おざく台キリスト教会

おざく台キリスト教会 1971年に開所された教会です!

おざく台教会毎日の聖書 6月1日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。6月1日(月)詩篇114篇 8節「神は、岩を...
02/06/2026

おざく台教会毎日の聖書 6月1日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

6月1日(月)詩篇114篇
8節「神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。」
神は、わたし達が考えもしないもの・諦めきったものに働き、奇跡を起こされます。堅い心、厳しい状況、そこからすら命の水を溢れさせるのです。あなたにとっての「堅い石」は何ですか?あなたが諦めているそこから水が湧きだすように、神に祈ってみてください。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4章23節

6月2日(火)詩篇115篇
1節「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」
 栄光はただ神のものですが、わたし達はそれを自分のものとしようと奪い合います。神の愛ではなく地位や名声や評判を自分の支えとします。天の御国とは、神に栄光が記されている場所であり、地獄とは人間に栄光が帰されている場所だ、と聞いたことがあります。今日一日、神に栄光を帰すことを願い、過ごしてみてください。

「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」黙示録4章11節

6月3日(水)詩篇116篇
16節「ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。」
 罪と悪魔の奴隷だった私たちは、かせを解かれ、あわれみ深い神のしもべとされました。これからは、あなたを滅ぼす罪にではなく、あなたを生かす神に従うのです。罪の奴隷ではなく、神のしもべであることを意識して、今日一日を過ごしてみてください。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」コロサイ人への手紙1章13節

6月4日(木)詩篇117篇
1~2節「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。」
 主を(ヤー)ほめたたえよ(ハレル)を意味するヘブライ語であり、聖書で最も多く繰り返される私たちへの命令です。あなたは今日、どのように主をほめたたえますか?歌ですか?祈りですか?行動ですか?静まり考え、実践してみてください。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ人への手紙12章1~2節

6月5日(金)詩篇118篇
25節「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。」
 救ってください(ホシュアー)今(ナー)、というこの箇所から「ホサナ」という言葉は来ています。主への信頼を告白し、救いを願うこの詩篇を、ゆっくり2度読んでみてください。1度目は味わいながら、2度目は自らの信仰の告白として。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」ヤコブの手紙5章3節

6月6日(土)詩篇119篇
1~2節「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」
 119篇はヘブライ語のABCの歌(いろは歌)で8節ずつ、22の区分に分かれていますが、毎節必ず、みおしえ、おきて、仰せ、さとし、道、さばき、など神の言葉を言い変えた言葉が出てきます。神の言葉こそが私たちの光、生きる糧、希望なのです。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119篇105節

6月7日(日)詩篇120篇
1節「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。」

神に心を開き、何でも祈ってください。神の答えには、1.そうしよう、2.そうはしない、3.別の方法で応えよう、4.別の時に応えよう、の4つがあると言われます。けれど、神は確かにわたし達の祈りに「応え」てくださるのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」ピリピ人への手紙4章6節

2026年5月31日おざく台キリスト教会 「キリストの福音⑯~あなたをあきらめないイエス~」5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わす...
30/05/2026

2026年5月31日おざく台キリスト教会 「キリストの福音⑯~あなたをあきらめないイエス~」

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」 5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。 5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、 5:39 中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」 5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。 5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。) 5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。 5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。(マルコの福音書)

<あきらめないイエス>
 教会と、幼稚園・学校は、かなりの部分で、重なります。どちらも、与えられた命を、その人らしく、懸命に生きるようにとを励ますからです。本日歌う「球根の中には」という讃美歌は、協会だけでなくキリスト教主義の学校で愛されています。今日の聖書箇所は、長年病で苦しんだ女性が癒やされる、小さな子が死から蘇るという奇跡ですが、この出来事は、教会で、学校で、私達にも起こるように期待されている箇所でもあるのです。

 私達はたくさんの希望や願いを持ちます。この箇所は、身勝手な願望ではなく、病が癒やされたい、あるべき生き方をさせてくださいという、願いです。
5:22 会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、 5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

 ヤイロも、私たちも一生懸命イエスに願います。私を変えてください。罪から、悪い傾向から、古い性質から、過去の傷から、解放してください。困難の中にある働きを、回復させてください。難しい状況を変えてください。人間関係を癒してください。私の家族が、友人が、あの人が、キリストに出会えますように。キリストのもとに、再び帰ってきますように。

 ところがです・・・35節にあるように、その願いや祈りは長くは続きません。「あなたのお嬢さんはなくなりました。」という現実にぶつかります。「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」という諦めを促す言葉を受けます。自分を、人を、状況を、もうだめだと、諦めたくなる、時があるのです。

 そんなヤイロにイエスは言います。36節「恐れないで、ただ信じていなさい。」「恐れる」という言葉は、単なる感情的恐れ(Fear)ではなく、原語のフォボスは、撤退する、動議を取り下げる、という意味です。怖がるよりは、あきらめるに近い、感情よりも姿勢を表す言葉です。会堂管理者ヤイロはまさに、イエスへの祈りを、イエスに伸ばした手を取り下げようとしていた、諦めようとしていた。対してイエスは「ただ信じていなさい。」ギリシャ語の、「信じる」とは、信頼するという意味であり、諦めず、イエスに信頼し続けることを励まします。

 誤解しないでいただきたいのですが、私達は、現実を受け入れる、諦めること、それもまた大切です。祈りの答えには、4つあると言われます。1.そうしましょう。2.そうはしません。3.違う方法で応えます。4.違う時に応えます。 
 願い求めた通りの場合もあれば、そうではないと、言われる場合もある。違うものを与えられたり、違う時が用意されていたりする場合もある。
 しかし、自分の願望にこだわりすぎるあまり、逆に神に耳を傾けないならば、逆に自分を追い込んだり、周囲の人を苦しめる場合もあります。大切なのは、イエスが、その状況に対して、何と言っているかです。(祈りにおいて、心静かに、神に耳を傾けることを忘れないでください。)

 この時に、イエスは「なぜ取り乱して泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と告げます。少女は眠っていただけなのでしょうか?いえ、確かに死んでいました。イエスは勘違いしていたのでしょうか?いえ、ちゃんと分かっていました。これは、イエスにとっての理解を告げている。 イエスにとって、この少女は諦めの対象ではないのです。

 以前園に、小学校の教師が園を訪れ、卒園児に関して、文句を言われたことがあります。この子はだめだと。園や家庭がおかしいと(つまり、私の教育は悪くない、と)・・・・けれど、人がみな諦める子が(保護者や保育者ですら心配になる子が)、勉強が好きになり、難関校に合格したり、素敵な出逢いや環境に支えられ、自分らしくしなやかに生きていることもある。球根の中には、という歌を聞き、自分の子は今、蛹の中のような状態だけれど、いつかきっと命が羽ばたく時が来ると信じている、と泣きながら話してくださった保護者を思い出します。その子も、歌詞に「過ぎ去った時が未来を拓く」とあったように、困難の時すら、益として、のびのびと才能を発揮して歩んでいます。その姿を見ると、神が、保護者や、保育者の想像を超えて、良くしてくださったと感じます。私達の役割は、自分を、人を、キリストが諦めなかったように、けっして諦めないことだと改めて感じました。

