25/11/2023
何のために泣くのか~第7のしるしは死者を生かす声~
ヨハネ11:33-46
人生は不条理(道理が立たないこと)に満ちております。昨年、ロシアのウクライナ侵攻が始まったとき、すぐに終わると思っておりました。私たちがロシアの国力を見誤ったのでしょう。戦闘の終結(和平)というところになかなか進めないでいます。
それどころかウクライナ戦争だけでなくなりました。イスラエルが10月7日に奪われた人質を奪還しハマス討伐ということで、ガザ地区への侵攻がその翌日始まりました。現在、ようやく4日間の停戦合意で、人質や収監者の一部解放が始まっています。が、この間、この地区で子ども5,850人を含む14,854人のいのちが奪われております。イスラエルは人質があり、ハマスも願って停戦ですが、4日が過ぎるとまた再開でしょうか。
世界はこのように不条理で満ちております。私たちは、祈っていないかというと、祈っております。戦争が終わるように、平和な状態が戻るように、祈っております。
そしてなぜ祈りがすぐに聞かれないかと思います。私の罪のためか、だれかの罪のためか。あるいは寝食を忘れてもっと祈るべきか。そうではないと思います。事柄によっては祈りが簡単に聞かれない、聞かれないどころか、ますます違う方向へ行ってしまうときもある。祈りの答えがわからないことも含めて、人生は不条理で満ちています。
一言祈りましょう。「神様。あと四週間ほどであなたの独り子がこの世に来てくださった祝いの日になります。世界はその日から変わりました。光が灯り、信仰が深い意味を持ち、神の愛が大きな動機や力となりました。かくして人類には希望があります。とはいえ、私たちの日常はわからないことだらけです。世界に目を転じても、戦争が簡単には終わらないもどかしさを感じています。不条理な世界で福音が語ることのひとつは、キリストの復活であり、身体のよみがえりであると思います。七つのしるしをヨハネ福音書から学んできましたが、有終にふさわしく説教者を整えて、私たちの礼拝を恵んでください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
(ラザロは死にました)
主イエスは神の国宣教のなかで多くの奇跡を行いました。福音書記者ヨハネは、そのなかでも七つの出来事を心に留めるべき「しるし」として際立たせました。
第1と第2のしるしは、共にカナの町で行われましたが、物議を醸すことはなかったようです。しかし第3のしるしが、安息日のエルサレムでなされたため、論争が起こり、イエスはご自分を神と等しくされました(5:18)。第4のしるし(給食の奇跡)に続いて第5のしるし(水上歩行)がありましたが、ここで主は〈わたしだ。恐れることはない〉(6:20)と語られました。
ご自分がモーセを召したイスラエルの神であることを明らかにしたのです。ここから主イエスは〈わたしがいのちのパンです〉(6:35)、〈わたしは世の光です〉(8:12)、〈わたしは門です〉(10:9)、〈わたしはよい牧者です〉(10:11)とご自分について語り出します。さらに〈わたしが道であり、真理であり、いのちなのです〉(14:6)と言い、〈わたしはぶどうの木〉(15:1&5)とも言います。
今日の箇所で言えば、11:25で〈わたしはよみがえりです。いのちです〉と主は言われています。それこそイスラエル民族の最初の先祖アブラハムが生まれる前から自分はいたとも言われていて(8:58)、ヨハネ福音書のなかの主イエスはご自分が〈神の子キリスト〉(20:31)、ひいては、神ご自身であること(1:1&18)を隠してはおられません。
ですから主イエスに何でも願うということは、あってよいことなのでしょう。ところが今日の箇所11章の初めから読みますと、主は敢えて篤い病のラザロを放置しているように読めるのです。ラザロも、一緒に暮らす二人の姉のマルタとマリアも、主イエスの弟子でした。そして三人が暮らすベタニア村に来てほしいと使いを送っていたのです。
主イエスは、ラザロ重病の知らせを聞いても二日とどまってから、ベタニア村に向かいます。着いたときには〈ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた〉のです(11:17)。歌舞伎の台詞で言えば「遅かりし由良之助」です。英語で言えばtoo lateです。ラザロの姉妹たち、姉も妹も同じことばを主に言うのです。11:21と32〈主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに〉。マルタにもマリアにも、福音書記者は、そのように同じことばを言わせています。
