おざく台キリスト教会

おざく台キリスト教会 1971年に開所された教会です!

「キリストの福音26~ただキリストの愛だけを誇る~」  マルコの福音書10章16〜27節10:16 イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて...
29/08/2026

「キリストの福音26~ただキリストの愛だけを誇る~」  マルコの福音書10章16〜27節

10:16 イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」 10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。 10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」 10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

<本物の見分け方>
 試金石という言葉があります。金は非常に安定した元素で、基本的には、他の物質と反応せず、錆びたり、溶けたりはしません。(鉄は、みなさんの胃酸である塩酸で溶けます。)
 そこで、試金石という硬い石板でほんの少しだけ金を削り、そこに硝酸という強い酸をかけます。溶けなければ、金だと証明できるのです。

 さて、マルコ10章のテーマは「神の国」です。聖書で「国」とは、「統治」や「支配」も意味する言葉です。神の国とは、神が治め、神の愛が表されるところを意味します。
 しかし現実は、武力により現状変更を試みる国、自国の正義を振りかざし他国の権利を踏みにじる国、指導者が反省などしないと言い放ち大国に媚びへつらう国。キリスト教国や、美しい国を自称しつつも、人の高慢さ、暴力、欲望が治める、まるで、罪の国です。そして、被害を受けるのはいつでも、子どもに代表される、弱い、力のない存在です。
 それらを踏まえ、今日の箇所を、ただ、天国に入る資格とは?、と読まず、私達の内側や周囲に、神の国が、神の心が表されていくには?という視点で読んでいきたいと思います。

<その手の中に何もないかのように>
 前回のお話では、イエス様は、子どもを祝福し、「神の国は、このような者たちのものです。」(10章14節)と言いました。子どもとは、力も、知識も、立場も、功績もない、他者へも、神へも、何も誇れない、その手に何も持たない(神の国から最も遠いと考えられていた)存在です。しかし、イエスは、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(10章15節)と言う、弱い立場の人を受け入れるかが試金石だというのです。
 イエスは無条件でこどもを祝福し、神の国は入るのでなく招かれる、神の愛や救いは、勝ち取るのでなく、ただ受け取るもの、と表したのです。

 この出来事の直後、金持ち青年が登場します。当時の理解では、神の国から最も近い(最も神に愛され尊ばれる)と自他ともに認める人でした。豊かさは、神からの祝福の証拠と結びつけられていました。宗教的行為も完璧に近く、役人で社会的な地位も申し分なかった人です。
10:17 ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

 走り寄って、ひざまずいた。この態度まで、完璧のように見える人物を、イエス様は突き離すように言います。10:18「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」厳しい態度するほど、彼の内側に問題があったようです。

 イエスは彼に、神だけが尊いと、忠告します。つまり、彼は、神に心が向いていなかったのです。彼にとって、人気者の「尊い先生」であるイエスは、優れた自分を承認してくれる存在でした。ある国の首相が、他国の大統領の好意を得ようと媚びへつらい褒め称えるように、この人はイエスに媚びていました。彼は、本当の意味では、神にも、そして、神が尊んだ子ども(弱い立場の人)にも目が向いていなかったのです。もっとも神の国に近いと考えられていた彼は、実際は神の国から遠い存在でした。

 彼の持っていた、富、力、立場、積み上げてきた功績、これら自体は良いものです。しかし、人々は、それが神の愛の証拠であり、敬虔さへのご褒美であり、それは神の愛や救いを保証すると考えました。それらが、彼の目を曇らせ、心を神から、そして、弱い人から遠ざけていたのです。

 私達はどうでしょう。キリスト教の家庭に生まれました。教会や牧師の教えを守っています。奉仕をしました。何度も聖書を全部読みました。経験や知識を持っています。献金をしました。牧師です。役員です。奏楽者です。有名な◯◯牧師から洗礼を受けました・・・だから神に愛される。逆にこれらがないと救われない、そう勘違いしてはいませんか?それらは、神の愛を獲得する道具、神の祝福を得る対価ではないのです。あくまで、神の愛を受けた応答に過ぎないのです。

 それらを誇っている限り・・・私達は、教会は、宗教的であるかもしれませんが、神の国に入っていない、神に心や生活を治めてもらっていない、神様の愛や憐れみを表すことができないのです。使徒パウロは、高慢さから、教会としてあり方を失っていたコリント教会に告げました。「誇る者は主を誇れ」第一コリント1:31(共同・口語訳)
 教会とは、何も誇ら(れ)ないものの、神の愛を誇るものの集まりです。こどものような存在、その手に何も無い人が尊ばれているかが、私達が、教会が神の国であるかの、試金石です。

<あなたを救えないものを手放す>
17節:金持ち青年は、神の国に入るには、何をすればよいか、物々交換を持ちかけます。
19節:イエスは、十戒のうち、隣人愛を象徴する6つの戒めを告げます。
20節:金持ち青年は、それらが出来ている。自分は他者に対して申し分ない、と答えます。

10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

 金持ち青年にとって、富は、生活と心の支えでした。社会的地位と、宗教的尊敬、を保証するものでした。信仰的にも、これがあれば大丈夫と思えました。しかし逆に、神に目を向ける(イエスについていく)、立場の弱い人に目を向ける(こどもを受け入れる)のを妨げていました。
 だからこそ、イエスは、彼の深いところを「見つめ」、「いつくしんで」(ギリシャ語でアガパオー、つまりアガペーの愛で)、富を手放し、貧しい人に与えるように言ったのです。
 誤解しないでいただきたいのですが、この後の、弟子との問答から分かるように、何かを手放すという行為によって、神の国に入るのではありません。
 この金持ち青年にとって、富が神に向くことの、貧しい人(子どもに代表される存在)を尊ぶことの、そして、イエスの「わたしについて来なさい」という言葉に応えることの、妨げとなっていました。あくまで、この青年に大切なことを個別対応で、言ったのです。

  私達は、金持ち青年ほどは、富、地位、名声、功績、宗教行為、健康や若さ、といったものは持ち合わせていないかもしれません。
 しかし、自分の手にある何かを誇りとし、それによって神の愛や救いの保証としたり(すると、それがない人を否定してしまうのです)、逆に、自分にはこれが足りないので、神に愛されない、救われないと考えてしまったとしたりと、内側には、小さな金持ち青年が住んでいるかもしれません。
 ですから、イエスの福音の言葉を聞きたいのです。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。・・・ 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 ・・・弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(23〜27節抜粋)

