飯能バプテスト教会

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【集会案内】

*礼拝* 

日曜日 朝 11:00~11:50
会堂・和室・ZOOMライブ・録画・メール・郵送


*祈り会*

水曜日 朝 10:30~11:30 会堂・ZOOM
夜 20:00~21:00 ZOOMのみ
聖書を読み、一緒に祈ります。


*オープンガーデン*

水曜日 昼 13:00~15:00
教会のお庭でホッと一息、深呼吸、ラジオ体操、お庭のお手入れ等、どうぞご自由にお過ごしください。



※対面礼拝は、手指消毒・マスク着用・空間を開け、換気のため窓を少し開けています。
温かくしてお越しください。
※ZOOMはどうぞ教会へお申し込みください。


【教会スタッフ】
   牧師:足立和子

2026年8月23日 主日礼拝  宣教 村田直美聖書 サムエル記下 6章1-23節宣教 神の箱 今日の聖書箇所、教会学校でも共に学びましたが、ダビデが 「神の箱」をエルサレムへと運び移そうとするその様子が書かれてあります。「神の箱」とは、出...
23/08/2026

2026年8月23日 主日礼拝  宣教 村田直美
聖書 サムエル記下 6章1-23節
宣教 神の箱

 今日の聖書箇所、教会学校でも共に学びましたが、ダビデが 「神の箱」を
エルサレムへと運び移そうとするその様子が書かれてあります。
「神の箱」とは、出エジプトの時代に、神様がモーセに命じられて作られたものです。その箱の中に最初入っていたのは、十戒の書かれた石の板2枚、マナを入れた壺、アロンの杖でしたが、ソロモンの時代には、列王記8:9「箱の中には、石の板2枚のほか何もなかった」 と記されています。十戒の石の板は「神様との契約」を表し、マナの壺は「神様が日々養ってくださること」を表し、アロンの杖は「神様が選び、権威を与えられていること」が表さ
れていました。
 イスラエルの民が 「神の箱」を大切にしていた理由には、神様から与えられた契約がその中に入っていたからでした。つまり「神の箱」とは、神様の契約を納める箱で、単なる聖なる物を納める箱ではありませんでした。
 「神の箱」は20年の歳月の間、キルヤト・エアリムの町に静かに置かれていました。その20年の歳月が過ぎ、ダビデ王の時代となって 「神の箱」がついに、エルサレムへと移されることになりました。本日の聖書箇所に入ってきます。
 エルサレムはダビデが王となったときに新しく都とされた町、ダビデが神様を礼拝する中心の町として選んだ場所でした。神様を礼拝する民の真ん中に置こうと、エルサレムへと移動がされます。
 ダビデは 「神の箱」をエルサレムに迎えることで、この国は王である自分の国ではなく、神様が治める国であることを示そうとしました。ダビデの信仰の深さを思います。ところが、その「神の箱」を運ぶ途中で事件が起こりました。一見、何も悪い
ことをしていないように思えるウザの行為です。この事件をどのように受け止めるのかが問われているのでしょう。

2026年8月16日 主日礼拝聖書 サムエル記上 24章1-23節宣教題 関係性を壊すもの 戦いに勝利し、兵士たち従えて帰還するサウル王を、イスラエルの女たちは喜びの声をあげて迎えます。(18:6,7)彼女たちは、太鼓、絃をもって「サウルは...
20/08/2026

2026年8月16日 主日礼拝
聖書 サムエル記上 24章1-23節
宣教題 関係性を壊すもの

 戦いに勝利し、兵士たち従えて帰還するサウル王を、イスラエルの女たちは喜びの声をあげて迎えます。(18:6,7)彼女たちは、太鼓、絃をもって「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌い交わしたのでした。それは慣用表現として「サウルとダビデが大勢の敵を打ち倒した」と歌っただけでした。
 しかし、その言葉がサウルを激怒させ、ねたみの目でダビデを見るようになった。と、聖書は記します。現代社会に生きる私たちも、サウル王の猜疑心と同じような誘惑にさらされる経験をします。何をやっても成功する人をうらやみ、時として貶めようとする思いや行動にむかいそうになります。そこには人と人を分断しようとする悪霊の働きが見え隠れします。
 サウル王の思いはエスカレートして、多くの兵士を巻き込んでダビデの命を取ろうと画策していきます。その分断をさらにあおるように、様々な告げ口する人々を聖書は描きます。私たちは、そこに繰り返されるペリシテ人との戦争が背景にあることを受け止め、昨今の各地で繰り広げられている戦地で同じように、人を疑い、人を貶めても生き残ろうとする人々がいることを忘れてはいけないのだろうと思うのです。
 洞窟の中で、ダビデは無防備なサウル王に遭遇し、ひそかに上着の端を切り取ります。また、その兵たちには、「主が油を注がれた方」への殺害を押しとどめていきます。このようなダビデの行動をどのように受け止めたら良いのでしょうか?同じような物語が26章にも描かれています。どの物語もサウル王は「わが子ダビデ」と、声をあげて泣き、ダビデの正しさを受け入れ、次のイスラエルの王となることを示していきます。しかし、この二人には真の和解は起きていないことを聖書は記すのです。