 それは、困難だけでなく、私達の、醜さや罪深さに対してもです。当時の理解では、イエスは少女に触れたのではありません。死体に触れたのです。当時、汚れているとされ、誰もが避けていた、死体に触れたのです。こんな汚れた私は神が避けている、あんなことをしたあの人は神が嫌われていてもうだめだ、そう思ってあきらめたことはありませんか?しかし、どんな過ちも、罪も、汚れも、冒涜も、超えて、イエスの手は伸ばされている。イエスはどんな人も、諦めないのです。

 恐れ、身を引いてしまうのは当然の反応です。けれど、イエスの言葉は、正確に訳すと、(ギリシャ語には継続の意味があるので)恐れ続けてはならない、諦め続けてはならない、と語るのです。私達は、取り乱すときにこそ、自分や人を諦めたくなるときにこそ、神がどう見ておられるか、立ち止まって耳を傾けたいのです。
 自分を、人を、状況を、諦めていませんか?確信は持てなくても、もう一度、ただ一言でも祈ることから、そのことについて、イエスに耳を傾けることから始めてください。

<死の先を示すイエス>
 すべての諦めを代表するものに、死があります。昨年度、私達には、大切な3名の方を天に送りました。そして、葬儀や、復活祭、昇天者記念の日には、球根の中には、を歌いました。3番では、死のその先が歌われているからです。

キリスト自身も、十字架で死を経験します。もう先がない。すべては終わった。そんな失望や諦めをよそに、三日目の日曜日の朝、キリストは墓から颯爽とよみがえります。そして、女性たちに出会って言うのです。「おはよう。」
なんと当たり前の挨拶でしょう。死に勝利した復活の朝。特別な朝です。それなのにいつもと変わらない「おはよう」という朝の挨拶。けれど、それでこそイエス様です。イエス様は死の、誰もが諦める終わりの、その先を身をもって示し新しい始まりを告げる挨拶をしたのです。
 
 この復活の第一声は、今日の場面にもつながります。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」マルコ5:39
 しかし、いのちの源である神にとって、全ての人を失望させる死でさえも、終わりではないのです。まるで眠っているかのように、続きのあることだったのです。そして、イエスは少女を、母が娘を優しく眠りから覚ますかのように、まるで毎朝の日常の場面のように「起きなさい。」と言いました。「その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。」マルコ5:41~42

この少女の場合は蘇生であり、永遠のいのちへの復活とは意味合いが異なりますが、死の先を示されたという面では一緒です。私達はみな死を恐れます。困難や問題も、死につながるものとして、恐れます。死が、永遠の終わりであり、全くの無へとつながると理解しているからです。けれど、今日の箇所を通して私達は知ります。復活を意味するギリシャ語(アナスタシスは、再び+立つ・起きる)が意味するように、命を失った心も、完全に終わったような関係や歩みも、死んだ身体さえも、再び起こされる方がいるのです。

 あなたは、もうだめだ、もう無理だ、もう終わった、そう諦めていることはなんでしょうか?イエスはそんなあなたの前に立ち、死に打ち勝った姿を示し言われます。「おはよう。」周囲があなたを死んだものとして諦める時、イエスはあなたの傍らに立ち、手を取って言われます。「タリタ、クミ(起きなさい)」

私達は遅かれ早かれ、やがてこの地上での命を終えます。人生を振り返り、全てに別れを告げ、ゆっくりと目を閉じ、全てが消え去ると思われたとき・・・あなたは主イエスの声を聞きます。「起きなさい。」イエスはあなたの手を取り、あなたの目の涙をぬぐい、ほほえみかけて言うのです。「おはよう。」

 イエスは言いました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25そして続けます。「このことを信じますか」(同26節)私達の痛みには、悲しみには、死には、続きがあるのです。

<祈り>
 イースターによみがえられた復活の主よ。日々失望する私達の前に立ち、「おはよう」と語りかけてください。目の前の困難や死を超えたものがあるのだと、弱い私達に示し、手を取って私たちを起こしてください。そしてやがての日、死を迎えたその日、私たちの手を取り、新しい復活のいのちへと私達を起こし、語りかけてください。「おはよう」と。復活の主、イエスの御名によって祈ります。アーメン

おざく台教会毎日の聖書 5月25日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。5月25日(月)詩篇107篇 6節「この苦...
25/05/2026

おざく台教会毎日の聖書 5月25日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

5月25日(月)詩篇107篇
6節「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」
他にも13、19、28節でこの言葉が繰り返されます。苦しみの中でこそ、その人の本当の姿が現れます。苦しみのときに、落ち込んだり、人を責めたりしていませんか?苦しみのときこそ、主に向かって思いきり叫んでみませんか?

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

5月26日(火)詩篇108篇
13節「神によって、私たちは力ある働きをします。」
 人間は、人間の力で、人間の働きをします。そして、神の力で神の働きをします。私たちが求めるのは、人間の願いの実現ではなく、神の願いの実現です。建て上げたいのは神の国です。神があなたを通し、今日も豊かに働いてくださいますように。

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(第一コリント12:9)

5月27日(水)詩篇109篇
17節「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。」
 これは罪ある人間の、いえ、私たちの生き方です。しかし、キリストに出会うと、のろうことでなく、祝福することを選ぶように変えられていきます。あなたはのろう者ですか、祝福する者ですか?今日一日を、人を祝福することに専念する一日にしてみてください。

「あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:2~3)

5月28日(木)詩篇110篇
4節「主は誓い、そしてみこころを変えない。」
神の素晴らしいご性質の一つに、約束を決して変えないという誠実さ、があります。コロコロ変わり、偽り、裏切る人間とは異なり、神はその誓いを必ず貫いてくださいます。私たちはキリストにより救われ、神の子、神の民とされました。私たちはこれからも永遠に神の変わらぬ愛の対象なのです。

「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」(エレミア31:3)

5月29日(金)詩篇111編
10節「主を恐れることは、知恵の初め。」
信仰の成長の一つに、主を恐れる(畏れる)ようになることがあります。人の言葉でもなく、お金や状況でもなく、なにより神と神の言葉とに影響を受けるのです。主を畏れること、それは主を愛することと同じです。そして、主を愛し、主を畏れる人は、謙遜、従順、キリストに似た姿、へと変えられます。あなたにとって主を愛し、主を畏れるとは具体的にどんな行動ですか?実行してみてください。

「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」(マタイ22:37)

5月30日(土)詩篇112篇
1節「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。」
昨日、あなたはどのように主を畏れ、行動しましたか?主を畏れることの一つに、その仰せ(御言葉)に喜び従うことがあります。今祈りの中で示された御言葉に、今日一日忠実に従ってみましょう。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

5月31日(日)詩篇113篇
5~6節「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。」
 私たちの神は、偉大な方でありながら、弱い者、貧しい者、虐げられた方をご覧になり放っておかれない方です。ではその神を信じる私達はどうでしょう?今日、あなたが目を向けるべき、へりくだって仕えるべき人は誰でしょうか?