 誰が救われるのか?、誰が神に愛され、神の国に入るのか?誰が、神の心を表す人になれるのか?それは、武力でも、財力でも、才能でも、努力でもありません。人ではなく、神だけができるのです。
 私は、何も手に持たず神に愛されている、隣の人は何も持たずに神に愛されている、ただそのような憐れみ深い神を誇る、そのような心に、そのような教会に、神の国はもたらされるのです。

今週の黙想 神と人の前に誇るあなたの「富」は何ですか?祈りの中で、力も功績もない子どもとして、キリストに抱かれ、頭に手を置いてもらい、祝福されてみてください。

おざく台教会毎日の聖書 8月24日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。8月24日(月)雅歌5章10節「10 私の...
23/08/2026

おざく台教会毎日の聖書 8月24日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

8月24日(月)雅歌5章
10節「10 私の愛する方は、輝いて、赤く、万人よりすぐれ、11 その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く、12 その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。13 その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。14 その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだはサファイヤでおおった象牙の細工。15 その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。16 そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」
 10~16節で、女性は愛する方の素晴らしさについて歌います。そして、女性の愛する方とは、キリストを指し示すと言われています。あなたならあなたの愛する方である、キリストについてどのように歌いますか?時間をとって丁寧に書き記してみてください。


8月25日(火)雅歌6章
3節「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」
 人間とは、人の間と書き、他者との関係によって生かされる存在です。私達は素晴らしい神様と、この3節のような深く、親密な関係を持っています。その関係を喜び楽しんでいますか?。
先週も紹介した、信仰問答集をもう一度紹介させてください。
ハイデルベルグ信仰問答問1:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?
答:わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

8月26日(水)雅歌7章
10節「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」
 神はあなたを恋い慕う神です。あなたを追い求めるあまり、イエス・キリストとしてこの世界へ下り、あなたの身代わりに十字架で死なれました。あなたは神に、熱烈に、深く、広く、大きく、無限の愛で愛されているのです。キリストは、あなたを恋い慕うのです。

8月27日(木)雅歌8章
7節「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」
 神の無限の愛を消すことは誰にもできません。こんな私は神に愛されない、そのような思い違いをしていませんか?あなたの愚かさ、罪深さ、裏切り、失敗、過ち、あらゆる不敬虔にも関わらず、キリストの十字架の愛は今日もあなたに向かって燃え上がっているのです。

8月28日(金)イザヤ1章
18節「「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」
 私達に必要なのは表面的な宗教行為(13~14節)ではなく、心と生活の変化です(15~16節)。自力では無理ですが、私達を造り変えてくださる方は、「さあ、来たれ。」(18節)と招いています。
 私達が自分を作り変え、立派になってから神に出会うのではないのです。神と出会うからこそ、罪深さも、醜さも、愚かさも、変えられるのです。わたしたちは招きに応えて、まず出会うのです。

8月29日(土)イザヤ書2章
4節「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
 平和に関して教会で語られる時に引用される個所です。現在広島でサミットが行われています。国際協力や、平和憲法、など様々な努力も必要であり、私達は切に祈りたいと思います。。しかし、本当の平和とは、一人一人が神の前に遜るところから始まるのです。まずあなたが神の前にひざをかがめるところから平和を始めてください。

8月30日(日)イザヤ書3章
1節「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」
士師記のギデオンの時(士師記7:1~8)のように、神は私達の支えと頼みを取り除き、神ご自身にのみ頼らせようとする時があります。状況が悪くなった時、それはもしかしたら神様がより深い関係へとあなたを招いているのかもしれません。深呼吸して、天を見上げ、神に祈ってみてください

2026年8月23日  ルカ福音書7章1節~10節 「神が驚き喜ぶ信仰とは」 斎藤義信 信徒説教者「イエスは、耳を傾ている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カぺナウムに入られた。2 時にある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、...
22/08/2026

2026年8月23日  ルカ福音書7章1節~10節 「神が驚き喜ぶ信仰とは」 斎藤義信 信徒説教者

「イエスは、耳を傾ている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カぺナウムに入られた。2 時にある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来て下さいとお願いした。4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。『この人は、あなたのそうしていただく資格のある人です。5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。』6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。『主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の屋根の下にお入れする資格はありませんので。』…

 ルカの福音書は、ユダヤ人でない人や異邦人に向けてイエス・キリストを紹介している福音書と言われ、異邦人とイエス様の出会いが生き生きと記されています。この今朝のテーマは、異邦人の信仰です。信仰とは、何かを信じることだけでなく、その人の言動に表されてくるものです。
今日の箇所では、異邦人の百人隊長に対して「わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」(9節)と、イエス様は驚き、喜びながら述べています。イスラエル人に対する皮肉と思えるような表現でもあるとも思います。しかし、イエス様はこの百人隊長に対して持たれた驚き、喜ぶような信仰とはどういうものでしょうか。
 このローマの百人隊長はローマの軍隊を率いてローマの属国であったユダヤのカぺナウムと言う町の治安維持を担っていました。そんな、百人隊長のしもべが、病気で死にかけていたため、彼はそのことをユダヤ人の長老たちを経由してイエス様に訴えた場面です。

1)今日のテーマである、神が驚き喜ぶ信仰の第一は、人を常に顧みる心があるということです。
大きなローマ軍にとっては部下の一人位、欠けたところで影響はなかったと思います。
しかし、彼は、今、うわさに聞いているイエス様にお願いして助けてもらおうとしていたのでした。ここには部下のことを「重んじられているしもべ」とありますから、そのしもべが、どれだけ百人隊長の右腕となり、あるいは、陰日向で彼の支えとなっていたかは推測以外にありませんが、隊長にとって部下は、一人として軽んじられる者はいないと考え、やはり助けてあげたいと思ったのに違いないと思います。
イエス様も人々をお助けになる姿は福音書に多く記されていますが、記されていない小さなことも数え上げればきりがなくあると思いますし、イエス様のお心は、いつでも必要な時に人を助け、心を寄せてくださいました。またイエス様はご自身も私たちに対して「私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って私から学びなさい…」(マタイ11章29節)そう仰いました。イエス様こそ、心優しいお方でありました。また私たちも同じように心優しい、人を受け入れ、顧みる心を持つこと、これはイエス様にとって喜びなのです。