2026年8月9日 平和を覚える日 礼拝聖書 ペテロの手紙一 3章8‐12節宣教題 平和を追い求めよ聖書の中には、「平和(シャローム)」という言葉を、いたるところに見つけ出すことができます。それほどまでに私たちは、神の公正と正義をはき違えて...
10/08/2026

2026年8月9日 平和を覚える日 礼拝
聖書 ペテロの手紙一 3章8‐12節
宣教題 平和を追い求めよ

聖書の中には、「平和(シャローム)」という言葉を、いたるところに見つけ出すことができます。それほどまでに私たちは、神の公正と正義をはき違えて、間違った「平和」を追い求め続けていることが背景にあるのだと思われます。「平和」とは、私たちが考える戦争がなくて、人間的に落ち着いて満足している状況ではありません。また誰かや、何かの犠牲の上に築かれる安全と幸福でもありえないのです。もっと動的なもので、神の意志に巻き込まれて、日々新たにされることを指します。
 この時代、人間が立てた制度に服従するしか生きる道がないと考えられた中での手紙です。ですから主人と召使、あるいは妻と夫という圧倒的に立場が違い抵抗することができない中でも、神の御心に適うこととして従って生きることが勧められていきます。それはあきらめるのではなく、神に与えられた希望に生きることが、徹底的に主なる神に委ねた主イエスに従うことになるというのです。
 敵意に満ちた中で、違いを超えて互いを認め合い、尊厳のある人として向かい合うしか平和への道はありません。武器や力を積み上げても一時しのぎの状況を作るだけで、本当の平和には届くことのない道です。それは誰かが実現してくれるものではなく、主イエスの十字架と復活を通して救われた私たち一人ひとりに委ねられたものでもあるのです。
 すべての命が尊ばれることこそが神のみ旨です。だからこそ、著者は共同体が口ずさむ詩編を引用して「主を畏れる」ことこそが、報復の連鎖を断ち切って、主イエスがされたように非暴力の生き方を貫くことができると示します。そして、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるのではなく祝福の祈りを届けていこうと呼びかけていくのです。

2026年8月2日 主日礼拝聖書 サムエル記上17章31-47節宣教題 羊飼いダビデ サムエル記上17章は、少年ダビデが巨人ゴリアトを一騎打ちで倒した有名な箇所です。そこに描かれているダビデは父の羊を飼う少年であり、父の命令で兄たちに食料を...
02/08/2026

2026年8月2日 主日礼拝
聖書 サムエル記上17章31-47節
宣教題 羊飼いダビデ

 サムエル記上17章は、少年ダビデが巨人ゴリアトを一騎打ちで倒した有名な箇所です。そこに描かれているダビデは父の羊を飼う少年であり、父の命令で兄たちに食料を届け、兄たちの安否を確かめるために、陣営へと出かけてきたのでした。
 一人の戦士ゴリアトが、ペリシテ人の陣営から進み出て、お前たちの中から誰か一人を選んで私と戦って、打ち負かすことができたなら、我々はお前たちの奴隷になろうと挑発しています。その背丈は3m近くで、青銅の兜、鱗とじの鎧、青銅の脛あて、そして大きな鉄の穂先を持った槍を背負っていたのでした。
 戦場に到着したダビデは、ゴリアトの挑発する言葉を聞き、多くのイスラエルの兵士たちがその男を見ると逃げ出し、恐れおののいているのを見ます。彼は、その挑発を「生ける神の戦列への挑戦」と位置付けますが、その言葉を思い上がりと野心と捉えた兄や民たちの告発によって、サウル王はダビデを呼び寄せていきます。
 誰もが圧倒的な武具の違いを認識していました。小さなイスラエルの民は製鉄技術もなく、全員が武具を身につけることさえ難しい状況でした。サウル王は巨人ゴリアトに向かうという少年ダビデに自分の武具を貸し与えますが、彼はそれらを脱ぎ捨ててしまいます。 彼は野獣に向かう羊飼いと同じように、杖と、いくつかの投石、そして石投げ紐を手にして向かっていくのでした。
 敵意に満ちた世界の中で、私たちはこの世の平和を望みつつ、一方で軍事力(武具)の度重なる増大に不安を感じているかもしれません。しかし、十字架の恵みを受け、主イエスに従う私たちは、この世の支配と権威の武装を解除し、非暴力で立ち向かうキリストの勝利の列に招かれていることを思うのです。

