29/08/2026
「キリストの福音26~ただキリストの愛だけを誇る~」 マルコの福音書10章16〜27節
10:16 イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」 10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。 10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」 10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
<本物の見分け方>
試金石という言葉があります。金は非常に安定した元素で、基本的には、他の物質と反応せず、錆びたり、溶けたりはしません。(鉄は、みなさんの胃酸である塩酸で溶けます。)
そこで、試金石という硬い石板でほんの少しだけ金を削り、そこに硝酸という強い酸をかけます。溶けなければ、金だと証明できるのです。
さて、マルコ10章のテーマは「神の国」です。聖書で「国」とは、「統治」や「支配」も意味する言葉です。神の国とは、神が治め、神の愛が表されるところを意味します。
しかし現実は、武力により現状変更を試みる国、自国の正義を振りかざし他国の権利を踏みにじる国、指導者が反省などしないと言い放ち大国に媚びへつらう国。キリスト教国や、美しい国を自称しつつも、人の高慢さ、暴力、欲望が治める、まるで、罪の国です。そして、被害を受けるのはいつでも、子どもに代表される、弱い、力のない存在です。
それらを踏まえ、今日の箇所を、ただ、天国に入る資格とは?、と読まず、私達の内側や周囲に、神の国が、神の心が表されていくには?という視点で読んでいきたいと思います。
<その手の中に何もないかのように>
前回のお話では、イエス様は、子どもを祝福し、「神の国は、このような者たちのものです。」(10章14節)と言いました。子どもとは、力も、知識も、立場も、功績もない、他者へも、神へも、何も誇れない、その手に何も持たない(神の国から最も遠いと考えられていた)存在です。しかし、イエスは、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(10章15節)と言う、弱い立場の人を受け入れるかが試金石だというのです。
イエスは無条件でこどもを祝福し、神の国は入るのでなく招かれる、神の愛や救いは、勝ち取るのでなく、ただ受け取るもの、と表したのです。
この出来事の直後、金持ち青年が登場します。当時の理解では、神の国から最も近い(最も神に愛され尊ばれる)と自他ともに認める人でした。豊かさは、神からの祝福の証拠と結びつけられていました。宗教的行為も完璧に近く、役人で社会的な地位も申し分なかった人です。
10:17 ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
走り寄って、ひざまずいた。この態度まで、完璧のように見える人物を、イエス様は突き離すように言います。10:18「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」厳しい態度するほど、彼の内側に問題があったようです。
イエスは彼に、神だけが尊いと、忠告します。つまり、彼は、神に心が向いていなかったのです。彼にとって、人気者の「尊い先生」であるイエスは、優れた自分を承認してくれる存在でした。ある国の首相が、他国の大統領の好意を得ようと媚びへつらい褒め称えるように、この人はイエスに媚びていました。彼は、本当の意味では、神にも、そして、神が尊んだ子ども(弱い立場の人)にも目が向いていなかったのです。もっとも神の国に近いと考えられていた彼は、実際は神の国から遠い存在でした。
彼の持っていた、富、力、立場、積み上げてきた功績、これら自体は良いものです。しかし、人々は、それが神の愛の証拠であり、敬虔さへのご褒美であり、それは神の愛や救いを保証すると考えました。それらが、彼の目を曇らせ、心を神から、そして、弱い人から遠ざけていたのです。
私達はどうでしょう。キリスト教の家庭に生まれました。教会や牧師の教えを守っています。奉仕をしました。何度も聖書を全部読みました。経験や知識を持っています。献金をしました。牧師です。役員です。奏楽者です。有名な◯◯牧師から洗礼を受けました・・・だから神に愛される。逆にこれらがないと救われない、そう勘違いしてはいませんか?それらは、神の愛を獲得する道具、神の祝福を得る対価ではないのです。あくまで、神の愛を受けた応答に過ぎないのです。
それらを誇っている限り・・・私達は、教会は、宗教的であるかもしれませんが、神の国に入っていない、神に心や生活を治めてもらっていない、神様の愛や憐れみを表すことができないのです。使徒パウロは、高慢さから、教会としてあり方を失っていたコリント教会に告げました。「誇る者は主を誇れ」第一コリント1:31(共同・口語訳)
教会とは、何も誇ら(れ)ないものの、神の愛を誇るものの集まりです。こどものような存在、その手に何も無い人が尊ばれているかが、私達が、教会が神の国であるかの、試金石です。
<あなたを救えないものを手放す>
17節:金持ち青年は、神の国に入るには、何をすればよいか、物々交換を持ちかけます。
19節:イエスは、十戒のうち、隣人愛を象徴する6つの戒めを告げます。
20節:金持ち青年は、それらが出来ている。自分は他者に対して申し分ない、と答えます。
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
金持ち青年にとって、富は、生活と心の支えでした。社会的地位と、宗教的尊敬、を保証するものでした。信仰的にも、これがあれば大丈夫と思えました。しかし逆に、神に目を向ける(イエスについていく)、立場の弱い人に目を向ける(こどもを受け入れる)のを妨げていました。
だからこそ、イエスは、彼の深いところを「見つめ」、「いつくしんで」(ギリシャ語でアガパオー、つまりアガペーの愛で)、富を手放し、貧しい人に与えるように言ったのです。
誤解しないでいただきたいのですが、この後の、弟子との問答から分かるように、何かを手放すという行為によって、神の国に入るのではありません。
この金持ち青年にとって、富が神に向くことの、貧しい人(子どもに代表される存在)を尊ぶことの、そして、イエスの「わたしについて来なさい」という言葉に応えることの、妨げとなっていました。あくまで、この青年に大切なことを個別対応で、言ったのです。
私達は、金持ち青年ほどは、富、地位、名声、功績、宗教行為、健康や若さ、といったものは持ち合わせていないかもしれません。
しかし、自分の手にある何かを誇りとし、それによって神の愛や救いの保証としたり(すると、それがない人を否定してしまうのです)、逆に、自分にはこれが足りないので、神に愛されない、救われないと考えてしまったとしたりと、内側には、小さな金持ち青年が住んでいるかもしれません。
ですから、イエスの福音の言葉を聞きたいのです。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。・・・ 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 ・・・弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(23〜27節抜粋)
誰が救われるのか?、誰が神に愛され、神の国に入るのか?誰が、神の心を表す人になれるのか?それは、武力でも、財力でも、才能でも、努力でもありません。人ではなく、神だけができるのです。
私は、何も手に持たず神に愛されている、隣の人は何も持たずに神に愛されている、ただそのような憐れみ深い神を誇る、そのような心に、そのような教会に、神の国はもたらされるのです。
今週の黙想 神と人の前に誇るあなたの「富」は何ですか?祈りの中で、力も功績もない子どもとして、キリストに抱かれ、頭に手を置いてもらい、祝福されてみてください。