東大和シャローム教会

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※正当な信仰に則ったプロテスタント教会です。
統一教会、モルモン教等の新興宗教とは一切関わりがありません。

14/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主の大能』
◆9月15日(火)
マルコによる福音書8:1~9

1 その頃、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
2 「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。
3 空腹のまま家に帰らせると、途中で動けなくなってしまうだろう。それに、遠くから来ている者もいる。」
4 弟子たちは答えた。「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか。」
5 イエスが、「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と答えた。
6 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
7 また、小さい魚が少しあったので、祝福して、それも配るようにと言われた。
8 人々は食べて満腹になった。余ったパン切れを集めると、七籠になった。
9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。

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マルコ6:30-44 に書かれている「五千人の給食」の記事は、4つの福音書すべてが記している重要な奇跡ですが、8:1-9 の「四千人の給食」の方はマルコの他にはマタイ(15:32-39)だけが記している奇跡です。内容がよく似ているため「四千人」の方は同じ奇跡が重複して記されていると主張する学者もいますが、背景を見るとやはり別の奇跡と見るべきであることがわかります。「五千人」の方は舞台がガリラヤであり、イエスのもとに集まった群衆はほとんどがユダヤ人であったのに対し、「四千人」の方は、前後関係から見ておそらくはデカポリス地方(ガリラヤ湖の南東岸)での出来事で、そこでパンと魚を食べた者の多くは「異邦人(ユダヤ人ではない人々)」であったと考えられます(ちなみに「五千人」の方で残ったパンは「十二籠」で、これはイスラエル十二部族を指すとされるのに対して、「四千人」では「七籠」です。七は聖書では「完全数」と呼ばれ、時に「全世界」を指します。このことから「五千人」の方は「ユダヤ人だけが神の民である」という旧約的(ユダヤ教的)な思想から、「四千人」では「神に従うすべての人々が神の民である」という新約的(キリスト教的)な思想に発展しているとされています。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

13/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主の大能』
◆9月14日(月)
マルコによる福音書6:30~44

30 使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
31 イエスは、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気付き、方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いた。
34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちが御もとに来て言った。「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。
36 人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください。」
37 イエスはお答えになった。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」弟子たちは、「私たちが二百デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか」と言った。
38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
39 イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。
42 人々は皆、食べて満腹した。
43 そして、パン切れと魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになった。
44 パンを食べた人は、五千人であった。

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本日のメッセージは明日のみことばの後になります。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

12/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主の大能』
◆9月13日(日)
マルコによる福音書4:35~41

35 さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36 そこで、彼らは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37 すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。
38 しかし、イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」
41 弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った。

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今日の個所の前(4:1-)で、イエスは集まってきた群衆に「たとえ」を用いて教え、また弟子たちをはじめ一部の者には、たとえを用いて語る理由を説明しています(4:10-12)。今日の個所は、イエスがこれらのことの後に船を出して向こう岸に渡る時の出来事です。ガリラヤ湖は周囲の地形の関係でしばしば暴風が襲うことで知られていました。この時に一行を襲った嵐は、そのガリラヤ湖で漁師として働いていたペトロが「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と叫んだほどですから本当に危険なものであったといえます。しかし起こされたイエスは風を叱りつけ、湖に「静まれ、黙れ」と命じ、湖は凪になりました。この時イエスは弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」と語りました。弟子たちはここで「一体この方はどなたなのだろう」と言い合っており、まだこの方が「メシア(キリスト→救い主)」としてこの世に来てくださった方であることがわかっていなかったという点で、「まだ信仰がなかった」といえます。つまり、この個所から後に続けて書かれている奇跡もまた、イエスの「業による教え」であり、「たとえ」と同じように、多くの人々には真の意味はまだ隠されていたということです(もっとも弟子たちには「ひそかにすべてを説明され」ていた(4:34)のですが、それでも弟子たちにはわかっていなかったのですから…)。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

11/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主のいやし』
◆9月12日(土)
使徒言行録2:22~28

