飯能ルーテル教会

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李師の最後の説教原稿です。お世話になりました。ありがとうございました。2024.2.18.関東地区総会の開会礼拝説教題:へりくだって互いに協力しましょう 福音書:ヨハネによる福音書13:13~15説教者:李正雨師 私は、2011年に初めて日...
16/02/2024

李師の最後の説教原稿です。
お世話になりました。
ありがとうございました。

2024.2.18.関東地区総会の開会礼拝
説教題:へりくだって互いに協力しましょう 
福音書:ヨハネによる福音書13:13~15
説教者:李正雨師

 私は、2011年に初めて日本に来て、2013年に宣教師として再び来日しました。そして、2024年2月を最後にして、帰国することになりました。外国人として日本で暮らすこと。人によって違うと思いますが、個人的には大きな問題はありませんでした。日本ルーテル教団と皆様のお助けがあったからです。教団の招待によって日本に来ることになり、当時の日韓宣教委員会の助けもたくさん受けました。ここにいらっしゃる斎藤先生、江本先生、ヤン先生、宣教委員会の方々の助けで、大宮で約1年半くらいを住みながら、日本語と教会の研修を受けました。そしてその時、大宮教会の方々にたくさん支えられました。私が飯能教会に派遣された後、自発的に大宮教会の礼拝支援に出たのは、宣教的なことだけでなく、私の日本の初期、多くの恩恵を受けたからでした。

 研修が終わってから、私は池上教会に派遣され、2020年には飯能教会に派遣されました。池上教会でも、飯能教会でも、信徒の方々は多くの支援と協力をしてくださいました。引退された北澤先生のアドバイスと祈りも大きな助けになりました。そして、池上では東京分区の教職者たち、飯能では埼玉分区の教職者たちのお助けがありました。この他にも、宣教師のために祈ってくださる多くの方々がおられたので、約11年間の日本での生活に大きな苦しみはありませんでした。でも、大きな苦しみはなかったとしても、何もかも楽だったわけではありませんでした。どこでも自国ほど楽ではないでしょう。さらに私は、韓国の宣教師の最初のケースでした。だから、何が私に必要なのか、何を助けなければならないのか…。 私を送る方も、私を受ける方も、私自身もよく分かりませんでした。

 私は10月に来日しましたので、もうすぐ冬になりました。日本は韓国のようなオンドルではなかったので、室内が寒かったのです。今の私であれば、コタツも、石油ファンヒーターも置いて、乾燥しているから加湿器も置いたでしょう。しかし、当時の私は、よく分からなかったので、エアコン一台で耐えました。そのうち、大変なことが起こりました。真夜中、長男に熱が出始めたのです。病院に行かなければならないのに、どこの病院が開いていたかも分からず、病院に行ってどう話したらいいかも分かりませんでした。それで、泣いている子をなだめ、朝早く病院に行きましたが、お医師さんの話しが全然分かりませんでした。今考えてみると、「熱はありますか、吐いたり、下痢したりしますか、咳はありますか」などの言葉だったと思います。ところが私の日本語が下手だったので、会話がうまくできませんでした。今も、当時の長男がどんな病気だったのかが分かりません。しかしこのことは、私が一生懸命日本語を勉強することになったきっかけになりました。子供が病気なのに、お医師さんと会話すらできない親は、親として失格だと思いました。わざわいを転じて福となったのです。これ以外にもいろいろなことがありました。しかし、神様はそのたびに私が問題を乗り越えることができるように導いてくださいました。難しい状況ではインサイトを与えられ、知らないことを悟らせ、人々を通して助けて与えてくださいました。今考えてみると、すべてが恵みでした。

 私は、今日の説教を準備しながら、なぜ神様は私にこのことを経験させたのかを考えてみました。なぜ私は、言葉も文化も違う所に来ることになったのか。なぜ私は、他の人の助けがなければならないところに来たのか。なぜ私は、最初の韓国宣教師として日本に来ることになったのか。今もこのことについてはよく分かりませんが、このような過程があったので、私はへりくだるということ、宣教には助けが必要になるということなどが分かりました。外国で多数ではなく、少数として生きるためには、自分を低くして、自分のことを顧みるのが必要でした。私は、主張が強く、短気な者でした。しかし、ここで生きながら、自分の主張を押し立てるよりも、他人の意見を聞くことになりました。なぜなら、言葉と文化という壁が確かにあったからです。これによって、他人の考えや意見に耳を傾けることができました。また、少数の者だったので、多数の助けを受けるしかありませんでした。一人の力では解決できないことがたくさんありました。その度に神様の助けを求めましたが、その助けは、信仰の仲間である皆様と教会から来ました。この過程で、私はへりくだることと信仰の協力者に対する感謝を学ぶことができました。

 今日の聖書の言葉は、イエス様が弟子たちの足を洗ってくださった言葉です。この言葉に対するいろいろな解釈がありますが、私は、この言葉はへりくだることと、共同体の協力についての言葉でも解釈することができると思います。当時のイエス様の弟子たちは、イエス様の入城によって浮ついていました。イエス様がエルサレムに入られたとき、大勢の群衆がイエス様を歓迎し、ファリサイ派の人々もイエス様と対立することをあきらめたからです。ヨハネによる福音書12章には、このことについて詳しく書いてあります。このようなイエス様のエルサレムの入城は、セレウコス朝との闘いに勝って帰ったユダ・マカバイを思い出させました。それでイエス様がエルサレムに入って来られると、人々はユダ・マカバイを思い浮かべてイエス様を迎え、弟子たちも自分の先生がそのような人だと思いました。

 このような弟子たちには、どんな話も通じなかったでしょう。どんな預言を話しても、十字架について教えても、理解できなかったでしょう。それでイエス様は弟子たちの足を洗われました。そしてイエス様は、こう言われます。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

 イエス様の言葉は、ただ一つを教えてくれていました。それは、へりくだりなさいということでした。相手の足を洗ってあげるほど、低くなりなさいということでした。そうでなければ、弟子たちはイエス様がなぜエルサレムに来られたのか、なぜ十字架につけなければならなかったのかが分からないからです。そして、弟子たちに互いに足を洗い合わなけれなならないと言われます。これは、へりくだったときに発生する協力についてのことだったと思います。人間は、自分の身分が高いと思ったら、協力しません。協力ではなく、みんなが自分に従うべきだと思います。しかし、低くなるとそう思いません。協力を願い、助けを願うことになります。それでイエス様は、弟子たちの足を洗ってくださり、互いに洗い合いなさいと言われたのだと思います。

 へりくだること。そして協力することは、簡単なことではないと思います。しかし、これができるようになったら、私たちは低い者の立場を理解することができ、イエス様の教えと十字架の意味も分かることになるでしょう。聖書の偉大な人物、モーセ、ダビデ、エリヤも皆、低くなった自分たちの環境と状況の中で、神様の導きを体験したということを忘れてはなりません。自ら低くなり、弟子たちの足を洗ってくださったイエス様に従いましょう。これから私は、韓国でも皆様からいただいた助けを思い出して頑張ります。皆様もここで頑張ってください。日韓の協力を通した日本ルーテル教会の宣教がキリストの恵みによって豊かになりますように。神様の祝福がへりくだった人と共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン

2024.2.14.灰の水曜日説教題:空しい世界を満たされる神の言葉 聖書箇所:コヘレトの言葉1:1~11説教者:李正雨師 今日、灰の水曜日の説教の本文は、コヘレトの言葉です。コヘレトという言葉の意味は、明確ではありません。コヘレトの言葉1...
16/02/2024

2024.2.14.灰の水曜日
説教題:空しい世界を満たされる神の言葉 
聖書箇所:コヘレトの言葉1:1~11
説教者:李正雨師

 今日、灰の水曜日の説教の本文は、コヘレトの言葉です。コヘレトという言葉の意味は、明確ではありません。コヘレトの言葉1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と書いてあるので、コヘレトはソロモンであるかもしれないと思うことがあります。しかし、コヘレトという言葉の語根は、「集める」という言葉なので、コヘレトは、会衆または共同体を意味すると解釈することもあります。それで、私の考えでは、このコヘレトというものは、ソロモンを中心とした当時の知識人、賢者たちの共同体ではないかと思います。ソロモンは、この共同体からアドバイスなどを得ただろうし、そのため、大きな戦争がなくても、ダビデの時代より大きくなったイスラエルをよく治めることができたと思います。ソロモンと知恵者の共同体の考えと見解、これがコヘレトの言葉です。

 このようなコヘレトが教えてくれる最初の言葉は「空しい」ということです。「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」コヘレトは、この世のすべてが空しいと語っています。本当に面白い表現です。まるで虚無主義、ニヒリズムを振りかざしているようです。何かを成し遂げ、大いなる業績を残すと言っても、人生というものは空しい。 これがコヘレトが語っていることです。

