飯能バプテスト教会

飯能バプテスト教会 飯能バプテスト教会, 宗教団体, 岩沢241-1, Hanno-shiの連絡先情報、マップ、方向、お問い合わせフォーム、営業時間、サービス、評価、写真、動画、お知らせ。

【集会案内】

*礼拝* 

日曜日 朝 11:00~11:50
会堂・和室・ZOOMライブ・録画・メール・郵送


*祈り会*

水曜日 朝 10:30~11:30 会堂・ZOOM
夜 20:00~21:00 ZOOMのみ
聖書を読み、一緒に祈ります。


*オープンガーデン*

水曜日 昼 13:00~15:00
教会のお庭でホッと一息、深呼吸、ラジオ体操、お庭のお手入れ等、どうぞご自由にお過ごしください。



※対面礼拝は、手指消毒・マスク着用・空間を開け、換気のため窓を少し開けています。
温かくしてお越しください。
※ZOOMはどうぞ教会へお申し込みください。


【教会スタッフ】
   牧師:足立和子

2026年5月31日 主日礼拝  大内徹志聖書 テモテへの手紙一 6章11-16節宣教題 テモテへの励まし テモテは、父親がギリシャ人、母親はユダヤア人でした。そのためにパウロからエフェソの教会のことを委ねられたときに、ユダヤ人にもギリシャ...
31/05/2026

2026年5月31日 主日礼拝  大内徹志
聖書 テモテへの手紙一 6章11-16節
宣教題 テモテへの励まし

 テモテは、父親がギリシャ人、母親はユダヤア人でした。そのためにパウロからエフェソの教会のことを委ねられたときに、ユダヤ人にもギリシャ人にも受け入れられるようにとの配慮からでしょうか、本来必要のない割礼を彼に施しています。エフェソは小アジア(今のトルコ)の西部に位置していて東西の交通の要衝です。ここにはアルテミス神殿が在り、女神アルテミスを信じ、経済的基盤をそこにおいて生活している人々が沢山いました。エフェソの教会の中でもその影響を受けている教会員が少なからず存在していたと思われます                           
 また、ユダヤ人の信徒の中で特に年長者の中には、まだイエス・キリストを受け入れていない信者が沢山いたと思われます。その様な環境の中で、パウルは年若いテモテの信仰を見て「神の人よ」(6: 11)と呼んで、教会の指導者として教会を正しい信仰へ導くように委ねていきます。そして「神は、定められた時にキリストを現わしてくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です」(6:16)。だから、「信仰の戦いを立派に戦い抜き(6:12)」なさいと手紙に書き励ましています。                               この励ましの手紙は、テモテへだけでなく、現代の私たちへ宛てた励ましの手紙でもあります。                                 
 日本では季節ごとに、また行事ごとに異なった目に見える神社仏閣の神々を礼拝する習慣が多く存在している中で、「だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」を信じることの難しさは誰でも経験していることでしょうが、私たちは唯一の救い主、主イエスはいつも私たちと共におられることを信じて、信仰の戦いを立派に戦い抜いていきたいものです。

2026年5月24日 ペンテコステ礼拝聖書 使徒言行録 2章1-8節宣教題 故郷の言葉 聖書は、神が言葉によって混沌の中から天と地を創造されたと告白します(創世記1:3)そして神に形づくられた人間は、言葉を持ってお互いの思いを知ることができ...
24/05/2026

