千葉ニュータウン・バプテスト教会 みことば集

千葉ニュータウン・バプテスト教会 みことば集 毎週の説教(日本語原稿)を公開し、神の愛、キリストの恵み、聖霊の交わりを知っていただきたいと願っています。 2015年8月23日の礼拝説教より公開開始

何のために泣くのか~第7のしるしは死者を生かす声~ヨハネ11:33-46 人生は不条理(道理が立たないこと)に満ちております。昨年、ロシアのウクライナ侵攻が始まったとき、すぐに終わると思っておりました。私たちがロシアの国力を見誤ったのでしょ...
25/11/2023

何のために泣くのか~第7のしるしは死者を生かす声~
ヨハネ11:33-46
 人生は不条理(道理が立たないこと)に満ちております。昨年、ロシアのウクライナ侵攻が始まったとき、すぐに終わると思っておりました。私たちがロシアの国力を見誤ったのでしょう。戦闘の終結(和平)というところになかなか進めないでいます。
 それどころかウクライナ戦争だけでなくなりました。イスラエルが10月7日に奪われた人質を奪還しハマス討伐ということで、ガザ地区への侵攻がその翌日始まりました。現在、ようやく4日間の停戦合意で、人質や収監者の一部解放が始まっています。が、この間、この地区で子ども5,850人を含む14,854人のいのちが奪われております。イスラエルは人質があり、ハマスも願って停戦ですが、4日が過ぎるとまた再開でしょうか。
世界はこのように不条理で満ちております。私たちは、祈っていないかというと、祈っております。戦争が終わるように、平和な状態が戻るように、祈っております。
 そしてなぜ祈りがすぐに聞かれないかと思います。私の罪のためか、だれかの罪のためか。あるいは寝食を忘れてもっと祈るべきか。そうではないと思います。事柄によっては祈りが簡単に聞かれない、聞かれないどころか、ますます違う方向へ行ってしまうときもある。祈りの答えがわからないことも含めて、人生は不条理で満ちています。
 一言祈りましょう。「神様。あと四週間ほどであなたの独り子がこの世に来てくださった祝いの日になります。世界はその日から変わりました。光が灯り、信仰が深い意味を持ち、神の愛が大きな動機や力となりました。かくして人類には希望があります。とはいえ、私たちの日常はわからないことだらけです。世界に目を転じても、戦争が簡単には終わらないもどかしさを感じています。不条理な世界で福音が語ることのひとつは、キリストの復活であり、身体のよみがえりであると思います。七つのしるしをヨハネ福音書から学んできましたが、有終にふさわしく説教者を整えて、私たちの礼拝を恵んでください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(ラザロは死にました)
 主イエスは神の国宣教のなかで多くの奇跡を行いました。福音書記者ヨハネは、そのなかでも七つの出来事を心に留めるべき「しるし」として際立たせました。
 第1と第2のしるしは、共にカナの町で行われましたが、物議を醸すことはなかったようです。しかし第3のしるしが、安息日のエルサレムでなされたため、論争が起こり、イエスはご自分を神と等しくされました(5:18)。第4のしるし(給食の奇跡)に続いて第5のしるし(水上歩行)がありましたが、ここで主は〈わたしだ。恐れることはない〉(6:20)と語られました。
 ご自分がモーセを召したイスラエルの神であることを明らかにしたのです。ここから主イエスは〈わたしがいのちのパンです〉(6:35)、〈わたしは世の光です〉(8:12)、〈わたしは門です〉(10:9)、〈わたしはよい牧者です〉(10:11)とご自分について語り出します。さらに〈わたしが道であり、真理であり、いのちなのです〉(14:6)と言い、〈わたしはぶどうの木〉(15:1&5)とも言います。
 今日の箇所で言えば、11:25で〈わたしはよみがえりです。いのちです〉と主は言われています。それこそイスラエル民族の最初の先祖アブラハムが生まれる前から自分はいたとも言われていて(8:58)、ヨハネ福音書のなかの主イエスはご自分が〈神の子キリスト〉(20:31)、ひいては、神ご自身であること(1:1&18)を隠してはおられません。
 ですから主イエスに何でも願うということは、あってよいことなのでしょう。ところが今日の箇所11章の初めから読みますと、主は敢えて篤い病のラザロを放置しているように読めるのです。ラザロも、一緒に暮らす二人の姉のマルタとマリアも、主イエスの弟子でした。そして三人が暮らすベタニア村に来てほしいと使いを送っていたのです。
 主イエスは、ラザロ重病の知らせを聞いても二日とどまってから、ベタニア村に向かいます。着いたときには〈ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた〉のです(11:17)。歌舞伎の台詞で言えば「遅かりし由良之助」です。英語で言えばtoo lateです。ラザロの姉妹たち、姉も妹も同じことばを主に言うのです。11:21と32〈主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに〉。マルタにもマリアにも、福音書記者は、そのように同じことばを言わせています。
 愛する皆さん。とくに信仰生活の長い皆さん。クリスチャンになって、他の人(兄弟姉妹)に躓くことがあります。また自分があまりにもこうあってほしい姿から遠くて、自分に躓くこともあるでしょう。しかし、それだけでなく、私たちは、神やキリストに躓くことがあるのです。神は敢えて私たちを躓かせることもあるのです。
 〈イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられ〉ました(11:5)。にもかかわらず、主はベタニア村への出立を二日遅らせました(11:6)。あるいはこうも言えるでしょうか。第2のしるしのとき、主イエスはカナの村にいながら、カペナウムにいる王室の役人の息子を癒しました。なぜ主はこのとき同じようにしなかったのでしょうか。

(主イエスの動揺・涙・憤り)
イエスはベタニア村に入られ、マルタだけではなくマリアにも会うと、ラザロを葬った墓に連れて行ってもらうことになります。なぜなら〈彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった〉からです。ご覧になって〈霊に憤りを覚え、心を騒がせ〉ました。そして墓前に着いたのでしょう。11:35〈イエスは涙を流された〉。
 〈憤りを覚え〉、これは11:33そして38にも出てくる表現です。〈激しく息をする〉というのが直訳らしく、もともとは馬がいななく様子の表現だったようです。そして〈心を騒がせ〉は〈自ら混乱する〉。主イエスの緊張や興奮を伝えようとしているのでしょうか。そして洞穴の墓の前で〈イエスは涙を流された〉。
 イエス・キリストは〈私たちの弱さに同情できない方ではありません〉。神の御心から片時も外れることはありませんでしたが〈すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです〉(ヘブル4:15)。私たちの大祭司主イエスは、罪は犯さなかったけれど、私たちと同じように、愛する者の死に動揺し、涙を流したのでしょうか。
 イエスの涙に対する周囲の人たちの反応。11:36〈「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」〉。たしかに主イエスは、死んだラザロを慈しみ、その死を惜しんだことでしょう。
 別の反応。11:37〈「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」〉。第6のしるしは生まれつきの盲人の目を開けたことですが、これを引き合いに出してイエス・キリストの不全性を指摘したのです。神やキリストの不全性を指摘しながら、世にニヒリズム(虚無主義)が広がることはよくあることです。なぜかといえば、世界は不条理で満ちているからです。希望が持ちにくいのです。
 