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」ピリピ人への手紙2章3~4節

おざく台教会2026年5月24日「ペンテコステの福音」<聖書>「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイの福音書28章20節<どんな言葉を聞き、どんな言葉に生きている?> この一週間、どんな言葉を聞いてきま...
23/05/2026

おざく台教会2026年5月24日「ペンテコステの福音」

<聖書>「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイの福音書28章20節

<どんな言葉を聞き、どんな言葉に生きている?>
 この一週間、どんな言葉を聞いてきましたか?どんな考えがあなたの頭や心を満たしていましたか?それらがあなたにどんな影響を与えているでしょうか?
 人は4つの言葉を聞くと言われます。1.自分の言葉、2.人の言葉、3.悪魔の言葉、4.神の言葉。自分内側の正直な思いや、人からかけられる言葉は有益です。けれど、時に自分を傷つけたり、追い込んだりもしてしまいます。私達を間違った方向へも導きます。ですから、私達を慰め、励まし、生かす、神の語りかけを、大切にしてほしいのです。

 教師・牧師として、いつも願い、祈るのは、生徒たちの、みなさんの幸せです。この世界では、悩みも苦労もなく、病気や事故やトラブルもない、ということはありえません。願いが叶わなかったり、悲しみや痛み、恐れや孤独を経験することもあるでしょう。けれどそのような毎日の中でも、慰めがあり、支えがあり、励ましがあってほしい。神が『生きよ』(エゼキエル16:6)と言われたそれぞれの人生を、懸命に生きてほしい。願わくは、人を祝福して生きてほしいのです。
 
 教会の礼拝の最後、『祝福の祈り』、の前に『派遣の言葉』を読みます。「平和のうちに世界へと出ていきなさい。勇気をもちなさい。いつも善を行うよう努めなさい。悪をもって悪に報いてはなりません。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを支え、苦しんでいる者を助けなさい。全ての人を敬いなさい。主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜びなさい。」

 この伝統ある礼拝式文に不遜ながら、『神がいつも共におられます。』とつけ加えています。
 一人で歩むのではないからです。一人で歩むのは難しいからです。いえ、二人でも、三人でも厳しいのです。キリストの弟子たちは、2〜3人どころではなく、十二人、それ以上いました。自分たちもキリストのように生きたいと願っていた。人を祝福し、愛を表したいと願っていました。 でも無理だったのです。弟子たちは愛よりも恐れが、希望よりも不安がまさり、キリストを捨てて逃げてしまったのです。ペテロは恐れから、イエスを知らないと3度言いました。後悔し、隠れ、部屋の鍵を締め、震え上がって、全てを諦めたのです。

 弟子たちの頭や心には、「私はもう駄目だ」、「自分にはなんの価値も意味もない」「神は自分に怒り、責めている」そんな考えや思いが駆け巡っていたでしょう。悪魔とはヘブライ語でサーターンと言います。これは、誹謗中傷する者、告訴する者、という意味です。まさにこの時、弟子たちは、悪魔の語りかけに惑わされていたのです。

<あなたは一人ではない>
 確かに、一人なら恐ろしいのです。一人なら乗り越えられないのです。けれど、私達は一人ではないのです。私達は、悪魔からではない、別の語りかけが必要なのです。
 弟子たちは忘れていました。十字架の前の夜、弟子たちの裏切りを知りながらも、あなたを一人にはしないと、語りかけたイエスの言葉を。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。・・・助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14:18、26~27

 そして、このキリスト約束はこのペンテコステの日に実現しました。神の霊、聖霊が注がれた、弟子たちのうちに神が住み、共にいてくださるようになった。もうひとりではないのです。もう諦める必要はないのです。もう恐れて閉じこもる必要はないのです。神があなたとともにいてくださるのですから。そして、恐れや失意の中から立ち上がりました。
 イエスがが言われた「助け主」とは「慰め主」とも訳される言葉で、パラクレートスというギリシャ語です。パラは、「共に、傍らで」カレオーは「呼びかける、名を呼ぶ」、という意味。どれだけ自分自身の失望や諦めが、人からの非難や悪意が、悪魔の声が頭と心を満たそうが、神が傍らにいて、共にいて失望し、自分を諦めた弟子たちの名を呼び、語りかけるのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」マルコ1:11

 そして、これはただの言葉がけではない。神が共にいる、とは、良いことがあるとか、力づけられるとか、その程度のことではない。かつて、神が共にいる(聖霊が下る)とは、その人が神の愛と恩寵、そして使命を受けた、神にとって特別な存在であることを意味しました。神がともにいるとは、自分が神の愛の対象であることを意味します。弟子たちは、裏切り者である自分たちが、神がそれでも愛し尊んでいる、期待していると、文字通り身をもって知ったのです。
 
 聖霊が注がれた時、神の愛を身を持って知った時、恐れずに、嫌っていた外国の言葉で、相手を敵とせずにむしろ相手を想って語りました。もちろん、変わらずに、弱さや愚かさもあったでしょう。それでも、キリストが共にいて彼らは変えられていったのです。(第二コリント3章17~18節)そして、聖霊が内に住むなら、キリストがともにいるなら、キリストの善き業を行います。
「孤児にはしません。」と約束された弟子たちは、街にあふれる、乏しい人、悲しむ人、見捨てられた人、孤児たちや寡婦たちに(キリストがしたように)寄り添っていったのです。
 
 また、こうも約束されているからです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2章28〜29節)
 これは、十字架と並んで、神がどんな人のことも、どんな立場や状況の人をも愛しておられる証拠です。その言葉にしたがい、弟子たちは、立場の弱い人、考えの異なる人にも、キリストの愛のわざを表すようになりました。「言葉」はヘブライ語でダバール、これは「出来事」も表します。神が言葉と身を持って愛を表したように、弟子たちも身を持って愛の言葉を表したのです。

 そうして、「すべての民に好意をもたれた」(使徒2:47)のです。今日の教会はキリスト教国は、好意を持たれるキリストの業を行っているでしょうか?本当に神と共にいる人は、孤児を生み出すような戦争を行わないですし、そのような戦争を支援しません。貧しいものや身寄りのないものを、排斥するのでなく、受け入れます。壁でなく橋をつくります。私達は、平和のために、祈り、声を上げ、行動していきたいと思います。

 日曜にこうして集い、礼拝をし、互いに励ましあえることは大きな喜びです。けれども、私達の1週間は、日曜の80分以外に、10000分を、家庭で、職場で、学校で、様々な人間関係の中で、生きるのです。ですから、日曜日だけでなく、毎日神の言葉を聞いて下さい。「助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)神の言葉が私達に生きるようになるためにも、日々神の言葉を耳に、心に、入れてほしいのです。そして、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と私達に誓ってくださった方が、私達の内に住んで出さることに安心して、今日も、明日も、この地上での全ての日を、キリストとともに歩んでください。

<聖霊の続唱>
 聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方、やさしい心の友、さわやかな憩い、揺るぐことのない拠り所。苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め、恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけません。 汚れたものを清め、すさみを潤し、受けた痛手を癒す方。硬い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。 アーメン。
ペンテコステに関する補足資料
〇ペンテコステはクリスマス、イースターと並んで、キリスト教の三大祭の一つです。「教会の誕生日」とも呼ばれます。教会とは建物でなく、宗教法人でもなく、制度でもなく、当然牧師や信仰歴の長い人でもありません。教会のギリシャ語エクレシアは、「呼び出された人々」をさす言葉で、神に召された信仰者の集まりを指して、キリストはエクレシアと呼びました。ペンテコステは、聖霊降誕祭、聖霊授与祭とも呼ばれ、聖霊が神を信じる全ての者に注がれた日、私たちが教会になった日です。

〇ペンテコステはもともとは「五旬節」。過ぎ越し祭りから50日後、ユダヤ教の五旬節・「初穂の祭り」であり、小麦の収穫の始まりを祝うお祭りであり、シナイ山でモーセが律法を授与されたことを記念する日でもありました。その日に聖霊が注がれたのはとても象徴的です。 太陰暦のため移動祝日です。