愛する皆さん。とくに信仰生活の長い皆さん。クリスチャンになって、他の人(兄弟姉妹)に躓くことがあります。また自分があまりにもこうあってほしい姿から遠くて、自分に躓くこともあるでしょう。しかし、それだけでなく、私たちは、神やキリストに躓くことがあるのです。神は敢えて私たちを躓かせることもあるのです。
〈イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられ〉ました(11:5)。にもかかわらず、主はベタニア村への出立を二日遅らせました(11:6)。あるいはこうも言えるでしょうか。第2のしるしのとき、主イエスはカナの村にいながら、カペナウムにいる王室の役人の息子を癒しました。なぜ主はこのとき同じようにしなかったのでしょうか。
(主イエスの動揺・涙・憤り)
イエスはベタニア村に入られ、マルタだけではなくマリアにも会うと、ラザロを葬った墓に連れて行ってもらうことになります。なぜなら〈彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった〉からです。ご覧になって〈霊に憤りを覚え、心を騒がせ〉ました。そして墓前に着いたのでしょう。11:35〈イエスは涙を流された〉。
〈憤りを覚え〉、これは11:33そして38にも出てくる表現です。〈激しく息をする〉というのが直訳らしく、もともとは馬がいななく様子の表現だったようです。そして〈心を騒がせ〉は〈自ら混乱する〉。主イエスの緊張や興奮を伝えようとしているのでしょうか。そして洞穴の墓の前で〈イエスは涙を流された〉。
イエス・キリストは〈私たちの弱さに同情できない方ではありません〉。神の御心から片時も外れることはありませんでしたが〈すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです〉(ヘブル4:15)。私たちの大祭司主イエスは、罪は犯さなかったけれど、私たちと同じように、愛する者の死に動揺し、涙を流したのでしょうか。
イエスの涙に対する周囲の人たちの反応。11:36〈「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」〉。たしかに主イエスは、死んだラザロを慈しみ、その死を惜しんだことでしょう。
別の反応。11:37〈「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」〉。第6のしるしは生まれつきの盲人の目を開けたことですが、これを引き合いに出してイエス・キリストの不全性を指摘したのです。神やキリストの不全性を指摘しながら、世にニヒリズム(虚無主義)が広がることはよくあることです。なぜかといえば、世界は不条理で満ちているからです。希望が持ちにくいのです。
(神とキリストの心の複雑さ)
馬のいななきのように、主の心は動揺していました。それは怒りのような感情も含まれていたと私は思います。神は穏やかな面だけでなく激しいお方でもあると思います。旧約聖書のホセア書には、神の心の葛藤が描かれています。妻が自分を裏切ったことを知りながら、その背信の妻を見捨てることのできなかった預言者ホセアのように、神は〈わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている〉(ホセア11:8)と言われる方なのです。
11:37〈しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。11:38a イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた〉。主は何に涙し、心のうちに憤りを覚えたのか。聖書を読み始めて45年以上経ちますが、ずっとわからなかったことがあります。
主は何に涙し、腹を立て、悲憤慷慨されたのか。死という現実に対してか、現実に打ちひしがれている弟子たちに対してか、どちらだろうかとずっと結論が出せませんでした。しかし今回わかったのです。死というきびしい現実にも、その現実に打ちひしがれている弱い信仰者の両方に涙し、憤っておられるのです。
それは、私にこのような状況situationを思わせてくださったことによります。私は父と母の両方に似て、運動が大の苦手でした。おまけに小学生のときは肥満児で、父が私に運動をさせようと思って柔道塾に入れてくれました。私はほんとうに運動音痴で受け身を覚えるまで半年通いました。いま思うと運動能力そのものだけでなく心の臆病が原因と思いますが、しかしいつも「何でボクだけできないのか」と思っていました。