2026年7月26日 主日礼拝 宣教 神野修聖書 サムエル記上 16章1-13節宣教題 心を見る主 祭司サムエルの時代、イスラエルの民は、目に見える強い王を求めました。エジプトから救い出し、圧迫する総ての王国から救い出した主なる神を退け、人...
01/08/2026

2026年7月26日 主日礼拝 宣教 神野修
聖書 サムエル記上 16章1-13節
宣教題 心を見る主

 祭司サムエルの時代、イスラエルの民は、目に見える強い王を求めました。エジプトから救い出し、圧迫する総ての王国から救い出した主なる神を退け、人間の王を求めたのです。神はイスラエルの民の為に勇者サウルを選びます。王となったサウルは、華々しく戦いに勝利していきますが、神の言葉を軽んじ、自らの判断で動くのでした。神は悔やみました。神はいつも民の願いを聞こうとしますが、振り回され裏切られ、そして憤り悔やみます。それでも主なる神は、あきらめたりすることなく、忍耐強く、このどうしようもない民を、いつも愛し続け、個々の声
を聞いて下さいます。なんという深い愛なのでしょう。
 神は次の王として、エッサイの息子を示されました。サムエルは長男の逞しい若者に目を引かれますが、神は良しとせず、末っ子を除いて兄達は皆、選ばれませんでした。主は言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7) こうして、兄弟のびりっかすである少年ダビデが、次の王として選ばれるのでした。主なる神は、人の心を見ます。外観・うわべ・誰かに見せびらかしたい事や、目に見える成果ではなく、人の心を見ます。外側に捕らわれることなく、すべての人の内なる心に平等に目を注いで下さい
ます。見た目に現れる能力・家柄・容姿・年齢・性自任・貧富・社会的立場・人種等々に関係なくです。その人の、本当の良いところ良くないところ全てを、主はいつも手を広げて受け入れ、認めてくださいます。そうかそうかと言いながら、励まし導いて下さいます。少年ダビデのように、自分の心のすべてに目を注いでくださる主に、安心して導かれ、成長しつつ、歩んで行きたいと心から思います。

2026年7月19日 主日礼拝聖書 サムエル記上 8章1-22節宣教題 王を要求する民 出エジプトの民がカナン地方に定着した後、イスラエル民族は王制を取らず、国家も所有しませんでした。その時期には民全体を包括する政治的・行政的・軍事的なリー...
19/07/2026

2026年7月19日 主日礼拝
聖書 サムエル記上 8章1-22節
宣教題 王を要求する民

 出エジプトの民がカナン地方に定着した後、イスラエル民族は王制を取らず、国家も所有しませんでした。その時期には民全体を包括する政治的・行政的・軍事的なリーダーは無く、その関係を成り立たせているのは、主なる神を王とする信仰だけであったのでした。
 本日の聖書箇所は、イスラエルの長老たちが全員集まってサムエルに、他の国々のように、我々を裁く王を立ててくださいと陳述してきた場面です。サムエルは年取り、その二人の息子は、父とは違い悪の道を歩んでいたのでした。長老たちの要求は、サムエルの目には悪と映ったが、彼は直接に向かい合うのではなく、主に祈るのでした。
 意外にも、主なる神は「民の言うままに、その声に従いなさい」と、サムエルに告げ、「彼らは、私がエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、私を捨てて、他の神々に仕えている。」と、言われるのでした。
主なる神はサムエルを通して「王の権能」を告げます。①王はあなたたちの息子を徴用し、戦車兵、騎兵として王の前を走らせること。②王の為に、息子、娘は労働し、最上の畑は取り上げられること。③あなたたちは王の奴隷になること。それでも、民はサムエルの声に従おうとはしなかったのでした。
私たちは主イエス・キリストを「王の王」として崇め賛美します。この王は、この世に遣わされた間、政治的・行政的・軍事的なリーダーの役目を全く行われることはありませんでした。徹底的に主に従い、主に聞き、人に仕え、神と人、人と人との和解のために尽くされ、殺されていった方でした。そして現代においても、その方を「まことの王」として、今も多くの人々が信じ、従おうとしているのです。