2)神が驚き喜ぶ信仰の第二は、人種を超え、民族を超えた愛の心を持っているということです。昔の日本人は外国の人を町等で見かけるとちょっと立ち止まって見てしまうような文化がありました。心の内には、自分とは違う存在、受け入れがたいような精神がどこかにあったのかもしれません。ローマ人にもあったと思います。しかし、百人隊長は自分の元から3節によるとユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けてもらうように願った、と言うのです。ローマ人とユダヤ人、そこには主国と属国の関係があり、二つの国が信頼関係で結ばれることは難しいことでありました。

 一般にローマの軍隊と言えば、支配する町で力を振りかざし、横暴の限りを尽くす。支配される側は、義務で使えるということがほとんどでした。しかし、彼らの関係は違いました。本来異邦人に敵対感情や差別感情を持つはずのユダヤの長老たちは熱心に言うのです。「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。『この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。』」4,5節
 この百人隊長は会堂(シナゴーグ)を立ててくれました。それは属国を統率する上での必要な設備投資と言えるかもしれません。しかし、百人隊長は支配しているユダヤの文化を尊重し、心を込めてその事業に取り組んだからこそ、長老たちは彼のために「熱心にお願いし」3節 したのでしょう。ユダヤ人の長老たちにとっては憎むべき支配者ではなく、かけがえのない友でした。
 支配する・される、という力関係、ユダヤ人・異邦人と言う敵対関係、それらを超えて互いに受け入れていく姿が、そこにはありました。
このような姿から、百人隊長は異邦人でありながら、真の神を信仰していたとも考えられます。
また少なくとも、自分が異邦人であるから直接イエスに会いに行かなかったり、イエスを尊重して家に招かなかったこと(ユダヤ人は異邦人の家に入らない習慣があった)またイエスを「主よ」と言うことから、ユダヤ教を深く理解し、大きな信仰的関心を持っていたことは間違いなさそうです。彼の信仰的思想が、人間や国家間の支配関係や敵対関係を超えて行くきっかけとなりました。今日に生きる私たちにも必要な姿勢だと思います。

3)神が驚き喜ぶ信仰の第三は、人の上に立つ身分、特権的な地位に立つ者であっても、やはり神に下に置かれる人間の一人に過ぎない事を知っていたからではないでしょうか。
人は大方が上に立たされると気持ちが大きくなるのか、威厳もないのに威張り散らします。しかし、それは正しい権威とは言えません。ローマ書13章1節「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」更に2節「したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです…」とあります。
 私たちはそれぞれ何らかの立場に置かれています。素晴らしいことですが、人間的な思惑で私利私欲を考えるのでなく、また自分が栄誉ある者として高慢になることなく、神の権威の下に立てられた者でしかないことを自覚に、神様にさせていただくという心持の中で進められることが必要だと思います。

 百人隊長は、自分の上にある権威を知っていました。ローマ皇帝ではなく、支配しているユダヤ人のイエスこそが、自分の上にある存在だと気づいていました。社会的には自分の方が立場は上のはずですが、「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私の方からお伺うことさえ失礼と存じました。」6,7節と遜っています。

 更には、イエス様の権威を認め、その言葉さえあれば部下は治る、と考え「ただお言葉をいただかせてください。」(7節)と、イエス様の言葉を願っています。そしてそのしもべは癒されました。
高慢とは神と神の言葉の上に何かを置くことであり、謙遜とは神と神の言葉の下に自分を置くことです。謙遜こそが、信仰の鍵であり、そのような人こそが、イエス様の力を体験するのです。
 このローマの百人隊長の信仰を見る時に神を畏れ、人を尊ぶ歩みを見ることが出来ます。
彼の姿は百人隊長として恐ろしくなく、人の目に映る姿は弱々しいかもしれませんが、神様の目には驚きと喜びをもって受け入れられました。

今日の百人隊長について、聖書には名前こそ記されていませんが、彼の信仰は、聖書の中での
日常的な出来事として表されていました。私たちの日々の歩みも人から評価される以上に、神様の目からどのようにみられているのか、神様の心をわが心として今週も歩めますようにお祈りいたしましょう。

おざく台教会毎日の聖書 8月17日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。8月17日(月)伝道者の書10章5節「私は...
16/08/2026

おざく台教会毎日の聖書 8月17日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

8月17日(月)伝道者の書10章
5節「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。」
 伝道者の書のキーワード「日の下」には、儚さ、やるせなさ、虚しさが満ち、「空の空」(1:2~3)と伝道者は語ります。しかし、日の上から、天から下された主イエス(ヨハネ6:33~)は、私達の日の下の毎日に意味と希望を与えてくださるのです。


8月18日(火)伝道者の書11章
1節「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」
 今日明日、目に見える結果が出なかったとしても、あなたが愛を持って行う行為も、愛を込めて発する言葉も、決して無駄にはなりません。神が無駄にはなさらないからです。今日もあなたのパンを水の上に投げてください。見出す日を信じて。

8月19日(水)伝道者の書12章
1節「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。・・『何の喜びもない』という年月が近づく前に」
 神を知るのを、神とより深く出会うのを、神の呼びかけに応えるのを、明日に遅らせないでください。今日、今まで以上に神を求め、神に応えることをしてみてください。

8月20日(木)雅歌1章
15節「ああ、ああなたは美しい。わが愛する者よ。」
 雅歌は男女の愛を歌った歌であり、それはキリスト(夫)と私達(妻)の愛の歌とも言われます。この男性の愛の言葉を、キリストからの愛の告白として読んでみてください。

8月21日(金)雅歌2章
16節「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」
 これ以上の幸があるでしょうか?
ハイデルベルグ信仰問答問1:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?
答:わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

