16/02/2024
李師の最後の説教原稿です。
お世話になりました。
ありがとうございました。
2024.2.18.関東地区総会の開会礼拝
説教題:へりくだって互いに協力しましょう
福音書:ヨハネによる福音書13:13~15
説教者:李正雨師
私は、2011年に初めて日本に来て、2013年に宣教師として再び来日しました。そして、2024年2月を最後にして、帰国することになりました。外国人として日本で暮らすこと。人によって違うと思いますが、個人的には大きな問題はありませんでした。日本ルーテル教団と皆様のお助けがあったからです。教団の招待によって日本に来ることになり、当時の日韓宣教委員会の助けもたくさん受けました。ここにいらっしゃる斎藤先生、江本先生、ヤン先生、宣教委員会の方々の助けで、大宮で約1年半くらいを住みながら、日本語と教会の研修を受けました。そしてその時、大宮教会の方々にたくさん支えられました。私が飯能教会に派遣された後、自発的に大宮教会の礼拝支援に出たのは、宣教的なことだけでなく、私の日本の初期、多くの恩恵を受けたからでした。
研修が終わってから、私は池上教会に派遣され、2020年には飯能教会に派遣されました。池上教会でも、飯能教会でも、信徒の方々は多くの支援と協力をしてくださいました。引退された北澤先生のアドバイスと祈りも大きな助けになりました。そして、池上では東京分区の教職者たち、飯能では埼玉分区の教職者たちのお助けがありました。この他にも、宣教師のために祈ってくださる多くの方々がおられたので、約11年間の日本での生活に大きな苦しみはありませんでした。でも、大きな苦しみはなかったとしても、何もかも楽だったわけではありませんでした。どこでも自国ほど楽ではないでしょう。さらに私は、韓国の宣教師の最初のケースでした。だから、何が私に必要なのか、何を助けなければならないのか…。 私を送る方も、私を受ける方も、私自身もよく分かりませんでした。
私は10月に来日しましたので、もうすぐ冬になりました。日本は韓国のようなオンドルではなかったので、室内が寒かったのです。今の私であれば、コタツも、石油ファンヒーターも置いて、乾燥しているから加湿器も置いたでしょう。しかし、当時の私は、よく分からなかったので、エアコン一台で耐えました。そのうち、大変なことが起こりました。真夜中、長男に熱が出始めたのです。病院に行かなければならないのに、どこの病院が開いていたかも分からず、病院に行ってどう話したらいいかも分かりませんでした。それで、泣いている子をなだめ、朝早く病院に行きましたが、お医師さんの話しが全然分かりませんでした。今考えてみると、「熱はありますか、吐いたり、下痢したりしますか、咳はありますか」などの言葉だったと思います。ところが私の日本語が下手だったので、会話がうまくできませんでした。今も、当時の長男がどんな病気だったのかが分かりません。しかしこのことは、私が一生懸命日本語を勉強することになったきっかけになりました。子供が病気なのに、お医師さんと会話すらできない親は、親として失格だと思いました。わざわいを転じて福となったのです。これ以外にもいろいろなことがありました。しかし、神様はそのたびに私が問題を乗り越えることができるように導いてくださいました。難しい状況ではインサイトを与えられ、知らないことを悟らせ、人々を通して助けて与えてくださいました。今考えてみると、すべてが恵みでした。
私は、今日の説教を準備しながら、なぜ神様は私にこのことを経験させたのかを考えてみました。なぜ私は、言葉も文化も違う所に来ることになったのか。なぜ私は、他の人の助けがなければならないところに来たのか。なぜ私は、最初の韓国宣教師として日本に来ることになったのか。今もこのことについてはよく分かりませんが、このような過程があったので、私はへりくだるということ、宣教には助けが必要になるということなどが分かりました。外国で多数ではなく、少数として生きるためには、自分を低くして、自分のことを顧みるのが必要でした。私は、主張が強く、短気な者でした。しかし、ここで生きながら、自分の主張を押し立てるよりも、他人の意見を聞くことになりました。なぜなら、言葉と文化という壁が確かにあったからです。これによって、他人の考えや意見に耳を傾けることができました。また、少数の者だったので、多数の助けを受けるしかありませんでした。一人の力では解決できないことがたくさんありました。その度に神様の助けを求めましたが、その助けは、信仰の仲間である皆様と教会から来ました。この過程で、私はへりくだることと信仰の協力者に対する感謝を学ぶことができました。
今日の聖書の言葉は、イエス様が弟子たちの足を洗ってくださった言葉です。この言葉に対するいろいろな解釈がありますが、私は、この言葉はへりくだることと、共同体の協力についての言葉でも解釈することができると思います。当時のイエス様の弟子たちは、イエス様の入城によって浮ついていました。イエス様がエルサレムに入られたとき、大勢の群衆がイエス様を歓迎し、ファリサイ派の人々もイエス様と対立することをあきらめたからです。ヨハネによる福音書12章には、このことについて詳しく書いてあります。このようなイエス様のエルサレムの入城は、セレウコス朝との闘いに勝って帰ったユダ・マカバイを思い出させました。それでイエス様がエルサレムに入って来られると、人々はユダ・マカバイを思い浮かべてイエス様を迎え、弟子たちも自分の先生がそのような人だと思いました。
このような弟子たちには、どんな話も通じなかったでしょう。どんな預言を話しても、十字架について教えても、理解できなかったでしょう。それでイエス様は弟子たちの足を洗われました。そしてイエス様は、こう言われます。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
イエス様の言葉は、ただ一つを教えてくれていました。それは、へりくだりなさいということでした。相手の足を洗ってあげるほど、低くなりなさいということでした。そうでなければ、弟子たちはイエス様がなぜエルサレムに来られたのか、なぜ十字架につけなければならなかったのかが分からないからです。そして、弟子たちに互いに足を洗い合わなけれなならないと言われます。これは、へりくだったときに発生する協力についてのことだったと思います。人間は、自分の身分が高いと思ったら、協力しません。協力ではなく、みんなが自分に従うべきだと思います。しかし、低くなるとそう思いません。協力を願い、助けを願うことになります。それでイエス様は、弟子たちの足を洗ってくださり、互いに洗い合いなさいと言われたのだと思います。
へりくだること。そして協力することは、簡単なことではないと思います。しかし、これができるようになったら、私たちは低い者の立場を理解することができ、イエス様の教えと十字架の意味も分かることになるでしょう。聖書の偉大な人物、モーセ、ダビデ、エリヤも皆、低くなった自分たちの環境と状況の中で、神様の導きを体験したということを忘れてはなりません。自ら低くなり、弟子たちの足を洗ってくださったイエス様に従いましょう。これから私は、韓国でも皆様からいただいた助けを思い出して頑張ります。皆様もここで頑張ってください。日韓の協力を通した日本ルーテル教会の宣教がキリストの恵みによって豊かになりますように。神様の祝福がへりくだった人と共にありますように、主の御名によって祈ります。アーメン