2026年7月12日 主日礼拝聖書 サムエル記上3章1-18節宣教題 僕(しもべ)は聞いております。  本日の聖書箇所は、少年サムエルにむかって主なる神が語りかけてくださる場面です。サムエルは母ハンナの祈りの成就として命が与えられ、乳離れし...
12/07/2026

2026年7月12日 主日礼拝
聖書 サムエル記上3章1-18節
宣教題 僕(しもべ)は聞いております。
 
 本日の聖書箇所は、少年サムエルにむかって主なる神が語りかけてくださる場面です。サムエルは母ハンナの祈りの成就として命が与えられ、乳離れしたのち、祭司エリに委ねられた子どもでした。しかし祭司エリの息子たちは、人々がいけにえを献げようとする間に横取りし、幕屋の入り口に仕える女たちと寝ていることで、大きな罪を犯していました。それによって、神の箱が安置され、神のともしびが消えていないのに、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれになっていたのでした。
主なる神はサムエルを呼びます。少年サムエルは応答して「ここにいます」と言って、祭司エリのもとへ走っていきます。しかし、主の言葉が彼には示されていないために、気づかないままに、何度も祭司エリへ応答していくのでした。ようやく、エリはサムエルを呼んでおられる方が主なる神であることを悟り、サムエルに言葉を授けます。そして「どうぞお話しください。僕は聞いております。」の言葉によって、預言の言葉が届けられ、預言者サムエルが誕生していくのです。
 聖書が語る神は、言葉によって天地を創造され、言葉によって人間をかたち造られた方です。神から離れ、別の神に仕えようとするイスラエルの民にむかって、繰り返し預言者を立て、神に立ち返るように神の言葉を届け続けた方です。預言者サムエルの誕生には、自らが神の言葉を認識し、受け止めるために「聞いております」という自らの応答が必要であったことを思います。現代社会における教会で毎週のように宣教がなされ、聖書が朗読されていきます。しかし、聞く私たちが神の言葉を認識し、受け止めるための準備がされているかどうかが、問われているのです。

2026年7月5日 主日礼拝聖書 ヨハネによる福音書5章24-26節宣教題 今やその時である 松本みどり神学生 仕事をコロナで終え、2022年から教会の役員、ホームグループの奉仕を始めました。2023年11月、ホームグループでの分かち合いの...
05/07/2026

2026年7月5日 主日礼拝
聖書 ヨハネによる福音書5章24-26節
宣教題 今やその時である 松本みどり神学生

 仕事をコロナで終え、2022年から教会の役員、ホームグループの奉仕を始めました。2023年11月、ホームグループでの分かち合いの箇所はヨハネ5:1-9でした。会を終えて一人で振り返りをしていた時、38年間ベテスダの池の傍らにたたずんでいたこの男が、私だということに気づかされました。ちょうど私がバプテスマを受けて38年目の時でした。仕事の多忙を言い訳に、教会の奉仕も活動もほとんど参加していなかった自分と重なり、イエスの「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」は自分に命じられたようでした。役員としての奉仕も始まり、聖書を学ばなければと、神学校への入学を決心しました。
 その後何回か読み返すと、疑問がわいてきました。この男はイエスから癒しを受けたにもかかわらず、ユダヤ人たちにイエスに命じられたと告げ口をして、安息日論争を引き起こし、ユダヤ人たちに殺意を起こさせるきっかけとなります。体の癒しを得たこの男はイエスを主と信じたのか、魂の救いは得たのか、と考え始めました。
 19節以降、イエスはご自身が父である神の権能をこの地上で委ねられていることを教えてくださいます。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死と命へと移っている。」(24節b)すべての創造主であり、命の創造主である神の子イエスは、父である神と等しい方で、被造物である私たちの命をご支配される方です。永遠の命は、神との交わりにいれていただく命です。それはどのような罪人であっても、イエスのことばを聴き、遣わされた神を信じるものであれば、永遠の命を得、神との親しい交わりの中で生かされる者となります。み声を聴いたときが、「今やその時である」と、主は招いてくださっています。

2026年6月28日 神学校週間 礼拝聖書 イザヤ書6章6-8節宣教 ここに私がおります。 毎年、日本バプテスト連盟に加盟する諸教会・伝道所が、伝道者養成に関わる事業として、この6月の最後の主日からの一週間を「神学校週間」として互いに神学校...
28/06/2026