22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、この方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。あなたがた自身がご承知のとおりです。
23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです。
24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
25 ダビデは、イエスについてこう言っています。/『私は絶えず目の前に主を見ていた。/主が私の右におられるので/私は揺らぐことがない。
26 それゆえ、私の心は喜び/私の舌は喜び躍った。/私の肉体もまた希望のうちに安らう。
27 あなたは私の魂を陰府に捨て置かず/あなたの聖なる者を朽ち果てさせない。
28 あなたは、命の道を私に示し/御前にいる私を喜びで満たしてくださる。』

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今日の個所はペンテコステの日に聖霊が降った直後のペトロの説教の一部です。この時はイエス・キリストが復活し、その後昇天してから50 日しかたっていませんから、当然多くの人々はイエスが行った「不思議な業としるし」を覚えていたと思われます。しかしそのイエスを「あなたがたが殺したのだ」とペトロは語りましたが、それは終わりではなく、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられ、死(罪)の支配から解放された」と語りました。この復活こそが究極の「主のいやし」の御業であり、この方を信じ、従う者もまた罪と死から解放され、永遠の命を得るのです。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

10/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主のいやし』
◆9月11日(金)
マタイによる福音書8:5~17

5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近寄り、懇願して、
6 「主よ、私の子が麻痺を起こし、家で倒れてひどく苦しんでいます」と言った。
7 そこでイエスは、「私が行って癒やしてあげよう」と言われた。
8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。
9 私も権威の下にある人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
10 イエスはこれを聞いて驚き、付いて来た人々に言われた。「よく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。
11 言っておくが、東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。
12 しかし、御国の子らは、外の暗闇に放り出され、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13 そして、百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどその時、その子は癒やされた。
14 それから、イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
15 イエスが手に触れられると、熱は引き、しゅうとめは起き上がってイエスに仕えた。
16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で霊どもを追い出し、病人を皆癒やされた。
17 こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現した。/「彼は私たちの弱さを負い/病を担った。」

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今日の個所に登場する百人隊長は、文字通り百人で編成されるローマ軍の隊長(異邦人)です。彼は自分の「子(おそらくは我が子のようにかわいがっていたしもべ)」が麻痺を起こして苦しんでいたため、イエスにいやしを求めました。彼は自分が異邦人であることを気にして「私はあなたを我が家にお迎えできるような者ではありません」と言って「ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子はいやされます」と、イエスには病気をいやす権威があると信仰を告白し、子はいやされました。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

09/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主のいやし』
◆9月10日(木)
ヨハネによる福音書5:1~9

1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3 その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。✝
5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」
8 イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

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今私たちが主として使っている聖書協会共同訳の聖書では、3 節と5 節の間に「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」として巻末(p208)に移されている節があります。それによると「水が動く時(おそらく間欠泉のような現象ではないかといわれます)、真っ先に入る者はどんな病気でも良くなった」と書かれています。しかし今日の個所に登場する人は、自分で池に降りることができず、その結果、長期にわたってこの場所に居続けるしかありませんでした。イエスはこの人に「良くなりたいか」と尋ね、彼をいやしました(この奇跡もまた「安息日論争」を呼ぶことになります)。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

08/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主のいやし』
◆9月9日(水)
マルコによる福音書7:31~37

31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた。
32 人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた。
34 そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。
36 イエスは人々に、このことを誰にも話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

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私の親戚(大叔父=祖母の弟)に生まれつき耳が聞こえない人がいました。私が幼稚園の頃、年に何度か祖母を訪ねて来た時、当時一緒に暮らしていた私をかわいがってくれた人でした。耳が聞こえないということは、人が話す音がわからないため、その音を真似ることができませんから、その結果「舌が回らない」ということになります。大叔父の言葉は不明瞭で、周囲の人たちには何を言っているのか良くわからなかったようですが、幼児の私にはなぜか話していることが何となくわかった記憶があります。今日の個所でイエスにいやされた人もそういう人だと思いますが、この人は耳が開けた時、すぐに音を聞き分けることができ、はっきり話すようになったと書かれています。普通はそういうことはあり得ませんから、まさにこれは奇跡であるといえるでしょう。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

07/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主のいやし』
◆9月8日(火)
マルコによる福音書5:1~15

