのである。

「廓然無聖」
いま、これをご覧の皆さんの身心の上に映し出されたる一切が、まるで空に一点の曇りなきが如くに、人が立たない。全体を映し出していながらもそれを邪魔することも無く、拾い上げることもしない。ただただそうある、ただただそのようにある様子を言っている。

「不識」
今これをご覧の皆さんの様子が、静かになっている様子。
人の真実のありようとは、いつでもどこでも識という割込み意識が入り込む前の様子で最初から完成されている。考えでものごとを表現するはたらきは事実の後から生ずるものである。
その人間の認識、分別、考えにわたらざる様子、法に住して乱れることなく、認識にのぼらないさま。知ることを用いないこと。
思慮分別によって認めることのない様子を不識という。
それがモノと最も親しくある様子である。

では、それが何なのかと言えば、それが法のさまであり、仏のさまであり、坐禅の在り方であり、それが悟りの様子であり、それが仏法の様相、法相ということなのである。

世間一般はどうか。
ものを見て、それを留めて、それを掴む。認めるのである。
固定見ともいう。

今の自身にそのことだけを引き寄せて、そのことだけを掴むようになるから、そのことだけを固定的に扱うようになる。

人間の不自由さはそこから生まれるようになる。

一切のものがこちら側の固定的な一側面的な眺め方を離れて大きな表れとしてあるのに、たった一つ、ごく一部、一側面ばかりをとらえているため、またそのことだけを留めて掴み続ける=執着をするために、ものごとの真実のすがたを見失っている。

そういう様子を明らかならざる様子、無明とも言うのである。

達磨はその万人がすでに見落としているところ、自分の先走る主観がお手つきする前のところをきちんと示してくれている。

あとは読者がそれを読み取る際に心うちのでしゃばる思いを優先させずに、じかに実物に触れればいいだけのことである。

廓然無聖、不識。
本当にその通りである。

🍚痛風禅師さま物語🍗今日も痛風禅師様は大衆(修行僧および当山ページの無課金読者ら)が喜ぶ絶品おつまみ法悦のれしぴを考案されつつ、あいかわらず尿酸値ぎりぎりのZONEを行ったり来たり遊化(ゆげ)なさるのでした。(゚д。;)ァ------!⚡👣...
28/06/2026

🍚痛風禅師さま物語🍗

今日も痛風禅師様は大衆(修行僧および当山ページの無課金読者ら)が喜ぶ絶品おつまみ法悦のれしぴを考案されつつ、あいかわらず尿酸値ぎりぎりのZONEを行ったり来たり遊化(ゆげ)なさるのでした。

(゚д。;)ァ------!⚡👣
(゚д゚;)(´-`;)(゚д゚;)( ゚Д゚;)痛風禅師様…!

(; ゚Д゚)紙と…ペンを…
( ;∀;)(;´・ω・)(´っ・ω・)ご遺言ですねー!はいーっ。

痛風禅師様は昨晩も大衆(ここではワイフと童ら)のために雨の中28日限定ケンタのお得な「鳥の日パック」を行列の中、待ちに待って添菜(差し入れ)され、さらにおこぼれにあずかり尿酸値ぎりぎり。息絶え絶えの中、衆のために略してけんた食堂風に仏のレシピをとかれました。

(; ゚Д゚)…切り干し大根…
20秒だけだし汁につける。
硬く絞る。
ざっくり刻む。
キッチンバサミでいい。
戻し過ぎは厳禁。
コリコリ食感が無くなってしまうからである…。

(゚д。;)うーーー!
(*´Д`)(*´Д`)(*´Д`)禅師様…しっかりしてください―。
※足が痛いだけです。

(´Д`)…
ボールに…いや、ビニール袋、ジップロックがいい…
ごま油、
ニラ少量、ニンニク、ショウガ、お好みで…、

痛風禅師様は広大無辺の大慈悲心で衆生と専業主婦の皿洗いの量を減らさんが為のゆえ、あえて使い捨てビニール袋や開閉に便利なジップロックを使うことを勧められました。
(*´Д`)( ;∀;)痛風禅師様ー!