8月22日(土)雅歌3章
1節「私は夜、床についても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。」
 夜は感傷的になり、不安や、苦々しい思い出が心を満たしやすいとされています。夜、床の中で思い煩うのではなく、床の上でひざまずき、私達の恋い慕う方、いえ、私達を恋い慕い、命まで与えてくださったキリストを求めてみてください。

8月23日(日)雅歌4章
16節「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を食べることができるように。」
 この節は雅歌のクライマックスと言われます。あなたの恋い慕うキリストがあなたのすぐそばに来られたとき、あなたはどのような実を差し出しましょうか?あなたの今日一日をキリストへの捧げ物として歩んでみてください。(ローマ12:1~2)

2026年8月16日「キリストの福音25~」  マルコの福音書1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群集がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。2 すると、パリサイ人たちがみ...
15/08/2026

2026年8月16日「キリストの福音25~」  マルコの福音書

1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群集がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。7 それゆえ、人はその父と母を離れ、8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」
13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

<「こどものように」とは?>
 キリストは、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイの福音書5章9節)と言いました。昨日は8月15日、日本にとって、太平洋戦争の終戦(敗戦)の日でした。しかし、それから81年、戦時中の悲惨な出来事や過ちは、誤魔化され、美化され、忘れられ、戦前や戦中と同じような論理を、指導者達が堂々と語り、人々も流されていく。何度同じ過ちを繰り返すのか、何も学んでいないのか、とさえ思います。戦後40年に当時のドイツのヴァイゼッガー「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と述べました。

 それは、宗教家も、弟子たちも、(今日の教会も?)同じです。聖書では、宗教家も、弟子たちも、何度も、何度も、同じ過ちを繰り返すのです。イエスが「あなたがたの心がかたくななので」(5節)と言った通りです。聖書では、「石の心」、とか、「うなじが硬い」(神の前に頭を垂れることがない)、とも表現されます。(「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」エゼキエル書36:26)何が私達の目を盲目に、心をかたくなにするのでしょうか?

 また、今日は、有名な言葉が出てきます。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ10:14〜15)子どものように、神の国を受け入れる、とは何でしょうか?(子どもは、素直、純真な面もありますが、一方で我慢強くなく、視野が狭く、我儘でもあるのです。)

<宗教家のかたくなさ>
 もうすぐ十字架なのに、あまり関係のなさそうな離婚状(申命記24章)に関する問答があります。教会はこの箇所を本来の文脈から切り離して抜き出し、離婚の禁止として理解してきました。
 実はこの場所(ユダヤ地方とヨルダンの向こう)は、洗礼者ヨハネが活躍していた場所です。マルコ6章にあるように、ヨハネは、ヘロデ王とヘロデヤ妃の婚姻関係を批判し(お互い結婚のため、パートナーと離縁した)ました。そのために投獄され、首をはねられました。
 宗教家は、イエスへの妬みに駆られイエスを罠にはめようと、離別(離婚状による)に関して質問します。イエスがOKと言えば、洗礼者ヨハネとは違うことを言っているとイエスを批判しできます。イエスがNOと言えばヘロデに告げ口をしイエスを投獄や死刑にしたい、という狙いがありました。ローマ皇帝カエサルへの税金支払いの可否(マルコ12章)や、姦淫現場で捕らえられた女性への石打ち刑の可否(ヨハネ9章)などと同じで、どう答えてもイエスを陥れる、そんな質問です。宗教家達は、イエスを妬み、自らの立場を守りたい、自らの考えを握りしめたい、という思いが強すぎて、神の国を、キリストを拒み続けてしまったのです。

 ですからこの箇所は、離婚の是非ではなく、質問者である宗教家の悪い意図が主題です。(この場合の離婚は、相手の落ち度ではなく、他に好きな人ができたから乗り換える離婚であり、イエスはそれを姦淫(不倫)に等しいとしました。離婚全般を否定している文脈ではありません。仮に私が妻に対して、、暴力を振るったり、金遣いが荒かったり、働かなかったりしたら、妻は、自分や子供の命と生活を保証するためにも、妻は私と離婚すべきです。

<弟子たちのかたくなさ>
  自らの都合を握りしめ、イエスを拒んだのは、弟子たちもです。直前の9章で、弟子たちは誰が一番偉いかと論じ合っていました(キリストの十字架の予告を受け止めず)。そのため・・・
9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 9:36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。 9:37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」という出来事があったばかりです。それなのに・・・、イエスから祝福を受けようとしたこども達を叱ったのです。当時の、知識、功績、宗教行為が価値を持つ大人中心の文化において、子どもは価値のないものでした。このあと登場する金持ち青年が財産や立場を誇ったように、キリストの弟子である自分たちこそが、という誇りがありました。
 
 宗教家も、弟子たちも、神以上に、抱え込み、握りしめるものがありました。これがないと、上に愛されない、神の国に入れない、という勘違いがあったのです。それを握りしめるあまり、自己中心になり、高慢にも他を軽んじ、イエスが言った通り、弱い立場のものを、つまりは、イエスを、イエスを遣わした神を、神の国を受け入れないのです。(神の国は、神の支配、神の心の実現を意味するのですが、彼らが求める報いは、自分の支配、自分の実現なのです。)

<なにもない手でも>
 そんな態度に対して、イエスは憤り、「神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ10:14〜15)と宣言します。

 この文脈で、こどもとは、宗教家や弟子達、(この後の金持ち青年)の正反対の存在、功績も、知識も、何もない存在を意味します。何もその手の中にない。何も神に差し出すことができない。
 ただ受け取ることはできる、握りしめるものがないからこそ、何も差し出せないからこそ、受け取りやすいのです。
 そもそも、イエスは、神の国を「受け入れる」(原語では、自分に差し出されたものを喜んで受け取る、という意味の言葉)と表現しました。
 表彰台に置かれたものを「勝ち取る」でも、陳列棚に飾られたものを「買い取る」でも、他の人から「奪い取る」でもないのです。「受け取る」なのです。

 こどものように、とは、何も持たない、何も差し出せない、存在として、ただ受け取ることしかできない存在として、という意味です。弟子たちのように行いを誇ったり、宗教家のように知識や地位を誇っては、それらを握りしめようとしている限り(この後登場する金持ち青年は、それが富でした)、それらを差し出すことで神の好意を得ようとしている限り、手が塞がっている限り、神の国を、神の愛を受け取ることができないのです。