2026年5月24日 ペンテコステ礼拝
聖書 使徒言行録 2章1-8節
宣教題 故郷の言葉

 聖書は、神が言葉によって混沌の中から天と地を創造されたと告白します(創世記1:3)そして神に形づくられた人間は、言葉を持ってお互いの思いを知ることができるようになりました。しかし、人間の高慢を痛み、神は人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が理解できないようにして、全地に散らされていったのでした。
 主イエスの復活に出会った弟子たちは、いまだ確信を持つことなく、それぞれの思いは混沌の中にありました。頼るべきリーダーを失った共同体は簡単には戻れないものです。さらに、エルサレムの街はいまだにイエスの弟子たちを捕まえようとする動きがあり、彼らは身の危険を感じ小さくされていたのでした。彼らの中には主イエスの最後の場面を目撃した女たち、イエスの母、兄弟たちも一緒になって祈りを合わせていたのでした。
 復活の主イエスによって残された言葉は、「父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)でした。彼らは、それがどんなものか、いつ与えられるかは不明のままでエルサレムに戻ってきた人々と共に祈りを合わせていたのでした。
 ペンテコステ(聖霊降臨祭)を教会の誕生日としてお祝いする意味は、聖霊が混沌とした共同体に教会を与えてくださったことです。聖書を辿ると、そこには彼らの証言をどのように表現したらよいかの著者の苦闘を感じます。彼らが感じたものは「風」「音」そして「炎のような舌」でした。この「炎のような舌」こそが、霊によって語る舌、すなわち神の言葉でした。彼らは恐れからの解放を得て、そこに居合わせた人々の故郷(ふるさと)の言葉で福音を語りだしていったのです。さらに与えられた神の言葉を携えて、全地へと散らされていったのでした。

2026年5月17日 召天者記念礼拝聖書 ハバクク書1章2-4、17節宣教題 預言者の嘆き 召天者記念礼拝に考えていきたいことは、それぞれの命の出来事を神様は知っていてくださるということです。私たちにとって、時間が経つとその人との大切な思い...
18/05/2026

2026年5月17日 召天者記念礼拝
聖書 ハバクク書1章2-4、17節
宣教題 預言者の嘆き

 召天者記念礼拝に考えていきたいことは、それぞれの命の出来事を神様は知っていてくださるということです。私たちにとって、時間が経つとその人との大切な思い出が、より鮮やかになってくることもあります。しかし、この礼拝は故人を忍ぶということより、私たちが神様の計画の中で、その人と出合い、共に時間を過ごすことができたことを想起し、神に感謝することにあります。教会はなにより神を礼拝するところです。だからこそ、私たちの関係性を神が与えてくださったことが大事になってくるのです。
 召された人の生涯を思う時、私たちは自らの命(いのち)を考えます。このハバクク書は、捕囚としてバビロンに連れていかれ、エルサレムは崩壊してしまう激動の時代に書かれたものです。著者は、絶えず死を意識しています。しかし、注目すべきことは、どんな状況であっても預言者は嘆きつつも、その終わりがあることを知っているのです。「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか(1:2)」「律法は無力となり正義はいつまでも示されない(1:4)」この預言者は、民に語るのではなく、神に対峙しつつ嘆いているのです。そして確かにその嘆きにむかって主からの答えがあるということです。
 コロナ感染の波が収まったと安心すると、今度は毎日のように暴力や紛争の話題が聞こえてくる状況に取り囲まれています。嘆く人々の叫びが聞こえてきます。その中で、私たちはどんな思いで生きるのかを考えます。「神に従う人は信仰に生きる(2:4)」こそが、ハバククが示した主にあって喜び、救いを喜ぶ者への道でした。教会の歴史の中で歩まれた一人ひとりが、主に信頼し、主に従う道を選ばれたことを共に喜びあいたいのです。

2026年5月10日 主日礼拝聖書 コリントの信徒への手紙二 4章7-15節宣教題 土の器 聖書は、神が私たち人間を土の塵で形づくり、命の息を吹き入れられたもの(創世記2:7)と表現します。また陶工が粘土で器を作るように(エレミヤ18:4)...
10/05/2026