( ˘ω˘ ;)
そこに…白こま、チャンジャ、
なければ…
ちくわや、さつま揚げにコチュジャン。
めんつゆ少々、はちみつ。新生姜…。
よくもみ込んで…混ぜる…、
濃い目に味付けをしておけば冷蔵庫で持ちが…よい…。
パタリ( ˘ω˘ ;)

(´っ・ω・)っ´っ・ω・)っ(゚д。)ぐわんぐわん
(´っ・ω・)っ分量は…!分量はー!
(´っ・ω・)っ(゚д。;)\(゜ロ\)
(゚д。)テキトーで…いい…👼

かくして修行僧たちはこの痛風禅師様の切り干し大根レシピを受け継ぎ、ごはんがとまらなくなったそうです。
(´ー`)🍚(´ー`)🍚(´ー`)🍚

身近なおかずというものこそ、長年伝承、相続、相承されているものとも言えましょう。
人間の心をおさめる坐禅の具体的な行法がより具体化され、レシピ化されていくことで坐禅の広大無辺、無量の功徳が衆生に広く回向されることでありましょう。🍚

「常に大慈大悲に住して、坐禅無量の功徳、一切衆生に回向(えこう)せよ」 瑩山禅師

仏教 RPG「空禅絶悟」「ディスチャージ・ソウル 〜空禅絶悟への旅路〜」このゲームは、敵を倒して強くなるのではなく、敵(執着)を手放すことで心が軽くなるという、従来の RPG とは真逆のシステムを持つ、奥深い作品です。👹敵は敵ではなく、苦し...
27/06/2026

仏教 RPG「空禅絶悟」

「ディスチャージ・ソウル 〜空禅絶悟への旅路〜」
このゲームは、敵を倒して強くなるのではなく、敵(執着)を手放すことで心が軽くなるという、従来の RPG とは真逆のシステムを持つ、奥深い作品です。

👹敵は敵ではなく、苦しみから解き放たれたいと願う衆生、すなわちみなこの世の同じ宿命を背負う同胞。ゆえに仲間となります。敵の居ない無敵と究極の平穏である大安楽「オネハーン」を目指す RPG です。

ストーリー概要
選ばれし者だけに送り届けられる㊙ Facebook ページ「あんのん寺」を今回もたまたま偶然訪れた(たまたま流れてきたw)、無課金読者の主人公「ホーゲ(仮名)」は、終わらない悩みや不安(精神的モンスター)に脅かされる「ムジョウ(無常)の世」に生きています。

ホーゲは、SNS ユーザーであり、特にいまだにオワコンと揶揄されるFacebook ユーザーという側面を持つ「とりのこされし民たちの一員」です。

「ホーゲ」とは、仏教の世界で「取り残されし者」「レンゲからこぼれ落ちた者」「手放し得るもの」「法の華」「まだ布施をせざる者」などを意味します。前世(=過去世=さっきまで)のカルマ(業=おこない)や度重なる後天的な負の経験、家庭環境により、心が囚われ、自己保身に固執しているため、心も財布も悟りも開けない状態にあります。

そんな主人公「ホーゲ(あなた)」は、世界の中心にあるとされる伝説の聖域アンラク(安楽)にある「ネハン王国」に到達し、世界の人々が救われる最高真理「アラカン果」(悟り)を得るために旅立ちます。道中、プレイヤーの心を惑わす様々な「誤解の化身👻」や「執着のボス👻」「毒親👹」などが立ちはだかります。
基本ゲーム、購読は無課金ですが、プレイを続けるうちに強制シャットダウン、ブロック、フリーズが発生することがあります。これは「この無課金ユーザーが!地獄に落ちるわよ!( # ゚Д゚)」というゲーム(うPぬし)からのメッセージです。(かずこか)