 どうか忘れないでください、私達は、手に何も持たず、(むしろ罪や汚れや重荷を引きずったままで)、神のもとへ出られるのです。

 そして、教会は、子どものような人、何も差し出せない人を、イエス様のもとにお招きするのです。そのような人を、決して、宗教家や弟子たちのように「止めてはいけません。」(10:14)。人を妨げる余計な障壁を、教会から、私たちの心から取り払うこと、それを何よりも大切にしてきました。

<手をひらいて歩む>
 あなたの手に何か良いものがあれば、それはちゃんと持っていていい。けれど、握りしめず、そっと手のひらに載せてください。いつでも神に返したり、他の人に差し出したりできるようにしていただきたいのです。何より大切な神と出会い、天国が約束され、救いを得ているのですから、これを手放したらと握りしめすぎなくても大丈夫なのです。

<平和を求める祈り>
神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

おざく台教会毎日の聖書 8月10日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。8月10日(月)伝道者の書(コヘレトの言葉...
09/08/2026

おざく台教会毎日の聖書 8月10日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

8月10日(月)伝道者の書(コヘレトの言葉)3章
1〜8、11節「1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。・・・11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」
 タイム・イズ・マネー、タイムパフォーマンスといった言葉のように、私達は時を大切にし、思うままに活用したいと願います。けれど、どうか忘れないでください。愛と配慮をもって、最善の時を定めてくださっている方がおられるのです。


8月11日(火)伝道者の書4章
12節「 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」
 聖書はいつも「あなた」ではなく、「あなたがた」と私達に語りかけます。人は他者を必要とするものとして、神に創造されました。それは、家族であり、親族であり、友人であり、同僚であり、神にある家族(教会)です。今日、誰かのために祈ってみてください。そしてもう一つ、小さなことでも、誰かに頼ってみてください。

8月12日(水)伝道者の書5章
1節「近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。」
 ヨハネの福音書に出てくる、マルタとマリアのお話を思い出しますね。私達は神に何かをすることを大切だと考えます。それは決して間違いではありません。けれど、神のそばでどうあるか、はそれ以上に大切なのです。静かに、神に近づき、神の語りかけに、耳と心を澄ませてみてください。

8月13日(木)伝道者の書6章
12節「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のためによいことなのかを。」
 伝道者の書の著者とされる栄華を極めたソロモン王ですが、誰にもおとずれる死という現実が彼を悩ませました。しかし、まことの王、真の伝道者イエスは宣言しました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)死は終わりではないのです。だから、労苦があっても、損のような道でも、生きる意味があるのです。

8月14日(金)伝道者の書7章
13節「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを、だれがまっすぐにできるだろうか。」
 この日の下の生活が全てなら、死によって全てが無に帰するなら、好き勝手に生きても良いのかもしれません。しかし、神のみわざに目を留め、永遠の視点で生きるなら・・・あなたの今日はどう変わるでしょうか?

8月15日(土)伝道者の書8章
12節「罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。」
 善人が苦しみ、悪人が栄えることもありますが、「私たちは、善人だけに与えられるよいことを捜し出し、悪人に特有の邪悪なことから最大限の距離を置かなければならない。」(アウグスティヌス)のです。神を信じるゆえの幸いを、心を沈めて探し、丁寧に数えてみてください。

8月16日(日)伝道者の書9章
9節「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」
 私達の人生は、空しく、無駄で、せめてささやかな楽しみを見出すだけなのでしょうか?(伝道者の書は、神なき生の虚しさをも表現しています。)もちろん日常の楽しみも、神からの賜物です。けれど、同時にこの地上の歩みは、永遠へとつながっていることも私達は知っています。

「いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているのですから。」(Ⅰコリ15:58)

2026年8月9日「キリストの福音24~イエス・キリストの名によって~」  マルコの福音書9:33 カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」 9:34 彼らは黙っていた。道々、...
08/08/2026

2026年8月9日「キリストの福音24~イエス・キリストの名によって~」  マルコの福音書

9:33 カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」 9:34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。 9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 9:36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。 9:37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

<高慢と謙遜>
 今日は、長崎に原爆の落とされた日です。広島と、長崎とでは、落とされた原子爆弾が違います。核物質がそれぞれウランとプルトニウ厶であり、あの悲劇は「実験」でした。トルーマン大統領は、祈りをもって原爆使用を決断した述べ、神学者であるジョセフ・フレッチャーは、「状況倫理」の中で、原爆投下を愛(アガペー)を最大限に表す行為だとしました・・・・しかし、実際は、力を得ようとする、他国に対して優位に立とうとする、人間の高慢がもたらしたものです。
 技術の発展や進歩は、私達に恩恵をもたらします。一方で、しかし、大きく、強く、より優位に、という姿勢は、正しい導きや歯止めがなければ、深刻な結果をもたらします。その一つが、ヒロシマであり、ナガサキです。
 今日の日にあたり、一冊の本を紹介したいと思います。アンドリュー・マーレーの「謙遜」という本です。本の中で、あらゆる罪の源、私達を神から引き離し、歩みをおかしくするものこそが、高慢だと記されています。(日本的な意味とは若干異なり、高慢とは、神と神の言葉の上に神以外の何か(自分・人物・団体・思想etc)を置くことであり、謙遜とは、自己卑下や自己否定ではなく、神と神の言葉の下に自分を置くこと。)

 今日の場面で、描かれるのは、イエスの弟子達の高慢さです。彼らは熱心に、「だれが一番偉いか」と論じ合っていました。上におられる神様ではなく、横を見て、背比べをし、隣人を押しのけることで、優位な立場、称賛、満足を得ようとする。イエス様が受難を予告し、十字架へと向かっているのにです。弟子たち、がそうであったように、高慢の一番の問題は、神さまに目が向かなくなってしまう。罪を意味する、的はずれな生き方になってしまう。マタイ6章で、高慢な宗教家に対して言われたように、「彼らはすでに自分の報いを受け取っている。」(マタイ6:3)、神からの報い、神の救いを見失ってしまうのです。