2026年5月10日 主日礼拝
聖書 コリントの信徒への手紙二 4章7-15節
宣教題 土の器

 聖書は、神が私たち人間を土の塵で形づくり、命の息を吹き入れられたもの(創世記2:7)と表現します。また陶工が粘土で器を作るように(エレミヤ18:4)神の意志で壊され、作り直される存在であることを示します。しかし私たちは、自分の判断で決定していくことが多くなってくると、神の御手を忘れて存在より、見栄えの方が大事になってくるように思えます。
 人間としてこの世に遣わされた主イエスは、神の御手にある存在を感謝し、まよいつつも神に信頼して生きる模範を示してくださいました。ですから、主イエスに従って生きることは喜びであり、復活の命に預かる道を歩むことになります。しかし、この国でキリスト者として生きるには、それなりの覚悟も必要なのかもしれません。この手紙が記された時代のコリントの教会はもっと深刻な状況でした。すなわち、ナザレ人イエスを信じて生きることは、どこか命がけであり、死をまとうことであったようです。
 私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません(4:9)
 そんな状況であっても、希望を持って生きていけるのは、福音という素晴らしい宝が土の器である私たちの中に納められているといいます。その器は見栄え重視どころか、欠陥商品のようにひび割れ、水を入れれば漏れ出てしまいそうなものが良いというのです。そこに納められた宝が外からも見えるような器こそが、神の喜ばれる存在であるというのです。
私たちは、自分が不完全で足りない部分を抱えていることを知っています。その不十分さ、不完全さをこよなく愛してくださる主に委ねる生き方こそがキリストの体としての土台になるのでしょう。

2026年5月3日 主日礼拝聖書 コリント信徒への手紙一 6章12-20節宣教題 神の栄光を現わす コリントの教会は、様々な問題を抱えていました。交通の要所として、異民族、異文化が流れ込み、それが教会にも及んでいたのでした。それゆえ教会の指...
03/05/2026

2026年5月3日 主日礼拝
聖書 コリント信徒への手紙一 6章12-20節
宣教題 神の栄光を現わす
 コリントの教会は、様々な問題を抱えていました。交通の要所として、異民族、異文化が流れ込み、それが教会にも及んでいたのでした。それゆえ教会の指導者たちは、使徒パウロにむかって、度々手紙を送って質問をしていたようです。それに応答するように使徒パウロは、この世においてキリスト者としての生き方、考え方を記していったのです。
「わたしには、すべてのことが許されている。」と、「しかし」が重ねられています。この背景には何を食べるのか、食べてはいけないのか、で論争になっていたことが考えられます。さらに性的な秩序についても、何事にも支配されないということと、与えられた体をどのように用いていくのかが、人によって意見が違っていたようです。
 現代社会に生きる教会も、ますます人権意識や多様性を配慮していくことが求められます。しかし、自分の考え方や生き方を他者に押し付けたり、逆にまったく関係性を閉ざそうとしたり、より良い関係性を見つけるのに苦慮することも事実です。人を傷つけたくないし、ましてや傷つけられることからは距離を置きたいと思ってしまいます。
 ところが、使徒パウロは強い口調で記します。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だと知らないのか」ここでもまた神と人との関係性が揺さぶられることで、罪によって人と人との関係性がうまくいかなくなってしまうことを明らかにしていきます。キリストの十字架と復活の出来事を通して、罪に死んだ体は、もはや私たちのものではなく、罪の奴隷から解放された体なのです。使徒パウロは、「代価を払って買い取られた」と表現し、私たちの体は聖霊の宿る神殿なのだから、神の栄光を現わしなさいと勧めるのです。

2026年4月26日 主日礼拝聖書 エフェソの信徒への手紙1章15-23節宣教 キリストの体なる教会 エフェソという町は、使徒言行録(19章)に記されたように巨大なアルテミス神殿があり、使徒パウロ一行に対して暴動事件が起こされた場所です。そ...
26/04/2026