 事実上、人間には限界があります。多くのことを成し遂げ、日々進歩していますが、人間には、到底越えられない壁がまだまだ存在しています。地球の外に出た人もごく少数であり、今までも海の深いところには、何があるのかが分かりません。医学的にも同じでしょう。どんな医学でも、人間の体を完全に把握することはできません。だから医師たちは、人間の体を小さな宇宙として見ることもあります。数学的にも、哲学的にも、法学的にも、人間は明確な限界を持っています。そして人間の終わりに存在している死。この死は、私たちのすべてを空しくして、すべてのことを終わらせます。イスラエルの歴史上、最も賢い王であったソロモンも、この世を征服した多くの王たちも、この壁を乗り越えることはできませんでした。だからソロモンは、コヘレトの名前で、すべてのことは空しいと言っているのでしょう。

 続けてコヘレトは、すべてのことは繰り返される、変わりはない、太陽の下、新しいものは何一つないと語っています。このコヘレットの言葉は、一理あります。春、夏、秋、冬は、変わらず繰り返されます。川、海、山も変わりはありません。人間も同じでしょう。偉大な業績を残し、大きな国を建ち、誰も持てない権力を持った人が登場しますが、彼も、いつかは死んで、その国も、権力も永遠ではありません。数多くの国が建てられて滅び、数多くの王が登場して退場します。すべてが自然の摂理の中で繰り返されるだけです。だから、コヘレトは空しいと言っているのです。太陽の下に新しいものはないので、この世のことは変わらず繰り返されるので、すべてのものは死を迎えることになるので、空しいということです。

 私たちが生きている今の世界はいかがでしょうか。コヘレトの時代よりは多くのものが変わりましたが、まだ繰り返される自然の摂理の中で私たちは生きていきます。朝起きて、職場や学校に行き、家に帰り、寝ます。時には、休みを取って、知り合いと出会い、旅行に行くこともあります。恋愛も結婚もして、子どもも出産します。しかし、自然の摂理という大きな枠組みの中から見ると、このようなことを新しい変化とは言えません。個人個人には新しいことですが、過去にもあったことだし、現在にも、未来にも起こることです。そして、この繰り返される自然の摂理の中で、私たちも、いつかは死を迎えることになるでしょう。本当に空しいですね。だからコヘレトは、すべてのことは空しいと語っているのです。

 このような空しい世界で、私たちはどう暮らしたら良いのでしょうか。私たちも、コヘレトの言葉のように、空しく生きるしかないのでしょうか。何が私たちの生活を、意味と価値のあるものにすることができるのでしょうか。この世のすべては、繰り返されるようですが、聖書は、繰り返されないことを私たちに教えてくれます。この世の始まり、神様の創造がそのようなものです。神様は、無からこの世を創造されました。御言葉によってこの世を造り、御言葉によって創造されたこの世は、すべてが新しいものでした。神様の言葉から新しさが出て来たのです。そして、その言葉の中で生きていたアダムは、死というものを知りませんでした。

 神様の言葉は、空しい世の中で生きている私たちに、新しさを与えてくれます。私たちの心と霊を新たにし、私たちを新たに創造します。それで、信仰の人もこの世で生きていますが、この世のことだけではなく、神様のことも求めることができるのです。信仰の人は、霊的なことを求めながら、生きているというのです。また、神様はこのような信仰の人に、大いなる恵み、キリストをお遣わしになりました。それで信仰の人である私たちは、キリストによって、すべてのことを空しく終わらせる死も、乗り越えることができました。神様が私たちのすべてを新しくなさったからです。コヘレトの言葉1章10節は「見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。」と語ります。しかし、コリントの信徒への手紙二5章17節は、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と語ります。私たちは、キリストによって新しく創造されました。ですから私たちは、キリストと共に永遠に生きるのです。

 今日の礼拝の間で、皆様は額に黒い十字架を与えることになります。そして、創世記3章18節の言葉、「塵にすぎないお前は塵に返る」という言葉も聞くことになります。この世のすべてのものは、塵に返ります。ですから、この言葉が私たちに与えられることも、当然のことです。これは、創世記がこの世の者に語っていることです。しかし、私たち信仰の者は、塵に返ることだけで終わりません。神様の言葉によって、キリストによって、新たに創造されたからです。だから、私たちは塵に返ることで終わりません。永遠の神様と共に永遠に生きます。これが神様の約束であり、私たちに与えられた御言葉です。この神様の言葉が空しい世界を満たされますように。皆様の生活が命と創造によって満たされますように、主の御名によって祈ります。アーメン

2024.2.11.主の変容主日説教題:主の変容が教えている福音 福音書:マルコによる福音書9:2~9説教者:李正雨師 神学校に通っていたとき、私のあだ名は「ラグビーボール」でした。ラグビーボールを落としたら、どこに弾むかは分からないでしょ...
14/02/2024

2024.2.11.主の変容主日
説教題:主の変容が教えている福音 
福音書:マルコによる福音書9:2~9
説教者:李正雨師

 神学校に通っていたとき、私のあだ名は「ラグビーボール」でした。ラグビーボールを落としたら、どこに弾むかは分からないでしょう。友達の話によると、私の考えや行動がラグビーボールに似ているから、そのようなあだ名が付けられたそうです。私の考えが少しひねくれているからか、それとも既存のことに従っていないからか、私はいつも他の人とは違う歩みを示しました。だから、私が同僚の中で一番先に日本に来たのではないかと思います。そして聖書も、少し違う視点から見るのが好きです。既存の解釈や説教も好きですが、違う視点の解釈も必要だと思います。このような私の考えと説教が皆様にとって理解しにくいこと、又は受け入れにくいことであったかもしれません。もしそうでしたなら、許してください。しかし、私の考えでは、聖書は時代に合わせて解釈しなければならず、説教も変化しなければならないと思います。私たちは、聖書の時代とは違う2024年に生きているからです。

 今日の福音書の最後の節である9節には、こう書かれています。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。』」今日の福音書は、イエス様の変容についてです。イエス様は、ガリラヤのある山々で栄光の姿に変容されます。そして山を下りるとき、弟子たちに「今見たことをだれにも話してはいけない」と言われます。この「話してはいけない」ということには、一つの条件があります。「人の子が死者の中から復活するまで」という条件です。ところが、今の私たちは、イエス様の死と復活の後の世代、信仰によってイエス様の変容と栄光を信じる世代です。では、誰にも話してはいけないという言葉は、私たちにとって全く違う言葉、反対の言葉になるべきではないでしょうか。誰にも話してはいけないということではなく、皆に話さなければならないこと。それが今日の福音書が私たちに語っていることだと思います。

 今日の福音書によると、イエス様は3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られます。そして、そこでお変わりになります。マルコによる福音書の著者は、この姿を「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった(3節)。」と語ります。この言葉を通して、私たちは興味深いことを一つ知ることができます。イエス様の栄光の姿は、白くて輝いている姿だということです。そして、この言葉を読んだ元の読者たちは、他の一人を思い出しただろうと思います。まさにモーセです。出エジプト記34章30節の言葉です。「アロンとイスラエルの人々がすべてモ―セを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった。」

 モーセがシナイ山で神様と顔を合わせて、十戒を持って下ってきたとき、モーセも輝きました。これは、神の栄光の属性は光であるということを示しています。神様がこの世を創造された時も、光が最初に創造されました。変容されたイエス様も輝いていました。つまり、神の栄光は、光として現れるということです。そしてイエス様が輝いたのは、神様の栄光がイエス様にとどまっていたということでしょう。弟子たちが見たのは、イエス様と自分たちの偉大な預言者、モーセとエリヤだけではありませんでした。神様の栄光を見たのであり、その栄光がイエス様にあるということを見たのです。

 イエス様は、この栄光の中でモーセとエリヤと共に話し合われます。今日の福音書には、彼らとどんな話をされたかが書いてありません。しかし、ルカによる福音書によると、イエス様はモーセとエリヤと共に、ご自分の最期について語られたと書いてあります。イエス様は、栄光の中での自分の最期、私たちのための死を話し合われました。一般的に栄光とは、死によって得られるものではありません。力と権力によって得られるものです。しかしイエス様は、栄光の中でご自分の死と犠牲について語られました。そしてこれをモーセとエリヤと共に話し合われます。なぜこのような栄光にモーセとエリヤが登場したのでしょうか。私の考えでは、モーセとエリヤも、イスラエル人の救いのために自分たちを犠牲にした人々だからです。そして、このような犠牲は、神様の御心であり、これが神様の栄光でした。

 モーセは老年である80歳に、神様から召されました。その後、40年間、イスラエルの民を荒れ野で導き、神様のご意志に従って、約束の土地に入らず、死を迎えました。エリヤも神様のご意志に従って、ヨルダン川に隠れ、カラスに養われたり、3年間、やもめの家に一緒に暮らしたりしました。さらに、アハブ王の妻であるイゼベルに追われたこともありました。そして、イエス様にも、このような犠牲が求められました。いや、彼らの犠牲よりも、大きな犠牲でした。イエス様の死によって、人々を救われるという神様のご意志でした。この神様の御心を示すために、イエス様は栄光のうちに変わったのだと思います。