 これは、弟子たちだけでなく、今日の国家やだけでなく、私達にも言えます。成績、容姿、学歴、職歴、年収、社会的地位、子や孫の様子、それらや、それらを比べることを通して、自分の喜びや支えとする。(それらは、個別に神から託され委ねられたもので、他者との比較のためでなく、キリストの愛の心に沿って用いてこそ、初めて意味を持つのです。責任が伴うのです。)そして、心や歩みは、神からどんどんと遠ざかってしまうのです。

 そこでイエス様は高慢とは違う道を示します。 9章35節「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。『だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。』」この言葉は、一般のビジネスでも「サーバントリーダーシップ」として、指導者の見本として使われる表現です。けれど、これは成功のための方法論ではありません。キリストの歩み方であり、私達の指針です。
 これはユダヤ人は、意味がわからなかったでしょう。彼らは、私達より遥かに、先に立ちたい、良い立場でありたい、尊敬や称賛を受けたい、と願いました。それらは、彼らの考えでは、神の祝福、神の愛の証だった。それに値しない人、子ども、女性、貧しい人、病の人、障碍のある人、身体を売り生きる人、羊飼い、異教徒などは、後ろに、片隅に置かれた。
 
 けれど、イエスは、何を持つか、何を成し遂げたか、を重視しない。それは神の愛を保証しない、ことを具体例で示します。マルコ9:36「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。 」
 「子ども」、という言葉は、大きくても12才以下、きっと◯◯ちゃんくらいの子ども。私達にとっては可愛いですが、宗教文化においては、まだ小さな存在、つまらない存在、価値のない存在、注目に値しないの象徴。最後尾に、片隅においやられる、日が当たらない存在の代表です。
 イエスはその子を連れてくる。イエスは片隅に追いやられた人を真ん中へ立たせる。ご自身の腕に抱き、自分の近くへ、神の最も近いところに置く。あなたがたが、見下し、押しのけた小さい者は、私の目には大きな者なのだ、尊いのだというのです。

マルコ9:37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
 この子を、受け入れるなら、キリストを受け入れ、神を受け入れること。逆に言うなら、この子を受け入れず、つまらない存在として、片隅に追いやるあなたがたは、キリストを受け入れず、神を受け入れていない、ということなのです。
 「受け入れる」(デコマイ)とは、差し出されたものを歓迎して受け取る、という意味です。しかも、「わたしの名のゆえに」、と4度も繰り返されている。あなたのまわりの小さい人、神によって差し出されている。私たちが、見下し、目を背け、片隅に追いやる人を、イエスは、さあ受け入れてください、と私達のところへ遣わしている。という前提があるのです。

 私達の信仰の、教会の、キリスト教国家の健全性は、まさにこれで明らかにされます。小さいもの、立場の弱いもの、かつてなら、子ども、女性、貧しい人、病の人、障碍のある人、身体を売り生きる人、羊飼い、異教徒、今日なら、困窮する人、マイノリティ、外国人、他宗教、それらの人への接し方が、問われてくるのです。

 42節~は過激な言葉が続きますが、マルコでは高慢さという罪の文脈で語られています。「塩け」は謙遜を意味します。それを失うなら、内側のいのちを失ってしまうため、海の底にしずだほうがマシだとさえ言うのです。頼りとなる手足を、失ってでも離れたほうがいいほど、高慢は、神と人の関係を損なう恐ろしいものだと、指摘します

 マザーテレサは、「すべての人、とくに苦しんでいる人の中に神を見ます。」と述べ、相手をイエス様だと思い、あらゆる人種や宗教の人に献身的に接しました。ある修道院の壁には、「お客さんが来た、キリストが来た。」と記されています。トルストイの記した「靴屋のマルチン」(正式名称は「愛あるところに神あり」)もこれに当たります。「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25章40節)
 神があなたに、私達に、遣わしている人はだれでしょうか?それは、あなたが価値のないと思う人、神の愛の対象でないと遠ざける人です。

<自分が受け入れられることから>
 偽善者や弟子達が「高慢さ」に支配され生き続けたのは、神の愛を誤解していたからです。偉いことで、優れていることで、立派であることで、神が受け入れてくださると信じていたから、隣の人より少しでも中心に、他の人より少しでも先に立とうとしていた。自分を受け入れられていないから、人を受け入れるのが難しい。

 そんなときこそ、子どもの立場に、自分をおいてこの箇所を読んでください。こどもは、何も持たず、何も知らず、ただ真ん中に立たされ、キリストの身腕に抱かれた。何も持たないこのこどもは、なにもないあなたは、キリストにとって、大きなものです。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1章12節
 私達はキリストの名によって、自分を受け入れ、キリストの名によって他の人を受け入れるのです。人を、そして自分を、キリストが十字架についてまで愛し抜いたものとして、神の子として、見ることができますように。わたしたちのうちに、平和があるからこそ、平和をもたらすものになれるのです。

今週の黙想 イエスは誰をあなたへと遣わしていますか?まずあなた自身が、キリストに抱き寄せられてみてください。そして、平和の祈りを祈り、一週間を歩んでください。
<平和を求める祈り>
神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

おざく台教会毎日の聖書 8月3日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。8月3日(月)箴言27章 19節「顔が、水に...
02/08/2026

おざく台教会毎日の聖書 8月3日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

8月3日(月)箴言27章
19節「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」
リンカーン大統領は「自分の顔に責任を持て」と言ったそうです。私達は耳から入る言語だけでなく、声の調子を通して、また目で見える姿など様々な非言語的メッセージを通して、相手を知ります。私達の表情が、振る舞いや生き方が、私達が何を信じ、何を愛し、何に頼り、何を大切にしているかを証しするのです。無理やり信仰深く・善人らしく振る舞う必要はありません(演技はバレます)。ただ、心でキリストを愛していれば、恵みに感謝していれば、神を喜んでいれば、自然と伝わるでしょう。信仰とは、やり方以上に、あり方なのですから。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4章23節

8月4日(火)箴言28章
11節「富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。」
神学校で学んだ一つの大切なことは「自分を疑え。」ということでした。神の存在や神に与えられた救いを疑うのではありません。(それは単なる不信仰だそうです。)神でなく自分を疑うのです。人間は、自己義認し、高慢になって他人を裁く存在であることを覚え、絶えず神の言葉を通し、自分を調べるのです。自分を疑えるものは、謙遜に神に聴きます。心か神に向いているため、他人を裁くことをせず、人の評判に関心を持ちません。神の愛と救いに支えられ、しなやかに生きます。あなたは?

