報恩山 常福寺

報恩山 常福寺 宗派:真宗大谷派

31/08/2024

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前回、盂蘭盆会の「盂蘭盆」は、根拠となる盂蘭盆経を読む限り、モノを載せる盆(トレイ)の意味と解釈するのが、最も素直な解釈であると書きました。しかし、盂蘭盆をそのまま盆と解釈すると、以下の謎が残ります。

1.盂蘭盆経という題名
 お経の題名はとても重要です。中国仏教においては、仏典解釈の中心を、名(名称)・体(実体)・宗(枢要)・用(効用)・教(教示)という五項目で表されており、名はその一つです。
 仏説阿弥陀経といえば、阿弥陀とは何かが説かれているお経となります。このような流れで素直に盂蘭盆をトレイだと考えますと、盂蘭盆経は、トレイを説いているお経なわけです。そうでしたっけ?

2.玄応さんの解釈
 盂蘭盆とは「倒懸(逆さ吊り)」を意味する烏藍婆拏(うらんばな)の音写であると主張したのは、唐の時代の高僧である玄応さんです。玄応さんは、三蔵法師で有名な玄奘のもとでお経の翻訳をしていた人です。この方が、仏教の専門用語を解説した「一切経音義」の中で、盂蘭盆は倒懸という意味と主張します。盂蘭盆という言葉は、盂蘭盆経以外では見当たらないため、盂蘭盆経の盂蘭盆を指していると考えるのが自然です。ならば、盆は文中にあるトレイを指すというのが自然なのに、「旧に盂
蘭盆は是れ貯食の器と云うは、此の言は誤りなり」と、トレイではないということを念を押して主張します。
 さて、この仏典に精通した玄応さんが、盂蘭盆経に逆さ吊りの描写が無い事を知らなかったと、我々は考えていいのでしょうか?

 この2点を踏まえると、『大法輪』誌にある「『盂蘭盆』の本当の意味 千四百年間の誤解を解く」(2013, 辛嶋静志氏)という論文の題名は、インパクトのためとはいえ、かなり無邪気なものに思えます。

 私個人の考えとしては、盂蘭盆というのは、トレイの意味の盂蘭盆と、逆さ吊りという意味の盂蘭盆の掛詞ではないかと思います。
盆は、食べ物を載せるもの。盆の有無で、我々は、大切にされているものとされていないものを区別しています。この分別のこころを、よくよく考えなさい。逆さ吊りされているかのように、物事を歪めて見ている自分を、見つめなおしなさい。玄応さんから、そう言われているように思います。

19/08/2024

お盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))は、一般的にも夏の行事の一つとして行われています。
仏教の行事の一つのように見えますが、どちらかというと道教や儒教の思想に、仏教の儀式が取り入れられたものともいえます。
結論から申し上げれば、純粋な仏教行事としては根拠がほとんどない。
しかし、仏教行事を行うには最適な時期であるため、お盆を仏教行事として行っているというところであると思われます。
なお、仏教側から見れば、「仏説盂蘭盆経」(ただし偽経といわれている)というお経があり、それを根拠に盂蘭盆会として行事を行っております。
以下に、どのような話であるのかを簡単にご説明します。

盂蘭盆経の主人公は、釈尊の十大弟子と言われる中の一人、目連(もくれん)(または目犍連(もくけんれん)、パーリ語:Moggallāna(モッガラーナ)、サンスクリット語:Maudgalyāyana(マウドガリヤーヤナ))です。
目連は神通第一と言われており、釈尊の説法を邪魔する者たちを神通力により追い払うなど、活躍されたと言われています。
神通力とは具体的に何なのかは解釈の余地がありますが、とにかく神通力があったそうです。
その神通力を使い、先に亡くなられた母親の姿を見たところ、餓鬼(がき)道(どう)に落ちていたことがわかります。
飲食ができずに、骨と皮だけの姿となった母を見て、目連は哀れ悲しみ、鉢に飯を盛って母に送ります。
母は左手に鉢を持ち、右手で飯を握ります(右利きだったのかな?)が、口に入る前に火炭となってしまい食べられません。
目連は悲しみのあまり大声で泣き、釈尊にどうしたらよいか相談に行きます。
釈尊はこう話しました。あなた(目連)一人の行いでは、どうすることもできません。
世界中の僧侶たちの素晴らしい力があれば救うことができるでしょう。
安居(雨季の間、仏弟子たちが一か所に留まって修行する期間)の終わる7月15日(安居の反省をする日)に、具飯、百味の五果、水を汲む器、香油、灯り、床の敷物、寝具、この世の素晴らしいものを尽くし、それらを盆に盛り、世界中の徳の高い僧を供養しなさい。
これにより、現在の父母、過去七世の父母、六種の親族(父、母、兄、弟、妻、子など、親族の全て)が、地獄・餓鬼・畜生の苦しみから逃れられます。
釈尊に言われたように行ったとき、目連および仏弟子たちは大いに歓喜し、目連の鳴き声も消え去りました。
母親は、一劫(気が遠くなるほど長い時間)という餓鬼の苦しみから脱することができました。