 イエス様の変容は、このような意味をもっています。単にご自分の栄光を示すためにお変わりになったのではありません。ご自分の犠牲が神様の御心であること、そしてこれが神様の栄光であることを教えるために、イエス様はお変わりになり、モーセとエリアと共に話し合われました。当時、イエス様と共にいた弟子たちは、この意味についてよく分からなかったと思います。それで、ペトロは仮小屋を三つ建てましょうと言ったのでしょう。栄光の意味ではなく、栄光の見かけだけを見たからです。しかし、イエス様の死と復活を経験した後、なぜイエス様が自分たちの前で変容されたかが分かったでしょう。

 そして、イエス様の変容は雲の現れと共に終わります。今日の福音書7節によると、雲が現れて弟子たちを覆ったと語ります。イスラエルの中での雲は、伝統的に神様の臨在を象徴しています。モーセが神様から律法を受けたときも、雲が山を覆いました。ところが、イエス様がご自分の最期について話しておられた時も、雲が山の上にいる弟子たちを覆いました。そして、その雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が聞こえました。このすべてのことが神様の御心とご計画だということでしょう。神様の栄光はイエス様の犠牲にありました。そして、その犠牲によって私たちは救いを得ることができるのです。

 イエス様の変容は、この救いを示すことでした。ですから、すべてのことがイエス様によって変わることになるのです。神様の栄光をお持ちになったイエス様が、私たちのために死なれたからです。今日の福音書8節には、雲が現れた所、神様の言葉が聞こえた所には、イエス様だけが弟子たちと共にいたと書いてあります。私はこれが神様が示された救いについての教えだと思います。イエス様だけが私たちを救ってくださるということ、イエス様だけが私たちの救い主であるということです。イエス様に従う者は皆救われるのです。イエス様を望み、イエス様に従う皆様に救いが臨まれますように。神様の栄光が皆様といつも共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン

2024.2.4.顕現節第5主日説教題:身の回りではなく神の周りへ 福音書:マルコ1:29~39説教者:李正雨師 皆様もご存知だと思いますが、私は、日本ルーテル教団の牧師ではありません。韓国ルーテル教団の牧師として、日本に派遣された宣教師で...
02/02/2024

2024.2.4.顕現節第5主日
説教題:身の回りではなく神の周りへ 
福音書:マルコ1:29~39
説教者:李正雨師

 皆様もご存知だと思いますが、私は、日本ルーテル教団の牧師ではありません。韓国ルーテル教団の牧師として、日本に派遣された宣教師です。このような私が日本ルーテル教会で牧会することができるようになったのは、韓国ルーテル教会と日本ルーテル教会が同じ系列の教会、同じ教団から宣教されたからです。日本と韓国のルーテル教会は、アメリカのミズーリ・シノッドという教団から宣教されました。日本は1948年、韓国は1953年からミズーリ・シノッドの宣教が始まりました。宣教の根が同じ教団だったので、日本と韓国のルーテル教会は、過去にも宣教協力を結び、協力が続けられた中で私が日本に来ることになったのです。

 では、皆様に一つの質問をしたいと思います。なぜミズーリ・シノッド、日本と韓国に宣教をしたのでしょうか。宣教には経済的にも、人件的にも、莫大な費用がかかります。さらに危険が潜むこともあります。しかし、ミズーリ・シノッドだけでなく、いろいろな教団と教会は、日本と韓国、そして東アジアに宣教をしました。なぜ教会はこのようなことを行い、今も行っているのでしょうか。宣教を通して何か得になることがあるのでしょうか。宣教において得と失というものはないと思います。それにもかかわらず宣教をするのは、宣教が神様の御心であり、イエス様がこの世で行われたことだったからです。

 今日の福音書は、イエス様が起こされた奇跡について語っています。そして、同時に宣教の方向性についても示しています。今日の福音書29節からは、熱が出て寝ていたシモン(ペテロ)のしゅうとめを癒されたことが書かれています。私はこの言葉が、宣教にあたった人々とその家族の心配を解消させ、慰める言葉だと思います。会堂から出たイエス様はシモンの家に行かれました。その時、シモンのしゅうとめは熱が出て横になっていたので、人々は彼女のことをイエス様に話します。このことを聞かれたイエス様はシモンのしゅうとめのそばに来られ、手を取って起こされました。その瞬間、熱は去り、彼女はイエス様と一同をもてなしました。

 人々を癒された話は、福音書にたくさん書かれていますが、弟子たちの家族や親戚を癒された話は、この箇所が唯一です。それで、なぜこの言葉が記録されたのかを考えてみました。当時のシモンは、イエス様の弟子になったばかりでした。さらに、シモンは結婚していた人でした。結婚して家庭を築いた者として、自分の仕事を捨ててイエス様に従うということは、誰が見ても不安なことです。シモン自身は、イエス様の弟子になってよかったかもしれませんが、家族の心配はどんどん深まっていったと思います。シモンは、イエス様はメシアだと思ったかもしれませんが、シモンの家族は、そう思わなかったかもしれないからです。イエス様についての確信もなく、将来についての不安もいっぱいだったと思います。その時、イエス様はシモンの家に行かれ、熱によって横になっていたシモンのしゅうとめを癒されました。

 この出来事は宣教にあたった人にも、その家族にもイエス様についての確信と平安を与えることだったと思います。目の前でメシアだけが行うことができる奇跡が起きたからです。また、この出来事を通して、私たちは弟子たちの生活を見守ってくださるイエス様についても知ることができます。イエス様は弟子を招くだけでなく、招きによって起きる様々なことに恵みを与えてくださいます。弟子たちがご自分の道によく従うことができるように、家族みんなが平安を得ることができるように導いてくださいます。この癒しの出来事は、シモンと彼の家族に確信を与えたと思います。誰よりもシモンのしゅうとめはイエス様について確信したでしょう。だから31節には「彼女が一同をもてなした」と書かれています。

 そしてこのことは、大勢の人にイエス様のことを知らせるきっかけになります。32~33節にはこう書いてあります。「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪魔に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。」シモンと彼の家族を通してイエス様が知らされたのです。そして、これはその町に救いを引き起こしました。イエス様が自分のところに来た人々の病気をいやし、悪霊を追い払われたからです。救いは、シモンの家族だけに臨まれたのではありませんでした。シモンの家族を通して、町中に臨むことになったのです。イエス様を知らせるということ、福音を伝えるということは、こういうことだと思います。皆に救いが臨まれること、皆に平安が伝わることです。単に教会の勢力を拡張することではありません。イエス様についての信仰を強要することでもありません。皆に神様の恵みが与えられるように、皆が平安になりますように、福音を伝えるのです。それでイエス様は、弟子たちを招き、弟子たちを通してその町に救いを与えられたのです。自分だけではなく、皆のために宣教するのです。

 これは、今日の福音書35節以下の言葉でもよく現れています。大勢の人々を癒されたイエス様は、朝早くまだ暗いうちに人里離れた所に行かれ、祈られます。弟子たちはイエス様の後を追い、イエス様にこう言います。「みんなが捜しています(37節)。」人々がイエス様を捜した理由については、書いてありませんので、よく分かりません。もしイエス様が彼らのところに行かれたなら、イエス様と弟子たちは、その町でメシアとして認められ、安らかに過ごすことができたでしょう。しかしイエス様は、その町に戻りませんでした。イエス様は弟子たちにこう言われます。38節です。「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」

 宣教と福音は、自分だけのためのものではありません。自分だけの救いのため、平安のために持っているものではありません。皆のためのものなので、他の人にも伝わらなければならないのです。まだイエス様の救いと平安を知らない人々のために知らせなければならないのです。それでイエス様は人里離れた所に行かれて祈られ、他の町に行かれました。他の人々の平安と救いのために、弟子たちと共に他の場所に行かれたのです。そしてこれは、イエス様が祈りを通してお分かりになった神様の御心だったと思います。神様の恵みは、一部の人々だけに与えられるものではありません。皆のためのものであること、それでイエス様の弟子たちは、この恵みを伝えなければならないことを、私たちは忘れてはいけません。

 今日の午後からは、教会の総会があります。教会総会で、私たちは1年を顧みて反省し、新しい計画を立てるのです。私たちの反省と計画の中で、私たちが必ず確かめておくべきのは、教会の行事だけではなく、私たちの隣人と宣教のことだと思います。私たちの活動は、隣人に向かって開いているか。宣教的な教会になるために努力しているか。これが私たちの反省と計画の中心になるようにと願います。皆様を通して、神様の救いと恵みが皆様の家庭と町に臨みますように。飯能ルーテル教会が宣教する教会になりますように、主の御名によって祈ります。アーメン

2024.1.28.顕現節第4主日説教題:権威ある方の救い 福音書:マルコによる福音書1:21~28説教者:李正雨師 幼い頃、うちの近くの公園には、長い雲梯がありました。私も、友達のようにかっこよく雲梯を渡りたかったのですが、腕の力がなかっ...
02/02/2024