(神とキリストの心の複雑さ)
馬のいななきのように、主の心は動揺していました。それは怒りのような感情も含まれていたと私は思います。神は穏やかな面だけでなく激しいお方でもあると思います。旧約聖書のホセア書には、神の心の葛藤が描かれています。妻が自分を裏切ったことを知りながら、その背信の妻を見捨てることのできなかった預言者ホセアのように、神は〈わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている〉(ホセア11:8)と言われる方なのです。
 11:37〈しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。11:38a イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた〉。主は何に涙し、心のうちに憤りを覚えたのか。聖書を読み始めて45年以上経ちますが、ずっとわからなかったことがあります。
 主は何に涙し、腹を立て、悲憤慷慨されたのか。死という現実に対してか、現実に打ちひしがれている弟子たちに対してか、どちらだろうかとずっと結論が出せませんでした。しかし今回わかったのです。死というきびしい現実にも、その現実に打ちひしがれている弱い信仰者の両方に涙し、憤っておられるのです。
 それは、私にこのような状況situationを思わせてくださったことによります。私は父と母の両方に似て、運動が大の苦手でした。おまけに小学生のときは肥満児で、父が私に運動をさせようと思って柔道塾に入れてくれました。私はほんとうに運動音痴で受け身を覚えるまで半年通いました。いま思うと運動能力そのものだけでなく心の臆病が原因と思いますが、しかしいつも「何でボクだけできないのか」と思っていました。
 それであるとき柔道塾の帰り二学年くらい上の上級生に突っかかりました。勝てるわけがないのに突っかかって、やられました(やられたというよりまともに相手にされませんでした)。それで家に帰って、「悔しい」と言って泣きながら父に話しました。自分に劣等感があって、こちらから喧嘩を仕掛けたことは上手く言えませんでした。
 それで父が(勘違いして)私を連れてその上級生の家にどなりこんで、その上級生に彼の家の玄関で文句を言いました。私は、その上級生が悪いのではなく、自分の劣等感からその上級生に八つ当たりしている自分が悪いのだと知っていたけれど、父の剣幕に驚いて何も言えませんでした。後日、私はその上級生から自分が悪いのに親に言いつけた卑怯者と見なされ、そのようにも説明されました。
 いま言った私の体験談は特殊なケースなのですが、たとえば皆さんに子どもか孫か親戚の子がいて、だれかにいじめられたとしましょう。その子どもの弱さや卑怯さから出た災難としても、いじめたほうに一言言おうとするかもしれません。それと同時にいじめられて自分で問題を解決できないその子どもに複雑な感情を持つこともあるでしょう。
 それと同じように、罪によってもたらされた死という現実と、その現実に打ちのめされて泣くしかない人間の両方に、主は憤っておられたと私は思ったのです。神の心というものはもしかしたら以前はシンプルであったかもしれません。しかし罪を犯して悲しく惨めになった人間と、その背後にいる悪魔の存在を思うと、神の心は動揺しつつ〈あわれみで胸が熱くなっている〉のではないでしょうか。私にはそう思えてなりません。

(神は不条理を超えて)
その後のところを読んでいきましょう。11:38b〈墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」11:41a そこで、彼らは石を取りのけた〉。当時の墓は、くりぬいた洞穴に遺体を寝かせて、石で蓋をしたものでした。なぜ蓋をするのでしょうか。大きな理由のひとつは、死体の腐った臭いを外に漏らさないためです。主は石を取りのけさせて死後四日経っているラザロの臭いをかぎながら祈りました。
 11:41b〈イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」11:45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた〉。
 私たちの神は、不条理を耐えるだけでなく、乗り越えさせてくださる神です。イスラエル国家にとってパレスチナ人の問題は、その歴史のゆえに解決が不可能と思えるほどの困難な問題に違いありません。おそらく非戦闘員を殺せば殺すだけ、真の解決は先延ばしになります。どちらが強い軍事力を持っているかは火を見るより明らかなのです。
 しかし主は生きておられます。少なくとも信じる私たちの心に、またその交わりの只中におられます。死は終りではなく、主は〈よみがえり〉であり〈いのち〉なのです。どうしてそのような救いに私たちが与ったのでしょう。
 最後の節にそのヒントが隠されています。11:46〈しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた〉。第3のしるしの後、そして第4と第5のしるしの後、そして盲人の目を開けた第6のしるしの後、主と群衆、宗教指導者、弟子たちなどと議論が生じました。しかし、この第7のしるしのときは、議論はその場で起きませんでした。目撃者の一部はパリサイ人たちのもとへ行って、あったことを伝え、エルサレムのトップである大祭司を交えて主イエスを殺す本格的な相談が始まります。
 そうです。イエスが神の子キリストであり〈ひとり子の神〉(1:18)であるということは、最高に蔑まれ、呪われた者として嘲られ、苦しんで死んでいく十字架刑。その贖いに直結していくのです。神ご自身が十字架という不条理を通られて、不条理な世界に棲む不条理な人間である私たちを贖おう(救おう)となさいました。主はいま生きておられます。私たちは不条理に耐えながら、さらに希望を明日に繋げることができるのです。これが救いです。祈りましょう。
 「主よ。理屈に合わない不条理な世界です。何よりも私たち人間が不条理です。そんな私たちを救うために、イエス・キリストはもっとも理屈に合わない十字架で死なれました。私たちの救いを感謝します。私たちも不条理に耐えながら、希望の福音を今週も明日の人たちに証しさせてください。信仰と希望と愛を示された主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

説教者 木森隆(千葉ニュータウン・バプテスト教会牧師)説教題「何のために泣くのか~第7のしるしは死者を生かす声~」@千葉ニュータウン・バプテスト教会聖書箇所 ヨハネ福音書11:33~4611:33 イエスは、彼女...

何が人の幸せなのか~第6のしるしは闇を裁く光~ヨハネ9:1-12 教会の礼拝などで行う聖書のお話を説教といいます。その種類として伝道説教と呼ばれる説教があります。どういう種類かと申しますと、まだ信仰を持っていない方(信者ではない方)を聞く対...
19/11/2023

