備後國分寺

備後國分寺 毎月第一土曜日午後3時から坐禅会   第二金曜日午後3時から仏教懇話?
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<備後國分寺の歴史>
① 國分寺はおよそ1260年の昔、天平13年(741)、「國分僧寺尼寺建立之詔」に基づき国家鎮護のために聖武天皇勅願により開創された国立の仏教寺院。全国66州に建造。社会不安、疫病を鎮め国家安泰を祈願するために20人の住僧がいた。
②昭和47年の発掘調査により、備後國分寺は古代山陽道に面して600尺四方を築地塀で囲まれた境内に、南門、金堂、七重塔、講堂など、法起寺式の伽藍配置であったと確認された。最盛期には十二の子院があった。
③國分寺は、正式な名称を「金光明四天王護国之寺」といい、当時金堂には丈六の釈迦如来が祀られていたが、七重塔に祀られた『紫紙金字金光明最勝王経十巻』(国宝・現在奈良国立博物館蔵)がその中心であった。
④平安時代中期には、律令体制は衰退し國分寺は衰微したと言われ、奈良仏教の密教化にともない真言密教による祈祷道場となる。
⑤鎌倉時代には、鎮護国家の祈

祷など前代と変わらないが有力寺院の末寺化、地頭守護ら武士による國分寺領の掌握が進められたと言う。
元寇(1274・1281)の影響もあり、国家鎮護の寺としての地位が再認識され、奈良西大寺流の律僧らによって西国の多くの國分寺が再建された。
平成16年の仁王門南側の発掘調査では、中世の遺構から土師質土器、中国製白磁皿などが出土。14世紀頃再建された際の廃棄物かと推察される。
⑥戦国時代になると、國分寺の広大な境内が、陣屋とされ、文明15年(1483)、備後国守護山名俊豊は尾道から備後國分寺に着陣し、軍勢を徴集して備前に討ち入った。
天文7年(1538)、神辺城をめぐる攻防戦から兵火を受け伽藍焼失。
天文19年(1550)、再建し住持舜洪願主となり本尊薬師如来が新造供養される。
天文20年(1551)、毛利元就参詣し香華料献上。
永禄4年(1561)、神辺城主杉原盛重安那郡の分米集銭により草葺七間四面に本堂改築。二十貫の土地寄進。
⑦江戸初期、延宝元年(1673)、大原池決壊し大洪水。寺観廃滅。溺死者63人。(これにより砂留建設)
延宝6年(1678)、福性院より快範晋山し中興。
元禄7年(1694)、国主水野勝種候、金穀役夫並びに用材給与、本堂再建。
元禄10年(1697)、客殿完成。
元文5年(1741)、仁王門建立。
⑧天明2年(1782)、地元神辺の儒学者菅茶山来訪、時の中興四世如実上人に西山拙斎とともに聯句を贈す。寛政元年(1789)、茶山も参加して國分寺で如実上人主催の詩会が開かれる。
⑨明治元年の神仏分離令により下御領八幡神社と境内を分割する。

現國分寺本堂には、他に来迎二十五菩薩、聖観音菩薩、地蔵菩薩、八幡大菩薩、種字曼荼羅、四社明神等を蔵す。境内には、大師堂、鐘楼堂、休み堂、客殿、庫裏、仁王門、地蔵堂、國分寺会館、菅茶山詩碑歌碑等がある。

住所

神辺町字下御領1454番地
Fukuyama-shi, Hiroshima
720-2117

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