2024.1.28.顕現節第4主日
説教題:権威ある方の救い 
福音書:マルコによる福音書1:21~28
説教者:李正雨師

 幼い頃、うちの近くの公園には、長い雲梯がありました。私も、友達のようにかっこよく雲梯を渡りたかったのですが、腕の力がなかったからか、それとも要領が悪いからか、なかなかうまくできませんでした。しかし、何日間か練習すると、どんどん前に進むことができるようになりました。ある日のことです。ある程度、雲梯を渡ったのに、まだ腕に力が残っていることが感じられました。それで雲梯の半分くらいまで渡りました。ところが、雲梯の真ん中で腕の力が抜けました。もう行けないと思いました。そして、落ちようと思って下を見ると、思ったより雲梯の真ん中は高かったのです。皆様もご存知だと思います。雲梯は真ん中が一番高いのです。急に怖くなりました。手を離せばいいのに、怖くて手を離すこともできませんでした。友達は「大丈夫よ、手を離して」言ってくれましたが、落ちるとケガしそうでした。腕の力がどんどん抜け始めると、涙が浮かんできました。「助けて」と叫びましたが、友達も私を助けてくれる力はありませんでした。その時、通りかかっていたあるおじさんが私を抱きしめて降ろしました。幼い子供が雲梯にぶら下がって泣いているから、助けてくれたのです。降ろされてから、私はどんなに安心したか分かりません。今も、その不安で、漠然とした状況と安心した記憶は生々しいです。そして、私はこの記憶によって救いというものが何なのかを少しは分かるようになったと思います。

 私たちキリスト教には、救いという特別なものがあります。一般的にキリスト教の救いとは、死後に起こることを指していると見なされていますが、救いは私たちの日常生活でも起こっています。病気から、困難な状況から、苦しみから、神様は私たちを救ってくださり、平安に導いてくださっているからです。そして究極的に、このような救いは、私たちの死の前で大きな力を発揮します。何の情報もなく、怖く、漠然とした死というものから、私たちを守ってくださいます。聖書は、この救いによってクリスチャンは、神の国に行くことができ、永遠に生きることもできると語っています。これが私たちの信じている救いであり、私たちの日常生活と死の中で起こる救いです。そしてこの救いの源は、イエス様にあります。神様はこの救いの権威をイエス様に与えられ、イエス様はこの権威で私たちに救いを与えてくださいます。1月の最初の主日の福音書であるイエス様の洗礼がこの権威の授与であったなら、今日の福音書は、神様の権威で人間に救いを与えてくださったイエス様についての言葉です。今日の福音書は、イエス様の洗礼の後、初めて行われたイエス様の奇跡についての言葉です。そしてこの奇跡は、イエス様の神的な権威とも関係があります。今日の福音書21-22節の言葉です。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

 イエス様の神的な権威は、奇跡を起こすためだけに使われませんでした。イエス様の教えにも神的な権威があり,この権威は人々にインスピレーションを与えました。それでイエス様の言葉を聞いた人々は驚き、その教えを権威ある教えだと思ったのです。言葉の権威があるということは、ただ話がうまいという意味ではありません。知識を誇ったり、聞く人の耳を楽しませたりするのでもありません。聞く人の心を打つこと、生きている神様の言葉を伝えることです。ヘブライ人への手紙4章12節の言葉です。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」このような神様の言葉であるので、御言葉は人を変化させ、悟らせることができるのです。

 先週の水曜日は、聖書の分かち合いの最後の時間でした。聖書の分かち合いの中、信仰を持つことになったきっかけについて分かち合いましたが、いろいろな証を聞くことができました。そして、その証の共通的なものは「御言葉による変化」でした。自分の状況によって、人によって、教会の行事などによって教会に来たのですが、それがクリスチャンになった決定的なきっかけではありませんでした。ただ教会に足を踏み入れたきっかけでした。彼らがクリスチャンになったのは、御言葉によってでした。神様の御言葉が彼らを変えさせ、信仰を持たせたのです。ですから、今日の福音書でも神様の権威は御言葉、イエス様の教えとして示されたのであり、人々はその権威ある教えに驚くことになったのです。

 そしてその権威は、御言葉と共に奇跡としても現れます。今日の福音書23節は、イエス様がお入りになった会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいたと語ります。彼は、イエス様を見てこう言います。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ(24節)。」汚れた霊はイエス様が誰なのかを知っていました。神様の聖者、神様の権威を持つ者であることが分かりました。そしてイエス様によって、自分たちは滅ぼされるということも分かりました。神様の権威の目的、イエス様が洗礼を受けられた理由は、この世の人々の救いにあるからです。それでイエス様は、汚れた霊に取りつかれた者を救われます。25~26節の言葉です。「イエスが,『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」

 イエス様は汚れた霊に取りつかれた人をそのまま放っておきませんでした。汚れた霊を追い払い、彼を救ってくださいました。これは、イエス様がどんな目的を持ってこの世に来られたか、イエス様の使命が何であるかを確実に示してくれることです。この世の救い、私たちを救うためにこの世に来られたのです。それで、権威ある言葉で私たちを悟らせ、権威ある力で私たちを救われます。私たちの救いは、私たちの力によるものでも、私たちの良い行いによるものでもありません。神様の戒めをよく守っているからでも、教会に出席しているからでもありません。完全なイエス様の権威によるものです。権威あるイエス様の御言葉で、権威あるイエス様の十字架で、私たちは救いを得ることができるようになりました。神様はこの権威をイエス様に与えられ、これは、今日の福音書に書いてあるように「権威ある新しい教え(27節)」でした。

 イエスを信じることだけで救いを得ることができるのか。人間として何か良い行いをしなければならないのではないか。神様の戒めを守らなければならないのではないか。私たちがもっと聖なる人になるべきではないか。このような考え方は悪くはないと思います。しかし、これらの考え方が必ず益になるわけではありません。今日の福音書は、イエス様の言葉と救いに権威があると言います。この権威一つだけで十分です。この権威が神様から来たものだからです。そして、この権威によって、私たちは変えられ、悟られ、救われるのです。カファルナウムの人々を驚かせたイエス様の権威の言葉が皆様を導いてくださいますように。イエス様の救いがこれから永遠に皆様と共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン

2024. 1. 21. 大宮教会(顕現節第3主日)説教題:お召しの喜び 福音書:マルコによる福音書1:14~20説教者:李正雨師 今日の福音書は、イエス様の公的な活動の始まりを語っています。ところが、その時期が少し不思議です。イエス様は「...
24/01/2024

2024. 1. 21. 大宮教会(顕現節第3主日)
説教題:お召しの喜び
福音書:マルコによる福音書1:14~20
説教者:李正雨師

 今日の福音書は、イエス様の公的な活動の始まりを語っています。ところが、その時期が少し不思議です。イエス様は「洗礼者ヨハネが捕らえられた後」にご自分の活動を始められます。おそらく洗礼者ヨハネは、当時の領主であったヘロデ・アンティパスによって捕らえられたと思います。マルコによる福音書6章18節には、洗礼者ヨハネが捕えられた理由について書かれています。「ヨハネが『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。」ヨハネはヘロデの不倫について指摘し、そのことによって牢に捕らわれたのです。そしてイエス様は、その後にご自分の活動を始めました。

 「洗礼者ヨハネが捕らえられた後、」。この一文にすぎない文章には、多くの意味が含まれていると思います。その意味の一つは、正しいことを行っても結果が良くないときもあるということです。洗礼者ヨハネはヘロデの不倫を指摘したことによって捕らえられました。当時の律法によると、兄弟の家を絶やさぬために結婚することの以外には、他の兄弟の婦人と結婚することを禁じていました。ところが、ヘロデは世継ぎがいる兄弟の婦人と結婚し、さらに自分の妻を捨ててしまいました。ヨハネはこれを指摘し、そのことによって捕らえられたのです。洗礼者ヨハネがやったことは、預言者として当然やるべきことでした。律法的にも、道徳的にも、神的な観点からも正しいことでした。しかし、彼は捕えられ、自分がした指摘によって殺されました。

 私たちの人生の中でも正義が迫害を受け、不義が勝つことが頻繁に起こっているようです。このようなことがなぜ起こっているのでしょうか。なぜ神様は、このようなことを見ても沈黙しておられるのでしょうか。たぶん、このような質問に正確に答えてくれる人はいないでしょう。しかし、不義が勢力を得るのは、永遠ではありません。そして神様は、不義の世界の中でも、ご自分の摂理を示しておられます。洗礼者ヨハネが捕えられた後にイエス様の公的な活動が始まったというのが、その根拠です。

 洗礼者ヨハネが捕らえられたことによって正義は負けそうでした。すべてが終わり、不義の力が勝つように見えました。しかし、その後、神様の摂理が示されました。イエス様の本格的な活動が始まったのです。イエス様は、洗礼者ヨハネが叫んだように、悔い改めを伝えられます。そして、その上に驚くべきことをもう一つ言われます。今日の福音書、15節の言葉です。「悔い改めて福音を信じなさい。」 神様の福音、新しいメッセージがイエス様によってこの世に宣べ伝えられたのです。不義が勢力を得た所に神様の福音も現れたのです。これは、この世を捨てておかない、放置しておかないという神様のご意志です。この世を不義から救われるという神様の福音、新しい希望が生じたのです。