 
お経の中で、盆は器として書かれています。
しかし仏教界において、唐の時代に玄応が『一切経音義』の中で、盂蘭盆とは「烏藍婆拏(うらんばな)(サンスクリット語のullambanaの音写。倒懸(逆さ吊り)を意味する)」の訛りであり器というのは誤りである、と書いたため、逆さ吊りという解釈が定着しています。
お経の中には逆さ吊りの描写は全く無いため、無理がある説としか言いようがありませんが、何故か1,400年くらい定説のように語り継がれてきました。
そもそも盂蘭盆会は仏教というよりは習俗のようなものであるため、盆とは何か、何ととらえるのが正しいのか、というのは比較的どうでも良いことだったのかもしれません。

それでは、「私」という仏教信者が、お盆はどのように受け入れるのか、ということを考えたとき、あらためて倒懸(逆さ吊り)というキーワードが重要に思います。
お経の中では、誰も逆さ吊りになっていない。
ならば、誰が逆さ吊りになっているのかといえば「私」であると考えられます。
私は七世どころではなく、沢山の両親がいて私が生まれています。
また、両親だけでなく、さらに沢山の関係性により私は救われている立場にあります。
にもかかわらず、いつの間にか私は七世の両親たちを救う立場のような錯覚に陥っています。
このようなひっくり返ったものの見方をしてしまう私が、逆さ吊りであるといえます。
この逆さまの私を見直すきっかけが、お盆という仏教行事と思います。
玄応は、どう考えても器である盆を、仏教という立場から「倒懸」と解釈したように思えてならないのです。

お盆には、「地獄の釜の蓋もあく」とも言われています。
これは、お盆の時期に獄卒(地獄で働く者)ですら休むのだから、この世の全ての人も休みましょうという表現です。
ここで、釜の中にいるのは誰かということを真面目に考えるならば、私であると言えるでしょう。地獄にいる私は、地獄にいることに気が付くこともできないでいます。
しかし、釜の蓋があき、浄土が見える。これが、お盆というものであると考えております。

お盆前のおみがき完了しました。
06/08/2024

お盆前のおみがき完了しました。

先に、常福寺住職としての、原子力発電への政治的立場をとるとしたら、反対であるという事を明記しておきます。これは震災前、F1見学に行った時に「我々はこの地元に作って欲しいと要望されたのですよ。」と言われ、オリエンタリズムを感じてからずっとです...
29/07/2024

先に、常福寺住職としての、原子力発電への政治的立場をとるとしたら、反対であるという事を明記しておきます。これは震災前、F1見学に行った時に「我々はこの地元に作って欲しいと要望されたのですよ。」と言われ、オリエンタリズムを感じてからずっとです。
そのうえで、2024年6月20日に大谷派関連団体から出された「浜から」という冊子に、『「処理水問題」について』という内容について述べさせていただきます。

この『「処理水問題」について』では、福島産のものを忌避する消費者行動を肯定しております。

震災以後、多くの福島県民が体験してきましたことですが、農産物の生産者を「人殺し」と罵しられたり、国道6号線沿いの清掃ボランティア活動に対して誹謗中傷があったり、理不尽な言動に晒されてきたことを、見聞きしております。

処理水に伴う不買に関しても、同様に理不尽な消費者行動です。その理不尽なことを、著者の安斎さんが勝手に受け入れるのはかまいませんが、これは大谷派関連団体の文章ですので、大谷派は理不尽を許容するという発信になってしまっております。

例えば、ハンセン氏病に読み替えると、その危険性がわかるように思います。「ハンセン氏病は伝染性がほとんどありません、と言ってみても効果は限定的です。ハンセン氏病を避けようという心理的行動を非合理だと責める訳にはいかないでしょう。」と書かれたら、この文章が差別的なものであることが分かりやすくなります。この文章は差別的なのです。