何が人の幸せなのか~第6のしるしは闇を裁く光~
ヨハネ9:1-12

 教会の礼拝などで行う聖書のお話を説教といいます。その種類として伝道説教と呼ばれる説教があります。どういう種類かと申しますと、まだ信仰を持っていない方(信者ではない方)を聞く対象を、キリストの信仰に導くような(あるいは招くような)お話のことであります。
 私自身がかつて伝道説教を聞いて信仰の決心をしたことが大きいと思いますが、私は伝道説教に強い関心があります。私の牧師人生は、1988年から2000年の和歌山県の那智勝浦町の時代、そして21世紀に入ってからここ印西市での時代の二つに分かれますが、いずれも年に一度ほどすぐれた同労の牧師先生を招いて広く参加を呼びかける特別礼拝に力を入れてきています。
 そしてそのゲストの牧師先生から伝道説教を語っていただくわけですが、とくに前におりました和歌山県那智勝浦町は交通の便の悪いところで、よそから来てもらうにしても、時間も交通費もかかるということで、土曜の夜、日曜の朝と夜、いずれも伝道説教で、3回、違うお話をすることをお願いしました。
 私も他の教会に招かれて伝道説教をしたことがあるのですが、伝道説教というのは、信徒向けの説教よりも難しいのです。毎週のように熱心に集って救いを求めている方もおりますが、たまたま誘われて「別の目的で今日は来ました」という方もいるわけで、聞く皆さんの必要や関心に届きながら、信仰の本質をわかりやすく説明し、説明するだけではなく「信じましょう」という励ましも含むわけです。
 ですので、近くには市民クリスマスもありますので朝岡先生のためにも祈っていただきたいですし、12月24日は私が音楽ゲストのご奉仕のあとここで短く語ろうと願っていますのも伝道説教ですので、普段の説教以上に語る牧師のために祈っていただけたらと思います。
 さてそんな伝道説教ですから、伝道説教には(他の説教よりも)語る説教者の人生観や世界観が反映されやすい、ということがあると思います。とくに先ほどもいいましたが、前におりました和歌山県那智勝浦町が僻地なために、同じ先生から3回伝道説教を聞く機会を毎年得ましたので、私も多少耳が肥えてきました。
 ある先生の伝道説教の切り口は、死ということでした。若いときに友人が突然事故で亡くなるという経験や、求道者への訪問に後れをとったという経験などから「死の訪れはいつかわからない(まもなくかもしれない)」という認識が根底にあって、キリストの福音が説かれたと思います。福音は、死の恐れから私たちを解放するわけです。
 また別の先生は、神の創造のわざが切り口でした。自分の眉が人一倍濃いことへの劣等感から始まって、男女の出生率がいつでもどこでもほぼ1対1、地球の自転や公転、宇宙の仕組みなどを語りながら、造り主である神の存在と愛を語られました。造り主である神を信じ、知ることによって、生きる意味や目的も分かっていきます。もちろん、そのなかで、人間の霊的問題とその解決としての福音も示されます。
 また〈神と富とに(兼ね)仕えることはできません〉(マタイ6:24)と主イエスは言われましたが、お金や富の空しさから神を知ることのできる福音を柔らかく説く先生もおられました。それぞれの牧師の伝道説教に個性があったわけです。
 そんななかの1990年代ですが、馬場靖という牧師先生を東京からお招きする機会を得たのです。馬場先生は、妻が神学生のころお世話になった東京都世田谷区の下北沢聖書教会の牧師で、すぐれた伝道者でもありました。そして何より特徴的なのは、馬場靖牧師は全盲の方であったということです。
 10代の途中失明でしたが、将来を悲観すること大きかったと思います。しかしキリストの福音を聴き、信じてクリスチャンとなり、召されて神学校に進み、牧師となりました。東京から和歌山県那智勝浦町に来られたのは馬場牧師が50代くらいだったしょうか。
 私はチラシの準備もあるので、馬場牧師に三回の説教題を聞いたり、全体のテーマを考えたりしました。そうして、こう思ったものです。若いときに中途失明をした馬場牧師の伝道説教は、試練とか苦難とかに耐える、そういう説教ではなかろうか。
 ところが、違います。馬場牧師は3回の説教で徹底して「人の幸福とは何か」を説いたのです。全盲で、かなりのことは自分でできるけれど、生活のいくつかのところは、家族や教会の信徒の方たちがフォローしている。それは当たり前のことですが、そういうものとは別に「人の幸福がほんとうにある」と言って福音を語られたのです。
 今年の正月、妻と私はこの馬場靖牧師に会うために茨城県のひたちなか市に出かけました。80歳になられていて、もう講壇に立つことはありませんが、お元気でした。幸福そうでした。何が人の幸せなのか。馬場牧師がテーマにしたことではありますが、今日、私たちも何が人の幸せなのか。考えてまいりましょう。一言祈りましょう。
 「愛するイエス・キリストの神よ。あなたをお父さんと親しく呼ぶことのできる恵みに感謝します。あなたが世に送ってくださった主イエス・キリストは、病気の者を癒し、悪霊に取り憑かれた人たちから悪霊を追い出してくださいました。そのようにあなたは、この世界に体や心に辛い痛みを持つ人がたくさんいることに気づかせてくださいました。そうして人類は、あなたの導きで、医学を発展させ、医療施設もたくさん造るようになりました。そんななか、この時代は、世界のどこででも、とんでもないことが起こると、映画を観るように知ることができるようにもなっていますが、イスラエルのガザで、いくつもの病院が爆撃されたことを最近は聞いております。どんな理由があろうと、このような行いは、あなたの御心から外れており、体や精神が健全でも、人間の魂に大きな闇のあることを思います。礼拝に臨み、いま福音を聴こうとする私たちは、あなたの遣わされたイエス・キリストが〈世の光〉(ヨハネ8:12)であることを認めます。どうぞ私たちの心や魂がこの世の闇に飲み込まれることなく、光の子として歩めますよう(エペソ5:8)導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(盲人の目が開く)
医師が病人を診察することを「病人を診る(見る)」といいます。病人の病気を治す、病人を癒すためには、まずその人を見なければなりません。そして医療の専門家も含めまして私たちが、たとえその人の病気を癒やせなくても、その病気の人を見ること(見舞うこと)はできます。隣人の務めとして見るべきだろうとも思います。
 9:1〈さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった〉。あとの8節で、この人は物乞い(乞食)をしていた人だいうことが分かります。それで、エルサレムの道を歩く主も、目を留めることができました。
 主イエスは、このとき弟子たちを連れておられました。弟子ですから、先生のそばにいて学ぼうとします。先生が歩きだしたら、自分たちも歩きます。先生が立ち止まったら、自分たちも立ち止まります。そして先生が立ち止まって何かを見つめておられたら、主が見つめておられるものを、自分たちも見ようとするでしょう。
 それが弟子というものです。そして主が〈生まれたときから目の見えない人をご覧になった〉ので、弟子たちはいたたまれない気持ちになったのではないでしょうか。
 9:2〈弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」〉。弟子たちは、けっして冷たい心の持ち主ではありません。また、自分の興味しか見えていない好奇心の塊でもないはずです。もちろん、主の前で弟子として優秀なところを見せたいと考える野心はありました。その野心が、主の御顔を曇らせました。因果応報で考えてはならないのです。
 9:3〈イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです〉。人間の小さな心が大きな暴力を生むのでしょう。あの人に障害があるのは、その人に重い病気があるのは、これらの人たちが自然災害や戦渦に巻き込まれたのは、罪を理由や原因にするところである。あるいは、これを自分自身に向けることもあります。
 本人のせいか、親のせいか。宗教によっては、もっと遠い先祖とか、ありもしない前世の罪といわれることもあります。しかし主イエスは言われております。〈この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません〉。この明確な否定は、因果応報説に悩む多くの人の心を救ってきました。私たちの国には、来世を説かないで現世利益のみの、異端的な仏教の宗教団体があります。人数が多く、エネルギッシュなところもあるのですが、悪いことはすべて因果応報説で片付けてしまうので、「福祉の発想がない」と聞いたことがあります。そうしたキリスト教から遠い教えの人にもキリストのことばは刺さります。
〈この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません〉。主イエスの、このようなことばのあることも知らない多くの人が、この国にはまだ大勢おられます。ですから私たちは伝道をしましょう。少しくらい笑われてもいいから伝道しましょう。クリスマス前くらいは伝道しましょう。悔いを残さないために伝道しましょう。
 そしてキリストは言われました。〈この人に神のわざが現れるためです〉。〈神のわざ〉とは何か。そのときわからなくても、この約束のことばは慰めであり希望です。〈神のわざ〉とは、神によってすでに行われ備えられていて、気がつけばよい。努力しなくても待っておればよい。頑張らなくても信じればよい面があるからです。下手に説明を加えようとすると、理由を議論しようとした愚かな弟子たちの顰みに倣うことになるのです。
 9:4-5〈わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。9:5わたしが世にいる間は、わたしが世の光です〉。主イエスはここで時間制限はあるけれど、私たちを神の働きに招いておられます。イエス・キリストをこの世に遣わしたのは神ですが、この神の働き〈神のわざ〉にキリストも携わるし、キリストの光を受けて私たちも携わるというのです。
 9:6-7〈イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った〉。唾の混じった泥で、その人は、言ってみればその人のいちばん弱い箇所をぬたくられました。何をされたか、よく分からなかったかもしれません。しかしこの人は、〈この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです〉と言われた方を信頼したのだと思います。神の恩寵を取次ぐ教会は、因果応報を安易に語るべきではないことが、このことからも推し量れます。
 これがヨハネ福音書が伝えているキリストの第6のしるしです。8:12や9:5で言われていますが、イエス・キリストが〈世の光〉であることのしるしとして、この人の目は見えるようになったのです。

(晴眼者の目が閉じる)
 かくして、この人の目は開きました。主イエスの特別な働きで、この人に医療的な祝福がありました。しかし、この人には、その後、様々はチャレンジがありました。
 手短に9章の続きを話しますが、周りの人たちは戸惑います。さらにパリサイ派の人たちからは尋問され、それが原因で両親からも見捨てられたようなことになります。イエスを否定しさえすればよかったのですが、イエスを否定すれば目を開けてもらった自分を否定することになるので、それはしませんでした。それで、この人は地域の共同体communityから追放されます。
 しかし〈外に追い出された〉この人に、主イエスは会いに来てくださいました。肉体の健康(医療的な祝福)と共に、主イエスはこの人に対して「魂への配慮」pastoral careをなさいました。それによって彼はイエスを礼拝するに至りました(9:38)。
 主イエスは、その後、鋭いことばを残しました。9:39〈わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです〉。そしてパリサイ人のある人たちに向かって〈『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります〉(9:41)とも言われました。
 私たちは様々なことを決めつけようといたします。決めつけの強い人が、指導力のある人として崇められることもあります。この世においても、教会のおいても、起こりやすいことです。
 しかし、私たちは、癒されたこの人に倣って、このように言いましょう。
9:25〈一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです〉。9:30〈あの方(イエス・キリスト)は私の目を開けてくださったのです〉。
9:38〈主よ、信じます〉。
 人のまことの幸福とは、医療的な祝福そのものでも、地域のなかで浮き上がらないことでもありません。見えると言い張らず、しかし見えているものや分かっていることに感謝しながら、主イエスを仰ぎ見て、神の民と共に〈自分の前に置かれている競争を忍耐をもって走り続け〉ることではないでしょうか(ヘブル12:1-2a)。

 祈りましょう。「主よ。私たちがあなたの働き〈神のわざ〉に招かれていることに感謝します。イエスを救い主として信じ、主として告白いたします。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

説教者 木森隆(千葉ニュータウン・バプテスト教会牧師)説教題「人の幸せとは何か~第6のしるしは闇を裁く光~」@千葉ニュータウン・バプテスト教会聖書箇所 ヨハネ福音書9:1~129:1 さて、イエスは通りすがり.....