ゲームシステム
画期的なゲームシステムとして、「執着(エゴ)ゲージ」と「身軽さ(ライトネス)レベル」があります。このゲームには「経験値(EXP)」はありません。

内なる敵(🐷物欲、🐔名誉欲、👹怒りなど)を倒すと、通常ならアイテムやお金が手に入りますが、今作ではそれを「拾って装備する(執着する)」とエゴゲージ🔥が上昇し、移動速度や視野が狭くなります。逆に、手に入れた戦利品や固定観念を「手放す(捨てる)」、または他者のために「めぐらす(布施、利他行、回向、寄進、あんのん寺に浄財喜捨する)」ことで、身軽さレベル(理解力・法眼力・観自在力)がアップし、新しいルートや真実が見えるようになります。

🎮
コマンド
従来の RPG の戦闘コマンド「攻撃」「魔法」だけでなく、「聞法(もんぽう)」「思惟(しゆい)」「観察(かんさつ)」「行持(ぎょうじ)」「説法(せっぽう)」「愛語」「同調」「傾聴」「同事行」「折伏」「容赦」「教導」「引導」など多数のコマンドがあります。
自身のエゴを抑えながら、相手の言い分をただ黙って完全に肯定するスタンスで聴く「聞法」をベースに、学習を深め仏弟子として悟りの世界へ至るためのヒントや修行法を身につけながらゲームは進行します。

菩薩、仏、如来となるために必要な「容赦の心」「寛容な心」「慈悲心」などの無我ゲージを高めていく中で、アクシデント遭遇時の自分の心の乱れや反応をふかく見つめて(静慮)、不動心・真観・清浄観・広大智慧観・観自在力・智慧・慈悲のゲージを高める修行があります。

敵(モンスター化した人間の悩み)に対して「攻撃」すると一時的に退散しますが、根本的な解決にはならず、後に強化されて再出現します。👹これにより「法難」という展開が起こりえます。

SNSでつながっているのユーザーたちも敵キャラクターとして登場します。相手のフィールドに踏み込んだり、刺激したりすることで「修羅界=戦闘モード」に発展しかねません。また、相手の欲求・欲望をいたずらに満たしたり、仏の智慧の安売り、不適合者に安易に仏の教えを与えたりすることは、かえって世の中のエゴゲージを高めたり、仏の教えが悪用されたり、👹邪師の育成に加担することになるため、間違った救済・教導をすると、真のエンディングには到達できません。

やってはいけないアウトなプレイ例:
己の我欲のために活動する人間を褒める。
エゴい活動民に嘘の「いいね!」リアクションをする。
自己実現欲求のための活動。
承認欲求の後押し。
表向きは立派だが、実際は悪徳僧侶の宣伝。
聖域本山ブランドや業界の要職ポストに目がくらむ。
真の資格がないのに高い位に就こうとする。
僧侶の政治活動団体に入り、仏法のためにならない単なる要職好きのタヌキ僧侶を誤って支持・応援してしまうこと。(これは邪師の育成につながり、適任僧侶を排除して自分がのし上がるために世に仏法が広まらない作用となります)
同じ県人というだけで地元の僧侶を後押しすること。
悟っていない僧侶を、立場やポストだけで偉いと思い込んでフォローしたり、言いなりになったりすること。
SNS 上で菩提心のない無課金ユーザーたちに無報酬のまま仏法の大事を説いてしまうことも BAD エンディング。
たとえ僧侶であっても自分のためにしか活動していないナリスマシ僧やテラノムスコ、ニセ菩薩民らに法施をしてもかえって功徳にならず、最悪の場合は仏法を損ねた罪悪で大焦熱地獄行きとなってしまうことも。💀