「差別に学ぶ」などと格好いいことを言いながら、結局は差別発言を堂々と文章に載せることを許しているのです。

我々福島県民が、どれだけ理不尽に耐え続けてきたのか、どれだけスティグマ(烙印)を払拭しようと前を向いているのか、全く無視されている文章になります。

処理水についても、物理的・生理的な影響はないことが分かっているため、安斎さんも心理的・社会的な影響に着目したのかもしれません。
しかし、だからこそ、外交カードに利用される現状を憂い、理不尽な言動には客観的な事実を持って反論するのが、心理的・社会的影響を小さくすることに繋がります。
逆に助長・差別するような文章を載せたことに関して、福島県民の一人として批判しますし、教務所長などの立場から、この文章の撤回と反省を示すことを要求します。

ほぼ新品だった中啓の要が壊れてしまったので、修理しました。穴の大きさは約3mmなので、5mmの真鍮丸棒から削り出し。頭を直径4mmで丸め、残りをφ2.8で22mmくらいの長さに調整。中啓の穴に通し、反対側をハンマーで潰して抜けないようにしま...
29/01/2024

ほぼ新品だった中啓の要が壊れてしまったので、修理しました。
穴の大きさは約3mmなので、5mmの真鍮丸棒から削り出し。頭を直径4mmで丸め、残りをφ2.8で22mmくらいの長さに調整。
中啓の穴に通し、反対側をハンマーで潰して抜けないようにしました。
もともとの要はプラスチック製でしたが、より良くなったと思います。

20年?ぶりに、経キンを出しました。
29/01/2024

20年?ぶりに、経キンを出しました。

お正月前にお飾りをしました。ちなみに、一般的な寺院にはあって、常福寺に無いものがあるのはご存知でしょうか?それは「巻障子」です。内陣と外陣の間にある扉の事で、お内仏(仏壇)にも扉ありますよね?それです。もちろん、金銭的な理由もありますが、「...
30/12/2023

お正月前にお飾りをしました。
ちなみに、一般的な寺院にはあって、常福寺に無いものがあるのはご存知でしょうか?
それは「巻障子」です。内陣と外陣の間にある扉の事で、お内仏(仏壇)にも扉ありますよね?それです。

もちろん、金銭的な理由もありますが、「誰にでも開かれている筈の浄土に、なんで扉があるのかしら?」「いや、扉を閉めてるのは、私の方だ」という会話が寺族内であって、なるほど無い事によって気がつく事もあるんだなと。

16/02/2023

五蘊盛苦はpañcupādānakkhandhā dukkha。五蘊は五陰と表現することもありますが、同じ意味です。

パンチャ:5つ
ウパーダーナ:執着・固執
カンダ:要素(蘊)
ドゥッカ:苦

ウパーダーナを「盛」と訳されていますので、「勢いが強い」ための苦だと、私が学生だった当時はそう習ったのですが、どうやら違うように思います。

さて、五蘊とは、
【色】
仏教用語で「色」と言えば色・形のあるものですが、ここでは特に眼・耳・鼻・舌・身(五根)とか、色・声・香・味・触(五境)を指すようです。世の中のものを感じ取るセンサーと、感じ取る対象を指します。

【受】
物事を感受する心の作用です。物質的なセンサーで感じ取って、心に入ってきたまでを指すと思ってよさそうに思います。また快・不快(苦・楽)を受けるまでを指すという説明もありました。

【想】
心に入ってきたものを、想起するところまで。受け取ったものを言語化(概念化)すると言ってもいいように思います。センサーで見て、赤い何かだと受け取って、それをリンゴと認識するという感じでしょうか。外部情報を概念化するということは、少ない情報量に変換しているとも言えます。

【行】
それに対する心の作用。見たものに対する反応を指します。リンゴを認識した後に、食べよう、と思うなどです。

【識】
認知する心そのものを指します。自分が意識できている部分も、意識できていない無意識の部分も、両方含むようです。

大雑把に言えば、人間がこの(物質)世界を認識するためのハードウェア(眼・耳・鼻・舌・身)と、それを処理するソフトウェア(心の働き)のことと思います。

私たちは、この世界を正しく認識できているかといえば、どうでしょうか?
ここには、ヒューマンエラーの問題と、そもそも認知対象は「空」であるという問題の2つが重なり、大真面目に考えれば複雑なのですが、とりあえず「正しい認識」は私には難しそうです。ですが、それに固執してしまうことで、苦が生じるという事になるのでしょう。

次回も同様のテーマで書きたく思います。

10/02/2023

今回は、仏教用語を覚えましょうキャンペーンです。
一般的にも使われる「四苦八苦」ですが、皆さんは四つの苦しみ、八つの苦しみは何かご存じでしょうか?