2026年6月28日 神学校週間 礼拝
聖書 イザヤ書6章6-8節
宣教 ここに私がおります。

 毎年、日本バプテスト連盟に加盟する諸教会・伝道所が、伝道者養成に関わる事業として、この6月の最後の主日からの一週間を「神学校週間」として互いに神学校を覚えて献金を献げています。
  バプテスト教会は、その歴史を辿ると教会税によって生活の安定を保証された国教会の牧師と違って、自らの信徒の中から牧師を選任し、自発的な献金をもって支える道を選んできました。その流れを汲んで、教会に牧師を招聘することは権威的な指導者を立てるのではなく、聖霊の導きの中で、キリストを土台とした信頼関係によって、み言葉を取り次ぐ職務を委託する方法を選びとってきたのです。
 召命という言葉はキリスト教会の牧師や主事(教役者)を目指す人だけへの神からの召しであると思い込んでいる人々がいます。しかし、プロテスタント教会(宗教改革後)の教会は、全ての職業に召命という言葉を用いてきました。だからこそ教会は、信徒の中から、み言葉を取り次ぐ賜物に注目し、その働きに喜びと誇りを持つ人を神学校へと推薦していくのです。
 聖書に記された預言者とは、神の言葉を預かり、神の民へ取り次ぐ働きを担う者です。本日の聖書箇所は預言者イザヤの召命が記されています。モーセやエレミヤのように、神の召しに素直に応答できない預言者もいる中で、このイザヤは自らの言葉で「ここに私がおります」と応答していきます。しかし、このイザヤ書は、イザヤのそれまでの葛藤や迷いを描かない代わりに、その殆どが彼の言葉を無視し、目で見ず、耳で聞かず、心で悟ことのない民を描きます。現代社会において創造主なる神からの召しに応答することの難しさを共有し、それでも献身者として歩みだそうとする一人ひとりを支えていきたいものです。

2026年6月21日 沖縄 命どぅ宝の日礼拝聖書 ローマの信徒への手紙 8章6-8節宣教題 命と平和 私たちは、沖縄のことを覚えて毎年「命(ぬち)どぅ宝の日(6月23日)」礼拝を行っています。「命どぅ宝」とは、沖縄の言葉で、「命こそ宝」とい...
21/06/2026

2026年6月21日 沖縄 命どぅ宝の日礼拝
聖書 ローマの信徒への手紙 8章6-8節
宣教題 命と平和

 私たちは、沖縄のことを覚えて毎年「命(ぬち)どぅ宝の日(6月23日)」礼拝を行っています。「命どぅ宝」とは、沖縄の言葉で、「命こそ宝」という意味を持ちます。沖縄には先の戦争で唯一の地上戦によって多くの民間人が殺害されました。その後、米国の支配を経て、全国土0.6%しかない沖縄に、74%の米軍基地が存在し、返還どころかさらに次の基地建設が進んでいます。
 戦争で家族を失った人々が二度と戦争で命が失われないように、辺野古の基地建設予定地前で座り込みをし、普天間基地ゲート前で毎週基地反対のゴスペル集会を開いています。しかし、誰一人命が失われてはならないという思いを踏みにじるように性犯罪は後を絶ちません。基地は戦争の道具であり、今もイラクに向けて沖縄の基地から戦闘機が飛び立っています。
 平和の対極は無関心です。この国の歪みが露呈している沖縄に関心を寄せ、一緒に考えることこそが求められているのではないでしょうか? 為政者たちは、本土の国民が知らないように巧妙に働きかけ、報道が止められています。平和学習を中立ではないと断罪し、その思いや痛みには触れないように誘導していきます。保育園に戦闘機の部品が落下しても自作自演と揶揄し、性犯罪も被害にあった側が避難されるように仕向けてきます。 
 そのような中で、私たちは肉の思いで生きるのか、あるいは傷んだ人々と連帯して霊の思いでいきるのかが問われてきます。女性連合は毎年沖縄で学習ツアーを実施し、知ること、共有すること、そして共に祈ることをアピールとして沖縄の痛みに連帯しています。主イエスの愛と平和に従って生きるとは、誰も犠牲になることなく「命どぅ宝」と喜べる世にむかって共に歩みだすことです。無関心のままではいられないということです。

住所

岩沢241-1
Hanno-shi, Saitama
357-0023

電話番号

+81429748632

アラート

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