敵=衆生に対しては「聞法」「愛語」「善良な説法」「相手に応じた対機説法」「方便」「法施」を駆使して敵の「誤解のゲージ」をゼロにすることで、敵(衆生)は成仏(消滅)し、主人公の理解力ゲージや対機説法スキルゲージが大幅に高まります。

ステージ(試練)の構成
第一章:【物欲の街・オラんダTOWN】
試練:豪華な装備やアイテムが無限に手に入る誘惑の街。しかし、装備を身につけすぎると重すぎて次のエリアへの門をくぐれません。
ボス:『強欲の巨像(アバリス)』。すべてのアイテムを「捨てる」コマンドを選択することでしか倒せないボスです。

第二章:【固定観念の迷宮・コーダベ洞窟】
試練:主人公の「私はこうあるべきだ」「他人はこうすべきだ」という正しい理解(正見)を阻む、歪んだ鏡の迷宮。
ボス:『自己執着の影(エゴ・シャドウ)』。
自分自身のコピーであり、攻撃すればするほど相手も強くなります。戦いをやめ、ただ「受け入れる」ことで影は消え去ります。



エンディング(大安楽の境地)
最終目的地「アンラク」「ネハン」に到達した時、主人公のステータス画面は「HP:無限(生死の超越)」「所持金:0」「装備:なし(素っ裸)」になります。
何も持っていないのに、すべてと繋がっている感覚(一即一切・一切即一)を覚えます。

プレイヤーは、「何かを得ることが強さではなく、来るもの拒まず去るものも追わず、一切の抗いの心無く、すべてをありのままに受け入れ、手放せること、為すことが無くなることこそが最強である」という無我無心無為無作無条件の境地を会得し、助けるべき存在すらも助けなくてもいいやという自由独立の境地にいたってゲームはクリアとなります。

脳内インストール希望の方は「あんのん寺」ページの購読もしくは日曜参禅会まで

25/06/2026

「宗教は悪くない」
宗教が悪いのではなくエゴが悪いのです。
宗教のふりをしたカルトが悪いのです。

宗教を乗っ取って金稼ぎ、票稼ぎ、人集めをして自分の欲望を満たそうとする自己愛の強いエゴイストが宗教を乗っ取って、みんなにとっていいものを台無しにしていることが問題なのに、盗人猛々しく宗教が悪い、仏教が悪いみたいに思わせているから世間の人々も宗教が悪いものだと思うようになるのです。

政治も同じです。
商売も同じです。
医療も同じです。
JAもおなじです。
教育も同じです。
福祉も同じです。
司法も同じです。
メディアも同じです。

みんな乗っ取りや、エゴイストが社会にとって良いもの、大切なものを、エゴいものにしているだけでしょう。

だから、そのエゴを制圧するのが純粋な人間性であり、正しい宗教精神なのですから、全国のお坊さんたちはもっと声をあげて、いつまでも謙虚な態度、寛容な態度では相手の邪悪性は改められませんから、声をあげるべきです。

堂々と胸を張って純粋な、善良な宗教活動、救いの活動をされたら良いのです。周りの邪悪なエゴによって自分たちの純粋な良いはたらきまでもが潰されてしまうようであってはいけません。

地上波メディアでは日本の伝統的なものを徐々に壊して、日本の和の精神にゃ神仏を敬う精神、先祖を敬う精神を、多様性名目で排除・破壊して、日本の団結をなくすくような、工作的な報道をよくみかけます。

騙されてはいけません。

そうすることで都合のいい人たちによる貶めの活動です。
彼らは尊敬できるような人格者ではありません。
エゴをベースに片寄った主義思想に陥っている人たちがほとんどですから、そういう人たちをも改心させるぐらいの姿勢が宗教者たちの態度であって良いのです。

住所

Irumagawa, Saitama
3501303

ウェブサイト

アラート

あんのん寺(埼玉県 狭山市 熊耳山 安穏寺)がニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

ショートカット

  • 住所
  • アラート

共有する

カテゴリー