王であるイエスは神である~第5のしるしは救いの訪い~ヨハネ6:16-21 ロシア侵攻に始まるウクライナでの戦争がなかなか終りません。それだけでなく先月から中近東ガザ地区での戦争が始まりました。Wikpediaによると、このガザ地区での戦闘は...
12/11/2023

王であるイエスは神である~第5のしるしは救いの訪い~
ヨハネ6:16-21
 ロシア侵攻に始まるウクライナでの戦争がなかなか終りません。それだけでなく先月から中近東ガザ地区での戦争が始まりました。Wikpediaによると、このガザ地区での戦闘は「2023年パレスチナ・イスラエル戦争」と名前がついているそうです。
 どちらの戦争も早く終わって平和な状態が回復してほしいと願いますが、そう簡単ではないようです。簡単ではない戦争が、どうすれば一日も早く終わるのか。誰が考えても一筋縄ではいかない問題ですが、そんなときには(そんなときこそ)政治の力に期待するところ大です。
 政治家(為政者)の話を先週もいたしました。ローマ皇帝ティベリウス、ガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスの名前も挙げました。男だけで五千人を数える大勢の人たちにパンを与えて、腹を満たす。言ってみれば、それこそ為政者、皇帝ティベリウスや、ガリラヤ領主のアンテパスが、取り組むべき(いわば)政治の問題であったはずです。
 しかし主イエスの宣教は、権威ある者として福音を語る。多くの病人を癒す。霊に取り憑かれた人からその悪霊を追い出す。そうしたことも大きな奇跡なのですが、ついには男だけで五千人の人に満足いくまで食べさせる。そんなパンの奇跡によって、主イエスを王にしようと企てる人々が現れ、主イエスは山に退いて隠れました(6:15)。
 この世の問題に対して、神は無関心ではありません。しかしパンの問題(経済)に集中しているかというと、そうでもないのです。そうではなくて、パンの問題以上に、人間にとって深刻な問題に、神は御手を延ばそうとしています。人が食べるパンの問題以上に深刻なのは、パンを食べて生きようとする人間。人間そのものが問題です。
 一言祈りましょう。「愛する主よ。私たちをこの場に集めてくださってありがとうございます。主が祝福してくださり、日ごとのパンだけでなく、日ごとのパンを与えてくださるあなたご自身と、この礼拝で交わりを持たせてください。また、戦争を止めてください。少なくとも私たちが戦いを煽る者ではなく〈平和をつくる者〉(マタイ5:9)の幸いに生きることができますように。迫害下に歩む教会を支えてください。困難ななか生み出された新しい教会を恵んでください。他の教会と歩むことを喜びとする教会に平安を与え、地域で大きな証しを立てさせてください。そして終りの日に向かいながら、大きな希望を語らせてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(退いて見えなくなった王)
 先週の箇所ですがヨハネ6:14-15を読みます。〈人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。6:15イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた〉。
 パンの奇跡によって、人々はイエスのことを〈世に来られるはずの預言者だ〉と言いました。この〈世に来られるはずの預言者〉とは申命記18:15や18:18にある「モーセのような預言者」のことです。先週お話したとおりです、モーセも、神のことばを伝える預言者でしたが、その伝えたことばによって10の災いがエジプトにもたらされ、イスラエルがエジプトを脱出し、荒野の旅が導かれました。モーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、出エジプトの第二世代がヨシュアやカレブと共に入りました。
 モーセは、実際のところ、出エジプトから荒野の40年まで、イスラエル民族にとって王のような指導者でした。主イエスの時代の1世紀も、ユダヤからローマ帝国が駆逐されて「バビロン捕囚」のような束縛された状態から解放してくれる、モーセのような、あるいはダビデのような指導者を求めていました。
 イエスは、王となってくれるでしょうか。
 王や為政者(支配者)とは、システム的にいえば、人々から富や人を集めて再分配する人のことです。その王が支配することで、自分たちの暮らしが楽になったり、いい目を見るなら、人々は感謝するでしょう。しかし、ほとんどの支配者は、集めた富も人も自分のために使うのです(Ⅰサムエル8:10-18)。
 主イエスと弟子たちは、五千人の人たちから会費も席料も求めませんでした。だからピリポが〈足りません〉(6:7)と言ったのです。アンデレが連れてきた少年の五つの大麦パンと二匹の魚が用いられました。わずかこれだけの徴収で、五千人以上の人が満腹し、さらにパン切れの余りが十二の籠にいっぱいになるのですから、人々は衝動的かつ反射的にイエスを王にしようとしたのではないでしょうか。
 主イエスは、先週見たように、全世界の人間を飢えさせることなく豊かにすると思われる奇跡を行ったのです。人々が、主イエスを「すばらしい神輿」として担ごうとするのは当然であったでしょう。弟子たちも、自分たちの先生であるイエスがいよいよ王となって、神の国が実現すると興奮したに違いないのです。
 そもそも主イエスご自身が〈「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」〉(6:5)と言って、ピリポをはじめとする弟子たちにチャレンジしたのではないでしょうか。そうです。大人の男、五千人を満腹にしたのですから、この五千人を従えて、ヘロデ・アンテパスの邸や、ローマ兵の駐屯地に押しかけたらいいのです。
 しかし主イエスは、人々が何をしようとしているか知った上で〈再びただ一人で山に退かれた〉(6:15)のです。これは分からないことではないでしょうか。奇跡を伴うすばらしい王となれる片鱗を見せつけた上で、イエスは、集まる広場などのない山のほうへ退きました。担ごうとする人々の前から隠れて、消えたのです。人によっては、主イエスは奇跡を行った上で逃げたと思ったかもしれません。
 先週のパンの奇跡(6:1-15)は、イエスは王である、地上の王になる資格も能力も十分にあるけれど「それを放棄した」と考える。そのように考えたら、パンの奇跡がキリストの〈しるし〉(隠されたメッセージ)として伝わるかもしれません。

(現れて見られた神)
一人で(言ってみれば)静まるために山に戻られた主イエス。それに対して弟子たちはどうしたでしょうか。ガリラヤ湖畔に降りて来て、舟に乗り込み、宣教の拠点であるカペナウムの町に着こうと舟を漕いでいました。マルコ福音書によれば、主イエスが、弟子たちを〈無理矢理舟に乗り込ませた〉(マルコ6:45)のです。
 ところが嵐になります。16節から読んでいきます。ヨハネ6:16〈夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。6:18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。6:19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた〉。
 弟子たちは、とくに山に退いた主に躓いたわけではないでしょう。何かの報いというより自然現象としての嵐であったと思われます。当時の長さの単位で〈二十五ないし三十スタディオンほど〉というのは約「四ないし五キロメートル」です。湖畔から対岸までの中間くらいの距離で、辿り着くか引き返すかにも迷うようなポイントでした。
 そこに〈イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られ〉ます。山の上から遭難しそうな弟子たちを見て、駈けつけたのでしょうか。万有引力に逆らうかのように、嵐の夜に湖を闊歩する主のお姿を見て、弟子たちはかえって恐怖しました。幽霊を見たと思ったようです(マルコ6:49)。
 しかし主は語られ、事態は好転します。6:20-21〈しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた〉。
 実はこのあたりモーセとの比較で指摘が3つほどあります。ひとつめは舟が目的地に着いたことです。モーセはイスラエルをエジプトから荒野に導きますが、荒野から目的地のカナンの地まで導くことはできませんでした。理由は民数記20:10-11に記されたモーセ自身の罪ですが、主イエスは弟子たちを目的地まで速やかに導きます。
 第二のことは、主が〈「わたしだ。恐れることはない」〉と言われたことです。とくに〈わたしだ〉I am what I amというのは、出エジプト記でモーセが神から召しを受けたとき神から聞いた神の名前でした。つまり主イエスがここで〈わたしだ〉と名のったのは、主イエスが、モーセを召して導いた神に等しいことを物語っています。群衆の前で王としては退いた主イエスは、試練のなかの弟子たちのために神として訪うのです。
 第三のことは〈イエスを喜んで舟に迎えた〉ことです。神の子であるイエスを信じるとは、自分の心や生活のなかに入っていただくことです。この嵐の舟のしるしは、そのことを端的に教えています。大切なのは、主は決して私たちを見放したり捨てたりしないで(ヘブル13:5)、神として私たちを導いてくださることを覚えることです。