〇聖霊とは、神様であり、神様の霊です。主の御霊、キリストの御霊とも呼ばれます。聖書の神様は唯一でありながら、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神の三位一体の神様としてあらわされます。
 旧約聖書の時代、父なる神が、天から語りかけ、時に火の柱、雲の柱で人々を導いてくれた。
新約聖書の福音書の時代、子なる神キリストが、身体をともなって人に関わってくださった。
そして、その後は、聖霊なる神が、私達の内側に住み、人と関わってくださるようになった。
どんどんと神と人との距離が近づき、ついには内に住んでくださるほどに、神が人を求められたのです。

〇聖霊は(聖霊なる神様は)旧約聖書の時代は、ごく限られた一部の人(預言者、王様、祭司など)に、限られた時間だけ注がれ、その人は特別な働きをしました。けれどもヨエル書にはこのような約束があります。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書2章28〜29節)このその約束はペンテコステで実現しました。ペンテコステ以降、聖霊なる神様は、特別な人ではなくすべての人の内に、一時滞在ではなく永遠に、住んでくださったのです。

〇「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、」と、神とパウロに背きに背いたコリント教会にも語られるように、全ての信仰者の内に住んでくださっています。そして、大切なのは、「御霊を悲しませ」る歩みをすることでなく、「御霊に満たされ」(エペソ5:18)「御霊によって歩」むことなのです。
 ヘブライ語では霊(ルーアッハ)とは、息とか風を意味する言葉です(exヨハネ3:8)。わたし達は風を見ることは出来ませんが、揺れる枝葉や音から存在を知ることが出来ます。同じように、聖霊なる神様も、信仰者の言動から感じることが出来るのです。

◯ペンテコステで起きた様々な国の言葉で話す出来事、これはバベルの塔(創世記11章)の出来事とつながっています。人間が高慢になり天に届く塔を建てようとし、神が様々な言語を与えることで、塔の建設を阻止した出来事です。彼らが塔を立てた理由、それは「散らされるといけないから。」です。神様は「地を満たせ。」(創世記1:28)と願ったのに、人々はそれを拒んで一箇所にとどまろうと塔を、外と自分を隔てる壁を作ったのでした。だから多様な言葉を与えて、人々を地の全面に散らしたのです。壁でなく、橋を作るようにと。

おざく台教会毎日の聖書 5月18日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。5月18日(月)詩篇100篇 3節「私たち...
17/05/2026

おざく台教会毎日の聖書 5月18日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

5月18日(月)詩篇100篇
3節「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」
 詩人の溢れる喜びや感謝の理由は、自分が主のものであるということでした。神が自分に心をかけ、目をかけ、手をかけくださる、それはとても幸いなことです。そして、あなたも神様の大切な宝物です。では、あなたにとって、王である主の民として、羊飼いである主の羊として生きるとは、具体的にどういう生き方をすることが思い浮かびますか?示された行き方を今日一日実践してみてください。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

5月19日(火)詩篇101篇
2~3節「私は、全き道に心を留めます。・・・私の目の前に卑しいことを置きません。」
 罪の道、繁栄の道、称賛の道、この世界には良い道から悪い道まで様々な道があります。あなたはどんな道を目指して歩いていますか?それは「卑しいこと」や「曲がったわざ」ですか?それともキリストの道を一心に見つめていますか?主イエスは全き道を歩まれ、その足跡に従うように私達を招かれます(Ⅰペテロ2:21)。あなたの生活にキリストの足跡を捜し、そこにあなたの足を重ねる一日としてみてください。

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(第一ペテロ2:21)

5月20日(水)詩篇102篇
12節「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。」
 新改訳の表題には「悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」とあり、3~11節で詩人の落胆と失望が語られます。あなたも表題にある「苦しむ者の祈り」を、「主よ。私の祈りを聞いてください。」(1節)と自分の嘆きを注ぎ出してみてください。その後で「しかし 主よ」と主にこそ失望を超える希望があることを告白してみてください。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」ピリピ4:6

5月21日(木)詩篇103篇
8節「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」
 一節一節が、多くの人に愛されてきた詩篇です。心を静め、この詩篇をゆっくり3度読んでみてください。1度目は言葉をゆっくりと、2度目は言葉の一つ一つを味わいながら、3度目は自分の祈りとして。きっと良い時間になると思います。

「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」ルカ6:35

5月22日(金)詩篇104篇
19節「主は季節のために月を造られました。」
 空、地、海、生き物、神の創造の御業が称えられています。あなたは、神のどの被造物に驚きを感じますか?今日、神の創造の御業を、あなた自身のことばで、賛美してみてください。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩篇8:3~5)

5月23日(土)詩篇105篇
8節「主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。」
 勇気や元気、希望を失ってはいませんか?ここには、価値無き者を選び、契約を結び、それを貫かれた神の御業が記されています。少し時間を取って、あなたの信仰の歩みを、選び、救い、今日まで導いてくださった神の御業を、思いかえしてみてください。その恵みの神が今までと同じように、これからもあなたと共にいて支えてくださるのです。

「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(第一コリント15:57~58)

5月24日(日)詩篇106篇
13〜15節「しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。 そこで、主は彼らにその願うところを与え」
 神からの最悪の罰とは、放っておかれること、自由・好き勝手にさせられること、だとも言われます。すると人間は自ら滅びへと一直線に進んでいきます。私達の内側には「激しい欲望」(14節)があるので、神の御言葉が耳障りに聞こえるのです。けれどそれはいのちへとつながる言葉です。たとえ耳障りであったとしても、けっして耳を背けてはなりません。

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」(イザヤ30:21)

おざく台キリスト教会 2026年5月17日  「御霊によって歩みなさい」 ガラテヤ人への手紙 5章13〜26節   井本香織伝道師1、生成A I、皆さんどんなふうに付き合っていますか? N H Kのクローズアップ現代の特集は、A Iとの付き...
16/05/2026

おざく台キリスト教会 2026年5月17日  「御霊によって歩みなさい」 
ガラテヤ人への手紙 5章13〜26節   井本香織伝道師

1、生成A I、皆さんどんなふうに付き合っていますか?
 N H Kのクローズアップ現代の特集は、A Iとの付き合い方でした。生成AIに話かけると、必要な知識がすぐに手に入るだけではありません。ユーモアを含んだ楽しい会話、あなたは大切だよ、いつも一緒にいるよ、という慰めや励まし、までが返ってきます。そこで、生成AIとデートをしたり、結婚して一生のパートナーとなる人も現れてきました。
 ここ数年で、生成A Iはあっというまに私たちの生活に広がりましたが、それは若い世代だけではありません。人間関係の悩みを相談する相手として、人間とA Iのどちらが良いかを尋ねると、A Iに相談した方が良いと回答した割合が一番高かったのは、60代から70代の女性であり、回答者の47.8%だったそうです。確かに生成A Iに相談すれば、家族や、牧師、カウンセラーよりも、適確で、肯定的で、あなたを満足させるような答えが返ってきます。もう人間よりこちらのほうが楽だ、とさえ感じるかもしれません。
 技術の革新は、便利さや快適さ、満足をもたらします。私たちはどんどん変化していく技術とどう向き合いましょうか。「技術が進歩しているのだから、神様や隣人なんていらない。」という態度もできます。それともA Iを良い道具として上手に用いながら、神と隣人と生きるのか、私たちは問われているのだと思います。