2026年4月26日 主日礼拝
聖書 エフェソの信徒への手紙1章15-23節
宣教 キリストの体なる教会

 エフェソという町は、使徒言行録(19章)に記されたように巨大なアルテミス神殿があり、使徒パウロ一行に対して暴動事件が起こされた場所です。その背景には、使徒パウロの「人の手で造ったものなど神ではない」と言う発言でした。神殿の模型でかなりの利益をあげている人々にとって、それは自分たちの経済的なダメージを危惧するものだったのでした。
 この手紙は、エフェソに建てられた教会が、様々な対立の中で、また内部にも問題を抱えていることを案じながら、どんなことに注意を払い、互いに愛し合い、仕えあって生きる道を示そうとしたものです。まず神が愛を持ってキリストにあって私たちを選んでくださったこと、さらに神の豊かな恵みによって御子において、その血によって贖われ、罪が赦されたことを記していきます。
 使徒パウロは、手紙の中で、「心の目を開いてくださるように」と語ります。それは闇から光へ、サタンの支配から神に立ち帰ることができる目であり、神の招きによって希望を持ち続けることのできるための秘訣とも言えます。神の力がいかに大きく、それがキリストを復活させ、あらゆるものの上に置かれたことの喜びを語るのでした。
 教会(エクレシア)とは、神によって召しだされた集合体という意味を持ちます。この世に教会が与えられた意味として、教会こそキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たし続けてくださる方が満ちている場(1:23)と言います。私たち飯能バプテスト教会は、今年で教会組織29年目を迎えます。礼拝後に行われる定期総会の中で、神の愛が満ち満ちている場としての再確認と、社会における世の光、地の塩であり続ける意識の共有が行われていくように祈ります。

2026年4月19日 主日礼拝聖書 ルカにゆおる福音書 24章36-43節宣教題 平和があるように 二人の弟子は、夜通し歩いてエルサレムに戻って「復活の主イエスだと分かったら、その姿は見えなくなった。」と、語ります。するとシモンにも主イエス...
21/04/2026

2026年4月19日 主日礼拝
聖書 ルカにゆおる福音書 24章36-43節
宣教題 平和があるように
 二人の弟子は、夜通し歩いてエルサレムに戻って「復活の主イエスだと分かったら、その姿は見えなくなった。」と、語ります。するとシモンにも主イエスが現れたと言うのでした。このように話していると主イエスは彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われるのでした。
彼らは、主の晩餐の食卓で、裏切りの犯人捜しをし、さらに誰が一番偉いのかを議論するような弟子たちでした。主イエスは、散りぢりになってしまった共同体にむかって「平和があるように」と、声をかけられたのでした。シャローム(平和)とお互いに挨拶することは日常のことです。しかし、その声を聴き、姿を見た弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思うのでした。 
 主イエスが肉体を持って復活されたことを信じることの難しさを思います。主イエスは、ご自身が肉体を持って復活されたことを理解するように続けます。傷ついた手と足を示し、触ってよく見るように促します。「亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」と言われるのでした。さらに弟子たちが不思議がっていると、彼らの前で、焼いた魚まで食べて見せられたのでした。なんとしても弟子たちに肉体を持って復活したことを理解させようとする熱意を感じられる場面です。
 この場面で一番喜んでいるのは、主イエスなのです。復活の命を得て、ふたたび愛する弟子たちと向かい合うことのできる喜びを何とかして共有しようとされるのです。ご自身で弟子たちに苦しみを受けて殺され、時が満ちたら復活することを予告されていました。しかし、神の出来事として復活が現実のこととして起きたとき、なにより伝えたかったことは「平和があるように」だったのです。

2026年4月12日 主日礼拝聖書 ルカによる福音書 24章13-35節宣教題 エマオ途上にて 墓に出かけていった女たちの話は、「たわ言」としか受け入れられず、弟子たちはそれぞれに散っていきました。弟子の二人はエルサレムから約11kmのエマ...
12/04/2026