それであるとき柔道塾の帰り二学年くらい上の上級生に突っかかりました。勝てるわけがないのに突っかかって、やられました(やられたというよりまともに相手にされませんでした)。それで家に帰って、「悔しい」と言って泣きながら父に話しました。自分に劣等感があって、こちらから喧嘩を仕掛けたことは上手く言えませんでした。
それで父が(勘違いして)私を連れてその上級生の家にどなりこんで、その上級生に彼の家の玄関で文句を言いました。私は、その上級生が悪いのではなく、自分の劣等感からその上級生に八つ当たりしている自分が悪いのだと知っていたけれど、父の剣幕に驚いて何も言えませんでした。後日、私はその上級生から自分が悪いのに親に言いつけた卑怯者と見なされ、そのようにも説明されました。
いま言った私の体験談は特殊なケースなのですが、たとえば皆さんに子どもか孫か親戚の子がいて、だれかにいじめられたとしましょう。その子どもの弱さや卑怯さから出た災難としても、いじめたほうに一言言おうとするかもしれません。それと同時にいじめられて自分で問題を解決できないその子どもに複雑な感情を持つこともあるでしょう。
それと同じように、罪によってもたらされた死という現実と、その現実に打ちのめされて泣くしかない人間の両方に、主は憤っておられたと私は思ったのです。神の心というものはもしかしたら以前はシンプルであったかもしれません。しかし罪を犯して悲しく惨めになった人間と、その背後にいる悪魔の存在を思うと、神の心は動揺しつつ〈あわれみで胸が熱くなっている〉のではないでしょうか。私にはそう思えてなりません。
(神は不条理を超えて)
その後のところを読んでいきましょう。11:38b〈墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」11:41a そこで、彼らは石を取りのけた〉。当時の墓は、くりぬいた洞穴に遺体を寝かせて、石で蓋をしたものでした。なぜ蓋をするのでしょうか。大きな理由のひとつは、死体の腐った臭いを外に漏らさないためです。主は石を取りのけさせて死後四日経っているラザロの臭いをかぎながら祈りました。
11:41b〈イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」11:45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた〉。
私たちの神は、不条理を耐えるだけでなく、乗り越えさせてくださる神です。イスラエル国家にとってパレスチナ人の問題は、その歴史のゆえに解決が不可能と思えるほどの困難な問題に違いありません。おそらく非戦闘員を殺せば殺すだけ、真の解決は先延ばしになります。どちらが強い軍事力を持っているかは火を見るより明らかなのです。
しかし主は生きておられます。少なくとも信じる私たちの心に、またその交わりの只中におられます。死は終りではなく、主は〈よみがえり〉であり〈いのち〉なのです。どうしてそのような救いに私たちが与ったのでしょう。
最後の節にそのヒントが隠されています。11:46〈しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた〉。第3のしるしの後、そして第4と第5のしるしの後、そして盲人の目を開けた第6のしるしの後、主と群衆、宗教指導者、弟子たちなどと議論が生じました。しかし、この第7のしるしのときは、議論はその場で起きませんでした。目撃者の一部はパリサイ人たちのもとへ行って、あったことを伝え、エルサレムのトップである大祭司を交えて主イエスを殺す本格的な相談が始まります。
そうです。イエスが神の子キリストであり〈ひとり子の神〉(1:18)であるということは、最高に蔑まれ、呪われた者として嘲られ、苦しんで死んでいく十字架刑。その贖いに直結していくのです。神ご自身が十字架という不条理を通られて、不条理な世界に棲む不条理な人間である私たちを贖おう(救おう)となさいました。主はいま生きておられます。私たちは不条理に耐えながら、さらに希望を明日に繋げることができるのです。これが救いです。祈りましょう。
「主よ。理屈に合わない不条理な世界です。何よりも私たち人間が不条理です。そんな私たちを救うために、イエス・キリストはもっとも理屈に合わない十字架で死なれました。私たちの救いを感謝します。私たちも不条理に耐えながら、希望の福音を今週も明日の人たちに証しさせてください。信仰と希望と愛を示された主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
説教者 木森隆(千葉ニュータウン・バプテスト教会牧師)説教題「何のために泣くのか~第7のしるしは死者を生かす声~」@千葉ニュータウン・バプテスト教会聖書箇所 ヨハネ福音書11:33~4611:33 イエスは、彼女...