(いのちを捨てたパン)
 第四のパンの奇跡に続いて、第五の水上歩行の奇跡を〈しるし〉として考察してきました。マタイ、マルコの福音書でも、パンの奇跡の後は水上歩行の奇跡が続きます。ヨハネ福音書にとって、おそらく、この水上歩行の奇跡は大きな転換点で、このあとから主イエスの自己開示(神学的にいえば自己啓示でしょう)が活発になります。
 それで大急ぎで6章の続きを読みたいのです。嵐が止んで対岸のカペナウムで主イエスを待っていたのは、二とおりの人たちでした。熱狂的に主イエスを王に担ごうとする一部群衆と、冷ややかに主イエスを見下し裁いている宗教指導者たちでした。そして主と行動を共にしている弟子たちも、主と会話を交わします。順番に見ていきます。
 熱狂的な人々は、主イエスにモーセの再来を見ていました。モーセも、神からの奇跡として、荒野でマナという不思議な食べ物を天から供給したことがありました。しかし主イエスは〈なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい〉(6:27)と言いました。そしてご自分が天から下って来て、世にいのちを与える、神からのパンだと言いました(6:33-35)。
 また宗教指導者たちは、「神からのパンだ」と言い始めた主イエスに小声で文句を言い始めました。そんな指導者たちに主イエスは信じることを促しました。そして主イエスを信じることは、人の子の肉を食べることだと言いました。
 しかし肉を食らい血を飲む話に躓いたのは、何と弟子たちでした。〈こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった〉(6:66)と書いてあります。もちろんペテロをはじめとする十二弟子たちは例外でした。
 主イエスは王としてパンの与え手(供給者)でもありましたが、それ以上に〈天から下って来たパン〉そのものでもありました。そして天からのパンの恩恵に与るとは、主イエス・キリストを信じることであり、主イエス・キリストを信じるとは主イエス・キリストの十字架上での死を私たちのための贖いとして信じることなのです。
 嵐の試練のなかにあっても、主イエスを自分たちの舟my boat &our boatにお迎えすると、嵐は止んで舟は目的地に着きました。また〈いのちのパン〉と信じて主イエスを心のなかにお迎えすると、私たちの救いは始まるのです。
 私たちが地上で生きるということは、言うまでもなく動物性であれ植物性であれ他のいのちを食べ物として口からいただくことなのですが、同じように、そしてそれ以上に、主イエスのいのちを私たちがいただくことなのです。〈わたしはいのちのパンです〉(6:48)と言われた主イエスを心と生活のなかでいただくことで、私たちは死ぬことがなく永遠に生きるようになるのです(6:50-51)。
 〈いのちのパン〉として主はご自身を示され、日々の糧を与えると共に、聖霊による神のいのち(永遠のいのち)を与えてくださるのです。パンの奇跡をなした主イエスは王であり、しかし王である以上に神として、私たちの心と生活に入り込んでくださるお方です。主を迎えて、生きてまいりましょう。
 「神様。私たちの人生をあなたにお委ねして歩みます。どうぞわたしの生活の真ん中と心の王座にいつもいてくださって、私たちが嵐のなかでも目的地に進み、また多くの人々にとっての祝福として生きることができるようにしてください。平和をつくり、希望を表わす者にしてください。今週も礼拝できたことを感謝します。神の子イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

説教者 木森隆(千葉ニュータウン・バプテスト教会牧師)説教題「王であるイエスは神である~第5のしるしは救いの訪い~」@千葉ニュータウン・バプテスト教会聖書箇所 ヨハネ福音書6:(+14~15)16~216:1...

05/11/2023

世に来られるはずの預言者~第4のしるしは国家が変わる~
ヨハネ6:1-15
(三人の為政者)
 今日の箇所には三人の為政者の痕跡があります。為政者とは政治を行なう人のことです。二人は俗人であり、もうひとりは聖者です。
 6:1〈その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた〉。主イエスの宣教の記録は、再びガリラヤの湖のあるユダヤ北東部のガリラヤ地方となります。ヨハネ福音書のこのあたりの記事は、主イエスが、エルサレムのあるユダヤ地方と〈異邦人の〉ガリラヤ地方を何往復したかのように書かれています。
 それで章を入れ替えろという意見も実はありますが、むしろ先の5章でイエスが何者かという議論がエルサレムで起こりました。そうした衝突や分裂を避けるため主イエスはガリラヤに再び戻ってきた、エルサレムから離れた。シュラッターという先生は、そのようにコメントをしています。
 何はともあれ、主イエスはガリラヤ地方に来ています。そこには聖書を読む人にはおなじみの、ガリラヤ湖があります。そして別名として〈ティベリアの湖〉と書かれています。実はティベリアという名前の町がガリラヤ地方にはあったのです。小さな町ではなくガリラヤ地方の新興の政治的首都でした。
 主イエスの誕生を知ってベツレヘムとその近辺の二歳以下のこどもを殺させたマタイ2章に出てくるヘロデ大王。その息子で当時ガリラヤを治めていたのは、その息子のひとりヘロデ・アンテパスでした。このヘロデ・アンテパスがガリラヤ地方の領主として新しい町をつくったのでした。
 そして自分が地方を治めるにあたって、つくった新しい町の名はティベリアでした。ヘロデ大王もそうでしたが、ヘロデ・アンテパスも、ローマ帝国におもねって自分の支配権や名誉を得たのでした。ティベリア(ティベリアスともいいますが)、ローマ帝国のオクタビアヌスに続く第二代皇帝の名前でした。そして地方を代表するガリラヤ湖も、ティベリアス湖〈ティベリアの湖〉と呼ばれるに至ったのです。
 地中海世界から見れば東の辺境であるユダヤさえも版図にしていたローマ帝国。その皇帝ティベリアの威光は、町と湖の名前になるほど及んでいました。そしてその名前を付けたのは、主から〈狐〉(ルカ12:32)と呼ばれるガリラヤ領主ヘロデ・アンテパス。主イエスが戻られたガリラヤの湖の名前には、二人の為政者の痕跡がありました。
 主イエスは、このガリラヤこの対岸で、超自然的な奉仕(しるしの奇跡)を群衆に対していたします。この第4の奇跡を味わって、群衆は興奮し、イエスを自分たちの王にしようと考えたのです。群衆の興奮したそのことばが、6:14に書かれています。6:14〈人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った〉。
 本日の聖書箇所には、三人の為政者の痕跡があるとすでに申しました。6:1の湖の名前から、遙か西にいるローマ皇帝ティベリアと、この皇帝に取り入りながらガリラヤ地方を支配するヘロデ・アンテパスの二人についてはすでに述べました。三人目は(為政者と呼ぶことははばかられるかもしれませんが)モーセです。
 群衆は、イエスのことを〈預言者〉と言いました。預言者とは、神のことばを預かって人々に語る人です。エリヤとかエリシャ、あるいはイザヤやエレミヤを思うと、この群衆の発言は理解しにくいかもしれません。ダビデ王に油を注いだサムエルは、イスラエルを裁いたといわれますから、このニュアンスに近いかもしれません。
 しかしここでいう〈世に来られるはずの預言者〉とは、モーセのような預言者のことです。モーセとは紀元前16世紀か13世紀に活躍したといわれる神の人です。最近は、海(紅海)を二つに分けた人として聖書を読まない若者にも時々知られる旧約聖書の大人物です。80歳の時に神から召命を受け、400年間エジプトの国で奴隷であったイスラエルの民を神のことばに従って、約束の国カナンを指し示し、荒野へと導いた人です。
 実はモーセ自身がこのような預言を残しておりました。申命記18:15〈あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない〉。
 モーセは、まさに、神のことばをとりついでイスラエルを奴隷の状態から解放しました。1世紀当時のイスラエルは、自分たちはバビロン捕囚の続きを生きていて、ローマからも解放されなければならないとメシア到来に期待していました。エジプトであれ、バビロンであれ、ローマであれ、自分たち民族はは解放されなければならないと信じていました。
 