生苦(しょうく)…老・病・死など苦しみの根本
老苦(ろうく)……老いる苦しみ
病苦(びょうく)…病気の苦しみ
死苦(しく)………死ぬ苦しみ

以上4つで四苦です。また、以下の4つを加えて、八つの苦しみとも言えます。

愛別離苦(あいべつりく)…愛するものと別れ離れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)…怨み憎しむものと会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく)……求めるものが得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく)…認識にこだわってしまう苦しみ

「いままで四苦八苦してきた」と、特定の苦労を指して使われる事が多いように思いますが、そもそもは人としての根本的な苦しみを指していると言われます。

厳密には、死ぬ苦しみと言われても、死ぬ瞬間のことなのか、死ぬ寸前のことなのか、死という概念についてなのか、など、考える余地があります。実はこれによって、その人の宗教に対する態度が判明するように思います。私は宗教は自分を見つめなおすもの(私の問題をなんとかするもの)ととらえておりますので、今のところ、死苦は死の概念による苦だけととらえています。

ちなみに、愛別離苦というものも、実際の別れ離れる苦しみだけではないように思います。別れることを想像すると苦しいなどの、事実としては発生していない、概念としての苦しみを含んでいるように思います。

ところで、四苦八苦のうち、五蘊盛苦だけ、文字からはよくわからない苦しみがあるように思います。私もずっと、適当に流してきた言葉なのですが、この機会に調べたら、思いのほか深い内容でしたので、また次回にでも。

16/01/2023

小・中学校の頃、「幽霊見たことある?」と言われたことを思い出します。
 何か嫌な感覚があったり、よくわからないけれども鳥肌が立ったりすることはありましたが、その原因が幽霊であったかと言われると、ちょっと待てよと思っていました。
 それなりに教育を受けてきた現在の私は、よくわからないことの原因を安直に「幽霊だ」と結論づけるのは誤謬(まちがい)のもとだと理解できます。でも、なぜか「わからないものの原因は『幽霊』だ」と結論づけたくなる気持ちがあります。その方が、なぜか気持ちが落ち着くように思います。数学のわからない問題はそのままにしているのに!
 ところで最近、ポルターガイストのような経験をしました。部屋を出ようとしたとき、まだ触っていないドアノブがガチャガチャと音を立てて震えたのです。はじめは子供のいたずらかと思いましたが、どうやら誰もいないみたい。
 ドアノブが震えるということは、質量をもった物質が動くということ。動くということは、力を加えて移動する(仕事をする)ということ。つまり、何らかのエネルギー(仕事をする能力)があるということ!
 もしも、ドアノブガチャガチャの原因が幽霊なのだとしたら、これは大発見です。未知のエネルギー源を発電に利用したい!ということで、早く再現して欲しいと思っております。

08/01/2023

皆さんは、除夜の鐘を撞きましたでしょうか?
浄土真宗系は「煩悩は払うものでは無い」という考えから撞かないお寺さんも多いのですが、報恩山常福寺は物理的な理由(梵鐘が無い)で除夜の鐘は撞きません。
 除夜の鐘は108つの煩悩の数だけ撞くと私は聞いてきました。煩悩の数は、部派仏教の時代(紀元前3世紀頃)に盛んに研究され、部派によってまちまち(3~84,000)だったそうです。その中で最も勢力が大きかった説一切有部という部派が108つと主張したのが一般化し、108の煩悩が有名になったようです。九十八惰眠と十纏を合わせて108なので、「アレが欲しい、コレが欲しい…俺の煩悩は108以上あるなぁ(笑)」というのは少し違うようです。
 さて、俗説に「四苦八苦」から108になったというものがあります。4×9=36と8×9=72を足して108というもので、どう考えても語呂合わせで正しくなさそうです。ですが念のため、仏教の原典によく使われるサンスクリット語とパーリ語で、九と苦の発音を調べました。
 「九」は、サンスクリット語でもパーリ語でも、nava-(基数)のようです。形容詞として用い、修飾される名詞の性・数・格で変化しますが、片仮名でいえば「ナヴァ」です。新しいとか、若いという意味もあるようです。「苦」はサンスクリット語でduhkha、パーリ語でdukkhaだそうで、片仮名では「ドゥッカ」。ナヴァとドゥッカを混同するのは難しいように思います。

修正会のお飾りをする前に、内陣にワックスがけをしました。
30/12/2022

修正会のお飾りをする前に、内陣にワックスがけをしました。

住所

梁川町字内町 36
Date, Fukushima
960-0744

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