玉泉寺

玉泉寺 東京都八王子市にある真言宗智山派の寺院です。南北朝時代の永徳3年(1383)に開創。本当に豊かな人生を送るために、供養と祈願の大切さを伝えています。

■玉泉寺 今月の掲示板■「一滴の雨に 宇宙が宿る」https://gyokusenji.blogspot.com/2026/06/blog-post.html #玉泉寺  #弘法大師  #空海  #真言宗智山派  #不動明王  #聖天  #...
01/06/2026

■玉泉寺 今月の掲示板■「一滴の雨に 宇宙が宿る」

https://gyokusenji.blogspot.com/2026/06/blog-post.html
#玉泉寺  #弘法大師  #空海  #真言宗智山派  #不動明王  #聖天  #歓喜天  #密教  #縁日  #護摩修行  #祈りと瞑想  #供養と祈願  #掲示板  #法語  #京王堀之内  #南大沢  #由木  #越野  #多摩センター

玉泉寺の住職が綴る「祈りの泉」。仏教的な気づきと祈りと思索の記録

■玉泉寺不動縁日護摩■毎月28日は玉泉寺本尊不動明王御縁日です。 今月は午前9時から不動縁日護摩修行を行います。難しい事は何もありません。ご本尊不動明王への祈りの中にすべてを投げ込みましょう。必ずお不動さまのお力が及ぶことでしょう。時と場所...
26/05/2026

■玉泉寺不動縁日護摩■
毎月28日は玉泉寺本尊不動明王御縁日です。
今月は午前9時から不動縁日護摩修行を行います。
難しい事は何もありません。
ご本尊不動明王への祈りの中にすべてを投げ込みましょう。
必ずお不動さまのお力が及ぶことでしょう。
時と場所が違っても構いません。離れていても共に祈りましょう。

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【玉泉寺だより刊行のお知らせ(年4回)】【お盆号のご案内】ご縁の皆さまに、玉泉寺だよりお盆号をお届けいたしました。 #お盆 #玉泉寺 #弘法大師 #空海 #真言宗智山派 #不動明王 #聖天 #歓喜天 #密教 #寺だより #縁日 #護摩修行 ...
25/05/2026

【玉泉寺だより刊行のお知らせ(年4回)】
【お盆号のご案内】
ご縁の皆さまに、玉泉寺だよりお盆号をお届けいたしました。

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5月20日、 #高尾山薬王院 へ参詣する  #八隆講 を無事にお勤めすることができました。ご参詣くださった皆さま、陰で支えてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。一人ひとりの真心とお力添えによって、今年も尊いご縁の場を結ぶことができま...
21/05/2026

5月20日、 #高尾山薬王院 へ参詣する #八隆講 を無事にお勤めすることができました。

ご参詣くださった皆さま、陰で支えてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。

一人ひとりの真心とお力添えによって、今年も尊いご縁の場を結ぶことができました。

慌ただしく移ろう時代の中でも、こうして共に手を合わせ、語り合えることの有り難さを改めて感じております。

今後とも、皆さまとのご縁を大切に、丁寧に歩んでまいります。
誠にありがとうございました。

青葉ゆれる寺の朝。風も光も、みな拝み。手を合わせれば、この命もまた、大きないのちの中にある。
17/05/2026

青葉ゆれる寺の朝。
風も光も、みな拝み。

手を合わせれば、
この命もまた、
大きないのちの中にある。

■玉泉寺 今月の掲示板■「鬱蒼繁茂(うっそうはんも)」整えすぎた心は、やがて渇く。少し乱れ、少しこぼれ、なお生きよ。鬱蒼たる中にこそ、いのちの泉あり。整えられた街は、たしかに便利です。見通しはよく、足元は舗装され、虫も少なく、衣服に草の実が...
30/04/2026