2、技術の革新と高慢さ
 バベルの塔の話も、当時の最新技術と関連しています。古代メソポタミア(チグリス・ユーフラテス川周辺、後のバビロン、現在のイラク)の人々は、れんがと瀝青(アスファルト)という技術を用いて、巨大な建築物を建てました。そして、今日の箇所では、「さあ、天まで届く塔を建て、有名になろう。全地に散らされることのないようにしよう。」(創世記11章4節)と言ったのです。
 その前に、神様は人間に「地に満ちよ」(創世記1章28節、9章1節)と繰り返し、命じられていました。地に広がり、神様の良い代理人として、この世界と自然を管理する人になってほしかったのです。しかし人々は、「散らされたくない」と拒みました。神様に従うのではなく、自分に都合良くいたい、今の安定が最優先、自分の名を上げたい、そう願ったのです。
 古代において塔は、力と団結の象徴でした。敵など好ましくない状況を自分でコントロールしたいという願望、自分が称えられたいという自己顕示欲の現れです。

 聖書では古代の都市である、「バベル」や「バビロン」は、混乱、高慢、富への執着、快楽、暴力、神への反逆の象徴として描かれます。人間が「自分こそ神のようなものだ。」と思い始めるとき、そこには必ず混乱(バベル)が生まれます。全能の幻想、「何でもできるんだ。」という思い込み、天に届こうとする高慢です。

 これは、現代にも通じる問題です。技術が進歩し、AIが発展し、人間は「神などいないかのように振る舞い」「何でもできる」と考え始めるとき、そこに危うさが生まれます。自分が神のように、他国や他者を好き放題にし、謀略の限りを尽くします。富や経済のためなら何でもする。効率のためなら他者を切り捨てる。自然を壊し、人間の尊厳までも道具のように扱ってしまうことがあるのです。(私は福島県出身ですが、東京で使う莫大な量の電気を作るために、福島の田舎の市町村が選ばれて、原子力発電所が建設されました。安定した電力の供給により、日本は豊かになりました、しかし東日本大震災と原子力発電所の事故が起こり、多くの人が故郷を失ってしまいました。)

 神様は、これ以上の高慢や混乱に、ストップをかけました。人々は互いの言葉が通じなくなり、混乱し、分裂し、地の隅々まで散らされていきました。神の配慮によって、人々の言葉はバラバラになり、人々は世界に散っていきました。

 この話を繰り返し聴き、次の世代に語り継いでいった古代の人たちは、高慢になってはいけないことを悟ったはずです。古代の人々のバベルの塔の話はバッドエンドですが、聖署の話はここでは終わりません。長い時間をかけて、神様はハッピーエンドを用意しようとしておられます。その鍵となるのが、ペンテコステのお話です。

3、バベルの塔からペンテコステへ〜ペンテコステは聖霊が与えられたお祝いの日〜
 旧約聖書のバベルの塔と、新約聖書のペンテコステには多くの共通点があります。
①人々が集まる ②そこに神の力が働く ③言語に変化が起こる ④人々は世界中に散っていく

 バベルの塔では、混乱と高慢によって人々は散らされていきました。けれども、ペンテコステでは、「聖霊」が与えられました。聖霊の力によって、喜びを持って、神を愛し、自分と互いの存在を愛しながら、喜んで様々な国へ向かっていきました。

 聖霊はとは、神です。聖霊のことを、丁寧な言葉で「御霊」とも呼びます。イエス様を信じた人の内には、聖霊なる神が住んでくださる。聖書は、そうはっきりと約束しています。
 そして、その人をその人らしくイエス様に似たものに変え続けてくださいます。人を愛し、勇気づけます。困難なことがあっても希望を持ち、毎日を喜びを持って生活できるようにしてくださいます。人に親切にし、自分と違う人を受け入れ、優しさを持ち、時には必要なセルフコントロールをすることができる人にしてくださるのです。

 イエス様は聖霊を風に例えました。風は目には見えないけれども、風が吹いていたら、わかります、感じます。同じように、聖霊も目には見えません。しかし、その人の優しさ、平和、正義、赦しを通して、確かに働いておられることが分かるのです。聖霊は、まだイエス様を信じていない人の心にも働いてくださいます。人を愛そうとする心、正しく生きたいと願う思い、良い気づき、励ましを与えてくださいます。

4、御霊(聖霊)によって歩みなさい。
 今日お読みした聖書のガラテヤ人への手紙には、「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ5章16節)や「御霊に満たされなさい。」(エペソ5章18節)とあります。
 ある牧師は、御霊によって歩むとは、自分が人生の中心の座に座るのではなく、イエス様に中心に座っていただくことだ、と教えました。とてもわかりやすい図だと思います。
 自分が神のようになるのではない。神を自分の心の端っこではなく、中心にとして生きることを教えてくれます。たとえ神様、そしてイエス様を信じている人でも、自分が心の中心に座っていたら、御霊によって歩むことは難しくなります。不平不満、自己中心に陥りやすくなります。

 いつも、「神様、私ではなく、あなたが、心の中心にいてあなたの愛の教えに従うことができるように助けてください。」と願い続けましょう。神様は御霊によって歩めるよう、私たちを導いてくださいます。御霊に満たされなさい。とは「満たされ続けなさい」という継続の意味があります。息を吸って、吐くように、私たちは自分の気付かされた罪(神様に喜ばれなかったこと)を、ごめんなさいと認めて告白し、そして御霊に満たされ続けて歩むのです。

5、御霊(聖霊)の助けによって、世界のために祈る。〜互いに謙虚に歩めるように〜
 もう1人、初代教父(4〜5世紀、キリスト教の初期の頃の偉大な教師)アウグスティヌスという人を紹介します。彼は、お母さんがクリスチャンでした。若い頃は遊びまくっていましたが、ある時から劇的に神を信じるようになりました。彼は「神の国」という本の中でこんなことを言っています。
「地の国」とは、自己を愛するあまり、神さえを軽蔑する共同体。(※例えるなら、バベルの塔の価値観です。自己愛に満たされ、「自分が支配したい」という生き方です。)
「神の国」とは、神を愛するあまり、自己さえ軽蔑する共同体。

 この神の国と地の国の対立で歴史は動くとアウグスティヌスは教えました。私たちは、自分たちが生きている間、この世界のために祈る役割を神様から任されています。争いの広がる世界と日本の指導者たちに謙虚さと知恵が与えられ、愛と平和によってこの世界が少しでも良くなっていくように、あきらめずに希望を持って聖霊の助けによって祈りたいと思います。

6、結び
 私たちは、様々な技術の進歩の途上中に生きています。バベルの塔を建てようとした人たちのように自分たちの欲望をもとにして「神様いらない。」と思い上がる時、それは神を悲しませる結果になるでしょう。人は高慢の種を蒔けば、その結果も刈り取ることになると聖書は語っています。
 しかし、今、私たちには聖霊が与えられています。聖霊はイエス様を信じた人たちの内に住んで、瞬間、瞬間私たちを満たしてくださいます。御霊によって歩めるようにしてくださいます。御霊によって歩むとき、謙虚さと、神の助けによって、違いを認め合いながらも一致するという愛と平和へと導こうとしておられます。神様が聖霊によって私たちを、高慢ではなく謙遜へ、混乱ではなく平和へと導いてくださいますように。

おざく台教会毎日の聖書 5月11日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。5月11日(月)詩篇93篇 4節「大水のと...
10/05/2026