 イエス様はヨハネが捕らえられた後、ガリラヤに行き、福音を宣べ伝えられました。そして、そこで弟子たちをお召しになりました。今日の福音書によると、まず、4人の弟子がイエスさまのお召しを受けます。彼らは漁師で、生活が落ち着いた人々でした。彼らは船や魚をとる道具を持っていて、経歴がある人々でした。イエス様はまず、シモン・ペトロとアンデレのところに行かれます。そして、このように言われます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」すると彼らは、信じられないほどの反応を見せます。すぐに網を捨てて、イエス様について行ったのです。自分の安定的な生活、自分のキャリアを捨てて、イエス様の弟子になるのを選んだのです。次にイエス様はヤコブとヨハネをお呼びになります。彼らもすべてを置いてイエス様に従っていきます。彼らが後にしたものは、彼らの仕事だけでなく、彼らの父、家族も含まれていました。

 当時、先生と呼ばれたラビたちは弟子によって選ばれました。普段ラビが弟子を呼ぶのではなく、弟子がラビを訪ね、弟子に入るのでした。ところが、イエス様は逆にご自分の弟子になることを要求なさいました。そして、弟子たちは、その要求に積極的に応じました。このような弟子たちの反応は、当時、この福音書を呼んでいた読者たちを慌てさせたかもしれないと思います。なぜなら、信仰に従ってすべてを捨てた人には、感動を与えるかもしれませんが、そうでない人には大きな悩みを与えるからです。今の私たちも同じだと思います。イエス様のお召しと弟子たちの反応は、私たちに大きな負い目を与えます。根本的な質問を一つしてみましょう。果たして皆様なら、このお召しに従うことができますかという質問です。

 もし誰かが私にそう尋ねるなら、私は「さあ、どうしよう」と答えたでしょう。そして、弟子たちのように、積極的には、イエスに従っていなかったと思います。今の私の状況もあり、家庭のこともあるからです。もちろん状況が自由で、家庭のことがなかったとしても、従うことは容易ではなかったでしょう。何度繰り返して考えてみても、負担になることですよね。でも、逆に、イエス様の弟子になるために準備した人であれば、どうだったと思いますか。弟子になることを望んでメシアを待っていた人であれば、どうだったでしょう。私のようにためらわなかったでしょう。喜びでイエス様について行ったでしょう。

 イエス様が登場する前、洗礼者ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と宣べ伝えました。さらに、当時のほとんどのユダヤ人たちはメシアを待っていました。メシアが登場して、自分たちをローマから、腐敗した政治家から救ってくださる時期が近づいていると思っていたのです。このような時代の状況と洗礼者ヨハネのメッセージは、来られるメシアについての雰囲気を高めました。そして、洗礼者ヨハネがイエス様を「わたしよりも優れた方」と指し示すと、洗礼者ヨハネの宣べ伝えに耳を傾けた人々は、イエス様の歩みに注目し始めました。今日の福音書の4人の弟子たちも、そのような人々でした。それで、イエス様に召された弟子たちはためらわず、イエス様に従ったと思います。まるで畑で隠された宝を見つけた人のように、高価な真珠を見つけた商人のように、彼らはイエス様に従ったのです。そのお召しは、彼らが持っているすべてのものよりも価値があったからでしょう。

 イエス様のお召しは、このような状況の中でのお召しでした。イエス様はむりやりに呼ばれたのでもなく、弟子たちが無理して従ったのでもありませんでした。むしろ弟子として召されたことが栄光であり、すべてが恵みの中で自然に行われました。私もこれと似ている状況を経験したことがあります。私が牧師になったことも、日本に来ることになったことも、すべてが恵みの中で行われたことでした。時には、食事ができないほどの貧しい神学生の時期もありました。しかし当時の私は、それを感じられないほど、満足した生活をしていました。お金だけがなかったのです。幸せであり、元気でした。日本での生活も同じです。このように皆様が私の説教を聞いてくださり、喜んでくださって、苦手な日本語ですが、自信をもって皆様の前で説教をすることができるようになりました。さらに、私のために祈ってくださる方が多いので、無理なく、日本での生活をしています。残念ながら、私は来月韓国に帰ることになりましたが、これも神様の恵みであり、摂理だと思います。神様はすべてのことを準備してくださり、それにふさわしい人を召されました。人間が神様のお召しに応じて、何かをして行くのではなく、神様があらかじめ準備なさったことに応じることだけです。神様がすべてをなさったのです。だから、皆が喜んで主のお召しに応じることができるのです。

 今、私たちの姿をご覧ください。私たちの中で強制的に引っ張られて礼拝をささげる人は、一人もいません。日曜日なので、いくらでも休むことができ、いくらでも遊びに行くことができます。しかし今、私たちは教会にいます。教会に来るのが休むよりも、遊びに行くよりも良いからでしょう。私は、これが神様が私たち信仰の者を導かれる方法だと思います。そして神様は、この世もこれと同じように導かれると思います。不義が勢力を得、正義が消え去ったように見える世の中ですが、神様は、そのような世の中でも、ご自分の御心を示して導かれます。神様のお召しに応じる人々を通して、この世を変えてくださいます。だから、安心してください。明日のことまで思い悩まないでください。明日のことは明日自らが思い悩むでしょう。この世を創造された神様が私たちのことを導いてくださいます。このお召しの喜びが皆様にありますように。神様の恵みが日本の教会と共にありますように祈ります。アーメン

2024.1.14.顕現後第2主日(池上ルーテル教会)説教題:神の家(ベテル)であるイエス 福音書:ヨハネ1:43~51説教者:李正雨師 御無沙汰しております。私が2021年3月まで池上教会で働いたので、今日の礼拝は、ほぼ3年ぶりの礼拝にな...
19/01/2024

2024.1.14.顕現後第2主日(池上ルーテル教会)
説教題:神の家(ベテル)であるイエス 
福音書:ヨハネ1:43~51
説教者:李正雨師

 御無沙汰しております。私が2021年3月まで池上教会で働いたので、今日の礼拝は、ほぼ3年ぶりの礼拝になります。池上教会は、私が日本で初めて就任した教会なので、いろいろな思い出がある教会です。今、思い出してみると、働きもたくさんして、間違いもたくさんしました。毎年、教会コンサートを開き、ハングル教室、イースター・クリスマスの行事、牧師館パーティーもありました。毎週の礼拝が終わってからは、皆様との食事も聖書の分かち合いもありました。個人的にも多くのことがありました。ここで次男と三男が生まれ、長男は幼稚園を卒業しました。公的にも、私的にも、様々な思い出があるところが、ここ池上教会です。このように韓国に帰る前に、再び池上教会に戻って礼拝をささげることになり、神様に感謝、皆様にも感謝いたします。

 私は、3月からは韓国で牧会をすることになりました。そして私は、このすべてのことが神様の計画だと思います。日本に来たのも、神様の計画であり、帰ることになるのも、神様の計画だと思います。この過程の中で多くのことがありましたが、すべてのことは神様が導かれたと思います。この世の歴史も同じだと思います。人間がこの世の歴史のように見えますが、結局は、神様の摂理に帰結します。時には、偉大な王や指導者が出て、偉大な国が立てられることもあります。帝国が形成され、強大な富と権力が生まれることもあります。しかし、これらすべては、永遠のものではありません。偉大な人も消え去り、偉大な国も消え去ります。豊かな者がつぶれることもあり、権力ある者が追い出されることもあります。それで、旧約聖書のコヘレトの言葉の書き出しには「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と書いてあると思います。この世のすべてのものには、必ず終わりがあり、終わりがあるから空しくなるのです。永遠ではないからでしょう。しかし、神様のものは、世のものとは違います。イザヤ書40章8節には、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と書いてあります。ですから、私たちにとって、神様の御心に従って生きること、永遠の神様の言葉と計画を認めることほど、賢いことはないと思います。この世のものは終わりがありますが、神様のものは終わりがありません。これを忘れない皆様になりますように願います。

 今日の福音書も、この神様の計画を表しています。今日の福音書には、イエス様がご自分の弟子たちを招くことと、メシアとしてなさることについて書いてあります。今日の福音書で招かれる弟子たちの名前は、フィリポとナタナエルです。なぜイエス様が彼らをご自分の弟子として招かれたかは分かりません。これも神様のご計画だったでしょう。ところが、招かれたフィリポとナタナエルは、まったく違う反応を示します。フィリポは、イエス様をメシアだと思いますが、ナタナエルはそうではありませんでした。45~46節の言葉です。「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モ―セが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」