1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出て来て、イエスに会った。
3 この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。
4 度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。
5 彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
7 「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫んだ。
8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
9 イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えた。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願った。
11 ところで、その辺りの山に豚の大群が飼ってあった。
12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死んだ。
14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
15 そして、イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。

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今日の個所ではイエスが「汚れた霊に取りつかれた人」をいやしました。現代ではこのような人を「心の病の一種」と考える人が多いのですが、イエスが「汚れた霊」と会話をしていることや、汚れた霊が去った後にはこの人が「服を着、正気になって座っていた」ことなどを見ると、やはりこれは単なる「病」とは区別されるべきものであり、イエスはこの人を「治療」したのではなく、汚れた霊をこの人から「追い出した」と考えるべきでしょう。私がこの個所を読んで感じることは、この出来事を見た人々が「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと願い始めた」ということです。彼らにとっては「汚れた霊がこの人に取りついている」状態は、「自分に取りつく心配がない」ということであり、そのままの状態が続く方が良いということであったのかも知れません。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

06/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主のいやし』
◆9月7日(月)
マルコによる福音書3:1~5

1 イエスは会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人を癒やされるかどうか、うかがっていた。
3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4 そして、人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
5 イエスは怒って彼らを見回し、そのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

***********************
今日の個所はイエス・キリストとファリサイ派律法主義者たちとの間で繰り返された「安息日論争」の一つです。イエスはここで安息日に手の不自由な人をいやしましたが、イエスは周囲の人々に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、殺すことか。」と問いました。ここはもちろん「善を行うこと、命を救うことです」と答えるべきなのだと思いますが「彼らは何も答えず黙って」いました。イエスは「怒って彼らを見回し(イエスが「怒る」のは珍しいことです)」、手の不自由な人をいやしましたが、これがファリサイ派律法学者たちがイエスを「殺す」理由になります。当たり前のことを当たり前に語ることができない(沈黙が強制される)社会はやはり何かがおかしいのではないでしょうか。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

05/09/2026

聖書愛読のしおり
テーマ『主のいやし』
◆9月6日(日)
マルコによる福音書1:40~42

40 さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。
41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、
42 たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。

***********************
今日から「主のいやし」というテーマで聖書を読んで行きます。現代でも原因も治療法も不明の「難病」はありますが、ほとんどの病気は原因が解明され、治療法も確立されるようになりました。しかし聖書の時代には多くの病が原因も治療法もわかっていませんでしたから、多くの人々は「病とは、罪を犯した者に対する神の刑罰である」と考えていました。特に今日の個所に登場する「規定の病(ヘブライ語の「ツァーラト」)は、「神の刑罰による病(天刑病)」とされ、他の病気とは区別されていました。この「ツァーラト」が後の聖書翻訳者によって「レプラ(らい病→ハンセン病)」と訳されたために、ハンセン病者が「神の罰を受けた者」ととらえられ、不当な差別を受ける原因の一つとなってしまいました。1941(昭和 16)年にはハンセン病の特効薬である「プロミン」がアメリカで発見され、日本でも戦後にはプロミンの合成に成功したためハンセン病は治る病気になりましたが、ハンセン病者に対する差別は解消されませんでした。現代では「ツァーラト(規定の病)はハンセン病とは別物である」ということが確認されていますが、聖書翻訳がハンセン病者に対する差別の一因となったことは、私たち信仰者は知っておくべきだと思います。レビ記 13 章~ 14 章には「規定の病(ツァーラト)」に関する規定が書かれています。この病にかかった者は、他の病気のように「(病気に)かかった」「治った」とはいわず、「汚れた」「清められた」といわれ、規定の病と診断された者は隔離されて暮らさなくてはならず、やむを得ず人前に出る時には、他の人が近づかないように「汚れている、汚れている」と叫ばなくてはならないなど、忌み嫌われる存在でした。今日の個所ではイエス・キリストはそのように「神の罰を受けた者」「忌み嫌われる存在」であった「規定の病を患っている人に「手を差し伸べてその人に触れ」て」いやしたと書かれています。

主イエス様の祝福をお祈りいたします。

住所

東京都東大和市奈良橋1-321-9
Higashiyamato-shi, Tokyo
207-0031

電話番号

+81425623209

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