■玉泉寺 今月の掲示板■「鬱蒼繁茂(うっそうはんも)」
整えすぎた心は、やがて渇く。
少し乱れ、少しこぼれ、なお生きよ。
鬱蒼たる中にこそ、いのちの泉あり。

整えられた街は、たしかに便利です。
見通しはよく、足元は舗装され、虫も少なく、衣服に草の実が付くこともありません。落葉に悩まされることも、雨上がりのぬかるみに靴を取られることもない。人が暮らしやすいよう、都市空間は多くの不便を取り除いてきました。
それは大きな知恵であり、努力の結晶でもあります。けれども、不便を遠ざけるほどに、私たちは知らず知らずのうちに、別の何かまで遠ざけてはいないでしょうか。
木々が鬱蒼と茂る場所に入ると、まず人は少し戸惑います。枝葉が重なり、光はやわらぎ、地面には草が茂り、落葉が積もり、風の通り道も街中とは違う。そこには人間の都合だけでは測れない秩序があります。
しかし、しばらく身を置いていると、不思議な変化が起こります。
張りつめていた心がほどけ、過度に整えようとしていた感覚がゆるみ、自分もまた自然の一部であったことを思い出すのです。
現代人は、清潔さ、効率、正確さを求められる場面の中で生きています。常に整え、遅れず、乱さず、失敗なく過ごすことが求められる。そうした緊張は、知らぬ間に心身を乾かしてゆきます。
鬱蒼とした緑には、その乾きを潤す力があります。
葉のざわめき、土の匂い、木漏れ日の揺らぎ、名もなき虫の気配。そこには、人工物にはない膨大な情報の往来があります。言葉にならぬやりとりが、静かに私たちへ届いています。
人は、説明できるものだけで生きているのではありません。
理屈にならない安心、理由なき解放感、ただ包まれているという感覚によって、深く支えられていることがあります。
木々の繁りは、私たちに語りかけます。
少しくらい乱れていてもよい。
すべてを管理できなくてもよい。
こぼれ落ちるものがあっても、なお生命はめぐるのだと。
整った場所に疲れたとき、少し茂った場所へ行ってみる。
そこには、忘れていた呼吸が戻ってくるかもしれません。
人の心もまた、きれいに刈り込みすぎず、多少は鬱蒼としていてよいのです。
その奥にこそ、瑞々しい生命の泉があるのですから。
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■感情は仏のひかりである ― 喜怒哀楽をめぐる私たちはしばしば、「悟りとは感情をなくすことだ」と思い込みます。怒らず、悲しまず、喜びすら手放し、ただ静かに揺るがぬ境地に至ること――それが理想であるかのように語られることがあります。けれども、...
27/04/2026

■感情は仏のひかりである ― 喜怒哀楽をめぐる

私たちはしばしば、「悟りとは感情をなくすことだ」と思い込みます。怒らず、悲しまず、喜びすら手放し、ただ静かに揺るがぬ境地に至ること――それが理想であるかのように語られることがあります。

けれども、心の奥底ではどこか腑に落ちないものが残ります。もし喜びも悲しみもないならば、その世界はあまりにも無機質ではないか。人を思って胸が熱くなることも、別れに涙することもない境地が、ほんとうに「完成された姿」なのだろうか、と。

むしろ私たちは、直感的にこう感じているのではないでしょうか。悟りとは、感情を失うことではなく、より大きなかたちへとひらかれることではないかと。

この直感は、決して誤りではありません。真言密教の立場に立つならば、それは「如実知自心(ありのままに自らの心を知る)」という、悟りの本質に極めて近い感受といえます。

真言密教において、世界は大日如来のはたらきそのものと捉えられます。それは静止した無機的な原理ではなく、常に躍動し、創造的発展を続ける「宇宙の大生命」の全体です。

私たちの心もまた、その大きな生命が個体に発現した「分身」です。ゆえに、私たちの内に湧き上がる喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも、もともとは「法身大日如来」の三密活動(身・言葉・心の営み)が、私たちの心を通じて現れたものにほかなりません。

ただし、私たちの感情はしばしば歪みます。「自分」という中心にとらわれる「我執(がしゅう)」が生じることで、感情は本来の自由を失い、閉じたものになってしまうのです。

怒りは誰かを傷つける刃となり、
悲しみは自らを閉ざす殻となり、
喜びは執着となって、かえって苦しみの種となる。

ここにおいて問題なのは、感情そのものではなく、そのエネルギーが「自分」という狭い枠内に閉じ込められ、本来の輝きを失っていることなのです。

では、悟りとは何か。

それは、感情を消し去ることではありません。感情を抑え込み、平板にすることでもありません。むしろ、感情が「本不生(ほんぷしょう)」という万物の根源的な自由を取り戻し、限りなく開かれたはたらきへと転じることです。

〝怒り〟は、自己のプライドを守るためのものではなく、真理(根源的自由)を遮る迷いを打ち砕く、不動明王のような「金剛の智慧」のはたらきへと変わります。
〝悲しみ〟は、個人的な嘆きを超えて、他者の苦しみを己の痛みとして受け止める「同体大悲(どうたいだいひ)」の共感へと広がります。
〝喜び〟は、一時的な欲望の満足ではなく、万物が仏の現れであることを祝福する、自他共栄の静かな「法楽」となります。