 フィリポは、イエス様がモーセの律法と預言者たちが記録した方だと言います。しかし、ナタナエルはこれを信じていません。なぜなら、フィリポが言った「ナザレの人」という言葉がナタナエルの心に引っかかったからです。律法と聖書について研究したり興味を持った人々は、メシアがどこから来るのかを知っていました。旧約聖書ミカ5章によると、メシアはベツレヘムから出ると預言されているからです。ところが、フィリポはイエス様をナザレの人と紹介します。これは律法と聖書をよく知っていたナタナエルの心に引っかかり、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と反論します。ヨハネによる福音書7章52節にも、こう書いてあります。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」このように当時の人々は、ナザレだけでなく、ナザレを含むガリラヤでは、預言者も出ることができないと思いました。それでフィリポは、ナタナエルに「来て、見なさい」と言います。直接イエス様に出会ったら、ナタナエルの考えが変わるだろうと思ったからでしょう。

 ナタナエルは、フィリポの言葉を確認するためにイエス様のところに行きます。ところが、ナタナエルがイエス様のところに近づくと、先にイエス様がナタナエルについて話します。ナタナエルを真のイスラエル人だと言われ、この人は偽りがないとも言われます。真のイスラエル人というのは、神様の言葉に従い、神様の約束を待ち望んでいる人という意味です。イスラエル人にとって最も重要なことは、神様の言葉を信頼することでした。しかし、当時の多くのユダヤ人たちは、神様の言葉よりこの世の風潮に従いました。宗教的な儀式は行われましたが、心は神様から離れていました。偽善で自分を飾り、見た目を大切に思いました。このような時代でしたが、ナタナエルは違いました。48節でイエス様は、ナタナエルにこう言われます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た。」

 ナタナエルがイチジクの木の下で何をしていたかは、書かれていないので、私たちは分かりません。しかし、当時の律法の教師やラビたちは、イチジクの木の下で律法を教えたり、黙想したりしたそうです。つまり、「イチジクの木の下にいるのを見た」というイエス様の言葉は、ナタナエルが律法を黙想することを見たということかもしれません。ナタナエルが多くの律法の中で何を黙想したかは、よく分かりません。しかし、49節の言葉である「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」というナタナエルの答えを考えてみると、おそらくナタナエルは、メシアについての言葉を黙想していたのではないでしょうか。約束されたメシアと洗礼者ヨハネがメシアだと称したイエス様について考えていたかもしれません。イエス様は、これをナタナエルに言われ、この言葉によって彼は自分の前にいる方がメシアであることを確信することになったと思います。イエス様は、ご自分のことをメシアだと告白するナタナエルに「もっと偉大なことをあなたは見ることになる(50節)」と言われます。そして、51節の言葉を言われます。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 このイエス様の言葉には、大きな意味があります。この言葉がイスラエルの始まりと関連しているからです。イエス様が言われたのは、イスラエルの先祖ヤコブについての言葉です。皆様も、ヤコブがエサウを欺いて祝福を受けたことをご存知だと思います。ヤコブに祝福を奪われたエサウは、ヤコブを殺そうとします。それでヤコブは、ハランという場所に逃げます。逃げていた途中、日が沈み、ヤコブはそこで一夜を過ごします。そしてヤコブは、夢を見るようになりますが、その夢で見たのが天使が昇り降りすることでした。その夢でヤコブは、自分と自分の子孫への神様の約束を聞くことになります。ヤコブがいる土地をヤコブに与えてくださるだけでなく,ヤコブの子孫が大地の砂粒のように多くなって広がっていくということです。眠りから覚めたヤコブは、自分が眠っていた所に記念碑を立ち、先端に油を注ぎます。そしてそこをベテル、神の家と呼びます。これは、ヤコブと神様の最初の出会いであり、この出会いによって、ヤコブはアブラハムとイサクを受け継ぐユダヤ人の祖先になります。後にヤコブは、再びベテルに戻ることになりますが、戻ってきたベテルで、神様はヤコブの名を変えてくださいます。変えてくださったその名は、私たちもよく知っている名です。まさに「イスラエル」という名です。つまり、ヤコブからイスラエルが始まるということでした。

 ところが、イエス様はこの言葉をご自分が真のイスラエル人だと称されたナタナエルの前でなさいます。なぜイエス様は、ナタナエルにイスラエルの始まりを言われたのでしょうか。なぜイスラエルの始まりのしるしを見ることになると言われたのでしょうか。これは、過去のイスラエルがヤコブから始まったように、新しいイスラエルは、ご自分から始まるということを示されるのです。そして、その始まり、新しいイスラエルの始まりには、ナタナエルのような真のイスラエル人が参加することになるというのです。新しいイスラエルの始まり。民族や血統ではなく、信仰による真のイスラエル。イエス様は、これをご自分の弟子たちに教えておられるのです。ですから、イエス様に従う人は、誰でも真のイスラエル人、神様の民になることができます。イエス様がすなわち神様の家であるからです。

 新しい神様の民、イエス様の共同体は、このように始まりました。それで、民族と血統が違う私と皆様が共に信仰生活をすることができ、私が皆様の牧師になることもできたのです。このすべてのことは、神様の計画であり、摂理でした。私はこれを信じて、この信仰の告白を持って韓国に帰ります。今後、私が皆様と再び出会うことになるか、どうかはよく分かりません。しかし私は、皆様のことが思い浮かぶときは、皆様のために、日本の教会のために祈ります。皆様も私のことが思い出されるときは、私と韓国の教会のために祈ってください。この祈りが私たちを霊的につないでくれると思います。神様の民である皆様に永遠の命がありますように。神の家であるイエス様の救いが皆様と皆様の家庭に臨みますように、主の御名によって祈ります。アーメン

2024.1.7.主の洗礼主日礼拝説教題:何のための洗礼ですか 福音書:マルコ1:4~11説教者:李正雨師 今日は2024年の最初の主日です。日本では、新年になると年賀状を送る風習がありますよね。韓国では、新年になるとお祝いの言葉を交わす風...
09/01/2024

2024.1.7.主の洗礼主日礼拝
説教題:何のための洗礼ですか 
福音書:マルコ1:4~11
説教者:李正雨師

 今日は2024年の最初の主日です。日本では、新年になると年賀状を送る風習がありますよね。韓国では、新年になるとお祝いの言葉を交わす風習があります。残念ながら、私は皆様に年賀状を送ることができなかったので、韓国の風習にしたがってお祝いの言葉を伝えるため、聖書のあちこちを探してみました。そして年明けにふさわしい聖書の言葉を見つけました。コリントの信徒への手紙二5章17節の言葉です。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」誰でもイエス様と結ばれている人は、新しく創造された人です。ですから、クリスチャンは過去のこと、肉のことに縛られて生きていません。信仰によって新しい者になったからです。イエス様が与えてくださる新しい気持ち、新しい信仰で新年を迎えられる皆様になりますように願います。

 今日の福音書は、洗礼についての言葉です。そして私は、この洗礼の言葉と新年には、共通点があると思います。まさに「始まり」ということです。新年が新しい年の始まりであれば、洗礼というものは信仰生活の始まりです。もちろん違うところもありますよね。新年は毎年私たちを訪れていますが、洗礼は毎年受けていないということです。その代わりに、私たちは毎週聖餐式を行っています。聖餐式を通して私たちが受けた洗礼を覚え、罪の赦しと救いの約束を黙想することができます。ですから、聖餐式のとき、皆様が受けられた洗礼と当時の心得を必ず覚えてください。聖餐式を通して、洗礼の喜びと新しさを享受することができるようになるでしょう。

 今日の福音書は、洗礼者ヨハネの洗礼から始まります。4節によると、洗礼者ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えているということがわかります。そして5節には、多くのユダヤ人とエルサレムの人々が罪を告白し、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと書いてあります。ところが、この洗礼というものは、ユダヤ人にとっては馴染みのないものでした。当時の洗礼というものは、ユダヤ人を対象としたものではありませんでした。他の宗教を持っている人々、異邦人などがユダヤ教に改宗するために受けたものが洗礼でした。そのため、生まれながらユダヤ教徒であった彼らは、洗礼を受ける必要はありませんでした。その代わりに、彼らは清めの儀式というものを行いました。清めの儀式は、宗教的または信仰的な清めを維持するためのものでした。しかし、洗礼者ヨハネの洗礼は、ユダヤ人に向けられたものでした。ここには確かな意味があったと思います。そして、その意味を洗礼者ヨハネと一部の受洗者は、違う意味で受け入れていたと思います。

 当時のユダヤ人たちは、洗礼者ヨハネの洗礼を特別な清めの儀式くらいに理解していた可能性が高いです。清めの儀式は、汚れるものから清めるために行うものです。ですから、自分たちの罪などから清めるために、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのだと思います。しかし、洗礼者ヨハネは、自分が行っていることを洗礼と言っており、自分はメシアの道を準備する人だとも言っています。この観点から見ると、洗礼者ヨハネは、既存のユダヤ教を他の宗教と同じく見ているようです。他の宗教からユダヤ教に改宗するためには、洗礼が必要であるように、メシアを受け入れるためには、または正しいユダヤ人になるためには、洗礼が必要だと考えるのです。それほど、清めの儀式ではなく洗礼が必要なほど、当時のユダヤ教は、腐敗して変質した宗教でした。それで、洗礼者ヨハネは、ユダヤ人に向けて悔い改めの洗礼を受けることを宣べ伝えたと思います。そして、あるユダヤ人は、この意味に同意して洗礼を受け,あるユダヤ人は、この洗礼を特別な清めの儀式として理解し、受けたでしょう。