おざく台教会毎日の聖書 5月11日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

5月11日(月)詩篇93篇
4節「大水のとどろきにまさり、海の力強い波にもまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます。」
 昔も今も自然の力の前に人は無力です。ユダヤ人たちも、自然災害の前に、力なく立ち尽くした時もあったでし ょう。しかし、彼らはどうしたか?主への信頼の言葉と共に立ち上がりました。疫病もあります。災害もあります。日常にもさまざまな困難があります。しかし、私達もこの言葉のように力強い主を告白し、立ち上がりたいのです。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:37~39)

5月12日(火)詩篇94篇
9節「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。」
 神から見捨てられている、放っておかれている、そう感じることはありませんか?大丈夫です。神はちゃんとあなたを見てくださっています。祈りも聞いてくださっています。恐れる時、落ち込む時、神のあたたかなまなざしを見上げてください。祈り、あなたの心を注ぎ出してください。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザヤ43:4)

5月13日(水)詩篇95篇
6節「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。」
 私達の世界には誇ろう、胸を張ろう、といった高慢や自己義認など上方向への招きが溢れています。しかし聖書はへりくだりや謙遜など下方向へと、片隅へと、私達を招きます。その低くなったところには、キリストがおられるからです。

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヘブル4:10)

5月14日(木)詩篇96篇
1節「新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。」
 聖書で最も多く登場する命令は、主を賛美せよ(ハレルヤ)、です。私達が神の愛と恵みを喜び、讃え、歌いつつ生きることは神の願い、私達の使命です。あなたは今日、どのような歌で神をほめたたえたいでしょうか?声に出して、賛美を神に向かって歌ってみましょう。

「悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。」(ネヘミア8:10別訳)

5月15日(金)詩篇97編
11節「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。」
 誠実な人が苦労し、悪や不正を行う人が栄える世界に、私達は葛藤します。しかし、キリスト教最大の神学者アウグスティヌスは悩みつつ答えました。『私たちは、善人だけに与えられるよいことを捜し出し、悪人に特有の邪悪なことから最大限の距離を置かなければならない。』 もちろん人のことも気になりますが、いかに目の前の一日を神と人に対して誠実に生きられるか、そのことに心を注ぎたいと願います。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

5月16日(土)詩篇98篇
3節「主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。」
 たとえ死の谷の陰を歩むような日々でも、私達はやがての日に私達はこの賛歌を歌うことになるのです。真実(ヘブライ語でヘセド)とは、約束に基づいた神の変わらない愛、を意味する言葉です。神は度重なるイスラエルや私達の反抗や不信仰にもかかわらず、契約を忘れず愛しぬき、今までも、これからも守り助けてくださいます。必ず実現する確かな希望に目を向け、この詩篇を祈りながら、先取りして神をたたえてみてください 。

「見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」(黙示録7:9~10)

5月17日(日)詩篇99篇
1節「主は王である。国々の民は恐れおののけ。」
 私達は何を王様としていますか?何に心を向け、時間と力とお金を捧げ、そこから喜びを得ようとしていますか?人物、団体、メディア、富、レジャー、嗜好品、所有物、SNS、それらは悪いものではありませんが、時にわたし達を支配し、大切なものを見失わせます。様々な王様が人々を支配するこの世界の中で、本当の神様を王として生きられますように。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)

2026年5月10日おざく台キリスト教会「キリストの福音⑮」  マルコの福音書5章5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。 5:25 ところで、十二年の間長血をわずらってい...
09/05/2026

2026年5月10日おざく台キリスト教会「キリストの福音⑮」  マルコの福音書5章

5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。 5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。 5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。 5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」 5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

<母の日の起源と精神>
 今日は母の日記念礼拝です。19世紀のアメリカ南北戦争の頃、女性たちを集め、敵味方関係なく負傷兵のために医療従事したアンさんという女性がいました。その死後、娘さんが追悼記念会を主催し、アンさんが好きだった白いカーネーションを教会に飾ったことが起源です。日本では、青山学院大学の女性教師たちを通して紹介され、次第に普及していきました。おざく台では、女性への感謝を込めてカーネーションを用意させていただきました。女性は、愛や柔和さや平和を示すのに非常に長けています。まさにキリストのいのちが、女性の言動を通して実現する、受肉(インカーネーション)するのです。全ての女性達に、敬意を表したいと思います。

 母の日の起源の話をしましたが、それ以降、今日までも様々な戦争が続いています。戦争に駆り立てる方法は、いつも同じです。敵と味方の2つに分けてしまうのです。相手を人として見ずに、敵として、悪として見るのです。失われた命、奪った命を、数・数字としか見ないのです。
  個人として見ずにレッテルを貼る、主語を大きくして一括りにする、そのようようにして、自分に都合が悪い人を、悪人扱いする大統領がいます。自国の問題をあたかも外国人のせいにする政党があります。イスラエル国家の残虐行為さえ、全て正しいとする国家や教会があります。物事を単純に、安易に、0か100か、白か黒か、善か悪か、敵か味方か、に分け、片方を完全に肯定し、片方を完全に否定してしまう。これは母の日の精神とは真逆なのです。

<汚れというレッテル>
 今日の場面では、一人の女性が、長血という病を患った女性が登場します。(出血を伴う女性特有の病気だと推測されています。)長血には、2つの問題がありました。
1つ目は29節にあるように、「ひどい痛み」が伴い、12年間心と体をすり減らしてきました。
2つ目は、「汚れた」存在として12年間、社会から人から疎外されることでした。

旧約聖書(レビ記15章25~31節)では、皮膚の異常や、血が出ている状態を、大きな括りとして「汚れ」と理解し、その間は、神事や人前に出ることが禁じられました。「汚れ」は、本来は衛生的な意味や、本人の保護が目的で、一時的な状態を指しました。しかし次第に、宗教的「汚れ」という理解が一人歩きし、神の前にふさわしくない存在、宗教的に避けるべき存在とされ、まるでその人の本質のように、その人の全てのように理解されました。
この女性は「汚れ」ていると指さされ、家族・友人・異性とのつながりや絆も絶たれる。そのような阻害や孤独が12年続いたのです。(私達も、括られ決めつけられ、疎外された経験がないでしょうか?または逆にそのようにしてしまったことはないでしょうか?)

加えて「多くの医者からひどい目にあわされ」たとあります。当時は、医者といっても、迷信じみたものも多く、今日の新興宗教と大差ありません。だまされすべてを失い、病は悪くなる一方でした。そんなある日、イエスの噂を聞きつけ、彼女は、最後の賭けに出ました。本当なら、イエスに助けを願いたい。しかし、イエスの周りには人が多くて、誰かに触れずにはイエスの前まで行けない。イエスが、自分を相手にしてくれるかも分からない。そこで、人混みにまみれ、こっそりと手を伸ばしてイエスの着物に触れるのです。宗教的には、周囲の人々を、そしてイエスを汚すことになってもです。

 ずっと疑問がありました。イエス様は人の心さえ見抜く方。全てご存知の方。本日の交読文(詩篇139:1〜4)にはこのようにありました。
1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
 人が何を考えているか、何を隠しているかを見抜き、弟子達やユダがこれから裏切ることすら、分かる方。当然子の女性のことだって分かっているはず。「汚れた女性だ」とサッとよけることも出来た。「応えてやるものか」と力が出て行かなくすることも出来た。でもイエスはこの女性の求めに応じ、彼女に力と心を注ぎ、彼女は奇跡により病が癒やされるのです。