「義人はいない。ひとりもいない。・・・すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3章10、23~24節

8月5日(水)箴言29章
23節「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」
罪とは、高慢に近い言葉かもしれません。悪魔はアダムとエバを神のようになれる、と誘惑しました。自分が世界の中心である、自分こそが常に正しい、自分が主導権を握りたい、それが罪あるわたし達の願いです。それで、自分も人も幸せならよいのですが、実際には互いに傷つけ合い、呪い合ってしまいます。神と人への謙遜はわたし達を不安にさせます、しかし、謙遜こそが、自己中心から神中心への転換こそが、自由と幸いへの道なのです。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」第一ペテロ5章5節

8月6日(木)箴言30章
8~9節「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。 私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。 」
 哲学者であり、科学者であり、神学者であるパスカルは「人の心の中には、神が作った空洞がある。 その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と著書パンセの中で記しています。私たちのうちには、「もっと、もっと」と際限なく求める心が存在します。心に空いた空洞を埋めようとする行為自体は間違いではありません。しかし、神以外のものでは埋まらないのです。今日の箴言の有名な言葉は、神こそを自分の宝として、神を畏れる者の祈りです。あなたは?

「私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」詩篇16篇2節

8月7日(金)箴言31章
30節「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」
 これは麗しさ、美しさを否定しているのではありません。神に造られた自分を喜び、健康を保ち、美しく飾るのは良いことです。そして、外見の麗しさよりさらに大切なことがあります。それは心、あなたのあり方です。そのあり方は、神を畏れるあり方です。神を尊び、神の心を考え、キリストの歩みに従おうとするあり方です。そのようなあり方こそが、本当の美しさ、本当の麗しさではないでしょうか?
余談ですが、あるアメリカの黒人教会では、最高のオシャレとお化粧で、喜び溢れて礼拝に行くそうです。なぜなら、誰より愛する方に会いに行くのですから。心も外面に表れるのですね。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」第一サムエル記16章7節

8月8日(土)伝道者の書1章
2節「空の空。すべては空。」
 伝道者の書は、神無き人生の虚しさを記していると言われます。もし、私達が偶然生まれだけの意味のない存在だとしたら・・・?もし、私達が生きるべき目的など本当は何も存在しないとしたら・・・?もし、死の後、私達はただ塵に帰るだけだとしたら・・・?しかし、私達は神に造られた存在であり、私達の生涯には神の愛に満ちた深いご計画があり、私達は死後に天の父のもとに迎え入れられるのです。ですから、安心してください。すべては空・・・ではないのです。私達は「わたしは有る」(出エジプト記3:14)という方に、「あれ」と言われて創造され、今ここに存在しているのですから。

「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」創世記1章3節

8月9日(日)伝道者の書2章
18節「私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。」
 著者(ソロモン王とされています)の言うことは、たしかにそうかも知れません。けれど、まことの王でありながら、自分を無にし、人々のために、身を粉にし、自分の命さえ惜しまずに十字架で与えてくださったキリストのことを私達は知っています。その方は言われました。「受けるよりも与えるほうが幸いである。」使徒の働き20章35節

2026年8月2日おざく台キリスト教会 「キリストの福音23」マルコの福音書9章9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。 9:3 その御衣は、非常...
01/08/2026

2026年8月2日おざく台キリスト教会 「キリストの福音23」マルコの福音書9章

9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。 9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。 9:4 また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。・・・ 9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

 9:14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、・・・ 9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。 9:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」9:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 9:20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
 9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。 9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」・・・
 9:28 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

<山上の変容>
 9章の最初では、ラファエロの絵画でも有名な「山上の変容」の場面です。1.イエスの姿が変わり、2.モーセとエリヤという旧約を代表する2人の人物(証言者)が現れ、3.天から神の声が響きます。これらすべてが、イエスは神の遣わした救い主(メシア・キリスト)であることを表します。ペテロたちは驚きつつ山を下りました。

<悪魔の支配と神の支配>
 下山すると、悪霊という問題に直面します。これを昔話やホラー、スピリチュアルで片付けないでください。これは私達の問題でもあります。悪霊につかれるとは、罪や悪の支配を意味します。一方で、神の国とは、言語では神の支配を意味し、神の願いが実現している領域を指します。罪や悪か、神か、どちらがその場を治めているか、どちらの心が実現しているかという対比があるのです。ですから、悪霊とはホラー映画のように取り憑かれずとも、悪魔や罪がが私達の心や頭や言葉、行動を支配しうるのです。悪魔が願うことが、私たちの家庭や職場や、人間関係や、毎日の歩みに起こっているのです。
 逆に、聖書でよく出てくる、悪霊の追い出し、つまり、悪霊の支配からの解放は、神の国(支配)の広がり、神の願いの実現を意味するのです。その役目は弟子達に委ねられ、成功もありました(6:12)。しかし、今回は、弟子たちも、(その場にいた律法学者たちも)難しかったのです。

(補足:好ましくない・都合の悪い出来事、事故や病や災害まで全てを悪霊のせいにしたり、信仰的な方法により解決可能、と考えるのは、カルト的です。イエスに苦しみが多かったように、パウロに癒やされない病があったように、使徒たちが殉教したように、信仰深さと、苦しみとは、両立しうるのです。)

<イエスからの期待>
 私達も神を悲しませるような問題を、内に・外に抱えています。祈りつつ自分で解決出来たこともありますが、今回の弟子たちのように、時に自分ではどうしようもないことに出会うわけです。17〜18節はそのまま私たちの言葉です。神さま、私達には出来ませんでした。罪や悪い思い、過去の傷から自由になれません。人間関係がどうしようもなく、冷え切ったり、途切れてしまいました。目の前の問題は私の手には負えません。心も身体も疲れ切って倒れそうです。

 そこで私達は予想外の言葉に出会います。19節「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」少し厳しすぎるようにも感じます。ただ、この文脈を見たいのです。これはもうキリストの生涯の終盤です。この箇所の前後では十字架の予告がされています。
 これからはもう、なんでもイエス様任せではないのです。これからは弟子たちの番なのです。期待しない人に、何も任せていない人に、こんなこと言いません。言い変えるならば、弟子達を育てることに3年をかけ、大切な役割を任せ、期待しているから、このように言うのです。