 また、今日の福音書8節で洗礼者ヨハネは、自分は水で洗礼を授けるが、メシアは聖霊で洗礼を授けると言います。マタイによる福音書では,メシアが聖霊と火で洗礼を授けると記録しています。ユダヤ人の文化では、火はきれいにする、清めることを意味します。水の洗礼と聖霊、火の洗礼。多くの人は、この2つの洗礼の違いについて疑問を抱いていると思います。ここにはいくつかの解釈がありますが、私はこれを悔い改めと浄化の違いだと思います。洗礼者ヨハネの洗礼の目的は、悔い改めのためでした。メシアを受け入れるために、人々は悔い改めなければなりませんでした。そして悔い改めた人々に、メシアは霊的な清めと神の霊を与えてくださるのです。彼らが正しい神の民として生きることができるように、彼らが神の国に入ることができるようにするためです。それで、洗礼者ヨハネは、メシアがお授けになる聖霊の洗礼について話したのです。そして当時とは違って、イエス様の御名によって洗礼を受けた私たちには、聖霊が与えられました。今、聖霊は皆様と共におられ、皆様は聖霊の導きに導かれているのです。聖霊の洗礼だとしても、特別なものが与えられるわけではありません。御言葉通りに生きるために努力すること、天国に望みを置くために努力すること。このようなことが聖霊が皆様を導いておられるという証拠です。皆様と共におられる聖霊は、皆様をイエス様の言葉の前に導きます。この世で信徒として生きるようにしてくださいます。そしてこれらすべてのことを通して、皆様を天の国に導かれるでしょう。

 今日の福音書9~11節では、イエス様の洗礼について書かれています。ところが、この洗礼は、先に申し上げた洗礼とは全く違う感じを持っています。悔い改めの洗礼や浄化のための洗礼とは違います。そして、イエス様の洗礼で起こったことは、イエス様の洗礼が一般的な洗礼とは違うということを示していると思います。イエス様の洗礼で示されたことは、いろいろな意味を持っていると思います。特に天が裂けたということは、大きな意味があります。イエス様が洗礼を受けられて水から上がって来るとき、最初に起こったしるしは、天が裂けたことでした。「裂ける」とは、ギリシャ語で「スキゾ(schizo)」という言葉です。そしてこの言葉は、キリスト教の信仰の重要な瞬間にもう一度使われます。マルコによる福音書15章37-38節です。「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

 イエス様が洗礼を受けられたときには、天が裂けました。そして息を引き取られたときには、神殿の垂れ幕が裂けました。これは何を表していると思いますか。私はこれが神と私たちの間を隔てる幕が裂けたのだと思います。人は、神様から創造されましたが、罪によって神との関係が隔てられるようになりました。この問題を解決するために、律法といけにえが人々に与えられましたが、むしろこれらがもう一つの幕になってしまいました。ところが、イエス様の洗礼と死を通して、その幕が裂けました。神と人間の間を隔てているすべての幕がイエス様によって裂かれたのです。だから私たちは、イエス様を通して救われることになったのです。そしてイエス様に霊が鳩のように臨み、天から神様の声が聞こえました。これは、イエス様の洗礼がご自分のためのものではなく、他人のためのものであること、人々の救いのためのものであることを示していると思います。

 それで、私はイエス様の御名によって洗礼を受けるというのは、自分のためのものだけではないと思います。この世の人々のために天と神殿の垂れ幕を裂いたイエス様のように生きるということでしょう。つまり隣人と神をつなぐ人として生きるのです。イエス様のように隣人を愛する人として生きるのです。隣人のために自分を犠牲にする人として生きるのです。これが洗礼を受けた人々の姿勢だと思います。そして、このような人々を通してこの世の幕は、一つずつ裂かれるでしょう。神様と人の間の幕が裂かれ、人と人の間の幕が裂かれるのです。洗礼を受けた人々によって、この世は変わることになるのです。これが2024年度の最初の主日、私たちに与えられた神様の言葉です。この言葉が今年一年、私たちを導いてくださるように。自分の洗礼を覚えて、聖餐を行っている私たちを通して、イエス様の愛と犠牲が隣人に伝えられますように。年明けから起こった災害によって、被害を受け、家族を失った方々に神様の慰めがありますように、主の名によって祈ります。アーメン

2023.12.31.降誕節第1主日礼拝説教題:世間の心を開く光 福音書:ルカ2:22~40説教者:李正雨師 ほとんどの本の冒頭には、著者が語りたい言葉が書いてあります。それで、本の冒頭をよく読めば、本の意図をある程度は把握することができま...
03/01/2024

2023.12.31.降誕節第1主日礼拝
説教題:世間の心を開く光 
福音書:ルカ2:22~40
説教者:李正雨師

 ほとんどの本の冒頭には、著者が語りたい言葉が書いてあります。それで、本の冒頭をよく読めば、本の意図をある程度は把握することができます。ルカによる福音書も同じだと思います。ルカによる福音書1章と2章では、著者の意図が明らかに示されています。先週の説教で、私はルカによる福音書1章の「マリアの賛美」を取り上げました。そして皆様に、この賛美を通して、ルカによる福音書のメシアが誰のために来られたメシアかについて申し上げました。ルカによる福音書のメシアは、私たちのような平凡な人々のために来られたメシアです。いや、もしかすると、私たちよりも貧しい人、弱い人、身分の低い人のために来られたメシアを語っているのかもしれません。ですから、マリアは「権威ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人をよい物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます(52~53節)」と賛美していると思います。

 このようなの考え方は、ルカによる福音書の全般にわたって現れています。先週、福音書に登場した羊飼いたちも身分が低く、人々に無視される人たちでした。しかし彼らは、天使からイエス様の降誕告知を聞き、彼らによってメシアの誕生が知らされました。羊飼いがメシアの使者になったのです。そして、今日の福音書も同じ観点を持っています。今日の福音書に登場している人々も、非常に平凡な人々です。しかし、彼らに啓示が与えられ、彼らの口を通してメシアの降誕が人々に知らされます。有名な人、力のある人ではなく、私たちの周りでいつも会っている人、もしかしてかわいそうと思われる人々がメシアの臨在を知らせているのです。今日の福音書は、このことがイエス様の清めの期間に起こったと語っています。22節の言葉です。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。」

 レビ記12章によると、女性のユダヤ人たちは、出産をした後、40日が過ぎると、エルサレムの神殿に来て自分の清めのために、いけにえを捧げなればなりませんでした。また、律法に「初めて生まれた男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるので、ヨセフとマリアは清めの期間に、幼子イエスを神様にささげるためにエルサレムに行ったのです。一般的に男の子は、生まれてから8日目に割礼を受け、40日後に清めの儀式を行い、女の子は80日後に清めの儀式を行ったそうです。そしてこの清めの儀式では、通常、子羊一匹と鳩一羽が捧げ物として使われました。しかし、暮らし向きが良くない場合は、山鳩一つがいか、家鳩のひな二羽をいけにえとして捧げます。今日の福音書の24節には、イエスさまの両親は、「山鳩一つがいか、家鳩のひな二羽をいけにえとしてささげるためであった」 と書いてあります。つまりイエスさまの家の都合も良い方ではなかったということでしょう。そしてイエス様の両親は、清めの儀式を行うために行ったエルサレム神殿でシメオンという人と出会います。25〜26節です。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」

 聖書は、シメオンについて正しい人で、信仰があつく、聖霊が彼にとどまっている人だと記しています。私は、これが神様が人を判断する基準だと思います。その人が力があるのか、高い地位を持っているのかではなく、正しい人なのか、信仰があついのかが神様の判断の基準なのです。それで、ルカによる福音書はこういう基準に合う人、シメオンを登場させます。世の基準には合わない人かもしれませんが、神様の基準には十分な人だからです。

 イエス様の両親は、エルサレム神殿でシメオンと出会います。出会った場所が神殿だったので、一部の人々は、このシメオンを祭司長だと思っています。さらに、シメオンがイエス様を腕に抱いて神をたたえたので、シメオンは祭司長だと思っているかもしれません。しかし、シメオンとイエスさまの両親が出会ったところは、神殿の境内であり、この場所は誰でも入ることができるところでした。又は、シメオンについての紹介でも、祭司長という言葉は付いていません。すなわち、シメオンは祭司長だということより、神殿の境内に入ってきたお年寄りの普通の人だった可能性が高いです。でも、聖霊は、この平凡なおじいさんと共におられ、多くの人々の中でメシアを認識することができるようにさせました。それで彼は、このメシアを抱いて賛美することができました。この賛美が私たちの教会の式文にある「ヌンク・ディミティス、シメオンの歌」です。歌詞だけを私が読んでみます。「今わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみことばのとおり、しもべをやすらかに去らせてくださいます。このすくいはもろもろの民のために、お備えになられたもの、異邦人のこころをひらく光、み民イスラエルの栄光です。」