それらはもはや、個人的な執着に根ざした「煩悩」ではなく、宇宙の生命と響き合いながら常に働き続ける、大きな慈悲の流れとなるのです。

このような心のありようを、仏教では「大慈悲心」と呼びます。

それは、たしかに私たちの言葉で言えば「感情」に似ています。しかし、それは単に巨大になった喜怒哀楽ではありません。自分と他者とを分ける「自他隔歴(じたきゃくれき)」の境がほどけ、条件に左右されることなく、尽きることなく働き続ける、純化された生命の躍動です。

真言密教の視点では、この現実世界のすべての事象(六塵)は「如来の文字」であると説かれます。私たちの心の揺れ動きさえも、如来が私たちに語りかける「真言(まことの言葉)」の一節なのです。あえて言葉にするならば、それは「宇宙的な喜び」であり、「無限の悲しみ」であり、しかもそのどちらにも偏らない、完全な調和の中にあります。

ここで、私たちはようやく安心してよいのだと思います。

喜ぶことも、怒ることも、悲しむことも、決して否定されるべきものではありません。それらは未熟であるがゆえに問題なのではなく、未完成のまま「自分」の中に閉じているがゆえに苦しみとなるのです。

弘法大師空海は「迷悟は己にあり、執無うして則ち到る」と述べました。修行とは、感情を切り捨てることではなく、三密(身・言葉・心)を調えることで、感情を「仏のはたらき」へと合致させていく営みです。

怒りを見つめ、その奥にある「より良くありたい」という願いを知ること。
悲しみを抱き、その深さを他者への思いやりという「根」へと転ずること。
喜びを味わい、それを独り占めせず、曼荼羅のように広く分かち合うこと。

大日如来や諸仏諸菩薩は、感情を持たない無機質な存在ではありません。むしろ、私たちが断片的にしか味わえない心のはたらきを、宇宙規模の完全なかたちで体現している「生きた人格」です。

その意味で、私たちの喜怒哀楽は、たとえ今は「我執」に曇っていたとしても、その本質においては、すでに仏へと通じる道の上にあります。

感情は、捨てるべきものではありません。
それは磨かれ、ひらかれ、やがては大いなる慈悲として世界に働きかけていく――「即身成仏」という可能性そのものなのです。

喜怒哀楽は、仏に遠いものではない。
それは、仏という太陽から放たれ、私たちの心に届いている、
「ひかりの断片」なのです。

■玉泉寺不動縁日護摩■毎月28日は玉泉寺本尊不動明王御縁日です。 今月は午前9時から不動縁日護摩修行を行います。難しい事は何もありません。ご本尊不動明王への祈りの中にすべてを投げ込みましょう。必ずお不動さまのお力が及ぶことでしょう。時と場所...
25/04/2026

■玉泉寺不動縁日護摩■
毎月28日は玉泉寺本尊不動明王御縁日です。
今月は午前9時から不動縁日護摩修行を行います。
難しい事は何もありません。
ご本尊不動明王への祈りの中にすべてを投げ込みましょう。
必ずお不動さまのお力が及ぶことでしょう。
時と場所が違っても構いません。離れていても共に祈りましょう。
https://www.gyokusenji-hachioji.com/%E7%A5%88%E9%A1%98

#玉泉寺
#弘法大師
#空海
#真言宗智山派
#不動明王
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#歓喜天
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#縁日
#護摩修行
#祈りと瞑想
#供養と祈願
#京王堀之内
#南大沢
#由木
#越野
#多摩センター #シャクナゲ

春のひかりに包まれて、境内の  #ツツジ がいっせいに咲きました。一輪一輪は小さくとも、集まればこのような華やぎとなり、訪れる人の心をやさしく照らします。自然の営みもまた、仏のはたらきのあらわれ。足をとめて、ただ眺めるひとときが、心を整える...
15/04/2026

春のひかりに包まれて、
境内の #ツツジ がいっせいに咲きました。

一輪一輪は小さくとも、
集まればこのような華やぎとなり、
訪れる人の心をやさしく照らします。

自然の営みもまた、
仏のはたらきのあらわれ。

足をとめて、ただ眺めるひとときが、
心を整えるひかりとなりますように。

春の名残に、ひときわ鮮やかに咲く  #牡丹。風に揺れながら、幾重にも重なる花びら。
15/04/2026

春の名残に、ひときわ鮮やかに咲く #牡丹。
風に揺れながら、
幾重にも重なる花びら。

住所

越野726
Hachioji, Tokyo
192-0361

電話番号

+81426768050

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