(三人の弟子たち)
 このころ主イエスは、ガリラヤ地方で大きな評判を得ていました。病気の癒やしなどの奇跡のわざによって、イエスを信じ慕う者、喜んで従う者が起こされていました。6:2〈大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。6:4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」。6:6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。6:7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」〉。
 ヨハネ福音書の特徴のひとつは、ペテロ以外の弟子を目立たせているところです。他の福音書ではその他大勢のように〈弟子たちは〉となっているところを個人の名前を挙げています。主イエスはピリポを他の奉仕もするように試みました。ある意味、それは弟子たちの手に余る、政治家がすべきことでした。
 デナリとはお金の単位で、1デナリは一日働いてもらえる日当です。ですから200デナリは多めにいうと約200万円。他の弟子たちも200デナリで買い物に行くことを考えたようです(マルコ6:37)。イエスは弟子たちと集団で旅をしていましたが、持ち合わせのすべてがそれくらいだったかもしれません。
そんななか、アンデレが何やらイエスに話しかけてきます。6:8〈弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」〉。
 アンデレは、シモン・ペテロの弟です。他の福音書では一言もしゃべっていない人物です。しかしヨハネ福音書は、この場面だけでなく様々な取り次ぎをしています(ヨハネ1:40-42&12:20-22)。ピリポに続いてアンデレと二人の弟子が口をきいています。記述が個人化されています。
 そしてもうひとり、私が弟子に加えたいのは少年です。〈大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年〉です。自分の弁当だったかもしれません。しかし主に召し上がっていただきたかったのかもしれません。
 集団のなかで可能か判断するピリポ、多様で多彩な人をつなげようとするアンデレ、そしてわずかな物でも役に立てばと差し出す少年。私たちが集っている教会にも、様々な主の弟子がおられ、皆、重要な役割を担っています。しかし何より教会には、主がおられなくてはなりません。目で見ることはできませんが、イエス・キリストが(親しく)おられるところが教会です。
6:10〈イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった〉。
 ピリポもアンデレも少年も、主のなさったことに驚いたでしょう。無理だと感じたり、できないと考えたりすることも、大切です。教会は決して行け行けの集団ではありません。しかし、神の物差しを知っている集団です。
 安倍元首相が暗殺されてから宗教に対する見方がきびしくなったという人がいます。そういう言い方しかできない人は、言い訳をしている気がします。あの事件が起きてから、統一教会の信者だった人や、この問題を追及してきた弁護士やジャーナリストが、マスメディアで発言の機会が与えられるようになりました。他にもカルト的な宗教団体はありますので「宗教二世」ということばが巷でも言われるようになりました。
 宗教は、宗教ということばだけで括られるものではありません。宗教というレッテルを貼るだけで終わっている人は、味噌も糞も一緒にしています。そして今回の中東で始まった戦争も「宗教問題」にしてしまっているのだと思います。どんな世俗的な問題でも、信仰が問われることであり、祈祷課題であると言うことができます。一方で、狭い意味での宗教だけで、人も国家も民族も動いているのではありません。
 人間には衣食住をはじめとして「日々の必要」があります。私たちは、ピリポやアンデレや少年がそうであったように、世俗の課題(一般的な問題)から逃げてはなりません。主が有り余るほどの祝福をしてくださると信じて、教会の外にいる人たちに恵みを分かち合える者となりましょう。
 戦争については「教会では平和が来るように祈っています」と言い、ほんとうに祈り続けましょう。ガザから始まる問題は深刻ですし、クリスチャンの間でも議論があって、よく学ぶ必要があります。また宗教二世の問題(信教の自由の問題)については「宣べ伝えることと拒否する自由、その両方が大切です」と答えてください。宗教的なことを嫌悪したり、異質な人を排除するだけでは、善いものは何も生まれないのです。

(隠れた王)
 最後に15節から考えなければなりません。しかし今日はここまでとします。6:15〈イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた〉。このことは、主がすべての分野のすべてのことを治めてくださる方だと知りながら、主は何によって、この世界と教会を治めてくださるかということです。一言でいえば、主はパンを増やすことで王になるのではなく、自らのいのちを十字架で投げ出すことによってこの世と教会の王になるのです。私たちがこれから新聖歌109番を歌うのはそのためです。一言祈りましょう。

https://youtu.be/hTxFPvBySz4

安息日と“良くなりたいか”~第3のしるしは時間の希望~ヨハネ5:1-18 本日の説教は「安息日と“良くなりたいか”」と題を付け、サブタイトルを「第3のしるしは時間の希望」としました。「希望の時間」ではなくて「時間の希望」です。 「希望の時間...
28/10/2023

安息日と“良くなりたいか”~第3のしるしは時間の希望~
ヨハネ5:1-18
 本日の説教は「安息日と“良くなりたいか”」と題を付け、サブタイトルを「第3のしるしは時間の希望」としました。「希望の時間」ではなくて「時間の希望」です。
 「希望の時間」だと二通りの意味があります。ひとつは、私たちが歯医者の予約を入れるために電話する。歯医者の受付の人は「来院できる時間は何時ごろでしょう。ご希望の時間を仰ってください」と電話越しに言うかもしれない。その場合の「希望の時間」は自分が希望する時間のことです。
 もうひとつの「希望の時間」は、私たちが将来に失望ではなく希望を持てる時間です。私はこの礼拝でも福音を語りますが、福音のことばによって聴く方全員が生きる希望に満たされていただきたい。「希望の時間」とは、そのように、心が希望にあふれる時間です。今日私たちは38年間も病気だった人が癒された記事を読みますが、まさに主イエスによって癒された瞬間は、この人にとって「希望の時間」であったに違いありません。
 しかし今日私が主題のひとつにしているのは「希望の時間」ではなく「時間の希望」です。時間にはいろいろな時間があります。
 38年間病気で寝ていた時期。主に癒されて健康体で歩み出した時期。若いころ。年をとってから。ここぞという勝負のときに、勝ったとき、負けたとき。喧噪のなかで自分も大きな声を上げた時期。沈黙の世界で自分も静まる時期。
 いろいろありますが、どなたにとっても1日は24時間で、1週間は7日だと思います。私たちは、そのような時間の流れのなかで生活し、年月を重ねております。そのような時間(人生と言い換えてもいいかもしれません)、そこに希望はあるのかということを今日はお話ししたいのです。一言お祈りいたします。
 「天の神様。〈私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわい。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去る〉(詩篇90:10)とモーセは言いました。秋の季節が深まるように、私たちの人生も深まるでしょうか。いたずらに私たちの時間も過ぎると考えるならば、私たちは無神論者と変わらないのではないでしょうか。ヨハネ福音書の5章を開いて、主イエスがなさったこと、そして語ったことから、私たちは束の間の希望だけでなく、もっと重い希望を思い起こしたいのです。この重い希望がなければ、私たちは、ウクライナのためにも、ガザ地区のためにも、祈れないのです。世界的な自然環境の変化にも、人が大切にされない社会にも、対抗することができないのです。主よ、お語りください。お語りくださって、私たちを希望にあふれさせてくださいますように。希望にあふれさせてくださって、迫害下の教会や宣教の様々な働きにいよいよ連帯できますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(良くなりたいか)
5:1〈その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた〉。
 ヨハネ福音書の七つのしるし、第3のしるしはエルサレムでのことでした。神殿の北のほうに長方形の二つの池があり、ベテスダと呼ばれていました。ひとつの池は、東西52メートル、南北40メートル。もうひとつの池はさらに大きく、東西64メートル、南北47メートル。共に小学校の25メートルプールの4倍ほどの広さです。
 この二つの池の四方に、屋根付きの道である回廊が四本、二つの池の間にもう一本。〈五つの回廊がついていた〉のです。池の名前のベテスダは「あわれみの家」という意味。またこの池には別名があって、その別名は「ベトザタ」。ベトザタは「オリーブの家」という意味になるようです。ベテスダ、ベトザタ、どちらにしてもこの二つの池には「~の家」と呼ばれていました。
 ですからベテスダの池は「家」です。どんな人たちの家であったというと、二つの池を取り巻く〈五つの回廊〉には〈目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた〉。今で言えば、さながら長期入院を余儀なくされる人たちの病院(療養所)のようでありました。
 そこに主イエスが来られます。たくさんの人がいたはずですが、ひとりの人と言葉を交わします。5:5〈そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」〉。
 この会話、不思議な会話です。私が病気の方のお見舞いに行って「良くなりたいか(健康になりたいのですか)」と言ったとします。快癒の見込み(治る見込み)のある人だったら「あたりまえでしょ、失礼な」と答えが返ってくるでしょう。不治の病と思われる重病の方だったらどうでしょうか。「もちろんです」とは簡単に答えられない、きびしい現実があるはずです。〈良くなりたいか〉は心を抉るはずのことばではないでしょうか。
 私はクリスチャンで、イエス様のことは大好きですけれど、「イエス様だったら何を言ってもいいのか(自分が言ったら大問題だ)」と思う発言は、それなりにあります。そう思わない人は、福音書をちゃんと読んでいない人だと思います。そして、聖書が真理を伝えると共に、本気で真理を受けとる気持ちがあるのかを、読者である私たちに、問いかける本でもあることを知ってもらいたいと思います。
 〈良くなりたいか〉。もう40年以上前ですが、三重県の津市で奉仕されていた村上久牧師が長い結核療養の信徒にこんな質問をしたそうです。この病気の人は38年間過ごしてきた、当初胸のうちにあった期待や希望の灯は消え、そのうえ年と共に肉体の衰えを感じる。自分には癒される望みはないと悟りきって諦めていたのではないだろうか。
 するとひとりの姉妹が口を開きました。「先生、私はそうは思いません」。長い闘病生活、療養が長期化すればするほど直る可能性が少なくなる。医学的にも、自分の経験からも「不可能」の文字がはっきり見える。しかし医学的にも常識的にも絶望と思われているにもかかわらず、それでも直るかもしれないという望みが心にある。それがなかったら、自分は今日まで生きることができなかった。またこれから生きていくこともできないでしょう。希望がなくなってしまったとき、人は死ぬしかないのです、と。
 村上久牧師は、この姉妹の言葉を聞いて、自分の長期療養者に対する浅はかな理解を恥じたそうです。主イエスの〈良くなりたいか〉は〈彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると〉発せられたことばです。「その望みがたといどんなに小さくても、またたとい心の片隅に押しやられていたとしても、主イエスはそれを見ることができ、それを知っていてくださるのである」と村上牧師は書いています。
 覚えましょう。主は〈からし種ほどの(小さな)信仰があるなら〉と言われました(マタイ17:20、ルカ17:6)。有るか無きかの信仰を確認できる神は、有るか無きかの小さな希望~本人さえ気づかないほどのミクロ~を見取ってくださるお方です。

