11/08/2026
八月のことば
大切な人を亡くした悲しみは、どれほど時間が過ぎても簡単に癒えるものではありません。昨年八月三日、娘は最愛のわが子を浄土へ送りました。そして一か月ほどたった頃、こんな言葉を綴っています。
「ときおり差しこむ光がある。湯気の立つお茶の香り。窓の外にひらく青空。風に揺れる木の葉の音。ほんのわずかのものが、気づけば私を支えてくれている。」
私はこの文章を読んだとき、胸がいっぱいになりました。悲しみが少し和らいだから見えた景色ではありません。最も苦しく、最も寂しい時間の中で、それでもなお差し込んでくる光があったのです。湯気の立つお茶の温もり、窓いっぱいに広がる青空、風に揺れる木の葉の音。そのどれもが、娘の心にそっと寄り添い、「あなたは一人ではない」と語りかけているようでした。
浄土真宗では、このような出遇いを阿弥陀さまの方便のお働きとして味わいます。阿弥陀さまは、悲しみを消し去る仏さまではありません。しかし、悲しみに押しつぶされそうになる私たちを、そのまま抱きしめ、さまざまな姿となって呼びかけ続けてくださいます。光となり、風となり、香りとなり、何気ない日常の一つひとつを通して、「そのままでよい」「私はいつもあなたとともにいる」と届けてくださるのです。
そして私は、もう一つ大切なことを思わずにはいられません。この小さな光や風に気づかせてくれたのは、仏となった孫のはたらきではなかったかということです。浄土真宗では、浄土に往生した方は仏となって終わるのではなく、阿弥陀さまのお心をいただいて、再び私たちのもとへ還り、仏縁を結び続けてくださると教えられます。孫は、「寂しさを消そう」としているのではなく、「この寂しさと、どう出遇っていくのか」「悲しみの中にも、いのちを支えてくださるおはたらきがあることに気づいてほしい」と、阿弥陀さまとともに私たちへ呼びかけてくれているように思えてなりません。
悲しみは、なくなることはありません。しかし、その悲しみを抱えたままでも、光を美しいと感じ、お茶の香りに心が安らぎ、風の音に耳を澄ますことができる。その一つひとつが、阿弥陀さまの大きなお慈悲であり、仏となった大切な人からの「ここにいるよ」「生きていこう」という静かな呼び声なのではないでしょうか。その呼び声に耳を澄ませながら、一日一日を歩ませていただきたいと思います。