<あなた、としてみるイエス>
 イエスは、彼女に触れられた際に「汚れた」とは感じなかった。「力が出ていった」(30節)と感じたとあります。宗教家や祭司ならば「汚れ」た!と怒る。けれどイエスは問題にしない。聖(きよ)いか、汚れているか、正しいか、正しくないか、などという単純な理解では彼女を決めつけようとしなかった。
 すべてを知るイエスは、その知識を用いて、この女性が歩み、経験してきた痛みも、感じてきた失望や悲しみも、知ってくれていた。そして、「あなたの信仰があなたを直したのです。」(34節)と言われた。「あなた」としてみてくれるのです。

 しかも、ただの情報としてではなく、身をもって知ってくださっている方です。聖書はイエスを「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)と表現します。
 イエスは貧しい家に生まれました。父親を亡くし、働いて母や兄弟達家族を支えました。生活の苦労を知っています。この女性は、身体の痛み、孤独の辛さ、裏切られ見捨てられる悲しみを経験しましたが、イエスは恐ろしいむち打ちや、最も残酷で苦痛を伴う十字架刑を経験し、痛みを知っています。誰からも理解されない孤独や父なる神と引き離される家族との別れの辛さを知っています。愛する弟子達に裏切られ見捨てられ悲しみを知っています。非難されたり、笑いものにされたり、その他私達が直面する多くの困難や痛みを、身を持って知る方であり、私達は「神に知られている」(ガラテヤ4:9)のです。

 これが大切なのですが、これは、別に彼女が聖人君子のように聖い、完全無欠な心を持っていたからではありません。12年傷つけられ続けたのです。歪んでいて、醜くなって当然です。人やイエスを汚してでも、タブーを犯してでも、自分は治ってやる、それが彼女でした。しかし、彼女の痛みや孤独や悲しみを、身を持って知っているイエスだからこそ、彼女の身勝手な心や行為さえ、頭ごなしに否定せず、信仰と受け止めてくださった。レッテルを貼られていても、完全無欠でなくても、歪んだ心のままでも、私達の神は喜んで私達を受け入れてくださるのです。

 この女性は、その場をこっそり、おそらくイエスと反対方向へと立ち去ろうとします。しかし、背後からイエスの声が響きます。「だれが私の着物にさわったのですか。」恐る恐る振り返ると、イエスが振り向いて、見回している。
 「恐れ」(33節フォボス)は5章のキーワードであり、引っ込めるとか、撤退する、訴訟を取り下げる、という意味。感情ではなく、姿勢です。彼女は、自分自身を神の前に諦めようとしていたのが、分かります。
 だからこそ、イエスは、触った人の事を探しました。もし、彼女がこのまま逃げ去っていたらどうなったでしょうか?体は治りましたが、人に避けられ、だまされ、孤独の中で、傷つき歪んだ心はそのままです。イエスにしたことは、負い目を与え、心をより暗くすることになる。
イエスは、告白の機会を与えました。そして自分に対して、ある意味で罪を犯した女性を咎めず、むしろ称えた。汚れというレッテルを貼られ、人から避けられ、神にも拒まれたと、決めつけられた女性を、神は決して拒んでいないことを、示したのです。

 神は良い方で、ちゃんと私達を知り、私達を見てくださる。彼女にしてくれたように、私達を知り、愚かさも、弱さも、醜さも、まるごと受け入れてくださる。だからこそ、自分を諦めず、この詩篇のように、神の前に出てください。
23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
イエスの視点で、自分を、他人を、尊ぶことができますように。

おざく台教会毎日の聖書 5月4日~1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。5月4日(月)詩篇86篇 15節「しかし主よ...
03/05/2026

おざく台教会毎日の聖書 5月4日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

5月4日(月)詩篇86篇
15節「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」
神は、私たちに対して憐み深く、情け深く、私達の身勝手さや愚かさにもかかわらず、いつも忍耐してくださっています。では、神の民であり、神の似姿に造られた私達はどうでしょうか?今日一日、十字架の赦しを胸に刻み、憐み深さと赦しをテーマとして歩んでみてください。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:36)

5月5日(火)詩篇87篇
4節「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」
 これらの国々は、イスラエルの敵国です。神の愛は神に敵対する国にまで及ぶのです。私達は、勝手に神の愛の広さと深さを制限していないでしょうか?無神論の方にも、異なる宗教の方にも、あなたが嫌う人にも、十字架の愛は、向けられているのです。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)

5月6日(水)詩篇88篇
18節「あなたは私から愛する者や友を遠ざけてしまわれました。」
 人間は、家族や友など共同体の中で「共に」生きるように造られました。しかし、コロナの影響もあり人との関わりが制限されています。しかし時に、神と「共に」生きることを学ぶために、孤独が与えられることがあります。孤独を機会とし、他の誰でもなく神に、あなたの心や思いを語りかけてみてください。

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。」(詩篇50:15)

5月7日(木)詩篇89篇
9節「あなたは海の高まりを治めておられます。その波がさかまくとき、あなたはそれを静められます。」
 神が全てを治めているならなぜ?私達は、今回のような疫病の時、また地震・台風等の災害時、神の愛を疑います。しかし忘れないでください。創造の前の大水(創1:2ユダヤ人にとっては混沌の象徴)に、神が御手を伸ばし秩序を与え今の世界が保たれています。あなたの今日一日があるのも、神の愛の御手のゆえなのです。

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。 だから恐れることはありません。」マタイ10:28~30

5月8日(金)詩篇90篇
12節「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
 長寿をはじめ力や富を誇り合う人間、しかし、永遠で無限の神の前でそれらが何の意味を持つでしょう。
しかし、もし、私達が与えられた日々や力を、神と隣人のために用いるなら、それらは永遠につながります。主キリストがそうだったようにです。私達の労苦や忍耐、へりくだりは、決して無駄ではないのです。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)

5月9日(土)詩篇91篇
15節「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。」
 信仰の有無に関わらず、私達は困難に遭ったり、幸福を享受したりします。ある人は良い事ばかり、私は苦労ばかり、と感じ、うらやましくなる時もあるでしょう。しかし、そんな時思い出してください。全ての人にとって、本当の幸いとは、神が共にいてくださることです。今あなたは、幸いを得ているのです。今日がどんな一日でも、神は共に歩んでくださいます。

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)

5月10日(日)詩篇92篇
14節「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」
 年齢や状況により、自分は力を失い、もう何もできない、そう思ってはいませんか?アブラハムは75歳、モーセは80歳で、神様に呼ばれました。彼らが特別だったから?いえ、彼らも弱い人間であり、加えて力や自信を失う年齢でした。 あなたがどれだけ弱くても、あなたと共にいる方は力強い方です。年齢、知識、才能、財力、人脈・・・それらは確かに、大切かもしれません。しかし、神が共にいるからこそ、あなたは祝福の泉、実を結ぶ存在、となれるのです。このことを信じますか?