 私達の心に、生活に、環境にもまた、神の心が実現すること、神の国(支配)をもたらすキリストの歩みを引き継ぐことを、キリストは期待している。(「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28:「文化命令」)

 私達はキリストの期待の対象です。できない人に押し付ける方ではありません。それは決して不可能ではないから、イエスはこのように言うのです。無理だ、ではなく、神の願いに沿っていれば、神の助けによって必ずできるから、期待されているのです。

<キリストの確かさ>
 その時に大切なのは、自分の確かさではなく、キリストの確かさに信頼することです。私達が考えがちな信仰とは、自分の確かさです。自分の思いの強さです。イワシの頭も信心からと言うように、信じる熱心さが強調されます。信仰の重点は、私たちの願いに、私達の確信の強さに、私達の側にあります。しかし、弟子たちも、律法学者もできなかったということは、力や知識は有益であっても、神の心の実現には、それらだけでは不十分だということ、それらに依存しすぎることこそが、不信仰だとも言えます。信仰とは、神の願いに、神の確かさに、重点があります。

 23節では、イエスは父親に対して、めずらしく強い言葉で反応します。それは「もしお出来になるものなら」という言葉に対してでした。それは違うというのです。「信じる者には、どんなことでも出来るのです。」と返します。これは、思いが強ければ、願いがかなうという意味ではありません。それならばキリストへの信仰ではなく、自分への信仰です。
 そうでなく、キリストへの信頼です。以前ある病人は言いました。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」(マルコ1:40)キリストならお出来になる。キリストが望むなら、その通りになる。キリストは確かである。それが信仰です。

9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
 父親は面白い反応をします。「信じます。不信仰な私をお助けください。」 息子の救いを求めていたのに、キリストと向き合う自分の姿勢に焦りを感じたのです。イエスが望んでくださるなら、それが信仰です。私達はそのことに安心し、眼の前に精一杯向き合うのです。
 ある牧師は、「人事を尽くして天命を待つ」、という言葉を紹介し、キリスト教徒は、「天命に安んじて人事を尽くす」、という生き方だと教えてくれたのを思い出しました。

<キリストとの交わりの中で>
 弟子たちは、秘訣をイエスに尋ねます。 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
 祈ればなんとでもなる、念じればどんな願いも実現するという意味ではない。多くの写本は(読者の誤解を避けるためにでしょう)ここに「断食を」加えます。祈りも、断食も、どちらも熱心さでなく、神との交わりの深さを意味します。その中でこそ、キリストの信頼が深まっていく。キリストの奇跡のような即効性はなくても、神と話しつつ取り組む。私達も、神との交わりの中、取り組みたいと思うのです。

今週の黙想 あなたの毎日で神の支配を必要としている場所(心、状況、関係)をゆっくりと考えてください。祈りの中で神さまがどうなさりたいか、ゆっくりと聞いてみてください。

おざく台教会毎日の聖書 7月27日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。7月27日(月)箴言20章 24節「人の歩...
26/07/2026

おざく台教会毎日の聖書 7月27日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

7月27日(月)箴言20章
24節「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。」
箴言を読んでいくと、「自分を過信せず、疑え」という内容が何度も出てきます。もちろん自分を信じ、計画を持つことは良いことです。しかし、大切なのはそれが主の願いにそっているかです。あなたが今たてている計画を、あなたの歩みを、あなたの道を、神様はどう見ておられるでしょうか?あなたの道を確かなものにできる唯一の方に、祈り聞いてみてください。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」箴言19章21節

7月28日(火)箴言21章
31節「馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。」
私達は、日々馬を備えるべきです。しかし、馬を戦いのため、救いのために用いるのは神です。あなたにとっての馬とは何でしょうか?神様以上に頼ってはいませんか?たとえ馬が足りなくても恐れすぎないでください。神の善い業に関することなら、神が必ず成し遂げてくださるのですから。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」イザヤ9章7節

7月29日(水)箴言22章
9節「善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。」
神様は寄るべのない者を憐み、その人に善意を示す人を喜び、祝福されます。イエス様は、霊において、魂において寄るべのない私達に、いのちのパンを、ご自身の命を与えてくださいました。
私達は、今日、乏しい人、痛む人、寂しい人に、何を差し出しましょうか?

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」第二コリント9章7節

7月30日(木)箴言23章
17~18節「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。」
神は悪を放っておきません。終わりの時に必ず介入し、悪と罪とを裁かれます。ですから、私たちにとって大切なのは、悪者に心を向けることでなく、天に心を向け、神を畏れることです。自分が神の前にどんな存在か、キ リストの十字架をしっかりと受け止めているか、神の愛に応える歩みをしているか、いつも問うことです。 人を恨んだり、裁いたり、呪ったりする、そんな暇はわたし達にはありません。

「すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」ピリピ2章11~12節

7月31日(金)箴言24章
12節「もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。」
 神様はわたし達の心をご存知です。神様の前に言い訳の必要はありません。そして同時に、神様は私達が愛に乏しく、手の力が足りないのも、ご存知です。ですから、神に愛と力とを日々求めてください。

「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」第一ヨハネ4章12~13節

8月1日(土)箴言25章
21節「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。」
 誰かとのわだかまりはありますか?大切なのは相手があなたをどう思うかではありません。あなたが相手を愛するかどうかです。あなたの手に少しばかりの力がありますか?相手の人は助けを必要としていますか?それなら迷わないでください。キリストは神に敵対し、背く私達のために、命を与えてくださったのですから。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5章8節

8月2日(日)箴言26章
20節「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」
誰かへの苦々しい思いを、言葉の陰口として発したり、または心の陰口として思い巡らしたりしてはいませんか?それは内なる罪に餌をやる行為であり、罪はどんどんと力を蓄えてしまいます。その時間とエネルギーを人を祝福するために、また祈りに、用いてみませんか?その時、あなたの内におられる聖霊なる神さまが、喜んであなたを力づけ、導いてくださいます。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」ヤコブ5章13節

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