 シメオンはイエス様の誕生が「異邦人のこころをひらく光、み民イスラエルの栄光」と賛美します。イエス様の誕生によって、この世の人々には、光が照らされ始めます。この光によって、人々は神様の言葉と義について分かるようになります。何が正しいか、何が神の御心なかが分かるようになるということです。しかし、皆がこの光を喜んで受け入れるわけではありません。むしろ人々は、この光を気まずく思うこともあるでしょう。自分たちの望む光、この世の基準ではないからです。34節でシメオンは、イエス様がどのような人物になるかを預言します。イエス様は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりして、反対を受けるしるしになるのです。マリアもこのことによって心に大きな傷を受けるのです。なぜなら、このことによって、多くの人々の心にある思いが現れ、イエス様は排斥されることになるからです。有名になることを願い、偉くなることを願い、支配することを願っている人間の欲望がイエス様によって現れることになるのです。だから、この世の基準を求め、肉の平安を求める者は、イエス様を受け入れないでしょう。36節以下のアンナの登場もこれと関係があります。今日の福音書36〜37節です。「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、」

 アンナについての説明の中で、目立つことがあります。それはアンナがアシェル族の人であること、女預言者であること、やもめであることです。ソロモン王以降、イスラエルは二つの国に分かれます。北イスラエルと南ユダに分かれた彼らは、互いに戦争することもありました。この両方の中で、いわゆる、正統と言えるダビデの家を受け継いだ国は、南ユダでした。そして、イエス様の時代のエルサレムの神殿は、南ユダの神殿でした。ところが、その場所でイエス様はアシェル族、つまり北イスラエルの女預言者によって人々に知られます。さらに、アンナはやもめでした。やもめもやはり、羊飼いのように人々に認められない人でした。貧しくて、助けを受ける対象でした。ところが、このような人々によってイエス様の誕生はお祝いを受け、知られ始めました。

 ルカによる福音書は、イエス様の誕生に羊飼い、平凡なおじいさん、やもめのおばあさんを登場させます。そして彼らを通して、イエス様の誕生をこの世に知らせます。一般的に、偉大な人の誕生には、偉大な人々のお祝がついて来ます。しかし、イエス様の誕生には、そんな偉大な人々は登場しません。力がなくて、貧しくて、平凡な人々、しかし、神様の御心を求め、正しさを求める人々が登場しました。これは、神様の救いが誰に臨んでいるのかを示すことだと思います。この救いが私たちの心を開き、私たちの光になりました。そして、この救いがこの世の心を開く光になるのだと私たちは信じています。これを信じて従っておられる皆様に、真の平安がありますように。イエス様の降誕の喜びが平凡な人々と共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン

2023.12.24.クリスマス礼拝説教題:降誕告知の羊飼い 福音書:ルカ2:8~20説教者:李正雨師 福音書には、三つの天使の告知があります。第一は、洗礼者ヨハネについての受胎告知です。第二は、昨日イブ礼拝の福音書であったイエス様について...
26/12/2023

2023.12.24.クリスマス礼拝
説教題:降誕告知の羊飼い 
福音書:ルカ2:8~20
説教者:李正雨師

 福音書には、三つの天使の告知があります。第一は、洗礼者ヨハネについての受胎告知です。第二は、昨日イブ礼拝の福音書であったイエス様についての受胎告知です。第三は、今日の福音書であるイエス様の誕生についての告知です。最初の告知は、洗礼者ヨハネの父であるザカリアに伝えられます。そして第二の告知は、イエス様の母であるマリアに伝えられます。ところで、第三の告知は、親でも親戚でもない人々に伝えられます。今日の福音書は、この第三の告知がベツレヘムの羊飼いに伝えられたと語っています。本当に面白い言葉だと思います。第一、第二の告知は、縁がある人に伝えられましたが、第三の告知、イエス様の降誕の告知は、縁のない人々に伝えられたのです。

 なぜイエス様の誕生の告知は、イエス様と縁のない羊飼いに伝えられたのでしょうか。もしやイエス様と羊飼いに関する預言があったのでしょうか。聖書の中で、イエス様の誕生が羊飼いに知られるという預言はありません。しかし、旧約聖書での神様は、イスラエルの牧者と保護者として描かれ、イザヤ書では、メシアは子羊として描かれました。これだけでなく、イスラエルで最も偉大な王であったダビデは、羊飼い出身でした。サムエル記上の16章を見ると、サムエルが神様の言葉に従って王を立てるためにエッサイの家を訪ねたとき、ダビデは羊の番をしていました。17章では、ダビデがサウルに自分を紹介するとき,自分は「父の羊を飼う者(34節)」と紹介します。イスラエルの最も偉大な預言者であったモーセも羊飼いの出身であり、アブラハム、イサク、ヤコブも羊を飼って生きていた人々です。イスラエルの偉大な先祖と羊飼いの関係は、かなり深いです。こういうわけで、羊飼いたちにイエス様の誕生が知られていると記録されたのかもしれません。しかし私は、これだけがすべての理由ではないと思います。

 当時、羊飼いたちは否定的な印象を持たれていました。なぜなら、彼らは自分の仕事のために律法を守ることができなかったからです。ユダヤ人にとって、安息日は必ず守らなければならないものでした。しかし当時の牧畜は、今と同じではない移動式の牧畜でした。羊とヤギが食べる草を求めるために移動しなければならなかったので、彼らは安息日を守ることができませんでした。仕方なかったことですが、安息日を守れないというのは、当時のユダヤ人の信仰にとっては、許せないことでした。また、羊飼いたちは、牧畜のために国境を嫌わず流れ歩きました。当時のユダヤ人たちは、市場や広場のような賑やかな場所から帰ってくると、必ず手を洗いました。これを清めの儀式と言いますが、この儀式を行った理由は、ユダヤ人は神様を信じない異邦人との接触は汚れると思ったからです。しかし、羊飼いは牧畜のためであれば、ユダヤでも異邦の地域でも関係なく行きました。そして、いろいろな異邦人と会うしかありませんでした。このような状況のため、羊飼いの印象は良くありませんでした。それで、羊飼いといえば律法を守れない者、寄留者のようにさすらう者という認識がありました。

 しかし天使は、このような人々にイエス様の誕生を知らせました。律法を一生懸命守っていたファリサイ派の人々、神殿で働いていた祭司たち、貴族の中心であったサドカイ派の人々ではなく、否定的な印象を持たれている羊飼いたちにメシアの誕生が知らされたのです。安息日を守ることができず、異邦人と接触し、寄留している彼らが神様に選ばれたのです。そして皮肉なことに、イエス様は、羊飼いのように安息日を守られず、異邦人たちと接触され、寄留されて暮らされました。イエス様の身分も高くなかったでしょう。イエス様には、いつも大工の息子、父ヨセフではなく母マリアの息子という名前が付いて回りました。私は、これもメシアの誕生が羊飼いたちに知らされた理由だと思います。今日の福音書10-11節の言葉です。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」

 ここで「あなたがた」は誰でしょうか。少なくとも神様の言葉だけを守るために夢中になっている人、力があるので隣人を侮る人ではないと思います。身分の低い者、社会から疎外された者、助けが必要な者、体の弱い者、国を失って寄留している者などが、天使が言った「あなたがた」でしょう。イエス様は、このような人々のためにこの世に来られました。そして、彼らのように布にくるまれて、飼い葉桶に寝かせられていました。これは、イエス様が誰のために来られたのか、誰のためのメシアなのかを示すことだと思います。

 天使の降誕告知を聞いた羊飼いたちは、イエス様と会うためにベツレヘムに行きます。そして、そこで自分たちのメシアと会った彼らは、天使が話してくれたことをその所の人々に知らせます。この世のためのメシアが来られたと、このことは神には栄光、地には平和である(14節)と人々に知らせます。羊飼いを通してメシアの誕生が知らされたのです。律法を守らず、清い儀式を行わない彼らが神様のメッセンジャーになったのです。これは、神様に対する信仰が変わったことを示すことだと思います。律法の信仰、つまりユダヤ人だけの信仰から離れ、皆のための信仰になったのです。それで出身や身分とは関係なく、異邦人である私たちも神様を信じることができ、神様も私たちの神様になられたのです。

 今日の福音書の羊飼いたちに告知された降誕は、この新しい信仰の出発を知らせるものだと思います。特定された人々ではなく、みんなのために来られたメシア。これを知らせるのがイエス様の降誕告知なのです。皆様のためにイエス様が来られました。そして戦争の中で苦しめられている人々のために、独裁と戦う人々のために、この世の不条理に対立する人々のためにイエス様が来られました。天使の受胎告知を受けたマリアは、このように神様を賛美します。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます(ルカ1:51~53)。」この驚くべき賛美が私たちの賛美になりますように。神様が苦しめられる人々の祈りに耳を傾けてくださいますように、主の御名によって祈ります。メリークリスマス!

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