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30~31)

「キリストの福音⑭~あなたの神の神の名は?〜」  マルコの福音書5章5:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。 5:3 こ...
02/05/2026

「キリストの福音⑭~あなたの神の神の名は?〜」  マルコの福音書5章

5:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。 5:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。 5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。 5:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、 5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」 5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。 5:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。

 今日の箇所は汚れた霊に憑かれた人、悪霊に支配された人が出てきます。まるでホラー映画「エクソシスト」のようなこの場面に、多くの人は思います。「これは昔の話だ、誰かの話だ、私とは関係ない。」しかし、この箇所は、聖書の福音(良い知らせ)に関わる大切な箇所です。
 思い返してください、神の国は近づいた(1:15)と宣教を開始したイエスが最初にした奇跡、それは汚れた霊に憑かれた人を解き放つ(1:23〜27)ことでした。

<1〜5節>
 前回のお話で、イエスは湖の嵐を沈め、湖の向こう岸、異邦人の住む地域に渡ります。船から上がるとすぐに、汚れた霊に支配された人が墓場から出てきます。汚れた霊は彼に、足かせを砕き、鎖を引きちぎるような力を彼に与えました。しかし、彼自身も、他の誰も、どんな手段も、彼を制御できず、孤立や死を象徴する墓場や山で、自分自身を傷つけていました。

 力を与える一方で、その人を支配し、制御を失わせ、自分や人を損なわせる、孤独や死へと向かわせる。中学・高校には、薬物、アルコール、SNS依存への注意を啓発するポスターが掲示してあるのですが、その絵は、今日の場面とそっくりです。

 聖書において、汚れた霊、悪霊とは、直接でも、間接的でも、私達を支配し、損なうものの象徴として描かれています。聖書では、悪霊に限らず、様々なものに支配され、それを神のように拝み、歩みが狂った人が多く出てきます。
 偶像を拝んだ旧約聖書の人々が浮かぶでしょうか?彼らだけではありません。取税人ザアカイは富に支配され、人々を苦しめ、孤独に陥りました。マグダラのマリアやサマリヤの女は異性との関係を人生の拠り所とし、自分の体をおろそかにしました。ヘロデ王は地位にしがみつき、家族を含む、多くの人の命を奪いました。宗教家たちは、立場や影響力に目がくらみ、伝統や宗教を拝み、キリストを拒みました。もちろん、悪霊というのも聖書に記されていますが、3~5節の悪霊に直接にでも、間接的にでも支配される私達人間の姿でもあるのです。

 そして、聖書においてそれらからの解放者として描かれるのがイエスです。神以外のものに、取り憑かれたり、不当に支配されたり、時に抑圧されたりしている人々を解き放ち、愛と恵みをもって支配する神の元へと導くのです。

 ですから、イエスは宣教の前にまず、支配の代表である悪魔の誘惑に勝たれた。イエスの最初の言葉は「時が満ち、神の国(支配・統治)は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)でした。もう悪いものに支配されなくていい、神があなたを治めてくれる。というのです。そして、マルコが示す最初の奇跡は、汚れた霊からの解放(1章23〜27節)でした。

 もちろん、みなさんは、偶像や、富や権力や快楽の虜にはなっていないかもしれません。しかし、宗教改革者達は言いました。「今あなたが、心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神(偶像)なのである」(宗教改革者ルター)「人間の心(頭)は、まさしく偶像を作りだす工場である。」(宗教改革者カルヴァン)

 キリスト教はよく、快楽、他宗教・酒タバコなどの嗜好品・快楽・反キリスト教的文化、などを偶像礼拝・悪霊崇拝だと安易に否定してきましたが・・・・
 人物・地位・経歴・称賛・健康・SNS・人間関係・資産・容姿・祖国・団体・思想・信条・伝統など本来良いもの、教会や信仰でさえも、まるで神のように、私達を支配しうるのです。

 黄金のたとえ話。「彼が黄金を所有していたのか、黄金が彼を所有していたのか?」神に向けられるべき愛や心が、神による被造物に向けられている。アウグスティヌスはそれを「転倒した愛」と呼びました。ポイントは、神様の愛を妨げてしまうことです。

<6〜9節>
5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、 5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」 
 この悪霊に憑かれた人は、イエスに、7節で「いったい私に何をしようというのですか。」
と言います。これは私に関わらないでください、という意味で、聖書で用いられています。
 イエスが神だとわかる、ひれ伏しもする、自分の拝む偶像のことだけは放っておいてほしい、密かな自分の支えだけは見逃してほしい、こう願ったのは、この人だけでなく、アウグスティヌスというキリスト教最大の神学者でもあり、私達でもあるかと思います。
私達を支配するものの名は?私が密かに拝み、支えとする、私達のレギオンは何でしょうか?神学校では、霊性という授業があり、自分がいかに神以外のものに従い、支えとし、動機としているかを、牧師になる前に向き合うのです。

5:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。
 (文学のゲド戦記などでもありますが)古代においては、名を聞いて、それを支配する、という考えがありました。イエスが、悪霊の名を聞けた。それはイエスの力の証でした。そして、イエスが、悪霊に支配されたその人を、けっして放っておかないという証拠です。

 前回のお話で、イエスは船に乗りました。そしてやってきたのは、ユダヤ人にとっての「向こう岸」、ゲラサ人の地でした。ユダヤ人が避ける豚を飼っていることから異邦人の地だと分かります。ユダヤ人が嫌い対立していた異邦人です。その中でも、問題となっていた人。しかし、イエスは荒れた湖を通ってでも、この人に会いに来たのです。
 また関わり方も特別です。イエスは基本的に求められることに応じます。求めがなければ応えません。けれど、この人の場合には、相手が拒むのに関わる。なぜなら、イエスにとって、放っておけないことだからです。
 イエスは、人が神以外のものに支配され、自分や他人を傷つけ滅ぼしていくことを悲しみます。そしてそれ以上に、私達が憐れみの神に支配されることを、何より願うのです。

 イエスは、宣教の第一声で、神の国は近づいた(1:15)と、言いました。天国、神の国とは、場所ではありません。国と訳されるギリシャ語のバシレイアとは、支配や主権という意味です。
「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配(ギリシャ語でバシレイア、国と同じ言葉)の中に移してくださいました。」 コロサイ人への手紙1章13節
 イエスは、神の愛を妨げるあらゆるものから私達を解放し、神の愛に憩わせることです。

 一方で、気をつけてください。今日の場面より、綺麗さっぱり、悪や罪を追い出されなければ、神と出会えない、自分はだめだ、そう思う人がいる。でも、聖書は、全体的に読むのです。
 しかし、自分は完璧だと、高慢になる、人々を差別し抑圧する宗教家にイエスは言いました。「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」(マタイ21章31節)
 取税人や遊女は、貧しく、スネには傷があり、人とのトラブルや遺恨、罪や未解決の問題も、たっぷりと抱えていた。それでもイエスは、彼らは、神の国に入っているといった。つまり、神が彼らを支配してくれている。彼らは神の愛の手の中にあると宣言したのです。
 問題の有無ではない、何が私達を支配しているかが大切なのです。
 様々な欲望と戦ったアウグスティヌスは、私達は問題は、欲望が強すぎるのでことではなく、神への欲望が弱すぎることが問題だ、と記します。偶像・悪霊・罪から努力して離れる以上に、それらが恐れるイエスに近づくことが大切。依存しないのでなく、より良い依存先を持つのです。
 彼はこうも言いました。「神を愛せよ、その後に、汝の欲することをなせ。」神に心を向け、神に導かれる、問題や弱さがあっても、神に向け、神の国を、神の支配を生き続ける、それが信仰者の歩みです。
 
 「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」 コロサイ人への手紙1章13節
 私達はもう、キリストの支配の中に、神の国にいるのです。いつでも、それを受けられる。そして、私達は、何者にも支配されず、それらを正しく扱うことができるのです。

住所

東京都羽村市栄町1丁目14/34
Hamura-shi, Tokyo
205-0002

電話番号

+81425543173

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