(人がいて、人がいない)
 38年間、病気で伏せっている人。生まれたときからこの病気でしたら、この人は38歳です。10歳で罹ったのなら、この人は48歳です。もっと年をとっている人かもしれません。38年間から、旧約聖書のイスラエルの民が、エジプト脱出のあと、荒野を放浪した年月になぞろうとする方もいます。長い年月です。
 そんな苦労を続けている方が〈良くなりたいか〉と言われて「はい、良くなりたいです」と元気よく答えることができるでしょうか。彼の答えは〈「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」〉でした。
 このちぐはぐな答えを、本人の病気からくる混乱と考えた人もいました(佐竹十喜雄)。しかし、そうではありません。主の〈良くなりたいか〉は、本人の小さな希望を見取った者でしたが、本人には分厚く高い壁のようなきびしい現実もまた存在していました。
 それにしても5:7でいう〈水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます〉とは何でしょうか。それは、この人の持つ(病気以外の)もうひとつの悲劇でした。
 新改訳2017版でも、他の翻訳聖書でも大差ないことですが、5:4は欠如しています。聖書には本文研究という分野があって、多くの写本から聖書の本文を確定する学問です。信頼できる多くの写本には存在しないのですが、少数の写本に存在する5:3後半と5:4があります。それはこういう文章です。〈彼らは水の動くのを待っていた。それは主の使いが時々この地に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒やされたからである〉。
 これがベテスダの池に多くの病人が集まったり集められたりした理由です。おそらくその正体は間欠泉と言われていますが、池の水が動いていちばん早くに水の中に入った者が重病人でも癒されるという言い伝えがあったのです。そして現実に〈目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた〉のですから、信じられていただけでなく、それなりの現象が起きていたのかもしれません。
 医療といいますか、福祉といいますか、宗教といいますか、もっとも競争原理の働いてほしくない分野に競争原理が働いているのを、この本日の箇所では見るのです。そしてベテスダの池にいちばんに入ることができるのは、病人のなかでも症状が軽かったり、精神力が強かったり、何より家族や友人に恵まれていて水がかき回されたとき篤く協力を受けることのできる人です。それは、重くない病気で、心も強く、助けてくれる身内の多くいる人です。普通に考えて病気の治りやすい人たち。水が動いていの一番にベテスダの池に入らなくても癒されただろう人たちです。
 5:7〈病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます」〉。主イエス・キリストは、この人の(言ってみれば)愚痴に付き合ってくれているのです。「黙れ、とにかく信じろ」ではなく、主は小さな望みを見逃さず、大きな嘆きも受けとめてくださるお方です。私たちも、人が愚痴を聞いてくれないとしても、主は聞いてくださることを知りましょう。
 また病んでいる人は多いけれど、寄り添う人が少ないことを覚えたいものです。
 そして主は言われました。5:8〈「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」5:9aすると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した〉。これこそイエスが何者であるかのしるしです。主は、この病気の人を健康体にしました。終りの日に、私たちもまた、神の栄光の力によって、誰もが健やかで朽ちることのない栄光の体に変えられます。

(十字架へと進む主イエス)
 これで癒やしの記事は終りです。しかし物語は続きます。主の癒やしが安息日の出来事であったため、エルサレムにいた宗教指導者たちの間で問題となるのです。5:10〈「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」〉。この人は、自分を癒したのはイエスであることが分かっていませんでした。ですから最初は自分の癒した人の名前を告げることはできませんでした。
 しかし主イエス自らが自分の身を危険にさらすことを始めます。どれくらい後なのか分かりませんが、主イエスのほうで癒された人を探し出して、彼の魂の状態について忠告をします。〈もう罪を犯してはなりません〉(5:14)とのアドバイスです。これは肉体の健康(さらに経済的な繁栄)だけでは、人の救いは完成しないことを物語っているのです。魂の救いのために、主は迫害の矢面に立つことになりました(5:16)。
 さらにいえば5:17の発言によって、ユダヤ人の手によるイエス殺害(すなわち神の子が十字架で死ぬ救いの働き)が一歩近づきます。主が、この人を癒やしと救いに招いたことも、神の不思議な選びですが、その方法も不思議です。いきなり癒すこともできたのに〈良くなりたいか〉と気持ちを伺い、競争にも負け続けの嘆きの愚痴を主は聴いてくださった。そして安息日論争に火を点け、ご自分が子なる神であることも証しされてしまいました。
 魂の救いも体の癒しも、自分の願いや方法のとおりではなく、神の御心のタイミングと方法でなされることを覚えましょう。38年間も病身だったこの人が癒されたことも素晴らしいですが、主が癒す前も後も彼の魂に語ったことを覚えておきましょう。
 いまたとえ、健康でありましても、私たちの体はそのうちに病気になったり年をとったりもいたします。そんなとき主イエス・キリストは、私たちに救いの時があることに希望を抱かせるだけでなく、この人生そのもの(人生全体)が神の希望に満ちていることを示しているのです。安息日を破ってでも私たちを救おうとされ、〈良くなりたいか〉と魂に問いかけてくださる神を賛美し、キリストを伝えてまいりましょう。
 一言祈ります。「愛の父よ。私たちは魂の状態だけでなく体の健康や経済状態・人間関係にも左右される存在です。あなたはすべての分野で私のことを見ていてくださり、聴いていてくださいますから、感謝します。どうかキリストの復活のいのちによって今週も、顔と体を起こして力強く歩ませてください。助けを必要としている人に寄り添うことのできる奉仕も与えてください。主イエスのお名前で祈ります。アーメン」。

説教者 木森隆(千葉ニュータウン・バプテスト教会牧師)説教題「安息日と“良くなりたいか”~第3のしるしは時間の希望~」@千葉ニュータウン・バプテスト教会聖書箇所 ヨハネ福音書5:1~185:1 その後、ユダヤ.....

生きろ、しっかりと、人として~第2のしるしは死地を通す~ヨハネ4:43-54(人の心は当てにならない) 44節にイエス・キリストのことばとして〈「預言者は自分の故郷では尊ばれない」〉と記されています。〈預言者〉とは、神のことばを神から預かっ...
21/10/2023

生きろ、しっかりと、人として~第2のしるしは死地を通す~
ヨハネ4:43-54
(人の心は当てにならない)
 44節にイエス・キリストのことばとして〈「預言者は自分の故郷では尊ばれない」〉と記されています。〈預言者〉とは、神のことばを神から預かって人々に語る人です。神の使命に忠実なその人であれば「郷土の誇り」「里の誉れ」と慕われたり尊敬もされたりが普通で当然のはずなのに、かえって何と〈自分の故郷では尊ばれない〉。
 これは他の福音書を学べばわかることですが、主イエスが育ったナザレの村での実体験(マタイ13:53-58、マルコ6:1-6、ルカ4:16-30)に基づくものでした。しかしヨハネ福音書では、主イエスにとっての〈自分の故郷〉は、もっと広い範囲のようでした。ヨハネ福音書の冒頭部分に、次のような言及があります。ヨハネ1:11〈この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった〉。
 イエス・キリストは〈ご自分のところ〉の人たちに受け入れられず、かえって排斥され、殺されます。この、自分のところの〈ご自分の民〉は何者か。エルサレムを中心としたユダヤ地方の人たち、あるいはイスラエル民族の全体、もっと言えば人類全体が「救い主を退けた」と言っていいのです。
 しかし今日の箇所は、このように書かれています。4:43-45〈さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。4:44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。4:45 それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである〉。
 マタイ、マルコ、ルカの福音書を見ると、主イエスの宣教は、ナザレやカナやカペナウムのあるガリラヤ地方のみで展開された感があります。しかしヨハネ福音書を見ると、主イエスは、ユダヤ地方のエルサレムの神殿によく来られて、宣教を行なったことがわかるのです。
 そして今日は〈第二のしるし〉(4:54)を学ぶのですが、〈最初のしるし〉(2:11)をカナで行なってから主イエスは奇跡を行なっていないかといえば、そんなことはありません。2:23-25を読みます。〈過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。2:24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、2:25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである〉。
 主イエスの宣教を理解する上で、重要な指摘があります。ヨハネ福音書では、主イエスがなさった奇跡を〈しるし〉と言います。他の福音書では、どちらかといえば、主が奇跡をなさるのは、人々を助ける愛のわざとしてでした。そして〈あなたの信仰があなたを救った〉(マルコ5:34など)という言い方をして、人々の信仰が先行して主の奇跡が起こるという順番です。
 しかしヨハネの福音書は、主の奇跡は「証拠(しるし)としての奇跡」であって、奇跡がまず起こり、そして目撃した人たちから信じる人が起こるという、どちらかというと逆の順番です。主は宣教を始めた当初からエルサレムに上り、奇跡も行なったので〈多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた〉のでした。
 しかし、その信仰は、純朴だったかもしれませんが、浅はかなものでもありました。〈しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった〉とあります。人々は主イエスの奇跡を見て主イエスを信じたのですが「主イエスは人々を信じなかった」と書いてあるのです。理由は、イエスが〈すべての人を知っていた〉からです。〈人のうちに何があるかを知っておられた〉からです。
 信仰といっても、いろいろな信仰があるのではないでしょうか。〈人のうちに〉何があるのでしょうか。私たちはどこまでも変わらない「罪の根」のようなものを持っているのではないでしょうか。しかしありがたいことに、主イエスは〈人についてだれの証言も必要とされなかった〉のです。これは主イエスがまことの神である証です。
 