2026年4月12日 主日礼拝
聖書 ルカによる福音書 24章13-35節
宣教題 エマオ途上にて

 墓に出かけていった女たちの話は、「たわ言」としか受け入れられず、弟子たちはそれぞれに散っていきました。弟子の二人はエルサレムから約11kmのエマオという村へと歩いていきました。エマオとはヘブライ語で温泉という意味を持ち、疲れ切った体を癒すには最高の場所だったことでしょう。
 主イエスを失った悲しみは消えることなく、二人は一切の出来事を話し合っていました。そこに、一人の人が近づいてきて「やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねます。彼らにとって一大事件であったのに、知らない人がいることが不思議でなりません。その一人クレオパがナザレのイエスについて語りだします。
 この方は人々の前で、行ないにも言葉にも力ある預言者であったと言います。さらに祭司長、議員たちが十字架につけて殺してしまったことを、失望と落胆を持って語るのでした。三日目に女たちが墓に行くと遺体が見当たらないこと、「イエスは生きておられる」という言葉で、困惑していることを言います。
「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことをすべて信じられない者たち」と、その人は嘆くのでした。まさにこの言葉は、私たちこそ聞かなくてはならない言葉です。私たちは長いこと信仰生活をしてきたとしても、心が鈍くなって別のことを信じて生きていることを思います。その人は、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、解き明かされたのでした。
 主イエスに出会ったことで目が開かれた弟子たちは、語られた聖書の解き明かしを、何度も何度も証していったことでしょう。現代社会において、復活の朝を覚えて毎週礼拝が行なわれること、そこで聖書が語られることの深い意味と喜びの源を覚えていたいものです。

2026年4月5日 イースター礼拝聖書 ルカによる福音書 24章1-12節宣教題 復活の朝  主イエスとガリラヤから旅をしてきた女たちは、確かに墓に遺体が納められたことを見届けました。頼りとしてきた共同体は崩壊し、主イエスはあっけなく死んで...
06/04/2026

2026年4月5日 イースター礼拝
聖書 ルカによる福音書 24章1-12節
宣教題 復活の朝
 
 主イエスとガリラヤから旅をしてきた女たちは、確かに墓に遺体が納められたことを見届けました。頼りとしてきた共同体は崩壊し、主イエスはあっけなく死んでしまったのです。女たちにとって、先の見えない闇と不安の中で、長い安息日を過ごしていたことでしょう。今も昔も、人と人との関係性は、この世に生きている間のもので、死によって終わりを迎え断絶していきます。
 女たちは遺体に香料を塗るために墓へと重たい足取りで進みます。入口をふさぐ石が転がしてあったので、彼女たちは墓の中に入りますが、遺体を見つけることができません。誰かが持ち去ったか?何か起きたのか?混乱する女たちに声が届きます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すか。あの方は、ここにはおられない、復活なさったのだ。(24:6)」
 私たちは、自分の常識や判断の中で、神を捜し、自分の納得できる神を求めていきます。しかしその方向からでは、決して神のみ旨や御心を知ることができません。主イエスの言葉を思い出した女たちは、使徒たちに空の墓で聞いた言葉を伝えます。しかし、この話を「たわ言」としか受け止めてもらえなかったと聖書は記します。それでも今も生きて働いておられる復活の主に出会い、主イエスのように他者と生き、神の愛を実行しようとする人々が大勢いるのです。
私たちが毎週日曜日に礼拝するのは、主イエスが復活された朝を想起し、み言葉によって、私たちの関係性も復活の命に続くことを確認しあう為と言ってもよいでしょう。キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたの信仰も無駄です(Ⅰコリント15章14節)歴史を超えて、ナザレ人イエスを信じる人々の希望は、復活なのです。

お花いっぱいのガーデンで、ご一緒に卵をみつけましょう。
31/03/2026

お花いっぱいのガーデンで、ご一緒に卵をみつけましょう。

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岩沢241-1
Hanno-shi, Saitama
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電話番号

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