(主のことばを信じた父)
 最初の3節に説明を費やしてしまいました。46節からしるしの出来事は始まります。4:46-48〈イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。4:48 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」〉。
 最初のしるし、カナの奇跡は、結婚式での宴の出来事でした。それに対して本日の箇所には〈ある王室の役人〉が出てきます。地位も名誉もあって、それなりの権力も能力も財力もあります。しかし息子の病気を治すことができません。主イエスの活動は、この役人にも知られていました。エルサレムのあるユダヤ地方から、ガリラヤ地方のカナに戻られたと聞いて、カペナウムからこのカナの村に駆けつけます。
 ちなみに、同じガリラヤ地方でも、カペナウムは湖畔の町で、カナは山地の村。カペナウムは海面下210m余の低地で、カナは高地にあります。カペナウムからカナまでの距離は約30km。しかし標高差は約600m。それで、実際の道のりは40km以上と考えられます。印西から東京くらいまでの距離、それなりの距離の上り坂です。
 息子のいのちを助けようとカナまで来たこの王室の役人に、主イエスは〈「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません」〉と言いました。私たちの心のうちにあるものは何でしょうか。善いものばかりではありません。しかし、愛する者のために必死になる。そんな心の働くときがあるのです。
 私たち人間に、神の栄光を現すために神を信じることは、何と難しいことかと思います。神の栄光を現すために神を信じるとは、自分のためではなくて、神のために信じることです。私は、神のことを思わないで、自分のことばかり考えてしまったり、せいぜい家族や友人や教会の皆さんのことを少しばかり考える。相当苦労しながら、ウクライナやガザ地区のこと、廃炉にすべき福島の原発のことなどを忘れないようにしています。
 しかし、それもいつも自分中心に、考えています。もし聖書の神が、私の信仰や行い次第でどうにかなるとしたら、神の御名は、地に墜ちたまま、水底に沈んだままであったでしょう。しかしありがたいことに、主イエスの神は〈人についてだれの証言も必要とされなかった〉方なのです。
 私たちが自分のことばかり考える人間だと社会では不適合者になるかもしれません。しかし神は、私や皆さんがどんなに独りよがりでも、付き合ってくださる方です。〈安心して行きなさい〉(マルコ5:34など)と言ってくださる方なのです。小さく自己中心で不安定な「私の」信仰を認めて、救ってくださる神なのです。
 ですから王室の役人は「聴かれない祈り、叶わない願い」のなかにも、神の愛を覚えたに違いないのです。聖霊が、王室の役人に、しつこい信仰(神にのみ頼る信仰)を与えたのだと、この説教者は言わざるをえないのです。
 4:49-53〈王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」4:50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。4:51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。4:52 子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。4:53 父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた〉。
 私たちも、印西から東京まで徒歩ならば一日で着くことはないでしょう。〈昨日の第七の時〉と迎えに来たしもべたちは言いました。これは私たちの時計で午後1時ごろです。主イエスは、カナの村にいながらカペナウムにいる息子の病気を治しました。空間を超えて主のことばが届いた奇跡です。父親として彼はどんなに嬉しかったことでしょう。〈その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った〉のです。

(第二のしるしは「生きろ」)
 この出来事の総括を、福音書記者はこうまとめます。4:54〈イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた〉。
 主は、エルサレムでもたくさんの奇跡(しるし)をなさったことでしょう。実は、役人の住まいがあるカペナウムでも多くの病人を癒し、奇跡の働きをなさいました。
 しかし、ヨハネは、記者として、この出来事が〈第二のしるし〉であったと主張します。主イエスの行いはもっとたくさんあって取捨選択したことを公言しています(20:30-31&21:25)。そんなヨハネが、なぜ〈これを第二のしるしとして行われた〉と強調しているのでありましょうか。
 神は、主イエスによって私たちの必死な思いや祈りを聞いてくださる。その意味で〈第二のしるし〉でしょうか。そうとも言えます。
 また神は、天地創造のときがそうであったように、みことばによって御心を成し遂げられる。そのことを伝える〈第二のしるし〉でしょうか。そうかもしれません。
 そして神は、私たちに、見える現象ではなく、見えないけれど確実な神のことばに従うように願っておられる。それゆえに〈第二のしるし〉なのか。それは、もちろんです。
 私には読み返すことの多い小説がひとつあって、昨日もいつものようにある場所で続きを読んでおりました。前途有望な若者に、豪傑のような老婆が死ぬ間際に語る場面です。その最後の件には、老婆のことばとしてこうありました。「しっかり、生きろ。男として、生きろ」。自分に置き換えるために「女として」と言い換えてもかまいません。また今日の説教題のように「人として生きろ」でもよいのです。
 実は、今日の箇所4:50、51、53の三箇所は〈治る〉〈治った〉ではなく〈生きます〉〈生きている〉と訳したほうが正確な箇所です。〈第二のしるし〉として外せない視点は、主イエスがいのちを与える方である(与え手である)という視点です。
 王室の役人は、どうしても自分の息子に生き延びてほしかった。それは御利益信仰とかではなくて、もっと実存を賭けた願いだったと思います。あくまで自分中心で罪深い人間の私たちですが、そのように神に挑み、神と相撲を取るようなことがあるに違いない。「神よ、私に《生きろ》と語ってください」。「主よ、私の息子や娘、私の家族に《生きろ》と語ってください」。「私の愛するその人に《生きろ》と」。
 私たちは真剣に自分と他の人の命を求めてこそ、初めて人間になるのだと思います。私たちは、戦争や戦争の噂を聞きながら、その国の危機的な悲惨のなかにいる人のために祈ってこそ、初めて国際人になるのだと思います。私たちは目を背けたくなるような問題に取り組んでこそ、初めて指導者になるのだと思います。
 4:53〈父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る(生きます)」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた〉。
 祈りましょう。「愛する神。あなたはイエス・キリストに地上のいのちをお与えになり、この救い主を死なせることで、人間が救われる道を備えてくださいました。またあなたの聖霊によって、私たちは十字架で死んだイエスをキリスト救い主と告白できますから感謝いたします。そしてあなたは、私たちに《いのち》を見つめさせるため、ときには悩みのるつぼに置かれ、死地をくぐるようにもなさいます。光のないトンネルが私たちの人生のようにも思えます。しかし主よ。みことばのゆえにあなたは私たちに『生きろ』と言われる救い主であることを信じます。どうぞ、心が弱く、気力の萎えやすい私たちに、カペナウムからカナの町に向かった、あの王の役人(父親)のような信仰をお与えください。そして主の約束のことばを信じ、また、その結末をも知らされて信仰から信仰へと進む者にしてください。イエス・キリストが私たちのために天で執りなしておられることを感謝します。私たちも、キリストの御霊を受けながら、キリストに倣って執りなす者にしてください。今週一週間も私たちと共にいてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

説教者 木森隆(千葉ニュータウン・バプテスト教会牧師)説教題「生きろ、しっかりと、人として~第2のしるしは死地を通す~」@千葉ニュータウン・バプテスト教会聖書箇所 ヨハネ福音書4:43~544:43 さて、二日....

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